陳季卿誤上竹葉舟雑劇
范子安撰
楔子
（冲末が陳季卿に扮して登場、詩）恥づかしや、微名の礼闈[1]に落ちしため、飄零ふさまは燕の孤り飛べるに異ならず。天に連なる大厦には棲む処なく、来年の今頃は帰つてゐるやらゐぬのやら。
わたくしは姓は陳、双名は季卿、武林[2]余杭の人。若くして儒学を習い、文名はすこぶるあったが、時運に恵まれなかったために、受験をしても及第はせず、流落し、家へ帰ってゆかれないのだ。それに晩冬の季節で、雨や雪は霽れたものの、寒さはますます増している。わたくしのように目を挙げても親戚がないものは、飢えと寒さの憂き目を免れないだろう。（嘆く）ああ、わたしはまことに運が悪い。想い起こせば、終南の青龍寺には惠安長老がいる。あのひとはわたくしと同郷で、たいへんに仲が良い。あのひとはかつてしばしば手紙を寄せて、わたくしに、寺に行き、会うように言っていた。あのひとはわたしを救ってくれるかも知れないぞ。終南山へ行き、恵安長老に会うとしよう。（退場）
（外が傑郎[3]惠安に扮し、丑の行童を連れて登場、詩）明心[4]するに幽花を捻らず[5]、見性[6]するに貝葉伝[7]は必要なし。日が出でば氷は消ゆるも、もともとは水。光を回らせ月は落つるも、天を離るることぞなき。
拙僧は終南山青龍寺の惠安和尚、原籍は余杭の人、幼いときから儒学を習い、中年で落髪し、和尚となった。たまたま遊行し、この終南山は青龍寺へとやってきて、山水を楽しんで、そのまま留まり、この寺の住持となった。拙僧には同窓の友人がおり、陳季卿という。この人は経史を諳んじ、百家に通じ、まことに経天緯地[8]の才、吸露凌雲[9]の手を持っている。ただ功名を遂げられないため、今のところは流落し、家に帰ることができない。拙僧もかつてしばしば手紙を寄せて、寺に来て会うように言っているのだが、一通も返事がない。行者よ、山門の前に行き、眺めているのだ。陳解元どのが来られたら、すぐにわたしに知らせるのだぞ。
（行童）かしこまりました。
（陳季卿が登場、詩）ようやくに紫陌[10]を離れ、白雲の中に入った。
はやくも青龍寺の入り口に着いたわい。小坊主よ、惠安長老はいらっしゃるか。
（行童）ぺっ。眼ん玉を見開いて見るがいい。このように大きな和尚も小坊主と呼ぶというのか。まったく礼儀を知らんのだな。見たところ、おまえはぼろぼろの古着を着、黄色く痩せた顔を載せているが、うちの師匠に身を寄せてきたに違いあるまい。どうしてそんなに傲慢なのだ。
（陳季卿）ああ、わたくしはまことに運が悪いわい。（揖をする）小師匠さま、お許しください。おんみの惠安長老に、友人の陳季卿がわざわざ訪ねてまいりましたとお取り次ぎ願います。
（行童）先生、それでこそまともな言葉というものです。どうりで儒家は昔からわれわれと仇同士になっているわけですな。いいでしょう。あちらに立っていてください。取り次いであげましょう。（取り次ぐ）ちょっと待てよ。あの禿をからかってやろう。（入って見える）お師匠さま、おもてにご友人がいらっしゃり、耳東禾子即夕といい、わざわざ訪ねてきたのだと称しております。
（惠安）でたらめを申しておるな。世の中にそのような姓名の人はおらぬぞ。
（行童）この禿め、佛法を悟ろうともせず、看経をするときに眼を挙げて人さまの女房を見るのがうまいだけだなあ。
（惠安）こいつは狂ったのだろう。もう一度、出ていって、はっきりと尋ねてから話しにくるのだ。
（行童）はっきりしていないことなどございませぬ。耳東禾子即夕さまがわざわざ訪ねてこられたのです。
（惠安）分からんな。
（行童）師匠の奴を呼び出されれば、師匠はすぐに分かりましょう。[11]
（惠安）こら。
（行童）お話ししましょう。これは拆白道字というもの。耳東は陳の字、禾子は季の字、即夕は卿の字にございます。ご友人の陳季卿さまが来られたのです。
（惠安）はやくお通しするのだ。
（行童が出て見える）陳先生、うちの師匠は、さきほどは、どうしてもおんみのことを認めようとしませんでしたが、わたしが禿めと罵ったので承知して、おんみを呼んでおりまする。
（陳季卿が入って見える）数年間、ご挨拶いたしませんで。
（惠安）拙僧はかねてから、仁兄が試験でうまくゆかないことを知っており、しばしば手紙を寄せてお招きしておりましたが、本日はご光臨たまわりまして、ほんとうに拙僧にとって幸いにございます。
（陳季卿）長老さま、しばしば手紙でお召しを蒙り、感激いたしておりました。わたくしは螢の窓に雪の案で、多年辛苦し、功名はたやすく得られるものと思っていましたが、試験のたびに落第し、恐ろしく、帰ることができませなんだ。ですからお会いしなかったのでございます。長老さまにはお咎めになりませぬよう。
（惠安）仁兄、それは違います。古人はかようにのたもうています。「之を学ぶこと無きを貧と謂ひ、学びて行ふこと能はざるを病と謂ふ。」[12]と。仁兄のように宏大な才学があるならば、功名を得られぬはずがございませぬ。昔、伊尹は有莘に耕して[13]、傅説は板築に苦しみましたが[14]、その後に明主に会い、師相[15]の位に就くことができました。仁兄は今は落魄されていますが、一朝にして運が巡ってきた時は、師相となって、伊尹、傅説の事業をなすのは、難しいことではございませんでしょう。
（陳季卿）よくぞ仰いました。わたしは失礼いたします。（唱う）
【仙呂賞花時】わたしは十年、螢の窓に苦しみて、文を学べど、万里の鵬程にいまだに出仕することなきをいたく恥ぢ[16]、風塵に流落するに甘んぜり。げに幾たびかひそかに笑へり。故郷の人々に合はする顔のなきことを。（退場）
（惠安）仁兄、おんみはどうしてすぐに行ってしまわれるのか。戻ってこられよ。ああ、ほんとうに行ってしまった。行者よ、はやくあの人に戻ってきてくれ、拙僧がさらにお話しすることがあると申すのだ。
（行童）わたしはすぐに山門の外に駆け出し、あのひとを呼びにゆくが、お師匠さまの奥さまはあのひとを留めようとはせぬだろう。（退場）
（惠安）あの秀才は功名心に逸っているため、宿に戻って経史を温習しようとしているのであろう。わが荒寺は寂しいが、それでも粥[17]には事欠かない。あの人をこちらにお留めし、衣食を援助し、試験を待たせた方がよい。一つにはあの人の風雲の志[18]を遂げさせるため、二つには同郷の誼をいささか示すためだ。何のよくないことがあろうか。
（詩）友人はそのかみ不遇なりしとき、この山を借りて住みしも、枢要の位に登れば、草廬を訪ふこともあるまじ。（退場）
第一折
（陳季卿が登場）わたくしは陳季卿、ありがたいことに惠安長老は同郷の誼を念われ、わたしを寺に留められ、経史を習わせ、試験を待たせることとなされた。これはわたくしの不幸中の幸いだ。今日は何事もないから、惠安長老が坐禅を終えて来られたら、どこかの古迹へ導いていただいて、遊覧し、旅愁を晴らすことにしよう。
