布袋和尚忍字記雑劇
鄭廷玉撰
楔子
（冲末が阿難に扮して登場、詩）明心するに幽花を捻らず、見性するに貝葉伝は必要なし。日は出でて氷は消ゆるももともとは水、光を回らせ月は落つるも天を離れず[1]。
拙僧は阿難尊者だ。わが仏は霊山会で[2]、羅漢らを聚めて講経説法された。上方[3]の貪狼星は、第十三尊羅漢だが、わが仏の講経説法を聴かずに、俗世のことを思う心を起こしてしまった。本来ならば､罰せられ、鄷都に行って、罪を受けねばならないが、わが仏は大慈悲を発せられ、下界の汴梁劉氏の家に罰として行き、投胎し、人に姿を変えさせることとなされた。それがすなわち劉均佐なのだ。この人が正道に迷うのを防ぐため、このたび弥勒尊仏を遣わして、布袋和尚に化身させ、この人を点化させることにした。くわえて伏虎禅師を遣わし、劉九児に姿を変えて、あらかじめこの人を導いて回心させることにした。その後で岳林寺に行かせ、修行させ、定慧長老に命じて、かのものに大乘仏法を伝えさせよう。この人が酒色財気、人我是非を棄て、功徳を成就したときは、拙僧におのずから考えがある、かのものは一念を過ったため、罰せられ、塵埃にゆき、富貴を貪り、財貨を捨てない。如来が慈悲を発しﾄ点化しA功徳が満ち黷ﾎともに蓮台へ赴こう。（退場）
（正末が劉均佐に扮し、旦児、子役、雑当を連れて登場、正末）わたしは汴梁の人。姓は劉、名は圭、字は均佐。四人家族で、妻は王氏。某は今年四十歳、生んだのは一男一女、倅は仏留、娘は僧奴。わたしは汴梁城中で、第一の金持ちで、幾文かお金を持っているのだが、ふだんから一文も使うことなく、半文も用いないのだ。一貫の銭を使えば、それはすなわちわが身の肉を抉るのと同じこと。かように質素倹約したために、このような財産を貯えたのだ。折しも冬で、紛紛揚揚と国家の祥瑞が降っている[4]、金持ちたちは紅い炉と、暖い閣で、雪を賞で、酒を飲み、あのように楽しんでいるのだが、劉均佐があのように楽しもうとしないのは、なぜかといえば、財産を損うことを恐れているのだ。
（旦児）員外さま、諺に「風雪は酒家の空模様」ともうします。そうおっしゃっても、何杯か飲むことにいたしましょう。
（正末）女房よ、わたしがそなたに従わなければ、ほんとうによくないことだ。わたしがそなたに従えば、費用がかかる。まあよかろう。我慢して何杯か飲むとしよう。
（旦児）員外さま、幾杯か飲むのは、まことによいことにございます。
（正末）小者たち、少々酒を漉してくるのだ。妻と一杯飲むことにする。来るがよい。そなたに言おう。たくさん漉さず、二杯だけ漉して来れば十分だ。
（雑当）かしこまりました。（酒を斟ぐ）
（旦児）員外さま、先に一杯飲まれませ。
（正末が酒を飲む）もっと酒を持ってくる、女房よ、そなたも一杯飲むがよい。
（旦児が酒を飲む）もっとお酒を持ってきておくれ。
（雑当）お酒はなくなってしまいました。
（旦児）二杯斟いだだけで、お酒はなくなってしまいました。もっとお酒を持ってきておくれ。
（正末）酒は十分だ。年寄りたちは言っておる。「酒はいささか飲むべし。事はたくさん知るべし。」と。とりあえずこの質屋に閑坐し、誰が来るのか見るとしよう。
（外が劉均佑に扮して登場、詩）腹中に世の事を知り尽くせども、運命は天下の人に如くことぞなき。
わたくしは洛陽の人、劉均佑。幾つかの書を読んで、游学し、この地に到り、懐が乏しくなった。折しも冬で、大雪が降っているのに、身には着るものがなく、腹には食べるものがない。お金持ちの家があるから、いささかの食事を求め、食べるとしよう。はやくも着いた。どうすることもできぬから、『蓮花落』を唱うとしよう。「一年の春は尽く一年の春。」、天は転り、地は転り、わたしは倒れる。（倒れる）
（正末）女房よ、こちらでお酒を飲んでいたら、入り口で、一人の男が凍えて倒れた。小者たち、どこにいるのだ。男を扶けて中に入れ、炭を持ってきて、熱燗をつけ、飲ませてやるのだ。劉均佐よ、やはり考えねばならないぞ[5]。女房よ、わたしはふだんは慈悲深い人間ではない。ふだんなら、一人が凍えて倒れているときはもちろんのこと、十人が凍えて倒れていても、かれらには構わぬが、この人はほんとうに気に掛かるのだ。この人に尋ねてみよう。男の方、おんみは今、初めと比べていかがでしょうか。
（劉均佑）人心地つきました。
（正末）男の方、どちらのお方か。ご姓とお名は。なにゆえ凍えてわたしの家の入り口に倒れていられた。一遍話してみられるがよい。
（劉均佑）長者さま、わたくしは洛陽の人、姓は劉、名は均佑と申します。幾つかの書を読んで、游学し、この地にやってまいりましたが、懐は乏しく、身に着けるものはなく、お腹は空いておりました。長者さまがこちらでご酒を召されていたので、なすすべもなく、『蓮花落』を唱いましたが、員外さまのお屋敷の入り口に、凍えて倒れてしまったのです。員外さまがわたくしを救われなければ、命はございませんでした。
（正末が背を向ける）劉均佐よ、考えるのだ。わたしがどこの人かと問うと、洛陽の人で、姓は劉、名は均佑と言っている。「同じ樹に二つの花なし、五百年前は同じ家」だと言うではないか。心が引かれたのだから、劉均佑どの、わたしはおんみと結義して、弟としたいのですが、お考えはいかがでしょうか。
（劉均佑）員外さま、からかわれないでくださいまし。
（正末）からかっておりませぬ。
（劉均佑）それならば、弟となるのはもちろん、家にいて、驢に隨い､馬を曳き、鞭と鐙に従いたいと思います。
（正末）弟よ、わたしはおんみのまことの兄も同然だ。こちらはおんみのまことの姉ぞ。拝礼するのだ。拝礼するのだ。
（劉均佑が拝礼をする）姉上はお坐りになり、わたくしの再拝をお受けください。
（旦児）おじさん、お楽になさいまし。
（正末）二人の子供がまいりました。おじさんに拝礼するのだ。
（子役が拝礼をする）
（劉均佑）もったいない。もったいない。お楽になさってくださいまし。
（旦児）員外さま、おじさんといっしょに話していてください。わたしは奥へ、食事を整えにゆきましょう。（退場）
（正末）弟よ、今日はおんみと結義したが、一つおんみに話すことがある。
（劉均佑）兄上、何ごとにございましょう。お話し下さい。
（正末）おんみはさきほど雪の中で、凍えて倒れていられたが、わたしがおらねば、おんみの命はなかっただろう。わたしはさらにおんみと結義し、弟としたが、おんみは心の中で、この員外はきっと義を重んじて、財を疎んじる人だと思っているだろう。もしそうならば、おんみは間違っている。わたしはこの財産のため、はやく起き、おそく眠って、苦しみに耐えてきたのだ。この財産を貯えるのは容易なことではなかったぞ。わたしの話を聴くがよい。
（劉均佑）兄上、わたくしにお聴かせください。
（正末が唱う）
【仙呂賞花時】今の人は、衣衫を敬ひ、人を敬ふことぞなき[6]、われはただ銭と親しみ、人と親しむことぞなき。さきほどは風は凛凛、雪は紛紛、汝は大路にて凍え倒れぬ。
（言う）弟よ、わしは金持ちなのに、そなたのような貧乏人と結義して、弟とした。そなたは自分で考えよ。
（唱う）われはまことに富みたれど、なれはまことに身は貧し。
（劉均佑）わたくしは身に襤褸を纏うております。人々は兄上を嘲るでしょう。
（正末が唱う）
【幺篇】なれは貧しく、侘しさに耐へ、むざむざと苦しみを受けたれど、われは富み、おほくの金珠とたくさんの銀を持ちたり。
（言う）弟よ、内外の家事をまめにし、朝晩、気遣いしなければならないぞ。
（劉均佑）分かりました。
（正末が唱う）この質屋にとりあへず身を置かるべし。
（言う）弟よ、わたしは今日、そなたと結義し、弟とした。わたしは善意だ。わたしと同じ金持ちたちは言うだろう。「劉均佐を看ろ。ふだんから一文も使うことなく、半文も用いることなく、質素倹約していたのに、むざむざ関わりない人と結義したぞ。」と。
（唱う）傍の人がわれを笑ふに一任し、かまふものかは。われはひとまず戒を破りて、今日は関はりなき人を養へり。（ともに退場）
第一折
