第六巻

灤陽消夏録六

 

  烏什[1]の回部が叛しようとした時のこと、城の西に高い丘があり、その始祖の墓だといわれていた。毎日、暮れようとすると、巨人が墓の上に立っていたが、顔の幅は一尺を超え、頭を挙げて東に向かい、眺めているものがあるかのようであった。叛党が殲滅された後は、見られなくなった。ある人が言った。「厄難が到ろうとしているのを知り、その子孫の魂を収めるのを待っていたのだ。」。ある人が言った。「東を望んでいたのは、その子孫に、兵が東から来るから、はやく備えをなせと示していたのだ。」。ある人が言った。「回部は西域では東に向かっている者だ、面内は、その子孫が叛することができないことを示していたのだ。」。いずれも知ることができない。烏什が滅びようとする凶兆であったことは疑いない。
  
  宏恩寺[2]の僧明心が言った。上天竺[3]に老僧がおり、かつて冥土に入り、獰猛な鬼卒を見たが、数千人を駆り、大きな役所の外に居り、衣をすべて剥いで後ろ手に縛っていた。役人が南面して坐すると、吏は簿を執り、名を唱え、すべて精粗を選び、肥脊を揣量、肉屋が羊や豚を売るかのよう、大いに怪しんだ。見ると一人の下役は去る官やや遠く、昔の檀越であったので、合掌して尋ねた。「は悉誰。」。吏は言った。「諸天の魔衆は、みな人を食糧にし、如来は大いに神力を運て魔王を屈服させ、五戒に帰依させている。部族が集まり、叛したり服したり定まらない。みな言った。『太古以来、魔衆が人を食らうのは、人が穀を食らうかのようであった。仏は人が穀を食らいを断てり、わたしは人を食らわない。』。このように騒ぐ。かれ魔王も制せない。仏はを孽海洪波、沈淪して帰らず、無間地獄、すでに容れられず、牒下閻羅に、この囚人を移そうとし、かれの噉噬を充たし、かれの腹満たすことができ、生霊をそこなうを免れられた。十王はともに議し、を民命が関わり、およばない守り、幸福をもたらすことはもっとも易く、災厄をもたらすことも深く、種種の怨みだけは、多くはみずから作ったものではなく、冥府の業鏡は、罪帰するがある。もっとも民を害するものは、一つは吏、一つは役、一つは官の親族、一つは官の奴隷である。この四種の人々は、官の責務はないが、官の権威がある。官はあるいはみずから考成を顧みるが、かれらは利を求めることのみを考え、草に依り、木に附き、勢を恃み、威を作り、人の髓を敲き、膏を灑、声を呑み、血に泣かせるに十分である。四大洲の内、この四種の悪業だけはたいへん多いので、わたし泥犁を清、その湯鼎に供する。白ルの者、柔弱の者、膏腴の者で、魔王の食を充たし、すこし材で衆魔の食を充たす。だからさきに差別をなし、その後で命令を発する。その中で罪業がやや軽い者は、一たび割いて調理を経れば、すぐに烏有と化し、罪業が重い者は、あまり残骨を抛ち、業風が吹くと、もとの形に戻り、ふたたび調理に供し、二三度から千百度まで一つでず、罪業がもっとも重い者は、至る一日に姿を変えること数度、割かれ、剔られ、()かれ、炙られ、止む時がない。」。僧は額に手を当てて言った。「まことに剃髪出塵するにおよばず、できるこの心配がない。」。吏は言った。「そうではない。その権は人を害せ、その力は人を救える。霊山会上にもともと役人がおり、この四種の人々も、みな蓮界[4]を逍遥する者だ。」。そう言うと、たちまち目ざめた。僧はおいが県令の官署にいたので、いそいで手紙を送って帰るように促し、職業を改めるように勧めた。この事は僧がそのおいに告げ、明心が寺で聞いたことである。言うことはすこぶる荒誕で、寓言を出しているかのようであったが、神によって教化し、人に恐れを知らせるのも、世を戒める苦心であり、妄語戒によって縛ることはできない。

  
  滄州の盲人劉君瑞は、かつて弦索[5]を演唱するためにわたしの家に出入りしていた。語るには、その仲間に林姓の者がいたが、ある日の夕方、人が家を訪ねてきてかれを呼び、こう言った。「某官の舟が河岸に泊まっており、おまえが弾詞が上手なのを聞き、招いて演奏させようとしている。手厚い褒美があるだろう。」。すぐに促して琵琶を抱えさせ、かれの竹の杖を牽いて導いていった。約四五里で、舟の畔に着き、時候の挨拶が終わると、主人が指示した。「舟の中は熱いから、岸の上に坐し、奏でれば、窓に凭れて聴くことができるだろう。」。林はその褒美を得ようとし、一生懸命に弾唱した。三鼓に近づくと、指が痛み、喉が乾いたが、一滴の水を求めても得られなかった。耳をそばだてて聴くと、四方に男女が混じって坐し、談笑して喧しく、官員の家でないようであり、水辺にいるのでもないようであった。弦を止め、立とうとすると、人々は怒って言った。「何だ。このめくらめ。命令を聴かないつもりか。」。人々が手で次々に打ったので、痛くて耐えられず、哀願してふたたび演奏した。しばらくすると、聞いている人々の声がだんだんと散じたが、やはり休もうとしなかった。すると突然、耳元で呼ぶのが聞こえた。「林先生はどうして日がまだ出ないのに、荒れた墓の間に坐って演奏しているのですか。樹の下で朝に涼んでいるのですか。」。いそいで驚いて尋ねると、その隣人ははやく起き、商売のためにそこを通ったのであった。幽鬼に弄ばれたと悟り、疲れ果てて帰った。林姓はもともと計算高く、「林鬼」と称せられていたので、聞く者はみな笑った。「今日は幽鬼が幽鬼に遇ったな。」。

  
  亡き姚安公が言った。「郷里に白以忠という者がおり、たまたま幽鬼を使う符呪一冊を買い、これによって搬運法[6]を練習すれば、生計を立てることができるかもしれないと考えた。書に従って諸々の呪具を置き、月が明るい晩、道士の装いとなり、墓地にいって試してみた。案に拠り、書に向かって呪文を誦えると、四方に啾啾たる声が聞こえた。まもなく暴風が起こり、その書を巻いて草叢に落とし、幽鬼が躍り出て掴み去った。幽鬼たちは嘩然としてともに出てくると、言った。「おまえは符呪を恃んでわたしを捕らえようとしたが、今、符呪は失われたから、おまえを恐れない。」。集まって撃った。以忠がよろよろと走って逃げると、背後からの瓦礫は驟雨のよう、からくも家に着くことができた。その夜、瘧が大いに起こり、困臥すること一月あまり、これも幽鬼の祟りかと疑った。ある日、姚安公に訴え、恥じたり、憤ったろうした。姚安公は言った。「よかった。おまえは術が完成していなかったので、笑いの種になっただけだ。不幸にして術が完成していたら、術によって禍を招いていたかもしれない。これはおまえの幸福なのに、おまえはさらに何を咎める。」。

  
  従姪の虞惇[7]の家は、もともと村の南の旧い農園で、邸宅を築く前、四方に住民はいなかった。ある晩、水遣りの田大が、井戸端の小さな部屋に臥していると、塀の外で罵り争う声が聞こえたので、村人かと疑い、塀を隔てて尋ねた。「おまえたちは誰だ。夜が更けたのに、理由なく来てわたしを騒がすとは。」。一人が叫んだ。「一つ、にいさんの公平な意見を求めます。どこかの幽鬼がわたしの家にむりやり入り、わたしの妻をからかっているのですが、天下にかような道理がございましょうか。」。もう一人が叫んだ。「わたしがひとりで銭を持ち、聞家廟[8]に赴いたとき、その妻がわたしを見て笑い、わたしを部屋に迎え入れました。この男はにわかに入ってきてわたしのお金を奪ったのです。天下にかような道理がございましょうか。」。田は幽鬼だと悟り、黙って答えようとしなかった。二人の幽鬼はともに言った。「ここではこの事を解決できないから、土地[9]に訴えるべきだ。」。がやがやと東北に向かって去った。田は翌日土地祠にゆき、廟守に尋ねたが、寂として何も聞こえなかったということであった。みな田が嘘をついていると疑った。臨清[10]の李名儒[11]が言った。「それは怪しむにたりない。その妻は和解したのだろう。」。人々はそのために粲然とした。

  
  乾隆己未、わたしは東光[12]の李雲挙、霍養仲とともに生雲精舎[13]で勉強していた。ある晩、たまたま鬼神のことを論じたが、雲挙はいると言い、養仲はいないと言った。まさに弁論していると、雲挙のしもべがにわかに言った。「世間にはもとより珍しいことがございます。体験していませんでしたら、わたしも信じませんでした。以前、城隍祠の前の墓地を過ぎ、足を滑らし、棺を踏み破ってしまいました。夜に夢みたところ、城隍にしょびかれました。わたしがその家を毀ったと訴えた人がいるということでした。棺を破った事だと悟り、そのものと弁論しました。『おまえの家はもともと路を塞ぐべきでなかったのだ。わたしがおまえを侵したのではない。』。幽鬼はさらに弁じました。『路がわたしの家の上にできたのであって[14]、わたしの家がもともと路を塞いでいたのではない。』。城隍はかすかに笑い、わたしを顧みると言った。『人々がこの路を歩いているから、おまえを責められない。しかし、人々が踏み破っていないのに、どうしておまえは踏み破った。やはりおまえを許せないから、紙銭で償うべきだ。』。その後、言いました。『幽鬼は自分で棺を修理することができないから、おまえは板で覆い、その上に土盛りするがよい。』。翌日、神の教えの通りにし、紙銭を焚きますと、旋風がその灰を捲いて去りました。ある晩、ふたたびその地を過ぎますと、人がわたしを呼んで坐らせようとするのが聞こえましたので、以前の幽鬼だと悟り、疾駆して帰りました。その幽鬼は大声で笑い、声は梟のようでした。今、思いだしても、まだ髪がぞっとします。」。養仲は雲挙に言った。「あなたのしもべはあなたに加勢している。わたしは一つの口で両つの口に勝てないが、わたしは人が見たことをわたしが見たこととすることはできない。」。雲挙は言った。「君が事件を審理するとき、すべて目で見てから信じるのか。それとも人々の口から証拠を取るのか。すべて目で見る道理はないし、人々の口から証拠を取るのは、人が見たことを自分が見たこととすることではないか。君はどう処理するのだ。」。ともに一笑してやめた。

  
  莆田の林教授清標[15]が言った。鄭成功が台湾を占拠していた時、粤東の怪僧が海に浮かんでやってきたが、武芸は抜群で、腕まくりして端坐し、刃で斬っても、鉄石に中たったかのようであった。さらに壬遁[16]風角[17]に通じており、ともに兵事を論じても、娓娓[18]として筋が通っていた。成功は豪傑を招いていたので、おおいに敬った。しばらくすると、次第に驕慢になったので、成功は堪えられず、間諜かと疑い、殺そうとしたが、勝てないことを恐れていた。その大将劉国軒[19]は言った。「かならず除かねばなりません。わたくしが引きうけましょう。」。僧のもとへいって親しくし、突然尋ねた。「師は仏門のかたですが、摩登伽[20]に遇っても、やはり誘惑されましょうか。」。僧は言った。「参寥和尚[21]は、ながいこと、心が泥に湿った絮[22]のようでございました。」。劉はそこで戯れて言った。「劉王[23]の大体双[24]によって道力を調べ、人々をますます信心深くさせたいのですが、宜しいですか。」。孌童倡女の美麗好淫の者十人ばかりを選び、茵を布き、枕を置き、その側でほしいままに淫行させ、柔情艶態は、天下の妖美の極みであった。僧は平然と談笑し、見聞きしていないかのようであったが、しばらくすると突然目を閉じて見なくなったので、国軒が剣を抜いて一揮いすると、首はすでに落ちていた。国軒は言った。「この術は鬼神がいるではなく、練気[25]してみずからを強くしただけです。心が定まれば気は集まりますが、心が一たび動けば気は散じます。この僧ははじめは心が動きませんでしたので、ほしいままに見ようとしましたが、目を閉じて見ないようになりましたので、すでに動揺してむりに制していることが分かりました。ですから、刃を下すと防げなかったのでございます。」。論じることはすこぶるくわしかったが、人殺しの不良少年であるのに、どうしてここまで見識があるのかは分からなかった。かれが鯨窟[26]に十余年横行したのも、やはり偶然ではない。

