第九巻

如是我聞三

 

  王徴君載揚[1]が言った。かつて友人の菜園に宿ったところ、窓の外で人が語った。「風と雪がとても寒いから、しばらく避けて空き家に入ろう。」。もう一人が語った。「後ろの垣がなかば崩れているが、こそ泥が闖入したら、どうするのだ。人に食わせてもらっているのだから、人のために働かぬわけにはゆかない。」。童僕で寝ずの番をしているものだと思った。夜明けに戸を開けると、地には人の足跡がなく、二匹の犬が塀の裂け目に寝ているばかり、雪は腹まで没していた。嘉祥[2]の曽映華[3]は言った。「これは載揚の寓言で、童僕の、心がけの善くないものを辱めるためのものだ。」。思うに犬という動物は、駆りたてなくても、寝ずの番をし、飢寒を忍び、主人を慕い、よそへ行かない。天下の童僕たる者は、絶対に及ぶことはできない。かれらは人を恥じさせるに十分で、話せるか話せないかは関係ないのである[4]

  
  従孫の翰清が言った。南皮の趙家の倅を、狐が惑わし、体に憑いたが、つねに襟袂の間にいて人と語った。たまたま鍾馗の小像を壁に懸けていたところ、夜、室内で跳びはねる音が聞こえたので、追いたてられて去ったかと思った。翌日、語るさまは相変わらずであった。鍾馗を見たかと質すと、言った。「鍾馗はたいへん恐ろしかったが、さいわいその体はわずかに一尺あまり、その剣はわずかに数寸だった。かれが牀に上がればわたしは牀を下り、かれが牀を下りればわたしは牀に上がったので、結局撃ってもわたしにとどかなかったのだ。」。それならば、画像にはほんとうに霊があるのか。画像の霊は、体はすべて絵の通りなのか。径寸の画像を描いても、鍼鋒の剣を持ち、蠕蠕然として邪を斬るのか。まことに不可解である。

  
  乾隆戊午の夏、献県では城壁を修理した。人足数百人が古い(ひめがき)を壊し、磚を割り、城の下に擲ち、城の下では人足数百人が、荊筐[5]でそれを運んでいた。飯が炊きあがれば、拍子木を鳴らし、集まって食らわせていた。集まって食らっていると、人足の辛五が人に告げた。「さきほど磚を運んでいた時、突然耳元で大声で話すのが聞こえた。『人を殺せば命を償い、金を借りれば金を返すものだ。分かっているか。』。振り向くと何も見えなかったが、とても怪しいことだった。」。するとにわかに人々の手が一斉に動き、磚が雹のように落ち、一つの磚がたまたま辛五に中たり、脳が裂けて死んだ。驚いたり叫んだりして混乱したが、攻撃した主犯の名はわからなかった。官司は判決できず、人足の長に一万銭を出させ、納棺しただけであった。辛五は前世で攻撃したものに命の借りがあり、人足の長は前世で辛五に銭の借りがあったことが分かる。因果は絡み合い、結局埋め合わしているのだが、鬼神がさきに告げなければ、幾人が偶然でないと思っただろうか。

  
  諸桐嶼[6]が言った。その郷里の旧家に書楼[7]があり、つねに閉ざされていた。開いて見るたび、かならず積もった塵の上に娘の足跡があったが、細くてわずかに二寸余りであった。鬼魅と知れたが、数十年間、寂として姿や声はなく、どんな(あやかし)なのか分からなかった。同郷人の劉生は、性質は軽薄で、みだりに王軒の出逢いがあることを願っていた[8]。主人に頼み、ひとり楼の上に宿り、茶果酒肴を供え、香を焚き、切に祈り、燭を明るくして寝に就き、息を潜めて伺ったが、見るものも聞くものもなかった。ただ、だんだん陰森の気、肌骨に染み入るのを覚え、目は見え、耳は聴けたが、口は語れず、四肢は動けなかった。しばらくすると、寒さは肺腑に透り、重なった氷、積もった雪に臥しているかのようになり、苦しくて我慢できず、夜明けになると話せるようになったが、なお凍りついたかのようであった。そこで、もう泊まろうとしなかった。この怪の行いは、奥ゆかしかったといえる、すぐにかれが劉生の相手をしたとき、声色を動かなかったことにも、雅人の深い趣きがある。

  
  顧非熊が再生した事は、段成式の『酉陽雑俎』に見え[9]、孫光憲の『北夢瑣言』にも見える[10]。その父顧況の集にも、その詩を載せているから、でたらめでないはずである。近くは沈雲椒[11]少宰[12]がその母『陸太夫人志』を撰し、称するには、太夫人が結婚し、わずか一年で、贈公[13]がすぐに亡くなった。遺腹子恒を生んだが、三歳でやはり夭折した。太夫人は慟哭して言った。「わたしが未亡人であったのは、おまえがいたからだ。もうおしまいだ。わたしはわたしの家の祭祀がこれから絶えるのに忍びない。」。納棺のとき、恒の腕に朱書し、祈った。「天がわたしの家を絶やさないなら、再生するときこれを(しるし)にするのだ。」。時に雍正己酉十二月であった。その月、族人に隣りあって住んでいる者がおり、一子を生んだが、腕の朱は灼然としていた。太夫人はそこでかれを育て、後に少宰になると思っていた。わたしは礼部尚書であった時、少宰と同僚で、少宰はわたしのためにもっとも詳しく口述した。そもそも釈氏の書の中には、でたらめなものがもちろんあり、その徒は罪福を誇張し、人を誘って施捨させており、偽りはもっとも多い。しかし輪迴の説は、はっきりとして証拠がある。司命[14]はつねに一人(いちにん)一事によって、たまたま端倪を示し、人の世の教えを明らかにするのである。少宰のこの話は、転生の験を借り、苦節の感を明らかにしたものである。儒者は幽鬼がいないと極言するが、どうしてこのことを知ろう。

  
  俳優の方俊官[15]は、幼くして容色技芸が抜群で、士大夫に愛されていた。老いてからは骨董を販売し、しばしば京師に往来していた。かつて鏡を見てみずからを嘆いた。「このありさまでは、かつて舞衫歌扇[16]で、一世を風靡していたことを誰が信じよう。」。倪余疆[17]の感旧詩にいう。「江湖に落拓して鬢絲あり、紅牙[18]按曲[19]当時を記す。荘生の蝴蝶いづこに帰る。惆悵す残花の一枝を余すを。」。これは俊官のために作ったのである。俊官がみずから語るには、もともと儒家の子で、年が十三四の時、郷塾で勉強していたところ、突然夢み、笙歌花燭に擁せられて閨闥[20]に入った。みずからを顧みれば、繍裙錦帔で、珠翠は頭に満ち、俯いて両足を見ても、纖纖として弓の形になっており、さながら新婦であった。驚き訝り、なすすべを知らなかったが、大勢の手で押さえ付けられ、思い通りにならず、幃の中に扶け入れられ、男子と肩を並べて坐し、驚き恥じ、胸騒ぎし、汗をかいて目ざめた。後に狂且[21]に誘われ、歌舞の場で身を汚されたので、事がすべて前世の定めであったことを悟った。余疆は言った。「衛洗馬が楽令に夢について尋ねると、楽は『思いです。』と言った[22]。あなたはこの思いが積もっていたので、この夢があったのだろう。この思いとこの夢があるので、この堕落があるのだ。果は因から生じるが、因は心によって造られるもので、どうして宿命のせいにすることができよう。」。思うにこの輩が汚れた場所に身を落とすのも、やはり前身の業報を今生で受けているのであるはずで、まったく運命でなかったとはいえまい。余疆が言うことは、正本清源[23]の論に過ぎない。後に蘇杏村[24]はこのことを聞いて言った。「暁嵐は三生によって因果を論じ、未来を戒め、余疆は一念によって因果を論じ、現在を戒めている。それぞれ一義を明らかにしているが、わたしは結句余疆の論が、人を安心させないことができると思う。」。

  
  族祖の黄図公が言った。かつて友を訪ねて北峰[25]にいった。夏の夜に村外れを散歩し、しらぬまにやや遠ざかった。すると、秫の田の中で、呻吟する声がしたので、声を尋ねて見にゆくと、一人の童子が裸体で臥していた。苦しんでいるわけを尋ねると、語るには、薄暮にこちらを通ったところ、垂髫(たれがみ)の女に会ったので、招いてともに語ったが、かれが秀麗であるのを喜び、近づいてふざけた。女が言うには、父母はいずれも外出しているから、迎えて家にゆき、しばらく坐そうということであった秫の葉の深い処に引いてゆくと、三間の家があり、闃として一人もいなかった。女はその戸を閉ざし、果物を出してともに食らい、談笑してうちとけているかのようにし、衣を弛め、榻に登った。擁して枕に就くと、女は突然姿を変えて男子となったが、状貌は獰猛で、ほしいままに暴虐を施した。恐れて拒もうとせず、その辱めを受け、踏みにじられ、鞭うたれ、気絶するにいたった。しばらくしてだんだん正気づいたが、身は荒煙蔓草の間に臥し、家も所在を失っていた。そもそも(あやかし)はこの童子の容色を喜び、女の姿に変わって誘ったのであった。利を見て赴くと、かえって利の餌食となるもので、かれがみずから禍に遭ったのは当然である。

  
  先師趙横山先生[26]は、若い時、西湖で勉強していたが、寺の楼が幽静だったので、その上に榻を設けた。夜に室内で[27]たる音が聞こえ、人が歩いているかのようであったので、怒鳴って尋ねた。「幽鬼か。狐か。なぜわたしを騒がす。」。すると、おもむろに、囁嚅[28]として答えるのが聞こえた。「幽鬼でもあり、狐でもあります。」。さらに尋ねた。「幽鬼は幽鬼、狐は狐だ。どうして幽鬼でもあり、狐でもあるのだ。」。しばらくするとまた答えた。「わたしはもともと数百歳の狐で、内丹がすでにできあがっていました。不幸にして、同類に扼殺され、丹を盗み去られましたので、幽魂が沈滞し、今では狐の幽鬼となっているのです。」「地下に訴えてはどうだ。」「およそ丹の吐納[29]導引することによってできたものは、血気が体に附いているかのよう、融合して一つになっており、外から来たものではないため、人は盗めません。しかし、採補[30]によってできたものは、財を奪ったようなもので、もともと自分の物ではありませんので、人は殺して吸いとれるのです。わたしは人を惑わし、精を採り、殺したものは多く、人を殺す者は死刑ですから、死が罪として相当で、神に訴えても、神は受理しません。そのためむしろ鬱鬱としてこちらにいるのです。」「おまえはこちらの楼にいてどうするつもりだ。」「影を隠し、声を潜め、太陰錬形の法[31]を修めるつもりでした。しかし、公は陽光が焼けて輝き、陰魄は安らかでありませんでしたので、出てきて哀れみを乞い、幽明がそれぞれ宜しきを得ることを求めているのでございます[32]。」。そう言うと、叩頭する音が聞こえるばかり、尋ねるとふたたびは答えなかった。先生は翌日すぐに引っ越した。かつてこのことを門人に告げた。「持っていないものを取っても、結局所有できないばかりか、それによってみずからを殺してしまう。」。恐ろしいことである。

  
  従兄の万周が言った。交河[33]に農家の妻があり、帰寧するたびかならず一頭の騾馬に乗っていった。騾馬はたいへん健やかで懐いており、人が引かなくても、路を知っていた。その夫に暇がないときは、ひとりで乗っていったが、路に迷うことはなかった。ある日、帰るのがすこし遅れ、天は暗く、月は黒く、東も西も分からなかった。騾馬は突然路を逸れ、婦を載せてすぐ秫の田に入ったが、暗い葉と深い(くさむら)で、迷って帰れなくなった。夜半、とある荒れ寺に着いたが、二人の乞食が回廊に泊まっているばかりであった。進退窮まり、やむをえず留まっていっしょに寝た。翌日、乞食が送りかえしたが、その夫は恥じ、騾馬を肉屋に売ろうとした。夜に夢みたところ、人が語った。「この騾馬は前世でおまえの銭を盗み、おまえはいそいでかれを捕らえようとしたが、かれは逃げて免れた。おまえは捕り手に頼み、かれの妻を縛らせ、一晩留まった。今、騾馬になったのは、銭を盗んだ報いだが、おまえの妻を載せて荒れ寺に入ったのは、妻が報いたのだ。来世の怨みをつくることはない。」。タ然として目ざめ、いたくみずからを懺悔すると、騾馬は、その晩、突然自然に死んだ。

  
  しもべの任玉の病が革まった時のこと、見守っていた者たちは、夜、窓の外で牛が吼える声を聞いたが、玉は愕然として歿した。翌日、ともにその異変を語った。その妻は泣いた。「若いとき、数頭の牛を盗んで殺しましたが、人々は知らなかったのでございます。」。

  
  余某は幕府[34]として老い、刑名[35]を司ること四十余年であった。後に病に臥して亡くなる時、燈月[36]の下にぼんやりと幽鬼が現れ、祟っているかのようであったので、余某は慨然として言った。「わたしは心が寛容で、誓ってみだりに一人も殺そうとしなかったのに、この幽鬼はどうして来たのか。」。夜に夢みたところ、数人が血を浴びて泣いていた。「あなたは苛酷であることが怨みを重ねることを知っていますが、寛容であることも怨みを重ねられることを知りません。そもそもわたしは身寄りないか弱いもので、人にむごたらしく殺され、死ぬ時、苦しみは万状でした。身寄りない魂は涙を飲み、九泉で恨みを抱き、悪人が誅せられ、積憤を晴らすことだけを望んでいました。ところがあなたは生きている者が憐れであることだけをご覧になり、死んだ者が哀れであることはご覧にならず、法文を弄び、むりやり罪を逃れさせ、凶悪なものに法網を抜けさせましたから、白骨はひどく怨んでいます。人の身になってください。もしもあなたが罪なくして、人に殺され、魂魄に知覚があり、傍らでこの事件を審理するものが、傷が重いのを改めて軽いとし、傷が多いのを改めて少ないとし、理が通らないのを改めて理が通るとし、悪意を改めて善意とし、あなたが切歯している仇敵を、悠然と枷から逃れさせ、人の世に横行させるのを見たら、あなたは感謝しますか怨みますか。このことを思われず、詡詡として悪を放置することを陰徳となさっていますが、不当に殺されたものは、あなたを仇としないで誰を仇とするのですか。」。余某は驚き恐れて目ざめ、夢みたことをくわしくその子に告げると、みずからを打って言った。「わたしの考えは誤っていた。わたしの考えは誤っていた。」。枕に就くと落ち着かないまま歿した。