（劉均佑が雑当に扮して登場）わたくしは劉均佑、兄上がわたしと結義し、弟とされてから、はやくも半年。そもそもわたしの兄上は、ふだんは質素倹約し、一文も使うことなく、半文も用いられない。金貸しはすべてわたしがおこなっている。本日は兄上の誕生日、兄上はふだんから楽しい思いをしようとはなさらないから、わたしは今から羊を潰し、酒､果物を準備して、親戚、友人、隣近所が送ってきたと言いさえすれば、兄上は召し上がろうとなさるだろう。兄上はわたしが準備したと知ったら、ひどく悲しまれるだろう。小者たち、酒､果物は準備したのか。
（雑当）すべて準備いたしました。
（劉均佑）準備したなら、兄上と姉上に出てきていただくことにしよう。兄上、姉上、どうぞ。
（正末が旦児、子役とともに登場）わたしは劉均佐、弟と結義してから、はやくも半年、弟はよく家事をして、はやく起き、おそく眠って、金貸しをしている。このようにまめまめしいので、わたしは心の中でたいへん喜んでいる。女房よ、今日はわたしの誕生日。女房よ、存じていようが、わたしは毎年、誕生日を祝わないのだ。弟に言ってはならぬぞ。弟は、知ればかならず酒食を準備し、わが財産を費すからな。
（旦児）今日は弟が呼んでおります。何事でしょうか。弟に会いにゆきましょう。
（正末が会う）弟よ、われら夫婦を招いてどうする。
（劉均佑）兄上、お坐りくださいまし。今日は兄上の誕生日、いささかの酒食を準備し、兄上に再拝し、心尽くしをいたすのでございます。
（正末）ああ、女房よ、どうしよう。弟は気がついて、酒宴を準備したのだろう。わが財産を費してしまうわい。ほんとうにひどく悲しい。
（劉均佑）兄上はご存じないのでございます。これらのものはすべて親戚、友人、隣近所が送ってきたもの。われわれがお金を払って買ったものではございませぬ、わたしはさきほどかれらを持て成しましたので、みんな戻ってゆきました。今、並べましたのはにわか作りの酒席です。兄上、姉上、何杯か飲まれませ。
（正末）ああ、そうだったか。はやく言うのだ。それならば、何杯か飲むとしよう。
（旦児）員外さまは、このように倹約されていますから、いくらも召し上がりますまい[7]。
（劉均佑）酒を持て。兄上に一杯お斟ぎいたしましょう。兄上が福寿綿綿として、松柏と肩を並べられることを祈りましょう。
（正末）弟よ、ありがとう。（唱う）
【仙呂点絳唇】知交に感謝す[8]。いとはやく、五更に来たれり。かれは言ひたり。このわれの命が長く、松柏と肩を並べて老ゆべしと。
【混江龍】觥籌は交錯し[9]、われはただ東風に飄飄と舞ふ簾幕を見るのみぞ。天にとよもしたる鼓楽、耳に聒しき笙簫を聴くのみぞ。
（劉均佑）兄上、たっぷり飲まれませ。
（正末）弟よ、おいしい酒だ。
（唱う）われはただ玉盞に光の浮かび、春酒の熟し、金炉に煙が裊ひて、寿香[10]の焼くるを見るのみぞ。
（言う）あの金貸しをするものに言うがよい。
（唱う）静かにし、鬧ぐなかれと。
（劉均佑）小者たち、あの金貸しをするものに、もうすこし遠ざかり、こちらでは騒ぐなと申すのだ。
（正末）弟よ、わたしはどうして財産を蓄えたのか、
（唱う）常日頃、倹約したれば、今になり、富貴豪奢を得たるなり。
（外が布袋和尚に扮し、嬰児、[女宅]女を連れて登場）仏、仏、仏、南無阿弥陀仏。（笑う。偈）行くも布袋、坐するも布袋、布袋を置けば、大自在なり。
世俗の人よ、拙僧に従って、出家するのだ。おんみらを成仏させて、ことごとく祖師としようぞ。拙僧は鳳翔府岳林寺の住持長老。行脚してこの地へとやってきた。こちらにいられる劉均佐どのは、大金持ちだが、賄賂を貪り、質素倹約、一文も使うことなく、半文も用いられない。拙僧はことさらにこの人を点化しにきた。こちらは家の入り口だ。おい、劉均佐の守銭奴よ。（笑う）
（劉均佑）兄上、入り口で誰かが騒いでおりまする。わたしが見てみることにしましょう。（布袋に会う）ほんとうに太った和尚だ。
（布袋が笑う）凍え死にしなかった乞食どの、守銭奴はいるか。
（劉均佑が背を向ける）わたしが凍えて兄上の家の入り口に倒れていたのを、どうして知っているのだろう。
（布袋）守銭奴よ、家にいるか。
（劉均佑）兄上に話しにゆこう。（正末を見て笑う）兄上、まことにおかしゅうございます。
（正末）弟よ、なぜそのように笑っているのだ。
（劉均佑）兄上、わたしが笑っているとおっしゃいますが、門を出てゆき、ご覧になれば兄上も笑われることでしょう。
（正末）わたしが見にいってみよう。（会う）
（布袋）劉均佐の守銭奴め。
（正末が笑う）ああ、ああ、ほんとうに太った和尚だ。ほんとうにおかしなことだ。
（布袋）おんみは誰を笑っているのだ。
（正末）わたしはおんみを笑っているのだ。
（布袋が偈を唱える）劉均佐どの、おんみはわたしの無きを笑へど、わたしはおんみの有るを笑はん。無常が来なば、すべて空しくなりぬらん。
（正末）弟よ、ほんとうにおかしなことだな。この和尚は何を食べて、このように太っているのだ。（唱う）
【油葫蘆】たちまちに頭を抬げ、かのものを目にすれば、われはあやふく笑ひて倒れんところなり。
（布袋）嬰児[女宅]女よ、左右から離れるな。
（正末が唱う）子供らを連れてきて、かのものをからかはんとす。
（言う）あのものはこのように太っているが、分かったぞ。
（唱う）もしや香積厨にて作りし斎食が美味なりけるか。
（布袋）斎食をたべさせてくれ。
（正末が唱う）くはふるに、善き人の家は斎食を施して、禅僧を満腹せしめたりしかば、かのものの腰の回りは、簍ほどの粗さあり。腹の皮は三尺の高さあり、駱駝、白象、青獅豹[11]でも、
（布袋）駱駝、白象、青獅豹でもどうなのだ。
（正末）おんみに腰をへし折られましょう。
（布袋）あのものは拙僧をおちょくっておる。
（正末が唱う）
【天下楽】この和尚は肉の重さが千斤なりとも肥ゆと言ひ得ず[12]。
（言う）あのものは何を食べたのだろう。
（唱う）われはこちらで考へり。かのものを喩ふべし。
（布袋）わたしを何に喩えるのだ。
（正末が唱う）快活三[13]のいましがた、頭を剃りたるかの似し。
（言う）和尚どの、かように太っていられるが、二人の古人に似ていらっしゃる。
（布袋）どのような二人の古人に似ているのだ。
（正末が唱う）安禄山にもまして肥え、漢の董卓にもまして太りたり。
（言う）このように太ったおんみが、うちの質屋の入り口に立たれていれば、知っているものは太った和尚と思うだろうが、知らないものは、
（唱う）馬鹿でかき神さまが宝を捧げに来たるやと思ふらん、
（布袋）劉均佐どの、おんみは愚眉肉眼[14]で、善人をご存じないな。わたしは釈迦牟尼仏なのだ。
（正末）誰が釈迦牟尼仏なのだ。
（布袋）わたしが釈迦牟尼仏なのだ。
（正末）おんみが釈迦牟尼仏ですと。仏よりずっと劣っていらっしゃる[15]。
（唱う）
【那吒令】おんみはかやうに太りたる肉身躯なれど、などて餓ゑたる鳥を満腹せしむべき[16]。かやうに太き腿なれば、などて蘆草を踏むを得ん[17]。かやうに大きな光脳なれば、などて雀の巣を積むを得ん[18]。
（布袋）拙僧は、俗世の人であるおんみが、如来であるわたしの教えを聴かないことが心配だ。
（正末が唱う）おんみは言へり。俗世の人なるわれらは、如来のおんみの教を聴かず、おしなべてむなしく食らふも、脂膘を増やすことなしと。
（布袋）劉均佐どの、拙僧は凡憎ではない。わたしは禅坊主、太陽が出ている間に、三百里の地を進んでいるのだ[19]。
（正末が唱う）
【鵲踏枝】汝は仏殿で堂々巡りしやうとはせず、汝は礼拝をし[20]やうとはせず。
（言う）このように太っているなら、
（唱う）おんみはきつと山門を滾び出て、青霄に踏み上がるべし。
（布袋）劉均佐どの。拙僧に斎食をたべさせてくだされ。
（正末が唱う）この中を満たさんとせば、いかほどならばよかるべき[21]。
（言う）和尚よ、おんみはかように太っているが、一つ良いことがある。
（布袋）どのような良いことがございましょうか。
（正末が唱う）おんみはまことに世に疲れたることもなく、気遣ひをすることはなからん[22]。
（布袋）劉均佐どの、拙僧は神通が広大で、法力が優れた活仏なのですぞ。
（正末が唱う）
【寄生草】ああ、神通が広大なりと仰るが、惜しむらくは、おんみは腹が小さうござる[23]。
（言う）和尚どの、聴かれるがよい。
（唱う）想はざりき、病みし維摩のはやくも入定参禅せんとは。想はざりき、痩せたる阿難の結果收因[24]の宜しからんとは。想はざりき、沈東陽[25]の剃髪し、僧とならんとは。
