温太真玉鏡台雑劇
関漢卿撰
第一折
（老旦が夫人に扮し、梅香を連れて登場、詩）花は重ねて開けども、人に再び少き日はなし。女を生みて男を生まずば、門戸は誰にか倚りて立つべき。
老いぼれは姓を温といい、夫は姓を劉といい、とうの昔に世を去った。男子はおらず、一人娘を生んだきり。字は倩英、年は十八、人と婚約していない。夫は生きていたときは、娘に勉強させていた。老いぼれは今、娘に字を書き、琴を弾くのを教えたいのだが、よい師はいない。わたしの甥の温嶠は、現任の翰林学士。このたびは、老いぼれ母子に引越しをさせ、東京の旧宅に住まわせて、老いぼれに挨拶しにくるとのことだ。梅香や、入り口で番をして、学士さまがいらっしゃったら、報せておくれ。
（梅香）かしこまりました。
（正末が温嶠に扮して登場）わたくしは姓は温、名は嶠、字は太真といい、翰林学士を拝命している。わたくしはとりたてて親戚はなく、一人の伯母がいるだけだ。年老いて寡婦暮らしであったため、近頃京師に引っ越させ、住まわせた。連日公務が忙しいため、挨拶をしていなかったのだが、今日は少々閑だから、挨拶をせずばなるまい。思うに今は賢臣が登用されて、聖主に出会い、富貴を得るのは容易いことだ。昔から今に至るまで、志を得たものと志を得なかったものは大勢いるが、まずは志を得たもののことを話そう。
【仙呂点絳唇】車騎は列を成し、門に詣れば稽顙[1]し、訪ね来れり。あまねく今古の興亡を説き[2]、語が出づれば人はみな仰ぐべし。
【混江龍】これもひとへに平生名望ありしため、塵を望みて路の辺に遥拝せらるることを得しなり[3]。出づるには高牙大纛[4]、入るには峻宇雕牆[5]あり。号令は万里の雷霆と駆け、教養は一天の星斗と煥く。威儀は赫奕、徒御は軒昂。喜ぶ時には鵷鸞[6]は並び集ひて、怒る時には虎豹は潜み蔵れたり。生きては獬豸の冠[7]を惧れず、死しては麒麟[8]に像を描かれ、圭を析き[9]、爵を儋ふにとどまらず、ことごとく将を拝して王に封ぜられんとせり。
（言う）一方で志を得ぬものたちもいる。
（唱う）
【油葫蘆】苦学する書生は才学広けれど、年ごとに科場を守り[10]、はや蕭蕭たる白髪は満頭の霜となりたり。いづれの時にか、出ては虜をうち破る三軍の将となり、入りては国を知ろしめす頭庁[11]となることを得ん。ただ願はくは、聖主の興り、世運の昌んに、黄金を結びて漫天の網となし、俊傑を収め、賢良を攬りたまはんこと。
【天下楽】その日のうちに鳳凰[12]の、翔びて天子の堂にありとも、そのものの朝には田舍郎[13]ならざりしことのあらめや。版築をする処にて傅説[14]は生まれ、稼穡の中に伊尹は長じたりしかど[15]、かれら二人も胎を出でたちまち顕はれたるにはあらず。
（言う）そうはいっても、志を得るか得ぬかは、運により決まるもので、人により決まるものではなく、むりやり得られるものではない。（唱う）
【那吒令】かれらは辯の立つを恃みて、儀秦[16]なりとも競はんとせずとせり。かれらは力の強きを恃みて、賁育[17]なりとも当たらんとせずとせり。おしなべて命運の強きを恃みて、孔孟なりとも成す術はなからんとせり。あるものは王者の師、あるものは蒼生の望[18]なりといひたれど、雪の案と螢の窓に耐へられず。
【鵲踏枝】彷徨はんとし、四方に走りて、昨日は燕陳[19]、明日は斉梁[20]。生徒を聚め、講義を聴きに来たらしめずば、などかこの詩書を留めて万古に伝芳せしむべき。
（言う）今日はみだりに自慢するわけではないが、わたしはまことに古人の下にはおらぬのだ。（唱う）
【寄生草】わたくしはまさに功名の運をゆき、まさに富貴の郷にあり。われらの家名は先つ世にありて謗られしことはなく、われらの書香[21]は今の世にありて虚誑はなく、われらの功名は世世ひけをとりしことなし。帽の檐は御楼の前に相接し、靴の踪は金階の下を離るることなし[22]。
【幺篇】金屋[23]を開き、画堂[24]を空しくせしことは徒ならざらめや。酒は醒め、夢は覚め、興趣なし。好き日、良き夜は淋しくなりて、風に臨みつ、月に対ひつ空しく嘆けり。可情人[25]は錦の幄と鳳凰の衾を楽しむことを得ず、愁をすべて玉の枕と鴛鴦の帳に抛てり。
（言う）話していると、伯母さんの家の入り口にもう着いた。梅香や、取り次いでくれ。温嶠がわざわざ挨拶しにまいりましたとな。
（梅香が報せる）ご隠居さまにお報せします。温嶠さまが入り口にいらっしゃいます。
（夫人）老いぼれがさきほど話すと、学士さまがほんとうにいらっしゃった。お通ししてくれ。
（梅香）お入りください。
（正末が見える）
（夫人）学士さまはご公務に勤しんでいらっしゃいます。座席を持ってきて、学士さまに楽にしていただきましょう。また、酒を持ってきて、学士さまに一杯お斟ぎいたしましょう。
