死生交范張鶏黍雑劇

宮大用撰

楔子

（正末が范巨卿に扮し、冲末の扮した孔仲山、張元伯、浄の扮した王仲略とともに登場、正末）わたしは姓は范といひ、名は式、字は巨卿とまうし、山陽[1]は金郷の者。これなる秀士は、姓は張、名は劭、字は元伯といひ、汝陽[2]の者なり。わたくしは、元伯と死生の交はりを結べり。元伯は、老いたる母ぢやが家にいませば、もとより遠出を楽しまざれど、「今日は、君は聖(たふと)く、臣は賢く、士大夫の功名を立つる秋ぞ」と勧むれば、来たりて帝学[3]にしぞ就きたる。いまだ数年ならずして、選ばれて上館[4]に居り、名声は朝廷を動かせば、しばしば招聘せられしかども、そのたびに就かんとはせず。おそらくは、志の大なるがため、州県知事になるを恥ぢ、奸佞の朝廷に満ちたるを見て、別れを告げて、故郷へ帰りたるならん。これなる秀士はわたくしの同郷の者、姓は孔、名は嵩、字は仲山といひ、孔宣聖の十七代の賢孫で、ともに京師に遊学をせしこともあり。これなる秀士は姓は王、名は韜、字は仲略といひ、洛陽の者、天官[5]の主爵都尉[6]兼学士判院[7]の家の女婿で、文才はなしといへども、帝学に共にあり。このたびわたしが元伯と故郷へ帰ることを知り、長亭へ送別せんとて来たるなり。仲山どの、今日別れなば、いづれの時にかまた会ふを得ん。

（孔仲山）万言の長策を書き、貢院に献ぜんとしたれども、いかんせん、公務は身にぞ纏ひたる。兄じゃよどうか、便宜を図り、持つてゆき、美言を加へられよかし。

（正末）なぜはやく言わぬのだ。仲略どのの舅御は、今、学士判院にいらっしゃる。仲略どのは、仲山どのの万言の長策を奉り、褒め言葉を加えるがいい。官職を得られれば、これもまた、朋友の情、兄弟の誼というもの。

（王仲略）お見せ下さい。兄じゃ、ご安心なさいませ。このような文才をお持ちであれば、大官になれないはずがございませぬ。仲山どの、御身が行かれる必要はない。わたくしがひとりで行って、御身のために官職を得て、面目を施しましょうぞ。わたくしも行ない正しい人間ですから。

（孔仲山）ありがとう、弟よ。

（張元伯）兄じゃ、今日ここで、酒を酌み、お別れしたら、いつまたお会いできるのでしょう。

（正末）弟よ、今日、酒を酌み、別れても、二年後の今月の今日になったら、汝陽荘にて老いたる母御にご挨拶することにしよう。

（張元伯）兄じゃ、わたしは家で、鶏(とり)を殺して、黍を炊いで、兄じゃを待つといたしましょう。兄じゃ、約束を違えられませぬよう。

（正末）弟よ、人たるものは言葉を軽んじてはならぬ。「信は義に近うして、言は復(ふ)むべし」[8]「食を去り、兵を去るとも、信を去ることはできぬ」[9]「大いなる車に輗(げい)なく、小さき車に�ｲ(ごつ)なくば、其れ何をか以て行かんや」[10]と言うではないか。（唱う）

【仙呂賞花時】われはもとより、義烈堂堂たる大丈夫、いはんやともに成均[11]に在り、ともに儒を学びたるをや。ともにあること数年余り、本日は路を異にし、帰りゆき、情は悲しみ、言葉なく、意は悩みたり。

【幺篇】二年後の今日となりなば、御身を訪ね、堂上の白頭の母御前にご挨拶せん。

（張元伯）会いに来られるのであれば、一羽の鶏、一斗の酒で、お持て成しいたしましょう。

（正末が唱う）鶏を殺して、黍を炊がば、雲腴(うんゆ)[12]を醸す要はなからん。

（張元伯）おそらくは路は遥けく、われら二人が一処に会ふは叶ふまじ。

（正末が唱う）千里の遠き道のりを、いかで避くべき。（ともに退場）

 

第一折

（丑が酒売りに扮して登場、詩）商売し、帰り来たれば、汗はいまだに消ゆることなく、床に上がりて、なほ明日をしぞ想ひたる。なにゆゑぞ、家を切り盛りするものの頭は先に白くなりたる、日夜思案し、計は万条なればなり。

わたしは酒売り、この汝陽の街にて酒肆を開きたり。望子[13]を掛けて、誰が来るかを見るとせん。

（王仲略が孤に扮して登場、詩）朝(あした)には田舎郎(たごさく)なりしも、夕(ゆふべ)には登り窓を破れり[14]。獅子より転げ落ちたれば、[羊吉][羊里]羊に騎る[15]。

わたしは王仲略。二年前、孔仲山は、万言の長策を献ずることを求めしも、かれのため力を尽くさず。誰か想はん、貢院[16]の、かやうに凄まじからんとは。秀才たちが詩文を作りたるを見て、わが魂は驚きて天外に飛ぶ。わたしは夜通し孔仲山の万言の長策の頭と尻尾を改めて、わたくしの文章にせり。わたしの舅と諸官らは、それを見て、はなはだ喜び、わたくしを杭州の僉判に任じたり。馬を走らせ、赴任して、汝陽鎮にぞ来りたる。とある酒屋で、二鍾の酒を購ひて、飲むとせん。

馬を繋げ。店員よ、二百銭の脳児酒(なうじしゆ)[17]をもってくるのだ。もしうまい酒がないなら、濁り酒でも構わぬぞ。

（丑）お役人さま、お掛けください。お酒です、お酒です。

（王が酒を飲む）

（正末が馬に乗り、童僕を連れて登場）わたくしは范巨卿、おととしの九月十五日、張元伯の汝陽荘にて、ご老母にご挨拶することを約して、約束通りにここに来た。元伯の家までなおも数里あり、時間は早い。この村で、ひとまず一杯飲むとしよう。馬を下り、手綱を繋ぎ、酒屋に入ろう。ああ。だれかと思えば、官職を得た弟の仲略だ。（会う）

（王仲略）兄じゃ、立たれませ、お服が汚れてしまいます。挨拶をお返ししましょう。これぞまさしく「官職は年齢に勝るもの」。

（正末）弟よ、どこへ赴任するのだ。

（王仲略）任ぜられましたのは杭州の僉破[18]です。

（正末）僉判であろう。

（王仲略）わたくしは、ここ幾日か、話すとき、唇がやや強ばるのです。

（正末）弟よ、よい官職を得たのはめでたい。だがわしは、旅の途中で、お祝いにするものがない。

（王仲略）兄じゃ、言いつくろわれる必要はございません。こちらには海郎[19]がございますから、半瓶を買い、飲ませてくだされ。

（正末）店員よ、二百銭の酒をくれ。とりあえずお祝いをするとしよう。

（正末が酒を手にとる）弟よ、一杯干すがよい。

（王仲略）大杯を持ってきてくれ。わたしは先に二杯飲むことにしましょう。（酒を飲む）兄じゃ、ご返杯いたしましょう。すこしつまみをとりましょう。（背を向ける）ああ、あいつに会うとは思わなかった。孔仲山の万言の長策について尋ねられたら、どう返事したものだろう。今から何杯かを飲んで、あいつと文を論じよう。文才はわたしより万倍も勝っているから、何句かを学び取り、杭州に行ったとき、人に話そう。（振り返る）兄じゃ、わたくしの学問は、大したことはございませぬが、兄じゃは才能学問が、わたしとは違ってらっしゃる。名のある人の、古い書物や、往にし日の王朝の事どもを、すこしお話しくださりませ。じっくりと拝聴させていただきましょう。

（正末）弟よ、謙遜をしているのではあるまいな。

（王仲略）ほんとうに学問がないのです。偽って謙遜をしているのではございませぬ。

（正末）謙遜をしておらずとも、聖人が人に教えられたことは、仁義礼智と孝悌忠信のみであるのを、そなたも存じているはずだ。これぞまさしく、「能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ふ[20]」もの。天地が開闢して以来、聖賢が伝えた道を、わたしが一遍話すのを、こころみに聴くがよい。

（王仲略）お話しください。お話しください。長いのはよくありませぬ[21]。わたくしを騙されることはできません[22]。

（正末が唱う）

【仙呂点絳唇】太極は初めて分かれ、混沌は剖(さ)け、陰陽は運(めぐ)り、万物は紛紛として、生意(いのち)は窮まり尽くることなし。

（王仲略）このことは、わたくしも存じております。三皇五帝を、最初から終わりまで、お話しください。

（正末が唱う）

【混江龍】天地人三皇は興隆し、軒轅氏となり、はじめて垂裳端冕[23]し、乾坤を御するを得たり。総年数は三百二十七万にして、尊号を称せしは、一百八十余君なれども、おしなべて、唐虞氏の七政[24]をもて暦象を作りあげ、夏后氏[25]の百川を平定し、蒸民を粒(た)てしにしかず[26]。成湯氏は東征し、西は怨みて[27]、文武氏は旧きを革(あらた)め、維(これ)新たなり[28]。周公の礼は百王が兼ね備へ、孔子の道は千古にぞ独り尊き。孟子は空しく性善を諄諄と説きたれど、斉梁を経にけるに信ずるもののなきことをいかで知るべき。嬴秦に到れば儒風はすでに滅びて、これより後は、聖学は湮淪したり。

