第四卷

灤陽消夏録四

 

  臥虎山人[1]が田白岩[2]の家で乩に下ると、人々は香を焚いて祈った。すると、一人の狂生が(つくえ)に倚って斜めに坐り、言った。「江湖の遊士[3]は、熟練した技術で戯れているだけだ。神仙が日々人の呼びかけに従うことがあるものか。」。乩はすぐに下壇詩を書いて言った。「鶗鴃[4]秋に驚き啼きて(とど)まらず、章台(かうべ)(めぐ)らせば柳萋萋たり。花開き約あり腸空しく断つ、雲散じ(あと)なく夢も迷ふ。小立してひそかに(はじ)く金屈戍[5]、半酣笑ひて勧む玉東西[6]。琵琶また当年のごとしや否や、為に問潯陽[7]估客[8]の妻。」。狂生は大いに驚き、思わず跪いた。そもそもかれが数日前、ひそかに馴染みの妓女に寄せた作で、保存しなかったものであった。仙はさらにお告げした。「この手紙を届けなかったのは幸いだった。届ければ歩非煙[9]の二の舞になってしまっていた。この女はすでに落籍されているから、人の閨閣を窺ったことになる。香山居士はたまたま寓言を作ったのだが[10]、君はこれを本当のことと見ているのか。風流(いろこい)の佳話は、多くは地獄への入り口である。昨日、冥官の録籍を見たので、わたしは記憶することができたのだ。業海[11]の洪波は、振り返れば岸なのだ。山人(わたし)はよく喋ったが、本当は心を苦しませている。先生は余計なことを申しあげたのを訝らないでくれ。」。狂生は案の傍に首を伸ばして立ち、ほとんど顔面蒼白となり、一年余り後に亡くなった。わたしが見た扶では、この仙だけが吉凶を談ぜず、人の過ちを正すのを好んでいた。霊鬼の耿介な者であろうか。亡き姚安公はもともと淫祀を憎んでいたが、この仙に遇う時だけは、かならず長揖して言った。「このように厳格であれば、幽鬼であっても敬うべきだ。」。

  
  姚安公が落第した時、扶乩する者に遇い、功名があるかないかを尋ねると、「前程万里」とお告げがあった。さらに、及第するのはいつの年かと尋ねると、「及第するのは一万年待たねばならない。」とお告げがあったので、ほかの方途によって立身するべきなのだろうかと思ったが、癸巳万寿科[12]に及んで及第したので、はじめて「万年」の意味を悟った。後に官位は雲南姚安府知府となり、乞養[13]して帰り、ふたたび出仕しなかった。「前程万里」の説も験があった。幻術というものは手先の器用さによるものが多いが、扶乩だけは、たしかに拠りどころがあり、いずれも霊鬼の能文の者である。某神某仙と称するものは、もとより偽りであり、みずから某代某人と称する者は、本集の中の詩文のことを尋ねても、おおくは年が古くて忘れたといい、答えられない。その扶乩の人は、能書の者に遇えば書が巧みであり、詩が上手な者に遇えば詩が巧みであり、詩も書もまったく下手な者に遇えば、一篇を作ってもぐずぐずしている。わたしはやや詩が上手だが書が下手であり、いとこの坦居は、能書だが詩が下手である。わたしが扶乩すれば詩はすぐできるが書は下手で、坦居が扶乩すれば書は端正だが詩は粗雑である。わたしと坦居は、本当にどちらも意識しているわけではないが、やはり人の精神を借り、はじめて運動できているのであろう。いわゆる「鬼はおのづから霊ならず、人を待って霊なり[14]」ということである。(めどぎ)や亀はもともと枯れた草、朽ちた甲だが、吉凶を知ることができるのも、「人を待って霊なり」ということである。

  
  亡き外祖父は衛の東岸に住んでいたが、楼は水辺に臨んでおり、「度帆」といった。その楼は西向きであったが、楼の下の階は、入り口が東向きで、東には庭が別にあり、楼と通じていなかった。以前、下男史錦捷の妻が、その庭で縊れていた。そのため、久しく住む人がいなかったが、鎖されてもいなかった。ある下男下女はこのことを知らず、夜半にこちらで密会したが、入り口の外をと人が歩くかのようにしているのを聞いた。見られるのを懼れ、伏して動こうとせず、ひそかに入り口の隙間から窺うと、一人の縊鬼が階の上を歩み、月に向かってかすかに嘆いていた。二人は震え、いずれも入り口の中でじっとし、出ようとしなかった。入り口は二人に押えられていたので、幽鬼も入ろうとせず、しばらくじっとしていたが、犬が幽鬼を見て吠え、犬たちが聞く声も集まって吠えた。盗賊がいると思い、燭を点して武器を持って往くと、幽鬼は隠れ、下男下女の姦淫は露顕し、下女は恥ずかしさに堪えきれず、晩になるとやはりその庭に往って縊れた。気づかれて助けられたが、さらにひそかに往き、その父母のもとに還されるとやめた。そこで幽鬼は部屋に入ろうとしなかったのではなく、二人の姦淫を暴露し、恥ずかしがらせて縊れさせ、代わりにしようとしていたことを悟った。外祖母は言った。「あの女は生まれながらにして狡猾だったが、死んでもそうであったか。浮かばれないのも当然だ。」。亡き太夫人は言った。「あの下女があの事をしなければ、幽鬼もどうして乗じられよう。罪を幽鬼に推しつけることはできない。」。

  
  辛彤甫先生が宜陽[15]知県であった時、老叟が書状を投じて言った。「昨日、東の城門の外に宿りましたら、縊鬼五六人を見ましたが、城門の隙間から入っておりました。代わりを求めているのでございましょう。人民に告知して、下男下女を虐げないように、負債は取りたてないように、諸事たがいに譲って争わないようにさせれば、鬼はその技を施さないでしょう。」。先生は激怒し、笞うって追いはらった。老叟も悔やまず、階下にいって膝を打つと言った。「惜しいことだ。五六人の命は、助からない。」。数日後、城内で縊死した者が四人いたと報ぜられた。先生は大いに驚き、いそいで老叟を呼んで尋ねると、老叟は言った。「連日ぼんやりとしていたため、まったく記憶しておりません。以前この書状を投じたことに今気づきましたが、鬼神が怒ってわたしに笞を受けさせたのではございませんか。」。その時、この事は喧伝され、家々は用心したので、縊れて助けられた者が本当に二人いた。一人は嫁が姑に虐げられたものであったが、姑はふかく悔いあらためた。一人は借金に迫られていたが、債主はすぐに証文を焼いてやったので、いずれも死なないですんだ。そこで、運命が前もって定められていても、人力を尽くすことができれば、かならず一二人を救えることが分かった。さらに、人命はいたって重く、鬼神が前もってその死ぬべきことを知っていても、すこしでも救える場合は、かならず人力で救わせることも分かった。そもそも気運[16]−たとえば厳冬の風雪など−が至れば、天や地もそうならざるをえない。しかし、裘を着て雪を防いだり、戸を閉ざして風を避けたりするのは、人に任せられており、そうすることは禁じられていないのである。

  
  献県の史某は、その名は伝わっていない。人柄は小節に拘らず、落落として正気があり、齷齪とした者を馬鹿にして見ていた。たまたま賭場から帰ると、村民の夫婦母子が抱きあって泣いていた。その隣人は言った。「金持ちから借金したため、奥さんを売り、償いするのでございます。夫婦はもともと仲良くしており、子も離乳しておりませんが、棄て去らなければなりませんので、悲しんでいるのでございます。」。史は尋ねた。「借りたのはどれほどだ。」「三十両でございます。」。「売り値はどれほどだ。」「五十両で人の妾となりました。」「贖えるか。」「証文ができたばかりで、金は払われておりませんから、贖えましょう。」。すぐに賭場で得た七十両を出して授けると、言った。「三十両で借金を償い、四十両は手元において生計を立て、二度と売るな。」。夫婦はおおいに史の恩に感じ、鶏を調理すると、引きとめて酒を飲ませた。酒が酣になると、夫は児を抱いて外に出、目で妻に合図し、枕席に進んで報いさせようとした。妻は頷いた。言葉がやや馴れ馴れしくなると、史は色を正して言った。「わたしは半世盗みをし、半世捕り手となり、人を殺しても瞬きしたことがなかった。危急の中で人の婦女を汚すことは、本当にできない。」。飲食しおわると、奮然としてすぐに去り、さらに一言も語らなかった。半月後、住んでいる村で夜に火事があった。時に秋の収穫がちょうど終わっており、家々の屋上屋下には柴草[17]が満ち、茅の簷、(きび)の籬、四面がすべて烈炎となるはずだから、出られまいと思い、妻子とともに瞑目し、坐して死を待っていた。するとたちまち屋上で遥かに叫ぶのが聞こえた。「東岳の緊急の令状がある。史某一家はすべて名を除け。」。がらがらと音がし、後ろの壁が半ば崩れた。そこで左に妻を連れ、右に子を抱き、一躍して出たが、扶けている者がいるかのようであった。火が収まった後、村の中を数えると、焼け死んだ者は九人であった。隣近所はみな合掌して言った。「昨日はまだこっそり笑ってあなたのことを馬鹿だと言っていましたが、七十両が三人の命を贖ったのですね。」。わたしはこれは司命に助けられたと思うが、金を払ったことの功は十の四、色を拒んだことの功は十の六だと思う。

  
  姚安公が刑部で役人をしていた時、徳勝門外で七人の男がともに強盗したが、捕らえられた者は五人であった。王五、金大牙の二人だけは捕らえられなかった。王五は[18]に逃げていったが、路は深い溝に阻まれ、小橋は一人を通すことができるだけ、強い牛が目を怒らせて道に臥しており、近づくとかならず奮いたってぶつかろうとしたので、退いてほかの道を捜した。するとすぐに見回りと遭遇してしまった。金大牙は清河橋[19]の北に逃げていったが、牧童が二頭の牛を駆っており、押されて泥の中に倒れたので、怒って闘った。清河は京師から近く、知っている者がいたので、里胥[20]に告げ、里胥はかれを縛って役所に送った。二人はいずれも回民で、牛を屠ることを生業としていたが、いずれも牛のために失敗したのであった。惨酷に屠殺していたため、畜獣も怨恨を抱き、邪気が乗りうつり、その同類を借りて報いたものに違いない。そうでなければ−牛に遇ってぶつかられて倒されたのは、まだ理の当然であるが−理由もなく橋を塞いでいたのは、誰がそうさせたのか。

  
  宋蒙泉[21]が語った。孫峨山先生[22]がかつて高郵の舟中で病に臥していたが、突然散歩して岸の上に到ったかのようになり、心はことに爽快であった。にわかに人が導いてゆき、恍惚として事情を忘れたが、尋ねもしなかった。ついてゆき、とある家に至ると、門の前の道はたいへん清潔であった。だんだん奥の間に入ると、若い女が蓐に坐っており、避けようとすると、その人が背後から打ったので、昏然として知覚がなくなった。しばらくしてだんだん目醒めると、体はすでに縮み、錦の(むつき)の中に縛って置かれていたので、転生したのだと悟ったが、すでにどうすることもできなかった。話そうとしたが、寒気が(ひよめき)から入り、声を出せなかった。室内の几榻器玩、および対聯書画を見まわすと、すべてはっきりとしていた。三日目になると、下女が抱いて湯浴みさせたが、手を滑らせて地に落とした。すると、また昏然として知覚がなくなり、目醒めればまだ舟の中に臥していた。家人は言った。「息絶えてすでに三日、四肢は軟らかく、胸元がまだ温かかったので、納棺しようとしなかったのだ。」。先生はいそいで紙きれを取り、見聞きしたことを記録し、使いを遣わし、ある路を通ってある家に送り、下女を打ち過ぎないようにと告げさせた。そして家人にくわしく話した。その日、病はすぐに癒えたので、ただちにその家に往くと、婆やはすべて旧知のようであった。主人は老いて子がなく、相対して悲嘆して驚くばかりであった。近頃、夢通政鑑溪[23]にもこのことがあり、やはりその道と家を記憶していたが、訪ねると、その日に子を産んですぐに死んだということであった。さきほど直廬[24]で、図閣学時泉[25]がその様子をたいへんくわしく語ったが、おおむね峨山先生の話したことと似ていた。ただ、峨山先生は往くときのことを記憶していて帰るときのことを記憶しておらず、鑑溪は往き帰りをすべてはっきりしており、途中で先に亡くなった夫人に遇って家にゆき、部屋に入った時に、夫人と女がともに坐っているのを見たのが、やや異なっているだけである。案ずるに輪迴の説は、儒者の避けるものであるが、実はしばしばあるのである。前因があれば後果があり、その理はもとより嘘ではない。二公だけはしばらく輪迴に入り、すぐもとの体に帰った。ゆえなくこの泡影[26]が現れたことは、理によって推しはかることはできない。「六合[27]の外のことは、聖人は存して論じない[28]」ので、疑わしいことはそのままにしておいてよい。