  
  滄洲の劉太史[37]果実[38]は、心は広く、晋人の風格があった[39]。飴山老人[40]、蓮洋山人[41]と親友であったが、志向はそれぞれ異なっていた。晩年、家におり、生徒を教えて自活していたが、かならず貧寒の士に弟子入りを許した。謝金は都合幾ばくもなく、箪瓢はしばしば空しかったが、晏如としていた。かつて米一斗あまりを買い、罌に貯えたが、一月あまりしても尽きなかったので、たいへん怪しいと思った。すると突然、簷で語るのが聞こえた。「わたしは天狐で、公の雅操を慕い、日日ひそかに増やしているだけです。怪しまないでください。」。劉は質した。「君は心は本当によいが、君は耕せないのに、この粟はどこから得た。わたしは盗泉[42]を飲めない。後にふたたびこのようにするな。」。狐は嘆息して去った。

  
  亡姪汝備は、字は理含といったが、かつて男がかれにむかって詩を誦えるのを夢み、目醒めてからその一聯を記録した。「草草として鴬花春夢のごとく、沈沈として風雨夜年のごとし。」。そしてわたしに告げた。わたしはそれがよい兆でないことを訝っていたところ、戊辰閏七月に夭折した。後にその妻武強の張氏は、弟の子を育てて跡継ぎにし、終生節を守り、およそ三十余年、衣を脱いで眠る晩はなかった。今でもばあやはかれのことを話すことができる。二つの言葉は孀閨[43]独宿[44]の兆であったことを悟った。

  
  雍正丙午丁未の間、流民が乞食して崔荘を訪れたが、夫婦はともに疫病になっていた。臨終の時、証文を持ち、市で哀しみ叫び、一人の幼い娘を売って下女にし、売った値で二つの棺を買うことを願った。亡祖母張太夫人はその夫婦を葬ってやり、その娘を引きとって養い、連貴と名づけた。その証文には父張立、母黄氏と署名してあったが、籍貫は明らかでなかった。尋ねたが、すでに話せなかった。連貴はみずから語った。「家は山東にあり、門は駅路に臨み、しばしば大官の車馬が往来し、ここから約一月あまりでしたが、その県名は挙げられません。」。さらに言った。「かつて向かいの胡家と婚約しましたが、胡家は乞食してよそにゆき、行方が知れませんでした。十余年たっても、尋ねてくる親戚は杳としていなかったため、圉人(うまかい)の劉登に娶わせました。登はみずから語りました。『山東新泰の人で、本姓は胡といい、父母ともに歿し、劉家に養われました。そのため、かれらの姓に従ったのでございます。幼いときに父母が一人の娘と婚約したを憶えていますが、その姓氏は分かりません。』。」登は胡姓で、新泰も駅路沿いで、流民が乞食しながらなら路程が一月あまりでもよく、連貴の話とすべて合っていたので、楽昌の鏡が、離れてまた合ったかと疑ったが[45]、はっきりした証拠がないだけであった。亡き叔父粟甫公が言った。「この事はすこし点綴すれば、伝奇に入れられる。惜しむらくは、この娘は鹿や豚のように愚かで、飽食熟睡を知るだけなので、点綴するに堪えないのが、残念だ。」。辺随園徴君[46]は言った。「秦人が死んでいなければ、符生がしばしば悪く言われていることを信じよう。蜀老がなお生きていれば、諸葛がひどく悪く言われていることが分かろう(これは劉知幾の『史通』の文である[47]。符生の事は『洛陽伽藍記』に見える[48]。諸葛の事は『魏書』毛修之伝に見える[49]。浦二田[50]の『史通』注は未詳としているが、たまたま調べ忘れたのであろう。)。史伝さえ文飾を免れないなら、伝奇はなおさらである。『西楼記』は穆素暉が艶やかで神仙のようだと称しているが、呉林塘[51]が言うには、かれの祖父が幼い時に見たところ、短小豊肌で、普通の娘であったそうである。それならば伝奇の中で佳人というのは、半ばは虚談から出ているのか。この下女は愚かだが、物好きが曲譜にしたがって填詞し、演出作曲すれば[52]、他日紅い氍毹[53]の上で、かならず愛らしい鴬、美しい花となろう。先生の論は、なお『ことごとく書を信』じていることを免れない[54]。」。

  
  聶松岩が言った。膠州[55]のとある寺で、経楼[56]の後ろに菜園があった。僧がある晩、窓を開けて涼んでいた。月は明るく絵のよう、一人の男が移って老樹の下に寄るのが見えたので、野菜を盗む者かと疑い、呼んで誰かと尋ねたところ、男は磬折して答えた。「師は訝らないでください。わたしは幽鬼なのです。」「幽鬼ならば自分の墓に帰ってはどうか。」言った。「幽鬼には徒党があり、それぞれその仲間に従うのです。わたしはもともと書生でしたが、不幸にして墓地に葬られました。馬医[57]夏畦伍と友人にはなれず、かれの仲間もわたしがかれらの同類でないことを厭い、落落[58]として合いませんので、こちらで喧騒を避けたほうがよいのです。」。そう言うと、ゆっくりとして没した。後にしばしば遠くに見えたが、呼んでも答えなかった。

  
  福州の学署は、もともと前明の税璫[59]の官署であった。奄人[60]は横暴で、ひそかに無辜を殺すことが多かったので、今でもしばしば異変が見られる。わたしが閩で督学した時、しもべたちは毎晩驚いていた。甲寅の夏、亡き姚安公は官署に来、ある部屋に幽鬼がいることを聞くと、すぐにその中に榻を移し、夜通し晏然としていた。わたしがかつて暇をみてやんわり諌め、千金の躯[61]で幽鬼と闘わないようにと願うと、わたしに教えた。「儒者は幽鬼がいないことを論じているが、迂遠であり、強引でもある。幽鬼はかならず人を恐れ、陰は陽に勝たないが、それが人を侵せば、かならず陽は陰に勝つに足りない。そもそも陽は盛んであるが、どうして血気の強壮さと性情の凶暴さを持っていようか。人の一心は、慈祥[62]が陽となり、惨毒[63]が陰となり、坦白[64]が陽となり、深険[65]が陰となり、公直[66]が陽となり、私曲[67]が陰となっている。だから易の象で、陽は君子、陰は小人なのだ[68]。心がけが正大であれば、その気は純然として陽剛[69]である。邪魅がいても、幽室の中で、洪炉[70]を焚いて烈しい炎を焼くようなもので、氷はおのずと消えるであろう。おまえはかなり勉強しているだろうが、史伝の中に、幽鬼に撃たれた端人[71]碩士[72]があったか。」。わたしは再拝して教えを受け、今でも庭訓を思いだすたび、かならず悚然として近臣のようになる[73]

  
  束州[74]の邵氏の子は、性来軽佻であった。淮鎮[75]の古墓に女狐がいて、たいへん麗しいことを聞くと、しばしば伺いにいった。ある日、かれが田の(あぜ)に坐しているのを見たので、近づいて衷情を通じようとすると、女狐は色を正して言った。「わたしは服気煉形[76]して、すでに二百余年、誓って一人の男にも媚びませんから、妄想を生じてはなりません。それに、人を惑わす輩は、どうして人をほんとうに愛していましょうか。精を採っているだけなのです。精が尽きれば人は死に、かれらに遇えば免れられる者はないのですから、みずから井戸に身を投げることはございません。」。袖を挙げて一揮いすると、淒風は颯然として、飛塵が目を覆い、すでに所在を失っていた。亡き姚安公はそれを聞くと言った。「この狐はこのようなことを言うのだから、きっと天に昇ったのだろう。」。

  
  献県の李金梁、李金桂兄弟は、いずれも大盗であった。ある晩、金梁はその父を夢みた。「盗賊には滅びるものもいれば、滅びないものもいることを、知っているか。貪官墨吏が刑具で求め、威力で脅しとった財、神奸[77]巨蠹[78]がむりに奪いたくみに取った財、父子兄弟が隠し持ち独り占めしている財、朋友親戚が、むりに求めいつわって齎した財、有能な奴僕下役が侵奪横領した財、巨商富豪が、高利で搾取した財、および一切の、冷酷に計算し、人を損ない己を利している財は、取っても障りない。罪悪が重いものなら、殺すに至っても障りない。その人はもともと天道の憎むものだからだ。人がもともと善良で、財を義によって取るならば、天道に守られようが、侵奪すれば、事は天に悖っており、天に悖ればかならず滅ぶ。おまえたち兄弟は、以前一人の節婦から掠奪したが、母と子は怨号し、鬼神は怒って見ていた。改悛せねば、禍は遠くなかろう。」。一年あまり後、ともに処刑された。金梁は獄に入る時に、免れないことをみずから悟り、刑房の吏史真儒に述べたのであった。真儒はわたしの郷里の人で、かつてこのことを挙げて姚安公に告げ、盗賊にも道義があると言った。さらに大盗李志鴻の言葉を述べたがこのようなものであった。「わたしは(かぶらや)を鳴らして馬を躍らせること三十年、奪ったものは多く、人に奪われたものも多かった。そもそも滅びるものは十の二三、滅びないものは十の七八だが、一人の女を汚せば、指折り数えれば、昔から滅びない者は一人もいない。だから、つねにこのことで徒党をみずから戒めている。」。そもそも天道は淫に禍するが、その理はもとよりたがわないのである。

  
  辛卯の夏、わたしは烏魯木斉に従軍して帰り、珠巣街路[79]の東の一宅に仮住まいし、龍臬司[80]承祖[81]と隣となった。第二重[82]には建物が五棟あり、もっとも南の一室は、(カーテン)がつねに一尺あまり盛り上がっており、風に膨らまされているかのようであった。わたしの四つの部屋の(カーテン)はそうではないので、そのわけが分からなかった。子供が部屋に入ると、かならず驚いて泣き、牀の上に一人の肥えた僧が坐し、かれに向かって笑ったと言うのであった。緇徒[83]の悪鬼が、どうして他人の家に拠るのか。もっとも不可解なことである。さらに三鼓以後、しばしば龍氏の邸内で娘の哭く声がした。龍氏の邸内でもそれが聞こえ、こちらの宅で声がすると言っていたが、疑惑は解明できなかった。しかしそこがよい土地でないことははっきり分かったので、柘南先生[84]の双樹斎の裏に引っ越した。二つの邸宅に住んだ者は、いずれも不幸であった。白環九[85]司寇[86]は病がないのににわかに亡くなったが、龍家の宅でのことであった。凶宅の話は、ほんとうに嘘でない。先師陳白崖先生[87]は言った。「吉宅にいる者が吉であるとは限らないが、凶宅にいる者はみな凶だ。たとえば、春風は温暖だが、人の病を除けるとは限らず、厳寒は烈しく、一たび触れれば病が生じる。良薬は滋養があるが、人にわかに健やかにさせられるとは限らず、劇薬は烈しく、一たび飲めば腹が下る。」。これも確かに理にかなっており、定まった運命であると固執してそれと争うことはできない。孟子は言った。「それゆえ命を知るものは岩牆の下に立たない[88]。」。

  
  洛陽の郭石洲[89]が言った。その隣県に老夫婦があり、富豪の二百両を受けとり、寡婦になっていた嫁を売って妾にしようとした。期日になると、むりに綵衣を被せ、捉えて車に乗せようとした。嫁はゆこうとしなかったので、紅い巾で後ろ手に縛り、媒婆が押して車に坐らせた。見る者は多くは太息して不満であったが、嫁は実家の親族が一人もおらず、告発することができなかった[90]。しもべが車を動かした時[91]、嫁が声を挙げて叫ぶと、旋風がにわかに起こり、三頭の馬はみな驚いて走って止められず、婚家に赴かず、県城に赴いた。ぬかるみを跳び越え、康荘[92]を踏むかのよう、狭い(みち)、危うい橋でも、転覆せず、県衙に着くと屹然として立ったので、その事は露顕した。そのため「庶女天に叫べば、雷電下撃す[93]」ということが、典籍のでたらめではなかったことが分かった。

  
  従舅の姚公介然が言った。「悪鬼が怨みに報いる話は、典籍に見えるものは一つではなく、伝聞から得られるものも一つではない。癸未五月、塩山[94]の耿家庵[95]から崔荘に還るとき、みずからそれを見た。その男は年が五十過ぎで、草の笠を戴き、苧の衫を着け、一頭の驢馬に布団を担がせ、河原の柳の樹の下に繋ぎ、樹に倚って坐していた。わたしも馬を繋いでしばし休んだ。すると突然その男は立ち、手で防ぐ動作をし、言った。『お命を害しましたから、お命を償うまでです。そのように殴られることはございません。』。防いでしばらくすると、言葉はだんだん曖昧になり、理解できなくなった。突然、身を躍らせて一跳びすると、すでに波に没していた。ともに見ていた者は十余人、みな合掌念仏した。報いられたのがどんな怨みか知らないが、命を害すれば命を償うということは、その男がみずから言ったことである。」。

  
  戊子の夏、下女の玉児が瘵[96]を病んで死んだが、にわかに甦って言った。「冥土の下役が、帰って銭を求めるようにと命じました。」。紙銭を買って焚くと、死んだ。すると突然、また甦って言った。「銀の質が良くありませんでしたので、冥土の下役は受けとりません。」。そこで、さらに金銀箔を買って錠[97]を折って焚いたところ、死んだまま蘇らなかった。そこで思いだすのだが、雍正壬子、亡弟映谷の臨終の時も、これに似ていた。しかし紙銭を作ることはほんとうに役に立つのか。冥土の下役がこのように金をせびって、冥土の上官は何の仕事をしているのか。

  
  胡牧亭[98]侍御[99]が言った。その郷里に生きながら冥官になっている者があり、冥府の事をたいへん詳しく述べた。すべては思い出せないが、大略は文献に載せていることと同じであり、六道輪迴に関してだけは、遣送[100]は必要ない、みなそれぞれ平生の善悪に従い、水が湿ったところに流れ、火が燥いたところに就くかのように、気質の同じものが感応しあって、おのずから本途[101]を得るということであった。話はたいへん筋が通っており、従来幽鬼を論じるものが語っていないことである。

  
  狐が人を惑わすのは、採補[102]のためだけで、漁色のためではない。しかし漁色するものもたまにいる。表兄の安滹北[103]が言った。ある人が夜更けに林の中に宿っていると、草むらで人が語った。「君は某家の小童を愛していたが、事はすでに叶ったか。この事は亢陽[104]が蒸し、真陰[105]を溶かし、修行を台無しにするが、君はどうして突然この念を動かしたのか。」。さらに一人が答えた。「お諌めくださりありがとう。ほんとうにかれの秀麗さを愛し、忘れられなくなったのです。ただ、あの童子は貌が艶冶であるものの、心に邪念がなく、わたしが夢の中でさまざまな淫らなさまをして誘っても、漠然[106]として動きませんでしたので、どうしようもなく、すでに思いを絶ちました。」。その人はおかしいと感じ、ひそかに行って窺いみると、二匹の狐が跳びはねて去っていった。