  
  牛公悔庵[27]はかつて五公山人[28]と城南を散歩し、樹の下に坐して『易』を談じていた。すると突然、背後で語るのが聞こえた。「お二人が論じていらっしゃるのは、術家[29]の易であって、儒家の易ではございません。」。どこから来たかと訝ると、言った。「先にこちらに坐していました。お二人が見えなかっただけです。」。その姓名を尋ねると、言った。「江南の崔寅です。今日、城外の旅舎に宿りましたが、日が暮れていませんので、たまたま気晴らしに散歩していたのです。」。山人はその文雅を愛し、膝を突きあわして術家と儒家の説について尋ねると、崔は言った。「聖人は『易』を作って、人事を語り、天道を語らず、人々のため語り、聖人のために語りませんでした。聖人は心に順って(のり)を踰えず、もとより疑いはありませんので、占いは必要ありません。ただ人々は事理に暗く、つねに二つの道で決断することができないので、聖人は陰陽の消長、人事の進退を示し、行く道を知らせているだけです。これが儒家の本旨です。しかし万物万事は、陰陽から外れておりませんので、後人はこれを推し広め、それぞれ一つの説を明らかにしているのです。楊簡[30]や王宗伝[31]は、心学[32]を闡明しましたが、これは禅家の易で、源は王弼[33]という者に出ています。陳摶[34]と邵康節[35]は、道家の易で、源は魏伯陽[36]という者に出ています。術家の易は、管郭[37]によって展開され、焦京[38]に淵源があり、これがお二人の話されていることです。易道は広大で、すべてを包み、智と見、仁と見ても[39]、理はもとより一貫しています。後人はその始まりを忘れ、傍義を正宗としました。聖人は易を作りましたが、一二の上智のために設けられたもので、千万世に教えを垂れる書、千万人がともに悟る理ではありません。「経」とは「常」であり、常道をいいます。「経」とは「径」であり[40]、人々がともに拠るものをいいます。かつては『六経』の第一でしたが、その言葉を神秘的にし、人が解釈できないようにしましょうか。」。二人はその言葉を喜び、月が上るまで談じて止まず、その行動について質すと、世外の言葉が多かったので、二人は尋ねた。「先生は儒者でありながら隠者なのですか。」。崔はかすかに笑った。「本当に隠者なら、才能を隠すことに(いとま)なく、名を知ることができないでしょう。本当に儒者なら、みずからを省み、みずからを律することに(いとま)なく、講学することができないでしょう。世人がいう儒者や隠者は、すべて膠膠擾擾[41]たる者であり、わたしはまさにかれらを憎んで避けているのです。先生、おやめください。わたしを汚さないでください。」。[42]として長嘯すると、木の葉は乱れ飛び、すでに所在を失っていた。見たのが人ではなかったことをはじめて悟った。

  
  南皮[43]の許南金先生[44]は、たいへん大胆であった。寺で勉強し、友人と榻をともにしていたが、夜半、北の壁で二つの松明が燃えていた。じっくり見ると、人の顔が壁の中から出てきたが、大きさは箕のよう、二つの松明はその目の光なのであった。友人は股が震えて死にそうになったが、先生は衣を着、おもむろに起きると言った。「勉強しようとしていたが、燭が尽きたので困っていた、君はたいへんよいところへ来た。」。一冊を携え、それを背にして坐し、誦える声は琅琅としていた。数頁たらずで、目の光はだんだんと隠れ、壁を叩いて呼んでも、出てこなくなった。さらにある晩、厠に行くとき、小童が燭を持って従っていたが、例の顔が突如地から湧き出、向かいあって笑ったので、童は燭を擲ち、地に倒れた。先生はすぐに拾って怪の頭に置き、言った。「燭に台がなかったが、君はまたたいへんよいところに来た。」。(あやかし)が仰ぎ見て動かないでいると、先生は言った。「君はどこへも行けるのに、こちらにいる。海辺には逐臭の夫[45]がいるが、君はそれか。君の来意を無にすることはできないな。」。すぐに汚穢のついた紙で(あやかし)の口を拭いた。(あやかし)は大いに嘔吐し、狂ったように吼えること数声、燭を消して消えた。それからはふたたび現れなかった。先生はかつて言った。「鬼魅は本当にいるし、時折みられることもある。ただ平素慎んでいれば、鬼魅に対抗できない者はない。これは心がもとより動揺することがないからだ。」。

  
  戴東原[46]が言った。明末に宋某という者があり、埋葬の地を卜し、歙県の深山の中に至った。薄暮、風雨が来ようとしていたが、崖の下に洞窟があったので、入ってしばらく避けたところ、洞内で人が語るのが聞こえた。「この中には幽鬼がいるから、君は入るな。」「あなたはどうして入っている。」「わたしが幽鬼なのだ。」。宋が一見を請うと、言った。「君と会うと、陰陽の気が争い、君はかならず寒熱[47]でいささか不安になるだろう。君は火を焚いてみずからを守り、はるかに隔たって話すのがよい。」。宋は尋ねた。「君には墓があるはずなのに、どうしてこちらにいる。」「わたしは神宗の時に県令になったが、官員が財貨を争い、出世を競うのを憎み、職を棄て、帰田したのだ。歿したときに閻羅に願い、人の世に輪廻させないようにしてもらい、来生の禄秩を、冥土の官に改めてもらった。ところが冥土でも、奪いあい、競いあうのは、やはり同様であったので、さらに職を棄てて墓に帰った。墓は幽鬼たちの間にあり、行き来するものは騒がしく、その煩わしさに堪えなかったので、やむを得ずこちらに避けているのだ。寒風と長雨は、侘しくて堪えがたいが、宦海の風波、世途の虚偽と比べれば、忉利天[48]に生まれたかのようだ。寂しい山で、歳月をすっかり忘れ、幽鬼と隔たって何年になるか分からず、人と隔たって何年になるかも分からない。さまざまな縁から離れ、造化に思いを致せることをひとり喜んでいたが、ふたたび人跡が通じようとは思わなかった。明朝すぐに引っ越さねばならぬ。武陵の漁夫は、ふたたび桃花源を訪ねるな。」。そう言うと、ふたたび応酬せず、その姓名を尋ねても、答えなかった。宋は筆硯を携えていたので、墨をつけ、「鬼隠」の二字を洞窟の入り口に大書して帰った。

  
  陽曲[49]の王近光[50]が言った。冀寧道[51]の趙公孫英[52]には二人の幕友がおり、一人は姓を喬、一人は姓を車といい、ともに騾轎[53]を雇って本籍に帰った。趙公は戯れにその姓を対句にしようとした。「喬、車二幕友、おのおの半轎に乗りて行く。」。いずれも「轎」の片方の字であった。当時、署内では乩仙を招いていたので、すぐにこの句を示して対句を作ることを請うた、乩仙はお告げした。「これは本当の人と本当の事だから、むりに合わせて作れない。」。半年後、さらに乩仙を召したところ、突然お告げした。「以前の対句をすでに思いついている。『盧、馬二書生、ともに一驢を引きて走る。』だ。」。さらにお告げした。「四日後、辰と巳の刻の間に、南門の外に行って待っていろ。」。期日になると、下役を遣って窺いみさせたところ、盧、馬という二書生が、一頭の驢馬にその年の合格者の墨巻[54]を負わせてき、省城に赴いて売り出そうとしていた。趙公は笑った。「巧みといえばまことに巧みだが、二生は深い侮辱を受けた。」。これは「箭が弦の上にあれば、発せざるを得ない[55]」ということで、仙人も笑いを禁じえないであろう。

  
  亡き祖父は荘園を持っており、廠裏といったが、今は分けられて従弟の東白の家に属している。聞けば分家する前、庭に柴の山があり、年を経ており、狐がその中に居ると言われていたので、人々は侵そうとしなかった。たまたま佃戸の某が、酔ってその側に臥すと、同輩は狐仙の怒りに触れないようにと戒めた。某は聴かず、さんざん罵った。すると突然人の言葉が聞こえた。「おまえは酔っているから、わたしは咎めぬ。家に帰って眠ればよい。」。翌日、園にゆき、瓜を番していると、その妻が飯を担ぎ、食事を運んできたが、はるかに団焦[56]の中を眺めると、一人の紅い(うわぎ)の娘が夫と坐しており、妻を見ると驚いて起ち、たちまち垣を越えて去った。婦はもともと嫉妬深かったので、夫に愛人があると思うと、ひどく憤り、すぐに天秤棒で痛打した。某はどうしても釈明できず、大いに鞭を受けた。妻は手が疲れるとすこし休んだが、なお喃喃と毒罵した。するとたちまち梢から大きな笑い声が聞こえたので、はじめて狐が戯れて仕返ししたことが分かった。

  
  呉恵叔[57]が言った。その郷里に豪族がいたが、一子がいるのみで、病がたいへん重かった。葉天士[58]はかれを診ると言った。「脈は幽鬼による症状を示しており、薬石で癒せるものではございません。」。上方山[59]の道士を招いて醮をおこなった。真夜中になると、陰風は颯然として、壇上の燭光はすべて深緑となったが、道士は剣を横たえ、目を閉じ、何かを見ているかのようであった。その後、衣を払って出ると、言った。「妖魅が祟りをなしていれば、わたしは法で祓える。夙世の怨みも、祓う法があるが、祓えるか否かは、本人次第だ。倫常が関わり、事が天律を犯していれば、緑章[60]で奏しても、神霄[61]に達することはできない。この祟りは、おまえの父が一人の幼い弟を遺し、おまえの兄が二人のおいを遺したのに、おまえは蚕食鯨呑してほとんど余瀝がないようにし、さらに焭焭たる幼児を他人のように見、飢えや寒さも、告げられぬようにし、病苦や痛痒があっても、かれらが叫ぶに任せていたので、おまえの父は九泉で悲しみを忍び、冥府に訴え、冥官は命令を発して、おまえの子を取って怨みを償わせたのだ。わたしは術があるが、人のために幽鬼を祓うことができるだけで、子のために父を駆ることはできない。」。その子はまもなく亡くなり、後に結局男子ができなかったので、おいを跡取りとした。

  
  護持寺[62]は河間の東四十里にあり、農夫于某は、家にささやかな財産を持っていた。ある晩、于が外出すると、強盗数人が簷から飛び降り、巨きな斧を揮い、扉を破り、音は丁丁然としていた。家には女子供が、枕に伏して戦慄し、なすがままにしているばかりであった。すると突然、飼っている二頭の牛が、怒り吼えて躍り込み、角を奮って盗賊と闘い、梃や刃が下されても、ますます奮闘した。盗人は傷つけられ、いそいで去った。そもそも乾隆癸亥、河間は大飢饉で、牛を飼っていた者たちは飼葉を得られなかったので、多くは肉屋に売った。この二頭の牛は肉屋の門に来ると、哀しげに鳴き、地に伏して進もうとしなかった。于はそれを見て悲しみ、服を脱ぎ、質入れして贖い、寒さに耐えて帰った。牛が忠義を尽くしたのはもとより当然のことであった。ただ、盗賊は奥の間に居り、牛は外の小屋にいたのに、牛はどうして危険があることを知ったのだろうか。それに牛は敏捷な動物ではなく、外の扉はかたく閉ざされていたのに、どうして一跳びして塀を越えることができたのだろうか。これはきっとそうさせた者がいるのである。鬼神がしたのでなくて誰がしたことであろうか。この乙丑の冬、河間で歳試があり、劉東堂[63]がわたしに言った。東堂は護持寺の人で、二頭の牛をみずから見たが、それぞれ身に数刃を受けていたと語っていた。

  
  ()[64]は瑞草と称せられているが、めでたいとは限らない。静海[65]の元中丞[66]が甘肅にいたとき、署内に九芝[67]が生じたので、それをみずからの号としたが、まもなく免官となった。おじの安公五占[68]は、居室に柩を停めていたとき、たちまち柩に一本の芝を生じたが、それから子孫が衰えた。今はすでに子供がいなくなっている。そもそも禍福が萌そうとすると、気がさきに動く。常ならぬ兆が、意味もなく訪れる道理はないが、吉なのか凶なのか、予測することができないだけである。亡兄晴湖は言った。「人は兆が鬼神から起こり、人事がそれに応えると感じているが、本当は兆は人事から起こり、鬼神がそれに応えること、また、予測できないわけではないことに気づいていない。」。