  
  再従伯[29]の燦臣公[30]が言った。「以前、県令がおり、殺人事件に遇って判決することができず、ぐずぐずとして日を経ていた。城隍の祠で夢占いし、夢みたところ、神が一人の幽鬼を引いてきたが、幽鬼は首に磁器の(はち)を戴き、の中に竹十余本を種えてあり、(あお)(みどり)で愛すべきものであった。目覚めてから、調べると、文書の中に姓が祝の者がいた[31]ので、祝と竹は音が同じだから、かならずかれだと思った。徹底的に調べても証拠はなかった。さらに調べると、文書の中で名に節の字がある者がいたので、竹には節があるからかならずかれだとひそかに思った。徹底的に調べたが証拠はなかった。しかし二人は九対一で、生きる見込みもあった。県令はそれ以上どうしようもなく、疑獄として上級官庁に報告し、ほかに人を殺した者を捕らえることを請うたが、結局それもできなかった。」。そもそも疑獄は、虚心に取り調べれば、実情を得ることができるかもしれない。神に祈ったり、夢占いしたりしたという話は、愚民を懾伏させ、紿いて事実を吐かせるだけに過ぎない。ぼんやりとした夢をもとに、射覆[32]の憶測を加え、それによって判決にすれば、偽りでないことはすくない。古来の、夢占いして断獄した話は、わたしはすべて事後の附会だと思う。

  
  雍正壬子六月、夜に大雷雨があり、献県の城西で、ある村民が雷に撃たれた。県令の明公晟[33]は調べにゆき、納棺を命じた。半月あまり後、突然一人の男を捕らえて尋ねた。「おまえは火薬を買ってどうした。」「鳥を取りました。」「銃で雀を撃つなら、少なければ数銭以下、多ければ一両ばかりで、一日の用に足りる。おまえは二三十斤を買ったがどうしたのだ。」「数日の使用に備えたのでございます。」。さらに質した。「おまえは薬を買って一月に満たないのだから、都合一二斤を用いたに過ぎなかろう。残りは今どこに貯えてある。」。その男は言葉に詰まった。拷問すると、姦淫のために謀殺したことが分かったので、妻とともに処刑した。ある人が尋ねた。「どうしてあの男だと分かったのです。」「火薬は数十斤でなければ雷だと偽れない。薬を調合するときはかならず硫黄を用いる。今はまさに盛夏であり、正月の、爆竹を放つ時ではなく、硫黄を買う者は数えられるほどだ。わたしはひそかに人をやり、市にゆかせ、硫黄をたくさん買った者が誰かを調べさせると、みな職人の××だと言った。さらにひそかに職人の××が薬を誰に売ったかを調べさせると、みな○○だと言ったので、分かったのだ。」。さらに尋ねた。「どうして雷が偽物だと分かったのです。」「雷が人を撃つときは、上から下り、地を裂かない。家を毀つときも、上から下る。苫、梁がすべて飛びあがり、土炕[34]の表面も剥ぎとられていたので、火が下から起こったことがわかった。さらにこの地は(まち)から五六里だから、雷電は同じものだ。あの夜、雷電は猛烈だったが、すべて雲の中を繞り、落ちる様子はなかったので、分かったのだ。そのときその妻はさきに里帰りしており、尋問するのは難しかったので、さきに男を捕らえ、後に妻をただしたのだ。」。この知事は明察したと言える。

  
  戈太僕仙[35]が語った。乾隆戊辰、河間の西門外の橋上で、雷が一人の男を撃ち殺したが、きちんと跪いて倒れていなかった。手に一つの包みを捧げもっており、雷火に焼かれていなかったので、調べるとすべて砒霜であったが、そのわけは明らかでなかった。すると、にわかにかれの妻が知らせを聞いてやってきたが、見ても哭かず、言った。「このようなことになるのはわかっておりました。遅かったのが残念でございます。夫はかつて老母を罵り、昨日、突然悪念を萌し、砒霜を買って母を毒殺しようとしました。わたしは泣いて一晩諌めましたが、従いませんでした。」。

  
  再従兄(はとこ)の旭升が語った。村の南にむかし狐女がおり、少年に媚びることが多く、二姑娘といった。族人の某は生け捕りにしようとしたが、そのことを話さなかった。ある日、廃園で美女を見たので、これがそうかと疑った。戯れに艶曲を歌うと、欣然と流し目した。草花を折ってその前に擲つと、俯いて拾おうとしたが、突然退いて数歩離れたところに立ち、言った。「あなたは邪念をお持ちです。」。壊れた垣を越えて去った。その後、二人の書生が東岳廟の僧房で勉強していたが、一人は南の部屋に住み、女と親しみ、一人は北の部屋に住み、女を見ることがなかった。南の部屋の書生はかつて女がおそく来たことを怪しみ、戯れて言った。「左に浮邱[36]の袖を()き、右に洪崖[37]の肩を拍つか。」。狐女は言った。「あなたが異類だからといって疎んじられなかったので、「己を悦ぶ者のために(かたちづく)[38]」ったのでございます、北の部屋の書生は心が木石のようですので、わたしは近づこうといたしません。」。南の部屋の生は言った。「塀に登って窺ってはどうか。三年間許さないとは限るまい[39]。節を改めさせれば、程伊川[40]のような顔で向かわれることもなくなろう[41]。」。狐女は言った。「磁石は鍼を引けるだけです。気質が違えば、引いても動きません。よけいなことをして、いたずらに辱められてはなりません。」。時にともに姚安公の側に侍していたが、姚安公は言った。「以前、やはりこのことを聞いたが、その事は順治末年にあった。北の部屋に居た者とは、族祖雷陽公のようだ。雷陽は老いた副榜で、八比以外にすこしも優れたところがなかったが、心が純朴だったので、狐は近づこうとしなかった。妖魅が惑わす者は、すべて邪念がさきに萌しているだけだということが分かる。」。

  
  亡き太夫人の実家曹家には、幽鬼を見られる媼がいた。外祖母が里帰りした時、ともに冥土のことを論じると、媼は言った。「昨日、某家で幽鬼を見ました。きわめて愚かであるといえますが、情状は憐れで、人の心を動かします。幽鬼は名を某といい、某村に住み、家も小康で、死んだ時、年が二十七八でした。死んで百日後、女房がわたしを迎えて伴わせますと、かれはいつも屋敷の丁香の樹の下に坐り、あるいは女房の泣き声を聞き、あるいは子の啼く声を聞き、あるいは兄嫂と女房が罵る声を聞き、陽気に焼かれて近づけませんでしたが、かならず耳を傾けて窓の外でこっそりと聴き、悲痛の色が溢れていました。後に媒妁が女房の部屋に来ますと、愕然として立ち上がり、手を広げて左右を顧みました。後に婚議が成立しなかったことを聞きますと、やや喜色を浮かべました。その後、媒妁がふたたび来、兄嫂と女房の処に行き来しますと、奔走して従い、皇皇[42]として失ったものがあるかのようでした。送聘[43]の日、樹の下に坐していましたが、目は女房の部屋をまっすぐ見、涙は涔涔として雨のようでした。それからは女房が出入りするたび、その後に従い、恋々とする意はさらに篤くなりました。女房が嫁ぐ一晩前、女房が嫁入り道具を調えていますと、さらに簷の外を徘徊し、柱に倚って泣いたり、うなだれて思うことがあるかのようにしていました。すこしでも部屋の中から咳する声が聞こえますと、隙間からひそかに窺い、営営として夜を徹していました。わたしは太息して『頭のおかしな幽霊さん。そのようになさることはございませんよ。』と言いましたが、聞いていないかのようでした。娶る者が入りますと、火を取って進んでゆき、避けて塀の隅に立ち、頭を挙げて女房を望みました。わたしが女房とともに出て振り向きますと、かれは離れながら娶った者の家についてゆきました。門尉[44]に阻まれましたが、稽顙して哀願しますと、入ることができました。入りますと塀の隅に隠れ、女房の婚礼を眺め、じっと立っていましたが酔っているかのようでした。女房が部屋に入りますと、やや窓に近づきましたが、そのありさまはまるで嫁入り道具を調えていた時のようでした。燭を消して就寝しても、なお去りませんでした。中霤神[45]に追いはらわれますと、狼狽して出ました。時にわたしは女房から帰って子供を見るように頼まれましたが、幽霊もついて返り、まっすぐ女房の部屋に入り、およそ女房が坐っている処、眠っている処は、逐一見ました。するとにわかに子供が母を求めて啼きましたが、幽鬼は趨って出ますと子供の周囲を繞り、両手で握り、どうすることもできない動作をしました。にわかに嫂が出てきて、子供を打ちますと、地団駄を踏んで胸を打ち、はなれて歯噛みする動作をしました。わたしは見るに忍びず、すぐに帰りましたが、その後どうなったかは分かりません。後にわたしがひそかに女房に申しますと、女房は歯噛みしてみずからを悔やみました。郷里に若くして寡婦となり結婚を相談している者がいましたが、そのことを聞きますと、死をみずから誓って言いました。『わたしは亡者にこんな動作をさせるには忍びません。』。」ああ。君子は義として人に負かず、生死によって態度が異なることはない。小人がどこへ往っても人に負くのも、生死によって異なることはない。常人は、人がいるときは情があるが、人が亡くなれば情がなくなる。すこしでも死者のことを思えば、戚然の感がないはずはない。儒者は諂瀆[46]が神に祈って福を求め、妖術が盛んなのを見、しばしば無鬼の論を持し、先王や神が教えを設けた深い心を失っている。いたずらに、愚夫愚婦を、悍然としてすこしも憚ることがないようにさせているのは、この田舎の老婆の話が、人の生死の感を動かすものであるのにさえ及ばない[47]

  
  王蘭泉[48]少司寇[49]が語った。胡中丞文伯[50]の弟の妻が、死んで一日して甦ったが、家人のことをまったく忘れており、その夫が前に近づくことも許さなかった。くわしくそのわけを尋ねると、陳家の娘の魂が、屍を借りて甦っていたのであった。居たところを尋ねると、相去ることわずか数十里、その親族を呼んでくると、すべてはっきりと知っていた。女は胡家に留まろうとしなかったので、胡家では鏡を持ってきてみずからを映させた。見ると顔がすっかり違っていたので、やむをえず胡と夫婦となった。これは『明史・五行志』の司牡丹の事[51]と同じである。当時、官が判決してやったが、姿を拠りどころとし、魂を拠りどころとしなかった[52]。そもそも姿は拠りどころがあるが、魂は拠りどころがない。魂を拠りどころとすることにすれば、かならず嘘をつく者がいるので、その偽りを防ぐのである。