（言う）和尚どの、わたしはおんみを半分悲しみ、半分愁えておりまする。
（布袋）おんみはわたしの何を悲しみ、わたしの何を愁えるのです。
（正末が唱う）愁ふるは、汝が南海にゆきて柳枝と瓶を挟み、動かさざるを愁ふなり[26]。悲しむは、汝が西天にゆきて坐し、蓮花の萼に損ふを悲しめるなり[27]。
（布袋）劉均佐どの、もしもわたしに斎食をたべさせてくださるのなら、おんみに大乘仏法をお伝えしよう。
（正末）大乘仏法とは何ですか。
（布袋）紙、墨、筆、硯を持ってきてくれ。おんみに大乘仏法を伝えよう。
（正末）紙を持ってはおりませぬ。
（劉均佑）兄上、紙がございますから、一枚持ってまいりましょう。
（正末）弟よ、一枚の紙も一銭で買ったものだぞ。わが財産を損うてしまうわい。
（布袋）紙がないなら、筆と硯を持ってくるのだ。おんみに手ずから大乘仏法を伝えよう。
（劉均佑が墨を磨る）
（正末が唱う）
【醉中天】かのものの烏龍[28]の角を磨りたるを見る。
（布袋が筆を浸す）
（正末が唱う）かのものはあちらにて一本の紫霜の毫を浸したり。
（布袋）お手をこちらへ。大乘仏法をお伝えしましょう。
（正末）手をのばしましょう。
（布袋が書く）劉均佐どの、これが大乘仏法ですぞ。
（正末が見る）これはおかしい。
（唱う）ただ刃の字のはつきりと心の字をぶら下げたるを見るのみぞ。
（布袋）この忍の字はおんみの身についた宝ぞ。
（正末が唱う）かのひとはこの忍の字をわが身につける宝とぞ言ふ。
（言う）この忍の字を書くのにも、費やしたものがある。
（布袋）いったい何を費されたのか。
（正末が唱う）半盆の水と一錠の皂角を費せり。巧言は直言するにしくはなし。おんみ達磨の衣鉢[29]をみづから渡ししことに感謝せん。
（布袋）劉均佐どの、拙僧に斎食をたべさせてくださいまし。
（劉均佑）兄上、たくさんの財産がございますから、このものに斎食をたべさせたとて、どうということはございますまい。
（正末）弟よ、あのもののお腹を見るのだ。二石の米のご飯でも満腹するまい。
（劉均佑）こちらには精進物はございませぬ。
（布袋）拙僧は、生臭物か精進物かは問題にせず、酒、肉も喰らいます。
（正末）出家した方が酒、肉を召されるはずがございますまい。
（劉均佑）酒、肉を持ってきてこのひとに食べさせましょう。
（正末）弟よ、一盞の酒を持ってきて、このかたに飲ませるのだ。
（劉均佑が酒を斟ぐ）
（正末）弟よ、もうすこし少なくするのだ。多すぎるぞ。
（布袋）持ってきて飲ませてください。（酒を地にそそぐ[30]）南無阿弥陀仏。
（正末）ああ、もったいない。「百米は一滴にならぬ」[31]というのに、なにゆえに酒を地にそそがれたのか。
（布袋）劉均佐どの、もう一杯、飲ませてくだされ。
（正末）酒はなくなってしまいました。
（劉均佑）兄上、そのかたに、もう一杯、飲ませましょう。
（正末）そなたが飲ませてやるがよい[32]。
（劉均佑が酒を斟ぐ）
（正末）さあ、飲みなされ。飲みなされ。
（布袋）拙僧はいただきませぬ。わたしの徒弟に飲ませてください。
（正末が振り返る）どちらにいらっしゃるのでしょうか。
（布袋）こちらです。（退場）
（正末）ああ、どこにも人はいないぞ。和尚どの、あちらには人はいませぬ。いったいどうしてあのひと[33]も見えなくなってしまったのだろう。
（劉均佑）兄上、和尚はどちらへ行ったのでございましょう。
（正末）ほんとうにおかしなことだ。（唱う）
【河西後庭花】かのものはわれらを欺き、振り向かしめて、脚を動かすこともなかりき。わたしはさきほど命を受け、玉斝を斟ぎしかど、ああ、ああ、ああ、かのものは金光に化し、見えずなりにき。
（言う）ほんとうにおかしなことだ。
（唱う）われはこちらでみづから考ふ。かのものは南方の左道にて、ことさらに人を驚かししならん。
（言う）弟よ、酒を飲もうとしていたら、太った和尚がやってきて、一席のうまい酒を台無しにした。
（劉均佑）兄上、気違い和尚､気違い道士を信じることはございませぬ。お酒を飲みにゆきましょう。
（正末）太った和尚は行ってしまった。忍の字などは必要ないから、水で洗ってしまおうぞ。
（劉均佑）小者たち、水を持ってきてくれ。兄上が手を洗われる。
（正末が洗う）どうして洗い落とせないのだ。石鹸を持ってくるのだ。
（劉均佑）こちらです。
（正末が擦って洗う）どうして洗えば洗うほどくっきりするのだ。手巾を持ってきてくれ。ああ、弟よ、どうしたら手巾の忍の字を拭うことができよう。
（劉均佑）ほんとうにおかしなことにございます。
（正末）ほんとうにおかしなことだ。（唱う）
【金盞児】この墨は鰾膠をもて捏ねしものにはあらずして、この字は刺繍針を用ゐて縫いつけしものにもあらず。なにゆゑぞ洗ひ落とせず、擦り落とせず、拭き落とせざる。和尚は人にことさらに纏はりつきて、かやうにしかと書きしなり。表通りでふと出食はさば、裏路地で相逢はば、二人の男に命じて役所へ連れてゆかしめ、棒をもてかのものの腰をぞ叩き折らすべき。
（劉均佑）兄上、あのものを信じてどうなさいます。
（正末）弟よ、ほんとうにおかしなことだな。とりあえず質屋に行き、閑坐しようぞ。
（浄が劉九児に扮して登場）おいみんな、こちらにいてくれ。劉均佐の馬鹿野郎から一貫銭を取り立て、すぐ来るからな。劉均佐、守銭奴め。わしの一貫銭を借り、どうしてわたしに還さないのだ。
（劉均佑）誰がかように大騒ぎしているのでしょう。見てまいりましょう。
（劉九児）劉均佑の乞食めが、おまえの家の守銭奴は、わしから一貫銭を借りたに、どうしてわしに還さないのだ。
（劉均佑）貧乏人めが、お金を求めるのであれば、お金を求めるだけでいいのに、姓名を挙げるとは、どういうことだ。兄上が聴かれても、お怒りになるだろう。兄上に話しにゆこう。（正末に会う）兄上、入り口に、乞食の劉九児がおりまして、兄上があいつから一貫銭を借りたと申しておりまする。
（正末）弟よ、来るがよい。わたしが見にゆくことにしよう。（劉九に会う）劉九児、わたしの家の入り口で、なにゆえ大いに騒いでおるのだ。
（劉九）劉均佐の守銭奴め。わしの一貫銭を還せ。
（正末）ほんとうに運が悪いな。さきほどは太った和尚に煩わされたが、今度は一人の貧乏人がやってきたわい。おい劉九児、おまえは人にわたしのことを万貫の金持ちなのだと申したが、おまえのような貧乏人に一貫銭を借りたと言うのか。
（劉九）おまえは金を持っているが、わしに倣ってこのように楽しむがよい。質屋から出る勇気があるか。
（正末）おまえはわたしの家へ入ってこようとするのか。
（劉九）わたしが来ても、おまえはわしをどうすることもできないだろう。
（正末が打つ）わたしがおまえを打とうとしないわけがあるまい。
（劉九が倒れる）
（正末）貧乏人め、おまえの金を借りただと。地面に倒れてごまかすとは、ほんとうに腹立たしいわい。
（劉均佑）兄上、そのものと争われてはなりませぬ。お掛けください。おいおまえ、立ち上がるのだ。お金を求めていたというのに、どうして人を罵ったのだ。（驚く）兄上、このものを殴り殺してしまわれましたな。
（正末）こいつめ、わたしが推したら、すぐ死んでしまったと申すのか。信じぬぞ。
（劉均佑）兄上、見にゆかれませ。
（正末）来い。見にゆこう。このものは些細なことを大袈裟に報せておるわい。（叫ぶ）劉九児、お金を取り立てるのならば、取り立てるだけでいいのに、わたしのことを罵ったな。一貫銭を借りていても、おだやかに取り立てるべきであろう。立ち上がるのだ、立ち上がるのだ。（劉九日を触る）弟よ、ほんとうに死んでおるわい。（唱う）
【河西後庭花】われはさきほど胸にぽとんと触れしかば、かれは磚の街にぱたんと倒れたり。なれの貧しき命はたちまち死にぬれば、あなや、わが富みたる魂は驚きて失せんとすなり。かれは齁嘍嘍冷たき涎に潤ひて、かれははやくも血が七竅より流れ出で、冷氷氷と手脚をぞ強ばらせたる。
（言う）弟よ、一貫の銭のため、この人を殴り殺した。わたしは命を償わなければならないな。弟よ、兄を憐れみ、救うてくれ。
（劉均佑）兄上、ご安心ください。人命事件はわたくしが兄上の身代わりになりましょう。兄上、死んだ人の胸がまだ熱ければ、死ぬことはございませぬ。わたくしが見にゆくことにしましょう。（見る）兄上、この人の胸には忍の字が記されておりまする。