（梅香）お酒はこちらにございます。
（夫人）学士さま、たっぷり一杯召し上がれ。
（正末が受け取って飲む）
（夫人）梅香や、繍房でお嬢さまを呼び、学士さまに挨拶をしにこさせておくれ。
（梅香）お嬢さま、お出でください。
（旦が倩英に扮して登場）わらわは倩英、部屋の中で針仕事をしていると、梅香は母上が前庁でお呼びだと言う。何事だろうか。ゆかねばならぬ。（見える）母上、わたくしを呼ばれましたはなにゆえにございましょうか。
（夫人）そなたを呼んだはほかでもない。温家の兄上がこちらにいらっしゃるためだ。ご挨拶しなければならないよ。
（旦）かしこまりました。
（夫人）ちょっとお待ち。拝礼してはいけないよ。梅香や、前庁から老旦那さまが坐っていた、栲栳圏の銀の交椅[26]を持ってきて、学士さまには坐っていただき、娘には挨拶をさせるとしよう。
（正末）老旦那さまの交椅にわたくしが坐るわけにはまいりませぬ。
（夫人）学士さま、拒まれますな。「恭敬は命に従ふに如かず」といいます。
（正末）つつしんでご命に従うことにいたします。
（夫人）娘や、うやうやしく兄上に拝礼するのだ。
（旦が拝礼する）
（正末がお辞儀をする）
（夫人）妹が兄を拝しますのに、お辞儀なさることはございませぬ。
（正末）礼にはかならず答えなければならぬもの。坐ってお受けするわけにはまいりませぬ。
（夫人）まことに筋の通ったお方だ。
（正末が背を向ける）美しい娘だなあ。（唱う）
【六幺序】まことに人の魂魄を消し、人の眼光を奪へり。神仙と思へども天堂にあらずして[27]、ただ見るは、脂粉の馨香、環珮の丁当たる、嫩らかく新たなる藕絲の仙裳を織り、風流[28]のことごとくかのひとの身にぞあるなる。いささかも添へば宜しきことはなからん[29]。かのひとを見て情を動かさざるものよ、我慢をなしそ。鉄石の児郎さへも、柔らかき腸を悩み断つべし。
【幺篇】こちらにてかのひとの顔をじつと見る。花を腮龐にし比ぶれば、花は妝を成さざらん。玉を肌肪にし比ぶれば、玉は光を生ぜざるべし。宋玉の襄王は、高唐のことを想ひて、魂夢を動かしたるに過ぎざりしかど、朝な夕なに陽台の上、病は膏肓にぞありし。かのひと[30]が還り来りて寄り添はば、たちまちにわたくしの形は消えて骨は化け、命を喪ひ身は亡ぶべし。
（夫人）梅香や、お酒を持ってきておくれ。お嬢さまがお兄さまにお酌するから。
（旦が酒を捧げる）お兄さま、たっぷり一杯飲まれませ。（酒を斟ぐ）
（正末が唱う）
【酔扶帰】台盞は軽うして斤両[31]の重みもなきも、かのひとの手は細ければなどか擎へん。久しく立つは神仙も得耐へざるべし。汝は吾をまことの兄と言はんとぞせる。語らんと思へども、ほかに何らのすべもなければ、一盞の酒の半ばを階の上に零せり[32]。
（夫人）老いぼれは娘に字を書き、琴を弾くことを教えたいのですが、すぐれた師匠はおりませぬ。学士さまには、老いぼれのしがない顔をお立てになって、妹に琴を弾き、字を書くことをお教えください。
（正末）伯母さま、わたくしが学んだことでは、お嬢さまを教えることはできませぬ。
（夫人）学士さま、ご謙遜には及びませぬ。梅香や、暦を取ってきておくれ。学士さまに吉日を選んでいただき、お嬢さまに琴を弾き、字を書くことを教えていただくことにしよう。
（正末）今日、出てまいりました時、ほかの件で吉日を選びましたが、明日が吉日にございます。
（唱う）
【金盞児】明日は空亡[33]にあらざれば、障りなし。天生は壬申癸酉で一家は旺えん[34]。長星赤口[35]の忌むべきに異なれり。陰陽[36]はおほむね確かなるものなれば、日を選ぶには、じつくりと考ふべきなり。「成、開はなべて大吉。閉、破は論ずるなかれ。」[37]てふことを聞かずや。
（夫人）それならば、明日、学士さまに来ていただきましょう。
（正末）つつしんでご命に従いましょう。明日はひとりでまいりましょう。ただわたくしは無学ですから、お嬢さまを教えることはできないでしょう。
（夫人）学士さま、お断りになりませぬよう。亡くなった伯父さまの顔を立て、娘を教えてくださればよろしいのです。
（正末が唱う）
【酔中天】昼は短く、時はなければ、夜も教ふべし。夜はまさに長からん。翰林院編修の仕事をば遅らせんとも慌つるものかは。われは師となり学長とならんとす。命を懸けて諾ひて、さらに断ることはなければ、静かな書房をとくとく調へたまへかし。
（夫人）梅香や、お嬢さまに付き添って、お兄さまにお別れし、繍房に戻っておゆき。
（旦）かしこまりました。（拝礼して退場）
（夫人）学士さまには、断られずに、ありがとうございます。明日はぜひ、はやく来られてくださいまし。