  
  大学士伍公弥泰[69]が言った。以前、西蔵にいたとき、懸崖の、路がない処を見ると、石に天然の梵字大悲呪があり、一字一字がはっきりとしていたが、人力で作ったものではなく、人跡が達する所ではなかった。当時はその山の名を示されたが、梵音は記憶するのが難しいので、今では忘れた。公は嘘をついたことがないので、本当に虚構ではないと思う。天地は広く、あらゆるものが存在する。宋儒はつねに、存在する道理のないものは、かならずないと即断するが、ないものはないということが、理であることが分かっていない。

  
  喇嘛には二種あり、一つは黄教といい、一つは紅教といい、それぞれその衣で区別している。黄教は道徳を講じ、因果を明らかにし、禅家と流派は別だが源は同じである。紅教は幻術に巧みなだけである。理藩院尚書留公保住[70]が言った。西蔵に駐箚していた時、紅教の喇嘛に逆らったので、ある人が山に登る時にかならず報いがあると言っていた。公は肩輿鳴騶[71]を先に進ませ、ひそかに馬に乗ってその後に従った。山の中腹に至ると、一頭の馬が跳び上がり、肩輿を押しつぶし、砕いて粉々にした。これは留公がみずから語ったことであった。以前、烏魯木斉(ウルムチ)に従軍した時、馬を失った者がいたが、一人の紅教喇嘛が、小さな木の(こしかけ)を取り、しばらく呪すると、たちまち翻ったり回ったりし、桔[72]を動かしているかのようであった。馬を失った者を行かせ、とある山谷にゆくと、その馬がいた。これはわたしがみずから見たことであった。調べると、西域の、刀を呑み、火を呑む魔術師は、前漢からすでにあるが[73]、これはそもそもかれらの伝えた遺術であって、仏氏の本来の教えではない。そのため黄教は紅教を魔という。あるひとは言う。これは波羅門であり、仏経が言う邪師外道という者であると。それが真実に近いようである。

  
  巴里坤[74]、闢展[75]烏魯木斉(ウルムチ)の諸山には、狐が多いが、人に祟ったことを聞かない。ただ、根克(コクトゥイ)[76]で、子供が夜に狐を捕らえたところ、黒い影に打たれ、山の崖から落ち、足を傷つけたことがあり、みな狐が祟ったのだと言っていた。これは人の胆が怯え、目が眩んだもので、狐が祟ったのではないかもしれない。大体、突厥、回鶻以来、人々は弋猟を事としていたし、今日では辺地に流されている者、駐屯している者、開墾している者、塞を出て食を求めている者が、岩穴を捜し、捕らえることがもっとも多い。狐はつねに傷つけられ、長生きすることができないので、「久しくして魅となる」ことができないのだろうか。それとも遠く辺境に居り、人が導引煉形[77]の術を知らないので、狐も知らないのだろうか。このことから、風俗はかならず開けていなければならず、開けていなければ習うことがないこと、人情は習いに沿い、習わなければできないことが分かる。道家の化性起偽[78]の説は、無見識なものではない。姚安公が滇南の辺鄙な郡では、幽鬼も淳良だと言うのは、この理である。

  
  副都統[79]の劉公鑑[80]が言った。以前、伊犁にいたとき、扶乩をよくする者がいたが、その神はみずから唐の燕国公張説[81]であると称し、人と詩文を唱和し、記録したものは帙を成していた。酒を嗜んでいたので、乩壇に降るたびに、かならず紙銭を焚き、大白[82]を供えた。龍沙[83]葱雪[84]の地に、燕公がどうして来たのかは分からなかった。劉公はその数章を誦えたが、詞はことごとく浅陋で、ほとんど打油[85]釘ホ[86]の類であった。酷寒の地に客死した者の遊魂が帰ることなく、名を騙って食を求めたものか。

  
  同郷の張某は、陰険狡猾、ごく近い骨肉さえ、一つも真実の言葉を得られなかった。口舌は巧みで、多くは欺かれたので、人々は「禿項馬(はげたうま)」と号していた。馬は禿であれば(たてがみ)がなく、(ツォン(たてがみ))(ツォン(あしあと))は同音なので、かれが捉えどころがなく、変化して定まらず、足どりがつかめないことを言っていた。ある日、その父と夜歩きしていて路に迷ったが、畦を隔てたところに数人が車座になっていたので、呼んでどこへ向かうべきかと尋ねると、数人がみな応えた。「北に向かえ。」。すると深いぬかるみに陥った。さらにはるかに呼んで尋ねると、みな応えた。「東に回れ。」。ほとんど頭頂を没するに至った。泥道に難渋し、疲れて出られないでいると、数人が掌を打って笑った。「禿項馬、嘘をつけば人を誤ることが分かったか。」。耳元であったが、その姿は見えず、はじめて幽鬼に欺かれたことを知った。

  
  「(あやかし)が人によって起こる[87]」ことは、しばしばある。李雲挙[88]が言った。ある男はいたって臆病だったので、ある人がからかおうとした。かれのしもべは手が墨のように黒かったので、部屋に隠れさせ、ひそかに命じた。「あのひとと月下に坐しているとき、驚いて幽鬼がいると叫ぶから、おまえはすぐに窓の隙間から片手を伸ばせ。」。その時になって叫ぶと、にわかに片手が出てきたが、その大きさは箕のよう、五本の指はぴんとして舂杵[89]のようであった。主客はいずれも驚き、しもべたちは騒いだ。「これは本当の幽鬼ではございませんか。」。炬火を執り、杖を持って入ると、しもべは壁の角に昏倒しており、救うと意識を取りもどし、闇の中に(もののけ)がいたようです、息を吹きかけられましたので、すぐに意識を失いましたと言った。族叔[90]は言った。「二人の男がともに仏寺で勉強していたが、一人の男が燈下で縊鬼の姿をし、もう一人の前に立った。驚き恐れて気絶しそうになったので、いそいで呼んだ。『僕だ。恐れるな。』。その男は言った。『君であることはもちろん分かっているが、君の後ろにいるのは何物だ。』。振り向くと、本物の縊鬼であった。そもそも偽りが一たび萌せば、幽鬼は偽りの心で、すぐに応じるのだ。」。これも螳螂黄雀の喩え[91]とすることができる。

  
  わたしが八九歳の時、従舅実斎安公の家に居て、蘇丈東皋[92]が話すのを聞いたが、交河[93]の某知事が公金数千を横領し、その奴隷に持ちかえらせたそうである。奴隷は途中黄河で舟が転覆したと報告し、ひそかにその重台[94]に命じて持ち帰らせようとした。重台はさらにそれを盗んで北上し、兗州に行ったが、盗賊に掠奪殺害された。従舅は舌を巻いて言った。「恐ろしいことだ。これは人のしたことではなく、鬼神のしたことだ。そもそも鬼神は白昼に姿を現し、左に業鏡[95]を懸け、右に冥籍[96]を持ち、衆生を指揮し、六道に輪迴させ、その後に善悪の報いを見させる必要はない。これは森羅[97]の鉄榜と見なすに足りる[98]。」。蘇丈は言った。「金を盗まなければ、どうして奴隷に横取りされよう。奴隷が横取りしなければ、どうして重台が悪行に倣うに至ろう。重台が悪行に倣わなければ、どうして盗賊に殺害掠奪されるに至ろう。これはやはり人のしたことで、鬼神のしたことではない。公の言うことが正しければ、知事は報いを受けるべきだったので、奴隷に金を盗ませたことになる。奴隷は報いを受けるべきだったので、重台に悪行をまねさせたことになる。重台は報いを受けるべきだったので、盗賊に殺害掠奪させたことになる。鬼神がすでに報いさせたのだから、人がさらに報いるのは、本末顛倒ではないか。」。従舅は言った。「この公の無礙の弁才は、正論ではない。しかし公の説を残しておいても、附和雷同する人々の中で、自立することを勧めるに足りよう。」。

  
  劉乙斎廷尉[99]が御史であった時、西河沿[100]の邸宅を借りていた。すると、毎晩数人が(ひょうしぎ)を撃つ声がし、琅琅として暁に及び、その転更[101]の攢点[102]は、すべて譙鼓[103]に対応していた。見れば姿はなかったが、耳に喧しく、片刻も眠ることができなくなった。乙斎はもともと強情であったので、みずから一文(いちぶん)を撰し、罪を指摘し、大書して壁に貼り、追いはらうことにした。その晩は静かであった。乙斎は自分が(わに)を追いはらった昌黎に劣らないのかと訝った[104]。わたしは言った。「君は文才と人徳は、昌黎にまだ及ばないようだが、性格は剛く、気力は盛んで、平生疚しい事をせず、悍然として幽鬼を恐れていない。さらに窮迫してこの邸宅に移り、尽力しても引っ越せず、なすすべがなく、幽鬼と命がけで向かいあうばかりだ。これは君にとっては、『獣なほ闘ふ[105]』ということだ。幽鬼にとっては、『窮寇追ふなかれ[106]』ということだ。君は『太平広記[107]』に載せる、周書記が幽鬼と邸宅を争い、幽鬼がその強情であることを憚って去ったことを記憶していないのか。」。乙斎は笑ってわたしの背を撃つと言った。「魏収[108]のように軽薄だが、君はわたしを知る者だ。」。

  
  わたしが福建で督学していた時[109]、署内に筆捧楼があったが、それは左右を二つの浮図に挟まれていたからであった。使者[110]は下層に住み、その上層は複壁[111]が入り組んでいて[112]、正午でなければあまり物が見えなかった。昔から、山魈に占拠されており、独足反踵[113]の姿は見えなかったが、夜な夜な声がした。たまたま杜工部の「山精白日隠る[114]。」の句を思いだし、鬼魅はみな光を避けて闇に就き、密室に隠れねばならないので、この輩が潜むのだと悟った。そこで、塀をすべて取り去り、四方に明窓を開かせたところ、三山[115]の翠の(もや)が、そっくり目の前にあったので、額に「浮青閣」と題し、聯に「地(はる)かにして遮らず双眼闊し、窓虚しくしてただ許す万峰の窺ふを。」と題した。それからは、山は、役所の東南の隅にある会経堂に移った。堂はもともと荒れて久しかったし、人に害がなかったので、姿を隠すに任せた。これはひどいことではなかった。

  
  徐公景熹[116]が、福建塩道[117]の官職にあった時、署内に篋笥[118]があり、つねに火が中から起こったが、鍵はいつも通り掛かっているのであった。さらにある晩には、侍姫の髪をひそかに切り、ひどく祟った。その後、徐公は辞職帰郷することになったが、出発しないうちに亡くなった。山鬼は一年の事を知ることができたので[119]、かれが去ろうとするのに乗じ、ほしいままに辱めたのである。徐公が盛んであった時は、姿を隠していたが、衰弱の気が一たび至ると、故なく侵したのである。これが邪魅の邪魅たるゆえんか。

  
  わが郷里では、青い苗が野を蔽う頃、毎晩田の畦の中に(もののけ)が現れた。頭と足は分からず、とんぼ返りして進み、地をとんとんと搗いて杵のような音をたてた。農家は見慣れていたので怪しまず、青苗神だ、農家のために幽鬼をいつも追いはらってくれるのだと言っていた。この神が現れると、幽鬼たちはそれぞれの居所に帰り、野をさまよおうとしなかった。この神は古の書に載っていないが、確かに邪魅ではなかった。従兄の懋園[120]はかつて李家窪[121]でそれを見た。月の下でじっくり見ると、形は布嚢のよう、捲れて折れるたび、片側が地に着き、進むのはすこぶる遅かったという。

  
  亡き祖父寵予公[122]の本妻は陳太夫人といったが、はやくに亡くなっていた。後妻の張太夫人は、婚礼の日、ひとり部屋に坐していた。すると若い女が簾を掲げて入ってき、すぐに牀の傍らに坐したが、黒の帔[123]、黄の(うわぎ)、淡緑の裙を着け、挙止には大家の風があった。新婦は時候の挨拶をするわけにゆかなかったが、兄弟の嫁か、姉妹だろうと思った。その人はくどくどと家産の得失、下女の善悪を語ったが、ことごとく詳細周到であった。しばらくして、下女が茶を捧げて入ってくると、すぐに出ていった。数日後、家にその人がいないのを怪しみ、くわしくその服装について話したが、それは陳太夫人が納棺された時の服であった。死んでも嫉妬する話は、書物に多く見える。陳太夫人はすでに墓に埋められているのに、なおも新婦が家事を熟知しないことを慮り、現れて指示し、幽明を隔てなかったが、なんという心ばえであろうか。今、子孫は科挙に合格し、仕官を経験している者は、いずれも陳太夫人の産んだものである。