（惠安が行童を連れて登場、会う）仁兄、おんみはこちらに留まってらっしゃいますが、山寺は荒れ、はなはだ行き届かぬことが多いため、もしや少々お咎めなのではありますまいか。
（陳季卿）長老さま、何を仰います。何箇月もお邪魔して、感謝の念は尽きませぬ。ただ、かねてから終南山は天下第一の名山であると聞いております。中には勝れた景色が多いことでしょう。長老さまのお導きで、拝観させていただければ、ほんとうに来た甲斐があったというもの。
（惠安）それならば、拙僧が道案内をいたしますから、仁兄は遊覧されればよろしいでしょう。
（陳季卿が寺を見る）ほんとうにすばらしい寺だなあ。殿宇は碧い空を侵し、樹木は重なる雲を払い、水は渼陂[19]を繞り、峰は紫閣に臨んでいるぞ。ほんとうに観れども足らず、賞でても余りあるというもの。（眺める）長老さま、東南の角の、目立たぬ水路は、どこに通じているのでしょうか。
（惠安）この水は渼陂へ通じてゆくのです。そこから漢江に入れば、わたしたちの故郷への帰路にございます。
（陳季卿が嘆く）長老さま、ここにおりますと、故郷へ帰ろうとする思いがにわかに起こってまいります。筆、硯があればお貸しください、『満庭芳』の詞を賦して、白壁の上に書いて宜しいでしょうか。
（惠安）拝見したいものですな。行者よ、文房四宝を取ってくるのだ。
（行童）文房四宝にございます。先生はご自分がうまく書けると思われるならお書きになり、そうでなければお書きにならないでください。人々がおんみのことを杭州の阿呆[20]と笑わぬようにしましょう。
（陳季卿が書く）長老さま、おんみに話してお聴かせしましょう。
（詞）寒氈[21]は坐りて破き、鉄硯は磨きて穿ち、経史を習ふありさまは流れるかのやう[22]、青紫[23]を拾うは易くして、憂ふることは必要なしと自ら誇れり。幾度か長安に受験して、万言の策を螭頭[24]に献じしも、連城の白璧[25]を空しく残し、諸侯に封ぜらるるに術なし。憐れにも、このたびも志をば得ることはなく、故郷へ還るは羞ずかしく、皇州に駐まることは懶く、おんみの厚き情に感じ、僧舍にしばらく留まれり。暇な日は、相携へて登眺し、高き処に寄りかかり、ともに視界を広くせり[26]。家山は遠ければ、いかでか帰りゆくを得ん。夢中の游にすべてを託せり。
（惠安）まことにすぐれた才能だ。
（行童）ご立派にございます。
（惠安）おまえに何が分かるのだ。はやく茶を持ってくるのだ。
（行童が退場）
（正末が呂洞賓に扮し、荊の籃を提げて登場）世俗の人よ、貧道について出家するのだ。道を悟って、仙人になれようぞ。
こちらにはほんとうに人がおらぬな。わたしは姓は呂、名は岩、字は洞賓といい、道号は純陽子。受験して及第できず、邯鄲を通り掛って、正陽子さまに会うことができ、黄粱の一夢に点化されたため、仙人となったのだ[27]。このたびはわが師の法旨を奉り、俗世の陳季卿というものが、余杭の人で、神仙になる分にあるため、度脱しにきた。貧道が雲を落とすと、一道の青気が見えるぞ。この人は今、終南山にいるのだろう。青龍寺へとゆかねばならぬ。（唱う）
【仙呂点絳唇】北海蒼梧[28]を後にして、幾度か歳華を経たれば昔のことと相成りぬ。この世の栄枯を嘆けども、長生の路を誰か識るべき。
【混江龍】思ふに寰土[29]は、前朝と後代の戦争を経り。わたしはこれより混沌を切り開き、空虚を踏み破るべし。九転の丹[30]を用ゐて千歳の寿と成ることもなく、一斤の鉛を用ゐて万年の珠を結ぶこともなし[31]。何らの奇苗異草も採らず、何らの宝篆霊符も佩びず、水に似た精神を養ひ、酥のやうな骨髓を煉へんとせり。常日頃より心猿意馬をしつかりと縛り付け、陵の移り、谷の変じて、石の爛り、松の枯るるに任すべし。
（行童が登場）ひとまず山の入り口に見にゆ行こう。
（正末）もう青龍寺の入り口に着いたわい。小坊主よ、入っていって陳季卿どのに、仙長[32]が訪ねてきたと申すのだ。
（行童）ぺっ。わたしは今日は運が悪いぞ。先ほど貧乏秀才が、わたしを小坊主と呼んだが、このたびはこの道士めも、わたしを小坊主と呼んだぞ。小坊主のわたし、わたしはおまえを騙してやろう[33]。道士め、陳季卿はわたしのところにはおらぬぞ。
（正末）貧道は気を望み、あのひとがおんみの寺にいるのを知っているのです。
（行童）おまえは頽気、疝気を望むというわけか[34]。たといおまえが太上老君、漢鍾離、呂洞賓で、望気することができても、おまえのために取り次ぐまいぞ。わたしは方丈へ、焼酎と狗肉を喰らいにゆこう。（退場）
（正末）小坊主が取り次ごうとしないなら、わたしは勝手にゆくとしよう。（入って見える）秀才どの、長老さま、ご機嫌よう。貧道は遊行の道士、このたび来たのはほかでもござらぬ。一人の徒弟を度脱して、貧道に従って出家させようとしているのでございます。
（陳季卿）道士どの、それは違います。こちらは惠安長老です。仙仏は教えを同じうしておらず、徒弟になることはできないのです。まさかわたしを度脱しようとしているわけでもございますまい。
（正末）よくお分かりになりましたね。秀才どの、おんみは今は落第された挙子ですが、貧道に従って出家されれば、明くる日は神仙となり、秀才のおんみを辱しめることもございますまい。長老さまにお別れし、貧道に従って出家なされよ。
（陳季卿）道士どの、ふだん面識がないのに、なにゆえわたしをおんみに従い出家させようとなさるのでしょう。わたくしは満腹の文章を学び、役人になろうとしているところなのです。まじめにお話しいたしましょう。わたくしは出家することはできませぬ。
（正末が唱う）
【油葫蘆】千丈の風波、名利の途で、むざむざと苦しみを受けられたるは嘆くべし。蘇秦のやうに相印[35]を佩びたとて、いかがせらるる。凌煙閣の誰がまことの英雄なりと言はんとせらるる。金谷郷[36]がことごとく悪しき男と女なりしをご覧あれかし。
（陳季卿）それでも賢と愚を辨じねばなりませぬ、なぜ一概に偽物であるとおっしゃるのですか。
（正末が唱う）賢や愚などを辨ずる要のあらめやは。黄金で陶朱[37]の像を鋳んとも、西子[38]を載せて江湖に泛ぶことは叶はじ。
（陳季卿）わたしたち役人になるものは、紫羅襴[39]を身に着けて、烏紗帽を頭に被り、白象笏を手に持って、とても立派だ。おんみら出家したものは、草衣木食するにすぎず、大したことはございませぬ。
（正末が唱う）
【天下楽】今ははや「一将は功成りて万骨は枯る。」。ああ、おんみの区区たる文才と武才では、紫羅襴、烏紗帽[40]、白象笏[41]の栄達を遂ぐるなどとんでもなきこと。黄庭、道德経[42]を誦へて、金精太素の書[43]を諳んじて、清風を万古に広むるわたしには及ぶまじ。
（行童が茶を捧げて登場）真中は一人の禿、左側は一人の道士、右側は一人の貧乏秀才、古今のことを引き合いに出し、三教の聖人よりも格好をつけている。（茶を運ぶ）
（陳季卿）わたしはご飯も食べていないのに、この道士にひどく付き纏われている。