（正末）仰る通りにいたしましょう。（唱う）
【賺煞尾】さきつかた一輪の海棠の嬌が立ち、一盞の梨花の醸をば捧げつつ、愁への郷と、酔ひの郷にぞ送り込みたる。わたしはこちらで階を下り、留まることなし。画堂の中はとりわけて麗しきなり。さきつかた垂楊に一抹の斜陽の掛かり、黯黯たる陰雲の天を蔽ふに改まりたり。人は緑の窓に倚り、灯は羅の帳にぞ昏からん。ああ天よ、彩なす檐に疏らな雨のいとどしく、愁ふる腸に滴ることのなくもがな。（退場）
（夫人）学士さまは行ってしまった。梅香や、万巻堂を片付けておくれ。明日は吉日、学士さまを呼んできて、お嬢さまに琴を弾き、字を書くことを教えていただくことにしよう。片づけがきちんとできたら、わたしに報告しておくれ。
（詩）ひとへに女を愛するがため、多才を求めり。書堂を片付け、教へんとせり。
（梅香の詩）かねてより男女は授受を親しうするなし。これもまたわたしが賊を引き込みてみだりに疑ひたるにはあらず[38]。（ともに退場）
第二折
（老夫人が登場）昨日は今日を吉日に選んだ。梅香や、入り口で番をして、学士さまが来られたら、報せておくれ。
（梅香）かしこまりました。
（正末）伯母さまは今日を吉日に選ばれたので、役所には行っていない。ちょうど伯母さまも呼びにこられた。呼びにこなくても、わたしはやはりゆくだろう。入り口にもう着いた。梅香よ、取り次いでくれ。温嶠がまいりましたと。
（梅香が報せる）温学士さまが来られました。
（夫人）お通ししてくれ。
（梅香）お入りください。
（正末が見える）
（夫人）本日は、学士さまは、どうしてこんなにはやく来られたのでしょうか。
（正末）お嬢さまに琴と書を教えるようにと命じられましたので、役所に行っておりませぬ。
（夫人）老いぼれのしがない顔で、学士さまのご公務を遅らせてしまいました。老いぼれは感謝の念に堪えませぬ。梅香や、はやくお嬢さまを呼び出してきて、学士さまにご挨拶させるのだ。
（梅香）お嬢さま、お入りください。
（旦が登場）繍房の中にいたところ、母上がお呼びだ。会いにゆかなければならない。（見える）
（夫人）倩英や、お兄さまにご挨拶おし。今日からは、おまえのお師匠さまなのだよ。
（旦が拝礼する）
（正末が背を向ける）お嬢さんは昨日とは違う装い。まことに神仙の仲間だ。（唱う）
【南呂一枝花】藕絲翡翠の裙、玉膩[39]蝤蠐[40]の頚。妲己はむなしく国を破りて、西子はあだに城を傾く。天上の飛瓊[41]は、風流の病を撒けり。眠りはまさに深ければ、夢はたちまち酣となる。とりあへず傾く月と残んの灯に構ふことなく、東の窓に日の影のさすまでひたすら眠るべし。
（言う）琴を持ってこられてください。お嬢さまに曲を弾くことをお教えしましょう。（旦が琴を弾くことを学ぶ）
（正末が唱う）
【梁州第七】いとも嬉しき羅の幃、繍の幕、いたく洒落たる金の屋、銀の屏。七条の弦は興亡禍福にすべて応ぜり[42]。げに聖賢に比ぶべく、神鬼を驚かしむるに堪へたり。俗懐はにわかに爽やぎ、塵慮はすべて清められたり[43]。ひとたび弾けば指先は冴え渡り、はやくも古操新声[44]に合ふ。金徽を弾きなば流るる水はさらさらとして、氷弦を打ちなば残んの音は整ひ、玉繊[45]を点じなば逸れたる韻こそ軽けれ。賢き人はいかで口訣を得たるにや。手はいまだ到らざれども、心は先に応へたり[46]。海棠の色[47]、蕙蘭[48]の性、天地はことごとく秀れたる気をば結びて、智く巧みな心霊とやなしにけむ。
（夫人）もう一遍弾き、よくないところがありそうならば、学士さまにお聴かせし、よくないところがあるならば、さらに教えていただきなさい。
（正末が唱う）
【牧羊関】肌は雪の如くして、腕は氷にぞ似たる。一つの玉を、さまざまに磨き成したり[49]。指は三節の瓊瑶[50]に、爪は十顆の水晶に似る。坐らば人の愛するに堪へ、動かば人は憎むべきやは[51]。かのひとはなほ金衫[52]の袖をばたくし上げざるに、わたしは先に玉の釧の鳴るを聴きたり。
（夫人）娘や、琴を弾くのはどうでもよいが、香を焚かねばならないよ[53]。お兄さまには旦那さまの抱角牀[54]に坐っていただき、お兄さまを拝して師とし、終生父となっていただくことにしよう。学士さま、娘に字を書くことをお教えくださいまし。
（旦が字を書く）
（正末）腕は平らに、筆はまっすぐ。お嬢さま、違います。
（正末が起ち、筆を取り、旦の手を捻る）
（旦）これはどういうことですか。妹の手や腕を捻られるとは。
（正末）他意はございませぬ。
（夫人）小娘め、お兄さまが腕を捻ってくださるだけでも、おまえはとても幸せなのだよ。
（旦）「男と女は七歳にして、席を同じくせぬ」[55]ものにございます。