  
  泰州[107]の任子田[108]は、名を大椿といい、暗誦通暁し、とくに三礼[109]の注疏、六書の訓詁に長じていた。乾隆己丑、二甲一名の進士に登ったが、郎署[110]で浮き沈みし、晩年はじめて御史を授けられたが、着任しないうちに亡くなった。開国以来、二甲一名の進士で詞館[111]に入らなかった者はわずかに三人、田はまさにその一人であった。みずから語るには、十五六の時、たまたま従父の侍姫のために宮詞[112]を扇に書いたところ、従父が疑ったため、侍姫はみずから縊れて死んだということであった。侍姫の魂は地下に訴え、子田は奄奄として病に臥し、かれの魂もついていって取り調べられた。四五日の間に、冥官により法廷で七八度取り調べられたが、無心にしたことだと弁明した。結局過失で人を殺した廉で、官禄を削られたため、仕途でこのように窮迫しているということであった。賈鈍夫[113]舎人[114]は言った。「この案件を審理したものは、顧郎中徳懋[115]だ。二人はもともと面識がなかったが、ある日会うと、たがいに旧知のようであった。時にわたしは同席しており、冥府のことを回想して話す[116]のをみずから見た。子田はそれに答えていたが、なお慄慄然としていた。」。

  
  即墨[117]の楊槐亭先輩[118]が言った。済寧のある童子は、狐に愛され、夜はかならず衾枕をともにしていた。年が二十余になっても何もされない夜はなかった。ある人が鬚を蓄えるように教えたが、鬚がすこしでも伸びるとかならず睡眠中に狐に剃られ、さらに脂粉を塗られるのであった。しばしば符録で祓ったが、まったく制することができなかった。後に正乙真人が舟で済寧を通ったので、書状を投じてお祓いすることを乞うたところ、真人は城隍に訴えた。すると、狐は真人のところにいってみずから訴えた。その姿は見えなかったが、傍らの人々はみなかれの言葉を聞いた。かれはみずからこう言った。「わたしは過去生では娘で、この童子は僧でした。夜に寺の入り口を通ったところ、地下室の中に閉じこめられ、隠忍して辱めを受けること十七年、鬱鬱として死にました。地下で訴えますと、地獄の主は、この僧は地獄で罪を受けおわっても、来生で負い目を償うようにと判決しました。たまたまわたしは他の罪で狐の身に落ち、山林に隠れること百余年、遇うことはできませんでした。今は煉形[119]成道し、たまたま僧の後身がこの童になっているのに逢ったため、報いることができているのでございます。十七年が満ちましたら、おのずから去りますので、お祓いなさる必要はございません。」。真人はどうしようもなかった。後に期日が満ちてほんとうに去ったかは知らない。しかしかれの言葉通りなら、人に負い目があるときは、数世を隔てても償うことを知るに足りる。

  
  同年の項君廷模[120]が言った。昔、翰林某公の家に居候していたが、会うとかならず講学していた。ある日、かれの同郷で外吏[121]をしているものが、贈りものしたところ、某公は自分は平生質素なので、こうしたものは求めていないと述べた。その孤高冷厳であるのを見るt、すぐに持ちかえった。某公は賓客を送った後、広間の前を徘徊し、悵悵惘惘[122]として、失ったものがあるかのようにし、このようにすること数刻であった。しもべは奥に入って昼飯をとるように招いたが、大いに罵り怒られた。すると突然数人がくすくすとひそかに笑った。見ると姿はなく、辿ると、声は承塵[123]の上からしていた。そもそも狐の(あやかし)であった。

  
  陳少廷尉耕岩は、翰林院で役人をしていた時に(あやかし)に騒がれたため、避けて引っ越したが、魅はかならずついていった。小さな紙切れを擲ち、その陰事を語ることが多かったが、いずれも外部の人の知れないことであった。そこでますます恐れ、つねにうやうやしく祀った。ある日、紙切れを擲ち、その姪への待遇が薄いことを責め、「援助を厚くしなければ、禍が来よう。」と言った。人々は、そのため、かれの姪を疑い、誘い合わせて伺っていた。夜になると、器物を撃って壊す音が聞こえたので、にわかに出て襲いかかって捕らえると、その姪であった。耕岩は天性温厚で、もっとも骨肉に篤かったので、「金が欲しければわたしに告げろ。そのようにすることはない。」と言っただけで、笑って眠らせた。それからは平穏であった。後に呉編修[124]樸園[125]がにわかに火災に遭ったが、火がどこからくるか分からず、およそ二度引っ越して二度火災に遭った。わたしはかれも耕岩のようにするべきだと思った。樸園は言った。「もちろんわたしも疑っていた。しかし三度目は泉州会館に引っ越し、たまたま客と広間に坐していたのだが、突然、烈しい炎が赫然と、承塵の下から噴きだした。これは人が上れるところではないし、人が入れるところでもない。本当に(あやかし)の仕業であろう。」。

  
  程也園舎人[126]は、曹竹虚[127]の旧宅に住んでいた。ある晩、火に注意しなかったので、書画骨董は、多くは焼けて損なわれた。その中で、褚河南[128]が臨書した『蘭亭』一巻は、五百両で質にとったもので、贖いにきた時に悶着があることを心配していたが、突然余燼の中から拾うことができた。匣および袱はともに焼けていたが、書巻は一字も損われていなかった。表弟張桂岩は也園の家に泊まっていて、みずからそれを見た。これは白香山のいう、いたるところで「神物が護持[129]」しているというものか。そもそも保たれるか毀たれるかにはそれぞれ定めがあるが、この書巻はこの火劫[130]の中になかったのだろうか。しかし事は珍しいし、鑑賞家の一佳話とすることができよう。

  
  同年の柯禺峰[131]は、官位が御史であった時、内城の友人の家に宿を借りていた。書室は三間あったが、東の一室は紗厨[132]で隔てられ、閉ざされて開けられていなかったので、榻を表の部屋の南の窓の下に置いた。眠って夜半になると、東の部屋で鴨が鳴くような音がするのが聞こえたので、怪しんでじっくりと見た。時に明月は窓に満ち、見れば黒い煙一筋が、東の部屋の門の隙間から出、地を進んでいた。長さは一丈あまり、蜿蜓として大蛇のよう、その頭は一人の娘で、鬟と鬢はきちんとしていた。昂然として仰ぎみ、地上をのたくり、鴨の鳴き声をあげて止まなかった。禺峰はもともと勇気があったので、榻を打って怒鳴ると、徐々に退き、門の隙間から入っていった。夜明けに主人に告げると、主人は言った。「昔この(あやかし)がいた。数年に一度出、害をなさなかったが、別によいこともなかった。」。ある人は言った。「この宅を買う前、もとの持ち主の侍姫がこの部屋で死んだが、その詳細は分からない。」。

  
  下役がしらに賭博を好む者がおり、人の財物を奪うのは嚢から物を探るかのよう、武器を持たないで奪うかのようであった。その徒党はひそかに羽翼となり、意気投合し、謀略は百出し、腕や指を使っているかのよう、呼吸が通じているかのようであった。愚かな子弟で金持ちのものならば、魚が餌を呑むかのよう、雉が(おとり)に遇うかのようにするだけであった[133]。このようにして十年近く、ふところの金が巨万となると、その子に長蘆[134]で商売させ、十分の一の利を出すように命じた[135]。子も狡猾であったが、放蕩漁色を好んでいた。かれ[136]の術に落ちて破産した者は、骨まで怨んでいた。そこでともにゆくことを願い、ひそかに誘導して色遊びをさせたところ、舞衫歌扇に耽溺して帰るのを忘れ、その資産の十の九を費やした。下役がしらはそれを聞きつけると、みずからいって確かめたが、すでに収拾がつかなかった。論者は思った。「事は人が謀ったものだが、天道がある。敵がこの考えを動かしたので、神がその心を起こさせたのだろうか。そうでなければ、どうして前は愚かで後に智くなろう[137]。」。

  
  故城[138]刁飛万[139]が言った。その郷里に女狐との間に子を生んだ者がおり、その父母は怒り罵った。女狐は泣いた。「おとうさまとおかあさまが追われますなら、義として拒むのは難しゅうございます。ただ、子が乳離れしておりませんので、ひとまず連れ去らねばなりません。」。二年あまり後、突然子を抱いてその夫のもとにいった。「子はすでに成長しましたから、今お返ししましょう。」。その夫は父母の戒めに従い、そっぽを向いてかれと語らなかった。女狐は太息し、抱いて去った。この狐はたいへん人の道理を弁えており、子を抱いて去ったが、どんな結末となったかは分からなかった。人が生んだ者なので人となり、廬居[140]に火食し、民間に紛れているか。それとも妖が生んだ者は妖となり、幻化[141]通霊[142]し、墓地に隠れているか。あるいは妖となっても、なお父の姓を継ぎ、子孫を育て、妖でも人でもない境にいるか。人であっても、なお母の親族に従い、窟穴に往来し、人でもあり妖でもある所にいるか。惜しむらくは首は見えて尾は見えないので、質すことができないことである。

  
  同年の蒋心余[143]編修[144]が言った。「その郷里に旧家の廃屋があったが、しばしば美女が盛装し、塀に登って外を見ていた。武生の王某は、いささか豪勇の気があり、布団を持ち、ひとりその中に宿り、遇うことを願った。夜半になると寂然としていたので、枕を打って『人はこの宅には女狐がいると言っているが、今どこへ行ったのか。』とひとりごちた。すると、窓の外で小声で答えた。『六娘子(リウニャンツ)はあなたが今日いらっしゃるのを知り、避けて溪のほとりにゆき、月を見ています。』。『おまえは誰だ。』と尋ねると、『六娘子(リウニャンツ)の下女でございます。』と言った。さらに『なぜわたしだけを避ける。』と尋ねると、『なぜだか分かりませんが、あの腹負将軍に会うのが恐いと言っています[145]。どんな意味かは分かりません。』言った。王は後につねにそのことを挙げて人に『腹負将軍とは武職の何品か。』と尋ねたので、みな粲然とした。」。後にかれの同郷人に尋ねると、言った。「ほんとうにその人はいるし、ほんとうにその事はあった。徘徊して夜を徹したが、何も見えなかったのだ。その話は、心余が点綴したものだ。」。心余は諧謔を好んだから、あるいはそうかもしれなかった。

  
  亡母張太夫人は、かつて張媼を雇って飯炊きをさせていた、房山[146]の人で、西山の深い処に住んでいた。語るには、その郷里に、極めて貧しく、家を棄てて食を求めている者がいた。普段、外に出ていなかったので、行くこと半日で路に迷った。石の径は崎嶇として、雲は暗く、行方も知れなかったので、ひとまず枯れ樹の下に坐し、夜が明け、南北を弁じられるようになるのを待った。すると突然、一人の男が林の中から出てき、三四人が従っていたが、いずれも獰猛魁偉で、常人とは異なっていた。山霊でなければ、妖魅だと悟り、隠れられまいと思い、身を投げだして叩頭拝礼し、泣いて苦しみを訴えた。その人は惻然として言った。「恐れるな。おまえは殺さない。わたしは神虎で、今から、虎たちのために食べものを与えるが、虎が人を食らうのを待ち、その人の持ち物を収めれば、自活できよう。」。そしてある場所に引いてゆき、噭然として長嘯すると、虎たちが群れ集まった[147]。その人は手を挙げて指揮したが、言葉は細かくて理解できなかった。にわかにすべて散じて去ったが、一頭の虎だけは留まって草むらの中に伏していた。するとにわかに荷物を担いで林を通る者がいたので、虎は跳びあがって捕らえようとしたが、突然辟易して退いた。まもなく、一人の女が来ると、捕らえて食らった。その衣帯を調べ、数金を得ると、取って渡し、告げた。「虎は人を食らわず、禽獣を食らうだけだ。人を食らうのは、人でありながら禽獣であるときだけだ。人でありながら良心が滅びていないものは、頭上にかならず霊光があり、虎はそれを見るとすぐに避ける。良心が消えているものは、霊光はすべて収まり、禽獣と異ならないので、虎は食らえる。さきほどの一人の男は凶暴で不道徳であったが、奪ったもので、なおその寡婦の嫂や孤児の姪を救い、飢え凍えないようにさせていた。その一念で、霊光がUU[148]として弾丸のようになったため、虎は食らおうとしなかったのだ。後の一人の女は、夫を棄ててひそかに嫁ぎ、もっともその前妻の子を虐げ、身に完膚なくさせた。さらに後夫の金を盗み、前夫の娘に与えたが、懐中に携えていたものがそれだ。こうした諸悪により、霊光は消え尽くし、虎にも人の身でないと見られたため、食らわれたのだ。おまえが今わたしに遇えたのも、よく継母に仕え、妻子に食事させずに養い、頭上の霊光が高さ一尺ばかりになっていたためだ。だからわたしは導けたのだ。おまえが叩頭、拝礼、哀願したからではない。つとめて善業[149]を修めれば、さらに後の幸福があるはずだ。」。そして帰り道を指し示した。一昼夜を経て、家に着くことができた。張媼の父はその人と親戚で、その詳細を知っていた。時に家僕の妻に、その七歳の孤児の姪を酷使しているものがおり、張媼の言葉を聞くと、ややおとなしくなった。聖人が神の話で教化するのには、本当にわけがあるのである。

  
  磷は鬼火である。『博物志』に戦血の変じたものというが[150]、そうではない。いたるところに戦血があるはずはない。そもそも幽鬼とは、人の余気である。幽鬼は陰に属し、余気は陽に属している。陽が陰によって抑えられれば、集まって光となる。雨気が至陰でありながら、蛍火が燃え、海気が至陰でありながら、陰火[151]が燃えるようなものである。秋冬に見えて春夏に隠れていることが多いのは、秋冬は気が凝り、春夏は気が散じるからである。春夏に見えることがあるときは、幽房廃屋でなければ、かならず深岩幽谷であるが、いずれも陰気がつねに集まっているからである。多くは平原曠野、藪沢沮洳[152]にある、陽は陰に寄るが、地は陰類、水も陰類で、それらがもともと似ているからである。亡兄晴湖は、かつて沈豊功[153]年丈[154]とともに夜歩きしていたところ、磷火が高い樹の嶺にあったが、青く光って炬のよう、従来聞いたことがないものであった。李長吉の詩に、「多年老鴞木魅と成り、笑声碧火巣中に起つ[155]。」とあるが、やはりかつてこの異変を見たので、この詠があったのだろう。亡兄が見たものはあるいは木魅の仕業か。

