李素蘭風月玉壺春雑劇
武漢臣撰
第一折
（老旦が卜児に扮して登場）
（詩）家政を治めど治まらず、治めんとせば乱るるさまは麻のごと。朝に起くれば七つの仕事、柴、米、油、塩、醤、お酢にお茶。
わたしは嘉興府の者で、姓は李という。一人娘は、字は素蘭。幼いときから、歌舞吹弾を学んで、妓女をしている。ここには誰もいないわい。娘はわたしの実の子ではなく、もともとは姓は張、幼いときに縁組し、義理の娘となったのだ。今では十八歳になり、詩詞歌賦、針指女工[1]をすべて知り、姿はまことに麗しい。今は清明節だから、娘には装いをさせ、梅香を連れ、郊外へ春の遊覧をしにゆかせよう。早めに家に戻っておいで。わたしは何もする事もない。劉媽媽の家へお茶を飲みにゆこう。（退場）
（正末が李斌に扮し、琴童を連れて登場）わたしは姓は李、名は斌、字は唐斌といい、別号は玉壺生、原籍は維揚[2]の人。幼いときから儒学を学び、遊学のため嘉禾地方[3]へとやってきた。ここは古の秀州[4]で、江南の繁華の地。今日は清明、城じゅうの人々は、郊外へ行き、春の遊覧をしている。わたくしは琴童を連れ、郊外へ気晴らししにゆくことにしよう。ひそかに想うに、寒窓のもと、十年苦しい勉強に耐えたのだから、いずれかならず皇室ほどの富貴を手にすることであろう[5]。「十年窓下に問ふ人なきも、一挙に名を成し、天下に知らる」とは、ほんとうにあることだから。（唱う）
【仙呂点絳唇】雪に映へたる窓辺にて、倦むことを辞することなく経典を攻む。甲榜[6]に先を争ひ、首席にて合格すべし。
【混江龍】瓊林の酒宴に赴き[7]、青灯と黄巻の二十年を徒にせず。郎官[8]は盞を執り、中使[9]は宣旨を伝へたり。御酒は淋漓として袍の袖は濡れ、宮花[10]は蹀躞[11]として帽の檐は傾けり。紫衫と銀帯[12]をば列ね、玉管と氷弦を聴く。絳紗のうちに紅燭を掻きたてて、遥けき空の皓月にしぞ対したる。酔ひたれば紅妝に扶けられつつ瑶階を下り、意気高く[13]朱衣[14]は迎へて金殿をしぞ離れたる。玉簪と珠履を並べて、宝馬[15]と銀鞭を備へり。
（琴童）若さま、今は春、清明節にございます。ご覧ください、郊外に人は満ち、みなは楽しみ、まことに賑やか。
（正末が唱う）
【油葫蘆】ただ見る、仕女と王孫は上苑に遊覧し、それぞれが禁煙[16]を賞づ。ただ見る、桃花の錦を散らし、柳の綿を飛ばせるを。語ること関関[17]として、枝の上に流鶯は囀りて、舞ふこと翩翩、波の面に鴛鴦は睦まじうせり。こちらには綺羅が群がり、あちらには鼓吹が響けり。笙歌はどよもし、梨花の咲く院に入り[18]、今まさに芳草に麗しき筵を設けり。
【天下楽】憂へなば管弦を列ねたる秦楼と、風外に懸かりたる青簾[19]に向かふに倦みて、遊覧をする人の若草の径に酔ひて眠るもむべなり。緑陰に鷓鴣を聞き、紅香[20]に杜鵑は啼けり。徒にすな麗らけき弥生の頃を。
（言う）琴童よ、見よやかの香車宝馬は、行き来して、入り混じり、まさに楽しみ、（唱う）
【那吒令】一叢叢の香車翠輦、一隊隊の雕鞍駿[馬宛][21]、一簇簇の蘭橈画船[22]、一攅攅の蹴鞠の場、一処処の秋千の院、一行行の絲竹を奏づる。
