第八巻

如是我聞二

  亡き叔父儀南公が言った。王某と曽某は、もともと仲が良かった。王は曽の妻を羨み、曽が盗賊に誣引[1]せられたのに乗じ、ひそかに吏に賄し、獄で殺させた。まさに媒妁を探していると、突然みずからを悔い、その計画を止めた。ため功徳をなして怨みを解こうとし、その後、念仏法をあるない知ることができず、曽の父母妻子を家に迎え、周到に世話し、このようにして数年が経った。その家産の半分を費やし、曽の父母は心がもとより安らかでなく、嫁を王に嫁がせようとしたが、王は固辞し、ますますねんごろに世話した。さらに数年して、曽の母が病むと、王は湯薬に侍し、衣帯を解かなかったので、曽の母は臨終の時に言った。「ながらく厚い恩を蒙りましたが、来世でどのようにしてお報いしましょう。」。王は叩頭して血を流し、くわしく事実を述べ、冥府で曽に会ったらとりなしするように頼んだ。母は気前よく承諾し、曽の父も手ずから手紙を書き、曽の母の袖に納めて言った。「死んで倅に会ったら、これを渡せ。また怨んだら、黄泉で会うことはない。」。後に王は曽の母のために葬儀を営み、監督して疲れ、(はかあな)の側で仮眠していたところ、突然耳元で大声で話すのが聞こえた。「怨みは解けた。あなたには一人娘さんがいますが、お忘れですか。」。タ然として目ざめた。娘をかれの子と婚約させ、後に天寿を全うできた。かならず解けない怨みを、解くことができない情で感動させるとは、まことに狡猾な人であった。しかしこのような怨みも解けることがあり、解けない怨みはないことが分かる。やはり罪を悔いる者を励ますに足りる。

  
  従兄の旭升が言った。乞食女がおり、その姑にたいへん孝行にしていた。かつて飢えて路で倒れたが、一つの盂飯を手にして放そうとせず、言った。「姑が食べていません。」。みずから言うには、姑に従って乞食していた当初は、指図に従っていただけであった。ある日、いっしょに古廟に泊まっていると、夜に殿上で声を荒げて語るのが聞こえた。「おまえはどうして孝婦を避けず、陰気を受けて寒熱を起こさせた。」。一人が称した。「手に急檄[2]を捧げておりましたので、すぐには見られなかったのでございます。」。さらに叱責するのが聞こえた。「忠臣孝子は、頭上に数尺の神光[3]が輝いているが、おまえは(めくら)ではないか。」。にわかに鞭うって叫ぶ声が聞こえ、しばらくすると静まった。翌日、村にゆくと、一人の婦人が田に食事を運んでいて、旋風に吹かれ、頭痛を患ったことを聞いた。その行いを尋ねると、孝と称せられていた。それから感動し、姑に仕えてつねに行き届かないことを恐れた。

  
  旭升はさらに言った。県吏の李懋華は、かつて仕事で張家口にいった。居庸関の外で、夜、道に迷ったので、しばらく山の畔の神祠で休んだ。するとにわかに燈光が輝き、はるかに見ると車騎が雑踏し、祠の門に来ようとしていたので、神霊だと思い、廡下に伏して隠れていた。見ると数人の顕官が並んで祠に入り、左側に坐しているのは城隍のようであったが、中の四五座は何の神か分からなかった。数人の吏が帳簿を抱え、案の上に並べると、逐一調べて見た。ひそかにかれらの言葉を聴くと、一郡の善悪を調べていた。ある神が言った。「某女は親に事えて礼を失していないが、上辺は行き届いていても心は行き届いておらず、某女も舅姑の歓心を得られているが、退くと夫に怨み言を言っていた。」。ある神は言った。「風俗は日々軽薄となっているから、神はやはり人に善いことをしてやろう[4]。陰律では孝婦は一紀を延ばすが、この二婦は半分を減じてよい。」。みな言った。「よし。」。突然、ある神がさらに言った。「某女は至孝で至淫ですが、どうしましょう。」。ある神が言った。「陽律では淫罪を犯せば杖刑にすぎないが、不孝ならば誅するべきだ、不孝の罪は淫より重い。不孝の罪は重いが、孝行できる者は福も重い、軽い罪は重い福を削られないから、淫を捨ててその孝を論ずるべきだ。」。ある神は言った。「世話するのは、孝の小さいもので、行いが良くなく親を辱めるのは、不孝の大きなものだ。小さい孝は大きな不孝を贖うことは難しいから、孝を捨てかれの淫を咎めるべきだ。」。ある神は言った。「孝は大きな徳だが、他の悪で掩われるものではなく、淫は大きな罪だが、他の善で贖えるものではない。罪福はそれぞれ報いを受けるべきだ。」。側に坐している者は罄折して頼んだ。「罪福は相殺してよいか。」。神は首を振って言った。「淫によって孝の福を削れば、人は孝に福がないかと疑い、孝によって淫の罪を免ずれば、人は淫に罪がないかと疑うから、相殺することはできないだろう。」。ある神は坐を隔てて言った。「孝のために、至淫であっても罪を加えなければ、人はますます孝を知るではないか。淫のために、孝でありながら福を得なければ、人はますます淫を戒めるではないか。相殺するのがよい。」。ある神はしばらく沈思すると言った。「この件は意見の違いがすこぶる大きいから、天曹[5]に指示を請うのがよい。」。そう言うとみな起ち、それぞれ車を仕立てて散じた。李はもとより老吏で案牘に慣れていたので、ひそかにその言葉を記し、くりかえし考えたが決することができなかった。天曹がどんな判断をしたかは分からなかった。

  
  董曲江が言った。隣県のある寡婦は、夏の夜に盗賊に窓を撬じあけて入られ、夜眠っていたのに乗じて辱められ、目ざめて驚き叫ぶと、逃げた。怒って病死したが、賊の頭の名は分からなかった。四年あまり後、突然村民の李十が雷に撃たれて死んだ。一婦が合掌念仏して言った。「某女の怨みは雪がれました。かれが救いを求めた時に、わたしはこの目で李十が塀から躍り出るのを見ましたが、かれが凶暴なのを恐れて言おうとしなかったのです。」。

  
  西城の将軍教場[6]の一宅は、周蘭坡学士[7]の旧宅であった。夜に人が楼上で吟ずる声を聞いたが、狐だと分かっていたので、訝らなかった。蘭坡が家を移すと、狐もよそに移った。後に田白岩[8]が仮住まいして数ヶ月すると、狐はまた帰ってきた。白岩は酒と脯で祭り、几で祝詞を述べて言った。「聞けば蝸廬(わがや)には、かつて鶴馭[9]が停まられたとか。さらに聞けば飄然と遠く去り、桑下の浮図のようであったとか[10]鄙人(わたし)は辞職した役人で[11]、漂泊すること十年、窮迫し、借財し、この住居を卜しました。数夜来、咳と笑いがかすかに聞こえ、仙輿がふたたび帰ってこられたようでした。鄙人(わたし)は徳が薄いので、犯されたのでございましょうか。そもそも夙に因縁があり、ここに来てご一緒したのでございましょうか。ご来訪を受けたからには、嘉賓を拒もうとはいたしません。願わくはそれぞれ家を守り、幽明の路を異にされますことを。(ねが)わくはみな安寧に帰し、異苔同岑[12]を損なうことのございませぬことを。つつしんで腹心[13]()べました。伏してご照覧を願います[14]。」。翌日、楼の前に一枚の(かみきれ)が飄りながら落ちてきてこうあった。「わたしは異類ですが、すこぶる詩書を好んでいます。雅客は俗客と伍しようとしません。この邸宅は数十年来、ずっと文人が住み、平素の好みを満足していましたので、一族を連れて安住していました。蘭坡先生が冷たくわたしを捨ててから、その後に住んだ者は、目で見れば駔儈[15]の容貌に堪えず、耳で聴けば歌吹の音に堪えず、鼻で嗅げば酒肉の(におい)に堪えませんでした。どうしようもなく、山林に姿を隠しました。今、聞けば先生は山姜さま[16]の末子でいらっしゃり、文章はかならず深みがございましょうから、お姿を見て、身を寄せてきたのでございます。ご迷惑をお掛けするものではございません。これからは、書物を閲して獺祭したり、芸籤(うんせん)[17]を動かしたり、筆を借りて鴉塗[18]したり、(すずり)[19]を磨ったりいたします。この外にすこしでもご無礼がございましたら、先生が神さまに訴えるのに任せましょう。どうか清襟(おこころ)[20]を広くされ、疑われないでください。」。末尾に「康黙頓首頓首」と題してあった。それから音は聞こえなかった。白岩はかつてこの(かみきれ)を客に示したが、文章は薄墨で、匆匆として書いたようであった。ある人が言った。「白岩は微官に身を置き、滑稽で世を弄んでいるので、これを作って詼嘲[21]を寄せているのだ。十分の九は寓言だ。」。そうかもしれない。そしてこれは李慶子が狐叟に遇った事[22]と大旨似ているが、俗な人と雅な(あやかし)が、一時に何度も会うはずがない。さらにともに山左に出ているのだが、李が田の事によって附会したのか、田が李の事によって演繹したのか、いずれも知ることができない。珍聞に、ひとまず世を諷する意を存しているのである。

  
  ある旧家の子が、奢侈のために法網に罹った。歿後数年して、親戚の中に仙を召した者がいたが、突然、乩に憑いてみずから姓名を語り、後悔していることを述べた。その後、さらにこう書いた。「家訓はほんとうは厳しかったが、わたしが禍に罹ったのは、太夫人[23]に溺愛されすぎたために、驕恣の性質を養い、井に陥って悟らなかったからだ[24]。わたしは太夫人を怨まないが、わたしは過去生の中で太夫人の命に負いたため、今、愛されることによって殺され、その怨みを消されたのだ。因果が纏いついており、偶然ではないのだ。」。見ていた者はみなそのために太息した。そもそも怨みを償うために不孝者となることは、昔からあるが、怨みを償うために慈母となることは、典籍に見えない。しかしかれの言うことに拠れば、たしかに理に適っていた。

  
  宛平の何華峰[25]は、官が宝慶[26]の同知[27]であった時、山を歩いて疲れ、水辺の草庵を望み、投じてしばらく休んだ。榜に「孤松庵」とあり、門聯に「白鳥多情にしてわれを留めて住ましめ、青山語らずして人を見ること忙し。」とあった。老僧が門で応対して招き入れ、茶を出せば、すこぶる香わしく清らかであったが、老僧は落落[28]として客をもてなす態度ではなかった。三間の部屋も、たいへん質樸高雅で、中には仏画一軸を懸け、八分[29]の書でこう題してあった。「半夜鐘磬寂しく、満庭風露清し。琉璃青黯黯として、静かに対す古先生[30]。」。姓名を記さず、印章も模糊として判読できなかった。傍らの一聯にこうあった。「花幽にして蝶を(まね)くを防ぎ、雲懶くして風に従ふに怯ゆ。」。やはり落款はなかった。指さして「これは師がみずから題されたのですか。」と尋ねると、あいまいにして応えず、手で指すばかりであった。帰途ふたたびその地を過ぎれば、波光嵐影[31]、四顧すれば蕭然として、以前の庵を見なかった。従者が煙筒(きせる)[32]一本を遺したのを記憶していたので、探すと、まだ老柏の下にあった。仏祖か鬼魅かは分からなかった。華峰には『仏光示現巻』という絵があり、みずから顛末を記すことたいへん詳しかった。華峰の歿後、雲や煙のように跡形もなくなっていることであろう。

  
  族兄の次辰が言った。かれの同年で康熙甲午の孝廉某は、かつて嵩山[33]に遊んだが、見ると娘が溪の水を汲み、飲み物を求めてみると、欣然と一瓢を施し、路を尋ねてみても、欣然と指し示した。そこでともに樹の下に坐して語った。すこぶる翰墨を渉猟しているかのようで、田家の娘らしくなかったので、狐魅かと疑ったが、その秀麗さを愛し、うちとけた。娘は突然衣を振るって起つと言った。「剣呑、剣呑、失敗するところでした。」。怪しんで質すと、赧然[34]として言った。「わたしは師に従い、道を学んで百余年、みずから思うにこの心は止水のよう。師は言った。『おまえは妄念を起こさないことができるだけで、妄念はもとより持っている。欲すべきものを見なければ乱れず、見れば乱れる。平沙は万頃で、中に一粒の草の種を留めると、雨が降ればすぐに芽ぶく。おまえには魔障[35]が至ろうとしている。明日試してみればおのずとわかろう。』。今ほんとうにあなたにお遇いしました。問答して離れなかったのは、かすかに一念を動かしたものですし、さらにしばらくすれば、みずからを保てなくなるところでした。剣呑、剣呑、失敗しそうになりました。」。身を躍らし、ただちに木の杪に登り、たちまち飛ぶ鳥のようにして去った。

  
  次辰はさらに言った。族祖の徴君[36]公諱はQは、康熙己未の博学鴻詞に挙げられたが[37]、天性疏放であったので、遊覧を妨げることを恐れ、病と称して受験しなかった。かつて登州にいって蜃気楼を見、ある村塾を訪ね、しばし休んだ。見ると(つくえ)の上に旧い端硯があり、背に狂草十六字が刻せられていた。「万木蕭森として、路古く山深し。われはその間に坐し、上堵吟[38]を書く。」。側には「惜哉此叟」の四字が書かれていたが、かれの号であった。由来を尋ねると、塾師は言った。「村の南の林に悪鬼がおり、夜行く者は遇うとかならず病んでいた。ある日、人々はかれが出るのを伺い、その杖を持って撃ち、ある墓に追ってゆくと消えた。そこでともに発掘すると、墓の中からこの硯を得たので、わたしは粟一斗と易えた。」。按ずるに上堵吟とは孟達の作であるから[39]、きっと勝国[40]の旧臣で、降ってまた叛し、敗れて山林に隠れて死んだ者であろう。生きていたときすでに進退拠りどころがなく、歿すればみずからを隠さず、骨を曝される禍を招いたのである。まことに頑迷で霊力のない幽鬼である。