  
  商人が巨きな硯を持ち、売ろうとしたが、色は真緑、紅い斑が点点として血のよう、潤して試すと、滑らかで墨を吸わなかった[156]。背には長歌一首が刻まれていた。「祖龍奮怒して頑石を鞭うち、石上の血痕臙脂赤し。滄桑変幻幾度か()る、水舂き沙蝕むこと盈尺に存す。飛花点点として落紅を()り、芳草茸茸として嫩碧を()る。海人[157]漉し得て銀涛[158]を出で[159]、鮫客[160]は咨嗟し龍女[161]は惜しむ。云何(いかん)ぞ強いて硯材に充てしむる、[162]を以て[163]を司らしむるが如し。凝脂もとより研磨に()へず、鎮肉翻つて棄擲に遭ふとなる(原註。客が鎮肉の事を尋ねると、「『夢溪筆談』に出ているとお告げがあった。」。)。音の賞でられ難きは古の悲しむ所、用ゐるに才を量らざるは誰の責めなる[164]。案頭の米老[165]の玉蟾蜍[166]、汝のために傷心して応に涙を滴らすべし。」。後ろに「康熙己未重九、餐花道人乩に降れば、たまたま頑硯[167]を以て題を請ふに、たちどころに長句を揮へば、因りて硯の背に刻みて異を記す。」と題してあった。落款には「奕」の二字が書かれていたが、その姓は明らかでなく、誰か分からず、「餐花道人」も調べようがなかった。その詞は憤激抑鬱しており、仙語らしくないから、やはり失意の才人の幽鬼であろう。言い値は十両だったので、四両で買おうとしたが、売ろうとしなかった。後にふたたび尋ねると、四川のある県令が買っていったということであった。

  
  しもべの紀昌は、本姓は魏といい、黄犢子の故事[168]により、主人の姓に従っていた。若いとき、勉強を好まず、すこぶる文芸に親しみ、字を書けば楷書に巧みであった。もっとも気が利き、平生一つとして事宜を失ったことはなかった。晩年に奇病を得、目は見えず、耳は聴けず、口は言えず、四肢は動けず、全身が麻痺し、痛癢を知らなかった。仰向けに榻の上に置かれれば、塊然[169]として木石のよう、鼻息だけは絶えていないのであった。かれが死んでいないことが分かったので、時間ごとに飲食を口中に置けば、なお咀咽することができるだけであった。診察すれば六脈[170]は穏やかで、すこしも病状がなく、名医も手の打ちようがなかった。このようにして数年で死んだ。老僧果成が言った。「この病は、身は死んで心は生きているもので、昔から医経[171]に載せられていません。業報でしょうか。」。しかしこのしもべには大きな悪事もなく、つとめてみずからの利を求め、しくじることがなかったに過ぎなかった。巧みさは、造物が忌むものであるというのは、本当である。

  
  しもべ李福の妻は、なみはずれて凶暴で、日々その舅姑に逆らい、日向で罵り、陰で呪い、あらゆる悪さをしていた。ある人が、不孝には冥罰があるとやんわり諌めたが、かならず首を振って笑った。「わたしは観音斎を持し、観音呪を誦え、菩薩のとても深い法力で罪を消していますから、閻羅王はわたしをどうすることもできません。」。後に悪疾に罹り、苦痛はさまざまであったが、なおも言った。「これはわたしが呪を誦えるときに口を漱がず、香を焚くときに竈の火を用いたので、こうした報いを得たのです。それ以外ではありません。」。愚かある。

  
  蔡太守必昌[172]は、かつて冥界のことを裁いていた。朱石君[173]中丞[174]が尋ねた。「仏法[175]で懺悔すれば、利益があるか。」。蔡は言った。「尋常の怨みなら、仏は訴えたものを善処[176]に置ける。かれは望んでいることを得れば、かれの怨みはおのずから解け、人の世の和解があるかのようになる。重い業、深い仇に至っては、人の世で和解できるものではなく、仏が懺悔できるものではないから、釈迦牟尼もどうしようもない。」。この言葉は平易で理に近い。儒家は仏法がかならずないと思い、仏家は種々の罪悪はみな消せると思っているが、そもそも二つとも間違っている。

  
  わたしの家は海を隔てることわずかに百里である。河間は、古は瀛州といった[177]。地勢は東にゆくに従い、だんだんと高くなり、海岸はきわめて険しく、海潮は出られず、河水も入れない[178]。九河[179]はすべて河間にあり、大禹が黄河を導いたとき、まっすぐ海に入らせず、導いて北にゆかせること数百里、碣石[180]から入らせたのは、そのためである。海では数年あるいは数十年ごとに、はるか水雲澒洞[181]たる中、紅い光が天を照らしているのが見え、「焼海」といわれているが、かならず切れた椽や折れた棟が、潮とともに上るので、人は採って薪にしていた。数日すると、かならず大工某と大工某が、神に召されて龍宮を造営しにいったと言いあうのだが、その人が鮫室貝闕の有様を話すのをみずから見たものはなく、伝聞に過ぎなかった。わたしは、遠洋の巨舶で、火事が起こり、水の光に反射し、空しくて障るものがないので、千百里外でもよく見えたのだろうと思う。梁や柱の類は、舶の上にすべてあり、宮殿の材木であるとは限らない。

  
  県の捕り手某は、かつて命を受け、大盗を捕らえ、縛りあげた。盗賊の妻は美しく、盗賊は妻に夜伽させるから逃がしてくれと頼んだが、某は許さなかった。後に積もり重なる収賄横領の廉で斬られたが、処刑の二日前、獄舎の塀が崩れ、圧されて死んだ。獄吏の葉某は、早く修繕しなかった廉で、重杖[182]となった。それより前、葉某が夢みたところ、身は堂下に立っており、堂上で役人と下役が捕り手の事を論じているのを聞いていた。役人は指揮して言った。「一善は千悪を覆えず、千悪も一善を覆えないから、赦免することはできないが、減刑することはできよう。」。その後、下役が文書を抱えて出てきたが、まったく面識がなく、よく見ると役人も面識がなかったので、来たのが県署ではないことをはじめて悟った。目醒めるとひそかに捕り手を祝い、ひとまず死刑を減じられると思っていたが、神が身首を保てることを減刑としていたとは思わなかった。人々が捕り手の平生を考えるに、この一善があるだけであったが、それでも刑を免れられたのであった。天道は昭昭として、人が改心するのを許さないことはないのである。

  
  呉江の呉林塘が言った。その親戚に女狐と遇った者がおり、疾病はないが、ぼんやりとしてつねに注意力が足りないかのようにしていたので、両親は心配していた。お祓いできる遊行僧がいることを聞くと、いって頼んでみた。僧は言った。「この(あやかし)は坊ちゃまと夙縁がございますから、害意はございません。坊ちゃまはもとより遊びに耽って度を過ぎただけでございます。ただ、(あやかし)は坊ちゃまを害しませんが、坊ちゃまはみずからを害することを免れないでしょうから、やさしく追いはらうべきでございます。」。その夜、かれの家に行き、趺坐して梵呪を誦えた。家人が見ると、遠くの燭光の下で繍衫を着た娘のようなものが、ゆっくりと再拝していた。僧は払子を挙げて言った。「未だ尽きせぬ(えにし)をとどめ、来たる世の(よろこび)とするのは、よいことではないか。」。すると突然隠れ、それから絶えた。林塘はかれが異人であることを悟り、神仙の感応遇合について尋ねると、僧は言った。「古来伝記に載せてあることには、言葉を託したものがあり、名を騙ったものがあり、それを借りて怨念を述べたものがあり、怪異を談ずるのを好んで異聞を誇張したものがあり、点綴して風流佳話といっているものがあり、基づく所がなく、綺語に情を託し、詩人が起草した艶詞のようなものがあり、おおむね偽るものが十に八九で、本当のものは十に一二だ。その一二の本当のものも、おおむね才鬼霊狐花妖木魅で、一人の神仙もいない。神仙と称しているものはかならず詭りだ。そもそも神は正直で聡明、仙は沖虚[183]清静[184]で、どうして名が丹台[185]に列なり、身が紫府[186]に拠り、さらに蕩姫[187]佚女[188]がおり、その間に混じり、ややもすれば桑中[189]の会に入ることがあろうか。」。林塘はかれの精識[190]に、古に聞かないことであると驚嘆した。このことを語った時、林塘はかれの名を挙げなかった。後にそのことを林塘の子の鍾僑に尋ねると、鍾僑は言った。「この僧を見た時、わずか五六歳だったし、当時、名を呼ぶのを聞かなかった。今は尋ねようがない。その訛りを記憶しているが、杭州の人のようであった。」。

  
  李芍亭[191]の家で扶乩したところ、その仙はみずから邱長春[192]と称し、筆を懸けて書いたが、風雨よりも速く、字は顛素[193]の狂草のようであった。客が拝して丹方を求めると、乩は判じた。「神仙には丹訣[194]があり、丹方[195]はなく、丹方は金石を焼煉する術だ。『参同契』[196]の炉鼎[197]、鉛汞は[198]、いずれも名を借りたもので、焼煉[199]とは言わない。方士はこじつけ[200]、害をもたらすこと窮まりない。そもそも金石は燥烈[201]で、火力[202]で増せば、亢陽[203]が激し、血脈は怒張するので、筋力はますます強壮になっているかのようだが、真気[204]を消耗し、禍も深く潜む。花を育てるものは、硫黄で培えば、寒さを冒し、蕊を吐くが、盛んに開いた後に、その樹はかならず枯れる。そもそも鬱熱[205]が下で蒸せば、精華[206]は上に湧き、湧いて尽きればすぐ枯れるだけだ。数年の欲をほしいままにし、千金の躯を擲つことはない。」。その人は悚然として起った。後に芍亭で田白岩[207]に告げると、白岩は言った。「乩仙は大抵すべて名を騙っているが、この仙はこうしたことを言えたのだから、ほんとうに邱長春だったかもしれない。」。

  
  呉雲岩の家で扶乩したところ、その仙も邱長春だと言った。一人の客が尋ねた。「『西遊記』はほんとうに仙師が作られたもので、金丹の奥義を述べているのでしょうか。」。するとお告げがあった。「そうだ。」。さらに尋ねた。「仙師の書は元初に作られましたが、その中の祭賽国[208]の錦衣衛、朱紫国[209]の司礼監[210]、滅法国の東城兵馬司[211]、唐太宗の太学士[212]、翰林院中書科[213]は、いずれも明の制度です。どうしてしょうか。」。乩は突然動かなくなり、ふたたび尋ねるともう答えなかった。言葉に窮してすでに逃れたことが分かった。だとすれば『西遊記』は明人が偽託したものであることは、疑いない。

  
  文安の王氏の姨母は[214]、亡き太夫人の第五妹であった。語るには、嫁ぐ前、度帆楼[215]に坐していたところ、はるかな河のほとりに一隻の船が停まっており、役人の家の中年の婦人が、窓に伏して哭いており、見物人は垣のようであった。乳母が後ろの戸を開けて見にゆき、語るには、某知府の夫人が、昼に船の中で寝たところ、かれの亡くなった娘がなる人に縛られ割かれ、悲痛に叫んでいるのを夢み、胸騒ぎして目ざめた。声はまだ耳にあり、隣の船から出ているかのようだったので、下女を遣って探して見させれば、まさに一匹の豚の子を屠り、血を盎に注いでおり、いまだに尽きていなかった。夢の中では娘は縄で足を縛られ、紅い帯で手を縛られていたが、豚の前足を見ると、ほんとうにその通りであったので、ますます悲しんで死にそうになり、値を倍にして贖って埋めた。かれの童僕がひそかに言うには、その娘は十六で歿し、生前極めて柔順であったが、鶏を食らうことを好み、食事のたびにかならず用意させ、用意しなければ箸を挙げず、毎年つねに鶏七八百羽を割いていた、けだし殺業[216]であろうということであった。

  
  交河[217]に書生がおり、日暮れにひとり田野を歩いていたところ、遠くで娘が(きび)畑に逃げ込んだようであったので、淫婦が密会に赴くのかと疑った。近づいていって見ると、寂として見えなくなった。深い草叢に隠れているかと疑い、さらに追ったが姿はなかった。帰ってから大いに寒熱を発し、うわごとを言った。「わたしは餓鬼です。あなたに禄相[218]がございましたので、ご無礼しようとせず、ひそかに草叢に隠れました。ところが突然ご覧になり、わざわざお訪ねくださりました。お情がございますなら、あなたに従って食を求めねばなりません。ささやかな供物をお恵みください。これでお別れでございます。」。その家で紙銭と酒肴を供えてやると、にわかに癒えた。蘇進士語年[219]は言った。「この御仁はもともと邪心がなかったが、たまたま余計なことをしたので、この幽鬼につけいられたのだ。小人は君子に対し、つねに隙を伺ってつけこむものだから、言動を慎まないことができようか。」。

  
  人の態度はすぐに変わるが[220]、鬼魅もそうである。程魚門[221]編修が言った。「王文荘公は北郊で祭祀に陪席するたび、かならず安定門[222]外のとある墓苑に宿を借りていた。墓園にはもともと祟りがあったが、文荘には見えなかった。ある年、燈下で見たが、半年後、文荘は亡くなった。これが『山鬼は一歳の事を知れる。』ということである[223]。」。

  
  太原の申鉄蟾[224]が言った。昔、蘇州から北上していたときのこと、舵牙[225]がぶつかって損なわれたので、興済[226]の南に舟を泊めた。荒れた堤には、寂として一人の人もいなかったが、夜、草の中で詩を吟ずる声がしたので、幽鬼だと悟り、友人とともにじっくり聴くと、誦えているのはおよそ数十篇であった。幽かに咽んで断続し、あまり聞きとれなかったが、鉄蟾は「寒星炯炯として芒角[227]を生ず。」の一句だけを聴けた。その友は二句を聴けた。「夜深くして翁仲[228]語り、月黒くして鬼車[229]来る。」。

  
  張完質舎人[230]は、一軒の邸宅に仮住まいしたが、ある人は狐がいると言った。入居した翌日、書室の筆硯がすべて動き、さらに紅い便箋一枚が失われた。がやがやと探していると、突然、一枚の銅銭が錚然として(つくえ)の上に落ち、紅い便箋の代金を払っているかのようであった。するとにわかに、失われた紅い便箋が、邸宅の裏の空き家に貼られていると騒ぐのが聞こえた。完質が見にゆくと、楷書で「立入禁止。」の四字が書かれていたが、すこぶる端正であった。完質は言った。「この狐は狡猾だ。」。かれが将来悪さをすることを恐れ、引っ越した。聞けばこの宅は保安寺街[231]にあるそうだから、翁覃溪[232]の宅であろう。

  
  李又先生[233]が言った。東光の某宅に狐がいたが、ある日、突然、磚や瓦を擲ち、盆や盎を損なった。某氏が罵ると、夜、人が窓を叩いて語った。「眠るのか。一つ言うことがある。同郷の人々は、家を並べて住んでいるが、小さな子供が無礼することがあるのは、事理の常だから、許せれば許し、どうしても許せないときは、その父兄に告げれば、おのずと処置がなされるはずだ。にわかに悪声を加えるのは、理において許されまい。それにわたしたちは出入りするとき姿がなく、往き来は測りしれず、いずれも君の見聞が及ばず、防備が到らないことだ。君は腕まくりして敵対しているが、どうしてよいことがあろうか。勢いにおいてもきっと敵うまい。よく考えろ。」。某氏が衣を着て起ち、謝ったところ、それからは安穏であった。たまたま親戚の中に童僕のささやかな争いによって、喧嘩を起こし、大事件となりそうになったものがいたので、又先生は嘆いた。「ことに某氏の狐のことを思いださせる。」。

