説鱄諸伍員吹簫雑劇
李寿卿撰
第一折
（冲末が費無忌に扮し、兵卒を連れて登場、詩）他人はわしを奸臣なりと笑へども、このわしは、奸臣となり、他人を笑はん。このわしは、死にし後、報いを受くるも、他人はわしの生きているうち、はやくも命を喪はん。
わしは少傅の費無忌なり。臨潼の宝比べの後に、太傅の伍奢は、無礼をば、はたらけり。あの者は、平公さまの面前で、このわしとたくさんの悶着を起こしたり。ところが、わしがあらかじめ話していたため[1]、平公さまは激怒したまひ、伍奢と家族は、ことごとく捕へられ、殺されたりき。想ふに伍奢の二人の子らには、いささかの力があれば、いづれ讐にぞ報ゆべき。長男の伍尚はすでにおびき出し、殺したり。次男はすなはち伍員なり。伍員は臨潼会のとき、秦穆公より白金の宝剣を賜はりて、盟府と称せり。文は百里奚をも凌ぎ、武は秦姫輦に勝りたり。拳にて蒯聵[2]を打ち、脚にて卞荘[3]をば蹴りて、十七か国の公子を守り、つつがなく帰還させたり。かの者は今、三保大将軍、樊城の太守となれり。このわしが、かの者の一門の老若を殺したることを知りなば、かの者は黙つてをらじ。わたしはかれを備へがあらば備へなからしめ、備へがなくば草の薦を被りて眠らしむることとせん。これよりは、わが長男の費得雄をば遣はさん－かれもまた猛者にして、常日ごろ、練兵場で、下男らと打髀殖[4]の遊びをしたり。今から人を遣はして、かれを呼び、平公さまの命令と詐つて、伍員をばおびき出し、捕らへて殺すこととせん。草を切り、根を除き、芽を出すことなからしむべし。
部下よ、いずこぞ。練兵場に行き、費得雄を連れてきてくれ。
（兵士）費得雄さまはいずこにおわしましょうや。
（浄が費得雄に扮して登場、詩）このわれは将軍なれど、突進をすることができるのみ、兵書戦策は少しもあらず[5]。わが家は臙脂屋を開くにはあらざれど、なにゆゑぞ親子二人はことごとく顔を塗りたる。
このわしは、ほかでもない。費無忌の靴のかかと[6]なのだ、
（兵士が問う）「靴のかかと」とはどういうことでございましょう。
（費得雄）長男のことだ。練兵場で遊んでいると、親爺どのからお呼びがかかった。行かねばならぬ。取り次ぎをする必要はない。わたしは一人で入ってゆこう。（会い、言う）父上が、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょうや。
（費無忌）費得雄、おまえを呼んだは、ほかでもない。このわしは伍奢父子とその一家老若をことごとく殺害したが、伍員は今も樊城におる。平公さまの命令と偽って伍員に伝えよ。臨潼の宝比べの後に、汗馬の労[7]が多いため、朝廷に入るなら大臣に、朝廷を出るのなら将軍にしようと言うのだ。伍員が来るのを拒んだ時は、殺害するのだ。これがすなわち、草を切り、根を除き、芽が出ぬようにするということ。今日すぐに樊城へ行き、伍員を騙せ。
（費得雄）父上、ご安心なさいませ。わたくしの三寸の朽ちることがない舌で、伍員に会えば、来ぬはずがございませぬ。来なければ、拳で殴り、脚で蹴ることにしましょう。そうすれば、死なないはずはございませぬ。（一拳で費無忌を打ち倒し、言う）うちの親父は、意気地なし。こぶしがちょっと擦っただけで、もんどりうって倒れてしまった。（退場）
（費無忌）ああ。馬鹿息子め。このわしを倒したな。あいつは行ってしまったのか。
（兵士）もう行ってしまわれました。
（費無忌）このわしが話をすれば、あいつが行かぬはずはない。これぞまさしく「一人の子供が孝ならば、多くの子孫は必要なし」だ。（退場）
（外が羋建に扮し、羋勝を抱いて登場、言う）それがしは、楚の国の公子羋建じゃ。費無忌は無礼で、父王にあれやこれやと讒言し、老相国伍奢父子の一門を根絶やしにした。ただ伍員のみは、樊城で太守をしている、聴けば費無忌は、詐って父王さまの御諚を伝え、自分の息子費得雄を、樊城に遣わして、伍員を騙すということだ。もしも知らずに、奸計に陥れば、伍員の一家を滅ぼして、わが楚の国を損なうことになるではないか。わたしはこれから、息子の羋勝を抱きかかえ、こっそりと朝廷を出て、樊城に行き、伍員に告げれば、まことによろしいことであろう。
（詩）想へば子胥は、蓋世の威名があれば、計に嵌まりて滅ぶるを、いかでや見るに忍ぶべき。費無忌は奸策多けれど、賢臣を救はんがため、まず樊城に馳せゆかん。（退場）
（正末が伍員に扮し、兵卒を率いて登場、言う）それがしは、姓は伍、名は員、字は子胥とまうすもの。臨潼会で、秦穆公より宝剣を一振り賜はり、盟府と称し、十七か国の諸侯を無事に帰還させたり。平公さまより十三太保大将軍を加へられ、さらに太守の職を兼ね、樊城をしぞ鎮守せる。看よやわが配下の兵は、まことに雄猛。（唱う）
【仙呂点絳唇】ひさしく南方をば鎮め、将兵を指揮すれば多くは雄壮。鄂渚[8]と湘江を守れば、幾ばくの翻滾滾[9]たる東に流るる浪ぞある。
【混江龍】われもかつては、西に東に戦ひて、幾たびも功を立て、画閣に名を記さるるを得たり。戦場でつねに命を捨てんとしたれば、一面に塵の飛べるを軍馬を駆ると見まがへり。はからずも、太鼓は三たび鳴り響き、昇堂[10]をしぞ知らせたる。われはもともと、三軍を掌りたる元帥なれども、今では民を治めたる循吏となりて、学校を建て、農桑を勧め、文書を整へ、流民を憐れみて、徴税を緩やかにして、糧食をしぞ集めたる。大臣なれども人々の前に出でんとするものにあらずして、主君を佐け、諸侯の上にあらしめんとし、とこしへに万邦の玉帛を受け、ながく千里の金湯[11]をしぞ保つべき。
（羋建が子役を抱いて登場、言う）それがしは羋建なり。朝門を出でてより、夜も昼も奔走し、樊城の地に到り、はやくも帥府の入り口に着く。
門番よ、取り次ぎをして、公子羋建が来たというのだ。
（兵士が取り次ぎをし、言う）元帥さまにお知らせ申し上げまする。公子羋建さまが入り口にいらっしゃいます。
（正末）すぐお呼びせよ。
（兵士）お入りください。
（羋建が会う）
（正末）公子さま、遠いところへ、おみ足を運ばれましたは、何ゆえにございましょうや。
（羋建）将軍どの、用もないのに来たりはしませぬ。このたびは、讒臣費無忌が、そなたの父上兄上と一門家族を根絶やしにして、そなたのみ、樊城に残られている。あの者は今、息子の費得雄を遣わし、詐って父王さまの命を伝えて、そなたを騙して朝廷に戻らせて、ひそかに殺害しようとしている。あの者は、草を切り、根を除く計略なのだ。だからわたしは幼子を抱きながら、夜に日を継いで駆け付けて、お知らせしたのだ。費得雄が来た時は、将軍どの、決して許されてはならぬ。
（正末が怒って倒れ、言う）父上さま、あな悲しや。想へばわれは臨潼会にて、十七か国の公子を守り、つつがなく帰還させたり。かやうなる大功がありたるに、今日、費無忌の讒言が信ぜられ、三百人の家族をすべて殺さるるとは。昔よりかくいへり。「父母の仇とは、共に天をば戴かず、兄弟の仇には、兵を反さず」[12]と。ただでは済まさじ。（唱う）
【油葫蘆】想へば秦の雄兵は、虎狼のごとく、臨潼の宴にて、
（言う）あの日、わたしがいなければ、
（唱う）十七か国の公子らはみな殃に遭ひにけむ。
（羋建）将軍どのに、このような大功がございますのに、費無忌めが、ご一家を殺したことは、まことに無礼。
（正末が唱う）なにゆゑぞ、費無忌めの語りて尽くることのなき、天を欺く嘘を信じたる。わたくしは救ふを得ざれば、一家は亡べり。わたくしが、忠義を尽くし、一人を佐け、烽煙[13]を払ひ、八方を定めしも、徒なりき。仁義なく、謙譲のなきかのもの[14]にしかずして、むざむざと父子[15]して朝政をほしいままにぞせしめたる。
（羋権）わたくしは費得雄が先にきて、その後とならんことをし恐るれば、餓ゑに耐へ、夜に日に奔走したりき。この両脚は歩きしがため、胼胝となりたり。
（正末が唱う）
【天下楽】御身は昼夜兼行で訪ねきたれり。かやうに彷徨なさりしは、ひとへにわれのためなりき。悪党の進みきて、遅れをとらん[16]ことを恐れて、御身の足は歩きしがため、胼胝となり、肚は餓ゑ、腸は断たれぬ。
（羋建）将軍どの、今日があることをご存知ならば、そのむかし、臨潼関で、功労を立てられずとも宜しかったに。
（正末が唱う）元戎となりにしわれの運ぞ拙き。
（費得雄が登場、言う）このわしは費得雄。父上の御言葉を奉り、智恵を用ゐて伍員を欺き、捕へにゆかんとしたるなり。数日進み、この樊城に到りたり。
ここはあいつの家の入り口、この狗[17]を下りるとしよう。門番よ、はやく取り次げ。費得雄みずからが使者となり、入り口に来ておりますと。
（兵士が知らせる）元帥さまにお知らせ申し上げまする。費得雄さまがこちらにお越しであります。
（羋建）伍将軍どの、わしはどちらへゆけばよいかな。
（正末）大丈夫です。壁掛けの後ろに隠れていてください。
（羋建）それはいい、ひとまず隠れることにしよう。
（正末）中に入れよ。
（兵卒）お入りください。
（費得雄が会い、言う）どなたが伍員どのですか。