  
  海に夜叉がいるのは、山に山魈がいるようなものだが、幽鬼でもなく、妖魅でもなく、もとより別の種類で、人間と動物の間に介在しているものである。劉石庵参知[41]は言った。諸城の海に瀕した処には、小屋を構えて魚を捕らえている者がいた。ある日、人々がみな舟を漕いで出ると、夜叉がその小屋に入り、その酒を盗み飲みして一罌を尽くし、酔って臥し、人々に捕らえられ、縛られ撃たれたが、すこしも霊異はなく、倒れて死んだ。

  
  族姪貽孫が言った。昔、潼関で、ある宿駅に泊まったところ、月影が窓に満ちていた。二人の男の影が窓に見えたので、盗賊かと疑ったが、よく見れば腰は纖弱で、鬟髻[42]で、さながら一人の娘が一人の下女を連れているかのようであった。紙に穴を開けてひそかに見ると、その姿は見えなかったので、妖魅であることが分かった、佩刀で櫺を隔てて斬ると、黒い煙が二筋、音は鏑矢のように、棟を越えて去った。その翌晩、また来るのを嫌に思い、しもべに命じ、鳥銃を借りて待たせた。夜半にはたしてまた影を見たが、二虎が向かいあって蹲っていたので、しもべと銃を発射して一斉に撃つと、すぐに消え、それからふたたび来なかった。もともと浮遊する魂で、形質がなく、陽光[43]が光り輝いているため、消散して集まれなかったかと疑った。

  
  献県の王生相御[44]は、一子を生んだが、抱く者がいると、かならず空中から数十銭が擲たれるのであった。知県の楊某が見にゆくと、銀五粒が擲たれた。その子はまもなく夭死したが、ほかに変わったことはなかった。ある人が言った。「王生は手品する者に頼んで搬運[45]させ、それによって金を集めようとしたのだ[46]。」。ある人が言った。「狐の仕業だ。」。どちらかは分からなかった。しかし官職にある者はこれらの事に遇えば、確かに幽鬼が憑いていても、禁止して、民を惑わさせぬようにするべきで、真偽を論ずることはない。

  
  李又先生[47]が言った。雍正末年、東光城内でのこと、ある晩、家家で、潮の湧くように、犬の吠える声がしたので、みな驚いて外に出て見た。月の下に一人の男がおり、ざんばら髪は腰に達し、蓑衣麻帯で、手に巨きな袋を執っていた。袋の中では千百の鵝と鴨の声がしていた。男は人家の棟にすっくと立ち、しばらくするとさらに別の家に移った。翌日、立った処には、すべて鵝と鴨二三羽が簷から擲たれた。ある人が煮て食べたが、普通に飼われているものと味は異ならず、何の(あやかし)なのか分からなかった。後に鵝と鴨を得た家では、みな人が死んだので、凶がたまたま現れたことが分かった。亡き外舅[48]馬公周籙[49]の家では、その夜も二羽の鴨を得、その年その弟の靖逆同知[50]庚長公が亡くなり、又先生の言葉が偽りではなかったことを信じた。しかし古から今まで、死ぬ者は恒河沙の数なのに、どうしてその夜にだけ兆しを示したのか。その夜の中、どうしてひとり数軒に兆しを示したのか。その兆しを示す時はいずれも鵝鴨を擲ったが、これもどういう意味であろうか。鬼神のことは、知ることができることもあれば知ることができないこともあるので、保留して論じなくてよい。

  
  道士の王崑霞[51]が言った。昔、嘉禾[52]に遊び、新秋で爽やかだったので、湖畔を散歩したところ、人からやや遠ざかった。たまたま役人の家の廃園があったが、叢篁老木には、寂然として人跡がなかったので、その間を徘徊し、しらぬまに昼寝した。夢みると古の衣冠の人が長揖して言った。「寂しく荒れた林で、嘉賓に逢うことは稀です。君子を見たからには、本当に平素の思いを慰められます。どうか異物だからといって排斥なさいませぬように。」。心の中で鬼神だと悟り、由来を質した。すると言った。「わたしは耒陽[53]の張G[54]で、元末にこちらに流寓し、歿して異郷に葬られましたが、その風土を愛し、帰郷しようと思いませんでした。園林はおよそ十余たび主を易えましたが、留まって去れないのです。」「人はみな死を恐れ、生を楽しむが、あなたはどうしてひとり鬼趣[55]にぐずぐずしている。」「死生は異なりますが、性霊は改まっていませんし、境界も改まっていません。山川風月は、人間も見、幽鬼も見、登臨吟詠することは、人間にもあり、幽鬼にもあります。幽鬼はどうして人に及ばないでしょう。それに幽深険阻の勝地に、人は来ませんが、幽鬼は魂で遊ぶことができ、蕭寥清絶の景を、人は見ませんが、幽鬼は夜に賞でられます。人は生前でさえ幽鬼に及びません。死を恐れて生を楽しむ者は、嗜欲によって心を乱し、妻孥に恋恋とし、一旦捨てて冥漠[56]に入るときは、高官が官を辞めるかのよう、林泉に隠居するときは、いきおい悲しまざるを得ません。かれらは、林泉に住み、田を耕し、井戸を掘り、恬然としていれば、心に悲しみがないことを知らないのです。」「六道輪迴は、事を主る者があるから、どうして自由を得られよう。」「生を求める者は官を求めるかのようなもので、人の命ずることに従います。生を求めない者は名声を逃れるかのようなもので、自らのすることに従います。もし生を求めなければ、(こころ)は強くなりません[57]。」。さらに尋ねた。「遠くに思いを寄せているなら、吟詠はかならず多いことでしょう。」「興が至れば、一聯一句を得ることもありますが、結局篇をなさず、境が過ぎればすぐに忘れますが、さらに追いもとめもしません。たまたま記憶していて高賢に質せるのは、三五章だけです。」。そこで朗詠した。「残照空山を下り、溟色[58]蒼然として合す。」。昆霞は賞賛した。さらに吟じたが、「黄葉…。」の二字を得るとすぐに、突然騒ぎ叫ぶ声が聞こえたので、にわかに目ざめた。漁船が(かじ)を打って呼んでいたのであった。ふたたび杖によって瞑坐し、また夢を見なかった。

  
  霞はさらに言った。その師は六壬[59]に通暁していたが、人のために占わなかった。昆霞は童子であった時、ある朝、小さな書札を渡すと言った。「これを持ち、某家に行き、書を借りろ。かならず申の刻にゆけ。刻限に先んじても刻限に遅れてもおまえを鞭うつ。」。去ること七八十里、かろうじて到着すると、某家の兄弟が争っていた。その書札を開いて見ると、小さい字が一行だけ書いてあった。「『晋書・王祥[60]伝』を借りて一閲せよ。」。兄弟は顧みて黙然とし、闘いは解けた。そもそもその弟はまさに継母が生んだものであった。

  
  嘉峪関外に戈壁(ゴビ)があり、直径百二十里は、すべて積沙で寸土さえなかった。真ん中だけは巨きな(おか)で、天生といい、戍卒が守り、冬は氷を積み、夏は水を貯え、駅使の往来に供していた。はじめ威信公岳公鍾h[61]が西征した時、この(こやま)がもともとは土の山で、飛沙に没したため、わずかにその頂を現しているのかと疑った。山があればかならず水があるので、戍卒を送って掘鑿させ、穿つこと数十丈に達すると、突然、を持つ者たちがみな落ちた。穴の上にいた者が俯いて耳を澄ますと、雷鳴のような風の音が聞こえたので、工事をやめた。穴は今すでに崩れている。わたしが塞を出る時、ぼんやりとまだその遺跡が見られた。案ずるに、仏氏に地水風火穴の説がある[62]。聞けば陝西に改葬した者がいたが、穴を開いた時、棺はすでに半ばが焦げていたという。茹千総大業[63]はみずからそれを見たが、いずれも地火に焼かれたのである。さらに、献県の劉氏の母が亡くなり、合葬墓を開いたところ、その父の棺が見あたらなかったので、探すと、七八歩離れたところにあり、地中に逆さまになっていた。亡き姚安公はみずからそれを見た。彭芸楣[64]参知も言った。その郷里に改葬した者がいたが、棺の中の骨は、一隅に集まり、積んだ薪のようであった。そもそも地風に吹かれたのであった。大気は地中を巡り、陰気は水に化し、陽気は風に化し、火に化することが分かる。水土はともに陰類であり、一つの気から生じたもので、あらゆるところにある。陽気は陰の中に包まれ、その微かなものは、爍動の性は陰に解かれ[65]、そのやや盛んなものは、集まって硫黄丹砂礬石[66]の類となり、そのもっとも盛んなものは、結ぼれて風となり、火となるが、つねに一か所に集まり、到るところで見られるわけではない。

  
  伊犁(イリ)城中には井戸がなく、みな河で水を汲んでいた。ある佐領[67]が言った。「戈壁(ゴビ)はことごとく積沙で水がなく、草木は生えない。今、城中には老樹が多いが、その下に水がなければ、樹はどうして活きられよう。」。そこで木を抜き、根の下に井戸を掘ったところ、ことごとく泉を得たので、水を汲むのに長い縄を用いるだけとなった。古の雍州[68]は土が厚く水が深いと称するのは[69]、明らかに偽りではないことが分かる。徐舎人蒸遠[70]が、かつてこの工事に関わっていたので、わたしに語ったのだが、この佐領は格物していたといえる。蒸遠はかれの名を挙げることができたが、惜しいことに忘れてしまった。後に烏魯木斉(ウルムチ)築城の時、伊犁(イリ)に水がないことに鑑み、地を要衝に卜し、流水に近づけた。わたしはこの地の雑詩「半城は高阜半城は低し、城内の清泉(ことごと)く西に向かふ。金井[71]銀牀[72]用ゐる処なし、心に随ひ引き取りて花畦に到らしむ。」を作って事実を記した。しかし、雪が溶けて水が漲ると、南門はそのために開かなかった。さらに北山の支麓は譙楼[73]に近く、岡の頂に登ると関帝祠の戯楼、城中がかすかに見えた。だから、わたしの詩にはさらにこうある。「山草木を囲み翠煙平らかに、迢遞として新城旧城に接す。行きて叢祠[74]歌舞の処に到れば、緑氍毹[75]上棋枰[76]を見る。」。巴公彦弼[77]が鎮守していた時、参将の海起[78]が言った。「山麓に堅固な小さい堡を築き、犄角[79]の勢になさいますように。」。巴公は言った。「あなたは野戦ができるだけで、まったく兵事を知らない。北山は城中を俯瞰しているが、敵が陣屋を構え、砲台を築けば、仰いで撃つことになる。火は上に向かう性質があるから、形勢は有利で、地勢は接近しているから、照準を合わせるのも難しくない。かれらは多いが、屯集できない。小さい堡を上に築くと、兵が多ければ地が狭くて容れられず、兵が少なければ力が弱くて守れない。敵に占拠されても、防衛には有利だ。」。諸将はみな嘆服した。そこで、伊犁(イリ)で井戸を掘った事を記し、ともに後に附録する。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)は泉は甘く、土は肥え、花草も繁っていた。江西蝋[80]は五色がすべて備わり、花は大杯のよう、瓣は葳蕤[81]として洋菊のよう、虞美人花は大きさが芍薬のようであった。大学士温公が倉場侍郎[82]から出鎮[83]した時、階の前の虞美人[84](ひと)(むら)が、突然異常な色に変わった。瓣は深紅で丹砂のよう、芯は濃緑で鸚鵡のよう、日に映えれば灼灼として光があり、金星が耀きを隠しているかのよう、絵師が色を施してもそれには及ばなかった。公はたちまち福建巡撫に選ばれて去った。わたしは色糸で花の茎を縛り、秋にその種を収め、翌年植えたが、普通の花にすぎなかった。そのため花が瑞兆であり、揚州の芍薬が、たまたま金帯囲[85]を開いたようなものであったことを悟った。

  
  辛彤甫先生[86]の『記異』という詩にこうある。「六道誰か言ふ事杳冥なると、人羊転轂(はや)くして停まらず。三弦弾き出す辺関の調、みづから見る青驢の耳を傾けて聴くを。」。康熙辛丑わたしの家に泊まっていた日に作られたのである。以前、同郷の某行商は、祖父の大金を返済せず、良心に負く言葉さえ発したが、祖父は性格が豁達であったので、一笑しただけであった。ある日、昼寝して起き、姚安公に言った。「某行商は死んですでに久しいが、さきほど突然夢みたのは、どうしてだろう。」。するとにわかに、馬が青い騾馬を生んだことを馬丁が報せたので、みな言った。「某行商が宿債を償った。」。祖父は言った。「わたしに負債がある者は多いが、どうして某行商だけが償いにきたのだ。某行商は他人への負債も多いのに、どうしてわたしにだけ償いにきたのだ。事には偶合があり、この話を神秘的だと考えて、人の子孫に恥を蒙らせることはない。」。しかし馬丁がつねに戯れて某行商と呼ぶと、頭を挙げ、怒る顔をした。平生三弦を弾くのを好み、辺関の調べを唱い、かれに向かってこの曲を作ると、かならず耳をそばだてて聴くのであった