（王仲略）兄じゃ、これらのことは、わたしも存じていましたが、今はもう半分を忘れました。「貴人は忘るること多し」とはこのことでしょう。兄じゃ、わが朝代のことをふたたびお話しください。拝聴させていただきましょう。

（正末が唱う）

【油葫蘆】高皇は、もとは泗水のしがなき亭長なりしかど、諸侯を率ゐ、西のかた秦に入り、五年足らずで、四海をば掃蕩し、烽塵を絶たれたまひき。かれは言ひたり。功は馬上に成りたれば、多く遜ることなしと[29]、公然と詩書を棄て、訊ぬることなし。儒を穴に埋むることなく、経を焚くことなかりしかども、孝文朝は挟書律[30]をば排除して、天の斯文を喪ぼさざるをはじめて知れり。

（王仲略）兄じゃの仰る通りです。昔からこう申します。「文章は身を立つるによろしく、われを役人たらしむ」と。人が訴えにきたらば、ぴかぴかの純銀を求めましょうぞ。

（正末が唱う）

【天下楽】文章は身を立つるには宜しと言へど、今人はみな名利のために引かれたるべし。翰林院の老人たちのがめつきことも道理なり。

（王仲略）どうしてかれらががめついことが分かるのでございましょう。

（正末）金持ちに才学はなく、才学のあるものに金はなし。金持ちは金帛を持ち、役人たちに面会し、ひそかに役所で言ひ含めたり。試験場へと赴きて、おのおのが省試殿試を行へど、文才の高低を論ずることなし。

（唱う）何句かの上手くなき詩を吟じ、でたらめに一編の文をでつち上げ、人のお金を求めたる奸佞の臣ばかりなり。

（王仲略）わたしのことを譏っているぞ。兄じゃ、御身はひたすらのらくらとされ、功名を望まれませぬ。このようにつまらない長話をして、どうなさいます。

（正末）弟よ、今、人は仕官を望み難いのだ。

（王仲略）どうして仕官を望み難いのでございましょう。

（正末）朝廷のつまらない官職さえも、大官の家の子弟にすっかり占められてしまった。さらに権豪勢要の家があり、三つの役所を、水も泄らさぬかのように押さえているのだ。

（王仲略）いったいどこの三つの役所でございましょう。

（正末が唱う）

【那吒令】国子監にて助教[31]となれる尚書は、かれの友にして、秘書監[32]で著作せる参政[33]は、かれの舅で、翰林院で受験するのは、左丞相の舍人(ぼつちやん)なり。

（言う）よい文章は言うに及ばず、

（唱う）『春秋』のいかにして書かれたるかを知らず[34]。

（王仲略）春秋は、これぞまさしく、農家の仕事。春に種え、夏に鋤き、秋に収めて、冬に蔵うのに、わたしたち秀才が関わってどうするのです。

（正末）そうではない。書物の『春秋』だ。

（王仲略）わたくしは『春秋』を読んでおりませぬ。おそらくは『西廂記』でしょう。

（正末が唱う）『周礼』をば知らざれば、いかで論ぜん。

（王仲略）これぞまさしく、役所の仕事が、下から上へあがることです。県庁が受理せねば、州庁に行き、受理してもらい、州庁が受理せねば、府庁に行って、受理してもらえばいいのです[35]。わたしたち秀才が関わってどうするのです。

（正末）そうではない、周公が作られた書だ。

（王仲略）その書も読んでおりませぬので、存じませぬ。

（正末が唱う）制、詔、誥[36]は、いかにして書くものぞ。

（王仲略）二つのことは、本当に存じませんが、このことは、一応は、し慣れております。訴えをするものに、原告と、被告がおります。[37]

（正末）ますます話がおかしくなってしまったわい。弟よ、なにゆえにこの官職を手に入れたのだ。

（王仲略）それはわたしの運にございます。構われていかがなされる。兄じゃもわたしのまねをして、役人となられませ。

（正末が唱う）

【鵲踏枝】老喬民(おいぼれ)の、かやうなる小猢猻(こざる)をば用ゐしは、恨むに堪へたり。いささかの上辺を取り繕ふことと、「子曰はく詩云はく」をば学びしも、そもそもは、それを借り、役人となることを図らんとしたるなり。かれらは今や役職をすつかり占めて[38]、他人を用ゐず。

（王仲略）兄じゃ、御身はむかしから、少々お節介ですね。官位を求め、受験しにゆかれれば宜しいのです。

（正末）わたしは行けない。

（王仲略）誰も阻んでいないのに、行けないのですか。

（正末が唱う）

【寄生草】鳳凰池[39]への前途を阻み、麒麟閣[40]への裏門を閉づ。たとひかの漢の相如が賦を献ずとも、仕官は求めがたくして、かの賈長沙が痛哭すとも、誰か問ふべき。かの董仲舒の対策[41]も正しく扱はるることはなく、公孫弘も昭文館[42]の虎牢関[43]をば突き破り得ず、司馬遷も編修院[44]の長蛇陣をば打ち破り得ず。

（王仲略）わたくしは、文章がへたくそですが、福分により、年若く、聡明な役人となりました。

（正末）ほんとうに年が若いな。（唱う）

【幺篇】口元の乳臭ささへなほ消えず、頭頂の産毛はなほも存したり。爺羹娘飯(おんばひがさ)の長生運[45]に生れ落ち、兄が先、弟が後の財帛運[46]を行き、加ふるに夫の栄へ、妻の貴き催官運[47]を与へられたり。

（王仲略）兄じゃには、学問がありますが、わたくしの役人の楽しみを学び得ず、わたくしは、本当に、靴(くつ)踪(あと)が朝門[48]を離れることはございませぬ。

（正末が唱う）十年(ととせ)の間、家は富み、息子は甘やかされたれば、かならずや一朝にして馬は死し、黄金(こがね)は尽くべし。

【六幺序】なんぢら親子の代はる代はるに朝廷の貴人となりて、代はる代はるに要職に居りたるは、帝子王孫[49]を瞞けるのみ。猛き力は車輪のごとく[50]、詭計は神のごとくして、なんぢらの、軍民を害したる、苛斂誅求せる臣なるを誰か知るべき。

（王仲略）兄じゃ、わたしは年少ですが、役人となるものたちは、それぞれがみな棟梁の人材にございます。

（正末が唱う）昨今の棟梁の人材は、地べたからわづかに三寸。いかで万里の乾坤を支ふべき。

（王仲略）われわれ多くの役人たちは、みな棟梁の人材にございます。わたくしも才学は十分にございます。兄じゃ、お口を慎まれませ。

（正末）あるとも、あるとも。

（唱う）肥羊法酒(ひやうはふしゆ)[51]を収めたる人皮囤(じんぴとん)[52]、四両の智もあらざれど、肉の重さは千金ぞ。

【幺篇】魔軍(ばけものども)は、なんらの功もあらざるに、画戟朱門[53]、列鼎重裀[54]、赤金白銀、翠袖紅裙、花酒[55]は樽に盈ち、羊と馬は群れを成したり。いづれは天の計らひにより、衣は絶えて、禄は尽き、結末は、かならずや、背を曲げて、体を縮めん。[56]

（王仲略）お怒りになる必要はございませぬ。そのようにだらしなくされ、何のよいことがございましょう。

（正末が唱う）無官にて、道を楽しみ、貧しきに安んじたれば、これらの輩は云云するに足らざるなり。胸一杯に孤憤を懐き、雲居に紛ふ太華をば呑み込まん[57]。

（王仲略）ほんとうに大口を叩かれる

（正末）弟よ、ひとまず別れることにしよう。

（王仲略）お酒を飲んで、楽しんでいる最中に、いったいどちらへ行かれるのです。

（正末）おととし、そなたもいたであろう。元伯の村へ行き、会うことを約束したのだ。

（王仲略）ああ、思い出しました。兄じゃは口が卑しいですね。一羽の鶏、半碗の飯、数杯の酒のため、今から千里の路を行こうとなさるとは。

（正末）大丈夫(ますらを)は、いかでか鋪啜(しよくじ)のためにのみせん。信のため赴けるのみ。

（唱う）人たるものは、話をするに、信を欠くわけにはゆかじ。

（王仲略）兄じゃ、人たるものが、誠実である必要はございませぬ、嘘を言うのがようございます。約束を破っても、たいしたことはございませぬ。

（正末）大丈夫(ますらを)が約束を破ったら、

（唱う）天地を支へ、束髪冠巾[58]するとも徒なり。

（王仲略）わたくしは、この年になり、約束をはじめて破ったのでございます。[59]

（正末）店員どの。二百文の酒代をお払いしよう。

（王仲略）兄じゃ、鶏黍の宴に赴かれるなら、わたくしを連れていってはくださいませんか。

（正末）弟が行きたいのなら、路も知らないだろうから、ともに宴に赴けばよいだろう。（ともに退場）

（老旦が卜児に扮して、張元伯とともに登場、詩）花はふたたび開けども、人にふたたび若きときなし。言ふなかれ黄金は貴しと、安楽は最も価値あり。

わたくしは姓は趙、夫の姓は張といひしも、不幸にも夫は早くに亡くなりて、ただこの子供を残すのみ。山陽の范巨卿どのと友となり、情は金石より堅く、終始改むることぞなき。豺狼の要路にあるを見しために、故郷へ帰らんことを告げ、はやくも二年(ふたとせ)。