（正末）秀才どの、黄庭経を誦えれば、飢え凍えませぬ。
（行童）先生、道士めが嘘をつくのを聴かれてはなりませぬ。わたしたちは毎日晩までお経を誦えておりますが、お腹はつねに餓えてぐうぐう鳴っております。
（正末）お経を誦えればほんとうに飢え凍えないということはございませぬ。ただ、お経を誦えて仙人になれば、飢え凍えませぬ。
（陳季卿）道士どの、古来、どのような人物が仙人に成り、道を悟ったのかお話しください。
（正末）貧道が一二人の話しをし、おんみに聴かせてさしあげましょう。（唱う）
【那吒令】列禦寇が冷風に駕し、八区を巡りしことを聞きしや。
（陳季卿）一人ですね。ほかには誰がいるのでしょうか。
（正末が唱う）張子房は、赤松を追ひ、帝都に別れり。
（陳季卿）ほかには。
（正末が唱う）葛仙翁は、丹砂を採らんとし洞府へと入りたるなり[44]。かのひとは土木[45]の骸なりしかど、神仙の骨を持ち、肉眼[46]凡夫のおんみとは異なれり。
（陳季卿）お尋ねしますが、道士どの、神仙が住んでいるところには、どのような景勝がございましょうか。
（正末）ないはずがございませぬ。（唱う）
【鵲踏枝】わたしのところは蓬壺と号し、天都に近く、ことごとく貝闕珠宮、霞径雲衢で、大羅仙[47]しかゆくは叶はず。
（陳季卿）それならば、おんみは下界にどうして来られたのですか。
（正末が唱う）今日、塵寰に下りしは、おんみの頑愚を点化せんため。
（陳季卿）道士どの、大法螺を吹かれてはなりませぬ。わたしはまじめに話しております。おんみの仙郷はどちらでしょうか。
（正末）おんみはわたしの仙郷がどこなのか尋ねようとしてらっしゃいますが、お話ししても探しあてられないでしょう。（唱う）
【寄生草】仙界に游する履を踏み破るとも、わたしが薬を煉る炉は探しあてられますまい。わたしは勝手に行つたり来たりし、縁に任せて住まひして、雨風はなく、傾き倒るることもなく、修繕をせずとも常に堅固なり。洞門は深く遥かな山に鎖され、白雲は地に満ちて、尋ぬる処はござゐませぬ。
（言う）秀才どの、わたしについて出家しなされ。
（陳季卿）わたくしは役人になろうとしている人間ですのに、どうしておんみに従って出家することを勧められるのでございましょう。このようにくどくどと。まことに話が合いませぬなあ。（相手にしない）
（正末）秀才どの、富貴栄華を想うことなく、わたしについて出家なされよ。
（陳季卿が後ろ手をして図を見る）こちらには華夷図があるので、看てみましょう。
（正末）この秀才はわたしに構わず、華夷図を見に行ってしまった。わたしは図に詩を一首題して、あのものに看せるとしよう。（題する）
（陳季卿）この道士も詩を作ることができるのか。読み上げてみよう。
（詩）そぞろに九域志[48]を見れば、まるで咫尺の間のやう。県は十万の鎮をば排べ、州は五千の山をば隠す。幽燕[49]を北に望みて、呉越をば南に眺めり。帰りゆく路はなけれど、神の往くは難からめやは。
まことにすぐれた才能にございます。道士どの、ところでどうしてわたしが家に帰ろうとしていることがお分かりになったのでしょう。
（正末）分からぬはずがございませぬ。おんみが題した『満庭芳』の詞に「家山は遠く、どうして帰ってゆくことができようか。夢中の游にすべてを託す。」とあります。おんみは家に帰られようとしているのではございませぬか。
（陳季卿が嘆く）ああ、わたしはこの地で流落し、いつ家に帰ることができるやら。
（正末が笑う）秀才どの、わたしについて出家されるなら、わたしがおんみに一艘の舟をお貸しし、家まで送り返すのは、まことにた易いことですぞ。
（惠安）道兄、おんみの船はどちらでしょうか。わたくしの友人に貸すことができますか。
（陳季卿）道士どの、わたしの『満庭芳』の詞を見られたのですか。
（正末）おんみが書かれた時に見ました。（唱う）
【醉中天】詞は、王粲の『登楼賦』[50]よりも優れて、宗炳の『臥遊図』[51]にさへ勝るもの。（竹の葉を取り、壁に貼り、唱う）この渺渺たる滄波と一葉の蘆をご覧あれ。
（言う）えい。秀才どの、一艘の舟ですぞ。
（陳季卿）さきほどは一片の竹の葉であったのに、壁に貼ると、なぜ一艘の舟に変わってしまったのだろう。まことにおかしい。
（惠安）道兄、このように小さくては、わたしの友人に貸して帰らせることはできないでしょう。
（正末）馬鹿ものめ、貸すのにはちょうど良いのだ。
（唱う）野の水に渡せる人のなしとな思ひそ。おんみはもともと三策[52]を挟み、公孫[53]のごとく試験を受けんとせしも、目下、及第することなければ、淵明に倣ひて帰りゆかんとしたり。これら二つがいづれも華胥の夢なることはご存じなし。
（言う）秀才どの、おんみは家へ帰る路が見えますか。
（陳李卿）すでに華夷図で見ております。
（正末）秀才どの、ご覧なされ。（唱う）
【金盞児】ご覧あれ、遠き樹は荊呉を蔽ひ、暗き水は帰りの艫を泛べたり。風涛が湧き返り、蛟龍が怒るとも、両の眼をかたく閉ぢ、しつかりと立ちたまへかし。江月の冷たきを棹が穿ちて、海雲の孤なるに帆をぞ掛くるに任さん。古き渡に寒々と煙は立てり。ああ、これこそはおんみの茅舍と旧郷閭ならめ。
（行童）竹の葉で作られたこの船はもちろんのこと、ほんとうの一艘の舟だって、わたしがちょっと踏みさえすれば、すぐにひっくり返ってしまうぞ。
（正末）秀才どの、とにかく眼を閉じられてください。正道に迷われてはなりませぬ。
（陳季卿があくびをする）どうして急に疲れたのだろう。眠るとしよう。（机に伏せて眠る）
（正末）馬鹿ものは眠ってしまった。わたしはかれをぐっすりと眠らせたのだ。（袖を払う）（唱う）
【賺煞】おんみのために鬼門の関を蹴り倒し[54]、槐安の路を切り開き、南柯の夢を悟らしめ、これ以上、利の鎖、名の繮には纏ひつかれぬやうにせしめん。ふと振り向けば、はやくも暮景桑楡[55]となりぬ。おんみがわたしの弟子になるなら、わたしはおんみの凡俗を断ち切りて、茫茫とした苦海をば、やすやすと跳び出でしむべし。煙霞の伴侶に従ひて、これなる浮槎に乗りて去り、朗朗と詠めつつ、洞庭湖をぞ飛び過ぎん。（荊の籃を残して、退場）
（惠安）まことにおかしい。今しがた、気違い道士は一片の竹の葉を壁に貼り、一艘の小舟に変えたが、なかなかに面白い手品であった。陳季卿も眠ってしまった。行者よ、食事を用意して、陳季卿が目覚めた時に食べさせるのだ。わたしは方丈に戻って坐禅しよう。
（詩）前窓の下に心を鎮め、人間の是と非に構ふことぞなき。
（行童がいっしょに退場）
（陳季卿が夢の中で目醒める）よく眠ったわい。わたしは今からこの船に乗り、追い風に乗り、家に帰ろう。（退場）
第二折