  
  伯高祖[124]の愛堂公[125]は、明末に学校で名声があり、鄭孔[126]の学に専心し、冬夏も間断なく、勉強すればつねに夜半に達していた。ある晩、夢みたところ、ある役所にいたったが、扁額に「文儀」とあった。中では十人ばかりが案牘を扱っていたが、いずれも旧知のようであった。公を見るとみな訝った。「君はあと七年あるから、帰るべきだ。今はまだ早い。」。突然目ざめると、自分が長くないことを悟り、日々方外と遊んだ。たまたま道士に遇い、話してすこぶるうちとけ、引きとめられてともに飲んだ。道士は別れた後、道でしもべの胡門徳に遇って言った。「さきほど書いたものですが、ご主人に差しあげるのを忘れましたので、お持ち帰りください。」。公が見ると、鬼神を祓ったり使ったりする符呪であった。戸を閉ざして学び、その術にすべて通じたので、しばしばそれを用いて芝居をし、歳月を過ごした。七年後、崇禎丁丑に至り、病で亡くなった。亡くなって半日するとまた蘇り、言った。「わたしは五雷法[127]をみだりに用いたため、冥罰に遭った。冥府はこの書を返すように求めているから、いそいで焚け。」。焚きおわると、また亡くなった。半日するとさらに蘇り、言った。「冥府の検査で、三頁が欠けていたので、帰って取るように命じた。」。見ると灰の中に本当に三頁が残っていたので、ふたたび焚くと、亡くなった。この事は、姚安公が家譜に附記しており、公は亡き曽祖から聞き、曽祖は亡き高祖から聞き、高祖は手ずからこの書を焚いた者であった。だれが鬼神はいないと言おうか。

  
  わたしの一族がいるところは景城といい、宋の旧県であり[128]、城址はまだかすかに見わけることができた。たまたま明け方に、はるかに煙霧の中を望むと、城の影が現れ、楼や(ひめがき)はくっきりとして、蜃気に似ていた。この事は他の書にも多く載せてあるが、その理は明らかでない。わたしは思う。およそ姿があるものには、かならず精気がある、土の厚い処は、地の精気が集まる処であり、これは人に魂魄があるようなものであると。この城は周囲が数里あり、その形は大きく、漢から宋まで千余年、精気が集まってすでに久しく、人が多くのものを吸収すると、その魂魄だけが強くなるようなものである。だからその姿は消えても、結ぼれた精気は、一日で蓄えたものでないため、一日で消せないのである。偶然を現し、城の形になるのは、まさに人が死んで幽鬼が残っており、幽鬼が人の姿になるようなものである。しかし古の城郭はすべて姿を現すわけではなく、姿を現すものも常に見えるわけではない。それはどうしてか。人が死ぬと、あるものは幽鬼になり、あるものは幽鬼にならない。幽鬼の存在が見えたり見えなかったりするのも、このようなことにすぎない。

  
  南宮[129]鮑敬之先生[130]が言った。その郷里に陳生というものがおり、神祠で勉強していた。夏の夜、裸になって回廊で眠り、夢みたところ、神が座前にかれを召し、たいへんはげしく責めた。陳は弁じた。「殿上でさきに行商数人が眠っていたため、回廊に避けましたのに、どうして罪を得たのでしょう。」。神は言った。「行商はよいが、おまえはだめだ。かれらは蠢蠢[131]として鹿か豚のようだから[132]、咎めるに足りないが、おまえは読書しているのに、礼を知らないのか。」。そもそも『春秋』は賢者を責めるが、その理由はこのようなものである。ゆえに、君子が世にいるときは、世俗に従える場合は従い、異を唱える必要はないが、世俗に従えない場合は従わず、付和雷同しないのである。世人は礼に悖る事に関して、ともすれば某某がしたことがあると言う。そもそも事の是非を論ぜず、事の有無を論じているのである。昔から、人がしなかったことはないのだから、それら一つ一つを言いわけにすることができようか。

  
  漁洋山人[133]は張巡[134]の妾が転世して命を求めたことを記しているが[135]、わたしはそうしたことがあったとは思わない。かれの言葉に「あなたは忠臣となりましたが、わたしは何の罪があって、殺されて兵士の食べものにされたのですか[136]。」とある。そもそも孤城が破れようとしていたとき、巡はすでに命を捨てることを決心していたが、巡は国に殉じるのだから、妾は主に殉じるべきでないのか。古来忠臣で節を守り、宗族を滅ぼされ、妻子を殺された者は、どのくらいいたか分からないのに、それぞれが命を求めれば、天地の間に綱常はなくなってしまう。かれらが命を求めることを許せば、天地の間には神の道もなくなってしまう。王経[137]の母は、笑みを含みながら、刃を受けたのに、この妾は何さまであろうか。これは妖鬼が祟り、古の事に託けて祭祀を求めたのかもしれない。あるいは明末の諸臣が、地位を惜しみ、生きながらえて、このことをでっちあげてみずからを弁護しているのかもしれない。儒者の著書は、風化を維持するべきであり、斉諧志怪も、理に悖る言葉を収めるべきでない

  
  族叔[138]が言った。景城の南では、日が出ようとする時にいつも(もののけ)が見られた。旋風を御して東へ馳せ、その身は見えなかったが、頭を抬げれば高さは一丈あまり、長い鬣は鬖鬖[139]として、何の(あやかし)なのか分からなかった。ある人が言った。「馮道の墓前の石馬が、歳を経て祟っているのだ。」。調べると、道の住んでいたところは、今、相国荘[140]といい、その妻の家は、今、夫人荘といい、いずれも景城と近かった。だから亡き高祖の詩に。「青史むなしく字数行を留め、書生つひにこれ侯王[141]に譲る。劉光伯[142]墓尋ぬる処なく、相国夫人はそれぞれ荘あり。」という。かれの墓を、県志はすでにはっきり示していない。北村の南に、石人窪[143]という土地があり、欠け損じた翁仲[144]が、なお残っていた。土人は道の墓としているから、言い伝えがあるかと思う。董空如[145]はかつて酔いに乗じて夜に歩いていたとき、その側で小便すると、突然陰風が逆巻き、沙礫が乱れ飛び、隠隠と怒る声がするかのようであったので、空如は怒鳴った。「長楽老[146]は頑鈍無恥だったのだから、七八百年を経て、どうしてまだ霊力があろう。これはきっと邪鬼がついているだけだ。ふたたび勝手なことをすれば、毎日きて小便を掛けてやる。」。そう言うと風は止んだ。

  
  南村の董天士[147]は、その名は分からないが、明末の諸生で、亡き高祖の老友であった。『花王閣剰稿』に、天士を哭する詩四首があり、こういう。「事事心を知るは古より難し、平生二老は対して相見る。飛び来る遺札[148]驚きて箸を投じ、哭して荒村に到り棺を蓋はんとす。残稿いまだ新しき画冊を収めず(天士は絵によって生計を立てていた。)、余資ただ破れたる儒冠を売るのみ。布衾[149]両幅納棺を妨げず、在りし日黔婁[150]寒きを恐れず。」。「五岳胸を填たし気平らかならず[151]、談鋒一たび触るれば便ち縦横。黄祖[152]に逢はざるはまことに天幸[153]、かつて怪しむ康のはなはだ世情[154]なるを。(まど)を開き時あれば月を迎へて入らしめ、藜を杖つきて到る処人を避けてゆく。塵海[155]語るに堪へざるべし、驂鸞[156]を試みて紫清[157]に向かふ。」。「百結の懸鶉[158]両鬢の霜、みづから氷雪を(くら)ひ空腸を潤す。一生ただ得たり秋冬の気、死に到るも知らず羅綺[159]の香(天士は娶っていなかった。)。寒ければ村醪を()りて[160]わづかに戒めを破り、老いて僧舎に棲むはこれ帰郷するなり。ただ今一瞑して余事なく、要せず青蝿の弔を()すことの忙はしきを[161]。」。「廿年相約し風塵を謝し、天地無情にしてこの人を()とす。乱世に逃禅[162]していささか解脱し、衰年友を哭してますます酸辛。関河[163]泱漭[164]として兵気[165]つらなり、歯髪滄浪[166]として病身に寄る。泉下に霊あらば我を思ふべし、白楊孤塚も神を傷ふ。」。天士の生平を、思いみることができる。県志はかれのために伝を立てていないが、亡き高祖の詩を見なかったのであろう。言い伝えでは、天士が歿した後、かれが驢馬に乗って泰山に上るのを見た人がいたが、呼んでも答えず、にわかに老樹に遮られ、見えなくなったという。あるいは屍解して登仙したか。そもそも顔がたまたま似ていたか。その孤僻の性質を考えると、仙人に近いようである。

  
  亡き高祖[167]の集に『快哉行』一篇があり、こういう。「一笑すれば天地驚く、この楽しみ古になし。平生飲を解せず、満引す[168]また一斗。老革[169]昔璫に媚び、正士みな首を砕かる。なんぞ知らん時勢の移り、人事反覆手[170]するを。当年金谷[171]の花、今日章台[172]の柳。巧みなるかな造物の心、この罰枷杻[173]に勝る。酒酣にして旧事を談じ、因果まことに偶然ならず。淋漓酔墨[174]を揮ひ、神鬼わが肘を運ぶ。姓名(かく)して書かず、いささか忠厚を存す[175]。時に皇帝十載[176]、太歳[177]丁丑に居り、恢台[178]仲夏[179]の月、その日は二十九、ともに見る者六人、題する者は河間叟なり。」。そもそも許顕純[180]の諸姫が青楼に流落したために作ったのであった。時に死を誓う者がいたが、夜に夢みたところ、顕純が血を浴びてやってきた。「わたしは死んでも罪を償えないので、天はおまえたちを用いて死後の罰を示しているのだ。おまえが従わないなら、わたしの罪はますます重くなる。」。諸姫はつねにこのことを挙げて客に告げたので、「因果まことに偶然ならず」の句があったのである。

  
  亡き四叔栗甫公が、ある日、河城[181]に行き、友を訪ねたところ、一騎が飛ぶように馳せて東北に向かい、にわかに柳の枝に掛かって落ちた。人々が走っていって見たところ、気絶していた。まもなく、一人の女が号泣しながらやってきて、言った。「姑が病気なのですが薬がありませんでしたので、一昼夜歩き、実家から衣装数着を借りてきました。ところが馬に乗った盗賊に奪われてしまいました。」。人々が馬から落ちた者を引いてきて見ると、すでに甦っていた。女は叫んだ。「まさにこの男です。」。包みは道端に擲たれていた。包みの中の衣装の数を尋ねると、馬から落ちた者は答えられなかった。婦の言うことは、開いて見るとすべて合っていた。馬から落ちた者は罪を認めた。人々は、白昼の強盗は、罪は絞首するべきなので、捕らえて役所に送ろうとしたが、馬から落ちた者は叩頭して命乞いし、懐中の数十両を、女に与えてみずからの罪を贖おうとした。女は姑の病が危うかったし、裁判に関わることを願わなかったので、その金を取って許して去らせた。叔父は言った。「果報は速いが、この事より速いものはない。思い及ぶたび、いたる処に鬼神がいると感じる。」。

  
  斉舜庭は、前に記した大盗斉大[182]の一族で、もっとも剽悍であった。縄を刀の柄に繋ぎ、擲って二三丈離れた人を傷つけることができ、仲間はかれを「飛刀」と称していた。その隣人は張七といったが、舜庭はもとよりかれを侮っており、むりやりかれの住居を買って厩を広げ、その仲間に命じて脅迫させた。「はやく引っ越さなければ、よくないことがすぐに起こるぞ。」。張はやむを得ず、妻女を連れてあたふたと出たが、どこにゆくべきか分からなかったので、神祠にいって祈った。「わたしは不幸にも大盗に脅迫され、窮迫して行く先がございません。つつしんで神前に杖を立て、示される方向に進みましょう。」。杖が倒れたので東北に向かい、ゆるゆると乞食しながら天津に至った。娘を塩焼き人夫に嫁がせ、かれを助けて製塩し、やや自活することができるようになった。三四年後、舜庭は、軍糧掠奪事件が発覚し、官兵に囲まれ、捕らえられそうになり、闇夜の風雨に乗じて逃れた。かれには、商船にいる仲間がいたので、身を寄せて海に浮かんで去ろうとしたのであった。昼に眠り、夜に進み、瓜や果物を盗んで食糧にしたが、さいわい気づく者はいなかった。ある晩、飢えと渇きに迫られ、はるかに望むと燈が熒然[183]としていたので、門を叩いてみた。すると、一人の若い女がしばらくかれを凝視し、にわかに叫んだ。「斉舜庭がこちらにいる。」。そもそも追捕の令状は、すでに天津に急送されており、懸賞が設けられ、捕縛が求められていた。男たちは声を聞くとみな集まったが、舜庭は手に寸刃もなかったので、おとなしく捕らえられた。若い女は張七の娘であった。もし七を脅迫してここに来させていなければ、舜庭は服を変えていたのだから、気づく人はなく、土地は港まで僅か数里だったのだから、帆を揚げて去っていたであろう。