（正末）弟よ、ほんとうか。こちらへ来てくれ。わたしは見にゆくことにしよう。（見る）弟よ、ほんとうに忍の字が記されている。（唱う）
【憶王孫】この字はかれの手のひらにかやうにしかと書かれたり[34]。
（言う）弟よ、わたしの手の字とこのものの胸の字は同じだぞ。
（唱う）このものの胸にどうして記されているのだろう。なぜ一画の違いもないのだ。二つの字はまったく同じ大きさだ。
（言う）役所に行ってあれこれと調べられれば、
（唱う）罪名を供述せざることを得ず。
（劉均佑）兄上、ご安心ください。わたくしは兄上のため、罪を負うことにしましょう。
（正末）弟よ、そなたはわたしの替わりにはなれないぞ、
（唱う）看よやわが手はわれみづからを証すべし[35]、
（言う）弟よ、財産、田地、美しい妻、幼い子どもをすべてそなたに引き渡すから、しっかり管理、世話するのだぞ。わたしは逃げてゆかねばならぬ。
（布袋が突然登場）劉均佐どの、おんみは人を殴り殺して、どちらへ行かれる。
（正末）師父さま、わたくしをお救いください。（唱う）
【金盞児】これよりは銭を看る眼は清濁を辨ずべく、銭を愛する心は低高をしぞ識るべき[36]。これよりは財産を棄て、真の三宝[37]のおんみを拝せん。
（布袋）耐えるようにと申し上げましたのに、どうして殴り殺されたのです。
（正末が唱う）忍の字を手に書かれ、今日は業果を眼前に招きたり。
（布袋）わたしに従い、出家なさるか。
（正末が唱う）われはふたたび悪しき心をお金に用ゐ、凡火[38]をわれの腹に焼くことはなからん。師父に学びて清風を袖裏に藏し、師父に倣ひて明月を杖頭に掛く。
（布袋）劉均佐どの、我慢するよう申し上げましたのに、どうして我慢なさらずに、他人を殴り殺されたのです。劉均佐どの。
（偈）忍ばるるならひとまず忍び、耐へらるるならとりあへず耐へよかし。忍ぶことなく耐ふることなかりせば、小事は大なるものと成るべし。
わたしがかれを救ったら、おんみはわたしに従って出家なさるか。
（正末）師父がもしこの人を救われるなら、わたしは師父に従って出家いたしましょう。
（布袋）二言はなしだぞ。悔やむでないぞ。
（布袋が劉九に叫ぶ）えいっ、劉九児よ。
（劉九が起きあがり、衆を見る）よく睡ったわい。
（布袋が念仏する）南無阿弥陀仏。
（劉九）劉均佐よ、わしの一貫銭を還せ。
（正末）弟よ、このものにはやく一貫銭をやるのだ。
（劉均佑が劉九に銭を与える）わしの一貫銭を還してくれたな。おいみんな、一貫銭を取り立てたから、わたしといっしょに、お酒を飲みにゆくとしよう。（退場）
（正末）弟よ、あのものは行ってしまったが、あのものに幾らの銭を与えたのだ。
（劉均佑）一貫銭をやりました。
（正末）ああ。弟よ、生き返ったなら、あのものに五百文与えればよかったのだ。
（布袋）劉均佐どの、わたしに従い出家なさいませ。
（正末）師父さま、憐れと思うてくださりませ。わたしはどうして財産、田地、美しい妻、幼い子どもを棄てられましょう。裏庭に庵を結び、在家で出家し、三度の精進物を食べ、南無阿弥陀仏と念じればよろしいでしょう。
（布袋）劉均佐どの、出家できぬと仰るのなら、あらゆることをひたすら我慢し、南無阿弥陀仏と念じるがよい。
（正末）師父さま、分かりました。弟よ、この財産を、ひとまずそなたに引き渡すから、しっかりと子供の世話をするのだぞ。
（劉均佑）兄上、ご安心ください。すべてわたしが引き受けました。
（正末が唱う）
【賺煞】借金のあるものは百十軒、質屋は三十店舗あり。
（言う）お金のために。
（唱う）昼も夜もわが身心を碎けしめたり。われの花圃、楼台と画閣とを、これよりは看経と修煉をするための團標となさん。盗賊を恐るることなく、水や火や風や涛をぞ防ぐべき[39]。
（言う）劉均佐どの、ご自分で考えられよ。
（唱う）わたしが見るに、この世を転る浮の財産は、老ゆるまで守らるることはなからん。（忍の字を見る）
（唱う）わたくしはこの忍の字を見て、わが師の教えに感謝しましょう。
（布袋）とにかく我慢なさるがよろしい。
（正末）師父さま、我慢いたします。我慢いたします。
（唱う）ああ、財を貪るわれは、心の中に人を殺むる刀をぞ持ちしなる。（退場）
（布袋）はからずも劉均佐は、ささやかな幻影を見て、このたび、在家で出家した。この人の凡心が去った後、拙僧はまた点化しにくるとしよう。
（偈）道を学ぶは、荷を負ひて山に上るがごとくにて、路の遥けく、往きて還るの難きを思はず。たちまちに両端の荷物が脱けば、一人の寄る辺なき人は、天地の間にしぞあらん[40]。（退場）
（劉均佑）師父は行ってしまわれた。兄上は在家で出家し、財産をすべてわたしに渡されたから、わたしは城の内外へ借金の取り立てをしにゆかなければならぬわい。（退場）
第二折
（正末が登場）わたしは劉均佐、師父の法旨を受けてから、この裏庭に庵を結び、毎日三度の精進物を食し、南無阿弥陀仏とひたすら念じる。日月の過ぎるのはほんとうに疾いなあ。
（唱う）
【南呂一枝花】いましがた花溪[41]には燕鶯が飛びしかど、はや蓮蒲[42]には鵝鴨を観たり。菊天[43]に塞雁がやうやく飛べば、梅嶺[44]に寒鴉ははやくも噪ぎたり。思へば四季の韶華[45]は指を捻りなば春となり、頭をし回らせば夏となる。思へば名利の心はすべて抛てり。われは今、にはかに玉鎖金枷[46]を開き、しつかりと心猿意馬を縛りつけたり。
【梁州第七】日ごと地を掃き、香を焚き、念仏するは、柴、米を買ひつつ家を切り盛りするに勝るべし。
（言う）師父さまがおわさねば、わたくし劉均佐はどうなっていたでしょう。
（唱う）諸尊菩薩摩訶薩[47]に謝し、わが師の度脱せられしことと、弟子のわたくしを救ひたまひしことに感ぜり。わたくしは今や王法に遭ふことはなく、刑罰を受くることなき。よしわたくしが空を指し、嘘をつき、瞞かんとも、このたび了身脱命せしは、かのひとによれるものなり[48]。わたくし、わたくし、わたくしは、雪山の中にて栄辱のなき禅師にぞ謝せるなる[49]。かのひとは、かのひとは、かのひとは、わたくしに蓮台の無岸無辺の仏法を伝授したまへり[50]。ああ、ああ、ああ、わたくしは庵にて、憂へなき僧家となれり。一たび火が発しなば、わたくしはそれを抑へり。心に万事気がかりはなく、手に数珠をしぞ爪繰れる。わたくしはこちらに静坐し、言葉なく、落花を嘆き、煙霞をぞ独り歩める。
（言う）南無阿弥陀仏、わたしはこちらで静坐しようぞ。
（子役が登場）わたしは劉均佐の息子、父上は裏庭で修行していられるが、おじさんは母上と毎日お酒を飲みながら、いっしょにいられる。父上に告げにゆこう。開けてくだされ。開けてくだされ。
（正末）門を開けろと叫んでいるのは誰だろう。（唱う）
【罵玉郎】さらさらと斑竹の簾を下ろせり。こちらは人は静かにて、騒ぐことなし。片開きの戸のぎいといふには耐へられず。
（子役）開けてくだされ。
（正末が唱う）われはこちらで疑ひを絶ち、じつと見て、じつと聴くなり[51]。
（子役）開けてくだされ。
（正末が唱う）
【感皇恩】ああ、かのものは年若き女房ならん。このところ、かのものの門をしぞ踏みしことなき。異香を焚きて、いそいで衣服を整へて、いそいで数珠を手に持てり。
（子役）開けてくだされ。
（正末が唱う）誰ぞやが浄水を添へにきたりしか。誰ぞやが新茶を献じにきたりしか。わたしはこちらで階に近づきて、戸に傍ひて、窗紗に近づく。
（子役）開けてくだされ。
（正末）いったいどなたか。（唱う）
【采茶歌】日は耀きて眼は霞めり。おんみはもしや仏菩薩なる。
（子役）開けてくだされ。
（正末が見て唱う）ああ、頑是無く、甘やかされし小冤家なりき。まことの母が子をゆゑもなく打ちしなるらん。われはまことの父なれば腸肚にかれを憐れめり。
（言う）息子よ、こちらへ何をしにきた。
（子役）用事がなければまいりませぬ。父上が修行しにゆかれてから、母上とおじさまが毎日お酒を飲みながら、いっしょにいらっしゃいますので、わざわざ告げにまいったのです。
（正末）ああ、母さんとおじさんが部屋でお酒を飲みながら、いっしょにいるのは、ほんとうなのだな。
（子役）ほんとうにございます。嘘は申しておりませぬ。