  
  ある山西の商人が京師の信成客寓[53]にいたが、衣服、従僕、乗馬はすべて華麗で、まもなく捐納で官職を得るのだと言っていた。ある日、貧しい叟が訪ねてきたが、しもべたちは取り次ぎをしてやらなかった。そこで、ひとりで門で待ち、商人に会うことができたが、商人は表情が冷淡で、茶の後にほかに時候の挨拶することはなかった。叟がおもむろに助けを求める意向を示すと、商人は怫然として言った。「今、捐納のお金さえ足りませんのに、どうしてあなたに及ぼす余力がございましょう。」。叟は不満で、人々に対して、山西の商人が昔困窮していたとき、叟に食事を作ってもらうこと十余年、さらに百両を援助され、商売してようやく富豪になったことをくわしく語った。そして、今は役人を辞めて流落しているが、山西の商人が来たことを聞き、生きかえったかのように喜んでいる、分に過ぎたことは望まない、以前援助した金額を得ていささか負債を償い、棺を郷里に帰せれば十分だと言い、おいおいと泣いた。しかし、山西の商人はやはり聞いていないかのようであった。突然同宿している江西人がみずから姓は楊であると称し、山西の商人に揖して尋ねた。「この叟の言っていることは本当ですか。」。山西の商人は顔をひきつらせて言った。「そうしたことはもちろんございましたが、お礼する力がないことだけが残念でございます。」。楊は言った。「あなたはもうすぐ役人におなりですから、お金を借りられない心配はございません。人があなたに百両を借すときは、一年以内に償還するなら、寸毫の利息も取らないことでしょう。これでこの人に報いませんか。」。山西の商人はむりに答えた。「おおいに望むところです。」。楊は言った。「とにかく証文をお書きください。百両はわたしが払いましょう。」。山西の商人は正論に迫られ、やむをえず証文を書いた。楊が証文を収め、ぼろぼろの篋を開き、百両を出して山西の商人に渡すと、山西の商人は怏怏としてそれを持ち、叟に渡した。楊はさらに宴を調え、叟および山西の商人を留めて酒を飲ませた。叟はたいへん歓び、山西の商人は草草と宴を終えた。叟は謝して去り、楊も数日すると寓居を移して去り、それからは音信がなかった。後に山西の商人が篋の中を調べると百両がなくなっていたが、鍵と封印はすべて元通りであり、捜査することができなかった。さらに一着の狐皮の半臂[54]が失われており、篋の中には質札一枚があり、銭二千と題してあり、楊が酒盛りして用いた金額にほぼ合っていた。楊が術士で、しばし戯れたことを知った。同宿していたものたちはいずれもひそかに喜んだ。山西の商人は恥じてやはり引越し、行方が知れなくなった。

  
  蒋編修菱溪[55]は、赤崖先生[56]の子であった。吟詠を好み、かつて七夕の詩を作って言った。「一霎[57]にして人間の簫鼓収まり、羊燈[58]に炎なく三更碧し。」。さらに中元の詩を作って言った。「両岸の紅沙旋舞多く、驚風定まらずして三更に到る。」。赤崖先生はそれを見ると、愀然として言った。「どうしてにわかに鬼語を作る。」。本当にまもなく亡くなってしまった。そのため劉文定公[59]はその遺稿の序を作って言った。「河鼓[60]に就きて詞を()ぶれば、三更炎碧しと。盂蘭に会して説法すれば、両岸沙紅しと。詩讖先に成り、以て君の(わづ)かに終軍[61]の歳を過ぐ。誄詞[62](いづく)にか属せん、(かへ)つて我(まさ)に騎省[63]の年に当たる。」。

 
  農夫の陳四は、夏の夜、団焦[64]で瓜畑を番していたところ、遠くの古い柳の樹の下に隠隠と数人の影が見えたので、瓜を盗む者かと疑い、寝た振りをして聴いていた。中の一人が言った。「陳四はもう眠ったかしら。」。もう一人が言った。「陳四は数日を過ぎない、来てわたしたちとともに遊ぶから、恐れることはない。昨日土神祠に宿直する、城隍の牒を見た。」。さらに一人が言った。「君は知らないか。陳四は寿命を延ばされたのだ。」。人々がなぜかと尋ねると、言った。「某家で銭二千文がなくなり、その下女が数百回鞭うたれたが、罪を認めなかった。下女の父も憤って言った。『このような娘を生んでしまったが、いないほうがよかった。盗んでいるなら、かならず縊り殺してやろう。』。下女は言った。『罪を認めなければ殺され、認めても殺されてしまいます。』。天に向かって泣きさけんだ。陳四の母は憐れみ、ひそかに衣服を質入れして銭二千を手に入れ、捧げて主人に還して言った。『老いぼれが惚けていて、一時(いっとき)、利を見てこの銭を取ってしまったのです。主人は貯蓄が多いので、すぐに計算できるとは限るまいと思ったのです。ところがこの下女に迷惑を掛けてしまい、心は本当に恥じています。お金はまだ使っていませんから、謹んで死を冒して自首し、来世の怨みを結ぶことを免れましょう。老いぼれもこちらにいるのが面目ないので、これからは別れましょう。』。下女はそのために免れることができた。土神はかれがみずからを汚すことを辞さないで人を救ったことを嘉し、城隍に知らせ、城隍は東岳に知らせた。東岳が帳簿を調べると、この女は老いて子を喪い、凍え餓えて死ぬはずであった。この功徳により、陳四に来生の寿を貸し、今生でその母を養わせることを決定した。あなたは昨日退勤したので、知らないのだ。」。陳四は母が銭を盗んだことで追いはらわれたことをひそかに憤っていたが、ここにいたって釈然とした。九年後、母は死に、葬儀が終わると、陳四は病むことなく亡くなった。

  
  外舅の馬公周籙[65]が語った。東光[66]の南郷の廖氏が募金して義塚を建て、村民はその事が成るのを助けた。三十余年後、雍正初年、東光で疫病が大流行すると、廖氏は百余人が門外に立つのを夢みたが、一人が進み出て言った。「疫鬼が来ます。あなたに従い、紙の旗十余流、銀箔を貼った木刀百余本を焚いていただきますようにお願いします。わたしたちは疫鬼と戦い、村のご恩に報いましょう。」。廖はもともと物好きであったので、ひとまず作って焚いた。数日後、夜に四方の野で騒ぎ闘う音が聞こえ、朝になると止んだ。村では本当に一人も病に罹った者がいなかった。

  
  沙河橋[67]の張某は京師で商売し、一人の女を娶って帰ったが、挙止には大家の風格があった。張にはもともと千金の財産があり、経理もたいへんきちんとしていた。ある日、顕官がとても豪勢な騎従(うままわり)をつれ、杏黄の(かさ)を張り、八人がきの肩輿[68]に坐し、その門前に来ると、尋ねた。「こちらは張某の家か。」。隣近所は「はい。」と答えた。顕官は左右に指揮して言った。「張某には罪はないから、かれの妻を縛ってこい。」。たちまちその女を後ろ手に縛って出てきた。張某は気勢が赫奕としたありさまを見ると、抵抗しようともしなかった。顕官は婦の衣を剥ぐように命じ、臀杖[69]三十の判決をし、昂然として去った。村人はついていったが、林木に掩われている処にゆくと瞬く間に見えなくなり、旋風が滾滾として、西南に向かって去ってゆくばかりであった。妻は杖を受けている時、叩頭して「もうしわけございません」と称するばかりであった。後に人がそのわけを尋ねると、妻は泣きながら言った。「わたしはもともと侍郎某公の妾で、公が生きていた時、寵愛を確かなものにしようとし、ふたたび嫁がないことを誓いました。今、精魂が昼に現れましたが、もう言えることはございません。」。

  
  王禿子は幼くして父母を失い、そのもとの姓は不明であるが、姑の家で育ったので、王姓を冒していた。凶悪無頼で、ゆく先々で子供たちは走って隠れ、鶏や犬さえもじっとしていなかった。ある日、その仲間と高川[70]から酔って帰り、夜に南横子[71]の墓場の間を通っていたところ、幽鬼たちに遮られた。仲間は震えて地に伏したが、禿子はひとり力を奮って闘った。一人の幽鬼が怒鳴った。「禿子の不孝者め、わたしはおまえの父親だ。みだりに殴ろうとするとは。」。禿子はもとより父を知らなかったので、疑っていると、もう一人の幽鬼が怒鳴った。「わたしもおまえの父親だが、拝さぬつもりか。」。鬼たちはさらにともに叫んだ。「王禿子よ。おまえは母を祭らずに、こちらで飢餓流落させ、わたしたちの妻にさせたな。わたしたちはすべておまえの父親だ。」。禿子は怒り、拳を揮って回ったが、撃つと空の袋に中たったかのようであった。跳びはねて夜明けになると、動く気力がなくなり、みずから藪の間に倒れた。鬼たちはみな笑って言った。「王禿子は英気が尽きた。今日は郷党のために気を吐いた。悔やむことを知らなければ、後日またこちらでおまえを待っていようぞ。」。禿子は力がすでに尽きていたので、それ以上語ろうとしなかった。夜が明けると幽鬼は散じたので、かれの仲間が助けて帰った。それからは豪気は消えうせ、ある晩、妻子を連れて逃げ去り、どこで死んだか分からなかった。この事は小さくて言うに足りないが、悍戻な者はかならずその敵に遇い、人が制することができない者は、幽鬼も憎んでともに制することを見るに足る。

  
  戊子の夏、京師で飛ぶ虫が夜に人を傷うということが伝えられていた。しかし実際には虫に傷われた者はなく、虫も見えず、いたずらに図で示すばかりであった。その姿は蚕蛾のようで大きく、(やいば)のような(けづめ)があり、物好きには射工[72]であると指摘しているものもいた。按ずるに、短蜮[73]は沙を含んで影を射るが、飛んで人を刺すとは言われていない。その説はもっともでたらめである。わたしは西域にゆき、描かれているのが闢展[74]の巴蝋虫[75]であることを知った。この虫は熾熱の気を採って生じ、人を見ると飛んで追う。水を吹けば、軟らかくなって伏すが、水を吹いて届かないと、毒に中てられる。いそいで茜草の根を咬み、瘡に塗れば癒え、さもなければ毒気に心臓を貫かれて死ぬ。烏魯木斉には茜草が多く、山南の闢展の諸屯は、つねに令状によって移し、収穫する者のためにこの虫に備えるという。

  
  烏魯木斉の虎峰書院[76]では、流人の妻が窓の櫺で縊れたことがあった。山長で前の巴県[77]令陳執礼[78]が、ある晩、燭を点して書を読んでいると、窓の内側の承塵[79]の上で簌簌(スウスウ)と音がしているのが聞こえた。仰ぎ見ると、女子の二本の纖い足が、紙の隙間からゆっくりと垂れ下がり、だんだん膝を現し、だんだん股を現した。陳はすでにこのことを知っていたので、声を荒げて言った。「おまえはみずからの奸淫が露見して、怒って死んだのに、わたしに禍しようとするか。わたしはおまえの仇ではないのに、わたしを惑わそうとするか。わたしは今まで花柳の叢に入っていぬから、おまえとて惑わせないぞ。おまえが下りてこようとするなら、まずは鞭でおまえを打とう。」。するとゆっくり足を上に収め、かすかに嘆息した。そして、にわかに紙のすきまから顔を現して下を窺ったが、たいへん美しかった。陳は顔を挙げて唾すると言った。「死んでもなお恥じないか。」。すると退いて入った。陳は燭を消して就寝し、刃を袖に入れてかれが来るのを待ったが、結局下りてこなかった。翌日、仙遊[80]の陳題橋が訪ねてきたが、話がこの事に及ぶと、承塵の上で裂帛のような音がし、後にふたたび見えなくなった。しかし、そのしもべが外の部屋で寝ると、夜にはつねにうわごとを言い、しばらくすると疾瘵となった。臨終の時、陳はしもべが二万里を従ってきていたので、哭いてたいへん悲しんだ。しもべは手を揮って言った。「美人がひそかにわたしに近づき、今回わたしを招いて婿にしているのでございます。去るのは楽しゅうございますので、悲しまないでくださいまし。」。陳は地団駄を踏んで言った。「わたしはみずから胆力を恃み、引っ越さなかったが、禍がおまえに及んでしまった。ひどいものだ。客気[81]が害を与えるのは。」。後に同年で六安[82]の楊君逢源[83]が代わりに書院を掌管すると、避けて他室に住み、言った。「『孟子』には、『岩牆の下に立たず。』とある[84]。」。