（正末）それがしにございます。
（費得雄）貴殿が伍員どのですか。わたくしは主君の命を奉じております。貴殿は臨潼会のとき、文才は百里奚より優れ、武藝は秦姫輦より勝り、蒯聵を拳で打たれ、卞荘を脚で蹴られて、十七か国の公子らをつつがなく守られました。功績が多いため、このたび、特に勅旨を下し、貴殿を戻ってこさせるのです。朝廷に入られるなら大臣に、朝廷を出られるのなら将軍にして、馬に乗るなら軍をたばねて、馬を下りるなら民をつかねていただきましょう。さらに貴殿に馬に乗るなら一提[18]の金、馬を下りるなら一提の銀を賜わりましょう。ぐずぐずされてはなりませぬ。本日すぐに馬を走らせ、朝廷に行き、聖恩に感謝なされよ。
（正末）それがしは、すでに半年、朝廷に入ってはおりませぬ。わたしの家の父、母、兄は息災でございましょうか。
（費得雄）ご家族は今、ほんとうにお元気にございます。貴殿が入朝されるのを聴き、わたくしにくれぐれもよろしく申しあげるようにと仰いました。今すぐにご出発なさいませ。貴殿に一目会おうとなさっていらっしゃいます。
（正末）この者はまことに無礼。（唱う）
【村里迓鼓】わたしの心は怒りたり
（費得雄）このような吉報を届けてやったに、賞金をすこしも出さず、殴るとは、
（正末が唱う）この者を打ちたるは、まことに強情なればなり。
（費得雄）お役人さま[19]、事件を起こされてはなりませぬ。今、兵馬司では、かような猛者を探しているのでございます。
（正末が唱う）わたしの一家を誅滅し、なほもわたしの父母が、息災なりと言はんとするや。
（費得雄）わしの親父は、人を殺さぬ日でさえも、たくさん人を殺しているから[20]、おまえの家の二人の息子を惜しんだりするものか。このように狗頭狗[21]をしてどうするつもりだ。
（正末が唱う）むらむらとした三千丈の、胸の怒りと口の怒りを抑へ得ず。
（費得雄）諺に、「盗賊を捉へんとせば贓物あるべし、姦通を捉へんとせば二人捉へよ」といわれているぞ。自分のことを考えてみろ[22]。わしと人命事件の訴訟を起こそうというのなら、証人が必要だろう。おまえの一家をうちの親爺が殺したというのなら、誰が見たのか言ってみよ。
（正末が唱う）羋建が来たりて事情を告げて、こ奴の嘘を暴かざりせば、欺かれ、天羅地網[23]に入りつらむ。
（費得雄）伍員よ、わしはおまえを朝廷に入れよとの御諚を奉じて来たのだぞ。馬に乗るなら一提の金、馬を下りるなら一提の銀を与えて、朝廷を出るのなら将軍に、朝廷に入るなら大臣にして、おまえに損はさせぬのに、このわしを殴るとは。
（正末が唱う）
【元和令】馬に乗りなば金を賜ひ、馬を下りなば銀をしぞ与ふべき、朝廷を出でては将軍、朝廷に入りては大臣となさんと言へり。
（言う）おまえは父親の罪を知っているのか。
（費得雄）わしの親父のしたことは、すこしもわしに漏らされぬから、知らないぞ。
（正末が唱う）費無忌はかやうに悪しき心で、かやうに悪しきことをせり。
（費得雄）悲しむでない。おまえの親爺は、百二十歳まで生きたとて、死なねばならぬ。
（正末が唱う）世に生くる人々は常ならざれど、わが一家ほどの犬死にをせしものはなかるべし。
（正末が殴る）
（費得雄）殴ったな。入り口を遮って、逃げ道を塞いで、ひどく殴ったな。おまえにどんな力があるのだ。朝廷に行ってもわたしを殴るつもりか。
（羋建が現れて、なだめる）将軍どの、とりあえずお怒りを鎮められませ。
（正末が唱う）
【上馬嬌】慌つることも、焦ることも必要なし、
（羋建）将軍どの、お怒りを鎮められ、もう一度じっくりと尋ねられませ。
（正末が唱う）まず打ちし後、相談すべし
（費得雄）ああ、鉢盂のように大きなこぶしで、びゅうびゅうと殴られたわたしの尻は、がたがたに砕けてしまった[24]。ほんとうにわたしを殴り殺そうとしているな。羋建さま、御身のみが証人にございます。
（羋建）将軍どの、お怒りを鎮められませ。
（正末が唱う）公子さま、手を放されて、邪魔をなさいませぬように、この者は強くとも、城壁を飛び越えることはできますまい。
（費得雄）羋建さま、あなたもかれを宥めてください。
（羋建）将軍どの、お怒りを鎮められませ。
（正末）臨潼会では、拳をつかって蒯聵を打ち、脚をつかって卞荘を蹴り、力をつかって千斤の鼎を挙げた。おまえを打ち殺すことなど、どうということはないのだ。（唱う）
【勝葫蘆】鼎を挙ぐるわが威風をばいささか示さん。鉄の金剛[25]ならんとも、かれを打ちなば、肉は綻び、皮は開きて、血だまりにしぞ横たはるべき。さやうな姿、さやうな力で、なほも虚勢を張らんとするや。
（費得雄）わしが今、おまえの家にいるものだから、おまえはわしを打とうとしておる。「家の中では威勢がいい」とはこのことだ。おまえに打たれてしまったが、打つのにも理由がなければなるまいぞ。わしはおまえを朝廷に入れよとの御諚を奉じてきたのだから、何も疚しいことはない。おまえがわしを打とうとすれば、世間の人に謗られようぞ。
（正末が唱う）
【幺篇】おのづから傍人のあれこれと言ふことあるべし。讒言の巧みなること簧にぞ似たる[26]。高きみ空の眼のご覧になることもなく、わが兄伍尚と、賢相の父上を害することのあるべきや。
（言う）父兄の仇に、わたしが報いないならば、誰が報いることだろう。
（唱う）汝は怨みを償はざることなかるべし。
（費得雄）おまえにひどく殴られた。朝廷に入ろうとせぬのだな。馬に乗るなら一提の金、馬を下りるなら一提の銀を得て、わしに砂糖の菓子を買い、食わせてもよいというのに、どうしてわしを打ったのだ。わしは今、とりあえず我慢して、家に帰って、親父に話し、きっとおまえに殴り返すぞ。逃げろや逃げろ（退場）
（羋建）将軍どのは、費得雄を打たれましたが、あの者は帰ったら、父親に会い、話をし､かならずや兵を率いてわたしと御身の二人を捕えることでしょう。昔から「長安は宜しきも、ひさしく恋ふる郷にはあらず」ともうします。わたしと御身は、これからどこの国に逃げたらよろしいのでしょう。
（正末）公子さま、ご安心なさいまし。われらはこれより、鄭国に行き、兵を借り、わが父と兄の怨みに報いることにいたしましょう。（唱う）
【賺煞】想へばわれは盟府となりて、英雄を逞しうして、各国を守りて恙なからしめたり。またかつて、蒯聵と卞荘を、蹴り殴りたりしかど、今日になり、すべて春風一場の夢に付したり。誰が悪しく誰が善きか語ることなく、あたふたと遠く他郷へ逃がれたり。三千の鉄甲[27]を借り故郷に入らば、看よやかの費無忌の智恵はいかでか伍子胥に及ぶべき。このわれは悪党を湛盧の槍に突きて満たさん。
（ともに退場）
第二折
（費無忌が兵卒を連れ登場、詩）草は根こそぎ拔かねばならぬものと知るべし、春になりなばふたたび芽吹くをひとへに恐れたればなり。われはこのたび伍子胥を殺さざりしかば、かれは来たりてわれを殺さん。
わたしは費無忌じゃ。伍員はまことに無礼である。わたしは費得雄を遣わし、詐りの宣旨によって、あのものを朝廷に送ろうとした。ところが羋建がこっそりと樊城に駆けつけて、先に伍員に告げ知らせ、わが費得雄を思いきり一殴りした。さいわいに息子にはいささか力があったため、抗って、戻ってきたのだ。今、かれは羋建とともに鄭国へ行ってしまった。ただでは済まさぬ。おまえがわしを憎んで敵とするのなら、わしはおまえを怨んで仇とするとしよう。今から主君に上奏し、養由基をば遣わして、五千の鉄騎を率いさせ、伍員を追いかけ、箭を発し、射殺せば、わたしの平素の願いは叶うことだろう。部下よ、いずこぞ。養由基を呼んできてくれ。
（兵士）養由基さまはいずこにいらっしゃいますか。
（外が養由基に扮して登場、詩）手には雕弓をば挽きて芯は鉄[28]、百歩離れて楊葉を穿つを得ども、一生油売りに負けたり。かれの手並みはさらに優れり[29]。
それがしは養由基。楚の平公さまの配下で、官は中大夫の職にしぞ封ぜられたる。それがしは猿臂の神業、一枚の柳葉を百歩離れたところに懸けて、射れば百発百中なれば、陣中にては、それがしを楊を穿つ神業の養由基とぞ呼びなせる[30]。
今、費無忌元帥さまがお呼びだが、何事だろう。行かねばならぬ。兵士よ、養由基めが参りましたと取り次ぎをせよ。
（兵士が知らせ、言う）養由基さまがいらっしゃいました。
（費無忌）将軍どの、このたび伍員がこっそりと樊城に逃げ、各国の兵を借り、本国を侵す恐れがあるので、主君の命を奉り、貴殿には五千の鉄騎を率いさせ、伍員を追いかけ、矢を発し、射殺していただきましょう。今日すぐに人馬を選んで、伍員を追いかけてくだされ。成功すれば、いうまでもなく官位を加え、ご褒美を差しあげることにいたしましょう。
（養由基）かしこまりました。本日すぐさま、五千の軍馬を選んで、伍員を追いかけてゆきましょう。
（詩）三軍を率ゐ、疾く行くこと、風にぞ似たる。短き箭、小さき弓にすぎざるも、楊を穿つ妙手によりて、かならずやかれの命を失はしめん。（退場）