（正末が怒る）あの凍え死にしなかった貧乏人は、まことに無礼だ。おまえ[52]は雪の中で凍えて倒れていたが、わたしがおまえの命を救ってやったのだ。わたしはさらに結義して弟とし、あのものが内外の家事に関して、なかなか細心なのを見て、万貫の財産をみなあのものに管理させたのだ。手のひらで持ち上げたくてたまらないわい[53]。（忍の字を見る）ああ。息子よ、ひとまず遊びにゆくがよい。
（子役）父上、家に戻ってゆかれませ。
（正末が唱う）
【牧羊関】父の心を悩ますなかれ。もしや眼が霞みたるにや。
（子役）眼は霞んでおりませぬ。わたしは見たのでございます。
（正末が唱う）かのものはもしや近所の女らと行き来せるにや。
（子役）ほかでもない、母上とおじさまがお酒を飲んでいたのです。
（正末が唱う）本当か。
（子役）本当にございます。
（正末が唱う）嘘をつくなよ。
（子役）嘘をついたりいたしましょうや。
（正末が怒る）本当ならば、我慢できない。
（唱う）一本の太き鉄の鎖も必要なし。両面の死囚枷[54]も必要なし。清耿耿たる役所に告ぐる必要なし。
（言う）我慢できない。
（唱う）安心せよかし[55]。いましのために、むごたらしくみづから殺さん。（ともに退場）
（劉均佑が旦児とともに登場）わたしは劉均佑。兄上が裏庭へ修行しにゆかれてからは、財産、子供はすべてわたしのものとなり、おおいに楽しく快い。
（旦児）おじさん、まさにおっしゃる通りです。わたしはすでに酒食を調えましたから、二人して楽しんで、何杯か飲めば、まことによろしいでしょう。
（劉均佑）わたしはまさに何杯か飲みたいと思っているから、寝屋を鎖ざして、お酒を飲もう。（飲む）
（正末が登場）手の中に刃物がないから、厨房で刀を手に取り、入り口に来て、聴いてみることにしよう。
（旦児）おじさん、内外の家事のことでは、朝も晩も、たいへんお世話になっております。たっぷり一杯お飲みください。
（劉均佑）姉さんのご恩は、死んでも忘れることはできませぬ。姉さん、どうぞ
（正末）ほんとうにかようなことがあったとは。まことに腹立たしいことだ。
（唱う）
【哭皇天】吊窗のなきを見て、心は先に怕れたり[56]。かのものが門を開けずば、脚もて踏まん。覚えず怒りは胸に湧き、刀をぞ手にし持ちたる。
（見る）見てみよう。
（旦児）おじさん、もう一杯お飲みください。
（正末が唱う）かれら二人は端然として坐榻にぞある。
（言う）開けるのだ。
（劉均佑）人が来ました。（退場。布袋が登場）
（旦児が門を開ける）員外さま、家に来られましたか。
（正末が唱う）この部屋の入り口にひたと寄り、姦通をみづから押さへん。
（旦児）姦通を押さえようとのことですが、姦夫はどこにいるのです。隣近所の皆様方、劉均佐が人を殺そうとしておりますよ。
（正末が唱う）そなたが叫ぶことはなし。大声を出すことはなし。（旦児を捕まえて叫ぶ）
（正末が唱う）ああ。さあ、さあ、さあ、そなた淫婦と、（旦児を推す）
（唱う）淫婦と二人で語るべし。（刀の柄の忍の字を見る）
（唱う）ああ。ふと見れば、忍の字の、一画一画、違ふことなく、
【烏夜啼】鋼の刀の柄に黒々と記されたるを見るのみぞ。ああ。汝はいたくぞ吾に纏ひつきたる。忍の字どのよ。
（旦児）結構なことですね。出家したお方がこんなに乱暴だとは。劉均佐が人を殺そうとしておりますよ。
（正末が唱う）わあわあとな叫びそ。ひたすらにでたらめをせり。われわれは王法を論ずることなく、まずは家法を論ずべし。
（旦児）劉均佐どの、出家されたのではないのでございましょうか。看経念仏されているのに、どうして、人を殺すのですか。
（正末が唱う）皂の直裰、錦の袈裟を羽織ることなく、金刀で青絲の髪を剃ることもなし。つるみあひ、みだりに振る舞ふことなかれ。われはそなたの夫にて、そなたはわれの妻なるぞ。
（言う）ひとまずそなたを殺さないことにしよう。姦夫はどこだ。
（旦児）探してもどこにもいませぬ。（退場）
（布袋に帳の中でくしゃみをする）
（正末）こちらに隠れていたのだな。ただではすまさぬ。
（唱う）
【紅芍薬】われは片手で繋腰[57]を握りしめ、前へ押さへり。そなたをばやすやすと隠れさせまじ。
（布袋）劉均佐どの、我慢しなされ。
（正末が布袋を見て唱う）こちらにて、頭を抬げ、ふと見れば、みづから驚く。わが両の手は驚きてだらりとし、心を刃で突き刺し得ぬぞ恨めしき。
（布袋）劉均佐どの、心の上に刃を置けば、何の字か。
（正末が考える）心の上に刃を置くと、
（唱う）ああ。このものも忍の字を連想させたり[58]。姦夫をみづから壁衣[59]の中に捕らふれば、眼の前は海角天涯[60]。
（言う）わたしは壁衣のなかで姦夫を捕らえましたが、師父さまであるとは思いませんでした。ほんとうにおかしなことにございます。
（唱う）
【菩薩梁州】両様の顔なれど、同様の字ぞ[61]。叩頭し、あたふたと、かのひとを拝したり。おんみはわたしを欺かれたり。救苦救難菩薩さま、いささか事を誤りて見間違ひ[62]、まず財産を棄てんと思へり。父母が娶はせし妻を嫁がせ、恩を断ち、義を絶たんとす。しかりといへども、忍の心でとくと考ふ。
（布袋）劉均佐どの、奥さまを離縁して、お子さまを棄てられて、わたしに従い、出家なされよ。
（正末）妻子を棄てて出家させようとしている。
（唱う）とりあへずいささかの嘘により、かのものを瞞かん。
（布袋）劉均佐どの、わたしはおんみに我慢するよう申し上げたに、おんみは我慢しようとなさらず、短刀を提げて、人を殺そうとなされた。在家で出家してらっしゃるが、今日はわたしに従って出家なされよ。
（正末）師父さま、劉均佐は一心に師父さまに従って、出家いたしたく思うのですが、いかんせん、万貫の財産と、美しい妻、幼い子どもは、世話する人がおりませぬ、世話する人がいるならば、わたしは師父に従って、出家しましょう。
（布袋）劉均佐どの、財産を管理する人がいないが、管理する人がいるなら、わたしに従い、出家しようと言われましたな。二言はなしにございますぞ。
（劉均佑が登場）わたしは劉均佑、さきほどお金を取り立てて戻ってきたぞ。兄上に会いにゆこう。（会う）兄上、わたしはお金の取り立てをして戻ってきました。
（正末）弟よ、もうすこし遅れてきてもよかったに。
（布袋）劉均佐どの、財産を管理する方が来られた。わたしに従い、出家なされよ。
（正末）弟よ、取り立てはどうだった。
（劉均佑）みな取り立ててまいりました。
（正末）よい弟だ。家事をさせた甲斐があったぞ。弟よ、わたしはおんみに尋ねてみよう。
（布袋）劉均佐どの、我慢して、念仏なされよ。
（正末）はい、はい、はい、南無阿弥陀仏、
（唱う）
【牧羊関】お金の目方は軽きや重きや。
（劉均佑）十両五銭もございます。
（正末が唱う）金銀は本物か偽物か。
（劉均佑）すべて赤金、白銀にございます。
（正末が唱う）かのものはすすんでわれらに還ししや。
（劉均佑）みな還そうといたしました。もし還そうとしないなら、そのものの家の鍋さえも持ってきました。
（正末）これぞまさしく「恩情あらば貸し金をせず」[63]というもの。南無阿弥陀仏、弟よ、一つ持ってきて看せてくれ。
（劉均佑が銀を渡す）兄上、真っ白な銀子です。ご覧ください。
（正末が銀子を受け取る。忍の字が記されているので驚く）
（唱う）こちらにて、さきほど触れしが、はや記されぬ。版木はなきも、墨黒に。
（布袋）この忍の字は、我慢をしろということだ。
（正末が唱う）師父は言ひたり。忍べよや、忍ぶべしとぞ。
（劉均佑）こちらの銀子はさらに宜しゅうございます。
（正末が唱う）持ってゆけ。わたしは持つことができても持とうとはせぬ。
（布袋）劉均佐どの、財産を管理する人が来たから、わたしに従い、出家なされよ、劉均佐どの、聴かれるがよい。
（偈）な恋ひそね、足色[64]の金と銀とを。な想ひそね、夫妻は百夜の恩ありと。金銀を北斗に積むとも、無常は来たりて別人にしぞ与ふらん。財産を棄て、拙僧に従ひて、修行するにぞしかざらん。おんみはもとは財貨を貪り、賄賂を好みし劉均佐なりしかど、われはおんみを、是もなく非もなき窗下の僧となさしめん。