（正末が外が扮した列禦寇、張子房、葛仙翁を連れて登場）貧道は呂洞賓、これなるは列禦寇どの、これなるは張子房どの、これなるは葛仙翁どの。貧道は陳季卿一人のために、終南山青龍寺へとみずから赴き、あのものを度脱した。いかんせん、あのものは功名に恋恋として、すこしも悟ることはなかった。貧道が一片の竹の葉を壁に貼り、一艘の小船に変えると、あのものは船に乗り、追い風に乗り、家に帰って、父母や妻子に会いに行くことにした。皆さまがた、わたしたちはこちらで待って、あのものが来ましたら、ゆるゆる点化し、正道に立ち返らせることにしましょう。閻王殿にて生死を除き[56]、仙吏の班に姓名を列ねさせ、海角と天涯の路を指し示し[57]、迷える人を導いて大道を進ませることにしましょう。
（列禦寇）馬鹿ものの陳季卿は、そろそろやってくるでしょう。
（正末が唱う）
【双調新水令】五湖と四海に遨遊し、天風を払ふ二つの袍の袖のあるのみ。霊童[58]を喚び、瑞草を採り、仙子とともに瀛洲[59]をしぞ下りたる。かやうに蕩蕩悠悠として、塵世の幾たびも昏となり昼となることを嘆けり。
（列禦寇）道兄、世俗の人の貪嗔愛欲[60]を見ますに、青蝿が血を嗜むかのよう、群蟻が膻を慕うかのようです。ひたすら利へと趨いて、溺死することを忘れて[61]、まことに愚かにございます。
（正末）上仙どの、思いみますに、陳季卿は、神仙となる分にはあるものの、俗心がはなはだ盛んにございます。再三話をしましたが、決して悟ることはなく、いつになったら正道を成就することができますのやら。（唱う）
【駐馬聴】仙苑に優遊すれば、物は換はりて、星は移ろひ、幾度か秋を経たりし。玄関[62]を参透[63]すれば、夕の陽は西に沈みて、水は東に流れゆくなり。一生、一生、むなしく愁を抱くとも、千年の、千年の寿命はなからん。はやく悟りて、閑雲野鶴ととこしへに共にするよりほかはあるまじ。
（陳季卿が登場）わたくしは陳季卿、青龍寺の惠安長老の処で、一人の気違い道士に会って、ひたすら出家するように誘われた。あのものは一片の竹の葉を壁に貼り、小船に変えた。わたしはたちまち故郷を懐かしみ、その船に乗り、追い風に乗り、帰ろうとしたのだが、ここに来て、路に迷った。前にも後にも、ものを尋ねる人がいないが、どうしたらよいだろう。
（正末）陳季卿どの、こちらに何をしに来られたのだ。
（陳季卿が驚いて振り返る）ああ、誰がわたしを呼んでいるのだ。
（正末が唱う）
【雁児落】急煎煎[64]と名利の針を誤ちて呑み、虚飄飄[65]と煙霞の叟[66]のわたしを忘れ、白茫茫たる窮途[67]をいづこへ帰らるる。目を睜るとも苦海には、助くる人のあらめやは。
（陳季卿）わたしを呼ぶのはどなたでしょうか。わたしを大路に導いて、帰ってゆかれるようにしてくださいまし。
（正末）馬鹿ものめ。（唱う）
【得勝令】ああ、経史を習ふありさまは、流るるかのやう、青紫[68]を得るはたやすしと言はれざりしや。連城璧を丹墀に奏し、凌陽の万戸侯をば、なにゆゑに得られざる[69]。本日は啾啾[70]としたまへど、役人となるものがかばかりの目に遭ふものと仰せらるるや。やめらるる方がよからん。はやくわたしについて出家し、自由を得られよ。
（陳季卿が見える）ああ、寺でお会いした道士どのだったのですね。どうかわたしをお救いください。
（正末）黙れ。（唱う）
【掛玉鈎】われは知音にあらざれば、話が合はぬとおんみは言ひて、九域志をし究むれば、故郷を思ふおんみの泪はひそかに流れ、滴りて征衫の袖に満ちたり。今となりては路に迷ひて、訊ぬることこそ難からめ。おんみは画中の家山を知るのみにして、夢中の神遊なるを知るなし。
（陳季卿）さらに三人いらしたのですね。ご姓とお名をお教えください。
（正末）かれらはわたしの道友だ。こちらは列禦寇どの、こちらは張子房どの、こちらは葛仙翁どのだ。
（陳季卿）わたくしは愚かであるため、お三方がいずれの時代の方々で、なぜ仙人になることができたのか存じませぬ。それぞれお話しくださいまし。拝聴させていただきましょう。
（列禦寇）貧道は列禦寇、鄭国の人。穆公の時に子陽が相となり、刑罰を尚んでばかりいたので、貧道は禄を辞し、帰農して、後に広成子に会って、大道を伝えられ、仙人になることができたのだ。
（張子房）貧道は張良、韓の人、九代にわたって韓の宰相をしていた。秦の始皇は無道にて、わが韓の国を滅ぼしたため、貧道は壮士と結び、始皇をば博浪沙にて襲撃したが、誤って供の車に中ててしまった。三日間、大捜索が行なわれたため、貧道は下邳に逃れた[71]。その後に、漢の高祖が挙兵したため、剣を頼りに漢に帰し、劉を興して項を苦しめ、韓の仇に報いることができたのだ。漢の高祖は貧道を留侯に封じたが、漢の高祖が功臣を誅殺したため、侯印を棄て、赤松子に随って、山に入り、仙人になったのだ。
（葛仙翁）貧道は葛洪、呉興の人、晋の明帝さまの時、勾漏[72]の令となり、丹砂を採っていたところ、羅浮真人[73]に遇うことができ、九転の術を授かった。それからは官職を棄てて修行し、仙人になることができたのだ。
（陳季卿）お見逸れしました。お三方のお話しによれば、官職を棄てて修行され、仙班に列なることができたのですね。ただ、わたくしは十年の寒窓[74]で、たくさんの苦しみを受け、今まさに役人になろうとしているのですから、このような迂遠な話を説かれることはできませぬ。
（正末）馬鹿ものめ、（唱う）
【沽美酒】おんみは螢の窓に困しみ、年は久しく、雁塔に姓名を題して留められんとせり[75]。壮志は騰騰として斗牛[76]を貫き、風雲に際会せんことを望みて、他人に後れをとらんとはせず。
【太平令】役人となるものは金章紫綬を得られんと仰れど、出家するものは三島十洲に住まへることを申し上ぐべし。役人となるものは功名が成就せらると仰れど、わたしは出家するものは寿命を延べんと申し上ぐべし。手を休め、口を閉ざして、わが道友を看るがよし。ああ、垢のごとくに官位を棄てしものばかりなり。
（陳季卿）このお三方は役人になられた方だと仰いますが、わたくしも史書で拝見したことがございます。道士さまも役人になられたことがございましょう。
（正末が唱う）
【甜水令】わたしもかつて鳳闕[77]に登り、龍門に躍り、馬蹄を馳せて、高く桂枝を折りたる秋もありしかど、邯鄲をたまたま通り、師の点化に逢ひ、黄粱の夢の醒めし後、俗心を捨て去りたるなり。
（陳季卿）役人になられたことがなかったのですね。
（正末が唱う）
【折桂令】おんみが独り鰲頭[78]を占められたとて不運といふもの[79]。
（陳季卿）道士どの、役人をされなかったために、役人になる楽しみをご存じないのでございましょう。
（正末）馬鹿ものめ、そなたはどんな官職を得たというのだ。
（唱う）故郷に還ることを恥ぢ、皇州に住むことを懶しと思ひたるにや。
（陳季卿）わたくしは今まさに家に帰ろうとしているのです。
（正末が唱う）阮籍は車を還し[80]、劉蕡は落第し[81]、王粲は楼に登りしことなきや[82]。終南山では友人は顔を揃へて、青龍寺では暇な日に遠きを眺め、一葉の扁舟に棹差して、幾つかの江流に泛びたり。こはあきらかに一枕の槐安[83]ならん。なにゆゑぞ両下で離愁となれる。