  
  北河総督[234]の役所に五間の楼があり、長年蝙蝠に占拠されていた。大小およそ何匹であるのか分からなかったが、中に一匹の白いものがおり、大きくて車輪のよう、かれらの(おやだま)で、禍をなすことができた。歴代の総督は、みな鍵を掛けて住まなかった。福建の李公清時[235]が、正一真人[236]を招いてお祓いすると、みな移り去った。まもなく、李公が亡くなると、蝙蝠はまた帰ってきた。それからは訪ねようとするものはなかった。おもうに湯文正公[237]は五通神を駆り[238]、民の害を除いた。蝙蝠はもともと一つの楼におり、人を患わすことがなかったのだから、李公の挙は、まことに「やめられるのにやめない」ことであった[239]。しかしにわかに亡くなったことにいたっては、たまたまその時に当たっていたのであって、蝙蝠が祟ったといえない。寿命には(さだめ)があり、どうして妖魅がその権柄を操れようか。

  
  わたしが七八歳の時、しもべの趙平が、胆力を自負していたが、老僕の施祥が手を振って言った。「胆力を恃むな。わたしは胆力を恃んだために気が挫けたのだ。わたしは若くて気がもっとも盛んな時、某家が凶宅で、住もうとする人がいないことを聞くと、すぐに布団を持ってゆき、その中に臥した。夜が半ばになろうとすると、然と音がし、承塵の真ん中が裂け、突然一本の人の腕が落ち、跳びはねて止まなかった。すると、にわかにもう一本の腕が落ち、さらに両足が落ち、さらにその身が落ち、最後にはその首が落ち、すべて部屋に満ちて跳びはねるさまは猿のようであった。わたしは驚いて為すすべを知らなかった。すると、にわかにすでに合わさって一つになったが、刀の痕や杖の跡があり、腥い血は淋漓として、手を挙げると、まっすぐきてわたしの頚を掴んだ。さいわい夏の夜に涼んでおり、窓を掛けて閉ざしていなかったため、いそいで窓から跳びだし、狂奔して逃れたが、それから心と胆はすっかり砕け、今でもなおひとりで泊まろうとはしない。おまえは胆力を恃んでやまないから、わたしのように逃れられないだろう。」。平はそうは思わず、言った。「ご老人は大間違いをなさいました。どうしてさきにかれの一部を捕らえ、合わさって形をなせないようになさらなかったのです。」。その後、夜に飲み、酔って帰るとき、幽鬼たちに遮られ、肥溜に連れ込まれ、ほとんど頭のてっぺんまで沈んでいた。

  
  同年の鍾上庭[240]が言った。寧徳[241]で役人をしていた日、ある幕友が危篤となった。薬を服していると、ぼんやりと二人の幽鬼が現れて言った。「冥府で某事件があり、おまえが行って質すのを待っているから、薬を服してはならぬ。」。幕友は言った。「それはすでに五十余年になるようだが、どうして今でも終わっていない。」。幽鬼は言った。「冥府の法はたいへん厳しく、法の運用はたいへん慎重だが、疑わしい場合は、明らかにその事を知っていても、証人が揃わなければ、結局結審せず、待つことがつねに数十年に達するのだ。」「それなら、遅延してしまうではないか。」「それは千万分の一であって、いつもあることではない。」。その晩、ほんとうに亡くなった。それならば、果報に験がない時があるのは、これによっているのだろうか。さらに小説が載せていることには、生魂が取り調べに赴くものが多くあるが、遅くするべきこと速くするべきことがあるのは、それぞれその軽重と緩急によっているのだろうか。要するに、遅速の違いこそあれ、神は絶対に愚かではないのだから、確かに信ぜられるものである。

  
  田家の媼が偽って、その家が狐神に仕えていると言うと、多くの女たちが香を焚き、吉凶を尋ねたので、すこぶる利を得た。すると、にわかに狐たちがたくさん集まり、酒食を求めた。得たものをすべて供えても足りず、甕や盎は打ちこわされ、衣服器物は焼いて損われた。哀願したが追いはらえなかったので、恐れてよそに身を寄せようとした。行く時に、屋根の上で大声で笑うのが聞こえた。「まだ名をかりて財貨を集めようとするのか。」。それからは静かになった。そこで移るのをやめたが、持っていた金は、大半が失われた。これはわたしが幼い時に亡き太夫人が話すのを聞いたのである。さらに道士がおり王霊官[242]に仕えていると称し、銭を擲って事を占うと験があり、祈祷も盛んであった。たまたま不良少年数人が、妓女を連れて廟に入ろうとしたところ、阻まれた。そこでひそかに俳優から霊官鬼卒の衣冠を借り、その夜、醮をしているのに乗じ、にわかに屋根から跳びおり、腰掛けてかれが人々を惑わしていることをはげしく責め、鬼卒に命じて縛らせ、鉄蒺藜[243]を持って拷問させようとした。道士は驚き恐れて罪に服し、嘘をついて銭を得ていたことをくわしく述べた。すると人々はどっと笑い、衣冠を脱ぎ、声高に叫んで外に出た。翌日、道士を捜すと、すでに逃げていた。これは雍正甲寅七月のことであった。わたしは亡き姚安公に従って沙河橋に宿り、逆旅の主人が話すのを聞いた。

  
  安邑[244]の宋半塘[245]は、かつて鄞県で役人をしていた。語るには、鄞に一人の生員がおり、すこぶる文に巧みであったが、窮迫、落第していた。病中夢みたところ、大きな官署にいったが、その形を見て、冥府だと悟った。一人の下役に遇ったが、かれの友人であったので、「この病気で死ぬのか。」と尋ねると、「君は寿命は尽きていないが禄命は尽きているから、まもなくこちらに来るだろう。」と言った。生は言った。「平生館穀[246]で口を糊し、過分な浪費はしていないのに、禄がどうして先に尽きたのだ。」。吏は太息した。「まさに人から館穀を受けているのに、教育が疎かであったため、冥府では功がないのに食を盗んでいるのは、無駄遣いであるといい、得るべき禄を除き、前払いを補填したので、寿命は尽きないが禄命は尽きたのだ。そもそも在三の義で[247]、身分はもとより尊いが、人の束修を利とし、人の子弟を誤れば、譴責ももっとも重くなる。官禄があるものは官禄を減ぜられ、官禄がないものは食禄を減ぜられ、一錙一銖も、計算はたがわない。世は、才士通儒のあるものは貧しく、あるものは夭折するのを見るだけで、ともすれば天道は明らかにしがたいと言うが、みずからが平素を誤ったことをしており、これによって罪を得ていることが多いのを知らぬのだ。」。生は悵然として目ざめたが、病はほんとうに治らなかった。臨終の時、このことを挙げて親しいものを戒めた。だから、人々はその事を知ることができたのであった。

  
  道士龐斗枢は、雄県[248]の人で、かつて献県の高鴻臚[249]の家に居候していた。亡き姚安公は幼い時、かれが手ずから碁石を取り、几の上に並べているのを見た。中は横になったり斜めになったり囲んだり[250]、あまり理解できなかったが、外は八門[251]で、井然として数えられた。一匹の小さな鼠を投じ[252]、生門から入らせれば、折れ曲がり、隙を探して出たが、死門から入れば、動き回ること終日、出られなかった。そのため魚腹陣図[253]は、きっと嘘ではあるまいと信じた。しかし斗枢はこれは児戯にすぎないと言った。国の興亡は、天命により、戦の勝敗は、人謀により、一切の術数は、すべて役に立たない。昔から今まで、壬遁[254]星禽[255]で事を成すのは、符呪で厄を祓うかのようなものである。世にこの術は多く、すこぶる験がある時もある。しかし数千年来、戦乱割拠の世であったのに、今はどうして伝わっていないのか。また某帝某王某将某相が敵国の魘魅[256]によって殺されたことを聞かない。その他は推して知るべしだ。」姚安公は言った。「この言葉は術士の言えることではなく、この理も術士の知りえることではない。」。

  
  従舅の安公介然が言った。佃戸劉子明は、家がやや豊かであった。狐が倉庫の中にいたが、数十年間、一度も騒ぐことがなく、四季に酒五盞、鶏卵数個で祭るだけであった。火災や盗難に遇えば、かならず門や窓を叩いて音を出し、主人に知らせた。平和に同居してすでに久しかった。ある日、突然くすくすと笑って止まず、尋ねても答えなかった。笑いはますます激しくなった、怒って叱ると、突然応えた。「わたしは結義した兄弟に厚くし、その実の兄弟を憎むものをひとりで笑っていたのです。わたしは妻の前夫の子に厚くし、前妻の子を憎むものをひとりで笑っていたのです。あなたと関わりございませんのに、このようにお怒りになられますとは。」。劉は大いに恥じ、答えなかった。するとにわかに屋上で『論語』を朗誦するのが聞こえた。「法語の言は、よく従ふなからんや。これを改むるを貴しとなす。巽語の言は[257]、よく悦ぶなからんや。これを(たづ)ぬるを貴しとなす[258]。」。数回太息して静かになった。劉はそれからすこしその行いを改めた。後にわたしがそのことを邵闇谷[259]に告げると、闇谷は言った。「これは至親密友でも言い難いことだが、狐が言えるとは。これは正言荘論で受けいれ難いものだが、狐が諧謔によって悟らせるとは。東方曼倩[260]にも勝っている。劉氏の倉庫にいったら、門に向かって三たび揖するべきだ。」。

  
  瑪納斯に流刑囚の妻がおり、山に入って薪を採っていたところ、突然瑪哈沁(マハチン)に捕らえられた。瑪哈沁(マハチン)は、額魯特(オロト)の流民で、君主がなく、部族がなく、あるいは数十人が隊になり、あるいは数人が隊になり、深山に出没し、(とり)に遇えば禽を食らい、獣に遇えば獣を食らい、人に遇えば人を食らうのであった。妻は捕らえられ、衣を剥がれ、樹に縛られ、火を傍で焚かれた。左股の肉を切られると、突然火器の響きが聞こえ、人の声が響き、馬蹄の音が林と谷をどよもしたので、官軍が押しよせてきたかと思い、棄てて逃れた。そもそも兵士が馬を放牧し、たまたま鳥銃で雉を撃ったところ、誤って馬の尾に中たったのであった。一頭の馬が跳びはねると、馬たちがみな驚き、従って万山の中に駆け込んだので、ともに騒いで追ったのであった。少しでも遅ければ、この妻は血肉が散乱していたことであろう。まるで何ものかがこのようにさせたかのようであった。妻はそれから長斎[261]を続けたが、人に言った。「わたしは仏に諂って福を求めているのではありません。天下の苦痛は、切り裂きに勝るものはなく、天下の恐怖も、縛って切り裂きを待つに勝るものはありません。わたしは屠殺を見るたび、かならずみずから苦痛を受けた時のことを思いだします。かれら衆生[262]の苦痛恐怖も、きっとわたしと同じであるのを思いますと、どうしても呑み込めないのです。」。この言葉も世の饕餮[263]に告げることができるものである。

  
  しもべの劉hは、一頭の牛一匹の犬を飼っていたが、牛は犬を見るとかならず突き、犬は牛を見るとかならず噬り、闘うたびに血が流れ、止まらなかった。しかし牛はこの犬だけを突き、他の犬を見ればそうせず、犬もこの牛だけを噬り、他の牛を見ればそうしないのであった。後に別々に繋がれたが、牛は犬の声を聞き、犬は牛の声を聞けば、いずれも頭を抬げて凝視した。後に亡き姚安公が戸部で役人となると、わたしは従って京師にいったが、二匹の動物が結局どうなったかは知らない。ある人は言った。「禽獣は話せないが、いずれも前生を記憶できる。あの牛とあの犬は、仏経でいう宿怨で、今もなお記憶しているのだろうか。」。宿怨の説に関しては、はっきりとして疑いないと思うが、前生を記憶していることに関しては、かならずしもそうではないと思う。親戚の中に嫁同士で憎みあっているものがおり、嫂はほかの義妹たちとは睦みあっていたが、その義妹とだけは仇敵のようにし、義妹はほかの嫂たちとは睦みあっていたが、その嫂とだけは仇のようであった。これは前生を記憶できていたからではない。そもそも怨念は、性識[264]に根ざしており、一旦遇えば、相反する薬のように−枯れた根、朽ちた草で、もともと知覚がないのに−その匂いがおのずと激しく闘うことができるのである。因果は絡みあい、施すことがなければ報いられず、三生は一瞬で、睚眥に心を楽しませることができようか[265]。」。

  
  従伯の君章公が言った。前明の清県[266]の張公は、十世祖賛祁公の外舅[267]であった。かつて県民と連名で県吏を訴えることを約し、馬に乗っていった。先祖の墓の前を通ると、旋風が馬の頭を打ったので、驚いて落ちた。従者が舁いで帰ると、寒熱がにわかに起こり、ぼんやりしたり、すっきりしたりしたが、ぼんやりとしているときに鬼物を見たかのようであった。巫を招いて祓おうとすると、突然立ち上がり、その亡父の声で語った。「祈祷するな。おまえの馬を打ったのはわたしだ。およそ訴訟に益はない。理に適っていなければ、どうして証言できよう。理に適っていれば、公平な議論があり、人人が扼腕してくれ、すぐに勝つから、訴えることはない。それに役人を訴えることは、もっとも大きな禍を起こし、訴えて勝たないと、憂えが目前にあるし、さいわい勝っても、官は交際しあっているもので、この輩に子孫ができれば、かならず報復するので、後日、憂えがあろう。だからおまえがゆくのを阻んだのだ。」。そう言うと、枕に就き、汗が出ること雨のよう、眠りが醒めればすっきりとした。その後、連名したものたちはみな敗訴したので、はじめてうわごとではなかったと信じた。これは公が伯祖湛元公に聞いたことで、湛元公が一生人と訴訟しなかったのは、この戒めを守っていたからだということである。

  
  世に円光術があり、壁に白い紙を貼り、符を焚き、神を召し、五六歳の童子に見せると、童子はかならず紙の上に、にわかに大きな円い鏡が現れるのを見るが、鏡の中の人物は歴歴として、未来の事を示し、卦影[268]のようである。しかし卦影はその象を暗く示すが、これはその形を明るく示すのである。龐斗枢がこの術をすることができ、某生はもともと斗枢と親しく、かつて一人の女をものにしようとし、ひそかに斗枢に円光を依頼し、事が叶うかを見させた。斗枢は驚いた。「この事でどうして鬼神に無礼できましょう。」。某生が強いると、やむをえず符を焚いてやったが、童子はしばらく注視すると、こう言った。「一つの亭が見えますが、中には一つの榻が設けられ、三娘子(サンニャンツ)と一人の少年がその上に坐しています。」。三娘子(サンニャンツ)とは、某生の亡くなった妾のことであった。童子を嘘つきと罵り責めていると、斗枢は大声で笑った。「わたしにも見えます。亭の中にはさらに一つの額がありますが、童子は字を知らないのです。」。某生は怒って尋ねた。「何の字だ。」「『己の欲せざる所[269]。』の四字です。」。某生は黙然として衣を払って去った。ある人は言った。「斗枢が焚いたのはほんとうは符ではない。あらかじめ餅餌で童子を誘い、この言葉を語らせたのだ。」。これが真実に近いであろう。悪ふざけではあるが、朋友規過[270]の義ならば失っていない。