（正末）ああ、仕方ない。弟と結義してから、わたしは心の中でたいへん喜んでいた。わたしは一貫銭のため、一人の男を打ち殺し、姦通がないのにそれを押さえようとし、あやうく一人の男を殺すところであった。わたしは今から、財産と、美しい妻、幼い子どもを、ことごとく弟に引き渡そう。わたしは師父に従って出家するから、弟よ、しっかりと二人の子供を世話してくれ。わたしは師父に従って､出家しようぞ。ああ、仕方ない。
（唱う）
【黄鍾尾】われが説けるは、十年の塵夢[65]、三生のこと。われが啜るは両腋の清風、七盞の茶[66]。みづから誇るにあらざれど、われはこの城中で第一の家。われは、貧乏人の酒、閑漢の茶を飲めりと思ひ、守銭奴のおほいに家を養へることを笑ひて、守銭奴のいとも術なきことを嘆けり[67]。わが師のわれを度脱せられしことに謝すべし。われは財貨をことごとく贈与して、妻と子をかのものに引き渡したり。弟の引き取りを肯ひしことに謝すべし。われはかの千万の財産をこたび棄つべし[68]。深山にて、家をば養はんとする心を抑へ、僧房にて、修行の心をみづから発せり。
（布袋）念仏するのだ。
（正末）師父さまに従って、毎日ひたすら南無阿弥陀仏と念じましょう。
（唱う）おほむね是もなく非もあらざれば、おほいに楽しきことならん。（退場）
（布袋）劉均佐がさらに幻影を見て、財産をことごとく棄て、わたしに従い、岳林寺に往き、出家するとは思わなかった。あちらでは、拙僧がさらに大乘仏法を伝えればよい。
（退場）
第三折
（外が首座に扮して登場、詩）出言すれば神天[69]の福を増すを得て、見性[70]すれば仏祖の灯を伝ふるを得り。一たび袈裟を掛けてより後、万の人と縁を結びて断つことのなき僧となりたり[71]。
拙僧は汴梁岳林寺の首座[72]の、定慧和尚だ。想うにわが仏門では、一気が分かれ、三界がはじめて立ち、四生[73]の品類が生じて、万種の輪回となったのだ。みだりに死して、むなしく生きるは、蟻がぐるぐる回るかのよう、鳥が籠へと投じるかのよう。劫を重ねてもその真性を明らかにすることはできない。女が男に変わり、男がさらに女に変わり、人が死に、羊と為り、羊が死んで、人と為るのは、袴を脱いで、衣を着けて、装いを改めるのに一任するも同じこと。聡明な男女なら、羅網[74]を出、離れることを求めるべきだ。人の身は得難く、仏の法には逢い難く、中土には生まれ難いもの[75]。すみやかに修行をすれば、悪道に堕ちるのを免れることができよう。想うにわが仏教は、西より来て、二十八祖[76]に伝えられた。初祖は達磨禅師、二祖は慧可大師、三祖は僧燦大師、四祖は道信大師、五祖は弘忍大師、六祖は慧能大師、仏門の中には三十六祖[77]、五宗、五教の正法[78]が伝えられている。五宗とは、臨済宗、雲門宗[79]、曹溪宗[80]、法眼宗[81]、[水為]山宗[82]。五教とは、南山教[83]、慈恩教[84]、天台教[85]、玄授教[86]、秘密教[87]。これがすなわち五宗五教の正法だ。
（偈）道を学ぶは禁城を守るがごときものならん。昼は六賊[88]をば防ぎ、夜は惺惺[89]。中軍[90]の主将が命を伝ふるを得ば、歳歳年年太平を享く。
こたび、わたしは仏の法旨を奉じている。こちらには姓を劉、名は圭、字は均佐という人がいる。この人は常日頃、賄賂を好み、財貨を貪り、ひたすら栄華富貴を恋うて、修行しようとしなかった。このたびは、わが仏により点化され、この人は看経念仏、参禅打坐している。やって来ないが、劉均佐は功果[91]に遅れることだろう。
（正末が登場）南無阿弥陀仏。わたしは劉均佐、師父に従い、出家して、毎日ひたすら看経念仏。師父には一番弟子がおり、そのものにわたしの修行を見張らせている。わたしが凡心を起こせば、そのものはそれを知り、すぐに打つのだ。そのものに今から会いにゆかねばならぬ。（会う）
（首座）劉均佐どの、わたしは師父の法旨を奉じ、おんみが心を清くし、欲を寡なくし、戒を受け、斎を食べ続けるようにさせ、凡心を起こすのを許しませぬ。凡心が起こったときは、竹篦で五十回打ちまする。あらゆる事を、おんみはとにかく忍ばれるがよい。聴かれよ。忍ぶのが最上なのです。
（偈）忍の一字は常ならぬものならめやは。一生忍ばば清凉[92]なるべし。忍の字をつねに思はば、忍は常生不老の方とぞなりぬらん。念仏､念仏、我慢､我慢ぞ。（眠る）
（正末）はい、我慢して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念じましょう。このひとは眠ってしまった。ああ、劉均佐よ、わたしはむかし、師父に従い、出家して、この寺に来て、日々念仏をあげている。わたしは口では念仏をあげているが、わが万貫の財産は、どうなっているのやら。
（首座が怒鳴る）これ、劉均佐、坐禅する処には、万貫の財産などない。「万般を持ちゆくことはかなはねど、業のみは身にし随ふ」とはよくぞいったもの。わが師父の法旨は、おんみを参禅打坐させ、精神を奮い立たせて、かならずや悟りを得させ、雑念を起こさせないということだ。細心にして、専一にならねばならぬぞ[93]。大病に罹るかのやう、ご飯を食べてもご飯の味を知ることはなく、お茶を飲んでもお茶の味を知ることはなく、痴れるが如く、醉うが似く、東も西も、南も北も分からないようにするのだ。これらの修行を行えば、かならずやおんみは心華[94]が発現し、本来[95]を徹悟して、生死の路頭[96]に、言わずして到るであろう。生死事大、無常迅速。「十人が山に上るに、おのおの努力するがごとし」とはよくぞいったもの。
（偈）人はみな夢を見て、千変万化し、鬧ぎたるなり。目覚めてとくと考へば、一切は心の造りたるものにしぞ過ぎざらん。気を息めば禅の境を受くべきも[97]、迷ひ惑ふは顛び倒るるかのごとし。発願し、修行をせんとするは寂滅真常[98]の道。念仏､念仏、我慢､我慢ぞ。（眠る）
（正末）はい、念仏をいたしましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。またも眠ってしまったぞ。ああ。万貫の財産は大したことはないのだが、花に似た女房を棄ててしまった。
（首座）これ、劉均佐。坐禅するところには、花に似た妻はおらぬぞ。わが師父はおんみに修行養性[99]させているのだから、心猿を繋ぎとめ、意馬を縛りつけねばならぬぞ。馬鹿者め。
（偈）みづから悟る、みづから悟る、みづから悟ることなくば、誰か悟らん。十二時中、肩を並べて、邪魔の隊へと落ちしむることぞなき。一点の霊光[100]はこれ禍胎。不良をなさばむなしく悔ゆべし。われは世人の悟ることなきを笑へり[101]。人を争ひ、我を争ひ、譲ることなし[102]。かれを損ひ、己を利するは百千般。生鉄の心腸も粉碎せらるべし。眼の光を失はば業根[103]は深くして、炉炭鑊湯[104]を避くるは難し。閻羅さまには人情なし。その期に臨み、悟るの難きをはじめて覚えん。劉均佐どの、念仏､念仏、我慢､我慢ぞ。（眠る）
（正末）はい、念仏し、我慢しましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。このひとはまた眠ってしまった。花のような女房は大したことはないのだが、魔合羅[105]のような二人の子供は、どこにいるやら。
（首座）これ。劉均佐、坐禅するところには、魔合羅のような子供はおらぬぞ。わが師父はおんみを修行させているが、まずは定慧の心[106]が必要なのだ。定慧を基とし、迷うてはならないぞ。定は慧の体、慧は定の用なのだ。慧に即く時、定は慧にあり、定に即く時、慧は定にある。この言葉を識れば、慧は定まるのだ。道を学ぶ者は、言うまでもなく、まず慧であり、しかる後、定を発する。定と慧は灯と光のよう、灯があれば光り、灯がなければ暗いのだ。灯は光の体、光は灯の用。名は二つあるものの、体、用は、もとは同じだ。これがすなわち定慧なのだ。念仏､念仏、我慢､我慢ぞ。
（正末が数珠を抛つ）師父さま、わたくしは我慢できなくなりました。（唱う）
【双調新水令】われは今、人我と是非の郷をぞ跳びて離れたる。
（言う）師父さま、わたくしの妻子を想えば、
（唱う）おほいに隔たりたれども恙なかるべし[107]。われはこの紅塵に白蟻の戦ふは、みな一枕の黄粱の夢なりけるを識破せり[108]。われはかやうにあたふたとしたりしかども、今日はわが頭をぞ打たれたる[109]。