  
  古は字を竹簡に書き、誤れば刀で削って改めたので、刀筆といった。黄山谷[87]がその尺牘を刀筆と名づけたのは、すでに本義ではなかった[88]。今、訴状を書く者を刀筆と称するのは、筆を刀のようだと思っているだけで、また別の意味である。わたしが閩中を督学した時、ある生員が人を導いて誣告させ、戍辺[89]となった。聞けば、かれは事が敗れる前、人のために訴状を書いていたところ、手の筆が爆然一声、真ん中が切ったかのように裂けたが、恬然として警戒することを知らなかったので、ついに禍が及んだのだそうである。さらに文安[90]王岳芳[91]が言った、その郷里に無実の人を陥れている者がおり、訴状を起草していたが、字がすべて赤色であるのを訝り、見たところ、血が筆の先から出ていた。筆を投げて起ち、その商売をやめ、天寿を全うした。わたしも一人の訴訟好きな者が、ある男のために画策し、金持ちが男の妻を誘拐隠匿したと誣告させるのを見た。金持ちは破産しそうになり、事件はなお結審しなかったが、訴訟好きな者の妻が人に誘拐されて逃げた。下手人は分からず[92]、訴訟もしようがなかった。

  
  天の乗除(はからい)は、まったく推測できない。善悪の報いは、ある時は験があり、ある時は験がなく、ある時はすぐに験があり、ある時はゆっくり験があり、ある時はたくみに験を示す。わたしが烏魯木斉(ウルムチ)にいた時、報告があったのだが、吉木薩(ジムサル)で流人の劉允成が、債務がたいへん多かったため、窮迫してみずから縊れたそうである。わたしは(したやく)に命じてかれの名籍を抹消させたが、原簿の注にこうあった。「高利貸しし、人を死に追いやった」。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)の巡検[93]の駐在所は呼図壁[94]といったが、呼図とは「幽鬼」の意味であり、呼図壁は「幽鬼がいる」という意味であった。かつて商人が夜に歩き、暗闇で樹の下に人影があるのを見、幽鬼かと疑い、呼んで尋ねると、こう言った。「わたしは日暮れにこちらに来、幽鬼を恐れて進もうとせず、相棒ができるのを待っていただけだ。」。そこで連れだってともに行き、だんだんとうちとけると、その人は尋ねた。「どのような急用があり、寒夜を冒して行かれるのです。」。商人は言った。「わたしは以前ある友人に銭四千を借りていましたが、その夫婦はいずれも病み、飲食薬餌に事欠く恐れるがあることを聞きましたので、行ってお金を返すのです。」。その人は樹の背に立って言った。「もともとはあなたに祟り、ささやかな祭祀を求めようとしていました。今、お言葉を聞きますと、本当に長者ですので、あなたを害しようとせず、あなたのために先導することを願いますが、宜しいでしょうか。」。やむを得ず、とりあえず従った。道路が険しければ、すべてあらかじめ告げた。にわかに、欠けた月がかすかに昇ったので、やや物を見わけられたが、じっくり見ると首のない人であったので、慄然として退いて立つと、幽鬼も奄然として消えた

  
  馮巨源[95]が赤城[96]の教諭であった時、語るには、赤城山中のある老翁は、元代の人だと伝えられていた。巨源は会いにゆき、仙人さまと呼んだ。するとかれは言った。「わたしは仙人ではない。吐納[97]導引して、死なないだけだ。」。その術を尋ねると、言った。「『丹経』を離れないが、『丹経』で尽くせることではない。その法則は、精微を極めているが、口訣真伝がなく、法だけに従って運用すれば、棋譜を見ながら対局し、碁にかならず敗れるようなもの、処方に拘って病を治し、病がかならず危うくなるようなものだ。緩急先後[98]は、すこしでも失敗すれば、あるいは結ぼれて癰疽[99]となり、あるいは滞って拘攣[100]となり、ひどい場合は精気が乱れ、(こころ)(からだ)に帰らない[101]。顛癇に至っては、益がないだけではすまされない。」「容成[102]彭祖[103]の術なら、寿命を延ばせますか。」「それは邪道だ。法に従っていない者ならば、禍はたちまち到り、本当に法に従っている者でも、人を壮健にさせるだけだ。壮健であることが極まれば、かならず決裂横潰[104]の患えがある。譬えれば、理に悖り、財を集めれば、みなにわかに富むが、断じてながく享受する理がないようなものだ。惑わされますな。」。さらに尋ねた。「服食[105]して寿命を延ばす術はいかがでしょうか。」「薬は疾病を攻伐し、気血を調え補うが、養生するものではない。方士が食べるものは、草木金石に過ぎない。草木は腐敗せざるをえず、金石は溶解せざるをえない。それらはみずからを保つことさえできないのに、その余気を借り、かえって長生きしようと思うのか。」。さらに尋ねた。「仙人になった者は本当に死なないのか。」「神仙は死なないことができるが、しばしば死ぬこともできる。そもそも生まれればかならず死があるのは、物理の常だが、煉気[106]存神[107]は、いずれも逆らってそれを制するものだ。逆らい制する力が怠らなければ、気は集まって(こころ)も集まり、逆らい制する力が空しくなれば、気が消えて(こころ)も消え、消えれば死ぬ。たとえば財の多い家は、勤倹であれば長く富み、勤倹でなければだんだん貧しくなり、さらに奢侈を加えれば、貧しさがたちまち到る。かれら神仙も、もとより兢兢然[108]として、みずから保たないことを恐れている。内丹[109]が完成していて、万劫不壊だというわけではないのだ[110]。」。巨源は弟子の礼を執ることを請うた。言った。「あなたはこの道に縁がないから、徒らに本業を疎かにすることはない。やめたほうがよい[111]。」。巨源は悵然として帰った。景州の戈魯斎[112]はわたしのために述べたが、その言葉はいずれも篤実で、方士のR惑の言葉らしくないと称えた。

  
  亡き姚安公が言った。扶乩で病を治す者がいたが、仙はみずから「蘆中の人[113]」と称していた。そこで尋ねた。「もしや伍相国どのですか。」「かれはみずからを隠してそう言ったが[114]、わたしは本当にそれを号にしているのだ。」。その処方は時に効き、時に効かなかったが、かれは言った。「病気は治せるが、運命は治せない。」。ある日、牛丈希英(姚安公が称する牛丈の字は、この二字の音[115]だが、正しいか知らない。牛は諱を瑍といい[116]、前母[117]安太夫人を娶った。)の家に降り、虚損方[118]を求める者がいたが、仙はお告げした。「君の病は薬で治せるものではないが、嗜欲を抑え除けば、草根樹皮よりはるかに勝ろう。」。さらに種子方[119]を求める者がいると、仙はお告げした。「種子には処方があり、奇すしき効果もある。しかし処方があるのは処方がないのと同じく、奇すしき効果も効果がないのと同じである。そもそも精血が化生し、中に欲火を含み、さらに毒が発して痘になれば、十中かならずその一二を損う。まして熱薬[120]で助け、凝結して胎となれば、その蘊毒[121]はかならず数倍を加える。だから痘瘡を生ずるのに逢うたび、百人に一人の全きものもいない。人は夭折の時にだけ、その短命を惜しむが、生まれる前から、すでにかならず死の(もと)が潜んでいたことを知らない。生むことは生まないことのようなものなのに、どうして種[122]を貴いとするのか。この理はたいへん明らかだが、昔の賢者は悟っていない。山人は志が人を救うことにあるので、この術で人を欺くに忍びない。」。その説、その理は、いずれも医家が語ろうとせぬことだから、本当に霊鬼が憑いていたのかもしれない。さらに劉季箴先生[123]がかつてともに医術を論じたところ、乩仙は言ったという。「公は補虚[124]に人参を用いることを好んでいる。そもそも虚証[125]はそれぞれ同じでないが、人参の効能は偏っており、各症状をすべて治療するわけではない。臓腑に関して論じれば、人参は上焦[126]と中焦[127]にだけ至って、下焦[128]には至らず、栄衛[129]に関して論じれば、気分[130]にだけ至って、血分[131]には至らない。腎肝虚[132]と陰虚[133]で、人参を補っても、どうして益があろうか。益がないのみならず、亢陽[134]してさらに煎鑠[135]しないか。それに古の処方には生参と熟参の区分があるが、今、人参を採る者は、採るとすぐに蒸してしまうので、どこに生参を得ることがあろうか。昔、人参は上党[136]に産出していたが、中央の土気を採り、その性質は温厚で、先に中宮[137]に入る。今、上党は気が尽きているので、遼参[138]を用いるだけだが、東方の春気を採っているので、その(もちまえ)[139]が発生すると、先に上部に昇る。薬として論じても、運用によってそれぞれ(はたらき)がちがう[140]。公が明らかにすることを願う。」。季箴はまったくそう思わなかった。わたしは医術を知らないので、ともに附録し、このことに詳しい者が論定するのを待つ。

  
  歙県の人蒋紫垣は、献県の程家荘[141]に流寓し、医者を生業としていた。砒素の毒を解く処方があり、用いるとすぐに癒えるが、かならず大金を求め、要求を満たさないと、坐してその死を見ているのであった。ある日、にわかに亡くなったが、宿の主人の夢に現れると、言った。「わたしを利を貪ったため、九人の命を助けなかった。死者は冥府に訴え、冥府はわたしが九世砒素を服して死ぬように判じた。今、転生しようとし、鬼卒に賂したので、きて君に会うことができたから、特別にこの処方をお授けしよう。君が持っていって一人を活かせば、わたしは一世の業報を受けなくてすむ。」。そう言うと、涕泣して去り、言った。「悔いても手遅れだ。その処方は、防風[142]一両を、研いで粉末にし、水を混ぜて服するだけだ。他に秘薬はない。」。さらに沈丈豊功[143]が言った。「冷水で石青[144]を捏ねれば、砒素の毒を解くこと神のようだ。」。沈丈は平生嘘をつかないから、その処方にも験があるはずだ。

  
  老儒劉挺生が語るには、東城に猟師がおり、夜半に目ざめると、窓紙が淅淅[145]と響いていた。まもなくさらに窓の下で[146]と音がしたので、衣を着て怒鳴って尋ねると、突然答えた。「わたしは幽鬼です。あなたにお頼みする事がありますが、恐れないでください。」。何事かと尋ねると、言った。「狐と幽鬼は古からいっしょに住みません。狐が住む墓は、いずれも幽鬼が住まない墓です。わたしの墓は村の北三里ばかりにございましたが、狐はわたしがよそへ行ったのに乗じ、一族を集めて住み、かえってわたしを追いだして入れませんでした。闘おうとしましたが、わたしはもともと文士ですから、絶対に勝てません。土神に訴えたかったのですが、さいわいにして訴えることができても、かれはかならず仕返しをしますから、やはり絶対に勝てないでしょう。ただ、あなたたちが猟にゆく時、半里回り道し、しばしばその地をお通りになるならば、かれはかならず恐れてよそへ移りましょう。遇うことがございましたら、すぐに殺して捕らえてはなりません。機密が漏れたら、あいつはわたしにさらに仕返しするでしょうから。」。猟師がかれの言葉の通りにしたところ、後にかれがお礼を言いに来るのを夢みた。そもそも鵲の巣を鳩が奪うのは[147]、事理の当然だが、力が勝つに足りなければ、避けて争わず、力が勝つに足りていても、さらに深謀遠慮して、その力を尽くさず、幸運な勝利を求めず、過分な勝利を求めなかったことが、かれの結局勝ったゆえんか。孱弱の者が強暴に遇ったら、この幽鬼のようにすればよい。

  
  舅氏の張公健亭[148]が言った。滄州の牧王某は、愛女が病に罹って困憊していた。家人が夜に書斎に入ると、突然かれが月に向かってひとり花陰に立っているのが見えたので、悚然として返り、狐魅が姿を変えているのかと疑い、犬を嗾けて攻撃させると、突然姿が消えた。にわかに室内で病人が言った。「さきほど夢みて書斎にゆき、月を見ましたが、心はたいへん爽快でした。ところが犬が来、捕まりそうになりましたので、今もなおどきどきとして汗が出ます。」。見たものはかれの生魂であったことを知った。医者はそれを聞くと、言った。「心と身が離れているなら、盧扁[149]もなすすべがない。」。まもなく本当に亡くなった。

  
  閩に方竹[150]があり、燕山の柿[151]は形がかすかに方形だが、これらはそれぞれ一つの種である。山東の益都には方柏があるが、これは一株だけがたまたまそうなっているのであり、他の柏樹は方形ではない。わたしは八九歳の時、外祖の家の介祉堂に、菊四盆があったが、開いている花はすべて正方形の瓣で、整然としていて切ったかのようであった。天津の査氏から得、名は黄金印といった。亡き姚安公はその根を貰って帰ったが、翌年、花はだんだん丸くなり、さらに一年たつとすべて丸くなった。ある人が言った。「花はもともと普通の菊だが、種えた者には特別の方法があったのだ。藍で蓮の種を浸せば、花は青くなるし、墨で玉簪[152]の根に擦りこむと、花が黒くなる。」。これも一説であろうか。

  
  家僕の宋遇は、病が革まった時、突然目を瞠って言った。「おまえたち兄弟は来たか。期限はいつの日だ。」。その後、ひとりで語った。「十八日でもよい。」。時に講学する者がわたしの家に泊まっていたが、それを聞いて笑った。「うわごとだ。」。期日になると本当に死んだ。さらに笑った。「たまたまだ。」。申鉄蟾はかれとともに食事していたが、箸を投げて太息した。「おんみはあつく程朱を信じているといえる。」。

  
  奇節異烈でありながら、埋没して伝わらない者は、枚挙に暇がない。姚安公は雲台公が語るのを聞いた。「明末、乱を避けた時、夫婦ともに逃げる者を見たが、その夫は腰巾着を持っているかのようだったので、一人の賊が刃を露わにしていそいで追った。妻は突然振りかえり、屹立し、賊が来ると、にわかにかれの腰を抱えた。賊が刃で撃つと、血は流れて注ぐかのようであったが、堅く手を放さず、息絶えて倒れたときには、その夫はとっくに逃げ去っていた。惜しいことにその名姓は分からない。」。さらに鎮番公が言った。「明末、河北五省はいずれも大飢饉で、人を屠り、肉を売るに至ったが、お上は禁じられなかった。客が徳州景州の間で逆旅に入って食事したが、見ると若い女が裸体で俎に伏しており、手足を縛られ、水を汲んで洗われていた。恐れて戦慄するさまは、見るに勝えなかった。客は憐れみ、倍の値で贖った。縛めを解き、助けて衣を着けさせている時、手でその乳に触れた。若い女は艴然として言った。『あなたに命を救われましたから、終生しもべとなることも悔いません。ただ、下女になることはできますが、妾になることは絶対にできません。わたしは二夫にだけは仕えたくなく、こちらに身売りしたのですが、なぜ軽薄なことをなさるのですか。』衣を解き、地に擲ち、裸体で俎に伏し、瞑目して屠られた。肉屋は恨んでいたので、生きながらその股の肉一切れを割いたが、哀号するだけで、まったく悔いる気配がなかった。かれの姓名が知れないのも惜しいことである。」。