  
  王蘭洲はかつて波止場で一人の童子を買ったが、年は十三四、たいへん秀麗で、字義をいささか知っていた。語るには、父が歿し、家が没落したので、母や兄とともに親戚に身を寄せようとしたが遇わず、舟に乗り、南へ還ろうとしたが、行李を質入れしつくしたので、身売りして旅費とするということであった。ともに語れば、恥じらって新婦のようであったので、怪しいと思っていた。就寝するときになると、服を弛め、横に臥した。王はもともと買って仕事に供するつもりで、他の考えはなかったが、宛転として近づいてこられると、我慢できなくなった。すると、童は枕に伏してひそかに泣いたので、尋ねた。「嫌なのか。」「はい。」「嫌なのにどうして先に近づいてきた。」「父は生前、若い奴隷数人を養っていましたが、枕席に進まぬものはいませんでした。来たばかりで、恥じらい、拒む者がいれば、鞭を加えて言っていました。『おまえを買ったのは何のためか考えろ。このように愚かだとは。奴隷が主人に仕えるときは、このようにするべきで、このようにしない時は、鞭うたれねばならないと知れ。』。ですから、みずからを捧げないわけにはゆかなかったのでございます。」。王はにわかに枕を推すと言った。「恐ろしいことだ。」。いそいで舟人を呼んで船を漕がせた。一晩で、かれの母と兄に追いつき、童子を還し、五十両を贈った。心は落ち着かなかったので、さらに愍忠寺[184]で仏を拝して懺悔したところ、伽藍[185]が夢に現れて語った。「おまえは過ちを犯したが、すぐに過ちを改めたので、冥府はまだ帳簿に記入していない。世尊に申しあげることはない。」。

  
  戈東長[186]先輩が翰林で役人をしていた時、その父の傅斎先生[187]は、市場で惨緑[188]の袍を買った。ある日、戸を閉ざして外出したが、帰ってくると鍵がなかったので、誤って牀の上に忘れたかと思い、窓を隔てて見ると、袍は挺然として人が立っているかのようにしており、驚いて叫ぶ声を聞くと倒れた[189]。人々は焚くことを相談した。劉嘯谷先輩[190]はその時ともに寓していたが、言った。「これはきっと死人の衣で、魂が附いただけだ。幽鬼は陰気なのだから、陽光を見れば散じる。」烈日の中に置き、くりかえし数日曝し、ふたたび屋中に置き、ひそかに窺えば、祟らなかった。さらに東長は頭がはやくから禿げ、つねにつけ毛を辮に繋げていた。役人を辞めようとした時、つけ毛はたちまちのび、くねくねとして蛇が尾を振っているかのようになった。まもなくすぐに帰田した。これも死人の髪が、衰運に感じて変幻したものである。

  
  徳清[191]の徐編修[192]開厚[193]も、壬戌の先輩であった[194]。入館[195]した当初、毎晩勉強していると、裏の空き家で書を読む声がし、琅琅として呼応した。誦えていることをじっくり聴くと、典雅な律賦[196]であった。戸を開けると見えなかった。ある晩、抜き足し、息を潜め、窺うと、一人の若者が、青の半臂[197]、藍の綾衫を着け、一巻を携え、月を背にして坐し、首を振り、吟詠し、余味があるかのようにしていた。祟る者のようではなく、その後も吉凶はなかった。唐の小説[198]に天狐超異科を載せるが、二つの策は、いずれも四言の韻語で、文はすこぶる奥妙である。この狐も受験した者かもしれない。これは戈東長先輩が語ったことで、戈と徐は同年の進士であった。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)の八蝋祠[199]の道士は、年は八十あまりであった。ある晩、銭七千を蓆の下に布き、その上に臥して死んだ。人々がこの銭で葬儀を営むことを相談していると、夜に工房の吏鄔玉麟の夢に現れて言った。「わたしはお上の廟を守っていたのだから[200]、棺はお上が支給するべきだ。銭はわたしが辛苦して蓄えたものだから、棺に納め、来生でわたしに使わせてくれ。」。玉麟は憐れんで言う通りにした。葬りおわると、太息して言った。「銭を棺に蓄え、曠野に埋めるのは、璵璠[201]を納棺するようなものだから、かならず骨を暴かれよう。」。わたしは言った。「銭で棺を買ったときさえ、夢に現れることができたのだから、棺を発いて奪えば、祟りをなすのは間違いない。七千銭のために、幽鬼と命を争うことはできない。きっと恙ないだろう。」。人々はみな[202]とした。しかし玉麟のいうことは正論である。

  
  辛卯[203]の春、わたしは烏魯木斉(ウルムチ)から帰った。巴里坤[204]に至ると、老僕の咸寧は、鞍に拠り、深い霧の中で眠り、人々とはぐれた。誤って野馬の蹄の跡に従って、荒れた山の中に入り、迷って出られなくなったので、かならず死ぬものと観念した。たまたま崖の下に屍が伏していたが、流人の逃竄凍死した者で、背に布袋を縛ってあり、食糧が入っていた。寧はそれによって飢えを充たし、祈った。「ご遺骸をお埋めしますから、霊力がおありでしたら、わたしの馬を導いてゆかれてください。」。屍を岩穴の中に移し、石を運んでしっかり塞いだ。ぼんやりと馬に任せて進み、十余日を越えると、にわかに路に辿りついた。山を出ると、哈密(ハミ)の地であった。哈密(ハミ)遊撃[205]の徐君は、烏魯木斉(ウルムチ)にいたときの旧友であったので、その役所に身を寄せてわたしを待った。わたしは二日遅れてようやく着き、会ったときは世を隔てていたかのようであった。この幽鬼に本当に霊力があり、導いて出したのか、あるいは神が一念の善良であったことにより、助けて出させたのか、偶然の僥倖によって出られたのか分からない。徐君は言った。「わたしはむしろ功を鬼神に帰し、死体を埋葬するものを励ましたい。」。

  
  董曲江先輩が言った。顧侠君[206]が『元詩選』を刻して完成させると、家にいた五六歳の童子が、たちまち手を挙げ、外を指して言った。「衣冠の者数百人が門に向かって跪拝しています。」。ああ。幽鬼も名誉を好むのか。わたしは埋没していたものを選別し、散逸したものを網羅し、表彰の力で、死者の光を発したのだから、かれらが九泉で感謝するのは、もとより理の当然であると思う。音信を通じ、生徒を呼び集め、よくない本を濫造し、たがいに優れているとしたことに関しては[207]、明の末期の品評にでたらめが多かったばかりでなく、月泉吟社[208]の諸人も、真率でないことを離れない恨みがある。そもそも党派を作る者は私心が多く、名声を争う者は排斥しあい、棺を蓋った後も、論が定まるのは難しい。まして詩酒に耽り、「我を(いざな)はば汝に和」していたのならなおさらである[209]。『昭明文選』は、何遜[210]によって選ばれたが、何遜の作品は一字も載せていない。古人の見識は深遠である。

  
  わたしの次女は長山[211]の袁氏に嫁ぎ[212]、住んでいるところは焦家橋[213]といった。今年、帰寧したが、語るには、住まいから二三里ばかりのところの、農家の娘が帰寧し、その父が夫の家に送りかえした。途中、墓林に入って小便し、しばらくすると出てきた。父はかれの姿態がやや異なっているのを怪しみ、その語る声を聴いても、同じでなかったので、ひそかに訝ったが、口に出さなかった。家に着いた後、その夫はひそかに父母に告げた。「新婦とはながいこと睦まじくしていましたが、今見ると胸騒ぎがしますのは、どうしてでしょうか。」。父母はかれが嘘を言っているといって叱り、むりに眠らせた。いるところは父母と壁一つを隔てていたが、夜に突然がたがたとひっくりかえる音が聞こえた。驚いて起き、こっそり聴くと、息子が大声で叫ぶのが聞こえた。家の人々が扉を破って入ると、黒い驢馬のような(もののけ)が、人を衝いて出、火光を噴きだし、一躍して消えた。その息子を見ると、血が残っているだけであった。夜が明け、その妻を探しにいったが、探しあてられなかったので、やはり食らわれたかと疑った。これは『太平広記』に載せる羅刹鬼の事[214]とまったく同じであるが、やはりこの幽鬼であろうか。これを見ると仏典がまったくでたらめではなく、小説稗官もすべて虚構に出ているのではないことがわかる。

  
  河間に女がおり、性格は放逸、容貌はたいへん醜悪であった。日々艶やかに装い、門に寄っていたが、顧みる者はいなかった。後にその夫は高葉飛に従って天長[215]で役人をし、たいへん信任された。権勢を借りて掠奪し、毎年大金を送ってきた。妻はその金を使って若者を誘い、門前は市のようであった。葉飛が譴責を受けると、その夫は逃れて帰ったが、懐中はすっかり空、器物も売り出されてほぼなくなり、一人の醜婦だけが残り、淫瘡[216]が全身にできているばかりであった。人はった。かれが大金を持たなければ、この妻は絶対に操を失うはずがなかった。これはまさに天意であると。

  
  伯祖の湛元公[217]、従伯の君章公[218]、従兄の旭升[219]は、三代すべて動悸、不眠によって亡くなった。旭升の子汝允も、この疾を患った。ある日、邸宅を修理したとき、大工は楼の角を見て笑った。「この中に物があります。」。壊せば磚が積まれて小さな龕のようになっており、一本の燈台があった。話では、この物は人を眠れなくすることができ、昔の左官屋の妖術だそうである。汝允はそれから癒えた。丁未[220]の春、従姪の汝倫[221]がわたしに話してくれた。これはどういうことであろうか。しかしこの物が壁の中に隠され、すぐに主人の生死を操ったことをみれば、宅に吉凶をもたらすことができるという、その言葉は信じるべきである。

  
  戴戸曹臨[222]は、書に巧みなので内廷に供奉していた。かつて夢みて冥府にゆき、一人の(したやく)に遇ったが、それは友人であった。引きとめてともに語り、たまたまその帳簿を掲げたところ、まさに自分の名が見え、名の下の朱筆の草書は、「犀」の字のようであった。(したやく)は奪って掩い、やや怒っているかのようにし、尋ねても答えなかった。たちまち恐れて目ざめたが、そのわけは推し量れなかった。たまたま裘文達公[223]に告げると、文達は沈思して言った。「それは冥土の簡便な帳簿で、部院の略節[224]のようなものだろう。『戸中』の二字は、つづけて書けばすこぶる「犀」の字に似るから、君は戸部郎中で終わろう。」。後に文達の言った通りになった。

  
  東光の霍易書[225]先生は、雍正甲辰、郷試に合格した。京師に逗留したが、合格しなかった。呂仙祠[226]で夢占いし、夢みたところ、神が詩を示して言った。「六瓣の梅花挿して頭に満ち、誰か肯へて死前に向かひて()まん[227]。君看よ矯矯[228]たる雲中の鶴の、飛びて三台[229]に上りて九秋を閲するを。」。雍正五年になり、はじめて帽頂の制が定められたが[230]、その銅盤は六瓣の梅花のようであったので、はじめて最初の句の意を悟った。仙鶴は一品の服で、三台は宰相の位だ、この句はすでに験があったのだから、末の二句もかならず験があろうとひそかに思った。後に中書舎人から奉天府尹に至り、罪に坐して軍臺[231]に流されたが、その地は葵蘇図[232]といい、本当に第三臺であった[233]。公文書は画数を省き、みな「臺」を「台」と書くので、たまたま詩の言葉に合っていたのであった。九年して帰った。塞外にいた時、みずから別号を雲中の鶴といったのは、詩中の語を用いていたのである。後に姚安公にこのことを述べた。姚安公は言った。「霍の字の上は雨かんむり、下は鶴の字の半分だから、まさに君の姓が隠されており、やはり根拠のない言葉ではない。」。先生は喟然として言った。「それだけではない。若年で気は盛んで、出世に逸り、卿相にすぐになれると思っていたが、結局挫折した。そんなわけで、第二句は神がわたしを戒めていたのだが、惜しむらくはその時は気づかなかった。」。