（夫人が笑う）お兄さまの前で書物の知識をひけらかしているね。
（正末が唱う）
【隔尾】おんみは優しき人なれど、はじめはお硬く振る舞ひたるらん。はじめはとりすましたるかと愚かにも期待せり。さきほど軽く春葱[56]を執りたるはまことに僥倖。
（言う）酥や蜜のように食ってかかられるとは。[57]
（唱う）たとひおんみがわたしをさんざん罵られんとも、わたしは断じておんみに半句も言ひかへすまじ。編修院の書生らと争論するよりはるかに勝れば。
（言う）お嬢さま、違います。腕は平らに、筆はまっすぐ。
（旦が怒る）お兄さま、またなさいましたね。
（正末が唱う）
【四塊玉】紫霜の毫[58]はいかやうな香を焚き、斑竹の管には何の幸ありてか、柔荑[59]のごとき指先に擎へられたる。おんみの繊き手と腕は平らになさらねばならず。おんみの玉の笋[60]に触れたることはなかれども、かのひと[61]ははや星の眼を睜りつつ、はやくもわたしを溌頑皮、無気性なりと罵る。
（夫人）娘や、お兄さまにお別れし、繍房に行くのだよ。
（旦が拝礼をして、退場）
（正末）わたしは着替えしにゆきましょう。（ゆく。言う）お嬢さんは階段を下り、こちらへ行った。お嬢さんのきれいな顔を見ただけで、脚の大きさは見ていない。砂地にはお嬢さんの足跡がある。来るのが早くてよかったわい、遅ければ、一陣の風がこの足跡を吹き払い、お嬢さんの足のようすをしっかりと見ることができなかったぞ。（唱う）
【牧羊関】婦人らは鞋と襪に多くの病を蔵せども[62]、土埃には情実なく、靴底の四周以外は余すことなし[63]。なんと小さく、なんと形のよきことぞ。いづれの時にか怒りを掻き立て、人々の憎しみを招くべき。いづれの時にか人々の怒りをほしいままにして踏み、むかつける心にて思ふがままに踏むに任せん[64]。
（言う）お嬢さんは行ってしまった。いつ会うことができるやら。忘れることができぬわい。（唱う）
【賀新郎】おみこそは酔ひしときの茶。一啜りせば曛然[65]たる酔ひより醒むべし。かのひとの明眸と皓歯のために、思えずわれは謀をぞ費やし尽くせる。妙計を求めんとしたれども、かのひとの踪影なし。老いたる伯母は手を髪にしつけたれば、おのづと了解したまひたるらん[66]。言ひ含むべきことのあらめや。水を汲まんと轆轤[67]を垂れて、酒を用ゐて猩猩を捕るにぞ似たる[68]。かくなるうへは恥を惜しまず、命を懸くることとせん。海のごとくに深き不本分、天のごとくに大いなる昧前程[69]のなくもがな。
【隔尾】かのひとは妝梳せば、顔色は花さへ並び難からん。環珮を宜しうしなば腰肢は柳も軽きを笑はん[70]。一対の軽く小さき金蓮はなほも残れり。想ふに天公はなにゆゑぞ、この世にて、かのひとに人間の第一等を独占せしめし[71]。
（正末が尋ねる）
（夫人）学士さま、どうかお楽になさってください。老いぼれは一言申し上げましょう。娘は十八歳ですが、他の人と婚約をしておりませぬ、翰林院に同じような学士さまがいらっしゃれば、お兄さまには結婚を仲立ちしていただきたいのです。
（正末が背を向ける）ひそかに思うに、このようにするしかあるまい。こうしなければまずいだろう。（夫人に向かう）伯母さま、翰林院に学士がおり、その才学と教養はわたしにも劣りませぬ。
（夫人）あなたのような才学は滅多にないもの。その学士さまはお幾つでしょうか。どのようなお顔でしょうか。お兄さん、お話しください。
（正末が唱う）
【紅芍薬】年齢はわたくしと大差なく、わたくしと同じ姿で、教養ならばわたくしよりもさらに優れり。わたくしはかのひとの豪邁なるにいかで及ばん。仲人は信ずるに堪へ、結婚をしたまはば双方にふさはしからん。対面して才能を語りたること、遠きこと門庭[72]を出でざることを悟らず[73]。
【菩薩梁州】古人の結婚は、閨門[74]の礼儀を正しうしたるなり。人の心に至誠があらば、礼物の豊かなることを要せず。灯を点し、食事せばお互ひは明らかならん[75]。緱山に夢はなし碧瑶の笙[76]、玉台に主はあり菱花の鏡[77]。さらに豪儀に、月の夜に絳蝋[78]の灯を高く焼けども、煩ひの軽からざらんことを愁へり[79]。
（言う）わたくしがその学士に話をし、日を選び、いっしょに来るといたしましょう。
（夫人）学士さまには、お心遣いいただきまして。
（正末が門を出て笑う）温嶠よ、そなたはすでに人生の三つのことをみな成し遂げたぞ[80]。（退場し、小道具を持って登場。夫人に見える）伯母さまにお知らせします。さきほどわたしはすぐさま学士のもとへ行き、話しをしました。本日はまさに吉日でしたので、この玉鏡台をとりあえず結納として、別途、官媒を知らせに来させ、わたくしに学士にかわって謝親[81]するように頼まれました。