（張元伯）母上さま、今日は九月の十五日。おととし、兄じゃは約束をされましたから、本日は、母上さまに挨拶をしにこられます。われらは今から鶏を殺し、黍を炊いで、兄じゃを待つといたしましょう。

（卜児）息子や、二年を経ていて、千里の道であるというのに、なぜあの人を信じるのだえ。

（張元伯）母上さま、兄じゃは至誠の君子ですから、約束を破られますまい。

（卜児）息子や、それならば、わたしは今から鶏と黍を調えるから、外に行き、ちょっと様子を見てきておくれ。

（張元伯）心得ました。門を出た。なにゆえに、今になっても、兄じゃが来るのが見えぬのだろう。

（正末が童僕を連れて登場）わたしは范巨卿、はやくも着いたぞ。童僕よ、馬を繋げ。（見える）

（正末）弟よ、わたしは来たぞ。

（張元伯）話をするのが終わらぬうちに、兄じゃがほんとうに来られた。千里の途を、駆馳するは易からず。

（正末が唱う）

【金盞児】想ふに二載(ふたとせ)、音塵(たより)をば隔つれば、千里にともに打ち沈みたり。

（張元伯）兄じゃは会いに来られぬものと思いましたが、今日があろうとは思いもよりませんでした。

（正末が唱う）わたしは天つ風に乗り、山陽郡を飛び出でばやと想ひたり。兄弟の誼はまことに深からん。堂に昇りて、母御前にご挨拶申しあげ、尊酒もて、つぶさに文を論ぜんがために来たれり。そのむかし、鶏黍の約がなかりせば、本日は、わたしが志誠の人なるを誰か知るべき。

（言う）弟よ、王仲略は官職を得て、わたしとともにこちらに来たぞ。

（王仲略）兄じゃ、少々お待ちください。

（正末）わたしはこちらで待っていよう。元伯よ、若さまとお会いするのだ。

（張元伯）お入りください。若さまの大いなる喜びをお祝いもうしあげましょう。お二方、わたくしの再拝をお受けください。

（拝礼をする。王が受ける）痛み入ります。痛み入ります。挨拶をお返しもうしあげましょう。かつて言ひたり。「官職は年齢に勝るもの」と。

（張元伯）そのとおりです。

（正末）立たれませ。立たれませ。元伯どの、お母さまをお招きし、ご挨拶させてください。

（張元伯）母親は草堂におりまする。兄じゃ、ごいっしょに中に入って会いましょう。（中に入り、卜児に拝礼をする）

（卜児）巨卿さまは千里の路を会いに来られて、まことに信義の士にございます。

（正末）山陽の一介の寒儒にて、無智蒙昧、孤陋寡聞、ご老母の分け隔てなきことに感謝いたさん。わたしと弟元伯は、死生の交はりをしぞ結べる。この恩徳は、生くるも死ぬるも忘れ得じ。

（卜児）息子や、今日は兄じゃがかならず会いに来られると申していたが、本当にお見えになった。おまえの言っていたことは、ほんとうにその通りだった。

（正末が唱う）

【酔中天】母御前は、言ふことは、ほんたうにその通りなりと言ひたり。わたくしは半時を違ふることなし。

（卜児）息子や、村のお酒と、鶏と黍のご飯を持ってきて、お兄さんに召し上がっていただきましょう。（並べる）

（正末が唱う）わたくしは誠実なれど、御身はさらに誠実なりき。

（張元伯）兄じゃ、われらがどうして誠実なのです。

（正末が唱う）御身ははやくも美味を調へ、佳(か)醞(うん)[60]を漉せり。

（言う）童僕よ、持ってくるのだ。山陽は淮楚[61]の地、とりたてて珍しい物はございませぬ。新しい魚の粕漬け数包み、新しい橙百個、黄の絲絹(きぬのぬの)一疋は、愚妻が手ずから造ったものです。ご老母さまにご笑納していただければ、幸いにございます。

（卜児）このようなお気遣いはご無用にございます。

（正末が唱う）粗末なる贈り物より、ほかには何も差し上ぐるものはなきなり。

（卜児）丁重な下さり物にお礼を申しあげまする。息子や、お酒を持ってくるのだ。

（正末が唱う）母上さま、お気遣いには及びませぬ。

（卜児）巨卿さま、遠路お運びいただきまして、ありがとうございます。

（正末が唱う）大した路ではございませぬ。

（王が外で怒る）いつまで話しをしているのです。師走だったら、かかとが凍えてしまいますよ。

（正末）ああ、仲略どのが外にいるのを忘れていました。

（卜児）どうぞ、どうぞ。

（王が中に入る。正末）若さまは杭州の僉判にございます。

（卜児が拝礼をする）若さま、ようこそ。

（王仲略）ご老母さま、痛み入ります。痛み入ります。挨拶をお返ししましょう。「官職は年齢に勝るもの」。京師から、贈り物を持ってきました。ご老母さまにお送りしましょう。（小道具を取る[62]）

（正末）母上さま、わたくしは荊州刺史と会う約束をいたしました。約束を破るわけにはまいりませぬから、明日の五更に出発をいたします。晩酌の後、お別れの挨拶をすることはできないでしょう。わたくしの拝礼を受けられますよう。（拝礼をする）

（卜児）ごゆるりと何杯か飲まれませ。わたくしはみずから用意をいたしましょう。（退場）

（正末）弟よ、酒の肴を持ってきてくれ。この麗しい景色に対し、気を晴らし、楽しみを尽くし、夜を明かし、明日別れることにしよう。（唱う）

【金盞児】黄菊は清芬[63]を吐き、白酒はまさに清醇なり。相逢へば万の事を問ふなかれ。想ふにわれらは別れは多く、会ふは少なき百年(ももとせ)の身ぞ。

（張元伯）黍飯を持ってきてくれ。

（食事をする。正末が唱う）鶏を烹ば、まさに美味、黍を炊がば、あたかも初物、吾は餓ゑたる陳仲子[64]、汝(な)は太つ腹の孟嘗君。

（王仲略）幾杯も飲まないうちに、もう夜が明けた。旅人は路を急ぐもの。兄じゃはゆっくり行かれませ。わたしは先にまいりましょう。兄じゃ、わたしは連れもなく、旅路では、みずからご飯を作って食べておりまする。お菓子とおかずは、わたくしが持ってゆき、旅路で食べるといたしましょう。（つまみを取り、唐巾に入れ、被り、衣を掲げ、竹筒を取り、酒を入れ、退場）

（張元伯）兄じゃ、今年がおわり、来年の九月十五日になりましたら、わたしは兄じゃの家に行き、鶏黍の宴をいたしましょう。

（正末）弟よ、来るのなら、山陽ではなく、荊州の城外にゆき、わたしを尋ねよ。母上さまには起きていただくわけにはゆくまい[65]。

（張元伯）兄じゃ、わたしと兄じゃは、いつ功名を得にゆきましょう。

（正末）男子漢(ますらを)は功名を念はざることなきにはあらねど、豺狼が要路にあるにぞ得堪へざる。ただ家で、母御前に、孝養を尽くすにしかず。弟よ、「忠を尽くさば孝を尽くすは叶はず」といふを聞かずや。（唱う）

【賺煞】礼義は国の綱にして、孝悌は人の本なり[66]、天爵[67]を修めなば、その道は、自づと尊し。溪(たにがは)のほとりの青山、城外の村をめぐりて、なんぢとわれは、いささかの、価値のなき、狗彘鶏(くていけい)豚(とん)を養ひ、日々萱親(ははうへ)に奉り、笑みつつ児孫を引かしめば、これぞまさしく、羲皇以上の人[68]たらん。

（張元伯）兄じゃ、人がわたしを推薦したら、行くべきでしょうか。

（正末が唱う）詔勅を届け、戸を叩き、玄纁(げんくん)をもて招くとも、とりあへず柴扉を掩ひ、枕を高くし、白雲にしぞ臥すとせん。（ともに退場）

 

第二折

（卜児が旦、子役とともに病になった張元伯を扶けて登場、元伯）わたしは張元伯、兄ぢやと別れてより後に、まだ一年(ひととせ)を経ざりしに、はからずも病となりて、あらゆる薬も、癒すあたはず。あきらかに、わが病(いたつき)は、天を見るには遠くして、地に入るに近くして、ほどなく死ぬることならん。妻よ、わたしがしつかりしているうちに、御身に言い含めるとせん。母ぢやもそばに来られませ。

（卜児）息子やしっかりしておくれ。

（張元伯）母上さま、わたくしが死んだ後、幾日か、そのままにしておいてくださいまし。巨卿兄じゃがいらっしゃり、喪主をされ、埋葬をしてくださるなら、わたくしの霊車は動き、口と眼は閉じましょう。もしも兄じゃが来られなければ、霊車は動かないでしょう。母上さま、頭がぼんやりしてまいりました。わたくしをお扶けください。わが妻よ、母上さまをよくお世話して、子の面倒をみるのだぞ。

（詩）涙は盈盈、遺嘱して自ら嘆き、意は遅遅として、恨みを懐き、漫りに思案す。荊釵[69]の婦(つま)は青春[70]の子をよく世話すべし。白頭の母ぢやは先に、若き子を哭したまへり。（死ぬ。退場）