  
  徳郎中亨[85]は、夏に烏魯木斉城外を散歩し、秀野亭にいって涼んだ。やや久しく坐すると、突然、大声で語るのが聞こえた。「帰られよ。わたしは客人をもてなしたいのだ。」。狼狽して馳せ戻り、わたしに告げた。「わたしは死ぬのか。白昼に幽鬼を見るとは。」。わたしは言った。「理由なく幽鬼を見るのは、もちろん良い事ではないが、鬼窟にいって幽鬼を見たのなら、人家にいって人間を見るようなもので、怪しむに足らない。」。そもそも亭は城西の深い林にあり、万木が天を衝き、仰いでも日が見えなかった。旅人の柩で仮埋葬されているものや、罪人で処刑された者は、みなこの地におり、しばしば怪異をなしていた。

  
  武邑[86]の某公は、親戚友人と仏寺の経閣の前で花見していた。土地はたいへん広かったが、閣の上ではしばしば怪異があったので、夜になると閣の下に坐そうとしなかった。某公は道学者をもってみずから任じていたので、夷然として信じなかった。酒が酣になり、気分が良くなると、『西銘』[87]の万物一体の理を盛んに談じ、満座が拱手して聴いているうちに、いつしか夜となった。すると突然、閣の上で誰かが声を荒げて怒鳴った。「今はまさに飢餓疫病で、民がすこぶる死んでいる。おまえは郷紳でありながら、すみやかに義挙を呼びかけ、粥や薬を施すことを考えていない。この良夜に乗じ、戸を閉ざして安眠していれば、まだ自了漢[88]となることができようものを、虚談高論し、こちらで人民や万物が一体であることを講じている。夜明けまで講じても、飯にして食らい、薬にして飲むことができるのか。ひとまずおまえを磚で撃ち、おまえがさらに邪が正に勝らぬことを講じるのを聴くとしよう。」。突然一つの城壁の磚が飛んでおちてきたが、音は霹靂のようであり、杯盤几案はすべて砕けた。某公はあたふたと走り出ると、言った。「程朱の学を信じないのが、妖の妖であるゆえんか。」。おもむろに歩き、太息して去った。

  
  滄州の画工伯魁[89]は、字は起瞻(その姓はこの伯の字で、みずから伯州犁[90]の末裔と称していた。友人のあるものが戯れて言った。「君は二世祖太宰公[91]と称していないのだね。」最近のその子孫は字を知らず、みずからを白氏と称している[92]。)、かつて一幅の仕女図を描いていたが、輪郭を描いたところで、他の仕事があったため、完成せず、鍵を掛けて書室に置いておいた。二日後、補って完成させようとすると、几の上に顔料の小皿が設けられており、縦横に散乱していた。絵筆も幾たびか湿されており、絵はすでに完成していた。神采は活き活きとしており、尋常ならざる風格があった。魁は大いに驚き、亡き母舅張公夢徴[93]に示した。魁が絵を学んだ者であった。公は言った。「これはおまえの及ぶものではないが、わたしの及ぶものでもない。たまたま神仙が戯れたのだろうか。」。時に城守尉[94]永公寧[95]は、すこぶる絵を好んでいたので、よい値で買い取った。永公は後に四川副都統に遷り、持っていった。役人を辞める数日前、絵の仕女は突然見えなくなり、隠隠と人の影だけが残っていたが、紙の色は新しいかのよう、残りの樹や石はやはり旧びていた、そもそもやぶれる(しるし)がさきに現れたのであった。しかし消え去ることができた理由は、結局分からなかった。

  
  佃戸の張天錫が、かつて田野で髑髏を見、戯れにその口に小便したところ、髑髏は突然躍りあがり、声を出して言った。「人と幽鬼は路を異にしているのに、どうしてわたしを虐げる。それにわたしは女、おまえは男なのに、無礼にもわたしを辱めるのは、もっともよくないことだ。」。跳ぶほどに高くなり、じかに顔に触れた。天錫は驚いて馳せ帰ったが、鬼はその家についてゆき、夜はかならず塀や簷で責め罵って止めなかった。天錫は大いに寒熱を発し、昏睡して人事不省となった。家じゅうが祈ると、怒りはやや解けたかのようであった。ある人が生前の氏名住所を尋ね、幽鬼がくわしくみずから語ると、人々は叩頭して言った。「それならきっと高祖母さまでございます。どうして子孫に禍なさいます。」。幽鬼は悲しげに泣くようにして言った。「わたしの家だったのか。いつこちらに移ってきた。おまえたちはわたしの誰なのだ。」。人々が顛末を述べると、幽鬼はおおいに太息し、言った。「もともとこちらに来るつもりはなかった。幽鬼たちがこの機会をかりて食べものを求めようとし、わたしを唆して来させただけだ。かれらのうち数人は病人の傍におり、数人は門の外にいるから、一瓢の漿水[96]を供えれば、わたしがよく追いはらおう。幽鬼というものはつねに飢えに苦しんでいるが、理由なく災いをなせば、神に責められる恐れがあるので、事があればかならず諍いを生じ、祭祀を求める。おまえたちは今後かれらを見たら、謹んで避け、その企みに嵌まらないようにするべきだ。」。人々は教えられた通りにした。幽鬼は言った。「すでに散じて去ったが、わたしの口の中の臭気は我慢できない、もとの処にいってわたしの骨を探し、洗って埋めろ。」。そして嗚咽すること数回で静かになった。

  
  さらに、佃戸の何大金は、夜に麦畑を見張っていた。すると、一人の老翁が来てともに坐した。大金は村にその男はいなかったと思い、道をゆく者がたまたま憩うているのだと思った。老翁が飲みものを求めたので、罐の水を与えた。すると老翁は大金に姓氏を尋ね、同時にその祖父のことを尋ねると、惻然として言った。「恐れるな。わたしはおまえの曽祖父だ。おまえには災いしない。」。くわしく家のことを尋ねると、喜んだり悲しんだりし、ゆくに臨んで大金に頼んだ。「幽鬼は放炎口[97]を待って食を求める以外、する事がない。子孫だけは思うたびに忘れられず、久しくなるほどに切実となるが、幽明は隔たっているので、音信を通じることができないのには苦しんでいる。たまたま子孫が盛んであることを聞けば、躍然として数日喜び、鬼たちはみな祝いにくる。たまたま子孫が零落したことを聞けば、悄然として数日悲しむが、鬼たちはみな悔やみにくる。生きている人間が子孫を思うのに比べ、切実であることほぼ十倍だ。今聞けば、おまえたちはまだ衣食が足りているそうだから、わたしはさらに数日歌舞することにしよう。」。再三振り向き、勉励するように言いふくめて去った。亡き姚安公は言った。「何大金は蠢然たる一物だから、この言葉はきっと偽りではあるまい。これを聞くと、追遠[98]の念が油然として生じる。」。

  
  乾隆丙子、ある閩の士人が公車に赴き[99]、年末に都に着いた。すぐには泊まれなかったので、先農壇[100]の北にある荒れ寺で一軒の古家を借りた。十数日後の夜半、窓の外で人が語った。「××先生、しばらくお起きください。一言申しあげることがございます。わたしはこちらの部屋にながらく住んでいましたが、当初はおんみが勉強なさるおかたで、数千里の道を苦労して、名声を求めて来られましたので、お譲りしました。その後、先生が毎日外出なさるのを見ましたが、都に着いたばかりのときに、ご親戚、ご友人をお訪ねになることは当然ですから、怪しみませんでした。近頃見ますと先生は酔って帰られることが多いので、すこし訝しく思いました。さきほど僧と話をされているのをお聞きしましたが、毎日酒楼で劇を見ていらっしゃるとか。これでは遊び人にすぎません。わたしは仏座の後ろに避けており、起居や出入りは、ことごとく不便にしておりますが、我慢して浪子に譲ることは、本当にできません。先生が明日お引っ越しなさらなければ、わたしは瓦や石をすでに準備しております。」。向かいの部屋にいる僧も、この言葉を聞くと、士人が引っ越すことを勧めた。それからはこの部屋を貸そうとしなかった。訪ねてくる者があると、この事を挙げて告げたという。

  
  申蒼嶺先生は名を丹[101]といい、謙居先生[102]の弟であった。謙居先生は性格が温和、先生は性格が豪快であったが、人格が方正である点は、同じであった。郷里には姑に虐げられて縊れた嫁がいたが、先生は両家がいずれも士人だったので、嫁の父兄に訴えないように勧めた。その夜、泣き声が遠くから来て、だんだん門に入り、だんだん窓の外に来、哭きながら訴えたが、言葉はたいへん悲しく、先生が訴えをやめさせたことを深く怨んでいた。先生は怒鳴った。「姑が嫁を虐げて死なせても、法律では処刑されない。訴えてもおまえの心を喜ばせられない。それに訴えればかならず調べられ、調べられればかならず暴かれるから、さらに両家を辱めるではないか。」。鬼はなおおいおい泣いて止まなかった。先生は言った。「『君臣は獄なし[103]』というが、父子にも獄なしだ。人がおまえの怨み死にしたことを憐れみ、おまえの姑の暴戻を責めるならばよい。おまえは嫁でありながら姑を訴えようとしているが、この一念はすでに名教に抵触している。おまえが明神(めいしん)[104]に訴えても、決しておまえを正しいとはしないぞ。」。鬼は寂然として去った。謙居先生は言った。「蒼嶺のこの言葉は、天下の嫁である者に告げることができるが、天下の姑である者に告げることはできない。」。亡き姚安公は言った。「蒼嶺の言葉は、子が子のために孝を説いたものであり、謙居の言葉は、父が父のために慈を説いたものである[105]。」。

  
  董曲江[106]が京師に遊んだ時、一人の友人と寓居を同じうしていたが、親しいわけではなく、ひとまず宿代、飯代を省いていたのであった。友は富貴の人に付き従い、外泊することが多かった。曲江がひとり書斎で眠っていると、夜に書籍を捲ったり、骨董を弄んだりする音が聞こえた。京師に狐が多いことを知っていたので、怪しまなかった。ある晩、未完の詩稿を(つくえ)の上に置いておくと、吟詠する声が聞こえたかのようであったが、尋ねても答えなかった。夜が明けてから見ると、稿の上にはすでに数句に圏点が打たれていた。しかししばしば呼んでも、まったく答えなかった。友人が寓所に帰ると、夜通し寂然としていたので、友人はみずからに禄相[107]があるので、邪が侵そうとしないのだと自慢した。たまたま日照[108]李慶子が宿を借りていた時のこと、酒が闌けた後、曲江と友人がいずれも就寝したので、李が月影を頼りに、人のいない庭園を散歩していると、一人の翁が童子を連れて樹の下に立っていた。心の中で狐だと悟り、身を隠してひそかにかれらのすることを見ていた。童子は言った。「とても寒いから、とりあえず部屋へ帰ろう。」。翁は首を振って言った。「董公が同じ部屋なのはもとより障りないが、あの御仁は俗気が人に逼り、ともに居ることはできない。しばらく寒い風、冷たい月の下に坐っていたほうがよい。」。李は後にその言葉を他の友人に漏らしたが、やがて本人に聞かれてしまった。かれは李をひどく怨んだが、結局追いだされ、狼狽して笈を負うて返った。