  
  古は亀で占い、孔子は『易』を繋辞傳を作り、蓍の恩恵を熱心に説き[234]、亀はだんだん廃せられ、『火珠林』[235]ははじめて銭を蓍に換えたが、なお六回擲つ煩わしさがあった。『霊棋経』[236]ははじめて一回擲って卦としたが、なお並べる煩わしさがあった。神祠の籤になり、一回引くだけで分かるので、さらに簡易となった。神祠にはおおむね籤があるが、関帝より霊験のあるものはない。関帝の籤は、正陽門の側の祠[237]より霊験のあるものはない。そもそも一年のうち、元旦から除夜まで、一日のうち、明け方から黄昏まで、筒を振る者はつねに琅琅然[238]としている。一つの筒だけでは対応できないので、幾つかの筒を置いている。繁多で紛紜[239]として、短い時間でさまざまなものがあり、検査する暇がないばかりでなく、想像することもできず、千手千目があっても、すべてには応じられない。しかし籤を得ると、すべて験があって直接話しているかのようであるのはなぜか。そのもっとも珍しいものは、乾隆壬申の郷試で、一人の南方の士人が三月朔日に斎戒沐浴して祈り、試験問題を示すことを乞い、一本の籤を得た[240]。「陰裡相見て爾曹(なんぢら)を怪しむ、舟中の敵国笑中の刀[241]。藩籬[242]剖破[243]してすべて事なし、一種天生羽毛を惜しむ。」。その試験の『孟子』の問題は、「曹交問ひて曰く。『人皆以て堯舜と為るべし』から『湯九尺』まで[244]。」で、最初の句に応じていた。『論語』の問題の、「夫子莞爾として笑ひて曰く。『鶏を割くにいづくんぞ牛刀を用ゐん。』。」は、第二句に応じていた。『中庸』の問題の、「ゆゑに天の物を生ずるや、かならずその材によりて篤くす[245]。」は、第四句に応じていた。まことに測りがたいことであった。

  
  孫虚船先生[246]が言った。その友人がかつて寒疾[247]を患い、ぼんやりとしていたところ、魂が飛びあがり、風に従って漂い、官署に至った。じっくり見ると、門内にいるのはすべて鬼神であったので、冥府だと悟った。人が側の門から入っていったので、ついていってみたが、怒鳴って制止する者はいなかった。さらに人々に従って回廊に坐しても、詰問する者はいなかった。堂上を盗み見ると、訴える者は織るかのようであった[248]。冥王は左手で帳簿を調べ、右手に筆を執っていたが、一言二言で決着する者もあり、数十言、数百言で決着する者もあり、人の世の刑曹[249]と少しも異ならなかった。鎖で縛って退廷させたが、みな従い、陰で文句を言うことはなかった。すると突然、先輩の某公が盛装して入ってきた。冥王がかれを坐らせ、何事を訴えるかと尋ねると、門生属吏が恩に負いたことを訴えた。挙げたのはおよそ数十人で、すこぶる怒っている様子であった。冥王はそうは思っていない顔色で、かれが語りおわると、拱手して言った。「この輩は競争排斥し、虚偽は万端だが、天道は昭昭としており、結局は冥罰に遭う。しかし、神が殺すのはよいが、公が責めるのはよくない。桃李を種える者はその実を得、蒺藜[250]を種える者はその(とげ)を得ることを、お聞きでないか[251]。公が評価していたのは、おおむね権力者に阿諛する輩で、権力者が去った後、道義によって責めるのは、氷を鑿って火を求めるようなものだ[252]。公は間違っている。人を咎める暇はない。」。某公はしばらく憮然とすると、逡巡して退いた。友人はもともとかれと知りあいだったので、近づいて尋ねようとすると、たちまち背後で叱咤する声が聞こえ、振り向くと、悚然としてすでに目ざめていた。

  
  董文恪公[253]の老僕王某は、性格は謙虚で、よく門番し、数十年間、一人にも逆らわず、王和尚とよばれていた。語るには、以前、文恪公に従って博将軍[254]の廃園に宿り、月夜に石に拠って涼んでいたところ、遠くから一人の男があたふたと逃げてきたのを、もう一人が遮って止め、その臂を執り、ともに樹の下に坐した。「おまえはとっくに天に昇ったと思っていたが、こちらで遇おうとは。」。そしてまず交際の厚かったことを述べ、次に事を任せたときに裏切ったことを責め、言った。「これこれの件では、わたしがすぐに欲しがっているのに乗じ、ことさらに言葉を険悪にしてわたしを脅し、どれほどの利益を騙し取ったのだ。これこれの事では事情をよく知らないわたしを欺き、金額を誇張してわたしを騙したが、横取りしたのはどれほどだ。」。数十件に関してこのようにし、一件ごとに一回相手の頬を打ち、怒気は湧きおこり、呑み噬ろうとするかのようであった。にわかに一人の老叟が草叢から出てきて、言った。「このものは今すでに餓鬼道に落ちているから、おまえが苛める必要はない。それに負債はかならず返るから、ひどく急ぐ必要もない。」。その男はいよいよ怒って言った。「すでに餓鬼なのだから、借りを返すすべはなかろう。」。老叟は言った。「業は満ちる時があり、借りは還す日がある。冥府は法律を定め、およそ貸した金は、来生で禄があれば償い、禄がなければ免れるが、それは力に限りがあるからだ。しかし脅し取ったり、騙し取ったりした金なら、万劫[255]を経ても、補填せねばならない。償う禄がないときは、六畜[256]となって償い、一世で償うに足りないなら、数世に分けて償う。今晩、董公が食べられた豚は、そのしもべ某の十一世の身ではないか。」。男は怒りがほぼ収まったかのようになり、手を放してそれぞれ散じた。老叟はかれが土神かと疑った。話にあったしもべを、王某は見たことがあったが、本当に計略に富んでいた。

  
  福建の曹藩司[257]縄柱[258]が言った。ある年、司道[259]が按察司で会議した。食事が出されていると、一人のしもべが子供を連れて堂下を通ったが、子供は驚き恐れて進まず、言った。「無数の怪しい幽鬼、いずれも身長一丈あまりのものが、肩で梁を支えています。」。人々は叫びを聞くと、はじめて外に出て尋ねようとしたが、承塵[260]の上に土が簌簌と落ち、音は豆を撒いているかのようであった。いそいで躍り出ると、棟が崩れて地に倒れた。みな額に手を当てて、鬼神が守ってくれたのだと言った。湖広の定制府[261][262]が、時に巡撫をしていたが、この事を話すのを聞くと、喟然として言った。「いたるところに鬼神がいて守護しているなら、きっといたるところに鬼神がいて監視しているのだろう。」。

 

最終更新日:20111229

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[1]新疆烏什直隸廳。

[2]未詳。

[3]http://baike.baidu.com/view/676722.html.tp=1_01

[4]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic8EZdicB2337138.htm仏地。仏教の称する西方極世界。

[5]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBCZdicA6118301.htm

金元以来、琵琶、三弦等弦用いて伴奏する曲、曲「絃索」という。一般には北曲を指す。

[6]未詳だが、物を移動させる法術であろう。

[7]卷十一 槐西雜志一「從姪虞惇、從兄懋園之子也。」

懋園:http://www.jixiaolan.com/jianshi.htm 

[8]地名であろうが未詳。巻三・十一・十三にもでてくる。。

[9]土地神。http://baike.baidu.com/view/188975.htm

[10]山東臨清直隸州

[11]槐西雜志三にも出。

[12]直隸河間府の県名。

[13]未詳。

[14]原文「路自上我屋」。未詳。とりあえずこう訳す。

[15]清乾隆六年辛丑科人、壬戍会副榜、官は惠安儒学教

http://unn.people.com.cn/GB/channel229/1645/3305/3308/200210/18/221396.html

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA3ZdicAC104261.htm「六壬」と「遁甲」の并称。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%A3%AC%E7%A5%9E%E8%AA%B2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E9%96%80%E9%81%81%E7%94%B2

[17]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E68799.htm占卜法。五音によって四方の占い、吉凶を定める。

[18]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5ZdicA8Zdic93333902.htm滔滔に同じ。

[19]http://baike.baidu.com/view/236828.htm

[20]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6Zdic91ZdicA9311889.htm

印度の摩登伽の淫女。梵遊民を指す。摩登伽女。

http://baike.baidu.com/view/797818.htm 

[21]http://baike.baidu.com/view/50407.htm 

[22]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicBE12760.htm

泥になずんだ柳絮は再びらないことから、心が静寂でけっして動かないことの喩え

[23]劉e。http://baike.baidu.com/view/413424.htm

[24]『清異』君道大体双「劉e昏角出、得波斯女、年破瓜、K腯而慧、善淫、曲尽其妙。e嬖之、号媚猪。延方士求健陽法、久乃得、多多益。好人交、選悪少年配以雛宮人、皆妖俊美健者、就後衣、使露而偶、e扶媚猪延行玩、号曰大体双。又新採異、与媚猪鳥獣見之熟、亦作合。」

[25]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBBZdic83236690.htm

呼吸めてめる

[26]文脈からして台湾であることは間違いないが、なぜ台湾をこう称するかは未詳。

[27]未詳。

[28]http://baike.baidu.com/view/203432.html

[29]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE6Zdic9CZdicAF120505.htm陽等の方る人。

[30]http://baike.baidu.com/view/196608.htm

[31]宋の人。淳熙の進士。著に『童渓易伝』。

[32]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicBFZdic83224444.htm九淵、王守仁代表とする宋明理学の流派、いわゆる良知の学。「明本心」、「致良知」を趣旨とし、宇宙の本原とする。

[33]http://baike.baidu.com/view/51818.htm

[34]http://baike.baidu.com/view/50912.htm

[35]http://baike.baidu.com/view/47033.htm

[36]http://baike.baidu.com/view/94667.htm

[37]管輅http://baike.baidu.com/view/564893.htm

郭璞http://baike.baidu.com/view/72826.htm

[38]京房http://baike.baidu.com/view/330750.htm

焦延寿http://baike.baidu.com/view/591099.htm

[39] 原文「見智見仁、理原一貫。」。「見智見仁」は同じ事物に異なる見解があることをいう。http://www.zdic.net/cd/ci//4/ZdicE8ZdicA7Zdic81339064.htm 

[40]『離騷·王逸註』「經、徑也。」。『釋名』「經、徑也。」。

http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE7ZdicBBZdic8F.htm

[41]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8Zdic83ZdicB6156100.htm乱れて寧らかでないこと。

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic89ZdicA829507.htm擬音語。雷や門が開く音。

[43]直隸河間府の県名。

[44][南金]。号は比庵。(千六百八十〜千七百二十四)http://www.jixiaolan.net/htm/jianshi.htm 

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic90247207.htm氏春秋·遇合』に出てくる、異臭を愛する人物。海辺に住んでいたという。

[46]http://baike.baidu.com/view/64502.htm

[47]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92294107.htm発熱。

[48]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicBFZdic8955787.htm音意兼三十三天。六欲天の一。仏教弥山四方にそれぞれ八天城があり、中央の居る天城と合わせて、三十三か所となるので、かくいう。一般にいう天堂のこと。

[49]山西太原府の県名。

[50]未詳。

[51]太原、汾州、潞安、州の四府および、沁、平定三州を管轄する道。治所は太原府。

http://baike.baidu.com/view/1922329.htm

[52]上虞の人。乾隆十年進士。

[53]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE9ZdicAAZdicA193130.htm馬が担ぐ

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%A8%BE%E8%BD%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[54]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE5ZdicA2ZdicA845019.htm印刷された合格答案。

[55]原文「箭在弦上、不得不發」。「乗りかかった船」ということ。

[56]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm形の藁屋。

[57] 巻十・十一・十三・二十一・二十四にもでてくる。

[58]http://baike.baidu.com/view/22405.htm

[59]北京と蘇州に同名の山があり、どちらか未詳。

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicB7Zdic91207235.htm道士が天に祈る用いる青藤に書いた願文。

[61]道教九天中の最も高いところをいう。

http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E326331.htm

[62]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%AD%B7%E6%8C%81%E5%AF%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[63]未詳。

[64]http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%81%B5%E8%8A%9D&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi霊芝。