（列禦寇）秀才どの、仙人になるものは、生まれながらの仙肌道骨なのですが、それでも異人に教えを授かり、ようやくに仙人と成ることができたのです。今日はわたしの道友が、再三おんみを度脱して、出家させようとしたのに、おんみはひたすら悟ることなく、わたしたちをも関わり合いにしたのです。
（陳季卿）皆さまはご存知ございますまいが、わたくしはあのかたに従って出家しようとしないのではなく、出家することができないのです。このたび受験し、及第できなかったのは、言うまでもないことですが、家には老いた父母と、か弱い妻に幼い子供がいるのですから、どうして出家することができましょう。わたくしは『臨江仙』詞を口ずさみ、皆さまにお聴かせしましょう。
（詞）受験せんとて長安へ来て、富貴と栄華を求めしかども、及第せざれば家へ帰らんとぞしたる。妻と子は年が稚く、父と母は鬢が霜華となりたり。途中で道に迷ひしがため、ここはいづこと尋ねしに、下界を訪ね、槎に乗りたる群仙に会ふ。徘徊し、言葉なく、そぞろに嘆き、腸を断ち、それぞれが路に迷ひて、首を延ばして、おのおの天の涯にあり。
（列禦寇）秀才どの、父母と妻子が最後までおんみといっしょにいるものと思われるとは、まことに愚かじゃ。
（陳季卿）道士どの、わたくしを、一本の大路へと導かれ、帰らせてくだされば、このたび、わたしはかならずや状元の合格を奪いましょう。
（正末）馬鹿ものめ、（唱う）
【川撥棹】呆頭のおんみを笑はん。状元を奪はんと言ひたることがまこととなりて、前と後を取り巻かれ、画閣、朱楼、舞袖、歌喉を楽しまんとも、功を宇内に施すことにはならぬ。
（列を指して唱う）清風を馭するわれらが列禦寇には及ぶまじ。
（張を指して、唱う）
【七弟兄】籌をば運らして、謀をば決することでは、われらが漢の留侯に及ぶまじ。
（葛を指し、唱う）丹砂を煉りて、勾漏を辞職せし、われらが葛令には及ぶまじ。見よ。玉溪[84]の辺にて煙水は流れを停むることはなく、翠岩の前に風月はつねに変はらず。
（陳季卿）道士どの、おんみはとにかくわたしの去路を導かれ、人が老いるのを待たれてはなりませぬ[85]。
（正末が唱う）
【梅花酒】両鬢の秋となるとき、天子と憂を分かたんとするなかれ[86]。歳月の留まり難く、はやくも人の頭を白くするを嘆けり。汝は『長楊』[87]を献ぜんとして紫陌に臨めど、わたしは大薬[88]を尋めて、丹丘[89]に返らんとして、三人とともに帰りゆくなり。この人は銀筝[90]に倚り、瀛洲[91]を歩み、この人は鉄笛[92]を吹き、幽岩に臥し、この人は錦瑟[93]を弾き、孤舟に上れり。
【收江南】ああ、われはそのかみ三たび岳陽楼に醉ひ[94]、罡風[95]を踏み、碧雲に吹き上がり游ひしことありき。大羅仙[96]なるこのわれが死刑囚なるおんみを度脱しにきたりしも徒にして、城南の老柳を笑殺したることぞ空しき[97]。おんみには荘周の蝴蝶夢を見しめたるなり。
（列禦寇）秀才どの、われらに従い出家しようとされぬなら、こちらに長居されてはならぬ。お帰りなされ。
（陳季卿）わたくしは路に迷ってしまったのです。
（正末）馬鹿ものめ、行く道は遠くなく、おんみの家はもうすぐだ。とにかく正道を忘れるな。
（唱う）
【鴛鴦煞尾】功名の二字に引かれて、千里の風波におんみはひとり耐へたりき。短剣と長琴を頼りにし、あまねく赤県神州[98]を経巡れり。幾つかの処にて笙歌[99]して、幾つかの家で愁へて、幾ばくも経つことなきに、すでに餓ゑ、痩せたるさまは夷斉[100]のごとし。世の中に求むることなく、紅塵の道を再び歩むことなきわれに及ばじ。（四人がともに退場）
（陳季卿）かれら四人は行ってしまった。気違い道士は、わたしの家はもうすぐだ、正道を忘れてはならないと言っていた。正道というのは、大路のことだろう。わたしはこれから大路に沿って、道を急いで、故郷に戻ってゆくとしよう。
（詩）故郷の訛が近くに聞こえきたりしも、旅はかへつて悲しみを增す。途は迢かに、故郷へ帰る夢を見て、心は逸れど、歩みぞ遅き。（退場）
第三折
（外が孛老に扮し、老旦、旦児、子役を連れて登場）老いぼれは余杭の人、姓は陳、家に数貫のお金があるため、人はみなわたしを陳員外という。五人家族で、この婆さんは方氏、嫁は鮑氏、孫は阿勝、受験しに行った子は陳季卿という。息子は行ってしばらく経つが、音信はまったく返ってくることがなく、一家はまことに心配している。婆さん、ひとまず家で門を閉ざして坐っているのだ。わたしは大通りに行って、消息を尋ねよう。
（卜児）かしこまりました。
（孛老ともに退場）
（正末が漁師に装いを改めて登場、詩）江上で一葉の舟に棹差し、釣竿と釣針を収めたり。箬の笠、蓑の衣を気儘に着けて、斜めの風と細かき雨を憂ふることなし。
わたくしは漁をするもの。まことに楽しい。（唱う）
【南呂一枝花】この矮き蓬窓[101]は新らしく織りしもの。細き網、索は改めて編みしもの。さきほどは、西風に背きつつ釣絲を片付けて、はや明月に向かひつつ扁舟に棹させば、煙水は悠悠たり。黄花の酒をみづから醸し[102]、斑竹の[竹芻][103]をみづから提げ、酕醄とすれば、斗は転り、参は横たふ。ささやかな楽しみを天地のごとくとこしへに享受せん。
【梁州第七】夕陽が西に沈むとも構ふことなく、心を持たぬ江水の東へ流るるに任すべし。淡き煙と疏らな雨はつねに前後に立ち籠めて、いささかの村橋、野店、沙渚、汀洲をぞ経たるなる。ひとりで蓑衣を斜めに掛けて、箬笠を軽く被れり。昔より、漁をするものに悶愁はなきもの。浴鷺、眠鷗に伴ひて[104]、陶朱公の一面の平湖[105]を離れ、蜀の諸葛の三江渡口[106]を通り過ぎ、はやくも漢の厳陵[107]の七里灘頭[108]にしぞ来たれる。誰がわが友なりやと言はば、滄波老樹が心知りたる馴染みなるのみ。楚江の萍は肥肉に勝り[109]、縮項鯿魚[110]は新らしく針に掛かれり。醉はずば飲むをやむることなからまし。
（陳季卿が登場）わたしは陳季卿、こちらに来たが、行き止まりの渡し場だ。船が渡してくれればよいが。（眺める）はるか彼方に漁船が見える。呼んでみよう。（手招きする）漁師よ、船に棹差してきてくれ。
（正末は答えない）（唱う）
【隔尾】おんみはもしや江心に走る、犀を燃やしし温嶠か[111]。おんみはもしや水面に游ぶ、瑟を弾く湘霊か[112]。わたくしは葭、蒲の辺にて、辛抱強くじつとせり。こちらは関津、隘口でもなく[113]、おんみの屋敷の表でも奥でもなし。なにゆゑに、渡せる人はいづこにありや、と叫ばるる。
（陳季卿が叫ぶ）漁師どの、船に棹差してきて、渡してくれ。
（正末）どちらへ行かれたいのでしょうか。
（陳季卿）尋ねてどうする。
（正末が唱う）
【賀新郎】漁をするわれらは事情を問ふことはなしと仰る。お尋ねいたさん。商ひをなさるお方か。
（陳季卿）そうではない。
（正末が唱う）故郷の親戚友達を訪はるるや。
（陳季卿）そうではない。