  
  わたしの長女は徳州[109]の盧氏に嫁ぎ、住んでいる所は紀家荘といった。かつて一人の男が(たにがわ)(ほとり)に臥していたが、ぼろを着て、呻吟していた。見れば一つの毛孔に一匹の蝨がいたが、喙はすべて内側に向かい、後足はすべてぼろに引っかかっていて解けず、解けば痛みは心髓に徹するのであった。どうすることもできず、結局、かれが死ぬのを座視した。これは宿業の報いであろうか。

  
  汪閣学暁園[110]は、閻王廟街[111]のある邸宅に仮住まいしていた。庭には棗の樹があり、百年以上の物であった。月が明るい晩になるたび、斜めの(えだ)の上に、一人の紅い衣の娘が足を垂らして坐し、頭を擡げて月に向け、人を顧みなかった。近づけば見えず、退いて眺めれば、やはりもとの場所にいるのであった。二人の男を、一人は樹下に立たせ、一人は室内にいさせた。室内の男が樹下の男を見ると、手が娘の足に触れていたが、樹下の男にはもちろん見えていなかった。眺めて見た時、俯いて地上を見ると樹には影があったが、娘には影がなかった。瓦や石を投じると、虚空で妨げるものはなく、銃で撃つと、たちまち消えるが、煙と炎がなくなると、もとの形に戻っているのであった。主人は言った。「この宅を買うとすぐにこの怪異がありましたが、人に害をなさないので、人も争わないのです。」。そもそも木魅花妖は、よくあるものだが、たいてい変化する者が多い。しかしこれだけは動かず、語らず、枝の上に枯坐しており、そのわけは明らかでなかった。暁園はかれが禍をなすことを慮り、引っ越して避けた。後に主人が樹を伐ると、その怪異は絶えた。

  
  廖姥は、青県の人で、実家は姓を朱といい、亡き太夫人の乳母であった。年が三十たらずのときに寡婦となり、ふたたび嫁がないことを誓い、亡き太夫人に頼ってその身を終えた。歿した時、年は九十六であった。性格は厳格で、言うべきことに遇えば、かならず侃侃として亡き太夫人と争った。亡き姚安公も通常の老婆としては遇しなかった。わたしと弟妹は、かれと寝食をともにしていたが、空腹、満腹、寒さ、暑さ、一つとして周到に思いやらないことはなかった。しかし、すこしでも礼法に従っていなければ、怒鳴ってとめられるのであった。下男下女を管理するときは、いささかも仮借しなかったので、下男下女はみなひそかに怨んでいた。鍵を管理したり、厨房を管理したりしていても、すこしも役得を得られなかったが、結局どうすることもできなかった。かつて一人の童子を連れ、親戚の家に挨拶して帰ってきたが、すでに薄暮で、風雨がにわかに来たので、走って廃園の破屋に避けた。雨は夜になっても止まなかったが、遥かに塀の外から人が語るのが聞こえた。「おまえの家へ雨を避けにきたのに、どうして雨を冒して樹の下に坐っている。」。樹の下の人が答えた。「余計なことを言うな。廖家の節婦が中にいるのだ。」。そして寂然とした。後に童子がたまたまその事を述べると、下男下女たちはみな言った。「人間が不人情だと、幽鬼も憎んで避けるのだ。」。ああ。鬼は本当に憎んで避けたのだろうか。

  
  安家の表兄が、−その名は忘れた。−一匹の狐と友人になり、つねに庭で対談していた。安にはそれが見えたが、他の人には見えなかった。狐は北宋の初めに生まれたと自称し、安が宋代の史実を尋ねると、言った。「まったく知らない。およそ神仙の道を学ぶ者は、かならず方外に遊び、万縁を断ち、一心に修行している。世で聞いたり見たりすることがあると、心にかならず葛藤が生じる、葛藤があればかならず愛憎が生じる、愛憎があれば、喜怒哀楽の情がかならずつぎつぎに起こり、精気を消耗する。精神が消耗すれば身体も疲弊し、今なお生きていることはできない。修行が完成した後、人の世に行き来し、一切の虚偽を見たが、まったく劇のよう、一切の得失勝敗および治乱興亡を見たが、まったく泡や影のようである。当時は留意しなかったし、逐一記憶することがどうしてできよう。君と遇ったのも前縁だ。しかし数百年来、君のような者に遇ったのは何回だったか分からない。おおむね偶然の出逢いで、煙雲のようにたちまち散じていた。昔談笑したことも、多くは記憶していない。だから、身をもって接していないことは、いわずとも知ることができよう。」。時に八里荘[112]三官廟で雷が蠍虎(やもり)を撃つ一件があった。安は尋ねた。「動物が年を経て神通力を持つと、多くは雷に触れるが、もしや長生きも造物に憎まれるのか。」「二種類あるのだ。そもそも内丹導引、外丹服餌は、いずれも艱難辛苦によって悟るものだ。これは耕作に努めて富を致すかのようなもので、正しいことだ。媚びて惑わし、夢で惑わし、精気を盗みとり、人の寿命を損い、自分の寿命を延ばすなら、強盗と異ならず、天律に容れられない。さらに、惑わしてほしいままに妖術をなし、人民に禍を齎すのも、天律に容れられない。元神[113]を養い、みずからの生命を全うするのは、人に害がなく、世で争うことがないならば、その長寿の動物は、まさに長寿の人のようなもので、どうして造物の憎しみに触れることになろうか。」。舅氏の実斎先生[114]はそれを聞くと言った。「この狐の言うことは、いずれも老氏の浅薄なものであるが、それによってみずからを養うには、十分だ。」。

  
  浙江に士人がおり、夜に夢みてとある官府に至ったが、そこは都城隍廟といった。冥吏が語った。「今、某公はその友人が裏切ったことを訴え、君を牽いて証人にしようとしている。君は以前このことがあったかを思いだしてみろ。」。士人が追憶すると、たしかにそうであった。にわかに都城隍が着座し、冥吏が言上し、某が某の裏切りを訴え、証人が来ると、審理裁判することを請うた。都城隍は文書を挙げて士人に示すと、士人は事実を答えた。都城隍は言った。「この者たちは徒党を組んで私利を図り、一緒になって進取を求めるが、意見の相違によって愛憎を生じ、愛憎によって諍いを起こし、勢いが弱ければ縋りついて救いを求め、力が敵すれば押しのけてたがいにりあう。「翻へせば雲となり覆へば雨[115]」で、たちまち様々に変化するのは、もとより小人の交わりであり、君子の言葉で責めることはできない。内輪もめするのは[116]、理の当然だ。すでにはっきり調査したから、追いはらってよろしい。」。士人を顧みて言った。「裏切り者を、罰していないと思われているのではあるまいか。そもそも瓜を種えて瓜を得、豆を種えて豆を得るのは、因果が相償っているのだ。花が種を結び、種がさらに花を開くのは、因果が相生じているのだ。かれが裏切り者なら、さらに裏切り者がかれの後に従うので、鬼神が処置するまでもないのだ。」。士人は突然目醒めた。数年後、結局、神の言った通りになった。

  
  閩中の某夫人は猫を食らうことを好んでいた。猫捕らえればさきに石灰を罌に貯え、猫を中に入れ、煮え湯を注いだ。猫は石灰の熱気[117]に蝕まれ、毛はすべて脱け落ち、毟りとる必要はなかった。血はすべて臓腑に貯まり、肉は透きとおって玉のよう、味は鶏の雛に勝ること十倍であるといった。日日網を張り、(わな)を設け、数え切れないほど捕殺した。後に夫人は危篤となったが、呦呦[118]と猫の声を出し、十数日後に死んだ。


  盧観察ヒ吉とは、かつて隣同士であった。ヒの子の蔭文は、わたしの婿で、かつてわたしに言った。かれがいうには、景州のある役人の家の子は、犬猫の類を捕らえることを好み、足をへし折り、捩って後ろに向け、かれらが[119]と跳んだり叫んだりするのを見て慰みにし、殺したものも多かった。後に子女を生んだが、すべて踵が反りかえって前に向いていた。


  さらにわたしの家僕の王発は、鳥銃をよくし、撃つとすべて中たり、一日数十羽の鳥を殺していた。一人息子がいるだけで、名を済寧州といったが、かれが済寧州[120]に往った時に生んだものであった。年が十一二になると、突然全身に瘡を生じ、火で焦がした痕のよう、一つの瘡の中に一つの鉄の弾があったが、どのようにして入ったのか分からず、百薬を用いても癒えず、結局子孫が絶えてしまった。殺生の罪がいたって重いのは、本当である。わたしはかつて善果を修める者が、みな日を決めて精進し、法律を奉るかのようにしているが、普段は殺生を戒めることができないことを怪しんでいた。そもそも仏氏の精進は、どうして菜食を功徳とするのか。菜食が不殺生であるからである。今、いたずらに某日某日は観音の斎期だ、某日某日は準提[121]の斎期[122]だ、その日精進すると、仏が大いに喜ぶ、その日でなければ、料理が(くりや)に溢れ、美味が俎に列なり、残酷な屠殺がなされていても、仏は問題にしないと言っている。天下にこのような道理があろうか。それに天子が理由なく牛を殺さず、大夫が理由なく羊を殺さず、士人が理由なく犬豚を殺さないのは、礼である。儒者は聖賢の教えに遵っており、もとより決して肉を断つ理はない。しかし賓祭[123]以外では、わざわざ殺すことはやはり決してするべきでない。一つの(きりにく)のために、にわかに一つの命を傷い、一つの(あつもの)のために、にわかに数十の命、あるいは数百の命を傷い、衆生[124]の無限の恐怖、苦痛、無限の怨恨を、わたしたちの一瞬の口福に供するのは、日を決めて精進する心と、いささか合わないではないか。東坡先生はかつてこの論を持していた。ひそかに酌中[125]の言と思うが、善果を修めている者に質したい。

  
  六合の外のことを、聖人は存して論じない[126]。しかし六合の中にも、実は論じられないものがある。人の死は、儒者の論では、魂が昇り、魄が降るだけであり[127]、仏氏の論で、幽鬼は冥府に収められ、人の世にふたたびゆけないというのと似ている。そして、世には回煞[128]の説がある。卑俗な術士には、さらに一書があり、その日時とゆく方向を予知できるが、これも荒誕の至りである。しかし、わたしはかつて隣の屋敷の楼の窓の中から、遥かにそれが去るのを見た。それは一筋の白煙のようで、竈の煙突の中から出ると、冉冉として西南に向かって消えた。占われた時刻方向とすこしも違わなかった。さらに、以前二度、手ずから鍵を啓き、灰を布いた処をじっくり見たことがあるが、手の跡と足の跡は、宛然として生きていた時と異ならず、親しいものはみな識別することができた。これはどういうことか。禍福は(さだめ)があり、死生は(さだめ)があり、聖賢であっても造物と争うことはできない。しかし世に蠱毒[129]魘魅[130]の術があることは、刑律にはっきりと載せられている[131]。蠱毒をわたしは見たことがないが、魘魅はしばしば見た。この術をなす者は、盲人、巫者(かんなぎ)と土木の職人だけである。しかし本当に人に禍福死生をもたらすことができ、明らかに験がある。天地鬼神の権能を、かれらがほしいままに弄んでいるのは、いったいどういうことであろうか。その中にはかならず理があるが、人は知ることができないのである。宋儒は理で解けないことに関しては、すべて臆断してそのことがないと考えているが、これは柱に膠して瑟を鼓すること[132]ではないか。李又先生[133]は言った。「宋儒は理に拠って天を談じ、造化陰陽の本源を窮めたとみずから言っている。日月五星に関しては、きちんと根拠があり語り、掌を指すかのようであるが、宋の暦はしばしば改変されてますます不正確になった。郭守敬[134]以後、実測で調べ、交食[135]によって証明すると、濂洛関閩[136]が、これらのことについてまったく理解していなかったことがはじめて分かった。康節[137]はもっとも数学に通じていたが、奇偶[138]方円[139]によって、運行を揣摩するばかりで、実際のところ、推歩[140]によって知ったものではない。そのため立論が高度になるほどに、郢書燕説[141]であることを免れない。そもそも七政[142]の運行は、よるべき形があるが、それでも理によって臆断できない。まして太極先天[143]を無形の中に求めるのはなおさら不可である。先聖はいう、『君子知らざるに於いてはそもそも闕如たり[144]。』と。」。