[65]直隸天津府の県名。

[66]未詳。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332849.htm中丞は巡撫。

[67]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320512.htm霊芝草。

[68]未詳。

[69]http://baike.baidu.com/view/2772142.htm

[70]『清史稿』卷十四・乾隆四十九年「十一月乙丑、諭秋審、朝審各犯緩決至三次者、分別減等.壬申、睢州河工合龍.庚辰、命留保住為駐藏大臣、以福祿為西寧辦事大臣.」http://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E7%90%86%E8%97%A9%E9%99%A2%E5%B0%9A%E4%B9%A6%E5%88%97%E8%A1%A8 

[71]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicB8ZdicA353300.htm貴顕外出に随従したり、先払いする卒。

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic94319209.htm

「桔皋」とも。はねつるべ。

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%A1%94%E6%A7%94&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[73] 原文「西域火之幻人、自前漢已有」。火」は「火」。 『史記』卷一百二十三 大宛列傳第六十三注:正義顏云:「今刀、吐火、殖瓜、種樹、屠人、截馬之術皆是也.」 『漢書』卷六十一 張騫李廣利傳第三十一/張騫 注:「即今刀吐火、植瓜種樹、屠人截馬之術皆是也.本從西域來」。『清史稿』卷五百二十五 列傳三百十二 藩部八/西藏:「西藏喇嘛舊皆紅教、至宗喀巴始創教、得道西藏勒丹寺.時紅教本印度之習、娶妻生子、世襲法王、專指密咒、流極至以刀吐火R俗、盡失 戒定慧宗旨.」

[74]http://baike.baidu.com/view/93933.htm

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%B7%B4%E9%87%8C%E5%9D%A4&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[75]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E8%BE%9F%E5%B1%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[76]カザフスタン東部、 kokty

http://maps.google.com/maps?hl=zh-cn&q=Kokty,+%E9%98%BF%E6%8B%89%E6%9C%A8%E5%9B%BE%E5%B7%9E,+%E5%93%88%E8%90%A8%E5%85%8B%E6%96%AF%E5%9D%A6&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[77]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm道家自身の体を修することをいう。

[78]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic8CZdic9617934.htm先天的本性天的人こすことただ、これは『荀子·性』に出てくる言葉で、『閲微草堂筆記』がどうして「道家」といっているのかは未詳。

[79]都統は官名。八旗に設けられ、旗の最高官。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD292717.htm

[80]未詳。

[81]http://baike.baidu.com/view/119197.htm

[82]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA754268.htm大酒杯。

[83] http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic99344925.htm @

http://www.zdic.net/cd/ci//5/ZdicE7Zdic99ZdicBD6693.htm  http://baike.baidu.com/view/467442.htm 

[84]葱嶺、雪山の略。

http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/397647.htm&sa=U&ei=8YkeTf_AI4mwvgOwnP2fDg&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNGPbzGtf_7j_lFh7nEli831BqBpbg  http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9BZdicAA275179.htm B

[85]http://www.zdic.net/cd/ci//5/ZdicE6Zdic89Zdic9334274.htm 油搾り。ここでは張打油のこと。張打油は唐代の人で、通俗滑稽な詩を作ったことで有名。

  http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic89Zdic93147403.htm

[86]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic92Zdic89274443.htm「釘ホ」は磨き直し、碗つぎなど。ここでは、胡釘鞘を指す。唐の人。詩をよくした。

http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic83ZdicA1158641.htm 

[87] 原文「妖由人興」。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E5%A6%96%E7%94%B1%E4%BA%BA%E8%88%88 

[88]巻十四、十九、二十三にもでてくる。

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic88Zdic82232001.htm器の一。これで音の拍子をとる。

[90]未詳。

[91]http://baike.baidu.com/view/338889.htm『荘子·山木』『苑·正などに見える故事。

[92]蘇東皋は未詳。「丈」は「郷丈」で、同郷の年配者のことであろう。

http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB9ZdicA1244132.htm

[93]直隸河間府の県名。

[94]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic87Zdic8D126961.htm奴婢の奴婢。

[95]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A219993.htm天と地中で衆生善悪業を映す

[96]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic86ZdicA521589.htm冥土の籍簿。

[97]閻羅王のいる宮殿。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicA3ZdicAE295992.htm

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic93Zdic81277277.htm

「鉄榜」は「」とも。製の榜牌。姓名あるいは告げ文を刻むのに用いる。この文の趣旨は、重台が殺されたことは、冥府が罰を断固として示していると理解することができるということ。

[99]劉天成。四川大邑の人。乾隆十九年進士。

[100]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%A5%BF%E6%B2%B3%E6%B2%BF%E3%80%80%E5%8C%97%E4%BA%AC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[101]原文同じ。未詳。文脈からすると更の変化のことか。

[102]http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE6Zdic94Zdic92168526.htm

中の更漏は民より短く、中で五更になった後、民四更が終わっていた。中で五更が終わると、(ひょうしぎ)と太鼓が鳴らされ、始めて宮門かれるが、これを「点」と称した。俗に蟆更、六更、擂とも称した。

[103]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF255932.htm楼の更鼓。

http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF339891.htm楼は上の望楼。

http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9BZdicB416645.htm更鼓は夜の時報を告げる太鼓の音。

[104]http://baike.baidu.com/view/876199.htm韓愈に『鰐魚がある。潮州のを、この文を作って追いはらったという。

[105]『左·定公四年』「困猶闘、况人呼。」

[106] 原文「窮寇勿追」。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E7%AA%AE%E5%AF%87%E5%8B%BF%E8%BF%AB 『後漢書』皇甫嵩「按、下云、是迫歸眾、追窮寇也、明當作窮寇勿追、歸眾勿迫。司馬兵法之言。」

[107]卷第三百五十三周元樞。

[108]http://baike.baidu.com/view/121271.htm軽薄性格、「驚蝶」せられた

[109]乾隆二十七年 壬午 千七百六十二年 〜乾隆二十九年 甲申 千七百六十四年。http://www.jixiaolan.net/htm/nianbiao.htm 

[110]ここでは学使で、紀ホ自身のこと。

http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicADZdicA6130468.htm

[111]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA4Zdic8D245637.htm夹牆、二重で中空、物を藏したり人を匿したりできる。

[112]原文「其上層則複壁曲折」。「曲折」が未詳。とりあえずこう訳す。

[113]『広異·斑子』「山魈者、南所在有之、独足反踵、手足三歧。

[114]『陪鄭廣文遊何將軍山林十首(山林在韋曲西塔陂)』

[115] http://ap6.pccu.edu.tw/Encyclopedia/data.asp?id=3289&forepage=1 

[116]塘の人。乾隆四年士。乾隆十五年福州知府。

[117]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic90109797.htm法道。官名。一省の政を掌管する清代運使をけない各省に置された。

http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic90181045.htm

[118]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicAEZdicA7209439.htm物を藏する竹器。

[119] 原文「山鬼能知一」。  http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E5%B1%B1%E9%AC%BC%E5%9B%BA%E4%B8%8D%E9%81%8E%E7%9F%A5%E4%B8%80%E6%AD%B2%E4%BA%8B%E4%B9%9F 

[120]紀昭、字は懋園、号は悟軒。乾隆二十二年(千七百五十七年)進士。

[121]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9D%8E%E5%AE%B6%E7%AA%AA%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%8C%AE%E5%8E%BF%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E7%8C%AE%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[122]天申(千六百六十五〜千七百三十二)“天申、生公次子、字予、生、考職県丞。誥贈奉直大夫、四川司外郎、晋大夫、刑部江司郎中加三。累光禄大夫、兵部左侍郎、都察左都御史、礼部尚。……子三:容舒、容雅、容恂”。(『景城氏家·支』之四)http://www.jixiaolan.net/htm/jianshi.htm 

[123]http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E5%B8%94&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/71504.htm

[124]未詳だが、高祖父の兄であろう。

[125]未詳。

[126] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic91243241.htm 

[127] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic9492607.htm 

[128]景城は、宋代、河北路滄州の郡名。『宋史』卷八十六参照。

[129]直隸冀州直隸州の県名。

[130]未詳。

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE8ZdicA0ZdicA232435.htmないさま。多くて乱れたさま。愚昧無知のさま。思ないさま。

[132]原文「彼蠢蠢如鹿豕」。「鹿豕」は鹿と豚。愚かなものの喩え。

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicB9ZdicBF73288.htm

[133] http://baike.baidu.com/view/126097.htm http://baike.baidu.com/view/126685.htm 

[134] http://baike.baidu.com/view/2437.htm 

[135]『池北偶談』第二十四卷・張巡妾「徐藹、字吉人、會稽諸生。年二十五、得瘕疾、痛不可忍、年餘、瘕能作人言。瀕死時、見一白衣少婦問曰、君識張睢陽殺妾事乎。君前生為睢陽、吾即睢陽之妾也。君為忠臣、吾有何罪。殺之以饗士卒。吾尋君已十三世矣、君世為名臣、不能報復、今甫得雪吾恨。言訖、婦不見、藹亦隨逝。庚申在京師、其門人范思敬

[136]『新唐書』卷一百九十二・張巡「巡士多餓死、存者皆痍傷氣乏.巡出愛妾曰、諸君經年乏食、而忠義不少衰、吾恨不割肌以啖、寧惜一妾而坐視士飢。乃殺以大饗、坐者皆泣.巡彊令食之。」

[137]http://baike.baidu.com/view/202298.htm

[138]未詳。

[139]  http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE9ZdicACZdic9676422.htm @C

[140]http://maps.google.com/maps?hl=zh-cn&q=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E6%BB%84%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%BB%84%E7%B8%A3%E7%9B%B8%E5%9C%8B%E8%8E%8A%E6%9D%91&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[141]王侯。ここでは馮道。

[142]http://baike.baidu.com/view/408614.htm

[143]未詳。

[144]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicBFZdic81204617.htm像あるいは石像のこと。

[145]未詳。一巻にも出てくる。http://yuzhi68.web.fc2.com/yw01.htm#_edn109

[146]馮道(八百八十二年−九百五十四年)、字は可道、號は長樂老。

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E9%81%93

[147] 巻三に出てくる。

[148]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic97241949.htm遺書、死者が遺した札。

[149]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicB8Zdic8331047.htm布製の掛け布団。

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9ZdicBBZdic94299445.htm士の代称。

http://zh.wikisource.org/zh/%E9%AB%98%E5%A3%AB%E5%82%B3#.E9.BB.94.E5.A9.81.E5.85.88.E7.94.9F 

http://zh.wikisource.org/zh/%E5%88%97%E5%A5%B3%E5%82%B3/%E5%8D%B72#.E9.AD.AF.E9.BB.94.E5.A9.81.E5.A6.BB 

[151]原文「五嶽填胸氣不平」。

http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/647818.htm&sa=U&ei=BHkdTbLaD4SecOSQvLkK&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNEU38H-7sz-x8ZbVd44xWxjPBze_Q 

[152]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E9%25BB%2584%25E7%25A5%2596&sa=U&ei=3HwdTcuGCI7mvQO24tHNDQ&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNGkP152-feEHOd3-6I1p_POoUGV-g  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E8%A1%A1 江夏の太守。祢衡(禰衡)を殺した。

[153]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA987563.htm天のった幸。幸。

[154]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9616414.htm利。地位、財産等によって人への態度を変えること。

[155]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB0Zdic9832962.htm茫茫たる世。

[156]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicAAZdic9680870.htm仙人が鸞鳥して雲遊すること。

[157]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicB4ZdicAB237094.htm天上。神仙の居所。

[158]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic82ZdicAC285579.htm破れた衣服鶉衣。

[159] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBDZdic97197380.htm A

[160]つけ買いすること。

[161]原文「未要青蝿作弔忙」。http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic9DZdic92268795.htm作弔」は、死ねば青蝿ぐらいしか来てくれないということで、生きているとき知己が少なく、死んでも弔問客がないこと。

[162]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic80Zdic83246458.htm遁世参禅すること。

[163]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic85ZdicB3251046.htm山河川。

[164]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3ZdicB1985.htm広大のさま。

[165]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic85ZdicB581278.htm争の気。

[166]頭髪斑白であること。http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB2ZdicA7287628.htm

[167]紀坤。http://baike.baidu.com/view/211227.htm

[168]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicBBZdicA1154079.htmなみなみついで飲み干すこと。

[169]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic81192726.htm老兵。多くは罵語としている

[170]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic8FZdic8D308558.htm何度すこと化無常であること