（唱う）
【煞尾】わたくしが麝蘭[82]の腮、粉香[83]の臂、鴛鴦の頚を待ちたるは、おんみには水銀の漬[84]、朱砂の斑[85]、翡翠の青[86]のあればなり。春されば小やかな重楼に杖を突きつつ登りゆき、曲がりたる闌の辺に臂を取りてゆき、閑なれば芳はしき花を尋めて、悶ふれば勝れたる景を選ばん。夏されば凉やかな院を追ひ、水庭[87]に近づくべけん。碧紗厨と、緑の窓は浄くして、針をもて珠を穿ち、扇もて螢を撲たん。秋されば蘭堂[88]に入り、画屏[89]を開き、銀河、牛女星[90]を見、伴ひて香を添へ、亭に月を拝せん。冬されば風はいやましに厳しく、雪はたちまちに晴れ、疏らなる梅を摘み、古瓶に浸さん。歓びは尋常なれど、楽しみは余りあるなり[91]。そのときは、心性に叶はん[92]。かのひとが愛らしくしやうとも、かのひとが怒り憎むとも、善も宜しく、悪も良しとし、朝から晩まで眼じろぎもせず、孜孜として見ん。げに寒ければ熱きを忘れ、飢ゑたれば飽くるを忘れ、凍ゆれば冷たきを忘れたり。
（官媒が登場、詩）薪を析るはいかならん。斧に匪ずば克ることはなし[93]。妻を娶るはいかならん。媒に匪ずんば得ることはなし。わたしは官媒。温学士さまはわたしに命じて、老夫人さまの家へと知らせにゆかせ、吉日を選び、お嬢さまを嫁入りさせることとなされた。はやくも着いた。取り次ぐ人がいないから、わたしは勝手に入ってゆこう。（見える）老夫人さま、ご機嫌よう。
（夫人）媒婆さん、なぜ来たのです。
（官媒）学士さまのお言葉を奉り、老夫人さまにお会いして、日を選び、お嬢さまにお嫁入りしていただくのです。
（夫人）どちらの学士さまですか。
（官媒）温学士さまにございます。
（夫人）あのかたは仲人ですよ。
（官媒）あのかたは仲人ではなく、婿どのにございます。
（夫人）何が結納なのですか。
（官媒）玉鏡台が結納にございます。
（夫人）このようなことだったとは。玉鏡台を砕くとしよう。
（官媒）お待ちください。この玉鏡台は大変なもの、聖上が賜わったものにございます。砕けば大不敬となり、罪は軽くはございませぬ。
（夫人）ああ、あのひとに騙された。梅香や、今すぐ娘に話しをし、しっかりと仕度させ、吉日を選ばせて、娘を嫁入りさせるとしよう。（退場）
第三折
（正末が賛礼、楽隊を連れて登場）
（賛礼が唱う、詩）一枝の花を挿しなば庭に香は満ち、燭の影は紅に揺る昼錦堂[94]。金の杯もておたがひに酒を勧めて、ゆるゆると『賀新郎』をぞ唱ひたる。
新婦どの、外に出てご挨拶なさいまし。
（梅香が官媒とともに旦を擁して登場）
（正末が唱う）
【中呂粉蝶児】楽隊はいつせいに楽の音を奏でざらめや。娘が魚水[95]を諧へぬときは、恥を晒せる騒ぎはみづから招きたるものなれば、佯りて小心となり、妝ひて大胆となる、丹薬を準備せん[96]。かのひとが両の眉を顰めなば、わたくしは牙牀[97]の前にてかのひとをしばらく宥めん。
（言う）媒婆さん、わたしを隠してください。わたしは見てみることにしましょう。
（官媒）隠しますからご覧ください。
（正末が見る）
（旦）あの爺さん[98]はまことに無礼。
（正末が唱う）
【紅繍鞋】かのひとは氲氲たる悪気を雪がざりしかば、にはかには歩みつつ従ふことぞなかるべき。わが五言詩は天へと上る梯となり、首榜[99]には姓名を記されて、殿下にて白衣を脱げり[100]。今晩はかならずや洞房の中にて顔を抓られん。
（言う）媒婆さん、胆を据えてゆくとしましょう。（唱う）
【迎仙客】かくなる上は、使数に構ふことはなく、官媒に頼むこともなし[101]。ぴたりと従ひ離るるなかれ。かのひとといかやうに親しみて、いかやうに喜ばん[102]。意を決し、近くにゆかば、みなはしばらくつまらぬ思ひをぞすべき。
（旦）お爺さん、近寄られれば、あなたの顔を抓りましょう。このひとをおもてへとゆかせてください。媒婆さん、いらっしゃい。お話ししましょう、この爺さんがはじめて来た時、母上はわたくしに兄として挨拶をさせたのですが、このひとは挨拶を受けられました。
（官媒）学士さま。お嬢さまは、そのむかし、あなたのことを兄として挨拶し、あのかたの挨拶をあなたが受けたと仰っています。
（正末）あのひとの挨拶を受けたことなどございませぬ。お嬢さまに話しにゆかれてください。
（官媒）お嬢さま、学士さまは、挨拶を受けていないと仰いました。
（旦）亡き父の銀の栲栳圏の交椅に坐られ、わたくしの挨拶をお受けになったことがあります。
（官媒）お嬢さまは、学士さまがあのかたのお父さまの栲栳圏の銀の交椅で挨拶をお受けになったと仰いました。
（正末が唱う）
【酔高歌】わたくしはかのひとの艶やかな容儀を見しかど、穏やかに坐りたることぞなき。傍らに一脚の銀の交椅を蹴り飛ばし、栲栳圏に凭れて立ちしのみなりき。