  
  肅寧[153]の王太夫人は、姚安公の姨母[154]で、語るには、その郷里に寡婦がおり、老姑とともに遺児を育て、七八歳になっていたということであった。婦人はもともと美しかったので、媒妁がしばしば来ても、嫁ごうとしなかった。たまたま息子が痘瘡を患ってたいへん危険であったので、医者某を招いて診察させると、医者某は隣の媼にひそかに語った。「この病は治せるが、奥さんが枕席に進むのでなければ、決して行かない。」。妻と姑は怒り罵った。その後、病が危うくなったので、嫁と姑はいずれも盲愛に絆され、ひそかに相談して徹夜し、涙を飲んでむりに従った。ところが治療を施すのがすでに遅かったので、結局救えなかった。妻は悔い恨み、首を吊って死んだ。人は子を悲しんでいるからだと思い、他の事情があることを疑わなかった。姑も深くその事を隠し、はっきり言おうとしなかった。するとにわかに医者が死に、その子も死に、家は火に注意していなかったため、寸縷さえ遺らなかった。かれの妻は流落して青楼に入り、たまたまこのことを親しい者に告げたのであった。

  
  余布衣蕭客[155]が言った。ある士人が会稽山中に宿ったところ、夜、(たにがわ)を隔てて講誦の声がしたので、耳を傾けてじっくり聴くと、古の訓詁を語っているかのようであった。翌日、(たにがわ)を越えて訪ねると、杳として蹤跡がなかったので、数日徘徊し、逢うことを願っていた。すると突然、杪で人が語った。「このように古を好まれますなら、こちらで会いましょう。」。振り返ると、石室が開いた。室内には数十人が列坐しており、みな本を閉じ、衣を振るい、出て挨拶した。士人がその(つくえ)の上を見ると、すべて諸経の注疏であった。首坐に居る者は拱手して言った。「昔、尼山[156]の奥義は、経師[157]に伝えられました。旧本はなお残り、その文は失われていませんが、新説が次々に出、古を好むものは稀です。先聖は時がたつとだんだん絶えてしまうことを恐れ、鬼籙[158]を集め、幽霊を召し、およそ歴代の名儒の精魂のまだある者を、この地に集め、遺文を考証させ、かれらを転生させて人の世に生まれさせ、古学をつぎつぎに修め、杏壇[159]の一線の伝を延ばすことを願ったのです。あなたはその見聞きしたことを記して同志に告げ、孔孟の拠りどころは、こちらにあってあちらにないことを知らせてください。」。士人は尋ねようとしたが、突然夢が醒めると、老松の下に倚って坐していた。蕭客はそれを聞くと、食糧を包んで行ったが、蘿を攀じ、葛を掴み、一月あまりしても、見るものがなかったので帰った。これは朱子穎[160]が述べた経香閣の事[161]と大旨が似ている。ある人が言った。「蕭客は古義を談ずることを喜び、かつて『古経解鉤沈』を撰したので、士人はかれの好みに合わせて戯れたのだ。」。そうであるかは知ることができない。ある人が言った。「蕭客はこの話を作ってみずからを転生したものの一人になぞらえているのだ。」。そうであるかも知れない。

  
  姚安公が刑部で役人をしていた時、同僚の王公守坤[162]が言った。「わたしが夜に夢みたところ、人が血を浴びて立っていたが、その人を知らなかった。どうして来たのだろうか。」。陳公作梅[163]が言った。「これは君がつねに誤って人を殺すことを恐れ、惴惴然[164]としてもうしわけないことがあるかのようにしているので、心によって象が造られただけだ。もともと幽鬼でないから、それが誰かは分からない。それに七八人がいっしょに同じ文書を判断しているのに、どうして君の夢だけに現れたのか。君は自分を疑うな。」。仏公倫は言った。「そうではない。同僚は一体で、一人の夢に現れれば、すぐにそれぞれの夢に現れよう。わたしたちは天下の事件を審理しても、天下の囚人に配慮できていない。紙上の自供に拠り、生死を断じ、どうしてその人を知ろうか。君はみずからを戒めるべきだし、わたしたちはみなみずからを戒めるべきだ。」。姚安公は言った。「わたしは仏公の論を尤もだと思う。」。

  
  呂太常含輝が言った。京師に富豪で妻を娶った者があり、男女ともに秀麗で、親戚はみな望むこと神仙のよう、その意態を窺うと、夫婦もたいへん睦まじかった。翌日、夜が明けたが、門は開かず、呼んでも応えなかったので、窓に穴を開けて窺うと、左右相対して縊れ、その衾を見るとすでに合歓していた[165]。下女は言った。「昨日の晩にすでに服を脱いだのに、どうしてさらに盛服を着けて死んだのか。」。珍しいことであった。この事件は皋陶[166]でも裁けない。

  
  里胥(したやく)の宋某は、いわゆる東郷太歳[167]という者であった。隣童の秀麗であるのを愛し、あらゆる手段で誘ってともに親しんだが、童の父はそれを悟ると、童に迫ってみずから縊れさせた。そのことは隠密で知る人がいなかった。ある晩、夢みたところ、捕らえられて冥府に至り、童に訴えられたと言った。宋は弁じた。「もともと愛情から出たもので、殺す気はなかった。死んだのはおまえの父により、本当に思いも掛けぬことだった。」。童は言った。「おまえがわたしを誘わなければ、どうして辱めを受けよう。わたしは辱めを受けなければ、どうして死ぬことができよう。禍のもとをただせば、おまえでなくて誰なのだ。」。宋はさらに弁じた。「誘ったのはわたしだが、従ったのはおまえだ。眸を回らして一笑し、身を許して従った者は誰か。もとより強姦でないのだから、理として咎めることは難しい。」。冥官は怒鳴った。「幼子は何も知らずに、おまえの罠に陥ったのだ。魚を誘って食を満たして、かえって魚を罪するか。」。(つくえ)を打ち、一声叫んだので、慄然として目ざめた。後に上官の収賄が露顕し、宋の名は事案に連なり、禍は測り知れなかった。みずから業報だと悟り、夢をつぶさに親しいものに告げた。判決がなされるに及ぶと、城旦[168]にすぎなかったので、夢は根拠がなかったとひそかに思った。三年で許されて帰ると、隣の叟は子の汚されたことを恨み、かれの妻がひとりで居るのに乗じ、大金で誘い、すでに「金夫に見ゆれば、躬有らず[169]。」となっていた。宋は人があれこれ言うのを恐れ、恥じてみずから縊れた。だとすれば前にさいわい免れたのは、することがあれば報いられることがあるのは、影が形に従うかのようであることを示すために留めておかれたものに違いない。

  
  元しもべの明が言った。昔、丹陽[170]の県署にいた時、夜半に厠へゆこうと、空き部屋を通ったところ、男女が睦みあう声がした、内衙[171]の童僕がこちらで密会しているのだと思い、関わりあいになるのを恐れ、抜き足して帰った。その後、月夜にまた聞こえたので、窓の隙間からひそかに窺うと、内衙にそのような男はいなかった。それに、おりしも寒天なのに、裸で寸縷もなかったので、狐魅かと疑い、窓の外で軽く咳すると、突然姿が消えた。たまたま仲間に話したところ、一人の火夫[172]が言った。「ここは前任官の幕友某がいたところです。幕友は牙彫りの秘戯像一盒を持っており、腹にからくりがあり、みずから運動することができ、つねに枕函[173]の中に置き、しばしば出して弄んでいました。ある日なくなり、仲間が隠したと疑いましたが、その後、結局、見つかりませんでした。もしやこの物が祟っているのではございませんか。」。あまねく室内を捜したが、結局見つからなかった。人に害をなさなかったので、それ以上追求しなかった。つねに茵席の間にあり、人の精気を得、しばらくして変化(へんげ)したものだろうか。

  
  外祖雪峰張公の家で、牡丹が盛んに咲いていた。家僕の李桂は、夜に二人の女が(おばしま)に倚って立っているのを見たが、その一人が言った。「月影がたいへん美しいですね。」。もう一人が言った。「この土地はこの花がたいへん少ないのです。氏の庭園とこの数株だけです。」。桂は狐だと悟り、瓦の破片を擲って撃つと、突然見えなくなった。にわかに磚や石が乱れ飛び、窓の(れんじ)がみな損われた。雪峰公はみずから見にゆくと、拱手して言った。「花見は風流、月見するのは雅士ですのに、なぜ小人と張り合い、興ざめなことをなさいます。」。そう言うと、静かになった。公は嘆いた。「この狐は俗ではない。」。

  
  佃戸の張九宝が言った。以前、夏の日に耕耘が終わり、日はすでに暮れようとしていたので、人々とともに田の塍に坐していた。見ると一筋の赤い練のような火光が、西南から飛んできて、にわかに地に落ちた。それは一匹の狐で、蒼白色で、傷を負って血が流れ、臥して喘いでいた。いそいで鋤を挙げて撃つと、また力を奮って跳びあがり、火光に化して東北に去った。後に車を牽き、行商して棗強[174]にゆくと、人が、某家の妻が狐に惑わされたが、道士を招いて祓い、すでに捕らえて罌の中に封じてあると言っていた。児童たちがひそかにその符を剥がし、狐がどんな姿かを見ようとしたところ、罌を破って飛びさった。その月日を尋ねると、まさに狐が落ちたのを見た時であった。この道士の呪術は、験があるといえた。しかし愚かな子供がひそかに窺ったのはどうしようもなかった。古来尽力して成功しようとしているときに、無知な者の手で敗れることがあるが、おおむねこのようなものである。

  
  老僕の劉hが言った。その妻の弟某はかつて夜にひとりで一室に臥し、榻は北窓にあった。夜半、手が触れるのを感じ、盗賊かと疑った。驚いて起き、じっくり見ると、その腕は南の窓から入りこみ、長さはほとんど一丈ばかりであった。某はもともと大胆だったので、すぐに捕らえた。突然一本の腕がさらに櫺を破って入り、すぐその頬を打ったので、痛くて耐えられなかった。反撃して防ぐと、捉えた腕はすでにぬけて去っていた。窓の外で大声で話すのが聞こえた。「おまえは今恐れているか。」。昨晩林で涼んでいたとき、同輩とみずから幽鬼を恐れないと称したことをはじめて思いだした。幽鬼は人が恐れることを求めることはない。人を恐れさせることができても、幽鬼に何の誉れがあろうか。一言のために、喧嘩を吹っ掛け、勝つことを求めるとは、この幽鬼は余計なことをしたといえる。裘文達公[175]はかつて言った。「人にわたしを恐れさせるより、人にわたしを敬わせるほうがよい。敬は人の本心に発するもので、むりに求めることはできない。」。この幽鬼がこの言葉を聞かなかったのは惜しいことであった。

  
  宗室の瑶華道人[176]が言った。蒙古の某額駙[177]はかつて一狐を射て捕らえたところ、後ろの両足に紅い鞋を着けていたが、纏足していて女子と異ならなかった。さらに沈少宰雲椒[178]が言うには、李太僕敬堂[179]は、若い時、狐女と交際していた。その太翁は隣家の娘かと疑い、通り路に灰を撒いた。中庭の足跡は獣のものであったが、書斎の外に来ると、足跡は纖纖たる形となった。某額駙が射た狐は、まったくほかに変わったことはなく、敬堂が親しんだ狐は、数年で別れて去った。敬堂はいつふたたび会うかと尋ねると、言った。「あなたの官位が三品になれば迎えにくるはずでございます。」。この言葉は人が多く知っており、後にほんとうに験があった。

  
  外叔祖張公雪堂が言った。十七八歳の時、数人の友人と月夜にささやかな宴をした。時に霜蟹[180]はようやく肥え、新[181]も熟していた。楽しく飲んでいると、突然一人の男が席の前に立ち、藁の笠を着け、石藍[182]の衫を着、鑲[183]を攝り、履を去り、拱手して言った。「わたしは醜悪でございますが、酒を執り(かに)を持つことをすこぶる愛しておりますので、末座に着けましょうか。」。人々は思いがけないことに驚き、ひとまず揖して坐した。姓名を尋ねると、笑って答えなかったが、痛飲して大いに食らい、まったく一言もなかった。酔って満腹した後、にわかに起つと言った。「今日お遇いしましたのも、前縁ですが、再会は茫茫として、いつの日ご高誼に報いられますやら。」。そう言うと、身を聳やかして一跳ねしたが、屋根瓦には音がしないのに、すでに行方が知れなくなっていた。見ると椅子に粲然たる物があったが、それは銀一餅(いっぺい)で、ほぼその日の費用に敵していた。ある人は仙人だと言い、ある人は術士だと言い、ある人は大盗だと言った。わたしは大盗の説が近いと思う。幼いときに李金梁[184]の輩を見たが、その技はここに達することができていた。さらに聞いたところでは、竇二東の党(二東は、献県の大盗である。その兄は大東といい、みなその名を逸して、幼名が伝わっている。他書の記載では、竇爾敦に作ることもあるが、音が転じただけである。)は、つねに夜に人家に入ることができ、婦女が就寝するのを伺い、力で脅し、語らないように命じ、衾褥とともに巻き、挟んで屋根を越えること数十回、明けの鐘が鳴ろうとすると、巻いて送り返すのだそうである。盗まれた者はぼんやりとして夢のようであった。ある晩、妻を失った家が人を部屋に潜伏させ、かれが送りかえしてくるのを待ち、にわかに出て撃ちかかったが、片手で刀を揮い、格闘し、片手で牀の上に妻を擲ち、風が巻き、電が落ちるかのように、たちまち消えた。唐代の剣客の支流だろうか。