  
  亡き太夫人が言った。外祖の家ではつねに夜に一匹の(もののけ)が見え、楼の前で舞蹈し、人を見れば隠れるのであった。月下で窓の隙間から窺うと、惨緑[271]の衫を着、形は蠢蠢として巨きな鼈のよう、その手足は見えるがその首は見えず、どんな(あやかし)なのかは分からなかった。外叔祖紫衡公は強いしもべ数人を遣わし、刀、杖、縄、(くさり)を持って門外に伏させ、かれが出てくるのを伺い、にわかに襲いかかった。するとよろよろと楼の梯の下に逃げ込んだ。火を執って照らしてみると、塀の隅の緑錦の袱包(ふろしき)と銀船で、左右に四つの車輪があったが、そもそも外祖の家が全盛の時に、子供が玩具とした物であった。緑衫はその袱で、手足はその四輪であったことを悟った。溶かすと三十余金を得た。一人の老媼は言った。「わたしが下女をしていた時、部屋からこの物がなくなり、同輩はみなひどい鞭うちに遭いました。誰が盗んでこちらに置き、この(あやかし)になりましたやら。」。『捜神記』[272]に孔子の言葉を載せている。「そもそも六畜[273]の動物、亀蛇魚鼈草木の仲間で、優れたものはみな妖怪となり、五酉[274]という。五行の方角には、いずれもその動物がいる。酉は、老なので[275]、物は年を経れば怪となる。殺せばそれまでだ。何の禍があろう。」。それなら、物が時を経て変化するのは、もとより事理のつねである。

  
  両世の夫婦、韋皋と玉簫のようなものは[276]、いるのである。景州[277]の李西崖[278]が言った。乙丑の会試で、貴州の孝廉に会ったが、述べるには、かれの同郷人の家で一子が生まれたが、話すようになると、こう言った。「わたしは前生では某氏の娘、某氏の妻で、夫の名は某、字は某といいました。わたしが亡くなった時、夫は年は××歳で、今年は××歳になっているはずでございます。住んでいる場所は、ここから四五日の旅程を隔てているだけでございます。」。この話はだんだんと広まった。十四五歳の時になり、そのもとの夫はこの話があることを知り、すぐ尋ねてき、会うと涙を流し、前生の事を述べたが、すべて符合していた。その晩、(かけぶとん)を抱いてともに寝たが、その母は禁じられなかった。疑ってひそかに聴くと、燭を消した後、すでにとして男女の言葉を交わしていた。母は怒り、その元の夫を追って去らせたが、その子は憤り憂えて食らわず、そのもとの夫も旅舎に留まってゆこうとしなかった。ある日、防備がたまたま疏そかになると、ともに逃れ去り、行方が知れなくなった。この事は珍しく、古に聞いたことがなかった。これが「情に発して礼に止まらず[279]」ということである。

  
  東光の霍従占[280]が言った。富豪の娘がおり、五六歳の時、夜に外出して観劇したため、人に誘拐売却された。五六年後、誘拐売却したものは事が露見し、薬でこの娘を迷わしたことを供述した。令状を発して探させ、はじめて帰ることができた。帰った時にかれの肌を見ると、鞭の痕、杖の痕、(はさみ)の痕、錐の痕、焼いた痕、(のし)の痕、爪の痕、歯の痕、全身は彫刻したかのようであったので、かれの母は抱いて泣くこと数日であった。言い及ぶたび、かならず襟を潤した。それより前、娘がみずから言うには、女主人は残酷で人でなしだったが、幼い時はなすすべを知らず、戦慄して死を待つばかりであった。年がだんだん長じると、鞭うちに堪えず、自殺しようと思ったが、夜に老人を夢みたところ、かれは言った。「早まった考えを起こすな。あと二回焼かれ、百回鞭うたれれば、業報は満ちよう。」。はたしてある日、樹に縛り、鞭うちを受け、百回に達すると、県吏が令状を持ってやってきた。そもそもかれの母は下女を御するさまが極めて残忍で、およそして侍立しているものには、血の痕を帯びていないものは少なく、眸を回らして見れば、左右のものには、血の気がなかった。だから神はその娘に報いを示したのであった。しかし改悛しなかったため、後に疽が項に発して死に、子孫は今でも衰微している。従占はさらに言った。ある役人の家の婦人は下女に過ちがあっても、鞭うちを加えなかったが、下着を剥ぎ、裸体で地に伏させ、蒲鞭[281]で打って辱めるようなものだとみずから語っていた。後に顛を患い、見張りがすこし疏かになるたび、かならず裸になって舞蹈するのであった。

  
  及孺愛先生[282]が言った。そのしもべが隣村から酒を飲んで帰り、酔って路に臥したが、目醒めれば草の露は衣を潤し、月は南中していた。伸びをすると、一人がもじもじとして樹の後ろに立っており、呼んで誰かと尋ねると、言った。「恐れないでください。わたしは幽鬼です。こちらの幽鬼たちは酔った人を嬲るのを好みますので、お守りにきただけでございます。」「普段面識がないのに、どうして守ってくれるのだ。」「お忘れですか。わたしが歿した後、ある人がわたし妻のために流言を広めましたが、あなたは不満でその濡れ衣を晴らしましたので、九泉でもご恩に感じているのです。」。そう言うと消えた。かれが誰かを尋ねることはできなかったし、そうした事があったことも記憶になかった。そもそも無心の一言を、冥土ではすでに聞いているのである。それならばことさらに謡言をなすものは、冥土で、拳を握り、歯咬みされることを免れまい。

  
  河間献王[283]の墓は、献県の城東八里にあった。墓前には祠があり、祠の前の二つの柏樹は、漢の物と伝えられているが、その詳細は分からない。後人が補って植えたのであろう。左右には陪葬された二つの墓があり、県志は左が毛萇[284]、右が貫長卿[285]だと称している。しかし任邱にも毛萇の墓があるので、やはり詳らかにできない。ある人は言った。「萇は宋代楽寿伯に追封せられたが[286]、献県はまさに古の楽寿の地だから、任邱毛公の墓とは、毛亨だ。」。あるいはそうかもしれない。従舅安公五占[287]は言った。康煕年間、群盗が玉魚の蔵を狙い[288]、瓜を墓前に植え、団焦[289]に潜み、中に地道を穿った。墓に近づき、長い錐で探ると、白い気が錐に従って噴き出し、声は雷霆のよう、盗賊たちを衝いてすべて倒したので、掘ろうとしなかった。論者は思った。「王の墓は封鎖されること二千年、地気が久しく鬱積し、隙に遇って湧き出したもので、神霊ではない。」。わたしは思った。「王は『六経』に功があったから、おのずと鬼神が護っているはずだ。古に塚を穿つ者は多いが、どうして他の処では地気はひさしく鬱積して湧かないのか。」。

  
  鬼魅は人の腹の中にいて語る。わたしが見聞きしたものはおよそ三つである。一つは雲南の李編修衣山[290]で、扶乩によって女狐と唱和し、女狐の姉妹数匹は、みなかれの腹の中に入っており、しばしばともに語った。正一真人はお祓いできず、終生顛癇であった。わたしは翰林にいた時にこの目で見た。一つは宛平の張文鶴の友で、南汝光道[291]で役人をしていた時、史姓の幕友とともに駅舎に宿っていた。ある客が名刺を投じて史に会うと、夜通し対話した。夜が明けると、客としもべはみな見えず、突然言葉が史の腹の中から出、後に拝斗[292]して祓うと去ったが、にわかに腹の中に帰り、史が死ぬと止んだので、宿怨かと疑った。金聴涛[293]少宰が語るのを聞いた。一つは平湖[294]のある尼で、幽鬼が腹の中におり、吉凶を談じれば験が多く、檀施[295]は群れ集まった。幽鬼はひとりごちた。「前世でこの尼に銭を借りていたので、償ったのだ。」。『北夢瑣言』に記す田布の事[296]のようであった。人が尼の腋の下で耳を傾けると、やはりその言葉が聞こえたので、樟柳神[297]かと疑った。沈雲椒少宰に聞いた。

  
  晋が秦の間諜を殺したところ、六日で蘇ったという[298]。縊殺や杖殺なら、復活できるかもしれないが、蘇る前にどんな情況だったのだろうか。経書の訓詁はきちんとしたものであり、小説瑣記のようであるはずはない。佃戸張天錫が死んで七日すると、その母は棺の中でぶつかる音を聞いたので、開けてみると、すでに生き返っていた。死んだ後に何を見たかと尋ねると、言った。「何も見ていない。七日経っていたことも知らなかった。突然眠るかのよう、突然夢が覚めるかのようになっただけだ。」。時に老儒がわたしの家で家庭教師していたが、聞くと(もも)を打ち、雀躍して言った。「程朱は聖人だな。鬼神の事は、孔孟さえもいないと断じようとしなかったが、二先生だけは断じようとした。今、死者が生き返ったが、程朱が論じた通りだ。聖人でなければできようか。」。わたしは思った。「天錫はもともと気が結ぼれて屍厥[299]となり、ぼんやりとして人事不省になったのを、その家が誤って死んだと思っただけで、本当に死んだのではなかったのだ。虢太子のことは『史記』[300]に載せられているが、この翁は見ていないのか。」。

  
  帝王は刑賞によって人に善行を促し、聖人は褒貶によって人に善行を促すが、刑賞も及ばないことがあるし、褒貶も及ばないことがあるので、仏は因果によって人に善行を促している。事は異なるが、趣旨は同じである。緇徒[301]は罪福の説[302]によって、愚民を誘ったり脅したりし、人品の正邪によって善悪を分けず、布施の有無によって善悪を分け、福田[303]の説が盛んになり、瞿曇氏の本旨は明らかでなくなっている。聞けば走無常というものがおり、血盆懺経[304]利益(りやく)があるかないかを冥吏に尋ねたところ、冥吏は言った。「そのようなことはない。そもそも男女が交合し、万物が化生するのは、天地自然の気、陰陽不息の機だ。化生があればかならず出産があり、出産があればかならず汚穢があり、才媛賢母もそうならざるをえないが、これはみずから招いた罪ではない。罪と思うなら、飲食すれば糞や尿をせざるをえず、口や鼻には(はなじる)や唾があらざるをえないが、これも汚穢であり、やはり罪があるべきだろうか。この説を唱えるものは、そもそももっとも惑わし易いものは婦女であり、婦女がかならず免れないのは出産なので、これを罪であるとし、この罪は懺悔しなければならないとしているので、閨閣の財貨がすべて功徳の費用に充てられているのだ。おまえは冥府に出入りしていて、聞いたり見たりしているはずだ。血池がはたしてどこにある。血池に落ちたものははたして誰だ。なお疑って尋ねるか。」。走無常は後に人に告げたが、まったくその言葉を信じる人はなかった。「積重ければ返らず[305]」とは、このことである。

  
  釈明玉[306]が言った。西山の僧が来、遊覧の娘が踏青しているのを見、たまたま一念を動かした。徘徊し、思いを凝らしていると、若い女が突然かれと眼で合図し、だんだんやさしく語り、言った。「家はここから遠くなく、夫は久しく外出しておりますから、今晩、一つの燈で林外にお招きしましょう。」。言い含めて別れた。僧が約束通りゆくと、熒熒たる一燈は、隔たること半里たらずであったが、林を穿ち、澗を渡り、ついていっても、結局近づくことはできなかった。その後、あるいは隠れ、あるいは現れ、左になったり右になったり、走ったり回ったりし、路に迷い、疲れて歩けなくなり、老樹の下に倒れ臥した。夜明けにじっくり見ると、元の処におり、ふたたび林の中に行けば、蒼や緑の(こけ)(くさ)に、(くつ)の痕が重なっており、徹夜でこの樹の傍を巡り、牛が臼を回すかのようにしていたことを悟った。心が動き、魔を生じたことをみずから悟り、いそいで師匠を訪ねて懺悔したところ、後に変わったことはなかった。さらに言うには、山東のある僧は、つねに経閣の上で美女が下を窺っているのを見たので、(あやかし)だと悟ったが、魅でもよいと思い、すぐにいって近づけば、何一つ見えず、呼んでも出てこなかった。このようにすることおよそ百余度、ぼんやりとして精神病になり、死ぬにいたった。臨終の時にこのことを自分から語った。これは夙世の怨恨罪過があり、機に乗じて命を取ったのかもしれない。しかし二人の僧は結局いずれも自分から滅んだもので、悪魔と妖魅に滅ぼされたものではない。

  
  呉恵叔が言った。医者の某生は、もともと謹厚であった。ある晩、老媼が金釧一双を持ってきて、堕胎薬を買おうとしたので、医者はたいへん驚き、峻拒した。翌晩、さらに珠花[307]二本を添えて持ってきたので、医者はますます驚き、無理に追いはらった。半年あまり後、突然夢みたところ、冥府に捕らえられたが、かれが人を殺しだと訴えているものがいるということであった。ゆけば、ざんばら髪の娘で、項に紅い巾を縛っており、薬を求めても与えられなかったことを泣きながら述べた。医者は言った。「薬物や医者は人を活かすもので、人を殺して利を得ようとしない。おまえはみずから姦通によって亡びたのだから、わたしに何の関係があろう[308]。」。娘は言った。「わたしが薬を求めた時、胎児は姿をなしていませんでした。堕胎できれば、わたしは死なずにすみ、知覚がない血塊を損なって、自殺しようとしている命を全うできたのです。薬を得られませんでしたので、産まざるをえませんでした。そのため子は扼殺に遭い、諸の苦痛を受け、わたしも逼られて縊れました。あなたは一人の命を全うしようとし、かえって二人の命を損なったのです。罪があなたにあるのでなければ、誰にあるのですか。」。冥官は喟然として言った。「おまえの言っていることは、時勢を考慮したものだが、かれが守っているものは、理だ。宋以来一つの理に固執し、事勢の利害を考えないのは、この人だけではない。ひとまず静まれ。」。(つくえ)を打つ音がし、医者は悚然として目ざめた

  
  恵叔はさらに言った。疫病で死んだが生き返った者がいた。冥府でその友人に会ったが、友人は襤褸を着、枷を担っていた。会うと悲しんだり喜んだりし、おもわず手を握って太息した。「君は一生富貴であったのに、こちらに持ってくることができなかったのか。」。友人は蹙然として言った。「富貴はすべてこちらに持ってこられるが、人は持ってこようとしないだけだ。生前功徳があったものは、こちらに来ればかならず富貴になるのだ。世の人々に持ってくる計画をはやく立てるように伝えればよい。」。李南澗は言った。「この言葉はすばらしい。富貴はすべて空しいというよりましだ。」。

 