（正末が唱う）されば、などてか長江のほとりにてわれを待ちたる。
（陳季卿）わたしは長江を渡ってゆきたいのだ。
（正末が唱う）おんみはもしや沙を懐きて自ら投じし楚三閭[114]か。おんみはもしや父の冤仇を雪ぐ伍子胥[115]か。おんみはもしや月を捫りて去る李謫仙[116]。おんみはもしや珠を弄びて游ぶ鄭交甫[117]。
（陳季卿）わたしは急いで行きたいと思っているのに、この漁師は古今のことを引き合いに出し、ひたすらわたしにたくさんのことを尋ねる。ほんとうに煩わしいわい。漁師どの、ご推測はみなはずれです。とにかく江を渡してくだされ。
（正末）それならば、おんみはどのようなお方で、渡してくれと仰るのでしょう。お話しいただけないのなら、お渡ししませぬ。
（陳季卿）受験して合格をしなかった秀才で、今、家に帰ろうとしているのです。
（正末が唱う）受験せし村学究か。及第しなば、春風に五花駒[118]の轡を驟らすも、及第せざれば、滄浪に一葉の小さき漁舟を泛べたり。
（陳季卿）その通りです。わたしは今、武林余杭に馳せ戻ってゆき、父母や妻子に会おうとし、おんみの船に会ったのです。さらにまた受験しに来ようと思っていますので、船賃を多めにお支払いしますが、いかがでしょうか。
（正末）それも結構。はやく乗られよ。今すぐ船を出しましょう。
（陳季卿が船に乗る）
（正末が唱う）
【罵玉郎】一天の露は湿りて、漁蓑に染み、短き棹を揺らしつつ流を下り、痩せたる龍の腰にも似たる丸木橋をぞ過ぐるなる。軽鷗[119]の後に従ひ、秋の江の麗しく妝ふを見る。
【感皇恩】雲影は油油[120]、風力は颼颼として、緑楊の堤、芳草の岸、蓼花の洲を転り出でたり。
（陳季卿）漁師どの、ここはどこなのだ。
（正末が唱う）秦淮、界首[121]を行き尽くし、知らぬ間に、呉と越に流は分かれり。郷間は間近なり。故郷を臨み、停まるなかれ。
（陳季卿）まことにおかしい。もう家に着いたわい。（更鼓を聴く）今やっと三更を打ったところだ。
（正末が唱う）
【采茶歌】更籌[122]を問ふことはなし。水雲[123]の收まりて、半輪の明月の柳の梢にあるを看るのみ。
（船を停め、言う）秀才どの、わたしの船はこちらでおんみをお待ちしましょう。ご家族に会われたら、すぐに来られよ。
（唱う）わたしはこちらの小さな木杭に船を繋がん。汪汪と犬が吠ゆるを聴くのみにして、竹の林はひつそりとせり。（陳季卿とともにしばらく退場）
（孛老、旦児、子役が登場、孛老）ほんとうに心配だ。息子は受験しにいったのだが、大通りで音信を尋ねることができなかった。婆さんや、とりあえず門を閉ざそう。（門を閉ざす）
（正末が陳季卿とともに登場）お家ではございませぬか。
（陳季卿）わたしは門で叫ぶとしよう。漁師どの、わたしは父母や妻子に会ったら、ふたたび受験しますから、船をどこかへ行かせてはなりませぬ。
（正末）はやく船から下りられよ。おんみをながく待つ閑はございませぬぞ。
（陳季卿が門を叩く）妻よ、開けてくれ。開けてくれ。
（旦児）誰が叫んでいるのだろう。この門を開け、看てみよう。（見える）誰かと思えば、季卿さまが来られたのですか。
（陳季卿）父上と母上はどこにいるのだ。
（旦児）堂上にいらっしゃいます。
（陳季卿が入って拜する）父上、母上、家に帰ってまいりました。
（孛老）息子よ、そなたは官位を得たか。
（陳季卿）わたしは時運に恵まれず、官位を得てはおりませぬ、そのために、帰るのを恥じ、今までよそに流落し、甘旨の奉[124]を欠いていました。このたび試験が行なわれるため、わたしはわざわざやってきて、父上と母上をお訪ねし、ふたたび受験しに行くのです。
（孛老）息子よ、そなたは長年家を離れて、はじめて戻ってくることができたのだから、もう幾日か経ってからゆけ。
（陳季卿）父上、母上、日が近うございますから、試験に間に合わなくなってしまいます。
（孛老）日が近いなら、小者たち、酒を持て。息子のために送別するのだ。
（正末が笑う）陳季卿どの、はやくゆきましょう。（唱う）
【牧羊関】おんみはひたすら席上で『金縷』を歌ひ、樽の前にて玉甌を捧げ持たれり。こちらはまことに黄粱を鍋に炊き、煮えたるにあらざらめやは[125]。白頭の父母にお別れし、年若き連れ合ひを棄てられよかし。
（言う）陳季卿どの、まだ行かれずに、どうなさるお積りか。
（唱う）おんみは聡くあらずして、愚かなる漢なれば、すみやかに悟りたるすぐれた儒流となさんとせしも徒なりき。もしもおんみが斑衣を恋ふて、老莱の舞を学ばんとせば[126]、この烏江亭長の舟をぞいかがせんとする[127]。
（陳季卿）妻よ、わたしはやはり試験に赴くことにしよう。
（旦児）秀才どの、ようやく家に帰られましたに、なぜすぐに棄てて行かれるのでしょうか。（悲しむ）
（陳季卿）妻よ、わたしたち夫妻の情を、どうして棄て去ることができよう。ただ、試験の期日が迫っており、あっという間に三年をふいにすることとなるから、どうすることもできぬのだ[128]。
（正末が唱う）
【哭皇天】ひたすらにくどくどとかのひとを宥めたり。潸潸と泪は流れてやむことぞなき。すみやかに斉臻臻[129]たる鵷鷺の侶[130]に随はんとし、とりあへず嬌滴滴[131]たる鳳鸞の儔を棄てたり。綸竿と、綸竿と釣舟を準備して、富春渚[132]の側や、渭水河の辺にて、煙波の漁父、風月の閑人に伴ふはうが、かへつて自由気儘にて、気儘にて憂へなからん。山が崩れて、海が漏れ、烏が飛びて、兔が走るも物の数かは[133]。
（陳季卿）妻よ、筆と硯を持って来てくれ。詩を口ずさみ、留別としよう。
（書く）
（正末が唱う）
【烏夜啼】これからは、談天の口[134]をかたく閉ざして、わたしが風と波に任せて流れに従ふものとな想ひそ[135]。
（陳季卿）詩を書き上げた。わたしが一遍読み上げて、聴かせてやろう。（念じる）
（詩）月は斜めに寒露は白く、夕は最も耐へ難きもの。別れの歌は象管を嘶ばしめ、別れの思ひは瑶琴を断つ。酒が至れば愁へつつ飲み、詩が成れば泪ぐみつつ吟じたり。夜更けて人を夢にし懐へば、空しき床に片割れの衾こそ寂しけれ。
（旦児）季卿さま、この詩は凄婉多情、わらわが読めば、潸然として泪が落ちます。まことに悲しゅうございます。
（陳季卿が拝礼をして別れる）父上、母上、わたくしは受験してまいります。
（正末が唱う）おんみの心が恋恋として、詩を吟ずとも、旅の愁と、両つ処に眸を凝らしたることをいかでか書き表はすを得ん。こちらでは金鞭を揺らしつつ、遥かに酒家の楼を払へど、あちらでは陽関に泣き、香羅の袖に泪をひそかに滴らしたり。はやくゆき、苦しむなかれ。わが麻の縧、草の履は、おんみの肥えたる馬、軽き裘に勝らざらめや。
（陳季卿）父上、母上、わたくしは受験しにまいります。
（旦児が門から送り出す）
（陳季卿）妻よ、そなたは帰るがよい。（出る）漁師どの、船はどこだ。
（正末）はやく乗られよ。いつまで待たせるおつもりか。（ともに退場）