（正末が馬に乗る仕草をして登場、言う）それがしは伍員なり。費得雄を打ちてより、公子羋建は行方が知れず、それがしは羋勝を連れて、こつそりと樊城を出て、鄭に投じて、兵を借り、復讐をしようとしている。後ろには一群の兵馬がいるが、きっと追手が来たのだろう。
（養由基が兵士を率いて追いかけてきて、言う）それがしは養由基。費無忌さまの命を奉じて、五千の人馬を率いつつ、伍員を追いかけ、矢を発し、射殺しようとしているところ。想えば伍員は臨潼会で、十の大きな功を立てた。ところが費無忌は讒言し、あの人の父兄と三百人の家族を殺害し、あの人だけが各国を奔走している。さらにそれがしにあの人を追い掛けて射殺させようとしている。伍員はもともと忠臣良将、もしあの人を射殺せば、万代の汚名を受けることだろう。わしは今から追いかけてゆくが、あの人に会ったら、おのずと考えがある。
（正末が会い、言う）来られた方は養由基どのではないか。
（養由基）いかにも。それがしは主君の御諚を奉り、五千の鉄騎を率いて追いかけ､そなたを射ようと思っているのだ。
（正末）将軍どの、わたくしを射殺されれば、誰が父兄の仇に報いてくれましょう。
（養由基）将軍どの、ご安心なさいまし。三軍[31]の将兵よ、陣を列ねよ。このわしは矢を射るぞ。（矢の先を咬み、矢を発する）
（正末）ああ、なぜこの箭には鏃がないのだ。きっとわたしを逃がそうとしているのだな。陣を掻きわけ、一すじの血路を開いて逃ぐるにしかず。（戦いながら退場）
（養由基）どうして続けて三本射たのに死なぬのだろう。逃げたらただではすまさぬぞ。いずこへなりとも追いかけてゆくとしようぞ。（退場）
（正末が羋勝を抱き、馬に鞭打ちながら登場、言う）逃げろや逃げろ。駅亭をひとまず遠く離れたはありがたい。馬に鞭打ち、路を急いで進みゆく。養由基どのの楊を穿つ神業は百発百中、もしあの人が矢の先を咬み切って、見逃してくださらなければ、出てはこられなかったろう。鄭国に行くと、公子羋建はすでにかの地に着いていた。兵を借り、讐に報いようとしたが、鄭の子産は楚王のためにそれがしを殺そうとした。それがしは仕方なく駅亭を焼き、路を急いだ。惜しいことに、公子羋建は、乱軍の中で亡くなられたが、どうしたらよいだろう。（嘆く）ああ。わたしはこれからどの国に行ったらよいのか。じっくりと考えたのだが、呉の公子姫光はかつてわたしに命を救われたから、かならず兵を借してくれよう。羋勝を抱いて、呉の国に身を寄せることにしよう。まことに危うく、まことに苦しい。（唱う）
【南呂一枝花】びゆうびゆうと門外の軍を突き破り、ぱかぱかと城頭の路に撃ち出でり。仇人の弦の上の箭をしかと防ぎて、手の中の珠を失ふことを恐れり。じつくりと考へり。わが父と兄は多くは身まかれど、かのものはさらにわが一命をしぞ狙ひたる。泪は四野の征塵を潤して、溜息は半天の毒霧となれり。
【梁州第七】ただ願はくは、匣中の宝剣の斬るとも折るることなきを。ただ願はくは、走るとも疲るることなき龍駒[32]に跨らんことを。わたしの湛盧[33]の槍により功労簿をば突き刺さん[34]。盔の纓は惨淡として、袍の錦は模糊とせり。想へばそのかみ、宴に宝比べをし、こつそりと伏兵を置き、臨潼を脱出せしはすべてわが策略なりき。仕置場で、すでに親族は殺されぬ。われ、われ、われは千鈞の鼎とやらを挙げしかば、西秦にしぞ憎まれし。今になり、まつすぐに南楚へ帰るわけにはゆかず、一片の帆を風に飛ばして東呉によぎるにしくはなし。わたくしはひそかに嘆けり。おそらくは奔波の苦しみをば受くる定めなるべし。時運には恵まれざれば、とりあへず、半分賢く、半分愚にし、そのかみを語ることなし。
（旦児が浣紗女に扮し、罐を提げて登場、詩）溪に出でて日ごとに紗を洗ひ、みな言へり、わらわの貌は桃花のごとしと。名と姓を問ふ必要はなし、瀬水の西、第一の家なれば。
わらわは浣紗女。わが母は浣婆婆と呼びなさる。弟はすなはち伴哥、この川岸で田を耕せば、飯罐[35]を持ち、わが兄のため、ご飯を運ばん。
（正末）歩いていると、川のほとりで、一人の娘が二つの瓦罐を提げている。尋ねてみよう。娘さん、その罐に何が入っているのでしょうか。
（浣紗女）豆粥に、水で薄めた酒[36]にございます。
（正末）食べさせていただけませぬか。
（浣紗女）おんみはどなたなのですか。
（正末）わたくしは将軍ですが、遥かな路を歩いたために、ひどくお腹が空いております。娘さん、ご飯をわたしにくださって、とりあえず飢えを凌がせてください。この若さまにもすこし食べさせてください。いずれかならず手厚くお礼いたしますから。
（浣紗女）それならば、わたしといっしょに村に行き、子羊を殺し、鶏を潰せば、召し上がることができましょう。こちらは豆粥。おんみは食べられないでしょう。
（正末）構いませぬ。すこし食べさせてください。
（浣紗女）お嫌でなければ、二罐をみな将軍さまに食べさせてさしあげましょう。
（正末が食べる。さらに羋勝と食べ、言う）ご馳走さまでした。娘さん、このご恩には、いずれかならず手厚くお礼をいたしましょう。
（浣紗女）頭に鍋を載せて出歩く人はいませぬ[37]。わずかなご飯に、お礼などとはとんでもないこと。
（正末）娘さん、一つお願いいたします。残りの漿を漏らされないでくださいまし[38]。
（浣紗女）ご飯を食べて、残りの漿を漏らすなと仰られるとは、わたくしの罐は漏れてはおりませぬ。
（正末）この罐が漏れていると申してはおりません。わたくしが去った後、人馬が追いかけてきたとき、きっとおんみに尋ねますから、どうか憐れと思われて、わたくしの消息を漏らされないでくださいまし。
（浣紗女）将軍さま、お心を安らかにしてゆかれませ。話をせねば宜しいのでしょう。
（正末が唱う）
【牧羊関】心根の善き、若き娘に感謝せん。
（浣紗女）なにを慌ててらっしゃるのです。
（正末が唱う）なにゆゑぞわたくしがびくびくとせることを知りたる。
（浣紗女）ご安心なさりませ。
（正末が唱う）緩急[39]の間なれば、御身がごまかすことを求めん。憐れむべし、わたしは一人で難を逃れて、一家も怨みを抱きたり。
（浣紗女）ああ、将軍さまは、災いを避けられていたのですね。ご安心なされませ。軍馬がまいりましたらば、御身のためにごまかしてさしあげましょう。
（正末が唱う）残りの漿を漏らすなかれと言ひたるは、兵士が追ひ迫らんことを恐るればなり。
（浣紗女）将軍さま、お志を得られましたら、わたくしの一飯の恩をお忘れなきように。
（正末が唱う）いかでか忘れん。瀬水のほとりなる浣紗女の、樊城を逃れたる伍子胥を救ひたまひしを。
（言う）わたくしが去った後、残りの漿をお漏らしになりませぬよう。
（浣紗女）去られし後に、もしも他人が話しをしても、それはわたしが言ったということ[40]。いいでしょう。おんみが心安らかに行かれるようにいたしましょう。将軍さま、わたくしはこの川岸に住んでいる、浣紗女で、母親は浣婆婆で、弟は伴哥です。将軍さま、憶えておかれてくださいまし。
（詩）将軍さまのお名前は天下を覆ひ、一心に呉の王に身を寄せんとぞしたまへる。御身は飢えを忍ばれて、旅路につかれし伍子胥さま、石を抱き江に投ぜし浣紗女を忘るるなかれ。（入水し、退場）
（正末）ほんとうに賢い娘だ。わたくしの一身のため、一命を失った。仕方ない。後日志を得たときは、きっとこの水辺におんみの祠堂を建てて、貞烈を表彰し、一飯の恩に報いよう。（唱う）
【罵玉郎】かの人は生まれつき、野なかの水の荒れたる村に住まひして、かつて古人の書物を読みしことなきに、なにゆゑぞ英雄のため甘んじて紅顔を失へる。かの人のため、像を設くる祠を建てて、節を記せる碑を建てざるを得ず。これはすなはちわが一点の恩に報ゆる心をぞ示すなる。
（言う）はやくも川のほとりに着いたが、渡ろうとしても船がない。どうしたらよいだろう。はるかに一隻漁船が見える。漁師どの、船に棹さしてきてくれ。
（外が閭丘亮に扮して登場、詩）船は穏やか、湖は平らかなればゆるゆる進み、こつそりと鉄笛を二三たび吹く。江湖のほとりに隠れてからは、ふたたび人の戦を説くを聞くことぞなき。
わたくしは閭丘亮。若いとき、朝廷に出仕して、今は年老い、職を棄て、閑居して、江湖のほとりに身を隠し、漁をして生計をなしている。向こうの岸で、一人の男が渡してくれと叫んでいるが、尋ねてみよう。どなたがいらっしゃったのでしょう。
（正末）漁師どの、いそいで船に棹さして、わたしを向こうへ渡してください。
（閭丘亮）どなたであるか仰ってくだされば、おんみを渡してさしあげましょう。
（正末）わたくしは楚の将軍の伍員です。
（閭丘亮）おんみが伍盟府さまですか。
（正末）わたくしが伍盟府です。
（閭丘亮）とりあえずお待ちください。（船に棹さし、言う）盟府さま、どうかお乗りになってください。あの馬も牽いてきてお乗せください。おんみを渡してさしあげましょう。
（正末が乗る）
（閭丘亮）はやくも岸につきました。
（正末）ありがとう、漁師どの、このご恩には、後日かならず手厚く報いることにしましょう。