  
  奇門遁甲[185]の書は、たくさんあるが、いずれも真伝ではない。真伝は口訣数語に過ぎず、紙や墨を用いない。徳州[186]の宋先生清遠[187]が言った。かつてある友人を訪ねたところ(清遠はかつてその姓名を挙げたが、年を経て忘れた。清遠は雨後に泥濘で、某人の騾馬を借りて騎っていったが、住んでいたところは遠くなかったと称している。)、友は宿に留めて言った。「良夜で月が明るいですが、芝居を見られますか。」。そして凳十余を取り、縦横に中庭に並べ、清遠とともに燭を明るくして堂上で飲んだ。二鼓過ぎに、一人の男が垣を越えて入り、階の前を巡ったが、一つの凳に遇うたび、かならずよろめき、しばらくすると力を奮って跨いで越えた。はじめはそのまま進み、跳びはねること一二百度、振りかえって逆に進み、さらに跳びはねること一二百度であった。疲れが極まって倒れ臥した時には、空はすでに明けようとしていた。友が引き、堂上にゆき、どこから来たかと尋ねると、叩頭して言った。「わたしは実はこそどろでございます。お宅に入りました後、短い垣が重なりあって見えるばかり、越えれば越えるほど尽きることがありませんでした。苦しんで退きますと、やはり越えれば越えるほど尽きることがありませんでした。疲労したために捕らえられましたが、死ぬも生きるもご命に従うことにしましょう。」。友は笑って追いはらい、清遠に言った。「昨日、あのこそどろが来ることを占っておりましたので、ささやかな術で戯れたのでございます。」「それは何の術でしょう。」「奇門法です。他人が知れば禍を招きましょうが、あなたは本当に慎み深いので、学ぶことを望まれますなら、お授けしましょう。」。清遠は断って願わなかったので、友は太息した。「学ぶことを願う者には伝えられず、伝えられる者は学ぶことを願われないので、この術は結局絶えてしまいましょう。」。失ったものがあるかのようにし、悵悵として送りかえした。

  
  旧家の子がおり、占い師はかれがたいへん貴くなると予測し、人相見もたいへん貴くなると言っていたが、老年になろうとしても官位は六品に達しただけであった。ある日、扶乩し、官途が困難であるわけを尋ねた。乩仙はお告げした。「占い師は偽っていたのではなく、人相見も偽っていたのではない。太夫人[188]に偏愛されたため、官禄を削減せられてこうなっただけだ。」。拝して尋ねた。「偏愛はもともと免れないことですのに、なぜ官禄を削られるに至ったのでしょう。」。乩仙はさらにお告げした。「『礼』は『継母は母の如し[189]』というから、前妻の子を子のように見るべきだ。庶子は嫡母のため三年服喪するのだから、庶子を見るときも子のようにするべきだ。しかし人情は険悪なので、おのずと境界を設け、実子と継子は、水火が交わらないかのようにはっきりと分けてしまう。私心が一たび起これば、謀略は万端である。小さくて飲食起居、大きくて貨財田宅、実子が厚きに居り、継子が薄きに居らぬことは一つとしてなく、これはすでに造物の戒めを犯している。ひどい場合は離間讒言し、陰謀を巡らし、罵り騒ぎ、理法に従わず、害に遭う者は声を呑み、傍らで見る者は歯噛みし、なおくどくどと実子が抑圧を受けていると称する。鬼神は怒って見、祖考は怨んでいるから、その子を咎めなければ、どうして天道の正しさを示せようか。それに人の享受するものは数が決まっているから、こちらが余ればあちらが欠けるのは、理の当然だ。すでに家庭の内で、増すことがあると、仕官の途では、ひそかに減ずることがある。おまえは利を弟から得ることが多かった。物事には両方ともよいということはないから[190]、どうして不遇を怨もうか。」。その人は悚然として退いた。後に親戚の中で、一人の婦それを聞き、言った。「この乩仙はひどい。前妻の子で、年長であるのを恃み、その弟を食いものにせぬ者はいない。庶出の子で、その母の寵愛を恃み、その兄を虐げない者はいない。母が支えてやらなければ、どちらも食いものになってしまうではないか。」。姚安公は言った。「嫉みの話ではあるが[191]、このような理がないとは言えない。世情は万化するが、家を治める者は公平な心で対処すればよい。」。

  
  祖黄図公が言った。順治、康熙の間、天下は定まったばかりで、人心は一つではなかった。某甲はひそかに呉三桂の間諜となったが、某乙は強健で謀略があったので、招いてともに謀った。その後に梟獍[192]が誅せられ、鯨鯢[193]が突かれると[194]、心を洗い、禍を厭い、もはや逆心を萌さなかった。そして密書を往来したが、多くが乙の処にあった。手紙にもともと乙の名はなかったので、乙は告発すれば、罪は族滅[195]となろうと脅したので、やむを得ず娘を乙に嫁がせ[196]、家に婿入りさせた。乙は意を得てますます驕り、まったく人でなしとなり、甲の妻女に迫ってほとんどすべてに淫した。女の母さえも免れず、女の幼い弟は、わずか十三四歳でも免れなかった。みな涙を飲んで辱めを受け、惴惴然[197]として乙の意に叶わないことを恐れた。甲は鬱鬱としたがどうしようもなく、つねに外に避けていた。ある日、田を散歩していたところ、老人が対談しているのに遇ったが、付近の村落にこうした人はいなかったと怪しんだ。老父は言った。「実はわたしは天狐なのだ。君にはもともと罪があったが、乙が君を苦しめるのもひどいので、ひそかに不満に思っていた。今、君の密書を盗んでお返ししよう。乙は脅迫する手段がなくなれば、追わずとも自然に去ろう。」。そして十余の紙を出して甲に渡した。甲が調べると本当に密書であったので、すぐに裂いて呑みこみ、かえって事実を乙に告げた。乙は甲の娘が盗み取るのを防ぐために、ひそかに鉄瓶を他の処に埋めていたが、こっそり行ってしらべて見ると、すでになくなっていたので、よろよろと娘を引いて去った。娘は日々かれと罵りあい、すぐに離婚した。後にその事はだんだんと明らかになり、両家はいずれも郷党に相手にされなくなり、それぞれ家族を連れて遠く逃れた。そもそも明末の乱は極まり、聖朝は洪炉[198]を洗い清め、民を水火[199]から救った。甲は「毛を食らひ土を()[200]」んですでに三十余年になるが、呉三桂は抵抗していた時[201]、すでにその手で桂王[202]を殺したので、断じて楚の三戸[203]と称せなかった。甲はひそかに三桂に通じたのだから、やはり殷の頑民[204]と称せなかった。たとい一門が皆殺しになっても、不当ではなかった。そのため乙は甲の閨房を汚したが、これを善良を殺すのと比べて、その罰は減ぜぬべきであるようだ。しかし乙はもともとともに謀ったのだから、罪はもともと等しく、さらに仲間を脅し[205]、その凶悪淫乱をほしいままにしたのだから、罪は本当に甲一等を加えるべきだ。その後、報いを得たことは証明できないが、天道は昭昭としているから、きっとさいわいに免れたはずはなかろう。

  
  姚安公は舅氏陳公徳音[206]の家で読書していた。ある日、朝起きると、人の声が喧しかった。「客作[207]の張aが、昨晩、村外で瓜畑を見張ったが、今朝はもうぼんやりとして話さなくなっている。」。いろいろと飲ませて救うと、晩になって正気づき、言った。「二更以後、遠くを見ると林の外に火光があり、だんだん移り近づいてきた。瓜畑にゆくと、一人の巨人、身長は十余丈のものが、手に竹籠を執っていたが、大きさは一間の家のよう、団焦の前に立ち、しばらく俯いて見ていた。わたしはひどく驚いて気絶したが、かれがいつ去ったかは分からなかった。」ある人が言った。「魍魎だ。」。ある人は言った。「主夜神に違いない。」。案ずるに『博物志』の記載では、主夜神の呪は「婆珊婆寅底」といい[208]、誦えると悪夢を避け、恐怖を止められるが、効き目がないとかえって異状を示し、人を恐れさせるのである。魍魎が近いであろう。

  
  姚安公はさらに言った。ある晩、親戚友人数人とともに舅氏[209]の書斎に宿った。燭を消して就寝すると、突然大砲のように大きな声が、牀の前に起こり、屋根瓦はすべて震えた。満堂の人々が震え、黙って語れず、耳が数日聴こえないものがいた。時に冬十月で、雷霆があるはずはなく、焔光や衝撃もなく、雷霆のようでなかった。公の同年の高丈爾炤[210]が言った。「これは鼓妖[211]で、吉兆ではない。主人は徳を積んで祓うべきだ。」。徳音公も終日慄慄[212]として、一事も謹まないことはなかった。その年、家で縊れ死んだ者がいたが、ほかに事故はなかった。戒め恐れていた力だろうか。

  
  姚安公が亡き曽祖潤生公の話を聞いたのだが、景城[213]に姜三莽という者があり、勇敢だが愚鈍であった。ある日、人が宋定伯[214]が幽鬼を売って金銭を得たことを話しているのを聞き、たいへん喜んだ。「わたしは幽鬼が縛れることを知った。毎夜一人の幽鬼を縛って唾して羊に変え[215]、暁になったら牽いてゆき肉屋に売れば、一日の酒肉の資に供するに足りよう。」。そこで、毎晩棒を担ぎ縄を執り、ひそかに墓地にゆき、猟師が狐兔を伺うときのようにしたが、会えなかった。平素幽鬼がいると称されている処でも、酔って寝たふりをして誘ったが、寂然として見えなかった。ある晩、林を隔てて幾つかの磷火が見えたので、躍躍として走って赴いたが、着かないうちに、すでに四散して去った。残念がって帰った。このようにすること一月余り、得るものがなかったのでやめた。そもそも幽鬼が人を侮るときは、つねに人の恐れているのに乗じるのである。三莽は幽鬼は縛ることができと確信し、心はすでに幽鬼を見ること蔑如としており、その気焔は幽鬼を畏れさせるに足りたので、幽鬼が避けたのであった。

  
  益都の朱天門[216]が言った。書生が京師の雲居寺[217]に仮住まいしたところ、年が十四五の小童が、しばしば寺中に行き来していた。書生はもともと蕩子であったので、誘ってともに親しみ、留めてともに寝た。夜が明けると客が扉を開けて入ってきたので、書生は困り、恥じたが[218]、客には見えていないかのようであった。にわかに僧が茶を運んで入ってきたが、見えていないかのようであったので、書生はおかしいと疑った。客が去ったので、抱いてつよく尋ねると、童は言った。「恐れないでください。わたしは本当は杏花の精なのでございます。」。書生は驚いた。「わたしを惑わしているのか。」。童は言った。「精と魅は同じではございません。山魈悪鬼は、草に依り、木に附いて祟り、魅といいますが、老樹は千年で、英華が内に集まり、しばらく蓄積すると形を成し、道家の聖胎を結ぶかのようになり、精といいます。魅は人に害をなしますが、精であれば人に害をなしません。」「花妖には娘が多いが、おまえはどうして男なのだ。」「杏には雌雄がございますが、わたしはもともと雄の杏なのでございます。」。さらに尋ねた。「どうして雌伏している。」「前縁なのでございます。」。さらに尋ねた。「人と草木はどうして縁があろう。」。しばらくもじもじすると[219]、言った。「人の精気を借りなければ、煉形できないからでございます。」。書生は言った。「それならおまえはわたしを惑わしているだけだ。」。枕を推してすぐに起った。童も艴然として去った。書生は懸崖で馬を返し、大いに智慧があったといえる。その人はそもそも天門の弟子であったが、天門はその名を挙げようとしなかった

  
  申鉄蟾は、名を兆定[220]といい、陽曲[221]の人であった。庚辰の挙人から、官は知県となり、わたしの家主となることがもっとも久しかった[222]。庚戍の秋に陝西で任用されていたが、突然手紙を寄せ、わたしと訣別した。その詞は恍惚迷離、抑鬱幽咽[223]、まったく何の言葉かわからなかった。鉄蟾はもとより志を得ない者ではなかったので、疑問は明らかにできなかった。まもなく訃音が本当に来た。その後、邵二雲[224]賛善[225]に会い、はじめて知ったが、鉄蟾は西安で数ヶ月病み、病が癒えた後、山に入って射猟したが、帰ってから目の前に二つの球のような丸い物が、風輪[226]のように転がっているのが見え、瞑目しても見えたということであった。数日して、突然裂けると、二人の下女が中から出、仙女さまがお迎えですと称したので、思わず魂がついていった。ゆけば瓊楼[227]貝闕[228]であった。一人の娘は容色が絶世で、言葉を通じてみずから媒酌したが、鉄蟾は固辞し、このような邸宅に住むのに慣れていないと嘘をついた。娘がかすかに怒って追いはらったので[229]、突然目ざめた。一月余りして、目の中で二つの丸い物が前のように爆け、二人の下女に前のように迎えられていったが、すでに別に邸宅を構えており、幽折[230]窈窕として、すこぶる愛すべきものであった。尋ねた。「ここはどこですか。」「仏桑[231]です。堂の額に題してください。」。そこで八分[232]の「仏桑香界」の字を書いてやると、娘はふたたび以前の願いを述べたので、心をみずから抑えられず、結婚した。それからつねに夢みて遊んだが、しばらくすると娘は昼にも来、鉄蟾が親しいものと通じることを禁じたので、だんだん病が劇しくなった。時に方士李某が赤丸[233]を飲み、嘔逆[234]で亡くなったが、そのことはたいへん怪しかった。そこではじめて、前の手紙は、精神病を得た時に作ったことを知った。鉄蟾は聡明絶倫で、詩歌をよくし、さらに八分に巧みで、名場[235]に馳騁し、風流をもってみずから任じていた。人と交われば、意気は雲のよう、郵筒は天下に行き来していた。中年で突然神仙を慕い、この魔障[236]を生じ、精神を病んで終わった。妖は人によって起こり、象は心によって作られる。才気が優れているのに、奇を好んで死んだのは、惜しいことであった。