（孛老）息子は試験に行った。婆さんや、とりあえず門を閉ざそう。眼には望まん旌旗捷[136]、耳には聴かんよき消息。
（旦児、子役がともに退場）
（正末が陳季卿とともに登場）秀才どの、もう大江に着きました。（唱う）
【三煞】前溪口[137]に咿唖と響ける柔らかき櫓の音を追へば[138]、幾つかの漁の灯の古き渡頭に潤めるを見る。
（陳季卿）漁師どの、船をもすこし岸に近付けてくだされ。風が起こってまいりましたぞ。
（正末が唱う）秋の江に雪浪の天を拍ちつつ浮かぶを見るのみ。くはへて月は黑くして、雲は愁へり。ざわざわと風は狂ひて、雨こそ驟けれ。今はいずれの時ならむ。
（陳季卿）漁師どの、このような雨、風、波がたちまちに起こるとは、ほんとうに恐ろしいなあ。
（正末が唱う）白茫茫たる銀涛は断えず流れて、鶴に騎る揚州[139]はいづこにかある。
【二煞】たちまちに雷の絶壁に巡り、蛟龍の吼えたるを聴き、電の空林を繞り、鬼魅の愁ふるを見る。かやうに江を翻へし、海を撹して、陽侯[140]は怒りたまへり。このものは驚きて戦戦兢兢、転覆をいかでか防ぐことを得ん。この命、誰をして救はしむべき。あやふく漁師の釣舟を踏み破り、水上の浮漚とならんとす。
（陳季卿）ああ、船が壊れた。漁師どの、救ってくだされ。（経を念じる）太乙救苦天尊。
（正末が唱う）
【黄鍾尾】玄冥[141]に祈り、河伯[142]を拝し、しきりに拱手するも徒なり。魂魄を安らかにして、精神を鎮め、眸をしつかり閉ぢよかし。風はにはかに湧起り、水は逆巻き、三山[143]を排き、九州を蕩はし、天関[144]を撼らし、地軸を動かす。おんみは脅えて、戦戦兢兢たるさまは、楚囚[145]に似、ぼんやりとして、一命はおしまひとなり、故丘に葬らるるを得ざらん。これよりのちは、万古千秋、誰かおんみの北邙の墳の上に一杯の酒を奠ふべき。
（陳季卿が水に墜ちる）助けてくれ。助けてくれ。（目覚める）
（行童）先生、師匠が斎食を召し上がれとのことにございます。
（陳季卿）道士はどこへ行ったのだ。
（行童）おんみはこちらで睡られて、わたしはこちらで斎食を召されるように申しているのでございます。気違い道士がどこへ行ったのかは存じませぬ。
（陳季卿）わたしはさきほど、家へ帰ってゆこうとしたが、あのひとは途中でわたしを待っていて、幾人かの道友を連れ、何度もわたしに出家を勧めた。あの道士どのは少々おかしかったから、追い掛けてゆくとしよう。（追い掛けようとして荊の籃を見る）あの道士どのは荊の籃をこちらに残してゆかれたぞ。看てみよう。荊の籃にはほかでもない、一枚の手紙があるだけ、何が書かれているのだろう。（念じる）
（詩）一葉は逡巡し、客の帰りゆくを送り、山の光と水の色とはおのづから相依れるなり。屈子[146]の行吟したる処をうち過ぎて、厳陵の釣棹を垂らしたる磯を経たり。親舍[147]にながく孝養を欠きたるを慚ぢ、妝台[148]に何の意ありてかまた詩を留めん。別れてからは黄昏の後に慟哭し、仙翁と謂はんともまつたく知るなし。
（驚く）どうして夢の中のことをあのひとはみな知っているのだ。きっと仙人なのだろう。想うに人の身は得難く、中土には生まれ難く、異人には遇い難いから、みすみす逃がすわけにはゆかない。道士どのは遠くへ行ってはいないだろう。小師父どの、長老さまにどうかよろしく。わたしは斎食も食わずに、荊の籃を提げ、道士どのを追いかけてゆきましょう。（退場）
（行童）あの秀才も馬鹿ものだ。真昼間、空き腹で一眠りして、どのような夢だったかは知らないが、あたふたと目を覚まし、道士を追ってゆこうとするとは。むかしから気違い坊主、気違い道士は、行方知れずになるものだから、どこへ追い掛けていったものやら。師匠に報告しに行こう、腹を空かせてあの馬鹿ものが屎を出しても、わたしには関わりないこと。（退場）
第四折
（列禦寇が張子房、葛仙翁を連れ、愚鼓[149]、簡板[150]を執って登場、詩）昨日は東周、今日は秦、咸陽の灯火に洛陽の塵。百年は一枕の滄浪の夢、笑殺するは昆侖の頂上の人。
貧道は列禦寇。純陽子は陳季卿を度脱しようとしたために、貧道と張子房、葛仙翁の三人は、陳季卿に入道を勧めるように頼まれた。ただ、陳季卿は俗心がひどく盛んであるために、すぐには心を変えられなかった。純陽子はその法力を顕わして、ほかに一つの世界を作り、かれに見せたが、きっと悟ったことだろう。今、陳季卿はまだ来ない、わたしたちは何事もない。しばらく通りに赴いて、いささか道情曲[151]を唱えば、世の人を警めることもできよう。
（張子房）それはよい。仙長、どうぞ。
（列禦寇が唱う）
【村里迓鼓】わたしのところは洞天の深き処で、げに世の人の来ることぞなき。わたしは姓と名を隠し、栄辱はなく、煩悩のなきことを求めたり。蝸角の名、蝿頭の利は、いかほどのものならむ。夜とならば明まで眠り、明となりなば夜まで眠りて、覚むるまで睡らんとせり。ああ、はやくも馬を走らせるかのやうに、光陰は過ぎゆきたるなり。
【元和令】食らへるは千家の飯の、半瓢に集められたる、着けたるは百衲の衣の、一套に綴りなしたる[152]。かやうなる粗衣淡飯でひとまず暮らし、天公が饒されやうと饒されまいと、われはただ竹の籬に茅の舍で山腰に枕せんとす。柴の扉を掩へば静かなるさまは悄悄として、人生の空しく擾擾たるを悲しむ。
【上馬嬌】おんみは名誉の顕はれて、爵位の高くならんことをば望みたれども、それらはおんみの人を殺むる刀なり。いつになるとも心意を楽にし、懐抱を安らかにすることはかなはずに、両眉をつねに蹙むることとなるべし。
【勝葫蘆】朝な夕なに万条の計略を思はれたとて、わたしの無事で楽しみの陶陶たるには及ぶまじ。わたしのところは、春夏秋冬、草は凋まず。晴れた窓に倚り、意は高らかに、短き筇をつきつつじつと眺むれば、海上の熟れた蟠桃を看る。
（列禦寇）道情曲をまだ唱い終わらないのに、純陽子どのがもうやって来られた。
（張子房）わたしたちはひとまずあちらにさがりましょう。（退場）
（正末が唱う）
【正宮端正好】北溟[153]に遊ぶことなく、東山[154]に臥すこともなし。ゆつたりとすることを得ばとりあへずゆつたりし[155]、幾たびか愚鼓[156]を敲きて塵寰に坐す。これがわが閑かな課業。
【滾繍球】光陰の梭を擲つに似るを嘆けり。人生は幾何ぞ。ふと振り向けば百年はすでに過ぎ、青銅に向かへば両鬢は皤皤として、王留のをかしな振を看、沙三のをかしな歌を聴きたり[157]。むなしく出世し、貪りし、呆貨たちは死にゆきて、結局、何を得たりしや。窓前の友人の年年少なく、郊外の新たな墳の歳歳多きを君見ずや。こはみな南柯の夢ぞかし。
（陳季卿が荊の籃を提げ慌てて登場）お師匠さま、わたくしの眼は節穴でした。どうかお救いくださいまし。
（正末が唱う）
【倘秀才】かのもののあたふたと走れるを見る。（手を振る、唱う）ああ、馬鹿ものめ、追ひかけてくるのをやめよ。