（旦）媒婆さん、来られてください。あのかたもわたくしの挨拶を受けられたことがございます。
（官媒）学士さま。お嬢さまは、あなたもお嬢さまの挨拶をお受けになったと仰いました。
（正末）わたしはお嬢さまの挨拶を受けたことなどございませぬ。
（官媒）お嬢さま。学士さまも、お嬢さまの挨拶をお受けになったことはないと仰っていました。
（旦）あの爺さんは、母がわたしに琴を弾き、字を書かせたとき、亡くなった父の抱角牀に腰を掛け、わたくしはあの爺さんを拝して師匠としたのです。
（官媒）学士さま。お嬢さまは琴を弾き、字を書くことを学んだときに、あなたを拝して師匠とし、老旦那さまの抱角牀で、あなたがお嬢さまの挨拶を受けたと仰っていました。
（正末が唱う）
【酔春風】[103]わたしは狭き寝台の片側に坐し、かのひとの怯怯とした再拝を受けしかば、わたしはこちらで叩頭の礼を返さん。とにかくおんみに、おんみに還さざるを得ず。いささかの歓娯を得て、いささかの好話を語りなば、いかやうの福気のありつべき。
（旦）媒婆さん、あのひとに話しをしにゆかれてください。わたくしは正堂を寝室として、あのひとが再びわたしの前に来ようとせぬようにさせましょう。あのひとがもし来たら、年老いた顔を抓って、面子を潰してやりましょう。
（官媒）学士さま。お嬢さまは、正堂を寝室とされ、学士さまがあのかたの前に来ようとせぬようにさせると仰っていました。学士さまが来られたら、あのかたはあなたの年老いた顔を抓って、面子を潰すということでした。
（正末が唱う）
【紅繍鞋】正堂に夫人は眠れば、わたくしは書房にて今なほ侘し。たとひ一生待たんとも、かのひとの羅の幃に到ることを得じ。人はみな、劉家の女は温嶠に娶られ妻となりぬれば、美しといふ名声も空しくなれりとぞ言はん[104]。
（言う）酒を持て。わたしはお嬢さまにお酌しましょう。（正末が酒を斟ぐ）
（旦）わたくしはいただきませぬ。
（官媒）お嬢さま、お酒を受け取られませ。
（正末が唱う）
【普天楽】玉堂の中に初めて見え、天宮の内にあらんとつねに想へり。閑をみて盗み見ることを求めど、などてかながく窺ひ見るべき。今はかのひとを世話して、奴婢とならんと願ひたり。厨房には山海の烹炮[105]と珍味あり、箱櫃には無限の錦繍と珠翠あり。汝にいささかの髪飾をば戴かせ、いささかの衣食を供ふることを得ば、これのみで、わが福は天にも斉しくなりぬべし。
（旦が酒を零す）わたくしはいただきませぬ。
（正末が唱う）
【満庭芳】これらにはいかほどの値あるべき。大いに斟ぎて金杯は瀲灔たるものなりしかば、宮錦[106]は淋漓となれり。大人は汚されんとも咎むることなく、温夫人の心を変へたまふことを望むのみ。一二甕の香醪を地に零し、百十着の公服朝衣に掛けんとも、今宵わたしはかのひとの来るを知るべし。酒に潤ひ、袖は湿れり。いづれの時にか花を帽の檐に挿すべき[107]。
（官媒）お嬢さまはどうしても結婚しようとなさいませぬが、勅に抗うことになります。
（正末）媒婆どの、さようなことを仰いますな。（唱う）
【上小楼】勅に抗ふとな言ひそ。かのひとをいとど刺激し、怒らしむべし。燕爾[108]を遅らせ、婚期を逸し、時期を誤られんと言へかし。政務を行ひ、軍権を掌り、高き位に居ると言へかし。会親[109]のときに官位を恃みにせんとも言へかし。
（言う）媒婆のおんみに、方便を施されるよう、哀願せねばなりませぬ。（跪く）
（官媒）学士さま、なぜ老いぼれの前に跪かれるのでしょう。
（正末が唱う）
【幺篇】竃頭に求むるは竃尾に告ぐるにしかざらん[110]。なにゆゑぞわれは今日、媒人の前にて腰を低くせる。かのもの[111]にゆるゆると、われら夫妻の会ふことを勧めしめんとすればなり。これこそは羅の幃にて人を用ゐる際ならめ[112]。
（官媒）夜が明けました。学士さま、先に役所へゆかれてください。わたしはご夫人に報告をしにゆきましょう。
（末）妻よ、そなたの考えていることを、わたしはすでに分かっているぞ。わたしの話しを聴いてくれ。（唱う）
【耍孩児】おんみは少き心にて垢抜けた配を望みたるなり。わたしは老いたりとはいへど、隔たれること幾歳ぞ。わたしは心につねに「相宜しからず」を封印し[113]、おんみにひたすら随はん。たとひおんみが歓ばずとも、わたしはひたすら満面に笑みを浮かべん。おんみが殴り罵らんとも、わたしは総身で喜ばん。わたしはおんみを、家宅土地[114]、本命神祇[115]と見なすべし。
【四煞】長安の富貴の家に、年若き子弟は多きも、千金の嬌艶を妻とするものは幾ばくもなし。このものたちは黄昏に鸞鳳[116]ともども宿れども、清暁に鴛鴦はおのおの飛びて、わづかなる真の意さへもなし。おんみをば糞堆のやうに見なして、泥土のやうに抛たん。