  
  女巫の郝媼は、田舎女の狡猾な者であった。わたしは幼い時、滄州の呂家の姑の実家でかれに会った。みずから言うには、狐神が体に憑き、人の吉凶を語れば、人家の瑣事は、すべて知っているということであったので、信じている者はたいへん多かったが、実は仲間をあちこちに放ち、下女や婆やに交わりを結ばせ、代わりに秘密を探らせ、その詐欺を実行していた。かつて妊婦がおり、生まれるのが男か女かを尋ねたとき、郝は男だと約束したが、後に女が生まれたので、婦人は神の言葉に験がなかったことを詰った。郝は目を怒らして言った。「あなたはもともと男をお生みになるはずでしたが、某月某日、ご実家から(へい)二十個を贈られたとき、その六つを舅姑に出し、その十四を隠してひとりで食べてしまわれました。冥府はあなたの不孝を責め、男を転じて女にしましたのに、まだお気づきにならないのですか。」。婦はこの事がさきに探られていたことを知らず、驚いて罪を認めた。その言い繕いに巧みであることはおしなべてこのようなものであった。ある日、香を焚いて神を召していると、突然端座して大声で言った。「わたしは本ものの狐神だ。わたしたちは人間と雑居しているが、実際は別々に服気[145]煉形[146]しており、田舎の老婆と縁を持ち、人家の瑣事に関わろうとはしていない。この嫗は陰謀が百出し、妖術によって財を集め、わたしたちの名を騙っているので、今日は本当にその体に附き、全員にその奸悪を知らせるのだ。」。そして郝の隠れた悪事を逐一述べ、さらにその徒党の姓名を列挙した。すると、郝は突然夢が醒めたかのようになり、狼狽して逃れ去り、その後どこで死んだかは分からなかった。

  
  侍女の母沈媼がいうには、高川に乞食がおり、母や妻とともに荒れた廟の中に住んでいた。乞食は夏に麦一斗あまりを拾ったので、妻に頼み、粉を挽いて母に出させた。妻は良い粉を隠し、悪い粉に汚水を注ぎ、(へい)を作って母に食らわせた。その晩、大雷雨があったが、暗闇の中で、妻が突然、嗷然[147]と叫んだので、乞食が起きて見ると、大蛇が口から入り、心臓を齧って殺していた、乞食は曳いて埋め、沈媼は蛇の尾が嫁の胸の間に垂れているのをその目で見たが、長さは二尺余であったという。

  
  二人の塾師が隣村に居り、いずれも道学者をもってみずから任じていた。ある日、たがいに会って講学したが、侍坐する生徒は十余人、性天[148]を論じ、理欲[149]を分析すれば、言葉と顔色は厳しく、聖賢に対しているかのようであった。すると突然、微風が颯然として、紙切れを吹いて階下に落とし、旋回して止まなかった。生徒が拾って見ると、二人が一人の寡婦の田を奪うことを謀り、ひそかに相談した手紙であった。これは神がかれらの偽りを憎み、たくみにかれらの奸謀を発いたのだろうか。しかしこの術を操る者は多く、もとよりすべて発くことはできない。聞けばこの手紙が現れたので、その謀略は実行されず、寡婦の田は保てたということであった。寡婦の苦節によって、幽冥が感動し、この霊威を示し、ひそかに庇護したに違いない。

  
  李孝廉存其[150]が語った。蠡県[151]に凶宅があった。一人の耆儒[152]と数人の客がその中に宿っていたところ、夜間、窓の外で撥剌[153]と声がしたので、耆儒は怒鳴った。「邪は正を(おか)さない[154]、妖は徳に勝らない[155]。わたしは道学を三十年講じてきたから、おまえを恐れない。」。窓の外では娘が語っているかのようであった。「あなたが道学を講じられるのを、聴いて久しゅうございます。わたしは異類でございますが、すこぶる儒書を渉猟しております。『大学』の要点は誠意にあり、誠意の要点は慎独[156]にございます。あなたは一言一動が、かならず古の礼に従っていますが、本当にみずからを修めようとしているのですか。それともいささかの名誉を求めようとしているのですか。あなたは語録を作り、齗齗[157]と諸儒の説を批判していますが、道理を闡明しようとしているのですか。それともいささかの勝利を求めようとしているのですか。そもそもみずからを修め道を明らかにするのは、天理であり、名誉を求め、勝利を求めるのは、私欲です。私欲を克服できないのに、何の学問を講じるのでしょうか。この事は、口舌で争わなくても、心を清らかな夜に摩り、さきにみずからそれがどうであるかを自問なされば、邪が(おか)そうとしているか否か、妖が勝ろうとしているか否かは、はっきりと自分で分かりましょう。口論する必要はございません。」。耆儒は汗を流すこと雨のよう、震えて答えられなかった。すると、おもむろに窓の外でかすかに笑って言った。「あなたが答えようとなさらないのは、まだ本心を欺かないことができているのです。ひとまずあなたに譲って寝ていただきましょう。」。さらに撥剌と音をたてると、簷を掠めて去った。

  
  某公が亡くなったときのこと、集めた骨董に関して、寡婦遺児はその価値を知らなかったので、その友人に頼んで評価してもらった。友人はもともとその値が高いと考えていたので、しばらく売らせず、かれらが窮乏するのを待ち、安値で買いとった。二年後、その友人も亡くなったが、集めた骨董に関して、寡婦遺児はやはりその価値を知らなかったので、親しい友人がかれの故智に倣い、買いとっていった。ある人は言った。「『天道好還[158]』、往って戻らぬものはない、故智に倣った者は罪を減じるべきだ。」。わたしが思うに、これは快心の談だが、教えを立てることはできない。盗人には罪があり、それに倣って盗んだのなら、罪が盗人より軽いとは言えない。

  
  肉屋の許方は、前に記した、夜に酔うて鬼に逢った者である。かれは驢馬を屠るとき、さきに地を鑿って穴を造り、板をその上に置き、板の四隅に四つの孔を空け、驢馬の足をその中に陥らせた。肉を買う者がいると、買う分量に従い、壷で煮え湯を注ぎ、驢馬の体の毛が脱け、肉がくたくたになると、刳って取り、このようにすれば、はじめて脆美になると言っていた。驢馬は一二日たち、肉が尽きると死ぬのであった。死んでいない時は、驢馬の口を縛って声を出させないようにしたが、眼は怒って飛びだし、炯炯として二本の炬火のよう、惨くて見ていられなかった。しかし、許は恬然として意に介さなかった。後に病を患い、全身が爛れて完膚がなくなったが、姿はまるで屠った驢馬のよう。敷布団の上を転げまわり、死を求めたが叶わず、哀号すること四五十日で絶命した。病中ふかくみずからを悔やみ、その子志学に頼んでいそいで改業させようとした。死んだ後、志学は改業して豚を屠った。わたしは幼い時にまだかれを見たが、今はかれの子孫がいることを聞かないから、すでに血筋が絶えて久しいのであろう。

  
  辺随園[159]徴君[160]が語った。冥土に入った者がいたが、見れば一人の老儒が回廊に立ち、たいへん慌てていた。一人の冥吏はかれの友人のようであったが、揖して時候の挨拶をおえると、拱手して老儒に向かい、笑って言った。「先生は平素無鬼論を持論としていられましたが、先生は今日は何になられましたか。」。幽鬼たちは粲然とし、老儒は蝟縮するばかりであった。

  
  東光[161]の馬大還は、かつて夏の夜に裸で資勝寺[162]の蔵経閣に臥していたが、ある人がその臂を曳いて言った。「起きろ。起きろ。仏経を汚すな。」。目醒めると一人の老人が傍らにおり、誰かと尋ねると、「わたしは蔵を守る神だ。」と言った。大還は天性豪放であり、さほど恐れなかった。時に、月は明るく昼のようであったので、呼んで坐らせ、対談し、言った。「君はどうしてこの蔵を守っている。」「天が命じたことなのだ。」「儒書は汗牛充棟だが、神が守っていることを聞かない、天は仏経を偏重しているのか。」「仏は神の道によって教えを設けており、衆生は信じたり、信じなかったりするので、神で守るのだ。儒は人の道によって教えを設けており、人はみなつつしんで守るべきであるし、人はみなつつしんで守ることを知っているので、神の力を煩わさないのだ。仏経を偏重しているわけではない。」「それなら天は三教を同じようなものだと見ているのか。」「儒家は己を修めることを(たい)とし、人を治めることを(よう)としている。道家は静を体とし、柔を用としている、仏家は(じょう)(たい)とし、慈を(よう)としている。その宗旨はそれぞれ異なるので、一つにできない。しかし、人に善をなすことを教えることに関しては、異ならず、物を済うことに関しても、異ならない。その目指すところはほぼ同じである。天はもとより並存させざるをえない。しかし儒は人民のために自身を修め、その本体を自身に持っているが、釈道はいずれも自身のためにする学で、余力が物に及ぶのである。そのため人道を明らかにするものを主体とし、神道を明らかにするものを輔助とするが、釈道だけで天下を治めることはやはりできない。これが一つでなくて一つであり、一つであって一つでないということなのだ。そもそも儒は五穀のようなもので、一日食らわなければ飢え、数日ならばかならず死ぬ、釈道は薬餌のようなもので、死生得失の関、喜怒哀楽の感によって怨恨を解き、鬱憤を消すのは、儒家よりすみやかだ[163]。その禍福因果の説は、それによって下愚を恐れさせ、儒家より耳に入りやすい。ただ、病を治せば止めにし、もっぱら服したりつねに服したりして、偏勝[164]の禍をなしてはならないだけである。儒者のあるものは心性を空談し、瞿曇[165][166]と混って一つになっている。あるものは二氏を排撃し、仇敵を防ぐかのようにしているが、いずれも一隅の見[167]である。」「黄冠[168]緇徒[169]は、ほしいままに妖術をなしているから、つよく攻めなければ、世に禍を齎すのではないか。」「これはその本流を論じているだけだ。その末流であれば、釈道が憂えを齎すのみならず、儒が憂えを齎すのがどうして少ないことがあろうか。公が酔って裸で眠られたのも、周公孔子の礼法とは限るまい。」。大還は恥じて謝すると、朝までほしいままに談じ、よそへ去った。結局、何の神であるかは分からなかったが、ある人は「狐だ。」と言った。

  
  百工は、それぞれ一つの神を祀って祖としている。妓女が管仲を祀るのは、女閭[170]三百[171]だからである。俳優が唐玄宗を祀るのは、梨園[172]の子弟だからである。これらにはいずれも典拠がある。胥吏は蕭何[173]、曹参[174]を祀り、木工は魯班[175]を祀るが、これも意味がある。しかし、靴屋が孫臏[176]を祀り、鍛冶が老君[177]の類を祀ることに至っては、荒誕で調べがつかない[178]。長随[179]が祀るものは鍾三郎[180]といい、門を閉ざして夜に祭り、たいへん深く秘められているが、結局何の神であるかは分からない。曲阜の顔介子[181]は言った。「きっと中山狼[182]が訛ったのだ。」。亡き姚安公は言った。「そうであるとも限らないし、そうでないとも限らない。郢書燕説[183]は、もとより益がないものではない。」。