（陳季卿が追い付いて引き止める）大仙さま、どうかあまねく慈悲を垂れ、わたくしを長生の路に導かれませ。（拝する）
（正末が唱う）お尋ねいたそう。おんみはぺこぺこ通りで拜礼しているが、いかがなされた。わたくしは貧乏道士、山中に住まいするもの。儒生のおんみを度脱することはできませぬ。
（陳季卿）この荊の籃に、詩一首を残されましたが、わたくしが家に着き、父母や妻子に会った様子を、ことごとくご存じでした。ほんとうに神仙にございます。このたびは、おんみに従い、出家して、弟子になろうと思います。
（正末）馬鹿ものめ、おんみは試験場に行き、状元に合格するのだ。ひたすらわたしを拜してどうする。（唱う）
【滾繍球】一心に君王に遇ひ、甲科[158]に合格せんとしたるに、なにゆゑぞ神仙に指図を求めに来られたる。
（陳季卿）お師匠さま、この詩を拝見いたしましたので、もう役人になることは望みませぬ。
（正末が唱う）おんみは詩句を看、玄機[159]を参破したりきと仰れど、わたくしは紫霜の毫のあやまちて山河を統べんことを恐れり。
（言う）馬鹿ものめ、今、悟ったか。
（陳季卿）悟りました。
（正末が唱う）栄華は水の沫に似て、功名は石の火に似ることをすでに悟れり。なにゆゑぞ講堂で面目を改められたる[160]。
（陳季卿が拝する）わたくしは愚眉肉眼[161]で、真仙が降臨されたことが分からなかったのでございます。なにとぞお咎めにはならず、わたくしの俗気を除かれますように。
（正末が唱う）われは今、おんみのために俗気を払ひ、聖手を搓らん[162]。九重の天子の明光殿さへも、わが三島の仙人の安楽の窩には及ぶまじ。これ以上、碌碌とすることなかれ。
（列禦寇ら三人が登場）道兄、陳季卿どのはおんみに従い、出家しようとなさいましたか。
（陳季卿が登場）お三方はみんなこちらにいらしたのですね。（拝する）
（正末）われらはこの馬鹿もののため、俗世に三たび赴いたのだ。（唱う）
【倘秀才】おんみは昨日は、金枷玉鎖[163]を除き得ざりしも、おんみは今日は、はやくも朝元証果[164]を得たり。かのものはいづれが自由で、いづれが轗軻たりといふべき。頭を挙ぐれば山の色は美しく、耳に入りくる水の音は和やかなり。これがすなわちわれら仙家の過活なり。
（陳季卿）お師匠さま、思いみますに、このお三方の大仙は言うまでもございませぬが、昨日わたしを渡して家に帰らせた漁師は、大仙さまが化身なされていたのでしょう。
（正末）馬鹿ものめ。（唱う）
【滾繍球】おんみはわたしが扁舟に駕し、碧波に泛び、漁竿を執り、緑蓑を披たりと言はるれど、これがすなはち仙人の使作ぞかし。おんみはあやふく暴虎馮河[165]となるところなりしなり。
（陳季卿）お師匠さま、わたくしを度脱して、仙人にして、道を悟らせようとしていらしたのなら、どうしてわたしを大江の中に落として、あやうく命を喪わせようとなされたのです。まことに酷うございます。
（正末が列禦寇を指し、唱う）われがこの訛をなすことのなかりせば、いかでか仙人たちをしてまことに団円せしむべき。わたしの旧き交遊にはほかにも七人兄弟があり。
（陳季卿）お師匠さま、おんみの上八界の洞府は、どちらにあるのでございましょう。
（正末が指さし、唱う）洞府のことをお尋ねなれど、さらに嵯峨たる蓬嶺[166]を隔てたり。
（言う）舞うならば、
（唱う）おのづから霓裳、羽袖[167]、繊腰の舞ぞある。
（言う）歌うのならば、
（唱う）おのづから絳樹[168]、青琴[169]、皓歯の歌あり。これ以上ぐずぐずとするなかれ。
（陳季卿）お師匠さま、おんみのところに何かすぐれた景色があれば、お話しください。
（正末が唱う）
【叨叨令】わたしのところは、蒼松は偃蹇として蛟龍は臥せ、青山は高く聳えて、煙嵐[170]は湧く。香風は動かずに松華は落ち、洞門は深く閉ざされ、誰も鎖さぬ。ともにゆくべし。ともにゆくべし。修真し、ともに蓬莱閣[171]にしぞ上るべき。
（冲末が東華帝君に扮し、符節を執り、張果、漢鍾離、李鉄拐、徐神翁、藍采和、韓湘子、何仙姑を連れて登場）
（陳季卿）ああ、多くの大仙さまが来られた。わたしは一人も存じませぬ。お師匠さま、わたしに話して知らせてください。
（正末が張を指す）
（唱う）
【十二月】この人はさかさまに驢馬に騎りつつ疾さは坡を下るかのやう。
（陳季卿）張果大仙さまだったのですね。（拝する）
（正末が徐を指し、唱う）この人は鉄笛を吹けば音色は美しく和やかなるなり。
（陳季卿）徐神翁大仙さまですね。（拝する）
（正末が何を指し、唱う）この人は貌は娉婷で手に笊を持てるなり。
（陳季卿）何仙姑大仙さまですね。（拝する）
（正末が李を指し、唱う）この人は鬢は蓬松で鉄の拐をば横ざまに引きずりたるなり。
（陳季卿）李鉄拐大仙さまですね。（拝する）
（正末が韓を指し、唱う）この人は籃関でそのむかし文公[172]を度脱せしなり。
（陳季卿）韓湘子大仙さまですね。（拝する）
（正末が藍を指し、唱う）この人は緑羅の衫で板を拍きつ高々に歌ひたるなり。
（陳季卿）藍采和大仙さまですね。（拝する）
（正末が鍾離を指し、唱う）
【堯民歌】この人は、双つの丫髻で、いつもお酒を飲んでをり、醉顔紅し。
（陳季卿）漢鍾離大仙さまですね。（拝する）お尋ねしますが、お師匠さまのご姓とお名は。
（正末）馬鹿ものめ、わたしは話したであろう。
（唱う）わたしはかつて黄粱の鍋が滾りたるとき、夢を見て、覚めし時には、五十載を費やしたるなり。
（陳季卿）お師匠さまはすでに話しをなさっていました。わたくしはひどく愚かにございます。（拝する）本日はほんとうに拜礼をいたしましょう。
（正末が唱う）呂純陽とはわたしのことで、他人にはあらざることをやうやく知れり。
（言う）馬鹿ものめ、おんみはやはり夢を見ているのであろう。
（陳季卿）わたくしは今、ほんとうに悟ったのです。夢を見ているのではございませぬ。
（正末が唱う）おんみはみづから考へて、われらを冷笑せしめざるべし。おんみはとにかく名利の場をつまらぬものと見なすべし。
（東華帝君）上帝さまの敕旨である。陳季卿は神仙となる分にあるから、呂純陽の弟子にして、群仙に命じて西へ連れてゆかしめ、蟠桃宴へともに赴かせるがよい。
（詞）西のかた瑶池[173]を望めば衆真[174]は集ひあひ、東のかたより来る紫気は天門にしぞ達したる。これより王母の瓊筵[175]に、蟠桃をともに献ずるものを一人增やさん。
（陳季卿が衆とともに拜する）
（正末が唱う）
【煞尾】瑶池に会し、蟠桃の実を賞でて、金盤にたつぷり捧げ、大羅[176]に献ぜり。仙人のわれらに福寿は多くして、仙人のわれらはながく楽しめり。おんみは鶴氅[177]、烏巾[178]をば手づから摩り、葛履[179]、環縧[180]を整へつ。青色の騾馬を放ちて[181]、一片の祥雲に駕り、わたしともに腰掛けつ。たとひ十万里の鵬程[182]があらんとも、海天の闊きを恐るることのあらめや。