  
  崔荘[237]の旧宅の広間の西、南と北に、それぞれ(さん)()の建物があり、花竹は翳如[238]とし、すこぶる幽僻[239]であった。祖父が生きていた時、しもべの張雲会が夜に茶具[240]を取りにゆくと、垂鬟の娘が樹の下に隠れ、背を向けて立ち、塀の隅に向いていた。邸内の下女がこちらで密会しているのだと思い、すぐにその腕を捉え、脅そうとした。娘はにわかにその顔を振り向けたが、白くて(おしろい)を塗ったかのよう、耳目口鼻がなかったので、張雲会は絶叫して地に倒れた。人々が燭を持ってくると、見えなくなっていた。ある人は言った。「昔、この(あやかし)がいました。」。ある人は言った。「張雲会は一時(いっとき)目が眩んだのだ。」。ある人は言った。「実は利口な下女で、にわかに人に阻まれ、逃れられなかったので、素巾(しろてぬぐい)で顔を掩い、偽って幽鬼の顔をして自力で逃れたのだ。」。いずれもその詳細は分からなかった。しかしそれから人々の疑いは解けず、この建物に泊まる者はつねに凜凜[241]としていたし、夜中にしばしば音もした。そもそも人が避けて住まなかったので、幽鬼や狐がそこに入っただけである。さらに、邸宅の東の楼は、明の隆慶初年の建造で、右側の小屋にも、(あやかし)がいると言われていた。害をなさないが、下女がときおり(あやかし)を見た。姚安公がある日古い手紙を調べていると、[242]の下で二匹の(あなぐま)[243]を捕らえた。人々は言った。「(あやかし)でございます。」。姚安公は言った。「(あなぐま)頭を垂れて童子に縛られているから、惑わすことはできまい。しかし室内に人跡がないと、野獣の巣穴になってしまうから、(あやかし)がいるのも当然だ。これらはすべて『空の穴に風か来る』[244]ということだ。」。後に西庁は分けられて従兄垣居のものになり、今では従姪汝侗のものになっている。楼は分けられて亡兄睛湖のものになり、今では姪汝份のものになっている。子や甥が日々多くなり、家に空地がなくなると、(あやかし)はいずれも駆らなくてもみずから去るものである。

  
  甲と乙は仲がよく、甲は乙を招き、家政を治めさせた。撫軍で役人となると[245]、役人の政務をも輔佐させ、かれの言葉にだけ従った。しばらくすると資財はすべて横領せられたので、はじめてかれが奸悪であることを悟り、すこし責めた。乙は甲を隠し事によって脅迫し、すぐに恩を仇で返した。甲はひどく憤り、牒を投じて城隍に訴えた。夜に夢みたところ、城隍が語った。「乙はこのように険悪なのに、公はどうして信じて疑わなかったのだ。」。甲は言った。「あのものがすべてわたしの思い通りにしていたからです。」。神は喟然として言った。「他人がすべて自分の思い通りにすることができるのは、たいへん恐ろしいことだ。公は恐れず、かえって喜んだのだから、公が欺いたのでなくて誰が欺いたのか。あのものは悪いことをしすぎているから、きっと報いを受けるだろう。公はみずから憂えをもたらしたのだから、訴えることはない。」。これは甲がみずから姚安公に告げたことである。事は雍正末年にあり、甲は滇の人で、乙は越の人であった。

  
  『杜陽雑編』[246]は李輔国[247]の香玉が邪を祓った事[248]を記し、たいへん怪異であるので、小説が荒唐であると疑う人が多いが、世間には本当に香玉がある。亡き外祖母は蒼玉[249]の根付けを持っていたが、曹化淳[250]ゆかりの品で、明の内府から盗み出したということであった。作りは素朴で、その形は二匹の螭が絡み合うありさまで、血のような斑点数点があり、色は溶けた蝋のようで、手で摩り、熱くして嗅ぐと、沈香の匂いになり、摩って熱くしなければ香らなかった。李輔国の玉も、このようなものに過ぎまい。事を記した者はその言葉を飾っているだけである。亡き太夫人がかつてひそかにねだると、外祖母は言った。「わたしが死ねばおまえに伝えよう。」。後に外祖母が歿すると、舅氏は太夫人の処にあるかと疑い、太夫人も舅氏の処にあるかと疑った。衛家の姨母[251]は言った。「母は生前これを帯びて身から離しませんでしたから、持って黄泉に帰ったのでしょう。」。看病していた下女たちはみな納棺した時に見えなかったと言った。そのためさらに衛氏の姨母の処にあるかと疑った。今、姨母は亡くなって久しく、衛氏はすでにたいへん衰微しており、家蔵の骨董は質入れされて尽きたが、この物が売りに出たのを見なかったので、どこへ行ったかは分からなかった。

  
  ある客商が柴窯[252]の磁器の破片を持ち、数百両を求めた。冑に嵌め、陣に臨むと火器を避けられると言っていた。しかし本当なのかは分からなかった。わたしは言った。「縄にこの物を懸け、銃で鉛弾を発して撃ってはどうか。火を避け、絶対砕けないなら、値が数百両でも多くはなく、砕ければ、火を避けるという話は本当でないのだから、理として数百両の値を求めることはできまい。」。売る者は承知せず、言った。「公は鑑定の玄人ではいらっしゃらないので、たいへん興ざめでございます。」。すぐに懐にして去った。後に貴顕の家に売り、百両を得たという。そもそも君子は筋の通ったことで欺け[253]、筋の通っていないことで欺くのは難しい。砲火の衝撃は、落雷のようなものであり、どうして区区たる片瓦で防げよう。それに雨過晴天[254]は、釉の色が精妙であるのに過ぎず、所詮人によって造られ、神功に出たものでない。どうして断裂した破片に、なおこのような霊力があろうか。わたしは『旧瓦硯歌』を作って言った。「銅雀台址崩れて遺らず、何ぞ乃ち剰瓦多きことかくのごとき。文士は例として好奇の癖あり、心にその妄なるを知りてひとまずみづから欺く。」。柴片もこの類にすぎない。

  
  嘉峪関外に、闊石図嶺があり、哈密、巴爾庫爾[255]の境界となっていた。闊石図とは、碑という意味である。唐太宗の時の侯君集[256]の平高昌碑が嶺にあったが、守将は磚石を積んで、人に読ませなかった。読めば風雪がたちまち来ると言われており、しばしば試すとすべて違わなかった。そもそも、山神木石には精気があり、怪異を示し、血食を求めることは、理としてもとよりある。巴爾庫爾にはさらに漢の順帝の時の斐岑の破呼衍王碑[257]がある、城の西十里の海子(みずうみ)[258]にあり、人が拓本を取るに任せていたが、まったく変わったことはなかった。だけ海子(みずうみ)は冷龍の居たところといい、城中で夜に砲を鳴らせず、夜に砲を鳴らせば冷龍が震動し、天はかならず異常に寒くなるのであった。これは理によって推しはかることはできない。

  
  李老人はどこの人か分からず、年はすでに数百歳だと自称していたが、調べることはできなかった。その言葉は支離荒誕であり、ほとんど前明の醒神[259]の類であった。以前先師銭文敏公[260]の家に客となっていたので、わたしはかれを見たことがあった。符薬で病を治すと、しばしば小さな験があった。文敏の次子は、京師の水月庵[261]に寓していたが、夜に飲み、酔って帰ると、数十の悪鬼に路を遮られ、発狂してみずからの腹裂いた。わたしは陳裕斎[262]、倪余疆[263]とともに見にいったが、血肉は淋漓として、わずかに一息を存するのみで、まったく生きる望みはないようであった。李は突然みずからきてかれを舁いで去り、治療すること半月で(きず)が塞がったので、人々はすこぶる珍しいと思った。しかし文敏公は誤って祝由[264]を信じ、指の疣を割き、(きず)が病を発して亡くなった。李が治療したが験がなかった。そもそも符焼煉の術は、ある時は効き、ある時は効かないのである。先師劉文正公[265]は言った。「神仙はかならずいるが、今の売薬する道士ではない。仏菩薩はかならずいるが、今の説法する禅僧ではない。」。これはまことに千古公平の論である。

  
  楊主事[266]、わたしが甲辰[267]に典試して採用した士である。相法[268]及び八字五星[269]占いは、すべて験があった。刑部の官であった時、阮吾山[270]と同僚であった。突然、人に言った。「わたしの方法で論じれば、吾山は半月以内に刑部侍郎になるだろう。しかし、今刑部侍郎に欠員がないのはどうしてだろうか。」。翌日、堂参[271]の後、ひそかに同僚に語った。「杜公が欠けるだろう。」。その後、杜凝台[272]にはほんとうに伊犁(イリ)での労役があった。ある日、あたふたと暇を請うて帰り、わたしに別れを告げにきた。わたしは尋ねた。「どうしてそんなに慌ただしくしている。」「家では一人の息子が老父に侍しているだけだが、今、子が某月に死ぬべきだと占いがでた。老父がひどく哀しむことを恐れ、いそいで帰るだけだ。」。その時はなお死期に至っていなかった。後にその郷人に尋ねると、言った通りであったのは、もっとも驚くべきことであった。わたしはかつて子平家[273]は運命に定めがあるといい、堪輿家は運命は変えられるというが、結局どちらが正しいかと尋ねた。すると答えた。「吉地[274]を得ることができるのは運命だし、誤って凶地に葬られるのも運命だから、その理は一つだ。」。この言葉は筋が通っているといえる。

  
  [275]の流人彭杞には、一人娘がおり、年は十七、彭杞の妻とともに癆咳を病んでいた。妻は先に歿し、娘も死のうとしていた。彭は官田で耕作し、娘を顧みられず、林内に棄て置き、死ぬに任せたが、呻き悲しみ、見る者は心が惻然とした。ともに流されてきた楊熺は彭に言った。「あなたはとても残忍だが、この世にどうしてこのようなことがあろう。わたしが舁いで帰って治療しよう。死ねばわたしが葬り、生きればわたしの妻にしよう。」。彭は言った。「それはよい。」。すぐに証文を書いて渡した。半年後、亡くなった。臨終の時、楊に言った。「ご高義を蒙り、感激は心脾に沁みております。伉儷(めおと)の縁を結ぶのを、老親が気前よく承諾しましたから、飲食坐臥の際は、嫌疑を恐れず、抑えたりいたり撫でたり摩ったりして、まったく憚りませんでした。しかし病躯は憔悴し、結局一度も枕衾に進むことができなかったのは、本当に恥ずかしゅうございます。歿しても幽鬼にならねば、何も申すことはございませんが、魂魄に知覚があれば、かならずお報いしましょう。」。嗚咽して死んだ。楊は涕泣して葬った。葬った後、毎晩女が来るのを夢み、親しみ、楽しみ、まるで生者のようであったが、醒めれば見たものはいないのであった。夜中に呼んだが、まったく出ず、一たび目を閉じ、すぐに服を緩めて横臥した。久しく往来すると、夢の中でも夢と知り、姿を現そうとしない理由を質した。すると言った。「わたしは幽鬼が話すのを聞いたのですが、人は陽で幽鬼は陰ですので、陰で陽を犯せば、かならず人に害せられるということでございます。しかし眠れば陽は収まって陰に入りますので、幽鬼と会えます。(こころ)が遇って(からだ)は接しなければ、害はございません。」。これは丁亥の春のことで、辛卯春四年までそうしていた。わたしが帰った後[276]、その結末がどうなったかは知らない。そもそも盧充の金碗[277]は、古にかつて聞いたことであり、宋玉の瑶姫[278]は、たまたま一見したものである。日日会うことが、すべて夢の中であったという話は、典籍にまれに見ることである。

  
  孟家の媼が清明に墓参して帰るとき、渇いて人家で飲み物を求めた。見ると娘が樹の下に立ち、姿はたいへん艶麗であった。水を取り、媼に飲ませおわると、迎えてともに坐し、たいへんうちとけた。媼がその父母兄弟を尋ねると、応答はきちんとしていた。そこで戯れて尋ねた。「すでに婚約されていますか。あなたのために媒妁しましょう。」。娘は赤面して避けて入り、呼んでも出てこなかった。時にすでに日暮れであったので、別れを告げないで去った。半年後、媼の息子のために縁談を持ち込む者がいたので、尋ねると、前の娘であったので、望外のことと大いに喜び、いそいで成就することを促した。結婚の後、媼はかれの肩を撫でて言った。「数ヶ月会わないうちに、さらに成長しましたね。」。娘は驚いて何と答えてよいか分からなかった。顛末をくわしく尋ねると、娘は十歳で母を失い、母の実家で養われること五六年、納幣[279]の後にはじめて家に戻ったことが分かった。媼が墓参した時は、もとより家にいっていなかった。娘の家は母の実家であったし、さらにすこぶる窮乏していたので、媼がみずからかれの聡明さを見たのでなければ、結婚が成就したとは限らなかった。どんな鬼魅が姿を変えてそのよしみを結んだのか分からなかった。さらに鬼魅がどういう趣旨で、姿を変えてそのよしみを結ぼうとしたのかも分からなかった。事理で推せないことがあるが、この類がそれである。