最終更新日:201225

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[1]王藻。呉江の人。http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php.bookid=34&name=%A4%FD&proname=&keywords=&bookdetailid=13505&strokes=0

[2]山東濟寧直隸州の県名。

[3]巻十八にも出てくる。

[4]原文「其足使人愧、正不在能語不能語耳。」。狗がこの物語で述べたようなことを話そうと話すまいと、人間は狗に対して恥じねばならないという趣旨であろう。

[5]未詳。いばらで編んだかごか。

[6]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E9%87%8D%E5%85%89

http://baike.baidu.com/view/2058568.htm

[7]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283934.htm書読書のための楼

[8]http://www.tianyabook.com/gudian/taipingguangji/260.htm『太平広記』巻第二百五十七・朱

[9]巻十三·冥迹。http://data.jxwmw.cn/index.php.doc-view-46765

[10]http://www.google.com/url.q=http://zh.wikisource.org/zh-hans/%25E5%258C%2597%25E5%25A4%25A2%25E7%2591%25A3%25E8%25A8%2580/%25E5%258D%25B7%25E5%2585%25AB

[11]http://baike.baidu.com/view/218168.htm

[12]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB0Zdic9187849.htm吏部侍郎

[13]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE8ZdicB5ZdicA041965.htmの父への敬称

[14]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB889368.htm運命をつかさどる神

[15]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BF%8A%E5%AE%98

[16]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE8Zdic88Zdic9E20970.htm舞うものの着けている衫、歌うものが持っている扇

[17]http://baike.baidu.com/view/236023.htm.func=retitle

[18]檀木で作ったカスタネットhttp://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE7ZdicBAZdicA2205870.htm          

[19]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic8CZdic89220709.htm拍子をとって歌をうたうこと

[20]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9Zdic97ZdicBA278228.htm婦人の居室

[21]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7Zdic8BZdic82308381.htm狂の人

[22]世説新語文学時問楽令“夢”、云:“是想。”曰:“形神所不接、而夢是想邪。”云:“因也。未夢乘入鼠穴、杵、皆無想無因故也。”思因、日不得、遂成病。楽聞、故命駕為剖析之。即小差。楽嘆曰:“此児胸中当必無膏肓之疾。”」。

[23]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6ZdicADZdicA3331909.htm根本追究すること

[24]蘇綖。http://www.hudong.com/wiki/%E9%B2%81%E6%9D%83%E5%B1%AF%E9%95%87

http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E7%94%B2%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[25]未詳。

[26]http://baike.baidu.com/view/235587.htm

[27]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE7ZdicAAZdicB8165677.htm軽く微かな音の擬音語

[28]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5Zdic97ZdicAB64281.htmひそかに語るさま。また、言おうとして止めるさま。

[29]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic9089444.htm呼吸

[30]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic87222326.htm他人の元気を吸い取ること

[31]http://www.google.com/search.q=%E5%A4%AA%E9%98%B4%E7%82%BC%E5%BD%A2&hl=zh-CN&source=hp&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA107339.htm死者が地下で煉形すること。

[32]原文「求幽明各適」。未詳。とりあえずこう訳す。

[33]直隸河間府の県名。

[34]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5ZdicB9Zdic95322619.htm幕僚

[35]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic88Zdic91109011.htm刑名師爺。刑事事件の実務を処理する幕僚。

[36]原文同じ。未詳。燈火と月光か。

[37]。また翰林のこと。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA313380.htm

[38]康熙十八年(千六百七十九年)進士http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%B6%99%E5%9F%B7%E4%BF%A1

[39]原文「有晉人風」。「晉人」は王羲之で、字がうまかったということをさすか。

[40]http://www.google.com/url.q=http://baike.baidu.com/view/45224.htm

[41]http://baike.baidu.com/view/220457.htm

[42]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic9BZdic97183233.htm盗泉は山東省にある泉の名。その名から、不義の財貨の喩え。

[43]http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE5ZdicADZdic80140032.htm寡婦の寝室

[44]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic8BZdicAC346762.htmひとりね

[45]原文「頗疑其樂昌之鏡、離而復合」。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB9Zdic90144283.htm樂昌之鏡、離而復合」は、離散した夫婦が再会することの喩え。

[46]http://www.google.com/url.q=http://baike.baidu.com/view/231773.htm

[47]原文「秦人不死、信符生之受誣;蜀老猶存、知諸葛之多枉。」。『史通』巻七『曲筆』「昔秦人不死、苻生之;蜀老猶存、知葛亮之多枉。

[48]巻二「逸、云是晋武人、晋朝旧事、多所記録又云:‘自永嘉已来、二百余年、建国称王者十有六君、皆遊其都邑、目其事。之後、其史皆非実録、莫不推于人、引善自向。符生好勇嗜酒、亦仁而不煞()、其治典未凶暴。及其史、天下之焉。符自是主、君取位、妄。凡史官、皆是也。人皆貴遠賎近、以信然。当今之人、亦生愚死智、惑已甚矣。’人其故。逸曰:‘生中庸之人耳、及其死也、碑文墓志莫不天地之大コ、尽生民之能事。君共衡、臣与伊皋等迹。牧民之官、浮虎慕其清法之吏、埋輪謝其梗直。所盗跖、死。妄言正、損実。’当構文之士逸此言。」

[49]「(崔)浩以其中國舊門、雖學不博洽、而猶獵書傳、推重之、與共論。言次、遂及陳壽三國志有古良史之風、其所著述、文義典正、皆揚于王廷之言、微而顯、婉而成章、班史以來無及壽者。脩之曰:「昔在蜀中、聞長老言、壽曾為諸葛亮門下書佐、被撻百下、故其論武侯云『應變將略、非其所長』。」浩乃與論曰:「承祚之評亮、乃有故義過美之譽、案其跡也、不為負之、非挾恨之矣。何以云然。夫亮之相劉備、當九州鼎沸之會、英雄奮發之時、君臣相得、魚水為、而不能與曹氏爭天下、委棄荊州、退入巴蜀、誘奪劉璋、偽連孫氏、守窮踦之地、僭號邊夷之間。此策之下者。可與趙他為偶、而以為管蕭之亞匹、不亦過乎。謂壽貶亮非為失實。且亮既據蜀、恃山嶮之固、不達時宜、弗量勢力。嚴威切法、控勒蜀人;矜才負能、高自矯舉。欲以邊夷之眾抗衡上國。出兵隴右、再攻祁山、一攻陳倉、疏遲失會、摧衄而反;後入秦川、不復攻城、更求野戰。魏人知其意、閉壘堅守、以不戰屈之。知窮勢盡、憤結攻中、發病而死。由是言之、豈合古之善將、見可而進、知難而退者乎。」脩之謂浩言為然。」

[50]http://www.google.com/url.q=http://baike.baidu.com/view/717624.htm

[51]呉至慎。江蘇震澤の人。乾隆十三年閩県知県。http://74.125.153.132/search.q=cache:ny9Zh2c8DZIJ:www.fjsq.gov.cn/ShowText.asp%3FToBook%3D6020%26index%3D86%26+%E5%90%B3%E8%87%B3%E6%85%8E%E3%80%80%E9%9C%87%E6%BE%A4&cd=1&hl=zh-CN&ct=clnk

[52]原文「登場度曲」。「登場」が未詳。とりあえずこう訳す。

[53]http://www.zdic.net/cd/jd/22/ZdicE6ZdicB0Zdic8D333647.htm劇場にしく絨毯

[54]原文「先生所論、猶未免於盡信書也。」。『孟子』盡心下「孟子曰.盡信書.則不如無書.」

[55]山東膠州直隸州。

[56]原文同じ。藏であろう。http://baike.baidu.com/view/148306.htmhttp://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E8%97%8F%E7%BB%8F%E6%A5%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[57]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE9ZdicA9ZdicAC67253.htm馬専門の獣医。

[58]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE8Zdic90ZdicBD321993.htm冷淡なさま

[59]http://baike.baidu.com/view/1187272.html収税を掌管する宦官

[60]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicA5Zdic84208719.htm宦官

[61]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic8DZdic83299303.htm大事なお体

[62]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6Zdic85Zdic8834597.htm和善

[63]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic83ZdicA8284107.htm残忍狠毒

[64]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic9DZdicA6327541.htm直率

[65]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6ZdicB7ZdicB12152.htm深沈陰険

[66]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC98268.htm公正耿直

[67]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicA7Zdic81183639.htm不公正

[68]『周易』繫辭下「陽一君而二民君子之道也。陰二君而一民小人之道也。」。

[69]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE9Zdic98ZdicB3272149.htm剛強

[70]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB4ZdicAA282272.htm巨大な炉。天地。

[71]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicABZdicAF192844.htm正人

[72]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicA1Zdic95335287.htm高尚、学淵博の士

[73]原文「輒悚然如左右也」。「左右」は近臣のこと。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicB7ZdicA6333757.htmこの句、庭訓を思い出すたび、厳粛な気分になるということであろう。

[74]河間束城鎮。清代、束州という地名なし。http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%B3%E9%97%B4%E5%B8%82%E6%9D%9F%E5%9F%8E%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.hudong.com/wiki/%E6%9D%9F%E5%9F%8E%E9%95%87

[75]http://baike.baidu.com/view/2122078.htm鎮名http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E6%B7%AE%E9%95%87%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[76]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm道家で自らの体を修錬すること

[77]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E300364.htm狡猾な人

[78]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB7ZdicA8321031.htm大奸物

[79]現在の珠朝街。http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82%E5%AE%A3%E6%AD%A6%E5%8C%BA%E7%8F%A0%E6%9C%9D%E8%A1%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/search.hl=zh-CN&q=%E7%8F%A0%E5%B7%A2%E8%A1%97%E3%80%80%E7%8F%A0%E6%9C%9D%E8%A1%97&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[80]臬司は廉使あるいは按察使。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8Zdic87ZdicAC221968.htm

[81]字武昭、号企柴とも号す。望江の人。http://74.125.153.132/search.q=cache:IIWkZzkOg34J:www.ahage.net/anqing/7275_2.html+%E5%AD%97%E6%89%BF%E7%A5%96%E3%80%80%E9%BE%8D&cd=16&hl=zh-CN&ct=clnk

[82]原文同じ。未詳。「第二重」は「第二進」に同じで、正門から二つ目の四合院ということか。

[83]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicBCZdic8138159.htm僧侶

[84]http://baike.baidu.com/view/236060.htm

[85]裘曰修が乾隆丙寅十一年(千七百四十六)した『送白九侍御巡台湾』あり。http://www.google.com/search.q=%E7%99%BD%E7%92%B0%E4%B9%9D&hl=zh-CN&lr=&sa=2

http://blog.sina.com.cn/s/blog_6269b38e0100fxvg.html

[86]刑部侍郎http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8313681.htm

[87]http://www.wcai.net/couplet/qinglian300/006.htm陳鍔。乾隆四年進士http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[88]『孟子』盡心上「是故知命者不立乎巖牆之下」。

[89]巻十二、十五、二十二にも出てくる。

[90]原文「不能先發也。」。「先發」は「告発」の誤字であろう。

[91]原文「僕夫振輿之頃」。「振輿」が未詳。とりあえずこう訳す。

[92]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicBAZdicB776317.htm大道、平地

[93]『文』江淹『建平王上』:“庶女告天、振風袭臺。”李善注:“『淮南子』曰:‘庶女告天、雷景公臺、海水大出。’曰:‘庶女、之少寡、無子、姑。姑無男有女、女利母母、以告寡不能自解、故寃告天。’”

[94]直隸天津府県名。

[95]http://www.xzqh.org/old/quhua/13hb/0925ys.htm塩山耿庵、耿家という地名あり

[96]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE7Zdic98ZdicB5.htm病。多くは癆咳をさす。

[97]銀錠、元宝、馬蹄銀http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E9%8A%80%E9%8C%A0&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wiここでは銀箔を折ってそれに似せたものを作るのである。これを紙元宝という。http://images.google.com/images.um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E7%B4%99%E5%85%83%E5%AE%9D&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=&start=0

[98]胡紹鼎。乾隆十九年進士。http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E7%94%B2%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[99]察御史http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D19224.htm

[100]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE9Zdic81ZdicA3324767.htm漢典は邪を祓う儀式、葬送と説くが、文脈からして、死者をよいものに転生させるための儀式であろう。

[101]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC135013.htm前途

[102]前注参照

[103]未詳

[104]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdicA2281959.htmさかんな陽気

[105]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F99556.htm中医の用語。“、“元とも。

[106]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6ZdicBCZdicA0311971.htm冷淡なさま

[107]江蘇揚州府の州名。

[108]http://baike.baidu.com/view/213076.htm

[109]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic891568.htm『周礼』、『礼』、『礼

[110]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E245424.htm京曹、中央官

[111]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicAFZdic8D252808.htm翰林院

[112]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicAEZdicAB77557.htm宮廷生活を読み込んだ詞

[113]未詳

[114]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8Zdic88Zdic8D312111.htm近侍武官

[115]巻二、七、十三、十七に出てくる。郎中は尚、侍郎の下の高http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E321515.htm

[116]主語は顧郎中徳懋と解す。

[117]山東膠州直隸州の県名。

[118]巻二十にも出てくる。

[119]前注参照。

[120]未詳。

[121]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96111731.htm地方官

[122]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic80Zdic85225455.htmぼんやりしたさま

[123]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF34103.htm天井

[124]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm翰林院の属官

[125]兆楠か。『皇清書史』「兆楠、字樸園、號小梅、國子監生。工篆隸」。

[126]程振甲。http://www.google.com/search.hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%A8%8B%E6%8C%AF%E7%94%B2&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[127]http://baike.baidu.com/view/1346289.htm

[128]http://baike.baidu.com/view/69757.htm河南陽翟人。

[129]『唐才子』巻五・劉禹「(劉禹)善、精、与白居易酬唱多、豪”、曰:“劉君、有神物持。」。http://www.yjsy.ecnu.edu.cn/jszj/%E5%8F%B2%E9%83%A8-%E5%85%B6%E4%BB%96/.%E5%94%90%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E6%96%9944%E7%A7%8D/%E5%94%90%E6%89%8D%E5%AD%90%E4%BC%A0/005.htm

[130]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB162661.htm劫火で焼かれること。

[131]柯瑾。乾隆庚午甲科人、十九年甲戌http://www.hsdcw.com/html/2007-5-23/65227.htm

[132]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicBAZdicB137154.htm紗の帳。

[133]原文「猶雉遇媒耳」。http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE9Zdic9BZdic89267052.htm

[134]江蘇江寧府江寧県の鎮名。

[135]原文「規什一之利」。未詳だが、訳文の趣旨であろう。

[136]下役がしらと解す。

[137]これは「かれの術に落ちて破産した者」に関していっているのであろう。

[138]河間府の県名。

[139]巻十にも出てくる。

[140]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5ZdicBAZdic90127823.htm民家。また、仮屋。

[141]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB9ZdicBB316264.htm変化すること