（卜児）息子が死んだ。おまえのせいでとても悲しい。

（旦）とても悲しゅうございます。

（卜児）息子が今日言い含めたが、巨卿さんが来て、喪主となり、埋葬をされるのを待たねばならないとのことだ。千里の道のりなのだから、巨卿さんのところへ手紙が届きはすまい。息子をひとまず棺に入れ、七日過ぎたら、日を選び、埋葬しよう。元伯や、おまえのせいでほんとうに悲しいよ。（ともに退場）

（外が第五倫に扮し、従者を連れて登場、詩）龍楼鳳閣九重の城、新たに沙堤[71]は築かれて宰相は行く。わたしが貴く栄ゆとも羨むなかれ、十年前は一書生なりしかば。

わたくしは、復姓は第五、名は倫、字は百兪、京兆は長陵の者。漢の光武の建武元年、かつて京兆尹となり、長安の事をもつぱら司りたり。平素より公直廉介、市に奸邪はあらざりしかば、その後に、淮陽王の医工長[72]にぞ補せられし。淮陽王が入朝するや、それがしは属官として隨ひて、光武に見ゆることを得り。政事を問はれ、それがしが答ふるや、帝は大いに悦ばれたり。明くる日に、また特別にわたしを召され、夕までともに語られ、それがしを扶夷長[73]としたまへど、いまだに任には赴かず、つひで会稽太守を拝せり。政(まつりごと)は清廉にして、恩恵を施したれば、民草はわれを愛せり。明帝[74]が即位したまひ、永平と改元するや、それがしは遷されて蜀郡の太守となれり。十八年して、司空に補せられ、今は吏部尚書となりて、聖上の御諚を奉ぜり。試験の公正ならざるがため、国学[75]の書生らは、理由をつけて、多くは帰郷し、仕官せんとはせざりけり。まして各地の山間林下の、賢人君子は、多くは姿を晦まして、名を隠し、賢門[76]は閉ざされたれば、聖上はわたしに命じ、荊州などの地を訪ねしめ、各州県に、文武に秀でし棟梁の人材あらば、選抜し、入朝せしめ、人物を見て、擢用せしむることとなされり。荊州に行き、一年と半年を経にしかど、所属せる郡と県より挙げられし人材をたえて見るなし。わたしは近ごろ、山陽は金郷の人、姓は范、名は式、字は巨卿てふもののあるを聞きたり。この人は、もともとは、国子監生なりしかど、試験の公正ならざるがため、別れを告げて、帰郷して、父母(ちちはは)を改葬し、この地に隠れ、家を閉ざして、読書して、官府との交はりを絶てるものなり。それがしは、しばしば人を遣はして、手紙を持たせ、招聘せしめど、仕官せんとはせざりけり。本日は閑なれば、印信牒[77]を佐貳官[78]にやり、駆馳を避けずに、范式の家に行き、みづから訪ぬることとせん。この人がもし役人となることを諾はば、朝廷に推薦し、柱石の臣となし、わが一点の国のため賢者を求むる思ひを示さん。部下よ、いづこぞ、馬を引け、本日は范式の家に訪ねてゆくとせん。（退場）

（正末が童僕を連れて登場）わたしは范巨卿、山陽を後にして、この荊州の城外にやつてきて、家を閉ざして、書を読みて、官府と交はりをば絶てり。本郡の太守は第五倫といひ、幾たびもわたしを招き、吏を掌る功曹[79]たらしめんとせり。この趣きは善かれども、いかんせん、豺狼は要路にあれば、山林に隠居する良さにはしかず。わたしは仲尼の言ふを聞きたり。「邦に道あらばすなはち仕へ、邦に道なくばすなはち巻きて懐(いだ)け」[80]とは、まさに今なり。（唱う）

【南呂一枝花】天が仲尼を生まずんば、万古長夜のごとくあるべし。秦灰(しんくわい)はなほ冷めやらで[81]、漢道[82]もまた衰へり。奸邪は目に満ち、天は斯文を喪ぼせり。今日の秀才たちは、悪運に遭ふ。刀筆の吏[83]は省に入り、台(うてな)に登りて、屠殺屋は侯に封ぜられ、建節したり[84]。

【梁州第七】今やかの蕭丞相[85]は出しやばりて、魯諸生[86]も、口を緘ぢざることを得ず。古今の人の優劣を分かちなば、官吏は顕達をば誇り、儒者は修潔[87]をひけらかしたり。舜庭の八凱[88]と、孔門の十哲と、かの漢国の三傑[89]と、中興[90]以後の三絶[91]あれど、今やかの憲台[92]は荒れ、乱滾滾(らんこんこん)として豺狼は要路にぞある。試験は乱れ、絮叨叨(じよたうたう)[93]として月に日に俸禄を受く、禹門は深く[94]、眼睜睜(がんじようじよう)[95]としたれども龍蛇[96]を辨ぜず、紀綱は廃れ、炎炎とした漢火[97]はほどなく滅すべし。風節を尊べる士大夫は、寸草をもて巨鉄に打ちあたるがごとく、むなしく摧けん。

（第五倫が登場）話していると、はやくも着いた。部下よ、いずこぞ、馬を繋げ。童僕よ、取り次いでくれ。第五倫が折り入って訪ねてきたと。

（童僕が報せる）五丞相さまが入り口にいらっしゃいます。

（正末）どうしてはやく言わぬのだ。（唱う）

【隔尾】高車[98]の来るを見、履物を逆さに履きて、いそいで迎ふるよりほかはなし。

（第五倫）私事(わたくしごと)で来たのではなく、聖上の御諚を奉じ、折り入って、賢士を招きにきたのです。

（正末が唱う）聴くならく、君命により至れりと。われはますます、襟を開きて逃るるを得ず。入りたまへかし。

（第五倫）雷が耳を貫くかのように、ご高名を、長いこと、承っておりました。このたび一目お会いできましたのは、ほんとうに、三生の幸いにございます。すみやかに白衣を脱がれ、ともに帝闕(みやゐ)に向かいましょうぞ。

（正末）わたくしは、才学拙く、ある品物を売るのに似ており、手を出されてはなりません。

（第五倫）何を売るのに似ているのでしょう。

（正末が唱う）雪練(せつれん)[99]のごとき狐裘を売れど、まことに暑きときに遇ひたり[100]。元手を損はぬために、手にとらば、たちまちに手放すほかなし[101]。

（第五倫）わたくしは、わざわざ買いに来たのです。

（正末が唱う）もともとは、高値にて売らんとすれど、いかんせん、この物は、時期に外れり。

（第五倫）賢士どの、そう仰いますな。御身は自ら功名を、得ようとはなさりませぬが、昔から今に至るまで、運が去ったり、運が向いたり、進んだり、退いたりするのは、よくあることにございます。強情に、冠を掛けることを高尚であるとされ、檄を捧げることを卑屈であるとなさってはなりません。

（正末が唱う）

【牧羊関】想へば昔、東都門なる逢萌[102]は冠を掛けしことなし[103]。

（第五倫）賢士どの、檻(おばしま)を折った朱雲[104]に学ばれるのはいかがでしょうか。

（正末が唱う）つねに宮居に向かひし朱雲は檻(おばしま)を折りしことなし。

（第五倫）霊輒は一飯に必ず酬ひたりしかば、壮士なり。

（正末が唱う）桑樹の下に、桑の実を食べ、霊輒は噎び死にたり。

（第五倫）孫叔敖[105]は海浜に挙げられて、上卿の位に至れり。

（正末）滄海のほとりにて、孫叔敖は苦しみにむなしく十年(ととせ)耐へたりき。

（第五倫）管夷吾は諸侯に覇となり、天下を一匡いたしましたぞ。

（正末が唱う）囹圄の内に、管夷吾は、むなしく餓ゑて、首を斬られぬ。[106]

（第五倫）賢士どの、かの張子房を学ばれて、功を成しとげられた後、職を棄て、山に帰られても遅くないでしょう。

（正末が唱う）赤松嶺[107]にて張子房は帰路に迷へり。

（第五倫）范蠡は越を霸たらしめ、舟を江湖に泛べましたが。

（正末が唱う）洞庭湖にて、范蠡は、木の杭を腐らせり[108]。

（第五倫）殷の伯夷は薇を採って、首陽で餓えるに甘んじましたが、おのずと理由があったのです。

（正末が唱う）首陽山にて殷の伯夷は持ち堪へ、肥え太りたり。

（第五倫）楚の屈原が、ひねもす独り醒めていたため[109]、江に投じて死んだのは、大したことではございませぬ。

（正末が唱う）汨羅江にて楚三閭は酔ふて転べり。

（第五倫）御身は儒門の俊秀で、藝苑の菁華[110]ですから、芸(うん)窗(そう)[111]に燻(くすぶ)って、茅舍に甘んじることはございますまい。わたくしに言わせれば、仕官して栄達し、功名を立てられるのが、正しい道というものにございます。