【三煞】おんみは眉を顰めつつ更闌くるに耐へ、耳を傾けつつ馬の嘶くを聴く。心は憂へ、眠らんとせど睡り得ず。灯は錦の帳に昏うして郎はいづこにおはす。金の炉に香は尽きせど人は帰らず、やうやく窶れり。いまだ一年半年を経ざれども、かのひとはすでに二三の妻のあるべし。
【二煞】本日はわれはおんみとともにして、側近く用ゐたる小間使ひらは言ふに及ばず、瑶池[117]の仙子があらんとも見えんとする心なく、月殿の嫦娥さへ窺ふに懶かるべし。われは決して浮気せじ。おんみはなどかあれやこれやと惧れたる。これもひとへに年齢の隔たればなり。
【煞尾】わたしはすべてを知り得たり。わたしはすべてを知り得たり。意地をな張りそ。意地をな張りそ。ほかに年少軽薄の婿を求めば、わたしのやうにおんみをいたく敬ふことぞなかるべき。（ともに退場）
第四折
（外が王府尹に扮して従者を連れて登場、詩）龍楼鳳閣九重の城、新たに沙堤[118]は築かれて宰相は行く。われが貴く栄ゆとも羡むなかれ、十年前は一書生なりしかば。
老いぼれは王府尹。このたびは、温学士さまの結婚の一件を上奏し、特別に水墨宴、またの名を鴛鴦会という宴を設け、学士と夫人のみを宴に赴かせ、宴のなかでかれら二人を結婚させることにした。学士と夫人が到着したら、おのずから考えがある、そろそろやってくるだろう。
（正末が旦とともに登場）本日は、府尹さまが宴を設けてお招きだ。いかなるご存念だろう。ゆかずばなるまい。（唱う）
【双調新水令】鳳鸞の配を失ひしため[119]、蒼鶻[120]を煩はせたり。本日は玳筵[121]を開き、鴛鴦[122]を和合せしめんとしたるなり。わたしは前で五花驄[123]に騎り、かれは後で七香車にぞ坐りたる。人はみな、この村の夫と妻は、かくまで水と魚にぞ似たる、二人は一歩も離れんとせずと言ひたり[124]。
【駐馬聴】そのかみの、酒を沽り、炉に当たり、懸命に帰ることなきうら若き卓氏の女のことを偲べり[125]。今日は膝行肘歩[126]すれども、皓首の漢の相如[127]はあれやこれやと嫌はるることとなりたり。あやにくに麗人は成都へと行かんとはせず[128]、わたしは思ひ結ぼれて黙しつつ橋の柱に題したり[129]。誰にか告げん。これは自ら招きたる風流の苦しみぞかし。
（言う）はやくも着いた。左右のものよ、取り次いでくれ。温学士と夫人がまいりましたとな。
（従者が報せる）温学士さまとご夫人が入り口にご到着です。
（府尹）お通ししてくれ。（見える。府尹）わたくしは聖上の御諚を奉じ、水墨宴を設けたのです。学士どのとご夫人をお招きし、詩を吟じ、賦を作っていただきます。詩を作られれば、学士どのは金の盃でお酒を飲まれ、ご夫人は金の鳳釵[130]を挿され、官定粉[131]を塗られます。詩を作られねば、学士どのは瓦盆[132]にて水を飲み、ご夫人は頭に草花を戴いて、顔を黒塗りされましょう。
（旦）学士さま、お聴きください。大人は、詩を作るならお酒を飲ませ、詩を作らねば冷水を飲ませると仰っています。しっかりとなさいませ。
（正末が唱う）
【喬牌児】受験せしより、二つの句をば対にせしことぞなき。往にし日は賓客と朋友を集めて、遥けき天の暮るるまで飲みしかど、今日は酒にぞいたく渇ける。
【掛玉鈎】[133]咽喉に呑み込むこともがな。朱砂玉が井にし墜ちなば[134]、われらのために瘴気を圧し、心をば凉やかにして[135]、毒を解くべし。わが妻よ、かのひとはおのづと通仙術を持ちたり。顔を腫らして、瘡が眉目に生ずとも、筆を潤し、筆を揮ひて、水に呪し、符をば書かざることを得ず[136]。
（府尹）詩が作れないのなら、学士どのには罰として水を飲ませ、ご夫人には頭に草花を戴かせ、顔を墨塗りいたしましょう。
（正末が唱う）
【川撥掉】お役人さま、今しばし待ちたまへかし。かやうにな逼りたまひそ。粉を塗り朱を点じ、艶やかな妝梳にして、貌は洛浦の神[137]に勝れば、墨もて塗るによろしからめや。
（旦）学士さま、しっかりと詩を詠まれまし。詩を作れねば水を飲まされ、顔を墨塗りされてしまい、みっともないことになります。
（正末）学士さまと呼ばれますな。亭主どのと呼ばれませ。
（旦）仕方ない。亭主どのと呼びましょう。亭主どの、しっかりとなさってください。
（正末が唱う）
【豆葉黄】おんみはひそかにおんみの夫を侮れど、今日は鑾輿を指弾せしかば、おんみをば束縛し、頑固なおんみを服従せしめ、二月でやうやくにわれを亭主と呼ばせたり。思ふがままに娯しみて、膚に触るることなきも、艶めかしきこと鸞雛[138]に似る一声を聴きしのみにて、はやくも総身が痺れたり。