[142]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A100570.htm神霊に通じること

[143]http://baike.baidu.com/view/80026.htm

[144]前注参照

[145]蘇軾『子由瘦z儋耳至得肉食』「従来此腹、今者固宜安脱粟。」原注「俗云:大将飽捫腹而曰:我不汝。左右曰:将固不此腹、此腹、未出少智也。」腹の中が空っぽの将軍、知恵の足りない将軍ということであろう。

[146]直隸順天府の県名。

[147]原文「眾虎岔集」。「岔」は「坌」の誤字であろう。

[148]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7Zdic85Zdic9C165158.htm明るいさま

[149]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic84114694.htm応報をもたらす三業の一つ。三業は善、不善、非善非不善業。

[150]『博物志』巻之九http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E5%BF%97/%E5%8D%B7%E4%B9%8B%E4%B9%9D

[151]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4270705.htmしらぬい

[152]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB2ZdicAE1972.htm湿地

[153]巻八、十三にも出てくる。

[154]年伯。父と同年に科挙に合格した人。また、父の世代の人への敬称。http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicB9ZdicB48271.htm

[155]”『神絃曲』

[156]原文「沁試之、乃滑不受墨。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[157]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicB7309844.htm海辺の漁民、水神、海の怪物。

[158]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic93ZdicB6275646.htm白波

[159] 海人が水から漉しだされるかのように出てきたことを述べた句であろう。

[160]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE9ZdicB2Zdic9B82008.htm鮫人http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE9ZdicB2Zdic9B53393.htm人魚

[161]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE9ZdicBEZdic99344858.htm龍王の娘

[162]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE5ZdicABZdicB1127038.htm美女毛嬙、西施

[163]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB4ZdicB471153.htm綿を洗うこと

[164]原文「音難見賞古所悲、用弗量才誰之責。」。未詳。とりあえずこう訓ず。

[165]米芾。http://baike.baidu.com/view/69377.htm

[166]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic8EZdic89123473.htmhttp://images.google.com/images.q=%E7%8E%89%E8%9F%BE%E8%9C%8D&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[167]未詳だが、弄んでいる硯であろう。

[168]『太平広記』巻第二百七十五・童僕「隋皇中、京兆韋袞、有奴曰桃符、将行、有胆力。至左中郎、以桃符久従使、乃放従良。符家有黄牸牛、宰而献之、因問袞乞姓。曰:“止従我姓為韋氏。”符叩曰:“不敢与郎君同姓。”曰:“汝但従之、此有深意。”故至今有“黄”、即庶人其后也。不異姓者、蓋年深代、子或与氏通婚。此其意也。(出『朝野僉載』)

[169]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic9DZdic9732565.htm無知なさま

[170]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD23716.htm六つの脈。左右の手腕にある寸、、尺の三脈。

[171]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic8CZdicBB236065.htm医学の典籍。

[172]未詳

[173]http://baike.baidu.com/view/1229407.htm.reforce=%D6%EC%B9%E8&hold

[174]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332849.htm巡撫

[175]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B71468.htm仏事

[176]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic84114672.htm浄土

[177]『元史』巻五十八・河間路「河間路、上.唐瀛州.宋河間府.元至元二年、置河間路總管府.七萬九千二百六十六、口一十六萬八千五百三十六.領司一、縣六、州六.州領十七縣.」。

[178]原文「地勢趨東、以漸而高、故海岸陡、潮不能出、水亦不能入。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[179]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320588.htm興がの九つの支流。また、甲がのこと。

[180]http://baike.baidu.com/view/15968.htm山名

[181]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE6ZdicBEZdic92155394.htmひろがるさま。

[182]未詳だが、重い杖刑であろう。

[183]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86ZdicB21894.htm恬淡虚静

[184]正恬静http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85325259.htm

[185]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicB9292617.htm仙人の住処。

[186]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicB4ZdicAB206456.htm仙人の住処。

[187]未詳だが、下に出てくる「佚女」と同じで、美女、淫女であろう。

[188]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9A18668.htm美女。淫女。

[189]http://baike.baidu.com/view/580211.htm

http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicA1Zdic91130707.htm桑中は密会のこと。

[190]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicB2ZdicBE229629.htm精確な見識

[191]巻十六にも出てくる。

[192]http://baike.baidu.com/view/19892.htm

[193]http://baike.baidu.com/notexists.word=%B5%DF%CB%D8怀素と旭。ともに狂草といわれる草書の名手。「酔素」「張顛素狂」などと称せられた。

[194]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicB9292601.htm漢典は錬丹術とするが、錬丹術を述べた口訣であろう。

[195]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicB9314583.htm漢典は錬丹術とするが錬丹術の処方であろう。

[196]http://baike.baidu.com/view/264759.htm

[197]『参同契』では天地を大炉鼎に喩えるという。http://baike.baidu.com/view/264759.htm

[198]『参同契』では命、汞性をさすという。http://www.laozi.net/html/daojiaowenhua/2009-12-07/1260153061.html

[199]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic83ZdicA7215489.htm道教徒煉丹すること

[200]原文「方士轉相附會」。「轉相」が未詳。とりあえずこう訳す。

[201]http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE7Zdic87ZdicA5177213.htm猛烈

[202]道教で修の功力を指す。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB318294.htm

[203]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdicA2281959.htm盛極の陽気

[204]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24679.htm元気

[205]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic83Zdic81121911.htm漢典は「蒸し暑いこと」と説くが、鬱積した熱であろう。

[206]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicB2ZdicBE290302.htm元気

[207]田中儀。字は無昝、号は白岩、詩人田雯の子、徳州の人。歳貢生、鑾儀衛経歴となる。詩詞を好み、『紅雨書斎詩集』がある。

[208]http://baike.baidu.com/view/2427091.htm

[209]http://baike.baidu.com/view/2419841.htm

[210]http://baike.baidu.com/view/57900.htm

[211]『明史』巻七十四参照。五城兵馬司の一つ。

[212]未詳。正史に見えず。

[213]http://baike.baidu.com/view/1030567.htm

[214]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicA7ZdicA8218185.htm母の姉妹。

[215]巻四に出てくる。

[216]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic9DZdic80156489.htm殺生の罪業。

[217]前注参照。

[218]未詳だが、禄を授かる相であろう。

[219]蘇鶴成http://www.bjdclib.com/dclib/subjectdb/exam/jinshitimingbei/200908/t20090828_27020.htmlhttp://lstic.tw/webhd/data/a96.swf

[220]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7Zdic82Zdic8E302556.htm原文「炎涼轉瞬」。「炎涼」は相手が富貴であるか貧賤であるかによって態度を変えること。

[221]http://baike.baidu.com/view/1904439.htm

[222]http://baike.baidu.com/view/85617.htm

[223]『史·秦始皇本:“山鬼固不知一事也。

[224]巻八に出てくる。

[225]原文同じ。未詳。舵の一部ではあろうが。

[226]http://baike.baidu.com/view/1133993.htm滄県の鎮名。http://www.cxzf.gov.cn/xzfc.asp.ArticleID=1196http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%A7%E5%8E%BF%E5%85%B4%E6%B5%8E%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[227]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8Zdic8AZdic92234324.htm光芒

[228]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicBFZdic81204617.htm銅像、石像

[229]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicACZdicBC254294.htm鬼車鳥。伝説上の怪鳥。また、夜間の発光現象とも。

[230]巻十四にも出てくる。

[231]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82%E5%AE%A3%E6%AD%A6%E5%8C%BA%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%AF%BA%E8%A1%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[232]http://baike.baidu.com/view/80146.htm

[233]李若龍。東光県(今河北省東光県)李荘の人、字は又、雍正十三年(千七百三十五年)挙人、著に『又詩草』がある。光緒『東光県志』に「文詞精粋、詩類香山」とある。

[234]http://baike.baidu.com/view/31510.htm

[235]http://baike.baidu.com/view/1621685.htm

[236]官名。龍虎山正一真人。正三品。『清史稿』巻一百十五・僧道司参照。

[237]http://baike.baidu.com/view/121529.htm

[238]『清史稿』巻二百六十五・湯斌「斌令諸州縣立社學、講孝經、小學、修泰伯祠及宋范仲淹、明周順昌祠、禁婦女遊觀、胥吏、倡優毋得衣裘帛、燬淫詞小、革火葬.蘇州城西上方山有五通神祠、幾數百年、遠近奔走如騖.諺謂其山曰「肉山」、其下石湖曰「酒海」.少婦病、巫輒言五通將娶為婦、往往瘵死.斌收其偶像、木者焚之、土者沈之、並飭諸州縣有類此者悉毀之、撤其材修學宮.教化大行、民皆ス服.」

[239]明史列傳巻二百三列傳第九十一潘塤「是數者之好皆可已而不已者也.」

[240]未詳

[241]福建福寧府の県名。

[242]http://baike.baidu.com/view/122324.htm

[243]http://baike.baidu.com/view/143383.htm

[244]山西解州直隸州の県名。

[245]http://www.hdrw.cn/yanhu/gd/Song-Jian.shtml字元衡、号半塘。乾隆十三年進士。http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B9%B4%E6%88%8A%E8%BE%B0%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[246]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86281131.htm家庭教師の給金。

[247]原文「蓋在三之義」。http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9CZdicA830032.htm「在三」は父、、君をいう。

[248]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E4%BF%9D%E5%AE%9A%E5%B8%82%E9%9B%84%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[249]未詳。鴻臚は鴻臚寺で、そこに務めている人物であろう。

[250]原文「中間斜縈帶」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic90ZdicA6203159.htm縈帶」は囲むこと。

[251]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB291953.htm数家の、休、生、、杜、死、景、驚、という

[252]原文「投一小鼠」。どういう状況なのか未詳。

[253]宋陳傅良『代兵制』巻三・八陣圖贊に見える。http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E6%AD%B7%E4%BB%A3%E5%85%B5%E5%88%B6/%E5%8D%B73#.E5.85.AB.E9.99.A3.E5.9C.96.E8.B4.8A

[254]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA3ZdicAC104261.htm“六壬”“遁甲”の并称。占いの一つ。

[255]占いの一種。胡孚琛主編『中華道教大辞典』七百三十四頁参照。

[256]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE9ZdicADZdic87281181.htmhttp://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE9ZdicADZdic8775600.htm妖術によって禍を受けさせること。

[257]『論語』原文は「巽与之言」。「巽与」は従順、付和。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5ZdicB7ZdicBD128393.htm

[258]『論語』子罕

[259]http://baike.baidu.com/view/233418.html

[260]http://baike.baidu.com/view/53890.htm

[261]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF262554.htm長期間精進すること

[262]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE4ZdicBCZdic97362442.htm中国では畜生をいう

[263]http://www.zdic.net/cd/jd/22/ZdicE9ZdicA5Zdic95281274.htm貪婪な怪物、また貪婪な人間。

[264]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic80ZdicA7169972.htm根性心

[265]原文「可快意於睚眥哉」。未詳。とりあえずこう訳す。「睚眥」は怒って目を瞠ること。また、怒って目を瞠る程度の些細な怨み。この句、やや舌足らずで、「睚眥に(報いることに)心を楽しませることができようか」という趣旨か。http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7Zdic9DZdic9A227005.htm

[266]原文同じ。まったく未詳。

[267]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicA4Zdic9695593.htm岳父

[268]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic8DZdicA617674.htm占いの一種

[269]『論語』顏淵「己所不欲.勿施於人。」

[270]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicA7Zdic84242439.htm過失すことhttp://www.google.com/search.hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9C%8B%E5%8F%8B+%E8%A7%84%E8%BF%87&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[271]http://xh.5156edu.com/html5/156427.html薄緑色

[272]巻十九。

[273]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312737.htm猪、牛、羊、、狗

[274]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdic94328715.htm、蛇、、草木などの、老いて妖怪となったもの。

[275]『白虎通·五行』酉者、老也。」。

[276]韋皋に、転生した玉簫が嫁いだ話は『雲溪友』巻三に見える。この話は元曲『玉女両世姻』などにも脚色された。http://yuzhi.hp.infoseek.co.jp/liangshiyinyuan.htm

[277]直隸河間府の州名。

[278]未詳。

[279]『毛詩正義』關雎「故變風發乎情、止乎禮義。」

[280]未詳。

[281]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic92ZdicB2204176.htmがまのほのむち緩やかな刑罰のたとえ。

[282]巻一、巻十四(原注:先生於余為真從表姪、然幼時為余開蒙、故始終待以師禮。)および巻十八にも見える。

[283]http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8A%89%E5%BE%B7_(%E6%BC%A2%E6%9C%9D%E5%AE%97%E5%AE%A4)

[284]http://baike.baidu.com/view/65291.htm

[285]『漢書』巻八十八・毛公「毛公、趙人也.治詩、為河間獻王博士、授同國貫長卿.長卿授解延年.延年為阿武令、授徐敖.敖授九江陳俠、為王莽講學大夫.由是言毛詩者、本之徐敖.」。

[286]『宋史』巻一百五・文宣王廟参照。

[287]未詳。巻六、十七にも見える。

[288]原文「有群盜覬覦玉魚之藏」。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic8EZdic89142363.htm「玉魚」は副葬品。「玉魚之藏」は墓であろう。

[289]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm形の草屋

[290]李翊、号は衣山、晋寧の人。乾隆丁丑http://book.guqu.net/qingshihui/11961.html

[291]河南省の道名。

[292]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C221763.htm北斗を拝すること

[293]金士松http://baike.baidu.com/view/884133.htm

[294]浙江嘉興府の県名。

[295]http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE6ZdicAAZdic80327529.htm施主

[296]http://open-lit.com/listbook.php.cid=6&gbid=192&bid=9731&start=0巻六

[297]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6ZdicA8Zdic9F141721.htm占い師が用いる木の人形で、音を出すという。

[298]『史記』巻十四・十二諸侯年表第二「與魯伐秦、獲秦諜、殺之絳市、六日而蘇。」。

[299]http://baike.baidu.com/view/494767.htm病名。昏倒して人事不省になる。

[300]『史記』巻一百五・扁鵲伝に、扁鵲が虢太子を蘇生させたことを載せる。

[301]前注参照。

[302]未詳だが、悪いことをすれば罪があり、善いことをすれば福があるという教えであろう。

[303]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA6Zdic8F71883.htm仏教語。仏教では布施し、善行し、よい報いを受けられることを、田を耕し、秋に収穫を得るのと似ているとして、かく称する。

[304]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8044866.htm『目正教血盆』の称。子供を産みすぎるとその穢れにより、死後、血盆池で苦しみを受けるが、この経を誦えれば禍を消せると説く。

[305]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicAF290736.htm因習が積もり重なっていてすぐには変化しないこと

[306]巻四、十、十八に見える。

[307]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0133520.htm髪飾り。周汛編著『中国衣冠服飾大辞典』四百頁参照。

[308]原文「於我何有」。『集·曲歌一·壤歌』「日出而作、日入而息、井而、耕田而食。帝力于我何有哉。」。

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