  
  亡き叔父儀庵公は、質屋を西城[184]に持っていたが、一つの小さな楼が狐に占拠されていた。夜にはつねにかれらの話す声が聞こえたが、人に害をなさず、久しく平穏にしていた。ある晩、楼の上で罵り鞭うつ声がたいへん獅オかったので、大勢で聴きにゆくと、突然痛みを受けて大声で叫ぶのが聞こえた。「楼の下の皆さんは、道理に明るいはずでございましょう。世に妻で夫を打つ者がございましょうか。」。ちょうど人々の中の一人が妻に打たれており、顔面の爪痕はまだ癒えていなかった。人々は哄然と一笑して言った。「そういうことはもちろんあるから、怪しむに足りない。」。楼の上の狐たちも、哄然と一笑して言った、その諍いは解決した。聞く者はみな絶倒し、儀庵公は言った。「この狐は一笑によって怒りを鎮め、さらに善をなすことができた。」。

  
  田村の徐四は、農夫であった。父が歿すると、継母は一人の弟を生んだが、きわめて凶悪であった。家には田百余畝があり、財産分けの時、弟は母を養うことを口実にし、その十分の八を取ったが、徐四はおとなしく従った。弟はさらに膏腴の田を択んだが、やはりおとなしく従った。後に弟は分けまえを蕩尽し、また兄を脅迫したので、分けまえをすべて渡し、みずからは小作人となって耕したが、心は恬然としていた。ある晩、隣村から酔って帰り、棗林を通り掛かると、鬼たちが泥を擲っていたので、震えてゆこうとしなかった。鬼たちは啾啾としてだんだん近づいてきたが、顔を見ると、みな悚然として退いた。「財産を譲った徐四の兄だ。」。たちまち黒い煙に化して四散した。

  
  白衣庵の僧明玉が語った。昔、五台山のある僧が、夜につねに夢みて地獄にゆき、種々の変相[185]を見た。ある老宿[186]が読経に専心するように教えると、その夢はいよいよ甚だしくなり、だんだん衰弱するに至った。ほかの老宿が言った。「きっとあなたは出家する前、悪業をなしており、出家した後、だんだん因果に明るくなり、みずからがかならず地獄に堕ちることを知り、恐怖心を生じているのだろう。恐怖心が、諸相を造り、読経が熱心になるほどに、幻象が増しているのだ。そもそも仏法は広大であり、人が懺悔するのを許し、一切の悪業は、念に応じてすべて消える。屠殺する刀を棄てれば、すぐに成仏することを、聞いていないか。」。その僧は話を聞くと、仏に対して発願し、猛烈に精進したが、それからは宴然[187]として夢みなかった。

  
  沈観察夫婦がともに亡くなり、幼い子は親戚の家に寄食していたが、貧しく惨めなありさまであった。その妾は史太常[188]の家に嫁いでいたが、それを聞いて心が惻然とし、しばしばひそかに婆やを遣わし、衣服や物品を与えさせていた。後に太常はそのことを知ると、言った。「これも人情天理の中にあることだから、禁じない。」。銭塘の季滄洲[189]がそれに因んで話した。ある寡婦が病臥し、みずから炊ぐことができなかったので、隣の媼に哀願して代わりに炊いでもらっていたが、しばしば来てもらうことはできなかった。すると突然、一人の娘が扉を開けて入ってきて言った。「わたしは新しく来た隣の娘でございます。おねえさまが困窮し、食事に事欠いていらっしゃることを聞き、つねに辛く思っております。今、父母に話をしました。おねえさまのためにお食事を準備し、さらに看病いたしたく思います。」。その日からその家に来、およそ三四月がたった。寡婦は病が癒えると、家にゆき、かれの両親に謝そうとした。すると女は泫然として言った。「正直に申しあげます。わたしは実は狐なのです。ご亭主と生前もっとも親しんでいましたが、今、昔のことを思い、さらにおねえさまの苦節を憐れみ、名を騙って来ただけなのでございます。」。銀数錠を牀に置き、嗚咽して去った。二つの事はすこぶる似ている。琵琶をほかに抱き[190]、顔をそむけて情がないものは、この妾に及ばないのみならず、この狐にさえ及ばない。

  
  呉侍読[191]頡雲[192]が語った。癸丑[193]にある先輩が、−たまたまその姓を忘れた。王言敷先生[194]だったようだが、記憶はそれほど確かではない。−かつて海豊寺街[195]に仮住まいしていた。家の裏の破屋三楹には、幽鬼がおり、住めないと言われていたが、出て祟ることはなく、時折、音が聞こえるだけであった。ある晩、屋内で罵る声がしたので、塀の隅に伏して聴いていると、二人の妻が座席を争っていたが、一人はさきに来たと称し、一人は年が上だと称し、嘵嘵然として止まなかった。先輩は思わず太息して言った。「死んでも止めないのか。」。さらに聴いていると寂然とした。そもそも妻妾が同居していて、我慢して平和にする者は、十に一であろう。歓然として仲良くする者は、千百に一であろう。それでも名分によって事を収めることができるのだが、二人の妻が並び立っていれば、昔から、一人も仲良くする者もなく、一人も平和にする者もない。名分によって事を収めることができないのだから、たがいに譲らないのは、もとより当然のことである。騒ぎ争うのをどうして怪しむことができようか。

 

最終更新日:201988

閲微草堂筆記

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[1]巻三に出てくる。

[2]田中儀。字は無昝、号は白岩、詩人田雯の子、徳州の人。歳貢生、鑾儀衛経歴となる。詩詞を好み、『紅雨書斎詩集』がある。

[3]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicB8153781.htm四方を雲遊して生活する文人をさす。

[4]http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicB6Zdic97351305.htm鶗鴂。

http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicB6Zdic97129228.htmホトトギス

[5]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB1Zdic88126822.htm屈戌。

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB1Zdic88133261.htm窗、衝立戸棚

[6]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89303557.htm酒杯名。

[7]江西省の川の名。白居易が『琵琶行』を作ったところ。

[8]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBCZdicB012072.htm行商。

[9]http://baike.baidu.com/view/31362.htm唐皇甫枚『三水小』の『非煙』の主人公。淮武公の妾であったが、象と文を応酬し、私通し、そのことを、下女に密告され、鞭うたれて死んだ。

[10]香山居士は白居易。ここでいう寓言とは『琵琶行』のこと。江西省潯陽で、商人の妻となり果てた往年の都の名妓に会って作ったという設定。

[11]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A108642.htm仏教。世間の種種の悪因が大海のようであるので、かくいう。

[12]康熙五十二年(千七百十三年)癸巳恩科をいう。聖祖の六旬を祝って特別に行われた。

[13]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB9Zdic9E84554.htm帰郷して父母を養うことを請求すること

[14]明・潘士藻撰『讀易述』卷十二「蓋卜筮之法、人與神交酢感格之本、神待人而靈、非其人猶未可與也。故曰:知變化之道者、其知神之所為乎」。

[15]河南河南府の県名。

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94144692.htm季節の変化。

[17]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic9FZdicB4138041.htm燃料にする樹の枝、小木と草等。また収穫物の茎、葉を指す。

[18]直隸順天府の県名。

[19]http://baike.baidu.com/view/830203.htm

[20]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic87Zdic8C242748.htm村長。

[21]宋弼http://www.dzszx.gov.cn/xszx/html/?2184.html 

[22]http://www.dzszx.gov.cn/xszx/html/?1520.html 

[23]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A46840.htm通政は官名。通政司。夢鑑溪は夢吉

http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:17801124:mctauac:TM%3D%B9%DA%A6N 

[24]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic9BZdicB493917.htm侍臣が宿直する処

[25]http://zh.wikisource.org/zh/%E8%81%BD%E9%9B%A8%E5%8F%A2%E8%AB%87/%E5%8D%B710 

[26]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA1310102.htm泡と影。虚しいものの喩え。ここでは輪廻の世界の光景。

[27]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312720.htm天下。

[28]原文「六合之外、聖人存而不論。」。『荘子·に見える言葉。

[29]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic8D120864.htm と先祖が同じで年長のもの。

[30]未詳。

[31]原文「覺而檢案中有姓祝者」。「案中」が未詳。とりあえずこう訳す。ブラックリストあるいは捜査資料のようなものか。

[32]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicB0Zdic8477087.htm器の下に物を置いてあてる遊

[33]清雍正四年(千七百二十六年)壬子癸丑科の懐蘭県令、献令、京郊遊巡使にぜられた。清·乾隆四年(千七百四十年)江西広信、上、九江、南康四郡察使(道台)となった

[34]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F101262.htm床下暖炉

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%9C%9F%E7%82%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[35]戈源。戈源(千六百三十六〜千六百九十)、字は仙舟、献県の人。乾隆十九年進士、太僕寺少卿。

[36]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicB5ZdicAE315796.htm浮丘公。

http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicB5ZdicAE71826.htm仙人の名。

[37]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4ZdicAA2705.htm仙人の名。

[38]原文「君不以異類見薄、故為ス己者容。」。『戰國策』趙策一・晉畢陽之孫豫讓「士為知己者死、女為己者容。」。

[39]原文「未必即三年不許」。宋玉『登徒子好色賦』「此女登牆窺臣三年、至今未許也」。登徒子は隣家の美女に三年のぞき見されたが、心を動かさなかった。

[40]http://baike.baidu.com/view/80386.htm

[41]原文「亦免作程伊川面向人」。未詳。とりあえずこう訳す。

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9AZdic87307701.htm惶恐のさま。彷徨不安のさま。

[43]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic80Zdic81246565.htm婚約の時に男の家が女の家に礼物をること。下礼とも。

[44]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9Zdic97ZdicA8277505.htm神。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%97%A8%E7%A5%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD333105.htm宅神。

[46]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicB0Zdic84257614.htm上にいる人にし、下にいる人を侮すること。ここではそうする人間。

[47]原文「徒使愚夫愚婦、悍然一無所顧忌、尚不如此里嫗之言、為動人生死之感也。」。「生死之感」が未詳だが、「死者への思い」といった方向であろう。

[48]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%98%B6_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)王昶。

[49]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8313681.htm少司寇は刑部侍郎。

[50]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332849.htm中丞は巡

胡文伯は乾隆三十四年安徽巡撫。

[51]『明史』卷二十八・人痾「洪武二十四年八月、河南龍門婦司牡丹死三年、借袁馬頭之屍復生.」

[52]この話の基づくところは未詳。正史には記載なし。

[53]未詳。

[54]短袖あるいは袖なしの上衣。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8DZdic8A8865.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%8D%8A%E8%87%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm

翰林院の属官で、位は修撰につぐ。蒋菱溪は、諱は麟昌。乾隆四年進士。http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C 

http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=+%E8%92%8B%E9%BA%9F%E6%98%8C+&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

http://www.zhsc.net/Article/shfz/qdsc/200704/20070410105819.html 

[56]未詳。

[57]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330817.htm短時間。

[58]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7ZdicBEZdic8A199248.htm羊形の提灯。

[59]http://baike.baidu.com/view/881983.htm  

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB3317467.htm「河皷」とも。星の名。牛宿に属し、牛の北にある。一牛とも。

[61]http://baike.baidu.com/view/242440.htm漢の武帝のときの人。十八推挙されて博士弟子となったが、二十余歳で殺された。

[62]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicAFZdic94254129.htm死者を悼む文章。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicAAZdic9161083.htm潘岳(二百四十七〜三百年)のこと。http://baike.baidu.com/view/72840.htm