（閭丘亮）盟府どの、お腹が空いてらっしゃるでしょう。
（正末）もちろんお腹が空いております。わたくしは大したことはございませぬが、この若さまは、一昼夜、ご飯を食べてらっしゃらぬのです。
（閭丘亮）いささかのお酒とご飯を調えて、盟府さまに食べさせてさしあげましょう。とりあえずこの葦の中に隠れて、人に見つからないようになさってください。わたくしがまいりましたら、「蘆中の人」と叫びますから[41]、おんみも「まことにこれあり」と答えてください。これを暗号といたしましょう。
（正末）わかりました。
（閭丘亮）お酒とご飯を家から取ってまいります。（退場）（ふたたび登場、言う）蘆中の人。
（正末）まことにこれあり。
（閭丘亮）一壺の濁酒、一甌の魚の羹、一盂のお米のご飯にございます[42]。ひとまず飢えを満たしてください。
（正末）ありがとうございます。漁師どのは、川を渡してくださった上、さらにお酒とご飯を恵んでくださいました。このご恩には、きっと手厚く報いることといたしましょう。お尋ねしますが、漁師どののご姓とお名は。
（閭丘亮）わたくしは、楚の大夫閭丘亮です。年老いたため、朝廷を辞し、川のほとりで、魚を捕らえ、暮らしております。このたびは、盟府さまが楚から急いで逃げられていることを知り、川のほとりに船を停め、わざわざお待ちしていたのです。
（正末）ありがとう。ご老人、わたくしの身のまわりには何もござらぬ。先生に馬をお送りしたいのですが、わたくしの脚の代わりにしなければなりませぬ。ただ一振りの白金の剣を、ご老人に差し上げて、船賃といたしましょう。
（閭丘亮）盟府さま、それはなりませぬ。御身はもともと一世の豪傑で、不幸にもご父兄が災難に遭われたために、鄭や呉に逃げられたのです。わたしがこちらで舟を泊め、お待ちしておりましたのは、お礼を望んだからではござらぬ。どうかお収めなさいまし。二度と下さる必要はございませぬ。
（詩）千金の宝剣は呉鈎にまさり、一片の精光は斗牛を射たり。蔵しなば、氷にはあらざれど、寒きこと凛凛として、舞はしなば、雨にはあらねど、激しきさまは颼颼たり、身に帯びば忠臣の胆を壮んならしめ、手に入らばよく逆賊の頭を撃ちて、君にはおのづと仇人あれば、持ちゆきて復讐すべし。わたしは収むるわけにはゆかず。
（正末）ご老人、この剣を軽くみられないでください。この剣を秦穆公は臨潼会でわたくしに賜わられ、わたくしを盟府としたのでございます。
（閭丘亮）今、楚の国のお触れでは、伍員を捕らえたものは黄金万両を与えられ、執圭[43]の爵位に至ることができます。これらのものを欲しがらないのに、一振りの剣を欲しがったりはしませぬ。盟府どの、おのずから役立つことがございましょうから、なにとぞお持ち帰りください。
（正末）ご老人、お収めください。（唱う）
【哭皇天】御身はもともと滄江[44]の煙波の侶[45]、葦の中にて飢えしわたしを哀れまれたり。この剣は半潭の寒き秋水に、一片の月光の浮かぶがごとし。わたしはもともとまことの心で、まことの心でお送りせんとしたるなり。与へずば大恩に報ゆることは難くして、与へば礼意は軽からん。
（閭丘亮）将軍さま、この剣はお持ちになられ、ご父兄のため復讐なされよ。
（正末が唱う）かれはわたしが復讐するとき、復讐するとき役に立つことあらんといへり。
（正末）これにてお別れいたしましょう。ご老人には、残りの漿を漏らされぬようお願い申しあげまする。
（閭丘亮）盟府さま、ご安心なされませ。わたしがどうして秘密を漏らし、御身の大事を損ねたりいたしましょうや。
（正末）わたくしが去った後、もしも追っ手がやってきて、ご老人に問われましたら、どのように隠し立てなさいましょうか。
（閭丘亮）死ぬまで話しはいたしませぬから、お心を安らかにして行かれませ。
（正末）ご老人、たとい兵士がわたくしを捕らえても、わたくしの死は惜しむには足りませぬ。ただ惜しいのは、わが三百人の家族らの復讐をする時がなくなってしまうことです。
（閭丘亮）盟府さま、どうしてわたしを疑われるのでございましょう。御身が去られました後、わたくしはすぐこの船を川に沈めて、ふたたび人を渡しませぬが、いかがでしょうか。
（正末）ご老人、そうではござらぬ。想えばわたしは臨潼会で、十七か国の諸侯を守り、帰還させましたのに、このたびは三百人の家族を殺害されました。このような恨みをどうして忘れることができましょう。後ろから喊声がだんだんと近付いてまいりました。追っ手が来たのでございましょう。わたくしは行きますが、ご老人、残りの漿をお漏らしになられませぬよう。
（閭丘亮）盟府さま、心安らかに行かれるようにしてあげましょう。わたしには子があって村厮児ともうします[46]。やがて願いを遂げられましたら、この子をお忘れなさいませぬよう。盟府さま、剣を貸して、わたくしにお見せください。
（詩）行くに臨みてさらに徘徊することはなし、残りの漿を漏らすべきにはあらざることは、とうに知りたり。風に向かひて頸を刎ね、公子にお別れいたさん[47]。船はむなしく月明を載せて帰らん[48]。
（退場）
（正末）ああ、まことに忠臣烈士なり。羋勝さま、しっかりと憶えておかれますように。
（唱う）わたくしがたちまちに多くのことを忘るとも、心の中に憶えておかれたまへかし。
【烏夜啼】このたびは、漁父をも自刎させたりしかば、覚えずわれはかのもののため顔を掩ひて嘆きたり。漁師どの、落霞に低く伴ひ孤り飛ぶ鶩をふたたび見ることもなかるべし[49]。なにゆゑぞむざむざと故郷を棄て、死して江湖に葬られたる。これよりは半瓶の濁酒があらんとも誰か沽ふべき。残されし野の水に渡す人なく、芳しき草の洲と、垂楊の路には話す人はなく、樵はいたく閑にせり。
（言う）ああ、誰をしてかのものを埋葬せしめん。この腰の剣を抜くを免れず、（唱う）
【煞尾】わが剣をもて川のほとりの葦を刈り、とりあへず覆ひかくせり。御身は水国龍宮にひとまずおはしたまへかし。急ぎ戻りて楚を破りなば、ここに来て、わづかに顔を見知りたる恩義ある丈夫の御身を拝せん。おそらくは痛哭するに忍びざるべし、（嘆き、唱う）漁師どのと石を抱き江に投ぜし浣紗女を死なしめたれば。（退場）
（浄が老人に扮し、丑が里正に扮し。ともに登場）
（老人の詩）段段たる田の苗は遠き村へと連なりて、酔ゑば手を携えて児孫と遊べり。刨鋤[50]に勤むるのみなれど、天公の雨露の恩にぞ頼りたる。
わしはこの丹陽県の老人じゃ。さいわいに、毎年清平無事であるため、たくさんの米と麦とを収穫し、多くの桑と麻を植え、百姓たちはほんとうに楽しくしている。われらが丹陽県には牛王廟があり、秋の収獲をした後、この村の家々は順番にこの牛王社を祀っている。近年来、神迎え、神送りの時になると、どこからか大きな男がやってきて、いつもご馳走になっている。われわれがお酒を飲むと、そのものは簫を吹き、いずれにしてもたっぷりと飲んではじめて去ってゆくのだ。今日また来たら、どうしよう。
（里正）社長[51]どの、ご安心なさいませ。本年の賽社[52]は、わたしが社頭になる番です｡わたしは今から大勢の農家の若者たちを呼び、あの簫を吹く男が来たら、若者たちを打ちかからせて、あいつに酒を飲ませないようにしましょう。酷い目に遭わせれば、これからは来ぬことでしょう。よろしいでしょうか。
（老人）おんみの仰る通りです。人々を呼んできて相談しましょう。
（里正）当村の若者を呼びましょう。無路子、沙三、伴哥、牛表、牛筋よ、いっしょに来るのだ。
（無路子が登場、言う）まいりましたよ、まいりましたよ。
（詩）殴り合ひ、争ひて、死をも恐れぬことのみが取り柄なれども、人々はわが姓名を知らざれば、われを無路子と呼びなせり。
わたしは無路子だ。かれらはすべてこの村の若者だ。わたしの膂力は人より勝れ、強い男をもっぱら殴ることにしている。家でぼんやり坐っていると、社長がお呼びだ。会いにゆこう。（無路子が衆と会い、言う）ご老人、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（老人）みなの衆、来られましたな。ご老人、命令をお願いします。
（里正）無路子よ、今年の牛王社の祭りでは、わしが社頭じゃ。年ごとに、神さまの送り迎えをするときに、よそから来たあの大きな男が、簫を持ち、なにやら吹いて、いずれにしても、たっぷりと飲んでから去ってゆくのだ。あいつには、さんざんご馳走してやっている。今年また来たときは、おまえたちが捕まえて殴りつけ、追い出してくれ。門を閉じ、気儘に酒を飲むとしよう。おまえたちはひたすら殴り、殴り殺したら、命を償うことにせよ。
（無路子）ご老人、どうして呼ばれたのだろうかと思いましたが、簫を吹くあいつに賽社を邪魔されるのを恐れてらっしゃったのですね。あいつが来たら、わたしが殴りにゆきましょう。ご老人、ご安心なさいまし。簫を吹くものが一人のときはもちろんのこと、十人いても、みな追い出してさしあげましょう。
（老人）無路子よ、あいつを追い払ったら、きっとおまえを酔わせてやろうぞ。