（正末）わたしに何の才能があり、推薦をしていただけるのでございましょう。（唱う）

【隔尾】垣を逾えたる段干木[112]の強情ならざる、釣竿を垂れし厳子陵の愚昧ならざるに学ばんとせり。閣を開ける公孫弘[113]の茅舍に到るも徒ならん。

（第五倫）傅説は板築したれども[114]、高宗が太宰に封ぜしは、まさに古今の盛事なり。

（正末が唱う）わたくしの才は傅説に及びますまい。

（第五倫）御身の才は、蒯徹の下では断じてございませぬ。

（正末が唱う）弁は蒯徹に及ばず。

（第五倫）賢士どの、このたびまいりましたのは、もっぱら御身を招聘し、役人にするためにございます。

（正末が唱う）進むも退(ひ)くも名は揚げられず、人をして笑ひ話を語らしむべし。（正末が眠る）

（第五倫）寝てしまわれた。とりあえず、あの古い樹の下にゆき、遊覧しよう。童僕よ、御身の主人が目覚めたら、わたしはふたたび話しにこよう。（退場）

（張元伯が登場）わたしは張元伯。范巨卿兄ぢやとお別れせし後に、不幸にも死し、黄泉路に帰せり。わたしはかつて遺言をせり。巨卿兄ぢやがいらつしやり、喪主となり、埋葬をなされなば、わたくしの霊車は動き、口と眼(まなこ)も閉づべけれども、兄ぢやがもしもいらつしやらずば、霊車は動かざるべしと。母ぢやは年老い、妻はか弱く、子供は幼く、門に倚りつつ、眺めたり。千里の道を隔つれば、兄ぢやはご存じなかるらん。今日の正午に兄ぢやの夢枕に立つて、事情を知らせることとせん。

はやくも着いたぞ。（叫ぶ）巨卿兄じゃ。

（正末が目覚める）元伯のことを思うていたら、思いがけなくやってきたわい。（唱う）

【罵玉郎】平安を告げ知らす手紙は断えて、三月(さんげつ)に連なりて、心はまさに穏やかならず。たちまちに聴く、童僕の吉報を告げ、声高に話せるを。わが弟はいづこにありや、わたしは御身をみずから迎へん。（会う、唱う）覚えず人は歓びを添ふ。

【感皇恩】弟よ、両つ処に別れてこのかた、千里の途はまことに遠きものなりき。

（張元伯）兄じゃ、お下がりになられませ。わたしの心の悲しみを、御身はご存知ございますまい。

（正末）弟よ、なぜそのように悲しんでおる。

（唱う）隔たりて、路は迢迢、山は遠きと近きにありて、水は重畳。

（張元伯）兄じゃ、もうすこしお下がりください。

（正末が唱う）門に迎へて尋ぬれば、かれはわたしを避けて隠れり。われら二人は友なれば、他人より極めて親しきものなるに。

（言う）弟よ、入っておくれ。

（張元伯）兄じゃ、もうすこしお下がりください。

（正末が唱う）

【采茶歌】いささか進み出んとするや、かれはわたしをかたく阻めり。

（張元伯が顔を覆う）兄じゃ、もうすこしお下がりください。

（正末が唱う）ただ見る、かれの衫の袖をば折り曲げて、顔を遮ふを。

（張元伯）兄じゃ、わたしの心の悲しみを、御身はご存知ございますまい。

（正末）弟よ、

（唱う）「心に掛かる事あれば咽べり」といはれたれども、なにゆゑかやうに黙(もだ)し、うなだれ、悲しめる。

（張元伯）わたしはわざわざ兄じゃを訪ねてきたのです。

（正末が唱う）

【哭皇天】訪ねてくれて、ありがとう。

（張元伯）兄じゃのお顔を見ることができましたから、帰りましょう。

（正来）どうしてすぐに帰るのだ。

（張元伯）わたしはこれで帰ります、

（正末）どこへ行くのだ。

（唱う）書房の門を慌てて閉ぢて（張を引っ張り、唱う）袂をきつく引きとめり。

（張元伯）兄じゃ、手を放してください。御身は生者、わたくしは幽霊なのです。わたくしは死んだのでございます。

（正末が哭き、唱う）誰か想はん、御身がこたび死にたりしとは。想へばわれらは同じ家にて勉学し、読書して、帝闕にともに向かひて、功名をともに建つるを望みたり。御身はいまだ四旬(よそぢ)に到らず、一事も成らず、老母、妻子を捨て去れり。なにゆゑぞ、このわれを、このわれを棄て、死にたるや。このたびは相逢へど、このたびが永の別れぞ。（哭く）

（言う）弟よ、わたしはそなたといつまた会えるのであろう。（唱う）

【烏夜啼】われら二人がふたたび逢ふは、水底(みなそこ)に明月を掬ふがごときものならん。兄弟の情はすべて帳消しとなる。

（張元伯）わたくしは死にし時、遺言をして、老いたる母に言ひ含めたり。わたくしを幾日か余計に停め、兄ぢやが来られ、喪主をされなば埋葬すべし、兄ぢやがもしも来られずば、わたくしの霊車は動かず、墓に入らずと。はからずも、老いたる母は、五日後を選ばれて、葬儀を出さんとせられたり。家では母は年老いて、妻はか弱く、子供は幼く、身をば寄すべき処なし。兄ぢやよどうか、老いたる母と妻子の世話をされよかし、これぞまさしく友人の誼なるべし。

（正末が唱う）平素の想ひをつばらかに言ひ含むるに、喋喋とするなかれ。しばらく待つべし。

（張元伯が末を推す）兄じゃ、夢の中なりとな想ひたまひそね。（退場）

（正末が唱う）そもこれは、荘周の夢を蝴蝶の破るなり。

（言う）ああ、夢だったか。童僕よ、今はいつ頃だ。

（童僕）午の刻にございます。

（正末）まさに日は正午に当たり、寅夜(いんや)[115]にあらず。（嘆く）惜しむべし、元伯は一代の奇才なりしに、志をぞ遂げざりし。

（唱う）定めなるかな、かのひとは、子を失ひし老いたる親と、父のなき幼子を置き去りにせり、

（悲しむ）弟よ、そなたが死んでまことに悲しい。

（第五倫が登場）わたしはまさに古樹を撫で、しばしもとほり、草堂に賢士の哀しみたるを聴く。何ごとならん。（見る）賢士どの、なにゆゑぞ哀しまれたる。

（正末）失礼つかまつりました。弟の張元伯が死にましたので、哀しんでいるのです。

（第五倫）お気の毒に。手紙を届けた人はどちらにいらっしゃるのです。

（正宋）手紙を寄せた人はいませぬ。

（第五倫）手紙がないなら、どうして張元伯どのが亡くなったのが分かったのです。

（正末）ご存じございますまいが、わたくしは、かねてから、汝陽の張元伯と生死の交わりを、結んでいたのでございます。さきほど御身と話しをし、頭がぼんやりしたときに、元伯が夢で報せにきたのです。元伯は病で亡くなり、五日後に埋葬されることとなり、わたくしが行くのを待っているのです。老いたる母御と、妻と子は、家で悲しみ、待っていますから、わたくしは、長旅に出なければなりませぬ。

（第五倫）賢士どの、それは違います。御身は平素、弟さんを思われていらっしゃるので、かような夢を見られたのです。諺に申します。「夢は心の想い」だと。この事は、真か嘘かはっきりしませぬ。おそらくは、邪な神々が、御身に供物をねだりにきたのでございましょう。

（正末）わが弟は、約束を決して破りはいたしませぬ。わたくしは喪服を着けて、葬式に駆けつけましょう。（唱う）

【三煞】奠楹(てんえい)[116]に夢は断たれて、陰風は凄まじく、『薤露歌』は傷ましく[117]、惨日[118]は斜めなり。かのものは、かねてより、正しき性(こころ)で、邪(よこしま)に隨はぬ、凛凛たる英雄(ますらを)にして、神のごとくに、剛毅かつ猛烈なりき。

（第五倫）邪な神々が、御身に供物をねだったのでしょう。深くお信じになられてはなりませぬ。

（正末が唱う）かのものは、夕(ゆふべ)の餓鬼、饕餮[119]にはあらず。かのものは、真昼にしかと顕れたれば、何ぞ真偽を尋ねんや。

（言う）童僕よ、頼みがあるのだ。（唱う）

【二煞】旅費なくば、証文を書き、隣家より借り、布なくば、現金を持ち、大通りなる店に行き、買ふがよし。

（第五倫）葬儀に駆けつけ、弔問をなさりたいなら、馬を御身に差しあげて、おみ足の代わりにしますが、いかが思し召されましょう。

（正末）お礼を申しあげまする。

（唱う）乘る馬を貸されしに。

（第五倫）賢士どの、いつ戻られる。

（正末が唱う）千里の路は少なくも、往復に三月(みつき)を要せん。かのものは、はや凶事(まがごと)に遭ひたれば、わたくしは功(いさを)を求むることぞなき。

（第五倫）御身を推挙し、吏を掌る功曹といたしましょう。

（正末が唱う）吏を掌る功曹は、どなたの空きでございましょう[120]。ほかに力のある豪傑を求めらるべし。

（第五倫）賢士どの、御身ら二人の交わりは、なにゆえかくまで厚いのですか。

（正末が唱う）

【黄鐘尾】陳雷の膠漆よりも、情はさらに厚くして[121]、管鮑の分金よりも、さらに勝れり。張元伯は、性は忠烈、范巨卿(わたくし)は、信義の士なり。半世の交はりありしも、夢は絶えたり。覚めたれば、涙は血をぞ流したる。寸心(こころ)は悲しく、五情[122]は裂けり。功名ははや顧みず。明日になりなば、何をか避くべき。残星を披(き)て、暁月を帯び、寒風を衝き、凍雪を冒すべし。喪服を着、輿車を拽き、墓を築きて、廬舍[123]を建つべし。松揪[124]を植ゑ、四野を覆はん。そのときもなほ、思ひ切られず。たちまちに、在りし日を思ひたり。わたしはかれといつしよに進み、いつしよに休み、悲しみはともに憂へて、楽しみはともに悦び、生きては堂を同じうし、死しては穴を同じうし、黄泉路まで、相共にせん[125]。平生の、願ひを貫きたるにより、後人は、墓門の前に、高々と碑碣を立つべし。