（首座）劉均佐どの、聴かれるがよい。おんみの一霊真性[110]は、湛として[111]太虚のよう。五蘊色身[112]は、死すること幻夢のよう。頂門に眼を具えられ[113]、たちまちに虚の中に花のないことを悟られた[114]。いますぐに圓成されれば[115]、とこしえに生滅を超越されよう。染縁[116]は就り易く、道業[117]は成り難いもの。前因を悟ることなく、万縁に付きまとわれれば[118]、風景は浩浩として[119]、功德の林を凋ませ、残い、心火[120]は炎炎として、菩提[121]の種を焼いて、損うことであろう。道念[122]を情念のようにするなら、自然の仏法はしばしば前に現れよう。人々のためにすることを自身のためにすることのようにするなら、煩悩の塵塵から解脱できよう。
（偈）「弥陀を念ぜば福はもつとも強くして、刀山と剣樹は消亡するを得ん」とはよくぞいひたる。みづから作し、みづから招き、さらにみづから受くるなり。時に臨みて手と脚を忙はしくすることなかれ。念仏､念仏、我慢､我慢ぞ。
（正末）はい、念仏をいたしましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。（眠る）
（首座）劉均佐は眠ってしまった。このものに幻影を見せるとしよう。えい。このものの魔頭[123]が来たぞ。
（旦児が子役とともに登場）わたしは劉均佐の女房、員外さまに会いにゆこう。（会う）員外さま。
（正末）女房よ、そなたはどこからやってきたのだ。
（旦児）員外さま、子供を連れておんみを訪ねてきたのです。
（正末）女房よ、そなたのことが懐かしくてたまらなかったぞ。（唱う）
【雁児落】覚えずわれは悲しめり。覚えずわれは悲しみを添ふ。われわれは美しき夫婦なれども、かの野暮な和尚のあるをいかんせん。
（旦児）あのものを怕れてどうなさいます。
（正末）女房よ、そなたは存じておらぬのだ。
（唱う）
【得勝令】かのものは棒を揮ひて鴛鴦を打たんとし、玉簫を吹き鸞凰を招かんとはせず[124]。
（旦児）員外さま、おんみのせいでひどく悲しゅうございます。
（正末が唱う）苦しみはいづれの時にか尽くるとぞ言ふ。わたしはおんみの恩愛を日ごと想へり。
（忍の字が旦児の手に記されている）
（旦児）わたしの手に忍の字が記されておりまする。
（正末が唱う）わたしはこちらで考へり。刀刃を胸元に置かるるが似きなり。覚えずわたしはじつくりと見る、女房よ、これはまさしく恩愛を絶つ海上方[125]ぞ。
（旦児）二人の子供が会いにきておりますよ。
（正末）わが子よ、懐かしくてたまらなかったぞ。（唱う）
【水仙子】眉と眼とに触れたれば、（忍の字が子役の眉と額に記される）
（唱う）吉は少なく、凶は多き、悪しき字の如きなり[126]。さらに壷中の日月は掌を翻すかの如きなり[127]。女房よ、われはそなたの手のひらを看るのみにして、手の甲を見ることぞなき。（忍の字を見る）
（唱う）今やこの天台で劉郎に寄り添ふは誤りぞ[128]。男児は眉に記されて、女児は眼角の傍に記さる。（忍の字を看る）
（唱う）忍の字よ、汝はわれら父子の情をむごたらしくも断ち切れり。
（首座）すぐに退け。（旦児が子役とともに退場）
（布袋が旦児、子役とともに一回とんぼをきって退場[129]）
（正末が会う）師父さま、さきほど来られたあのかたは、わが老師父ではございませぬか。
（首座）わが師父だ。
（正末）二人の夫人はどなたでしょうか。
（首座）わが師父の奥さまと、二番目の奥さまだ。
（正末）二人の子供はどなたでしょう。
（首座）師父の二人のお子さまだ。
（正末が怒る）結構な和尚だな。あのものはわたしに妻を離縁させ、子を棄てさせ、わたしの銅斗の財産を抛たせ[130]、あのものに従わせ、出家させたが、ほんとうに、ほんとうに腹立たしいわい。師父さま、お咎めになられませぬよう。お咎めになられませぬよう。わたしは出家するのはやめて、わたしの家に戻ります。（唱う）
【川撥棹】かのものは、そもそもさらに荒唐なりき。ままよ。おんみはわたしを陥れたれど、優れたることはなからん。わたしは稻地[131]、池塘、魚泊[132]、蘆場[133]、旅店、油房[134]、酒肆、茶坊、錦にも似た房廊と、画堂を持ちて、富は地方に冠絶し、賎しとて虐げらるることは一日さへもなく[135]、相識たちに幾度も語られぬ[136]。
（言う）お酒を飲んでいたのだが、弟が、「兄上、家の入り口に太った和尚がおります」と言っている。（唱う）
【七弟兄】われは正堂庫房を出、まさに和尚のおんみを見たり。わけもなく食べ、かばかりに肥え、劉員外を欺き、火坑の傍へ入らしめたり[137]。
（首座）我慢するのだ。
（正末）わたしはもちろん、
（唱う）釈迦仏さへも腹を立て、蓮台をしぞ下るべき。
【梅花酒】おんみはわれを滅ぼせり。わが紅妝を離縁せしめて、わが子を棄てしめたりしかど、かのものに二人の妻のありしとは。地に着きしこの脚をよくぞ打ちたる[138]。かのものは山を出でたる像などにはあらずして、さらにこの師長をぞ弄びたる[139]。
（首座）劉均佐どの、我慢なされよ。慌てられるな。
（正末が唱う）おんみは慌つることなきも、われは慌てり。
（首座）我慢なされよ。慌てられるな。
（正末が唱う）おんみは慌つることなきも、われは慌てり。かねてより、香を焚くことなかりしかども、かのものは、われをして当陽[140]を拝せしめたり。われは平生、経商を好みしかども、かのものは、われをして禅床を守らしめたり。われは善き心腸に改めたりしかど、かのものは悪しき模様をぞなせるなる。師父さまはご裁可あるべし[141]。
（言う）師父さま、出家したものにさえ、妻がいるのに、（唱う）
【喜江南】ああ、われは、人は離れて、財は散じて、いかでか故郷に還るべき。釈迦仏の画眉郎とならんとは、想ひもよらぬことなりき。糟糠のわが妻は門傍にし倚れるらん。本日はすぐに往き、かのひとの短き金の釵もて、緑の苔の牆に画きて損ふを免れしむべし[142]。
（首座）劉均佐どの、修行しないで、どちらへ行かれる。
（正末）師父さま、お咎めになられませぬよう。わたしは出家するのはやめにいたします。本日はわが汴梁へ還ってゆきます。
（首座）故郷に戻ってゆこうとなさるなら、今日すぐに長旅に出なければなりませぬ。
（正末が唱う）
【鴛鴦煞】はやくも知れり。かのものの妻孥を持ちて、銷金帳へ引き込みたるを。われはすすんで、金銀の船を、人を驚かせる浪に、沈み込ましめたりけるに、かのものはなどて男児を携へて、われを滅ぼし、一家を離散せしめたる。げにやげに、われをしてこの山門を出づるに懶からしめて、汴梁に帰ることをぞ羞ぢしむる。衰草に斜陽は映えて、振りかへり、むなしく嘆けり。恥づかしげなる顔をして故郷へ還らん。これよりわれは、参禅なぞをすることはなく、講経なぞを聴くことはなかるべし。（退場）
（首座）ああ、劉均佐がささやかな幻影を見て、汴梁へ戻ってゆこうとするとは思わなかったわい。汴梁へゆき、酒色財気、人我是非、貪嗔痴悪を見た後に、わが師父の点化に遇って、はじめて成道することができるであろう。
（偈）わが仏門は五派に分かれて、参禅をする処にて悟りを求めり。功徳を成就するを待ち、ともにわが仏如来をぞ見ん。（退場）
第四折
（浄が孛老に扮して子役を連れて登場）老いぼれは汴梁の人、姓は劉、名は栄祖、年は八十。わたしには大勢の子や孫がおり、たくさんの田畑を持ち、この汴梁で第一の金持ちだ。父上はおっしゃったことがある。わたしの祖父の劉均佐は、太った和尚に導かれ、出家していったとか。手の中に忍の字があることが、祖父の証しだ。今でもわたしの家には手巾が残されており、おもてはすべて忍の字だ。わが一門の老若は、手巾を拝しているのだが、これはわたしの祖父を拝するのと同じこと。折しも清明節だから、手巾を持って先祖の墳へ、紙銭を燃やしにゆくとしよう。（退場）
（正末が登場）わたしは劉均佐。あの禿に騙されるとは思わなかった[143]。わたしの家へ還ってゆかねばならぬわい。（唱う）
【中呂粉蝶児】げにわれをして語る言葉をなからしめたり。思はざりき、誠なき禅僧に瞞かれ、あたら銅斗の財産を棄てんとは。わが子と妻は、心の中にて、かならずや蓮台にわれがどつしり坐れりと思ひたるらん。想へばわれは多くの人を陥れたりしかば、この守銭奴[144]は挫折にぞ遭ひたるならん。