（無路子）ご老人、ご安心なさいまし。あいつが来たら、わたくしはあの馬鹿者の鼻を殴ってすっかり潰してやりましょう。
（衆）われわれも助太刀をいたしますから、あいつを殴ってくださいまし。
（里正）いいことを言うものだ。わしらはゆっくり祭りをしよう。
（正末が簫を吹き登場、言う）こつそりと樊城を出でてより、初めは鄭に投ぜしも、いかんせん、鄭国の子産は無礼なりしかば、それがしにより、郵亭をしぞ焼かれたる。呉国に到り、幾たびか兵を借りんとしたれども、呉王は諾ふことぞなき。この地にて流落し、簫を吹き、日を過ごし、今に至るまで十八年、はやくも老いたり。
（詩）そのかみは、馬に鞭打ち、昭関[53]を過ぐれども、讐に報ゆることなくばいずれの日にか還るべき。世人は簫を吹く客と思ひなせども、なんぞ知らんや、わが一天の豪気の半生空しきを。
（唱う）
【中呂粉蝶児】いずれの日にか西へ帰らん。天涯に困しみて、一身を旅路にあらしむ。端無くも歳月の馳するがごときことを恨めり。人はみな貧者に傲り、富者に諂ひ、われをして、ともに歓び、ともに会ふことなからしめたり。十数の宴に行くも徒にして、持て成しをするものぞなき。
【酔春風】われは今、白髪頭で他郷にて留まれり。青春にして故国を離れ、短簫の一曲により衣食を覓め、つねに恥ぢたり。この村にては、かやうなる人物が、かやうなる時運に逢へり[54]。
（言う）あちらでは牛王社を祭っているから、一曲吹いて、一杯の酒をもらって飲むとしよう。
（正末が老人に会い、言う）ご老人、こんにちは。
（老人）こいつめ、また来たな。どうしたらよいだろう。若い衆、力を込めて追い出してくれ。
（無路子）この恥知らずめ、ほんとうに来たのだな。はやく出てゆき、打たれないようにするのだ。（正末を推す）
（正末）一曲を吹き、一杯のお酒を飲ませていただくのです、なにも悪くはございませぬ。
（無路子）この者は話しても聴かぬわい。若者たちよ、助太刀するのだ。わたしがこいつを追い出そう。（推す）
（外が鱄諸に扮し、酔って突然登場、言う）わしは鱄諸じゃ。東荘里[55]では牛王さまのお社を祭っているから、兄弟たちと幾杯かお酒を飲みにゆくとしよう、一群の人々がなにゆえかように騒いでおるのだ。人を掻き分け、看てみよう。（正末に会い、言う）まことに大きな男だわい。なぜ人々に虐げられているのだろう。こら。おまえたち、無礼は許さぬ、（人々を打つ）
（無路子）わしらはかれには近付けぬ。おまえたち、わしといっしょに逃げるのだ。（ともに退場）
（正末が唱う）
【石榴花】街に満ちたる人々は東西に散り、人々は酔ふこと泥のごときなり。
（鱄諸が怒り、言う）こいつめ、好漢を打とうとするなら、わしがおまえと相手になろう。[56]
（旦児が衣服を換え、杖を持ち登場、言う）鱄諸や、また来たのかえ。誰を打つつもりだえ。
（鱄諸が恐れ、言う）打つなどとんでもございませぬ。
（正末が唱う）かのご婦人は、かの人の妻ならん、虎の威をすつかり屈服せしめたり
（鱄諸が跪き、言う）わたくしは一時乱暴いたしましたが、もういたしませぬ。
（正末が唱う）かの人[57]は、がばと通りに跪き、かの人[58]が頭を過ぐる杖を手に持ちたるを[59]、じつと見て、さらにいかなる仕打ちをせんとするかを知らず。
（鱄諸が悲しみ、言う）これは母じゃの遺された教えです。わたしが悪うございました。
（旦児）鱄諸や、背中を向けなさい。
（鱄諸が背を向ける）
（正末が唱う）かの人は、たちまちに背を向くべしと一声叫べり。
（旦児が打ち、言う）十、二十、三十。
（正末が唱う）手を休めずに、続けて二三十たび打てり。
（鱄諸）もう二度と事件を起こしはいたしませぬ。
（正末が唱う）
【闘鵪鶉】このものは、むなしく男児の襟懷あり、ああ、かの婦人も、夫妻の道をなみしたり。
（旦児）さっさと家にお行きなされ。
（鱄諸）わたしは家に帰ります。（鱄諸が旦児とともに歩く）
（正末）好男子かと思いきや、
（唱う）その実は、妻を恐るる恥知らず、良民を脅かす、良民を脅かすごろつきなりき。汝を知るは、汝を知らざることにぞしかざる。とりあへずゆるゆると、かのものに詳しく尋ね、初めから終はりまで語らしむべし。
（旦児）鱄諸さま、家に来られてくださいまし。
（鱄諸）入り口に着いたわい。この門に入るとしよう。
（旦児が衣衫を脱ぎ、杖を置き、跪き、言う）わたくしをお咎めにならないでくださいまし。これは母上の遺言で、わたしとは関わりはないのです。
（鱄諸）妻よ、立つのだ。これはもともと母上の遺した教えなのだから、そなたを咎めることはできない。
（正末）まことにおかしい。なぜあの女は、家に着いたら、服を脱ぎ、杖を放して、あの大男に跪くのか。何を喋っているのかは、すぐには分からぬ。とりあえず一声掛けて、会わせてもらうことにしよう。（咳をする）どなたかいらっしゃいますか。
（鱄諸が正末に会い、言う）なにとぞ中にお掛けください。
（正末）先ほど貴兄が、農民たちを、追い払ってくださらなければ、わたくしはまことに酷い目に遭っていたことでしょう。
（鱄諸）おんみのような男のかたが、あいつらに虐げられて、よかろうはずがございませぬ。わたくしはまことに不満だったのでございます。
（正末）先ほどのご婦人はどなたなのです。
（鱄諸）尋ねていかがなさいます。
（正末）なぜあのように怕れていらっしゃったのですか。
（鱄諸）偽らず申し上げましょう。あれはわが妻田氏です。
（正末）わたくしは、この土地のものではないため、この土地の風習を知りませぬ。わたくしの土地とはまったく違っております。
（鱄諸）わが丹陽の方ではなかったのですね。わたくしは妻を恐れているのではございません。わたくしは普段から心が粗暴で、路で不正を見たときに、すぐ人と殴り合い、いつも事件を引き起こすため、母親は亡くなる時に遺言し、わたくしが事件を起こせば、妻が母親の服を着て、手に杖を持つようにさせたのでございます。わたくしはこの二つを見れば、母親に会ったのもおなじこと。わたくしはそれゆえに恐れていたのでございます。
（詩）わたくしに何ゆゑなりやと尋ねられたり。路にて不正を目にすれば、刀を抜きて助けたるなり。衣服と杖は母の遺ししものなりき。鱄諸が女房を恐るることのあるべきや。
（正末が背を向け、言う）この人が力を貸してくれるなら、きっと恨みに報いることができるだろう。このようにするしかあるまい……これぞまさしく、「鉄の鞋を踏み破りても見つからざりしが、得るときはまつたく時を費やすことなし」[60]。友達になってくださいませぬか。（拝礼をする）
（鱄諸が避け、言う）お立ちください。お立ちください。
（正末が唱う）
【迎仙客】兄じやよどうか拝礼を受けたまへかし、疑ふなかれ、かねてより、お名前は、存じあげたりしかど、面識のなかりしことは惜しむべし。
（鱄諸）わたくしにどのような取り柄があって、目を掛けてくださったのでございましょう
（正末が唱う）面識のなかりしことを許されよかし、わたくしはまことに人を識らざりき。
（鱄諸）わたしはおんみと面識がございませぬのに、おんみはどうしてわたしを拝して兄弟となられるのです。お尋ねしますが、ご姓とお名は。
（正末が唱う）わが姓と名を問はるるや。
（鱄諸）お幾つでしょうか。
（正末）わたくしは徳を拝して年を拝せず、
（唱う）まことに言へり、四海はすべて兄弟なりと。
（鱄諸）お見受けしますに、おんみは体は凛凛として、顔は堂堂たるものにございます。落魄れたお方ではございますまい。ご姓とお名はいったい何と仰るのです。
（正末）姓と名をお尋ねですが、わたくしは楚の伍員なのです。
（鱄諸）盟府となられた伍員さまなのですか。
（正末）その通りです。
（鱄諸）かねてから、将軍さまのお名前は、承っておりました。聞けばおんみは臨潼会で、白金の剣を掛けて盟府となられ、十の大きな功績が天下に広まりましたのに、何ゆえに今日こちらで流落されているのでしょう。
（正末）ご存じございますまいが、想えばむかし、秦穆公は臨潼会で、宝比べの会を設けて、十七か国の諸侯を駆って、すべて会へと赴いてこさせたのです。それがしは、文才は百里奚より優れ、武藝は秦姫輦に勝り、蒯聵を拳で殴り、卞荘を脚で蹴り、白金の剣を掛けて盟府となって、戯れに千斤の鼎を挙げて、手で秦王を脅かし、みずから函谷関の外へと送らせたのでございます。
（鱄諸）将軍さまは、まことにこの世の虎将[61]です。
（正末が唱う）
【快活三】人前で武芸を論じ
（正末が簫を引き寄せる）
（鱄諸）一本の簫ですな。
（正末が唱う）今もなほ兵機を説けり。
（鱄諸）将軍さまがおわしませねば、諸侯らは潼関を出られなかったことでしょう。
（正末が唱う）われもかつては千鈞の宝鼎を手中に提げ、諸侯を守り、秦の地を離れしめたり。
（鱄諸）御身は楚国の大将でしたが、本日、丹陽県にあり、簫を吹きつつ日を過ごされるは、ほんとうになにゆえにございましょうや。
（正末が唱う）
【朝天子】兄じやよ、御身はなどてか、などてかわたしの事情を知ることあるべき。臨潼会の話をするはやめたまへかし。