（第五倫）賢士どの、碑(いしぶみ)に何を書かれるのでしょうか。

（正末が唱う）死生の交はりを結びし、范張の姓名を記すべし。（退場）

（第五倫）賢士は行ってしまったわい。この件は、嘘か真か定かでないから、あちらに人を遣わして、探らせることにしよう。真であるなら、わたしにはおのずから考えがある。部下よ、馬を引け、ひとまず私宅に帰るとしよう。

（詩）世の人は、友となるには黄金(こがね)を求め、黄金が多くあらずんば、交はりは深きことなし。巨卿はみづから張元伯を葬りて、悠悠[126]たる生死の心[127]を示すべし。（退場）

 

第三折

（卜児が旦、子役、隣人たちとともに輿車を動かして登場）わたしは張元伯の母親。息子が亡くなり、はやくも七日目。臨終の時、息子が言うには、范巨卿兄じゃが来たら、喪主をさせ、埋葬させよとのことだった。道が遠く、手紙を届ける人もない、今日は吉日、とりあえず埋葬し、范巨卿さまが来てから、葬儀をしても構うまい。

（隣人たち）お婆さん、この輿車は進もうとせず、曳いても動かなくなりました。親戚たちにも助けてもらい、引かせましょう。

（衆が引くが動かない）さらに多くの人を添えても、ますます動かなくなった、

（卜児）みなさまはご存じないのでございます。臨終の時、息子が言うには、范巨卿さまが来られたら、霊車は動き、はじめて墓に入るのを承知するとのことでした。しかし千里の道のりを、どうしてすぐに来てもらうことができましょう。

（隣人たち）われらが曳いても動きませぬから、ご老人、見張りをなさっていてください。われらはひとまず家に帰って、ご飯を食べて、ふたたび曳きにまいりましょう。（退場）

（正末が馬に騎って登場）わたしは范巨卿、元伯の葬儀に駆けつけ、弔問しようとしているが、旅路はまことに寂しいものだ。（唱う）

【商調集賢賓】弟よ、二十年(はたとせ)、死生の交はりをなし、志をばともにする友なりしかど、われら二人は、ふたたび永く会ふに由なし。魂は孤雲に伴ひ、冥冥杳杳、悲風に乗じ、蕩蕩悠悠。わが袖の絲(し)鞭(べん)[128]をば砕けぬことぞ恨めしき、歩き疲れて、われは驊騮に腰掛けり。弟よ、そなたのために、まる三昼夜、水漿(のみもの)さへも口にせず、旅路では、しばしも留まることぞなき。身に着けたるは、絲麻三月(しまさんげつ)の服にして[129]、心には今古一天の愁へ[130]を懐けり。これぞまさしく、心は急くも馬の歩みは遅ければ、また幾たびか鞭を加へん。（唱う）

【逍遥楽】打たるれば、この馬は、びゆうびゆうと、風のごとくに馳せたれど、山裾をいつかな回りきるを得ず。村を眺むることを得ず、いづこか故塚新丘(こちようしんきう)[131]ならん。天を仰ぎて号哭すれば、咽喉は裂け、加ふるに、梢にて、陰風の止めどなく吼ゆるに得堪へず。折も折、荒れたる村に雪は霽れ、雲は収まり、たちまちに聴く、哭き声の咽べるを。はるかに望むは、旛影(はたかげ)の飄へりたる。眼に見るは、亡き魂(たま)のなほ留まれる。

（言う）はるかに聴けり、人々の騒げるを。元伯の柩ならんか。ああ、ただ見るは、旛の文字、張元伯の引魂の旛と記せり。本当に亡くなりたるや。（馬を下り、車の前に行き、哭く）

（卜児）巨卿さまだったのですね。夢ではございますまいか。

（正末が唱う）

【金菊香】三生の夢は断たれて、九泉は幽(うすぐら)し、弟よ、誰か想はん、一朝にして無常となりて、万事休することあらんとは。

（卜児）巨卿さま、大勢の人が曳いても、柩が動かないのです。

（正末）霊車が動かないのは、

（唱う）母御前と妻と子が残られしためにあらずや。お三方のことはわたしが引き受けたれば、そなた[132]は身罷りたる後に、憂ふるなかれ。

（哭く）弟よ、ほんとうに悲しいことだ。

（隣人たち）巨卿どの、悲しまれませぬよう。

（正末）母上さま、供物を並べてくださいまし。旅路で弟を思い、一編の祭文を作りましたので、弟を祀りましょう。

（祈る）維(これ)永平元年、歳次(とし)は戊午(つちのえうま)にして、十月(かんなづき)癸亥(みずのとい)の朔、五日を経なば丁卯(ひのとう)なり。不才范式、謹んで清酌(せいしやく)[133]と庶饈(しよしう)[134]を以て[135]、張元伯の柩を祭らん。公(きみ)は三十(みそぢ)にして名を成せど、四十(よそぢ)となるも仕進せず、独りその身を正しうし、もつぱら母御の訓へに遵ひ、至孝至仁、無私無遜[136]、功はいまだ立てざるに、壮年にして寿(いのち)は尽きたり。ああ、元伯の魂は、九泉に帰す。吾は今、世にあれど、詔をば蒙らば、公(きみ)の徳をば、帝の御前(みまへ)に上奏せん。門に綽楔(しやくけい)[137]をば置きて、墓頂にて官を加へん。われら二人は友となり、万載を期したるに[138]、嗚呼哀しい哉。伏して惟(おも)ふに、尚(ねが)はくは享けよかし。（哭く、唱う）

【梧葉児】孝廉に挙げられて、三たび招かれ、文才は一流なりき。われは思へり、汝(な)は宰相に任ぜられずば、かならずや諸侯に封ぜらるべしと。滄海に魚龍の騰る夜(よ)、西風に雕鶚の飛ぶ秋なるに[139]、一たび去りて還ることなし。われは悲しみ、天地(あめつち)のとこしへなるをいよよ感ぜり。

（言う）みなさん、棺を開けてください。わたくしは見てみることにいたしましょう。

（卜児）なりませぬ。死んでからずいぶん経っておりますから、死臭が鼻を衝くことでしょう。

（正末）母上さま、死臭のために死んだとしても、弟といっしょに葬られた方が、ようございます。

（衆が棺を開く。正末が看て倒れ、唱う）

【掛金索】亡き骸を見れば、面(おもて)は茶色に乾き、すつかり痩せり。刀もて、わが心(むね)を、掻き乱さるるかのごとく、痛みには耐へ難きなり。恨めしや、この一月(ひとつき)、人の訪(とぶら)ふことなきを。はやくも知れり、御身の病の膏肓にあることを知らませば、命を捨てて、御身を救ひたらましを。

（卜児）巨卿さま、千里を隔てておりましたので、お知らせいたしませんでしたのに、どうして知られたのでしょう。

（正末）草堂で、第五倫大人と話していますと、ぼんやりとして、弟が夢に立ち、その死を告げるのを見たのです。たちまちに目が醒めますと、夢でしたので、徹夜でやってきたのです。弟は前もって顕われたのです。

（卜児）かように珍しい事は、古今に稀にございます。どうぞお話しくださいまし。

（正末が唱う）

【村里迓鼓】弟よ、汝は黄泉に埋もれて、吾をして紅塵に奔走させたり。世の人は幾人か徳を全うするを得ん、幾人か寿(いのち)を全うするを得ん。惜しむべし、腹中の大才と、胸中の清気との、みな江山の秀となれるを。残されしこの吾は、急急として、網より抜けし魚(うを)のごと。呀呀(がが)として、群れに逸(はぐ)れし雁のごと。忙忙として、喪家の狗のごときなり。

（言う）この夢に、

（唱う）覚えず人は悲しみて、頭を痛ます。

（卜児）夢を見られたことのほか、験(しるし)はございましたでしょうか。

（正末が唱う）

【元和令】幾日か前、大いなること斗のごとき長星[140]が落ち、流光が射し、夜なりしかど、昼にぞ似たりし。そもこれは、賢人を喪ひて、地の嘆き、天とともにぞ愁へたるらん。空しく余すは、剣をば掛け尽くしたる、汝陽の城外の柳なり[141]。青山の頂も白くなり[142]、街ぢゆうの人々は、雨の涙を流すべし。

（隣人たち）巨卿どの、大勢の人が曳いても、霊車は動きませんでしたのに、このような霊験があろうとは、思いもよりませんでした。

（正末が唱う）

【上馬嬌】一舟[143]の人はもちろん、万牛の力もて、曳けども輿車の軸は動かず。

（言う）弟よ、

（唱う）汝(な)が陰魂(なきたま)は、耿耿として吾を待ちたり。願ひは叶ひたりぬれば、汝が霊(たま)をしばし鎮めよ。

（隣人たち）ものすごい風だ

（正末が唱う）

【遊四門】さらさらと、陰風は吹きて冷たく、ぎゆうぎゆうと頭髪は人に引かるるかのごとし。静悄悄たる荒林曠野は申の刻、昏惨惨たる落日は城頭に墜ち、乱紛紛たる寒雁ははや汀へと下りたるなり。