【醉春風】この寺の僧は恨むべし。胸の火は消し難し。太りたるかの風魔は、わたくしを瞞きしなり。わたくしは、海中に舟を沈めし龐居士[145]や、蘇門に長嘯せし晋孫登[146]に及びもつかず。わたくしは東山に高臥せし謝安石[147]とは言ふを得ず。
（言う）わたしは寺を離れて数日。こちらはわたしの先祖の墳だが、どうして様子が変わったのだろう。もう一度、確認しよう。あやうく通り過ぎてしまうところだったが、まさにわたしの先祖の墓だ。この墳に入るとしよう。（唱う）
【迎仙客】墓地の側に到れり。
（言う）なぜこのように荒れているのだ。
（唱う）いささかの棘が生ひたり。
（言う）行ったときには、こんなに大きな樹はなかったぞ。
（唱う）行きしとき、松柏の樹はわれよりも高かりしやは。生ひ立つことの速ければなり、もしや雨水の多かりしにやといはんとも、われがゆき、三月を経にしのみなるに、かやうに大きく生ひ立つことのあらめやは。
（言う）この墳の中へ行き、見てみよう。一日歩いたのだから、こちらに坐ることにしよう。
（孛老が登場）老いぼれは劉栄祖、はやくも墳の前に来た。あちらには若者が坐っているが、尋ねてみよう。お若いかた、こちらに来られていかがなされた。
（正末）うちの墳だぞ。わたしがこちらに坐るのを許さないのか。
（孛老）この馬鹿ものめ、わたしの家の墳なのに、こちらに坐って、おまえの家の墳だと言うのか。
（正末）この老いぼれは無礼なやつだ。うちの墳に、わたしが坐れないと言うのか。
（孛老）おまえの家の墳だとはどういうことだ。話して聴かせろ。
（正末が唱う）
【上小楼】われとなれとは農民なれば理をぞ説くべき[148]。役所にゆきて諍ふこともなかるべし。なんぴとぞ、なれをして、石の虎、石の羊の周囲に田禾を種ゑしむる。
（孛老）おまえの家の墳ならば、いかほどの田地があるのだ。
（正末が唱う）こちらはわづか五畝のみで、いかほどのものにもあらず[149]。いましはまことに大胆なり。いましはわたしの墳の前の地を、強きを恃み、耕せり。
（孛老）うちの墳だぞ。
（正末）うちの墳だぞ。
（孛老）おまえの家の墳ならば、どのように並んでいるのだ[150]。
（正末が唱う）
【幺篇】正面に先祖をば排ぶれど、これもまた安楽の窩にあらず。命を掛けて訴訟をぞせん。喚き叫びて、なにをやなせる。
（孛老）馬鹿野郎めが、おまえはわたしを殴る勇気もなかろうに。
（正末）わたしがおまえを殴っても、どうということはないわい。
（唱う）われはこちらで耐へられず。ぷんぷんと進みゆき、かのものを掴まんとせり。ああ、やめよかし。やめよかし。かのものの衣衫の襟に、さらに一つを記さんことぞ恐ろしき[151]。
（言う）おまえの家の先祖の墓なら、おまえは苗字を何というのだ。
（孛老）わたしは苗字を劉というのだ。
（正末）苗字を劉というのなら、いったいどこの劉なのだ。
（孛老）わたしは劉均佐の家だ。
（正末）どこの劉均佐の家だ。
（孛老）太った和尚に連れてゆかれて出家した、劉均佐の家だ。
（正末が背を向ける）まさにわたしだ。（振り向く）その劉均佐はおまえの誰にあたるのだ。
（孛老）わたしの祖父だ。
（正末）おまえの墳はどのように並んでいるのだ。
（孛老）こちらはわが祖父劉均佐の空の墓だ。
（正末）こちらは誰だ。
（孛老）こちらはわたしの祖父の弟劉均佑だ。
（正末）大雪で凍えて倒れた劉均佑か。
（孛老）ああ、こいつはどうしてかようなことを申すのだろう。
（正末）こちらは誰だ
（孛老）わたしの父だ。
（正末）仏留か。
（孛老）どうして父の幼名を呼ぶのだろう。
（正末）こちらは誰だ。
（孛老）わたしのおばだ。
（正末）娘の僧奴か。
（孛老）おまえはわたしの一家の産毛を持っているのか[152]。
（正末）おまえは祖父の劉均佐を知っているのか。
（孛老）知らぬわい。
（正末）眼を見開くのだ。このわしがそなたの祖父の劉均佐だぞ。
（孛老）わたしがおまえの祖父だ[153]。おまえがどうしてわたしの祖父なのだ。
（正末）わたしが言っていることが正しいならば、おまえはわたしを認めるがよい。わたしが言っていることが正しくなければ、おまえはわたしを認めるな。
（孛老）わたしに話して聴かせてみてくれ。
（正末）あの日はわたしの誕生日。太った和尚はわたしの手に忍の字を書いたのだ。水では洗い落とせなかったし、拭っても拭い落とせず、手巾には忍の字が一面に記されたので、わたしはすぐにかれに従い、出家したのだ。わたしは行くとき、手巾を一本残したが、おもてはすべて忍の字だった。手巾はあるか。
（孛老）手巾はあるが、別のものだろう。
（正末）持ってきてわたしに確認させてくれ。
（孛老）これが手巾だ。確認してくれ。
（正末が確認する）まさしくわたしの手巾だ。信じないなら、わしの手の忍の字を看るがよい。この手巾の字とまったく同じだ。
（孛老）ほんとうにお祖父さまだ、子供たち、お祖父さまに拝礼しにこい。
（衆が拝礼をする）お祖父さま、いったいどちらにいられたのでしょう。
（正末）立ってくれ。（唱う）
【満庭芳】いましらは、一斉に来たりてわれを拝したり。わが親眷らは、わいわいがやがや。家に居る、下の世代の者たちで、誰が年長なりや[154]。
（孛老）わたくしが年長にございます。
（正末が唱う）かのものの髪は絲窩[155]のやう。
（言う）こちらは誰だ。
（孛老）お祖父さま、こちらはわたしの姪にございます。
（正末が唱う）この姪はわが祖母より年老いぬ。
（言う）こちらは誰だ。
（孛老）こちらは曾孫にございます。
（正末が唱う）わが曾孫はわが兄となるを得ん。事情をすべて参破せり。人生は幾何ぞ。一枕の南柯の夢の似きなり。
（孛老）お祖父さま、なぜ年をとられていないのでしょうか。
（正末）わたしに従い、念仏すれば、年を取らぬぞ。
（孛老）どのように念仏するのでございましょう。
（正末）わたしに従い、南無阿弥陀仏と念じるだけだ。劉均佐よ、師父さまは善人であったのだ。師父さまに従って、三か月、家を離れていたのだが、俗世では、百十余年が経っていたのだ。今や進退窮まった。師父さま、どうしてわたしを救いに来られないのでしょうか。（唱う）
【十二月】師父さま、すぐにわたしを救ひに来られませ。この件は、いかでか収むることを得ん。光陰は水のやう、日月は梭のやう。日々口を閉ざすことなく、わたしは多めに弥陀を念ぜん[156]。
【堯民歌】ああ、まことなき神の語、でたらめを言ふ仏などにはあらざりき[157]。われは荘子先生の鼓盆歌となる[158]。師父さま、おんみは天に昇りて、去りたまひたりぬれば、このわれはいかにぞすべき。
（言う）もうだめだ。命があっても詮無いことだ。
（唱う）われは残んの命を棄てて、松にぶつかるよりほかあるまじ。
（松にぶつかる。布袋が登場）劉均佐どの、悟られたかな。
（正末）師父さま、わたくしは悟りました。
（布袋）弟子よ、そなたは本日、正果をすでに成就したから、はじめて信じることであろう。
（正末が唱う）言ひたることはまことなり。これはひとへに忍の字の多きによれり。
（言う）師父さま、いらっしゃるのがもうすこし遅ければ
（唱う）こちらには三十の忍の字がつづけて記されたりつらん[159]。
（布袋）劉均佐どの、聴かれるがよい。おんみは凡人ではなく、上界の第十三尊羅漢賓頭盧尊者なのだ。おんみの妻も凡人ではなく、驪山老母が化身したもの。おんみら二人の男児と女児は、一人は金童、一人は玉女。おんみは心に俗世のことを思うたために、人の世に堕ちたのだ。酒色財気と人我是非を見、今日は功徳を成就して、返本朝元[160]、仏道に帰し、ながく羅漢となられよう。拙僧をご存じか。
（正末）存じませぬ。師父さまはどなたでしょうか。
（布袋の偈）われは初祖達摩にあらず、大唐三蔵にもあらず。われはすなはち弥勒尊者で、姿を変へて、布袋和尚となりしなり。
（正末が拝礼をする）南無阿弥陀仏。（唱う）
【煞尾】われはこのたび還俗せしも、そもそもは仏とぞなりにけるなる。想ふにはじめ出家をせしは、禍を逃れんがためなりしかど、在家も正果を成し得ることを誰か知るべき。（ともに退場）
最終更新日：2010年11月10日