（鱄諸）ほんとうになぜ来られたのです。
（正末が唱う）ありがたや、御身は、御身は、わたくしの今日を問はれたり。英雄はひどく不当な目に遭へり。
（鱄諸）将軍さまは誰かと争われたのでしょう。
（正末が唱う）わたくしはかの費賊[62]、費賊のために妬まれぬ。
（鱄諸）ああ。費無忌ですか。あの者があれやこれやと讒言しても、将軍さまには大功があるのですから、楚王が裁きをしてくださったことでしょう。
（正末が唱う）楚の平公もまことに酷きことをせり。
（鱄諸）将軍さまのご父君は、どのような官職でしたか。
（正末が唱う）わが父はまさに諫議の職にあり、諫めたれども従はれずに斬られたり。
（鱄諸）一人が諫めて従われないときは、二人して諫めるものです。
（正末）わが兄も諫めましたが、一人が諫めて、一人が殺され、二人が諫めて、二人が殺されたのでございます。
（唱う）わが父がまず傍州例となれり。
（鱄諸）ご父兄の仇があるのでしたら、恨みは軽くはございませぬから、数人の賢者を求め、ともに楚を破れば、まことに宜しいことにございましょう。
（正末）本当にそうしたいのですが。この土地に賢者はいませぬ。
（鱄諸）この土地に賢者はおります。おんみはどこを探されたのです。
（正末）わたくしは樊城に逃げた時、二人の賢者に会ったのですが、惜しいことに、いずれも死んでしまいました。
（鱄諸）どのような賢者だったのですか。
（正末が唱う）
【上小楼】一人の漁師は一時の誼のために、首級をみづから刎ねられて、一人の紗を洗ふ娘は、脚に清らな波を踏み、手に頑き石を抱きて、ぽとんと江に跳び込みたりき。かの老人は、男なれば、仁をなすべき時を避くべきにはあらざりたりしかど、十三四歳の女は惜しむべきものなりき。
（鱄諸）将軍さまはご存知ございますまいが、この地にも賢者がおります。
（正末）どなたが賢者なのでしょう。
（鱄諸）わたくしが賢者です。
（正末）おんみが賢者であるのなら、わたしとともに楚の国を破られますか。
（鱄諸）まいりましょう。将軍さまがお嫌でなければ、おんみのために、ともに楚の仇に報いて、万死も避けはいたしませぬ。
（正末）後悔をなさいませぬよう。
（鱄諸）大丈夫の一言は、駟馬さえも追い難いもの。後悔したりはいたしませぬ。
（正末）これで決まった。
（鱄諸）わたくしは、まいるにはまいりますが、妻に知らせておりませぬ。
（旦児が突然登場、言う）鱄諸さま、どちらへ行かれるおつもりですか。
（鱄諸）おまえは存じておるまいが、この方は楚の将軍の伍員さま、わたしと結義し、兄弟となったのだ。ご父兄の仇に報いてらっしゃらず、われらが丹陽県には賢者がおらぬと言われた。百歳の死も遅くはなく、三歳の死も早くはない。死して名がないことだけが恐ろしい。この方とともに行き、楚を破りたいのだが、どう思う。
（旦児）鱄諸さま、この方は恨みを持たれてらっしゃいますが、おんみとは関わりはございませぬ。二つのものをもう一度、取り出しましょうか。
（鱄諸）その通りだな。「家に賢き妻あらば、夫は災禍に遭はぬもの」。
（正末）兄じゃ、後悔なさっているのではございませぬか。
（鱄諸）将軍さま、お咎めになられませぬよう。わたしは行けなくなりました。
（正末が唱う）
【満庭芳】承知したのにどうしてやめてしまわれるのです。
（言う）先ほど仰いませんでしたか。
（鱄諸）わたしがなんと申しましたか。
（正末が唱う）「一言がすでに出づれば、駟馬すらも追ふは難し」と。
（鱄諸）申すには申しましたが、行くことはできませぬ。
（正末が唱う）御身はかやうに生を貪り、死を恐れ、仁義のなきか。
（言う）行くことはできますか。
（鱄諸）行けませぬ。
（正末）おんみは立っていてください。わたくしは坐っていましょう。（鱄諸を推す）
（唱う）八拝の礼[63]をお還しください。
（鱄諸）ああ、わたくしは、みずからが好漢であると思ったが、この人も好漢だ。おんみに百回拝礼をいたしましょう。
（正末が唱う）御身はむなしく天地を支へ、あだに眼と眉を帯び、ひたすらにごまかして、奥さまに抑へつけらる。
（鱄諸）わたしは妻が恐いのではなく、わたしの母の遺言のため、二つのものが妻の手にあるために、逆らうわけにゆかぬのでございます。
（正末が唱う）偽りの孝行、慈悲は許されず。
（鱄諸）いいでしょう、大丈夫の一言は白きを染むるがごとくして[64]、死んで名を残さぬことが恐ろしゅうございますから、母親が生き返っても、おそらくわたしを阻めますまい。妻よ、「父母が在さば、友人のために死すべからず」[65]といわれているが、今やわが母は身まかったのだから、良友のため、命を抛ち、復讐しても、不孝とはいえないだろう。妻よ、わたしの心はすでに决まった、良くても行くし、悪くても行こうと思う。将軍さま、妻はいずこに身を落ち着けましたら宜しいのでしょう。
（旦児）鱄諸さま、どうしても行こうと思われるのならば、賢者にはなられても、孝子にはなられますまい。いいでしょう、おんみがお心安らかに行かれるようにいたしましょう。
（剣を取り、自刎する）
（詩）盟府は呉国に身を寄せて、軍隊を借りんとしたれば、男児の意気に同行を約したり、紅塵は鱄諸の迹を顕はさざるに[66]、青史には先に田氏の名をば示せり。（退場）
（鱄諸）ああ、妻は自刎しました。将軍さま、おんみのせいでわたしの一家は死に絶えました。
（正末）鱄諸どの、ご一緒に楚を破り、復讐しましょう。
（鱄諸）いいでしょう。今日はおんみと復讐しにゆくことにしましょう。楚を破らねば、誓って呉へは帰りますまい。
（正末が唱う）
【尾声】わたしが語る必要はなし、わたしが語る必要はなし、すべて御身が頼りなり、すべて御身が頼りなり、父兄の仇を思ひ起こせば、怒りのためにわが肝と腸は碎けたり。
（言う）いつか費無忌を捕まえて、
（唱う）あやつの胆と心を抉りて、わが祭卓[67]の供物とすべし
（ともに退場）
楔子
（外が楚の昭公に扮し、兵卒を連れて登場、言う）それがしは楚の昭公じゃ。秦穆公が臨潼で宝比べをした後に、伍員は十の大きな功を建てたため、わが父の平公は、あのものを三保大将軍、樊城の太守に任じた。少傅[68]の費無忌は、こっそりと讒言をして、あのものの父の伍奢、兄の伍尚と三百人の家族をすべて殺害させた。さらに息子の費得雄を遣わして、伍員を騙しにゆかせたが、伍員はそれを見破って、こっそりと樊城を出て、呉の国に身を寄せた。このたびは、十万の精兵を借り、我が国に侵攻してきた。ひそかに思うに、将兵が少ないために、敵対するのは難しかろう。費無忌が恨みの種をまき、この禍を招いたのだから、かれを呼び出し、伍員と戦わせることにしよう。門番よ、費無忌を呼んでまいるのだ。
（兵士）費無忌さま、どちらにいらっしゃいますか。
（費無忌が登場、詩）その昔、意を得しときは、まだ若かりしも、今やみるみる老いが到れる。子胥が讐に報いんとするを聞き、日ごとに眼はぴくぴくす。
わたしは費無忌、伍員がひそかに樊城を脱出してから十八年。あのものは呉に身を寄せて、十万の兵を借り、楚と戦おうとしている。主君がお呼びだ。おそらくはこの事のためだろう。門番よ、取り次ぎをして、費無忌が来たと申すのだ。
（兵士が知らせる）費無忌さまがいらっしゃいました。
（楚昭公）通すがよい。
（兵士）お入りください。
（費無忌が会い、言う）王さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご相談でしょう。
（楚昭公）費無忌よ、今や伍員は楚に背き、呉に身を寄せて、十万の精兵を借り、わが国を破ろうとして、おまえが出馬し、戦うように挑んでおるぞ。三万の人馬をやるから、伍員と交戦するがよい。心して、功を収めて戻ってまいれ。
（費無忌）わたくしは、若者であった時には、鋒を交えて、馬を出すことができたのですが、今や年老い、気儘で楽しい暮らしに慣れておりますから、どうしてふたたび陣頭に行き、首を賭ける商売をすることができましょう。王さま、ほかに屈強のものを遣わして、老いぼれをお許しください。
（楚昭公）この禍は、もともとそなたが招きしものぞ。そなたが行かずば誰をしてゆかしめん。（剣を挙げる）もし行かずんば、まず老いぼれのそなたを殺し、陣頭で号令をせん。
（費無忌）王さま、短気はなりませぬ。わたくし費無忌がまいりましょう。本日は三万の人馬を選び、伍子胥と戦うことにしましょう。
（詩）軍勢は、わたくしが伍員と戦はんとせる命令を伝ふるを聴く。そのかみは、かのもののまことの父と兄を殺せば、本日は、老いたる命を棄てんとすなり。（退場）
（楚昭公）費無忌は行ってしまったわい。わしは二公子羋旋とともに、将台[69]の上に行き、かれと伍員の决戦を見るとしよう。（退場）
（費無忌が兵卒を率いて登場、言う）わたしは費無忌。王さまの御諚を奉じ、三万の人馬を率い、伍子胥と决戦せんとせり。三軍の将兵は、陣を布きたり。遙かなる塵土の立てる処には、呉の兵が来たるらん。