  
  交河[280]の蘇斗南[281]は、雍正癸丑の会試から帰り、白溝河[282]に至ったところ、一人の友人と酒肆で遇った。友人は役人を辞めたばかりで、飲んで酔った後、怨み、憤り、善悪の報いがないことを恨んでいた。たまたま一人の男が褶褲[283]の急ぎの装いで、樹に馬を繋ぎ、やはり対座し、しばらく耳を欹てると、その友人に揖して言った。「因果に誤りがあることを疑われますか。そもそも色を好む者がかならず病み、賭博を嗜む者がかならず敗れるのは、勢いであり、財を奪う者がかならず誅殺せられ、人を殺す者がかならず処刑されるのは、理なのです。ともに色を好んでも体質に強弱があり、ともに賭博を嗜んでも技術に巧拙がありますから、勢いは等しくすることはできず、ともに財貨を奪っても主犯があり、従犯がありますし、ともに人を殺しても誤殺があり、故殺がありますから、別々に論ずるべきです。この(かん)の消息は微妙なものです。その(かん)は功と過が償いあい、ある時は報いがないことを報いとし、罪福が尽きていなければ、ある時は報いがあってもすぐには報いず、こまかく比べあわせれば、ますます微妙になるのです[284]。あなたは目の前に見えることに拘って、天道は明察していないと疑っていますが、何と愚かなことでしょう。それにあなたもどうして天道を怨めましょう。あなたの(さだめ)はもともと流外[285]出身で、官は七品に至るべきだったのですが、謀略が多端、偵察が巧妙で、利に近づき、害を避けることに巧みで、追い落としに長けていたので[286]、官を削って八品にしたのです。八品に移った時に、自分は謀略に巧みだったので、九品から昇進したのだとお思いでしたが、謀略が巧妙であったために、七品から降格されたのです。」。そして耳打ちして語り、それが終わると、大声で言った。「お忘れですか。」。そこで驚いて汗は背を潤した。尋ねた。「どうしてご存じなのです。」。かすかに笑って言った。「わたしだけではありません。三界はみな知っています。」。首を振って馬に乗ると、黄塵の滾滾然としているのが見えるばかり、たちまち姿が消えた。

  
  乾隆壬戌癸亥の間、村落の男女は、しばしば奇病を得た。男子は尻の骨に尾を生じたが、鹿の角か珊瑚の枝のよう、娘は陰核を患い、葡萄か芝菌[287]のようであった。療やせる者が、一たび割けばたちまち癒えたが、癒やさなければ死んだ。妖人が薬を井戸に入れ、人に水を飲ませてこの病にさせ、利を取っているのだと喧伝されていた。内閣学士永公は時に河間の太守となっていたが、ある人が医者を捕らえて懲らしめるように頼んだ。公は言った。「そのことはまことに疑わしいが、確かな証拠はない。一つの村には二三の井戸があるに過ぎないのだから、厳しく見張れば、その術を施さなかろう。一たび捕らえて尋ねれば、もうこの病を癒やそうとする人はいなくなり、死者は多くなるだろう。万事その後のことを熟慮するべきだ、あまり急ぐな。」。かたく許さなかった。病もその後収まった。府の人はあるものは事態を鎮定したと言い、あるものはを悪人を放置したとした。後にわたしが烏魯木斉(ウルムチ)にいたときのこと、牛が少なく価格が騰がり、農民がすこぶる憂えていたので、肉屋を厳禁したところ、価格ははたして下がった。しかし牛を売る者は牛が安くなったことを聞くと、また来ようとせず、翌年、牛の値はますます貴くなった。その禁を緩めると、はじめて価格が安定した。さらに、深山の中から金を盗掘するものは、ほとんど数百人であったが、捕縛すれば変乱を激発する恐れがあったし、放任すればさらに癰を養う恐れがあったので、策を設けてかれらの糧道を断ったところ、飢えて逃げ出してきた。しかし逃げ出してきた後に、みな窮して盗賊となったので、巡邏捕縛で、ひねもす紛紛としていた。半年経理して、はじめて安らかになることができた。天下のことは、その一を知り、その二を知らず、目前の効果を収めることがあると、後日の憂えを齎すことが分かる。はじめて永公の熟慮に服し、その後の一言は、まことに瞻言百里[288]である。

 

最終更新日:2019813

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[1] https://www.zdic.net/hans/%E8%AA%A3%E5%BC%95 無実の人を事件の一味として誣告すること。

[2]未詳だが、緊急の令状であろう。

[3]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E175237.htmくすしき光。

[4]原文「風俗日、神道亦與人為善。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[5]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA996316.htm道家で天上の官署を称する。

[6]http://www.bjmem.com/bjm/jcyt/qlqt/200908/t20090826_14627.htm衚衕名。

http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%83%A1%E5%90%8C%E5%88%97%E8%A1%A8

[7]http://tw.myblog.yahoo.com/jwob4NscCdAxS_yWJbxTvlgfR./article?mid=48893&prev=-1&next=48884雍正二年進士。

[8]田中儀。字は無昝、号は白岩、詩人田雯の子、徳州の人。歳貢生、鑾儀衛経歴となる。詩詞を好み、『紅雨書斎詩集』がある。

[9]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE9ZdicB9ZdicA484730.htm仙人。ここでは狐を指す。

[10]原文「似桑下浮圖」。「浮図」は「浮屠」。僧侶のこと。

http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicAE71839.htm桑下浮圖」は「浮屠不三宿桑下」にちなむ言葉で、ここでは長居しないものを指す。『後漢書』襄楷伝「又聞宮中立浮屠之祠。此道清、貴尚無為、好生惡殺、省慾去奢。今陛下嗜欲不去、殺罰過理、既乖其道、豈獲其祚哉。或言老子入夷狄為浮屠。浮屠不三宿桑下、不欲久生恩愛、精之至也。天神遺以好女、浮屠曰、此但革囊盛血。遂不眄之。其守一如此、乃能成道。今陛下婬女豔婦、極天下之麗、甘肥飲美、單天下之味、柰何欲如老乎。」。

[11]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5Zdic8CZdic8F28968.htm

[12]http://cy.kdd.cc/M/115/なるえること。違ったもの同士同居すること

[13]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic85ZdicB964595.htm至誠心。

[14]原文「伏惟鑒燭」。「鑒燭」が未詳。とりあえずこう訳す。

[15]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9ZdicA9ZdicB569583.htm牲畜を交易する人。

[16]http://baike.baidu.com/view/154704.htm.func=retitle田雯。(千六百三十五〜千七百四)字は子綸、(紫綸とも)また綸霞とも、号は山姜、年蒙斎と号した。徳州の人。康熙三年(千六百六十四年)進士、戸部侍郎に至った。『古懽堂集』三十六巻、『黔書』二巻、および『長河志籍考』十巻がある。

[17]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8Zdic8AZdicB8202033.htm書簽。また籍をも指す。

[18]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicB8ZdicA682068.htm鴉を描く。下手な字を書く。字を書くことを謙遜して言う言葉。

[19]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9ZdicB8ZdicB284687.htm

[20]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85325333.htm

[21]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicAFZdic99254711.htm諧謔嘲弄。

[22]巻四に見える。

[23]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA104827.htm官吏の母をいう。

[24]原文「故陷之井而不知耳」。いうまでもなく、井の中の蛙(「陷井之蛙」)になっていたということ。「陷井之蛙」は『荘子』秋水篇に見える言葉。

[25]何磷。http://blog.sina.com.cn/s/blog_5c7d8ac30100hruq.html 

[26]湖南諧謔寶慶府の県名。

[27]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C111071.htm副職をいう。

[28]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE8Zdic90ZdicBD321993.htm冷淡なさま

[29]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB6262.htm書体名。http://images.google.com/images?um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E5%85%AB%E5%88%86%E6%9B%B8&aq=f&oq=&start=0

[30]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicA489276.htm仏像。

[31]山気の色。

[32]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic83Zdic9F158864.htm水キセル。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%85%99%E7%AD%92&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[33]http://baike.baidu.com/view/4314.htm

[34]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8ZdicB5ZdicA7209203.htm恥じて顔を赤らめるさま。

[35]http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE9ZdicADZdic94311893.htm修行の妨げ。

[36]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE5ZdicBEZdicB5334278.htm徴士の尊称。徴士は朝廷の招聘に応じなかった隠士。http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE5ZdicBEZdicB5334259.htm

[37]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%AD%B8%E9%B4%BB%E5%84%92%E7%A7%91紀Q。

[38]後注参照。

[39]http://baike.baidu.com/view/204485.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E9%81%94

『水』巻二十八「魏文帝合房陵、上庸、西城、立以新城郡、以孟達太守、治房陵故。有粉水、居其上、故曰上粉也。堵水之旁有溪、岸土色黄、乃云可啖。有言此水者、令人無病而寿、其信乎。又有白山、山石似、望之逼真。之白塞。孟達守、登之而曰:劉封、申耽据金城千里、而更失之乎。上堵吟』、音韻哀切、有人心、今水次尚歌之。」。

[40]ぼされた国。前朝。http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic83Zdic9C153234.htm

[41]http://baike.baidu.com/view/6082.htm

http://baike.baidu.com/view/28276.htm参知は布政使。

[42]http://www.zdic.net/cd/jd/23/ZdicE9ZdicACZdic9F60680.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%AC%9F%E9%AB%BB&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[43]原文同じ。文脈からして「月影」を指していると思われるが、月光を「陽光」というのが適切かどうかは未詳。

[44]未詳。

[45]物を移動させる術。

[46]原文「將托以箕斂。」。「箕斂」は苛斂誅求のこと。http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicAEZdic95192694.htm

[47]李若龍。東光県(今河北省東光県)李荘の人、字は又、雍正十三年(千七百三十五年)挙人、著に『又詩草』がある。光緒『東光県志』に「文詞精粋、詩類香山」とある。

[48]岳父。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicA4Zdic9695593.htm

[49]馬永図。号は旭亭、直隷東光の人。

[50]『清史稿』巻六十四・甘肅諧謔安西直隸州「安西直隸州:衝、繁、疲、難.隸安肅道.明、赤斤、沙州二衛.後以番擾徙、空其地.康熙五十七年、番族附、置靖逆、赤斤二%、設靖逆同知領之、尋攝ン通判、治柳溝.」

[51]未詳。

[52]湖南桂陽直隸州。

[53]湖南衡州府の県名。

[54]未詳。

[55]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicACZdicBC85169.htm鬼道。佛教六道の一つ。

[56]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic86ZdicA550553.htm冥土

[57]原文「苟不求生、神不強也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[58]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6ZdicBAZdic9F142381.htm暮色

[59]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312714.htm占いの一種。

[60]http://baike.baidu.com/view/7347.htm自分に冷たい継母に孝行したことで有名。

[61]http://baike.baidu.com/view/100574.htm

[62]未詳。

[63]千総は下級の武官。http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic8DZdic839244.htm茹大業は第五巻・第十三巻にも出てくる。

[64]http://baike.baidu.com/view/1117410.htm

[65]原文「爍動之性為陰所解」。未詳。とりあえずこう訳す。

[66]http://baike.baidu.com/view/252339.htmhttp://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E7%A4%AC%E7%9F%B3&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[67]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9018614.htm清代八旗組織基本位の名称。満語“牛”の漢訳口、田宅、兵籍、訴訟等を掌管する。

[68]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE9Zdic9BZdic8D25868.htm古の九州の一つ。

[69]『佩文韻府』引『詩地理攷』「雍州厚土水深、其民重厚質直。」。

[70]徐歩雲。興化の人。

[71]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic91273636.htmのある井戸。

[72]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic93ZdicB6270050.htm井桁

[73]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF339891.htm城門の上の望楼。

[74]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9B209646.htm林の中の祠。

[75]http://www.zdic.net/cd/jd/22/ZdicE6ZdicB0Zdic8D333647.htm絨毯。

[76]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6ZdicA3Zdic8B139156.htm碁盤。

[77]乾隆三十三年に烏魯木齊辦事大臣。乾隆三十五年に烏魯木齊參贊大臣。

[78]未詳。

[79]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic8AZdic84347650.htm対峙。

[80]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1Zdic9F295409.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%B1%9F%E8%A5%BF%E8%85%8A&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[81]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE8Zdic91ZdicB3320261.htm茂って垂れるさま。

[82]『清史稿』巻一百十四・部三庫・倉場・關各差「總督倉場侍郎、滿、漢各一人、(分駐通州新城.)掌倉穀委積、北河運務.」。

[83]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic87ZdicBA100675.htm地方官となること。

[84]虞美人草。

[85]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic91269297.htm芍薬の一種。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%87%91%E5%B8%A6%E5%9B%B4&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[86]未詳。

[87]http://baike.baidu.com/view/7373.htm

[88]『山谷老人刀筆』という書物がある。黄庭堅の尺牘集でかれの編。

[89]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic88Zdic8D300983.htm辺地への流刑。

[90]直隸順天府の県名。

[91]未詳。

[92]原文「不得主名」。未詳。とりあえずこう

[93]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicB7ZdicA1243701.htm官名。巡検使。

[94]『清史稿』巻十二・乾隆二十九年「癸丑、築呼圖壁城成、賜名曰景化.」。

[95]未詳。

[96]直隷宣化府の県名。

[97]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic9089444.htm道家の養生術の一つ。

[98]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%B7%A9%E6%80%A5%E5%85%88%E5%BE%8C&lr=&aq=f&oq=

[99]名。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic97Zdic88304615.htm

[100]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic8BZdic98293010.htm筋肉のひきつり。

[101]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%A5%9E%E4%B8%8D%E6%AD%B8%E8%88%8D&lr=&aq=f&oq=未詳だが、心神喪失の状態であろう。

[102]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5ZdicAEZdicB9325705.htm黄帝大臣、発明したとされる

[103]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5ZdicBDZdicAD323727.htm導引の術により八百歳まで生きたとされる人物。http://dic.yahoo.co.jp/search?stype=0&ei=UTF-8&dtype=2&p=%E5%BD%AD%E7%A5%96

[104]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE6ZdicA8ZdicAA134048.htm原文同じ。未詳。

[105]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9CZdic8D143282.htm丹薬を服用すること。