【勝葫蘆】野草閑花は満地に愁へり。汝(な)はなどて墓に入るなく、かの一二千人をしてむなしく後に従はしめたる。これぞまさしく、親戚、旧知、情薄きもの、情厚きものを弁ずることのなきなり[144]。

（言う）弟よ、

（唱う）白頭となるまでともにあるは叶はず。もう一度、酒をもて、弟に捧ぐるとせん。

（唱う）

【後庭花】祭酒[145]を五六斗まで捧げ、挽詩は十数首まで吟ぜり。惜しむべし、風雲の気[146]は散じ、経済の手[147]の埋(うづ)もれたるを。われら二人の交はりは、諸人と同列にはあらず[148]。名声を世に広め、虹霓を吐き、斗牛を貫く。商嶺[149]の頂の白雲に臥し、渭水の秋の西風に釣したり。厳光を笑ひ、許由に驕れども、今となりてはすべて帳消し。

（言う）弟よ、そなたは今日、葬られた。（唱う）

【青哥児】功名を成就せしことこそなけれ、すでに世情を知り尽くし、一介の貧乏儒者は万戸侯にも勝れりとせり。今ははや、身罷りて、人は死し、留まることなし。意気相投じたりければ、汝(なれ)はわが心の憂へたるを知るべし。来年は神州(みやこ)に赴き、清修と高節[150]を、白玉の階の前に冕旒[151]をば拝し、ねんごろに上奏すべし。

【梧葉児】ああ。このやうに、先祖、子孫を輝かするを、亡き霊は知れるやいなや。

（言う）弟よ、霊あらば、わたしとともに墓へ行けかし。霊なくば、曳くとも動くことなかれ。

（霊車を引き、唱う）われはみづから霊車を引けり。

（隣人たち）これは異なこと。霊車が動いた。

（正末が唱う）一つには、神明が助けたるなり。二つには御霊(みたま)が軸を推せるなり。弟よ、後に隨へ。後に隨へ。

（唱う）なんぢを曳きて墓に到らん。

（隣人たち）はやくも墓に着きました。棺を埋めて、土を被せて、紙銭を焼くといたしましょう。紙銭を焼くといたしましょう。（葬る）

（卜児）しっかりと葬りました。巨卿さま、ごいっしょに帰りましょうぞ。

（正末が唱う）

【醋葫蘆】母上さま、魂幡に伴はれ、とくとく帰りたまへかし。姉上と甥も後るることなかれ。（衆に別れを告げ、唱う）こちらにて、友人と親戚に別れを告げん。愁へをば省かれよかし。わたしは今夜、衰草と白楊に伴ひて、この墓地にしぞ宿るべき。

（隣人たち）巨卿さん、元伯さんの親戚は、みな家に行ってしまったというのに、わけもなく、こちらで休まれるのですか。

（正末）ほかでもござらぬ、

（唱う）遅れて葬儀に駆けつけしことを自ら恨みたるなり。わけもなく名誉を得んとせるにはあらず。

（卜児）巨卿さまは、三昼夜、休んでいらっしゃいませぬ。もし家にお帰りにならないならば、わたくしも帰りませぬ。

（正末が唱う）

【幺篇】行かじと思へど、老いたる母御の情には逆らへず。

（言う）弟に、「ようやくお会いできましたのに、一晩もいっしょにいられないのでしょうか」と言われましょう。

（唱う）行かんと思へど、弟に応へ得ぬことを怕れり。寒窓の風雨に向かひし、幾春秋のことを想へば、墓門の前に、一杯の酒を捧ぐるよりほかなからん。これよりは、相別れ、逢はんと思はば、枕席の間、鶏(くだかけ)の五更に暁(あけ)を報すとき、黄泉路を夢みるよりほかなからん。

（隣人たち）巨卿どの、わたくしたちはひとまず帰り、後日、ふたたびまいりましょう。

（正末）ご存知ございますまいが、元伯は墓地にいて、一年四季、このような淋しさに耐えられぬことでしょう。

（隣人たち）亡くなった人なのですから、一年四季、寂しいなどとは思われますまい。

（正末が唱う）

【幺篇】春されば、いかで聴くべき、暁の山月に杜鵑の啼くを。夏されば、いかで耐ふべき、乱蝉(らんぜん)[152]の声に夕(ゆふべ)の雨の止(や)めるに。秋されば、いかで聴くべき、寒蛩の喞喞と清(さや)けき空に泣きたるを。冬されば、万点の寒鴉のなべて老いし樹の頂にあるを見る。これらのものは、年を経(ふ)るとも変はることなく、漫漫として長き夜は、いづれの時に果つべけん。

（隣人たち）巨卿どの、時間が遅くなりましたから、われらは帰るといたしましょう。

（正末が唱う）

【高過浪来里】君章、子徴[153]は、急きたてり。側を離れしことはなけれど、本日はやむを得ず、皆に隨ひ、家へと帰り、明日になりなば、朝早く行き、墓守りすべし。一片の想ひは過ぎたるものといへども、偽りはなし。加ふるに、朔風に草木の靡き、落日に虎狼の愁へたるに得堪へず。四野の田畴、三尺の荒丘に、魂魄は悠悠[154]たれども、誰か問ひ、誰か眺めん。

（言う）弟よ、

（唱う）行かんとするも、悲しみて、ふたたびむなしく見返れり。

（卜児）巨卿さま、元伯がわたくしと嫁を棄て、さきに死ぬとは思ってもおりませなんだ。

（正末が唱う）

【隨調煞】憐れなり、朱顔の妻の、いまだに老ゆることはなく、青春の子の、年は幼し、白頭のご老母さまを棄てたるは、まさに憂ふるにしぞ堪へたる。眼の涙、心の愁へ、これら二つは合はさりて、一江の春水となる

 

第四折

（第五倫が従者を連れて登場）わたしは第五倫。范巨卿どのが張元伯の葬式に行ってから、ただちに人を遣わして、様子を探らせたところ、ほんとうに張元伯は死んでいた。かれは今、墓苑に松と柏(はく)を植え、塀を築いて、すでに百日余りになる。聖上に上奏し、巨卿のことを至仁至徳で、古今無双と申しあげたら、儀仗傘蓋、丹詔を持ち、ただちに汝陽の元伯の墓に行き、この人を招聘し、朝廷に臨ませて、官位を加え、恩賞を賜うことにした。さらに玄纁(げんくん)[155]、丹詔を持たせ、路すがら高才、大徳がいれば、すぐに推挙し、朝廷に入らせて、重く用いることにした。朝命を奉じたからには、長居するわけにはいかない、まっすぐに汝陽に行って、巨卿を招聘するとしよう。（退場）

（正末が登場）元伯が亡くなってから、墓苑には松柏を植え、墳墓を築き、もう百日が経ったわい。

（詩）元伯は蕭然として、一命を失へり。才能はあれども寿命のなかりしは、悲しむべきなり。夫妻(めをと)の鏡に、鸞の影(すがた)がただ一つ[156]、友人の群れのなか、雁は列から逸(はぐ)れたり。三尺の素絲[157]に姓字を書きて、一堆の黄土もて文章[158]を覆ひたり。夕(ゆふべ)には大声で哭くわけにはゆかず、おそらくは、猿が聞くとも腸を断つべし。（唱う）

【中呂粉蝶児】哭しなば、山月は蒼蒼として、野猿は老いたる松が枝(え)に啼き、郊祠[159]に満てる風は白楊をば巻けり。英魂を弔ひて、楚些[160]を歌ひて、いたく悲しむ。室を築きて、喪に服せずば、黄泉路なる友人の失望をむなしく招かん。

【酔春風】高塚(かうちよう)を築(つ)き、麒麟[161]を臥せしめ、長松を植ゑ、鳳凰を招かんとせり。人はみな言ふ、昔より今に至るまで、弟の墓を守りしものはあらずと。

（唱う）死生の交はり、金石の友[162]、至誠の心は、いかでか偽りなりといふべき。目今は仮初の墓なれど、志をば得んときは、改葬をせん。

【紅繍鞋】もしも宰、卿、相たらば、

（言う）元伯よ、

（唱う）御身のために、石人、石虎、石羊を立つることとせん。残されし、九歳の子と、四旬(よそぢ)の妻と、八十(やそぢ)の母御は、巍巍たる小さき屋敷を分かち[163]、高々と萱堂を建て、わたしみづから、朝な夕なに、孝行をせん。

（第五倫が馬に乗り、従者孔仲山を連れて登場）わたしは第五倫、聖上の御諚を奉じ、范巨卿に官位を加え、恩賞を賜わらん。話していると、はやくも着いた。部下よ、馬を繋げ。