（正末の馬が登場、言う）わたしは伍員。呉に到り、十万の精兵を借り、楚を攻めて、費無忌を捕らえようとしている。三軍の将兵よ、きちんと並べ。
（費無忌）やってきた将軍は何ものだ。
（正末）それがしは伍員なり。貴殿は誰か。
（費無忌）わしを知らぬか。わしは費無忌じゃ。
（正末）奸賊め、すみやかに馬を下り、死ぬがよい。わが父と兄の怨みに、今日はかならず報いよう。
（費無忌）そのほうはじじいの前で、空の靴を探り、響く屁を嚔り、そのように大きなことを抜かしておるが[70]、わしと戦う勇気があるのか。
（正末）こ奴はまことに無礼なり。太鼓を鳴らせ（戦う）（唱う）
【仙呂賞花時】かのものは、馬を躍らせ、真っ先かけて戦へば、思へずわれは怒気を生じて、憤りをぞ加へたる。かのものは、こつそりと奸策を弄ぶものなれば、本日は油断をするは許されず。
（費無忌）おまえにはかなわない。逃れよう。逃げろや逃げろ。（退場）
（正末）こ奴め、どこへ逃げるのだ。
（唱う）手を伸ばし、汝を活け捕りにせんとせり。
（費無忌は逃げ、正末は追う）
（鱄諸が突然登場、言う）捕まえましたぞ。（費無忌を捕らえる）
（正末）費無忌は捕らへられたれば、三軍の将兵は、すみやかに郢城に突入すべし。ただ惜しむらくは、楚の平公はすでに死すれば、かれの墳墓を掘り起こし、骸を取り出し、三百回みずから鞭打ち、父兄の仇に報ゆべし。
（詩）はやくも賊臣無忌を捕らへて、平王の墓を掘りたり、鋼の鞭もて骸を三百回打ちて、はじめて胸の恨みを雪がん。
（ともに退場）
第四折
（外が鄭子産に扮し、兵卒を率いて登場、言う）わたくしは、姓は公孫、名は僑、字は子産ともうし、鄭の簡公さまの配下で、上卿の職にある。その昔、伍子胥は父兄の仇のため、楚を棄てて、こっそりと樊城を脱出し、公子羋勝を携えて、わが国に身を寄せて、兵を借り、楚を破ることを望んだ。わたくしは、おのおのが一国の霸者となるべきで、怨みを結ぶわけにはゆかぬと考えた[71]｡そこで一計を案じて、駅亭に伍員を留め、宴を調え、持て成して、酒席にひそかに武装した兵士を蔵し、金鐘を撃つのを合図に、伍員を捕えようとした。はからずも、伍員はその意を窺い知って、駅亭を焼き、羋勝とともに、夜に日をついで、呉に逃げていってしまった。このたびは、兵を借り、楚を破り、費無忌を生け捕り、平王の死骸をみずから鞭打った。思うに、子胥は一飯を忘れることなく、片言にかならず報いる者だから、かならずや兵が勝利を得たのに乗じて、わが国に侵攻してくることだろう。いかんせん、将兵は弱く少ない。いかにしてかれを防いだものだろう。このたびは、触れ文を出し、わが国を伍員が討たないように説得するものがあるときは、そのものを万戸[72]に封じ、千金を賜うとしよう。すでに数日、掲示している。兵士よ、見張りをしているがよい。触れ文を剥がす者があったら、わたしに知らせよ。
（兵士）承知しました。
（丑が村厮児に扮して登場、詩）長江に短棹をもて生業をなし、千尋の浪に年を過ごせり。何処にありやと人が問ひなば、蘆花の岸こそわが住まひなれ。
わたしは村厮児。わが父は閭丘亮、楚にて上大夫の職にありしかど、楚の平公の不道を見しため、職を棄て、朝廷を辞し、この川のほとりにて、魚を捕らへ、生計をなす。折しも伍子胥が難を避け、川のほとりに到りしも、追手はすぐに迫りたり。わが父は、深く伍子胥の怨みを知りて、長江を急いで渡し、お酒とご飯を贈りたり。かの子胥は白金の剣を残して謝せんとせしも、わが父は再三拒めり。別れに臨みて、かの子胥は、残りの漿を漏らすなかれと告げたりき。わが父は「わたしには一人息子の村厮児あり。もしも願ひを遂げたまひなば、この子をな忘れたまひそ」と言はれぬ。憐れむべし、わが父は、船を沈めて、命を棄てて、今も葬らるることぞなき。聞くならく、子胥は呉の兵を借り、楚を破り、鄭に近づきたりしとか。このたびは、触れ文が掲げられ、兵を退くる策を求めり。想へば父はかつて伍子胥に大恩を施したりき。わたしが触れ文をば剥がし、事情を知らせば、子胥はかならず兵を収めて、戦を罷めて、わたしは褒美を手にすべし。触れ文を剥がすこととせん。
（兵士が知らせ、言う）お知らせ申しあげまする。一人の農家の若者が、触れ文を剥がしました。
（鄭子産）こちらへ通せ。
（兵士）行くがよい。
（村厮が会う）
（子産）そこの者、どのような計略があり、触れ文を剥がしにきたのだ。
（村厮）大人さま、わたくしは農民ですが、直接に伍子胥に会ってかならず兵を退けさせる計略がございます。
（子産）それならば、おまえに手厚い旅費をやり、伍子胥に会いにゆかせよう。兵を退けさえすれば、かならずや官位を加え、褒美を賜わることにしようぞ。心せよ。
（村厮）では、大人にお別れし、長の旅路につきましょう。
（詩）想へば父はなにゆゑに命を棄てしか、伍相はかならず兵を収めん。
（子産の詩）恙無く鄭を守らば、必ずやそなたに手厚き爵賞を取らすべし。
（ともに退場）
（外が呉王闔廬に扮し､兵卒を率いて登場、詩）わが父諸樊は名を慕ひ、ことさらに呉の国を延陵に譲らんとせり[73]、王僚[74]がこの意を知らば、魚腸[75]はなどてか残生を葬りさるべき。
それがしは呉王闔廬、名は姫光なり。楚国の費無忌は讒佞なれば、伍奢と伍尚と三百人の家族とを、罪なけれどもすべて殺せり。かてて加へて、費得雄をば樊城に遣はして、伍子胥を騙し、ともに殺害せんと望めど、子胥はひそかに樊城を脱け出でて、わが国に身を寄せて、十万の兵を借り、楚の国を討ちにゆき、両陣の間にて、費無忌を生け捕り、凱歌を奏でて帰還せり。子胥は言ひたり。樊城を逃げし時、二人の賢き人ありと。一人は紗をば洗へる娘。一人は漁父の閭丘亮。紗を洗ふ娘には、母親の浣婆婆があり、閭丘亮には一人息子の村厮児があり。みづからの褒章を棄て、二人のものに与ふることを望めるは、恩と讐とに報いんとする、豪侠の仕業ならずや。
門番よ、羋勝を呼んできておくれ。
（兵士）羋勝さま、いずこにいらっしゃいますか。
（羋勝が登場、詩）そのかみ、楚を去りたるときは、赤子にて、伍相の胸に抱かれたりき。いかんせん昭公はわが位を奪へば、今に到るも笑顔の開くことぞなき。
それがしは楚の公子羋勝なり。祖父平王は無道にて、費無忌の讒言をば信じ、伍奢、伍尚一家を殺し尽くしたり。なほも満足することはなく、息子の費得雄を遣はし、伍子胥を騙し、朝廷に入らしめんとせり。わが父羋建はそのことを知り、それがしを懷に抱き、樊城に逃げ、事情を告ぐれば、子胥ははじめて逃ぐるを得たり。鄭の国よりこの地に至り、呉王のお蔭を蒙りて、大軍を借り、費無忌を生け捕り、勝利を手にして帰還せり。
呉王さまがお呼びだから、行かねばなるまい。門番よ、取り次ぎをして、羋勝が来たともうすのだ。
（兵士が知らせ、言う）大王さまにお知らせもうしあげまする。公子羋勝さまがお越しになりました。
（呉王）お通しするのだ。
（兵士）行かれませ。
（羋勝が会い、言う）大王さまの兵を借り、怨みに報ゆることを得たれば、死すとも忘るることはなからん。
（呉王）公子どの、おんみの家の事情はわたしと同じです[76]。おんみは平王さまの長孫、王位はおんみのものですのに、昭公[77]どのは王位を還さず、おんみは国を失っていらっしゃいます。わたくしに何の功がございましょう。門番よ、伍子胥を呼んでまいるのだ。
（兵士）子胥さまはいずこにいらっしゃいますか。
（正末が鱄諸とともに登場、言う）それがしは、伍員なり。これなるは、鱄諸どの。このたび費無忌を生け捕りて、軍を率ゐて帰国して、呉王に見えん。想ふにわたしは楚に背き、呉に投ぜしも、今日のあるとは思ひもよらざりき。
（唱う）
【双調新水令】紅塵に苦しみて、十載の辛苦に耐へて、樊城に走りたる若かりし日をつねに思へり、千金をもて節侠[78]に報ゆることは叶はざれども、このわれはむかし四海の英豪たちと知り合へり。晩年となり、知らぬまに、頭上には老いが来たれり。
（言う）門番よ、取り次ぎをして、伍員、鱄諸が来たというのだ。
（兵士が知らせ、言う）伍子胥さまが来られました。
（呉王）呼んでくれ。
（兵士）お入りください。
（二将が会う）
（呉王）伍相国どの、想ふにそなたは樊城を逃げ、われらが丹陽県に来て、簫を吹き、日を過ごし、十八年を過ごしたまへり。今や費無忌を生け捕りて、楚の平王の屍をみづから鞭打ち、父兄の仇に報いしは、徒にはあらず。
（正末）すべては大王さまの徳、副将鱄諸の智によるもの、あらためてお礼をさせてくださいますよう。
（羋勝）老相国の雄材大略、鱄諸の勇猛果敢なることがなかりせば、今はなからん。
（鱄諸）わたくしは、人に頼って事を成したるものなれば、大したことはございませぬ。
（正末が唱う）
【駐馬聴】想へばわたしは蓋世の驍勇にして、函谷関に宝比べを看たれども、一時困窮せしがため、丹陽の市場にて簫を吹くことを学べり。たれか思はん、凌煙閣に姓名をふたたび記され、殺人場にて怨みに報ゆることを得んとは。幾たびかひそかに思へり。わが鬢に白髪の多く加はるを。
（呉王）今、費無忌はどこにいるのだ。