[171]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic91261637.htm石崇いた金谷園。

[172]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicABZdicA0228682.htm安の歓楽街。http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicABZdicA0192748.htm  

[173]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic9EZdicB7135195.htm木枷と手枷。

[174]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9Zdic86Zdic89238247.htm醉っているときに作った画。

[175] 原文「姓名諱不書、聊以存忠厚。」。未詳。この『快哉行』は、後ろにあるように、「許顕純の諸姫が青楼に流落したために作った」ものなので、ここでは、その諸姫の名を示さず、いささか温情を示すということか。

[176]「皇帝」はここでは崇禎帝。崇禎十年は丁丑の年。

[177]未詳だが、ここでは「歳次」というほどの意味なのであろう。

[178]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic81ZdicA2180346.htm旺盛なさま。広大なさま。

[179]夏の第二月、暦の五月。http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE4ZdicBBZdicB24261.htm

[180]http://baike.baidu.com/view/1774120.htm明末の人。魏忠腹心。

[181]河北州市献河城街http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%8C%AE%E5%8E%BF%E6%B2%B3%E5%9F%8E%E8%A1%97%E4%B9%A1&gbv=2&gs_upl=1031l1031l0l1172l1l1l0l0l0l0l63l63l1l1l0&um=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=0x35e8cd99974f2621:0x69ebd8eddd9db4c9,%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%8C%AE%E5%8E%BF%E6%B2%B3%E5%9F%8E%E8%A1%97%E4%B9%A1&ei=4Kr7TsTNI6eSiAfXp-iPCA&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1&ved=0CBQQ8gEwAA 

[182]卷三に見える。http://yuzhi68.web.fc2.com/yw03.htm

[183]光が微弱なさま。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdicA7221154.htm 

[184]http://baike.baidu.com/view/152705.htm

http://baike.baidu.com/view/88342.htm

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%B3%95%E6%BA%90%E5%AF%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[185]http://baike.baidu.com/view/413420.htm。伽

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%BC%BD%E8%93%9D%E8%8F%A9%E8%90%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[186]未詳。後ろにも出てくる。徐開厚と同年。徐開厚は乾隆十年(千七百四十五)進士だが、乾隆十年の進士に戈東長の名はないので、郷試の同年であろう。

[187]未詳。

[188]色。http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83ZdicA8284115.htm

[189]主語は袍。

[190]劉炳。字は殿虎。任丘の人。乾隆七年進士。光緒九年『畿輔通志』巻二百三十五参照。

http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/Template:%25E4%25B9%25BE%25E9%259A%2586%25E5%258D%2581%25E4%25B8%2583%25E5%25B9%25B4%25E5%25A3%25AC%25E7%2594%25B3%25E6%2581%25A9%25E7%25A7%2591%25E6%25AE%25BF%25E8%25A9%25A6%25E9%2587%2591%25E6%25A6%259C&sa=U&ei=ZLD7TpKAOMnFmQX7j_2mAg&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNFgM0EUtN21_di7iWE7tkqLhizJhw 

[191]浙江湖州府の県名。

[192]編修は翰林院の属官で、位は修撰につぎ、修撰、検討とともに史官である。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm

[193]乾隆十年(千七百四十五)進士。

[194]原文「コ清徐編修開厚、亦壬戌前輩。」。「壬戌」は乾隆七年(千七百四十二年)。「亦」とあるのは、前の話に出てきた劉炳が乾隆七年進士だからであろう。ただ、徐開厚は、実際は乾隆十年進士なので、紀ホは記憶違いをしているのであろう。なお、紀ホが科挙に合格したのは乾隆十九年(千七百五十四年)なので、徐開厚を「前輩」というのである。

[195] http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicA59329.htmここでは翰林院に奉職すること。

[196]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicBEZdic8B293193.htm一定の格律のある体。その音韻は調い偶は巧みで、音律、押韻に格な則がある。唐宋以来科で採用された。

[197]短袖あるいは無袖の上衣。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8DZdic8A8865.htm

[198]『太平広記』卷第四百四十八に引く『乾』。

[199]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB6431.htm八つの神。諸説ある。

[200]原文「我守官廟」。未詳。とりあえずこう訳す。

[201]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic8EZdic99218125.htm美玉。

[202]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE5Zdic86Zdic81101648.htm&sa=U&ei=qrT7TuvOHa6XmQXw1tGwAg&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNGU7dG1I7XAUNkVSUmshiv6EHPQcQ 笑うさま

[203]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1771%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=-LT7TtHiG6yfmQXzj4ibAg&ved=0CCEQFjAB&usg=AFQjCNFCm4-kXQ3RkPP-GZ5epBeWGadQUA 

[204]前注参照。

[205]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicB8291008.htm&sa=U&ei=dbb7Tq_eFK7DmQWjx7y7Ag&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNE453pJ4YqQmNgjQZ5SzgZMMGkYGw 清代の武官名。従三品、参将につぐ

[206]http://baike.baidu.com/view/235906.htm

[207]原文「遞相神聖」。未詳。とりあえずこう

[208]http://baike.baidu.com/view/595149.html

[209]·鄭風』蘀兮「倡予和汝。」

[210]http://baike.baidu.com/view/125612.htm王應麟『玉海』巻五十四藝文せる『中興書目』原註には、『文選』昭明太子何遜劉孝綽選集したものとされている

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/simizu/2_4_4.htm

[211]山東濟南府の県名。

[212]次女の婿は袁煦。袁守の子。http://www.jixiaolan.com/jianshi.htm

[213]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1558898.htm&sa=U&ei=tbv7TsDdGsbxmAWR1KCcAg&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNGG-BEyVEs4vZYCeKswT0AE4nc33A  http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%84%A6%E6%A1%A5%E9%95%87&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=4219l4219l0l4469l1l1l0l0l0l0l156l156l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 焦家橋村という地名が今でもあり政府がおかれているようである。

[214]卷第三百六十一・妖怪三・泰州人「太定年中、泰州赤水店、有家荘。有一児、年二十余、日晏、于路上、一青衣女子独行、姿容殊之、云、欲到鄭県、待二婢未来、躇伺候。此児屈就荘宿、安置中、供酒食、将衣被同寝。久不、呼之不。于窗中之、惟有頭顱在、余并食。家人破入、于梁上暗一大、冲門飛出、或云是刹魅也。(出『朝野僉載』)をさすか

[215]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E5%25A4%25A9%25E9%2595%25BF%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=fM37TvOKN-nFmQXwoviPAg&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNGHZ86iOm2CaQ4I4UIzsPQVl_mm3Q 

[216] 未詳だが、語義、文脈からして梅毒の瘡であろう。

[217]紀天澄。後注参照。

[218]紀策。紀曉嵐文化叢書『紀曉嵐家族人物』十七頁「紀策。字君章。紀ト長子紀天澄之子、景城紀氏十三世祖。監生、考職県丞、生于康煕二十四年、卒于乾隆二年。」。

[219]紀暄。紀曉嵐文化叢書『紀曉嵐家族人物』十七頁「紀暄。字旭升、紀策之子、景城紀氏十四世祖。附監生、候選通判。生于康煕四十四年、卒于乾隆十二年。」

[220]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1787%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=9e37TsDEJMf6mAWcuNScAg&ved=0CB8QFjAB&usg=AFQjCNHnGvaMGEz2YucrSi4Cq0OMlmrSFg 

[221]『紀曉嵐家族人物』四十五頁「字虞惇、自謂南園居士、紀昭長子、景城紀氏十五世祖。乾隆三十三年舉人、官滿城縣教諭。生于乾隆三年、卒于嘉慶十二年。」紀昭は、紀ホの堂兄。

[222]字は監之。「戸曹」部郎中。

[223]http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[224]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic95ZdicA5190188.htm告。

[225]霍備。号は揖軒。雍正二年人、官は奉天府尹。

[226]未詳。北京の呂祖閣のことか。

http://baike.baidu.com/view/1660911.html.goodTagLemma

[227]未詳だが、人間は死ぬまで出世を諦めないという趣旨であろう。後ろに「第二句は神がわたしを戒めていたのだが」とあるのを参照。

[228]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic9FZdicAB190856.htm超凡脱俗のさま。

[229]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic898384.htm三公。中央の三つの最高官の合称。

http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic89323216.htm

[230]『清史稿』卷九・雍正五年「九月丙寅、定官員頂戴之制。」。

[231]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B237532.htm清が新疆、蒙古西北両路にけた郵駅軍報と文送を管した。

[232]未詳。

[233]原文「其地曰葵蘇圖、實第三臺也。」。未詳。清代の軍臺は、それぞれ番号が付けられていたようである。おそらく「葵蘇圖」は三番目の軍臺だったのであろう。http://hi.baidu.com/%C0%EB%C0%EB%B0%D3%C9%CF%B2%DD/blog/item/ff944f599f253389800a18de.html/cmtid/b24e52be459c0a0619d81f25

なお、上のサイトに魁素(奎斯)という地名が見られ、葵蘇圖とまったく同音なのだが、第五台である。

[234] 原文「孔子繫易、極言蓍コ」。『易·繫辞』蓍之コ、円而神。

[235]http://baike.baidu.com/view/1294311.html

[236]http://baike.baidu.com/view/527083.htm

[237]戴璐『藤陰雜記』卷五「漁洋《年譜》云:「正陽門關廟祈簽靈驗,余戊戌榜后,祈得:「君今庚甲未亨通,且向江頭作釣翁。玉兔重生應發跡,萬人 頭上逞英雄」。未其旨,后庚子司李揚州,甲辰升去。『江頭』,蓋指揚州。繼由郎改侍讀,乙卯升祭酒。 是年閏八月,餘生閏八月,『寶兔重生』 又驗。『萬人頭上』或官至一品之兆。」。

[238]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic90Zdic85321452.htm清朗、響くさま

[239]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicBAZdicB767733.htm多く盛んなさま。乱れているさま。

[240]以下の籤は、原文「陰裡相看怪爾曹、舟中敵國笑中刀。藩籬剖破渾無事、一種天生惜羽毛。」、『帝霊の第八十七で、現在でも用いられているようである。ただ、現在は一句目が「看怪」となっている。http://cm.k366.com/qian/guandi/guandijs86-90.htm

[241]原文「舟中敵國笑中刀」。http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE8Zdic88Zdic9F25507.htm舟中敵國」は、がみなになること。人々して、孤立する

http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicACZdic91193294.htm「笑中刀」やかで内心陰険人、あるいは有害しがたい事物ここでは、「」という言葉が、後ろにあるように、「夫子莞爾而曰、割雞焉用牛。」から問題が出ることの暗示になっている。

[242]http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE8Zdic97ZdicA965140.htm垣根。障碍。

[243]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic89Zdic96324127.htm壊すこと。この句、障碍を取り除けば、何事もないということであろう。

[244]『孟子』告子下「交問曰、人皆可以爲堯舜、有諸、孟子曰、然、交聞、文王十尺、湯九尺」。陰裡相見てなんぢらを怪しむ(陰裡相看怪爾)」という句が、『孟子』のこの部分から出題がなされることの暗示になっている。

[245]『禮記』中庸「故物、必因其材而篤焉。」注「材謂其質性也。篤厚也。言善者天厚其福、惡者天厚其毒、皆由其本而為之。」。「一種天生惜羽毛」という籤の言葉が試験問題の暗示になっている。

[246]孫灝。字黄、号虚船、虚川とも、塘の人、雍正八年士。

[247]寒さによって引き起こされる病。

http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92117857.htm

[248] 原文「者如。頻繁に往来するさま。

[249]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic88Zdic9127582.htm刑事を分管する官署あるいは属官。

[250]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic92ZdicBA77670.htm

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%92%BA%E8%97%9C&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[251] http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E8%92%BA%E8%97%9C%20%E6%A1%83%E6%9D%8E 

[252]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6Zdic95ZdicB2323058.htm

原文「是鑿冰而求火也。」。「鑿冰而求火」は絶対に成功しないことの喩え。

[253]http://baike.baidu.com/view/330971.htm

[254]未詳。

[255]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic87228851.htmきわめて長い時間。

[256]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312737.htm、牛、羊、、狗、豚。

[257]藩司は布政使。http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE8Zdic97ZdicA936839.htm

[258]字は介岩、江西新建の人。雍正八年の進士。

[259]清代、布政司・按察司・塩運司の三司と糧道をいう。

[260]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF34103.htm天井。

[261]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic88ZdicB628469.htm督。

[262] http://baike.baidu.com/view/1082957.html?fromTaglist#2 

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