[106]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC223580.htm納導などによる長生術。吐については前注参照。

[107]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicADZdic98125606.htm精神を養うこと。

[108]恐れ慎むさま。http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE5Zdic85ZdicA2311735.htm

[109]http://baike.baidu.com/view/283885.htm人体内で煉成されるという不死の丹薬。

[110]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic87228851.htm「万劫」はきわめて長い期間。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%90%AC%E5%8A%AB%E4%B8%8D%E5%A3%9E&lr=&aq=f&oq=「万劫不壊」の用例。

[111]原文「不如其已。」。『老子』第九章「持而盈之、不如其已。」。

[112]未詳。

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic8AZdicA6234987.htm伍子胥。『呉越春秋·王僚使公子光』「楚之亡臣伍子胥奔呉、至江、夫渡之。子胥有色、曰、子取餉。夫去後、子胥疑之、乃潜身於深之中。有夫来、呼之曰、蘆中人、蘆中人、士乎。http://baike.baidu.com/view/16593.htm

[114]前注参照

[115] 「希英」に関していっているのであろう。

[116]未詳。

[117]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic89Zdic8D324692.htm父親の前妻。

[118]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic99Zdic9A42886.htmは病症名。方はその処方。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%99%9B%E6%90%8D%E6%96%B9&lr=&aq=f&oq=虚損方の用例。

[119]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%A8%AE%E5%AD%90%E6%96%B9&lr=&aq=f&oq=種子方の用例。謝観等編著『中国医学大辞典』千四頁にも「種子」の項目がある。

[120]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic83ZdicAD215470.htm中医で性あるいは温性をもつ。附子、肉桂、干姜等。

[121]未詳だが、蓄積した毒であろう。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%98%8A%E6%AF%92&lr=&aq=f&oq=毒」という言葉の用例。

[122] 原文同じ。未詳。文脈からして子供のことか。

[123]未詳。

[124]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE8Zdic99Zdic9A.htm虚弱を補うこと。

[125]虚弱の症状。http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE8ZdicADZdic89.htm

[126]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A15090.htm胃の上から舌の下までの部位。

[127]腹腔の上部。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD333078.htm

[128]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8B16317.htm腹腔の下部。

[129]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic8DZdicA3149065.htmは血の循環、は気の周流。

[130]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94157030.htm気息。

[131]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA1Zdic80200074.htm血液。

[132]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%8E%E8%99%9A

http://www.yangshengzhu.com/health/577/47560-1.htm

[133]http://baike.baidu.com/view/349215.htm

[134]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdicA2281959.htm虚によって陽気が偏って盛んになる病理象。

[135]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7Zdic85Zdic8E221149.htm消耗。

[136]山西省南部。http://baike.baidu.com/view/5736.htm

[137] 中央の宮。謝観等編著『中国医学大辞典』二百二十二頁参照。

[138]未詳だが、遼東の人参であろう。

[139] 原文同じ。未詳。

[140] 原文「即以藥論,亦各有運用之權。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[141]未詳。

[142]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E9%A2%A8

[143]未詳。八巻、十三巻にも出てくる。

[144]http://baike.baidu.com/view/598360.htm

[145]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6ZdicB7Zdic8513773.htm擬音語。さらさら。

[146]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE7ZdicAAZdicB8165677.htmささやかな音の擬音語。

[147]http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE9ZdicB9Zdic8A16311.htm他人の家を強奪すること。「鵲巢鳩居」とも。

[148]十四巻、二十巻にも出てくる。

[149]名医扁。盧国にいた。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8DZdicA2161072.htm

[150]http://baike.baidu.com/view/78251.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%96%B9%E7%AB%B9&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[151]未詳。

[152]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic8EZdic89331318.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%8E%89%E7%B0%AA&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[153]直隷河間府の県名。

[154]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicA7ZdicA8218185.htm母親の姉妹。

[155]http://baike.baidu.com/view/126446.htm

[156]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicB0ZdicBC215192.htm孔子。

[157]経書を講義する教師。http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F237264.htm

[158]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicACZdicBC258681.htm死者の名簿。

[159]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic9DZdic8F302391.htm孔子が講学したところ。また、正統の儒学。

[160]http://www.hudong.com/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E9%A2%96

[161]第一巻参照。http://yuzhi68.web.fc2.com/yw01.htm

[162]『清史稿』列傳・巻二百九十九に見える。王郡の子。http://baike.baidu.com/view/1415230.htm

[163]未詳。

[164]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic83ZdicB4181534.htm恐れるさま。

[165]布団を見ると、夫婦が情交した痕跡があったということであろう。

[166]虞舜のの司法官。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9AZdic8B73829.htm

[167]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA295871.htm凶神。悪人。

[168]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic9FZdic8E30476.htm四年間の築城を科する刑罰。

[169]『易』蒙「見金夫不有躬」。

[170]江蘇鎮江府の県名。

[171]未詳だが、県庁で、県知事の家族などが住んでいるプライベートな場所であろう。

[172]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB295010.htm料理を作る僕。

[173]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdic95144926.htm物入れを兼ねた枕。

[174]直隷冀州直隸州の県名。

[175]http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[176]http://painting.npm.gov.tw/npm_public/System/View.jsp?type=1&ObjectID=6649

[177]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE9ZdicA2Zdic9D57383.htm駙馬清代、皇女の配偶者の称号。

[178]少宰は吏部侍郎。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB0Zdic9187849.htm

http://baike.baidu.com/view/218168.htm

[179]巻十三にも見える。

[180]霜がおりる頃の蟹。美味とされる。http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE9Zdic9CZdic9C265521.htm

[181]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6Zdic96ZdicB0222970.htm新たに漉した酒。

[182]色彩名かと思われるが未詳。石青のことか。http://baike.baidu.com/view/598360.htm

[183]鈎鑲。武器名。

http://baike.baidu.com/view/254408.html?fromTaglisthttp://images.google.com/images?q=%E9%88%8E%E9%91%B2&um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=2&start=0

[184]献県の盗賊。巻九・十三に見える。

[185]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87299180.htm占いの一種。

[186]山東濟南府の県名。

[187]宋来会、字は清源、清遠、号は秋圃、徳州の人。雍正癸卯の拔貢。『近思斎集』がある。

[188]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA104827.htm官吏の母をいう。

[189]『儀禮』喪服。

[190]原文「物不兩大」。未詳。とりあえずこう訳す。

[191]原文「是雖妒口」。未詳。とりあえずこう

[192]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdicAD282845.htm悪鳥。忘恩負義あるいは凶悪

[193]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE9ZdicB2ZdicB873033.htm凶悪なものの

[194]原文「鯨鯢就築」。未詳。とりあえずこう

[195]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic97Zdic8F161565.htm一族皆殺

[196]主語は記されていないがもちろん甲であろう。

[197]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic83ZdicB4181534.htm恐れるさま。

[198]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB4ZdicAA282272.htm天下。

[199]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4323490.htm苦難。

[200]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicA3Zdic9F281223.htm土地からとれる食物をたべること。君恩を受けること。

[201]清に叛していたとき。

[202]http://baike.baidu.com/view/54993.htm

[203]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicA5Zdic9A122224.htm国を滅ぼした敵に復讐をしようとするもの。

[204]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9ZdicA1ZdicBD279191.htm周に服さなかった殷の遺民。

[205]原文「又操戈挾制」。「挾制」は脅すこと。http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic8CZdic9F281712.htm操戈」は「同室操戈」という言葉があり、本来兄弟同士で争うことだが、ここでは仲間同士の争いのことであろう。http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C327818.htm

[206]第一巻・十巻・十三巻・十四巻にも見える。

[207]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicAEZdicA237600.htm雇われ人。

[208]主夜神の梵名が「婆珊婆演底」のようである。http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E4%BD%9B%E5%AD%B8%E5%A4%A7%E8%BE%AD%E5%85%B8/%E5%A9%86%E7%8F%8A%E5%A9%86%E6%BC%94%E5%BA%95

[209]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic88Zdic85320947.htm

[210]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic88Zdic85320947.htm母の弟。

[211]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicBCZdic9380881.htm怪声を発する妖物。

[212]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicA0Zdic97321639.htm恐れ震えるさま。

[213]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」。

[214]http://baike.baidu.com/view/368268.html?fromTaglist『捜神記』に出てくる人物。幽鬼が人の唾を恐れることを聞きだし、幽鬼がになるともとに戻らないように唾をつけ、市場で売った。

[215]前注参照。

[216]第五巻・第七巻にも出てくる。

[217]http://baike.baidu.com/view/40535.htm

[218]原文「書生窘愧」。未詳。とりあえずこう訳す。

[219]原文「慙沮良久」。未詳。とりあえずこう訳す。

[220]http://baike.baidu.com/view/209252.html

[221]山西太原府の県名。

[222]原文「主余家最久」。未詳。とりあえずこう訳す。

[223]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD316410.htm幽咽は音が暗く軽いこと。

[224]http://baike.baidu.com/view/217986.htm

[225]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE8ZdicB5Zdic9E241269.htm官名。

[226]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E69301.htm建物の上の装物、力でき音を発する

[227]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic90ZdicBC218147.htm華美な建物。

[228]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE8ZdicB4Zdic9D237587.htm壮麗な宮室。

[229]『神女賦』「薄怒以自持兮、曾不可乎犯干。」

[230]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD122994.htm奥深盤曲していること

[231]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B96035.htm扶桑。

[232]前注参照

[233]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicB5ZdicA4235639.htm未詳だが文脈からして丹薬であろう

[234]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic91Zdic95105397.htm嘔吐。

[235]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8D112253.htm名士が集う場所。

[236]http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE9ZdicADZdic94311893.htm障害。

[237]今の滄県荘。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%A7%E5%8E%BF%E5%B4%94%E5%B0%94%E5%BA%84%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[238]http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE7ZdicBFZdicB3205770.htm茂るさま。

[239]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD97801.htm奥深いこと。

[240]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic8CZdicB6202911.htm、茶杯等

[241]おそれつつしむさま。

[242]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE7ZdicB0Zdic8F.htm竹の箱。

[243]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%8D%BE&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[244]原文「斯皆空穴來風之義也。」。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7ZdicA9ZdicBA29047.htm「空穴來風」「火のないところにたぬ」の意だが、ここでは文脈に合わない。人家がない場所にあやかしが住みつくということであろう。

[245]原文「及官撫軍」。撫軍は巡撫。巡撫の属官になったということであろう。

[246]http://baike.baidu.com/view/1951094.htm

[247]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%BE%85%E5%9B%BD

[248]『杜陽雑編』第一巻「先是肅宗賜輔國香玉闢邪二、各高一尺五寸、奇巧殆非人間所有。其玉之香、可聞於數百、雖鏁之於金函石匱、終不能掩其氣。或以衣裾誤拂、則芬馥經年。縱澣濯數四、亦不消歇。輔國常置於座側。一日方巾櫛、而闢邪忽一大笑、一悲號。

[249]未詳。水蒼玉のことかhttp://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB470518.htm

[250]http://baike.baidu.com/view/1144808.htm

[251]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicA7ZdicA8218185.htm母の姉妹。

[252]http://baike.baidu.com/view/605676.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9F%B4%E7%AA%AF&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[253]原文「夫君子可欺以其方」。「君子可欺以其方」は『孟子』萬章章句上に見える言葉。

[254]雨上がりの晴れた空。青磁の色をいう。

[255]巴爾庫勒とも。雍正七年以降の巴里坤。清史稿・巻七十六新疆・鎮西直隸廳「康熙三十六年、平準爾、阿爾泰山以東地屬.雍正七年、建城於巴爾庫勒、改名巴里坤.」。

[256]http://baike.baidu.com/view/77680.htm

[257]http://hanyu.iciba.com/wiki/index.php?doc-view-236152

[258]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicB713509.htm

[259]原文同じ。まったく未詳。

[260]http://baike.baidu.com/view/181846.htm

[261]http://www.oldbeijing.mobi/Article/Class1/Class33/6255.html水月庵は二箇所あったらしい。http://baike.baidu.com/view/367854.htm

[262]巻二十四にも出てくる。

[263]巻九・十六・十八にも出てくる。

[264]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9D333340.htm方術。

[265]劉統勳。http://baike.baidu.com/view/79431.htm

[266]http://baike.baidu.com/view/329648.html

[267]乾隆四十九年。千七百八十四年。

[268]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic9BZdicB8178018.htm人相見。

[269]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdic94328812.htm水、木、金、火、土星。

[270]未詳。

[271]公堂で上司に謁見すること。http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicA0Zdic82301187.htm

[272]http://baike.baidu.com/view/566831.htm伊犁に流刑となった。

[273]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicADZdic90311314.htm星占い師。

[274]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic89309608.htm風水のよい墓地。

[275]未詳。

[276]紀ホは千七百七十年、乾隆三十五年に、流刑地烏魯木斉から帰還。

[277]『搜神』巻十六http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%9B%A7%E5%85%85+%E9%87%91%E7%A2%97&btnG=Google+%E6%90%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=

[278]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7Zdic91ZdicB6132722.htm巫山の神女。

http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7Zdic91ZdicB6132722.htm

[279]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicBAZdicB3206283.htm婚礼六礼の一つ。結納を女の家に贈ること。

[280]直隷河間府の県名。

[281]巻十三にも出てくる。

[282]今の河北雄、容城、定http://baike.baidu.com/view/731930.htm

[283]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE8ZdicA4ZdicB6201272.htm服。

[284]原文「毫釐比較、益微乎微矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[285]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5Zdic81310601.htm九品以下の官

[286]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic8CZdicA4155206.htm原文「深於擠排」。とりあえずこう訳す。

[287]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8Zdic8AZdic9D202006.htm霊芝。

[288]http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE7Zdic9EZdicBB187624.htm「瞻言」は遠くを見据えた議論。「瞻言百里」は『·大雅·桑柔』に見える言葉。

 

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