（正末）轅門の入り口に捕まえてございます。
（呉王）連れてきてくれ。
（兵士が費無忌を捕まえて会う）
（呉王）おまえは一生讒言し、伍奢父子一門家族を、罪もないのに殺したな。本日は、捕えられたが、弁明することがあるのか。
（費無忌）このわしは伍子胥の一家三百人を殺したが、伍子胥は今日はこのわし一人を殺すにすぎぬ。そのうえわしは役に立たない老人で、なにも力をもってはおらぬ。
（呉王）部下よ、轅門から出し、梟首して、人々に示すがよいぞ。（費無忌を殺す）（退場）
（呉王）伍相国どの、そなたの申した二人の賢者の家族らは今、どこにいるのだ。
（正末）人を遣わし、連れてきておりまする。
（呉王）門番よ、呼んできてくれ。
（兵士）二人の賢者の家族はいずこぞ。
（卜児が浣婆婆に扮して登場、言う）わたしは浣婆婆。娘は川のほとりにて紗を洗ひ、伍子胥将軍さまに会ひ、石を抱き、江に身を投じて死せり。今、人を遣はしてわたしを迎へ、こなたに来たれり。すでにお呼びを蒙れば、目通りすべし。（会う）
（呉王）十八年前、伍相国どのが難を避け、瀬上[79]を過ぎたとき、御身の娘の一飯の恩を蒙った。その詳細を聞いてはおらぬ。相国どの、一遍話して、わたしに聴かせよ。
（正末が唱う）
【雁児落】想へばそのかみ、金の鞍をば躍らせて、逃れたり。われもかつては鉄の甲を解きて、王孫を抱き、ばさばさとひたすらに荊棘の茂みを掻き分け、あたふたと風塵の道を駆けたることありき。
【得勝令】若さまはまことに焦れり。年若く麗しき女に逢へば、一罐の漿と粥を提げたり。天の賜はりたるものに、われら二人は酔ひかつ飽けり。
（浣婆婆）娘は将軍さまのため、命を棄つることを望みて、石を抱き、江に身投げし、死にたるさまはまことに苦し。
（正末が唱う）波涛をば眼のあたりにし、石を抱き、身を跳らせり。かやうなる功があれば、祠を建てて香を焚くべし。
（呉王）浣婆婆よ、ひとまずあちらにゆくがよい。村厮児はどこにいるのだ。
（村厮が登場、言う）わたしは村厮児、鄭の子産の手厚き贈り物を受け、呉に送り込まれたり。はからずも、途半ばにて、伍子胥盟府も人を遣はし、わたしを迎へり。
本日お呼びがかかったからには、会いにゆかねばならぬわい。門番よ、取り次いでくれ。村厮児が入り口におりますと。
（兵士が知らせ、言う）村厮児がまいりました。
（呉王）こちらへ通せ。
（村厮が会う）
（呉王）伍相国に会うがよい。
（村厮が会い、言う）こんにちは。
（正末）門番よ、命令を伝え、はやく軍馬を集めてくれ。
（村厮）兵を率いてどちらへ行かれるのでしょうか。
（正末）わたしは今から大勢の猛兵を引きつれて、鄭を征伐しにゆくのです。
（村厮）しばしお待ちを。
（詞）わたくしが初めから話すのをお聴きになれば、その詳細がお分かりになることでしょう。わが父は、魚を捕るのを生業としておりましたが、伍盟府さまが難を避け、故国を離れていらっしゃるのに逢いました。盟府さまは慌ててらっしゃいましたので、わが父は惻隠の心を起こし、あの方をいそいで馬から下りさせて、船に乗せ、長江を渡らせました。さらにあの方がお腹を空かしているのを見、ひとまず蘆の近くに隠れたのでございます。酒はどぶろく、ご飯は粗末にございましたが、蝦のおかずと魚のスープがありました。あの方は白金の剣を再三贈ろうとなさいましたが、わが父はひたすら拒んだのでございます。その後追手に逼られて、別れに臨んでひどく慌てて、残りの漿を漏らさぬようにと言い含め、わが父に用心をされました。あの方を心安らかにゆかせるためには、自刎して死ぬよりほかになかったのです。わが父は、その時にこう言いました。「一人息子は村厮ともうす愚か者、やがておんみがお志を得られたときに、少々眼を掛け、お忘れにならないようにしてくださいまし」今、鄭国は、はなはだ危うく、おんみが刀と槍を動かすことだけを恐れております。わたくしは兵を退ける計略を尋ねられましたので、わたくしは呉国に行けばおのずから考えがあると言いました。「一点の水を蒙らば仰泉をもて報いんことを思へ」[80]と聞いておりまする。ましてや父はしがない命をおんみのために失ったのでございます[81]。わたしはどうしてかようなことを申すのでしょう。平公ははなはだ不仁であったため、讒言を聴き、忠臣を害されました。その昔、呉に身を寄せて、恨みを雪がれましたのに、このたびは、鄭を討たれて、何をお怒りなのでしょう。英雄はかならずしも常勝を誇るわけにはまいりませぬし、上策は隣国を貴んで憐れむことにございます。兵を収めて何事もない日がくれば、わが父は、泉下にて恩徳に浴することでございましょう。
（呉王）この事は、もう一度、相国どのに話して聴かせてもらうとしよう。
（正末が唱う）
【甜水令】想へばそのかみ、追手をば避くるため、いそいで瀬上をば離れ、江のほとりに至りきて、煙水の迢遥たるを隔てたり。さいはひに漁翁に遇へば、われらを渡すに、とりたてて拒まるることもなかりき。かれはそも世を遁れたる由巣[82]なりき。
【折挂令】かのひとは酒をもて交はらんことを望みて、わたくしが千金の剣を贈りたるを見て、一片の塵の飄ひたると思へり。わたくしは恨みを含み、仇に報いんとして、苦しみを受け尽くしたれば、浪にただよふ萍の行方を漏らすことなきを望みたれども、雪の鬢、霜の毛のかのひとを死なせたり。むなしく波浪の滔滔たる、蘆荻の蕭蕭たるを余して、今に到るも東風に首をめぐらせ、今もなほ泪の滴の双つながらに零るるを忍び得ず。
（呉王）それならば、そなたも漁父の閻丘亮に世話されたのだな。今日、村厮児が鄭のため、折り入って許しを請いにきたのだが、相国どのは閭丘亮の顔を立て、鄭を討たれにゆかれなくともよいであろう。
（正末が唱う）
【月上海棠】その昔、駅亭に奸策多く、かのものは、楚のために、根を除き、禍の芽を絶たんとしたり。わが運が良からざりせば、かのものにたばかられ、殺されたるべし。心はなほも怒りたり。
【幺篇】わたくしは今、将軍を指揮してみづから征討し、公孫[83]を捕まへて生きながら皮を剥がんとしたるなり。
（村厮）伍さま、なにとぞお許しください。
（正末が唱う）わたしが許さば、東に日が落つるほかなかるべし。
（村厮）わが父をもうお忘れになられるとは。かように情けが薄いとは。
（正末が唱う）情けの薄きにあらずして、これぞまさしく、一つの怨みに一たび報いんとせるなり。
（村厮）伍さま、どうしても兵を退けようとなさらぬおつもりですね。いいでしょう、いっそのこと、白金の剣をわたくしにお貸しください。わたくしも首吊りをいたしますから[84]、親爺といっしょに埋葬なさってくださいまし。
（正末）しばし待たれよ。あの漁父の大恩にいまだに報いておらぬのに、村厮児までもわたしのために殺してしまうわけにはゆかぬ｡部下よ、命令を伝えよ。鄭を討つための軍馬をしばし退くことにしようぞ
（唱う）
【喬牌児】わたくしは大恩人の血筋の絶ゆることを恐れて、村厮児の哀願するにも耐へられず。
（言う）村厮児よ、あの老いぼれの公孫僑[85]に話すがよい、
（唱う）降伏文書をすみやかに持ち来たりなば、はじめて兵を収めんと。
（村厮）今すぐにまいりましょう。将軍さまにお礼を申し上げまする。
（浣婆婆）わたくしの娘は死して、わたくしの息子の伴哥は、年若ければ、今やわたしは身よりなく、誰にかわが身を養はしむべき。まことに苦しや。（悲しむ）
（正末）お婆さん、哭くのはおやめなさいまし。おんみの老後の衣食のお世話は、すべてわたしがいたしますから、もう心配はいりません。（唱う）
【清江引】紅顔[86]はなにゆゑぞおのが身を保つことなく、御身を残し、頼るものなからしめたる。かのひとはわたくしのため、十分の誠を示せり。わたくしもかのひとのため、いささかの孝を尽くして、御身の衣食を足らしめて、老いたまふまで楽しましめん。
（浣婆婆）それならば、将軍さまに感謝をせねばなりますまい。
（呉王）みな跪き、わたしの命を聴くがよい。
（詞）楚の平公は費無忌を信じ、忠良は一朝にして一家をば失へり。伍子胥は単騎で樊城に逃げ、羋勝を携へ千里のかなた呉の地に投ぜり。途半ばにして、二人の賢者の、江の真中に赴きて、死を誓ひ、避くることなきに会ひたり。丹陽の市場にて簫を吹き、暮らしを支へ、鱄諸と語り、虹霓の気をともに吐きたり。兵を借り、楚を破り、凱歌を唱ひ、帰還して、奸臣を殺し、冤魂をみづから祭れり。羋公子を、事の定まりたりし後、都に還し、鱄将軍の爵賞は慣例のごとくにすべし。浣婆婆は終生養へ。村厮児の鄭を救ひし功は小さきものならず。恩と仇とに報ゆれば、これよりは平生を楽しからしめ、留めて千古の英雄譚となすに堪へたり。
（衆が恩に謝す）
（正末が唱う）
【随尾】一生の心事は神が知ろしめし、すでにかれらの恩と仇とに報いたり。忠良を救ひ、甘んじて命を棄てし二人のもの[87]の、世に稀なるはいよよ明らかなることなれど、英雄を逞しうして、よく国のためにせし、一人のもの[88]も諸人の中でまことに稀ならん。
最終更新日：2010年11月10日