（旦）亭主どの、ご存知でしょうか。罰として水を飲まされ、顔に墨塗りされてしまったら、大変なことになります。
（正末が唱う）
【喬牌児】よしや今、顔に筆が落つるとも、浮沫の住まらざるにぞ過ぎざらん[139]。われらには新たに捏ねし香はしき澡豆[140]があれば、家に行き、銀の盆もて顔を洗へかし。
（旦）亭主どの、しっかりと詩を吟じてください。
（正末が唱う）
【掛玉鈎】われは年若かりしときより、才は優れしものにはあらず、年老ゆれども、さらに詞賦なし。かのひとはこのわれが黄公[141]の旧き酒炉にて沈酔せりと思へども、われが演技したるを知るなし。かのひとは恐れたれども、われは手をしぞ拱かん。とりあへずかのひとのしばらく焦らんことを待ち、ゆるゆるとさらに時をば引き延ばすべし。
（府尹）学士どの、詩を吟じられませ。
（正末）それならば吟じましょう。
（旦）亭主どの、おんみはもっとしっかりとなさいませ。
（正末）妻よ、安心するがよい。（唱う）
【水仙子】温嶠の俗物ならざることを聞き、腹には詩書の満ちたるを明らかにおんみは知れり。白頭はなどうら若きおんみを損ふことあらん。われを嫌ふも、地に潜りこむ隙はなからん。年若き夫を望む要のあらめや。こちらは水を飲まされて眼を白く剥き、そちらは顔を黒く塗られば、かやうなる緑の鬢も徒とならずや[142]。
（旦）学士さま、詩を吟じられませ。冷水を飲まれるようなことがあってはなりませぬ。
（正末）妻よ、わたしがうまく詩を吟じたら、そなたはわたしに従うか。
（旦）うまく詩を吟じられましたなら、金釵を挿して、御酒を飲み、すぐにおんみに従いましょう。
（正末）妻よ、安心するがよい。
（唱う）
【甜水令】わたしは今や霜毫を挙げ、繭紙[143]を展ばし、詩を題せんとしたるなり。時を費やすことのあらめや。冷静な眼にてちらと見たれば、この冷水は、憂ふべきものにはあらず。酔ひを覚ませるものとみなさん。
【折桂令】想へばわたしは気は江湖を巻き、学は珠璣をぞ貫ける[144]。年は桑楡[145]に近きにもあらざるに、なにゆゑぞ、金馬と玉堂[146]、錦心と繍口[147]を、あるが似く、なきが如しと見なしたまへる。おんみにわたしはたつぷりと侮らるれば、酔ひしふりをし、愚なるふりをし、仕返しをせん。
（旦）亭主どの、しっかりと詩を吟じられませ。罰として水を飲ませられ、顔を墨塗りされてしまったら、大変なことになります。
（正末が唱う）かのひとは今や三たび茅廬に謁したりければ[148]、しぶしぶ承服するとせん。穏やかなさまは進み来て、悪しきさまは退き行けり[149]。
（正末が詩を吟じる）いと厚き君恩は、玉鏡台を憐れみたまへり。花は仙禁[150]より出でて、酒は御厨[151]より来れり。席を設けて、京尹を労ひて、詩を題せしめ、上才[152]に属せしめたり。魚と水とは、これより睦むことを得ん。
（府尹）温学士さまはすぐれた才を無駄になさらず、よい詩を吟じられましたから、金の盃を賜わってお酒を飲んでいただきましょう。ご夫人は鳳頭釵を挿し、官定粉を塗られませ。
（旦が喜ぶ）学士さま、それは大変ありがとうございます。
（正末）妻よ、わたしをどう思う。
（府尹）ご夫人、学士どのに従われますか。
（旦）従いたいと思います。
（府尹）ご夫人が一心に学士さまに従われるなら、老いぼれはすぐにお上に上奏し、さらに祝賀の宴席を用意しましょう。
（末が唱う）
【雁児落】おんみはまことに贏を喫して輸を喫せしにはあらず。さいはひわたしは口八丁手八丁なり。おんみはとにかくこの詩をば受け入れよかし[153]。わたしが逼れば仲睦まじく相成れり。
【得勝令】ああ、これは一つの文字が一つの金珠。そのかみの嚇蛮書[154]よりはるかに勝れり。汝は宝釵を雲鬢に挿し、吾は金杯で醁醑を飲む。山呼して、当今の主にともに謝し、嬌姝は、すでに老いたる亭主の吾を厭ふことなし。
（府尹）人の世の吉事では、夫と妻の結婚に勝ることはない。本日は、羊を殺し、酒を造り、祝宴を調えて、学士さま、ご夫人をお送りし、家に帰ってゆかせましょう。
（詩）金の尊、銀の燭、華やかな筵を啓き、一派[155]の笙歌は九天にしぞ届きたる。鴛鴦会を恩賜せらるることなかりせば、夫婦は団圓することを得ざりけん。
（末が拝謝する）（唱う）
【鴛鴦煞】これよりは姻縁は姻縁簿[156]にぞ記されん。相思の、相思の苦しみを還し尽くせり[157]。げにや連理の歓びは濃く、于飛[158]の願ひは満たされり。汝はなよやかな巫娥[159]にして、多情なる宋玉に負かざりしは憐れなり。琴曲詩篇を唱和せば、洒脱なる句は、われがことさら謀りたるにはあらねども、朝の雲と暮の雨をぞ成就せる[160]。
最終更新日：2010年11月10日