（正末）遠くから一群の人馬が墓前にやってきた。何ごとだろうか。（唱う）

【石榴花】ただ見るは、晨光(あけのひかり)に蕩(たゆた)へる一筋の駅塵の黄と、どよもせる人馬の墳(はか)の塀を叩ける。

（五倫に会い、唱う）鞠躬如として拱手して、事情を訊ねり。

（第五倫）聖上の御諚を奉じ、御身を訪ねてきたのです。

（正末が唱う）当今の聖上の、賢良を求められたるを告げたり。

（第五倫）賢士どの、詔勅ですぞ。

（正末が唱う）詔勅なりと言ふを聴く。驚きてわが魂は蕩へり。

（第五倫）今すぐに喪服を脱がれよ。

（正末が唱う）喪服を脱げば手脚はあたふた。

（第五倫）その昔、文王は太公を磻溪に訪れて、周朝をうち立てり。汝(な)は太公と異なることなし。

（正末が唱う）斜陽のなかで磻溪に釣竿を垂れたることもなかりしに、なにゆゑぞ奥津城で文王に遇ふ。

（第五倫）賢士どの、本日は官位を加え、恩賞を賜わりましょうぞ。「立身をする日もあらん、出世する時もあるべし」とはよくぞいったもの。

（正末が唱う）

【闘鵪鶉】人はみな、暮景桑楡[164]に、いささかの栄達することあるべしと言ふ。これぞまさしく、楽しみは極まりて、悲しみは生ぜしも、今日は、泰の来たりて、否の往きたるなり。

（第五倫）こちらで、墳(はか)と塀を築かれ、松と柏(はく)とを植えられて、百日余りになられますので、聖上に上奏し、勅命を宣べにきたのです。

（正末が唱う）五六板、墳(おくつき)の塀を築いて[165]、帝王に上奏す。楫となり、霖(あめ)となりたる傅説に学ばず[166]、誤ちて陛下を眠思夢想させたり[167]。

（第五倫）ぐずぐずとしてはなりませぬ。今すぐに朝廷に行き、ともに聖上に見えましょう。

（正末が唱う）

【上小楼】門下侍郎を過ちて挙げ、朝廷の宰相を間違ひて薦めたり。[168]

（第五倫）高才と大徳により、推薦されて役人になるのです。

（正末が唱う）孝廉方正、徳行才能、政事文章[169]などはなし。

（第五倫）役人となられれば、黎民(たみくさ)の人望を得られましょうぞ。

（正末が唱う）一方の地[170]と、百万の生霊(たみくさ)に、頼らるるには値せず。

（第五倫）賢士どの、御身には尹鐸[171]の才がございますから、きっと重用されましょう。

（正末が唱う）尹鐸の才もなければ、いかでか保障[172]すべけんや。

（第五倫）賢士どの、馬に騎られよ。

（正末）弟の威霊(みたま)は表彰すべければ、わたくしは丹誠(まごころ)をもて、本来、墓を守るべきなり。しかれども、朝廷の詔をば受けたれば、礼として背くわけにはゆかざらん。朝廷で志を得ば、かならずや、弟を九泉の下に湮滅せしむることはなかるべし。（墓に別れを告げる）

（第五倫）従者よ、儀仗を並べ、ゆっくり行こう。

（孔仲山が唱う）道をあけよ。

（正末が唱う）

【幺篇】一望の中(うち)に旌旗を列ね、儀仗を半里の長きに並べり。ただ見るは、馬前の従者の、志気の昂昂、状貌の堂堂たるなり。姓名を問ひたれば、友なりき。別れてこのかた、恙なかりしや。

（言う）先追いをしているのは孔仲山か。

（孔仲山）その通りです。

（正末が驚いて問う）ああ。弟よ、どうして馬前の一兵卒となっておるのだ。

（孔仲山）王韜がわたくしの万言の長策を横取りしたため、役人になることができなかったのでございます。わたくしは馬前にて従者の仕事に当たっております。兄じゃ、お構いくださりますな。

（正末が唱う）役人になつたからとて、「貴人は忘るること多し」といふわけにはゆかず。

（第五倫）賢士どの、そのかたはどなたでしょうか。

（正末）ご存知ございますまいが、このものは孔宣聖の十七代の賢孫の、孔仲山にございます。このものは、学問は、わたしより十倍勝っておりますが、判院の家の婿である王韜に万言の長策を横取りされて、役人となることができないのです。

（第五倫）今すぐに、人を遣わし、王韜を捕まえてきて、聖上に上奏し、法に従い重く罰することにしましょう。賢士どの、王韜が賢門を閉ざそうとしたことは、憎むべきことにございます。

（正末）孔仲山の才ならば、重用すべきでございます。

（第五倫）孔仲山の才徳が人に勝ると仰るのなら、玄纁と丹詔をこちらに持っておりますから、孔仲山に詔を受けさせましょう。われら三人(みたり)は馬に騎り、聖上に会いにゆきましょう。

（正末）それならば、弟よ、衣服を脱いで、朝服に換えるのだ。

（孔仲山が衣服を換える）

（正末が唱う）

【十二月】いそいで麻衣(まい)と布裳(ふしやう)[173]を換へて、束帯と朝服を着る。一箱の玄纁を拝受して、跪きつつ十行の丹詔[174]を聴く。

（第五倫）孔仲山どの、宮居を望み、聖上のご恩に謝すべし。

（正末が唱う）東都洛陽に面(おもて)を向けて、三たび舞ひ、頓首してまことに惶(おそ)れり。

【堯民歌】ありがたや、荊州太守は漢の循良[175]。布衣(ほい)芒(ばう)屩(けう)[176]を推薦し、朝堂に到らしめたり。まことに死生の交はりは、孫龐の比にあらず、清廉の吏は龔黄[177]に倣ふべし。進退を、進退を、ひそかに考ふ。偽りて謙りたるにもあらず。

（第五倫）范巨卿どの、高才大徳、信義両全なるがため、わたくしは聖人の御諚を奉じ、官位を加え、恩賞を賜わりましょう。

（正末が唱う）

【耍孩児】微臣(わたくし)は、勅命により、恩賞を賜はりしことを愧ぢたり。

（言う）張劭が、

（唱う）いまだに恩を受けざるに、わたしが受くるわけにはいかず。生ひたちを、念んみたるに、籍貫は山陽にあり、幼きときに父母をともに失ふ。三公に伊呂[178]なくば、四海はいかでか范張のあるを知るべき。

（第五倫）かの張劭の才能と徳行は、御身に比べていかがかな。

（正末が唱う）臣(わたくし)は、張劭よりも名望はなく、張劭は、徳は曾、顔、閔、冉よりも重くして、才は賈、馬、班、揚より高し。

（第五倫）張劭は何歳でしたか。

（正末が唱う）

【二煞】犬馬の年は上なれど、学問は、かのものがさらに勝れば、ひそかに奉じて宗匠となさんとす。漢朝に、名姓を書き記す、良史[179]のいかでかなかるべき。文武の官は、おのづから傍(かた)への人の長短を語ることあり。臣(わたくし)は孔仲山を推挙して高官となさしめん。

（第五倫）孔嵩は御身と比べていかがでしょうか。

（正末が唱う）わたくしに似たものは、幾らでもおりますが、このものは国士無双にございます。

（第五倫）張元伯は死んだが、孔仲山を得た。これぞまさしく「一賢を得て、一賢を失ふ」ということだ。

（正末が唱う）

【一煞】一賢を得て一賢を失ひたれど、

（孔仲山）惜しむべし、元伯兄じゃは亡くなれり。

（正末が唱う）二筋の涕(はなみづ)、涙は必要なし。蜀を得て、隴をば望むことなかれ。

（言う）元伯が死んだのは、

（唱う）千尋の白玉の天を�ﾌ(ささ)ふる柱を折るにぞ似たりける。

（言う）孔仲山を用いれば、

（唱う）海に掛けたる万丈の黄金(こがね)の梁(はし)となりぬべし。晏平仲の斉に相たりしとき、乘車の人の憂心は悄悄として、御車の吏の壮志は揚揚たりしを聞かずや[180]。

（第五倫）部下よ、捕まえた王韜はどこにいる。

（従者が王仲略を捕らえて登場）申し上げます。王韜を捕まえてまいりました。面を上げよ

（王仲略は跪こうとしない。従者）どうして跪かぬのだ。

（王仲略）官職は年齢に勝るもの。仕方ない、仕方ない、跪きましょう。

（第五倫）王韜よ、なにゆえに孔仲山の万言の長策を横取りしたのだ。

（王仲略）大人、それは違います。文章を横取りせねば、わたくしは役人になれませんでした。総甲にさえなれませんでした。

（第五倫）なんぢらは、宮居を望んで跪き、聖上の御諚を聴けかし。

（断）聖上は良臣を求めんとされ、弓(きゆう)旌(せい)[181]を下されて、ひろく賢路を開かれり。招聘の及ぶところは、山林にとどまらず、名声を聞かば、墳墓も余すことなし。汝陽郡の張劭は、亡しといへども、范式は、いくたびも、その素行をば称ふれば、翰院の編修に封ずべし、母と妻には、栄禄を賜はらん。遺されし子と、君章と子徴には、すみやかに、陳留の主簿を授けん。范式をして御史中丞を拝せしめ、孔嵩をして吏部尚書たらしめん[182]。王仲略は偽りて、役人となりしかば、百回の杖刑にして、終身廃錮[183]せしむべし。天恩の浩蕩として無私なるを明らかにして、群臣の挙措を相安んぜん[184]。

（正末らが恩徳に謝し、唱う）

【煞尾】なにゆゑぞ、功名心を抱かざる。貧しきときの交はりを、忘るるに忍びざりしかば、天恩を乞ひ、まず泉台(せんだい)[185]へ赴かしめて、鶏黍の深き誼を留め、後人に語らしめたり。

 

最終更新日：2010年11月10日

中国文学

トップページ