[64]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm形の草屋。

[65]馬永図。号は旭亭、直隷光の人。

[66]直隸河間府の県名。

[67]直隸河間府河間県の鎮名。

[68]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic82ZdicA9169382.htm轎。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%82%A9%E8%BC%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8Zdic87Zdic80170962.htm名。大きな条、大きな竹板あるいは棍棒等を用いて人の臀部を撃つこと

[70]直隸河間府任丘県の鎮名。

[71]地名と思われるが未詳。

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicB0Zdic8433365.htm伝説中の毒虫名。

[73]未詳。蜮は沙を含んで人を射る幽鬼の一種。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic9CZdicAE.htm

[74]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%97%A2%E5%B1%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[75]未詳。

[76]未詳。

[77]四川重慶府の県名。

[78]未詳。

[79]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF34103.htm天井板。

[80]福建興化府の県名。

[81]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicAEZdicA2293088.htm漢方の用人体を侵害する邪気。

[82]安徽六安直隸州。

[83]未詳。

[84]『孟子』盡心上「孟子曰、莫非命也.順受其正。是故知命者、不立乎巖牆之下。」。「岩牆」は危険な地の喩え。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB2ZdicA998762.htm

[85]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E321515.htm郎中は、各部に設けられ、各司の事分掌し、尚、侍郎の下にいる高員。徳亨は未詳。

[86]直隸冀州直隸州の県名。

[87]書名。宋張載撰。朱熹の注がある

[88]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic87ZdicAA231651.htm自分だけを顧み、大局を顧みない人。

[89]未詳。

[90]http://baike.baidu.com/view/1399835.htm

[91]伯州犁は楚の太宰。父親は伯宗。http://baike.baidu.com/view/1399835.htm

[92]原文「近其子孫不識字、竟自稱伯氏矣。」。この部分未詳。

[93]未詳。

[94]官名。http://baike.baidu.com/view/196675.html?fromTaglist

[95]未詳。二巻にも出てくる。http://yuzhi68.web.fc2.com/yw02.htm#_ednref188

[96]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicB5Zdic86220385.htm水あるいはその他の食物の汁。

[97]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic94ZdicBE315177.htm仏教鬼に済度の仏事を行すること。

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicBFZdicBD304560.htm祭祀して誠意を尽くし、先人を追念すること。

[99] 会試受験のために上京すること。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC43492.htm 

[100] http://www.china.com.cn/chinese/zhuanti/gdyl/564530.htm 

[101]未詳。

[102]、字は居、康熙癸巳(千七百十三年)科の人、著に『鬱鬱集』http://www.jingxian.gov.cn/wM_ReadNews.asp?NewsID=362 

[103]『国·周』君臣間で訴訟はしないということ。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%90%9B%E8%87%A3%E7%84%A1%E7%8D%84&lr=&aq=f&oq=

[104]『周禮』司盟「北面詔明神」注「明神、神之明察者。謂日月山川也。」

[105]原文「蒼嶺之言、子與子言孝、謙居之言、父與父言慈。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[106]http://baike.baidu.com/view/143641.htm

[107]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicA6Zdic84226250.htm禄のある相貌。

[108]山東沂州府の県名。

[109]山東濟南府の州名。

[110]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic98Zdic81270522.htm学は、大学士のこと。

汪永、字は孝、号は園、塘の人。乾隆甲戌の士、内学士となる。

[111]http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/II-11-D-802/V-12/page/0006.html.ja

[112]地名であるが未詳。

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic8399808.htm精力、精神。

[114] 巻六、十二、二十三にも見え、呼称は「舅氏」、巻六のみ「從舅」となっている。「舅氏」は母親の兄弟http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic88Zdic85209573.htm 、「從舅」は母親のいとこまたははとこhttp://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBBZdic8E122536.htm 。巻六に「從舅實齋安公」、巻十二に「舅氏安公實齋」と見え、安という姓であったことがわかる。紀ホの母親は張氏だが、紀ホの父は三度娶っておりhttp://74.125.153.132/search?q=cache:F-Ptg4uTu_8J:www.sharechn.com/zone/cangzhou_1_4_5652_Info.html+%E5%AE%89%E5%A4%AA%E5%A4%AB%E4%BA%BA+%E7%B4%80%E6%98%80&cd=2&hl=zh-CN&ct=clnk 、最初の夫人を安氏といい、「安太夫人」として巻八、十五に出てくる。安實齋は、おそらく、この「安太夫人」の兄弟かいとこかはとこなのであろう。なお、巻七には「安氏從舅」という言葉も見えるが、おそらく安實齋のことであろう。

[115]杜甫『貧交行』。貧富によって人が態度を変えることの喩え。

[116]原文「操戈入室」。http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicA5326149.htm「操戈入室」は、そのの言そのすることの喩えここでは文脈に合わない。「同室操戈」の意味で使っているのであろう。

http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C327818.htm「同室操戈」は兄弟が損ないあったり内部で争ったりすることの喩え。

[117]原文「貓為灰氣所蝕」。「灰氣」はここでは訳文の意味であろう。

[118]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicA6334192.htm擬音語。小物の鳴き声。

[119]原文同じ。「孑」のことであろう。 「孑」はつまづくさま。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicADZdic91347354.htm 

[120]山東濟寧直隸州。

[121]http://baike.baidu.com/view/1910574.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%BA%96%E6%8F%90%E8%A7%80%E9%9F%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[122]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B72199.htm戒期

[123]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicBE241778.htm貴賓を招待して大祭を行すること。

[124]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdic97362442.htm人と一切の物を指す。ここでは明らかに動物のこと。

[125]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic85Zdic8C36237.htm適度に酌量すること。

[126]前注参照

[127] 原文「則魂升魄降已耳」。『孟子』萬章章句上「堯典曰、二十有八載、放勳乃徂落」。集注「徂、升也。落、降也。人死則魂升而魄降。故古者謂死爲徂落。」

[128]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdic9E318077.htmとも家に帰る死者の霊魂。陽家は人の死年月干支から、それが家に帰る時間を推算する

[129]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic9BZdic8A43994.htm虫の毒。

[130]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9ZdicADZdic87281181.htm昧。昧は、法術もしくは薬物で人の精神をぼんやりさせること。http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9ZdicADZdic8775600.htm

[131] 『大清現行刑律』〈名例律〉規定「凡犯謀反、叛、逆、子孫謀殺祖父母父母、 亂、妻妾殺夫、雇工人殺家長、殺一家非死罪三人、採生折割人、謀殺、故殺、蠱毒魘魅、毒藥殺人、強盜妖言、十惡等真正死罪,及侵貪入己,軍務獲罪者,雖獲罪不得原宥,其餘咸得赦除。」

[132]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic83ZdicB6337872.htm拘泥してらない

[133]李若龍。東光県(今河北省東光県)李荘の人、字は又、雍正十三年(千七百三十五年)挙人、著に『又詩草』がある。光緒『東光県志』に「文詞精粋、詩類香山」とある。

[134]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%AE%88%E6%95%AC

[135]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic97ZdicA5325892.htmと月

[136]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE6ZdicBFZdic82151627.htm宋代理学の四つの学派。「濂」は濂溪周敦、「洛」は洛陽程、程、「」は張載。「」は福建で学した朱熹。

[137] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B5%E9%9B%8D

[138]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87324386.htm奇数と偶数。ここでは代数学のことか。

[139]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96ZdicB965654.htm四角と円。ここでは幾何学のことか。

[140]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic8EZdicA8222287.htm天象法を推算すること。古人日月が天をめぐるのは、人が行するようなもので、推算して知ることができると考えた。

[141]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic83ZdicA2116862.htm原意を曲解し、間違いが重なることの喩え。

[142]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB8Zdic8314297.htm古の天文用語。日、月と金、木、水、火、土五星。

[143]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85Zdic88104374.htm

太極、先天ともに宇宙の本体、万物の本原。

[144]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic98Zdic99341821.htm論語·子路』「君子於其所不知、蓋闕如也。」何晏集解引包咸曰「君子於其所不知、当闕而勿据。」

[145]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9CZdic8D71764.htm。道家の生延年の

[146]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm道家で自身の形体を修煉することをいう

[147]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5Zdic97ZdicB790433.htm哀号するさま。

[148]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic80ZdicA7178437.htm人性と天命。理学が研する命

[149]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic90Zdic86133691.htm「天理人欲」の簡称。

[150]李存其は未詳。孝廉は挙人。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicADZdic9D320217.htm

[151]直隸保定府の県名。

[152]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic80Zdic8685448.htmコの高い老儒。

[153]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic8BZdicA827251.htm擬音語。鳥が羽ばたいたり、魚が跳ねたりするときの音。

[154]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic82ZdicAA245119.htm宋·王『唐林·方正』「臣邪不干正、若使咒臣、必不能行。」。

[155] http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5ZdicA6Zdic9621674.htm 

[156]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6Zdic85Zdic8E300533.htmりでいるときにんで悪事をしないこと

[157]http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE9ZdicBDZdic97351394.htm言い争うさま

[158]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA996952.htm天道が循環し報応が違わないこと。

[159] http://baike.baidu.com/view/231773.htm

[160] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBEZdic81121441.htm 出仕しなかった隠士への尊称。

[161]直隸河間府の県名。

[162]寺名。光緒九年『畿輔通志』巻百八十一参照。

[163]原文「死生得失之關、喜怒哀樂之感、用以解釋冤愆、消除拂鬱、較儒家為最捷」。「死生得失之關、喜怒哀樂之感」が未詳。仏書に出てくる言葉なのであろうか。とりあえずこう訳す。

[164]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic81Zdic8F22310.htm平衡を失うこと。

[165]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE7Zdic9EZdicBF178103.htm釈迦が出家する前の本姓。ゴータマ。また、釈迦。

[166]老子のこと。老子は本名を李という。

[167]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80303066.htm片面的解。

[168]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic84316512.htm道士。

[169]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicBCZdic8138159.htm僧侶。

[170]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA5ZdicB3286315.htm春秋時代に斉の桓公中にけた淫楽の場所。

[171]三百は数字が誤っている。実際は七百。『国策·周策』「桓公中七市、女閭七百、国人非之。彪注「閭、里中也。為門為市於中、使女子居之。」

[172]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicA2ZdicA8288422.htm玄宗梨園したため、後「梨園」劇団あるいは場所すようになった

[173] http://baike.baidu.com/view/14549.htm 後ろに出てくる曹参とともに、漢の法制度を整備した。

[174] http://baike.baidu.com/view/69452.htm 

[175] http://baike.baidu.com/view/17646.htm 

[176]http://baike.baidu.com/view/2911.htm 足きりの刑に処せられた。

[177] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8Zdic80Zdic81192392.htm 老子』第五章天地之間,其猶橐籥乎。」

[178]「孫臏が靴屋の祖、老子が鍛冶屋の祖であることを文献で考証することはできない。」という趣旨に解す。

[179] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF249047.htm 役所のしもべ

[180]未詳。

[181]未詳。

[182]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332750.htm明のの寓言『中山狼に出てくる狼。郭先生に救われた後、郭先生を食べようとする。明康海有『中山狼』雑劇はその事を演じる。後に恩に仇で報いる悪人の喩え。

[183]前注参照

[184] http://uemap.com/map/xicheng4/  http://d.wanfangdata.com.cn/LocalChronicleItem_4532508.aspx 

[185]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic8FZdic9824040.htm内容敷演して描かれた

[186]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic81321618.htm道の中で年老いてコ行のある者。

[187]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB4131192.htm安定のさま、平安のさま。

[188]太常は太常寺卿。http://baike.baidu.com/view/339144.html?fromTaglist

[189]未詳。卷十五にも出てくる。

[190]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic90ZdicB5143374.htm再婚すること。

[191]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D19238.htm学士の省称。 

[192] http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B3%E9%B4%BB

[193]雍正十一(千七百三十三)年。

[194] 未詳。

[195]未詳。

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