【鵲踏枝】一个个の玉天仙、一双双の美嬋娟[23]。一層層の錦塢[24]と花溪[25]、一里里の翠繞珠圈。一歩歩の丹青扇面、一段段の流水桃源。見よ、かやうなる春の景色は、まことにこれを詠めども足らず、これを賞づるも余りあり、あきらかに一幅の丹青ならん。（唱う）
【寄生草】万首の詩も尽くすは難く、千本の筆も描き尽くせず。日は麗らかに、芳草の汀は晴れて、沙は暖か、鴛鴦の薦に宜し。露は涓涓[26]、楊柳の楼[27]にては柔らかき黄金の絲が力なく揺れ、風は習習[28]、杏花村では白壁に臙脂の花が乱れ落ちたり。翻へること滾滾たるは、玉の闌干に粉翅[29]を揮ひ、飛び疲れたる香を摘める蝶。急ぐこと煎煎たるは、翠の池に烏衣[30]を展べ、泥を銜める燕なり。
（言う）琴童よ、まだ早いから、ゆっくり行こう。
（旦が李素蘭に扮し、梅香を連れて登場）わたしは姓は李、字は素蘭。幼いときから会話と歌舞を習って、妓女をしている。今は春、清明節、母さまは、梅香をわたしにつけて、郊外へ気晴らしに行くように仰った。梅香や、千万の紫や紅の中、遊覧をする人々が大勢いるよ。花の茂みにやってきて、担ぎ荷物[31]を片隅に置き、ゆっくり遊覧するとしよう。
（正末）すばらしい娘だなあ。
（旦）すばらしく美しい秀才さまだ。
（梅香）すばらしく愚かな琴童。
（琴童）すばらしく醜い梅香。
（梅香）あなたも美しくはありません。
（正末が唱う）
【六幺序】ああ、見ればたちまち心はうつとり、魂は天に飛びたり。なにゆゑぞこちらへ来たりて神仙に遇ふ。かれはあちらで目で合図して、わたしはこちらで心を焦がし、双方はいづれも情を掻きたてられぬ。かれはひたすら春情を送りつつ、絶え間なく恋々とせり、わたくしは恋ひ焦がれ、熱き地の蚰蜒のごと。かれの姿は婀娜としてまことに羨むにしぞ堪へたる。加ふるに新月のなだらかなる眉、金蓮の小さき歩みは堪ふるかたなし。
【幺篇】まことにわれを恋恋として、焦がれしむ。眼はぼんやり、頭はくらくら、口はあれども言ひ難く、われをかくなるまでにせり[32]。かれはあちらでもじもじし、われらはこちらでそはそはす。いづれの時にかともに寝ぬべき。神さまが計らひをしたまはば、一世の縁[33]を成就せん。もしも風亭月館[34]に鶯燕[35]が睦みあひ、かのひとの舌先の甜き唾を飲むことを得ば、わが口のはしたなき涎は止むべし。
（旦）梅香や、秀才さまに、どこのお方で、姓名は何というのか、お尋ねするのだ。
（梅香が末に会う）秀才さま、ごきげんよう。
（正末）琴童よ、馬を繋ぐのだ。
（琴童）しっかりとお繋ぎしました。[36]
（正末）娘さん、ごきげんよう。
（梅香）秀才さま、お嬢さまが、訊ねてくるよう仰いました。秀才さまはどちらのお方で、ご姓とお名は何と仰るのでしょうか。
（正末）わたくしは揚州の者、姓は李、名は斌、字は唐斌、別号は玉壺生。今年ようやく二十八歳、いまだに妻を娶ってはおりませぬ。
（梅香）愚かなお方じゃ。だれも御身が結婚なさっているかどうかは気に掛けておりませぬ。
（正末）このように申しあげるしかございませぬ。
（梅香）お嬢さまに報告しよう。お嬢さま、あの秀才は揚州の人、姓は李、名は斌、字は唐斌、年はあたかも二十八歳。
（旦）梅香や、あの秀才に訊ねておくれ。あの方を花の茂みにお招きし、酒肴をお出しし、ごいっしょに何杯か飲みたいのですが、考えはいかがでしょうかと。
（梅香が末に会う）秀才さま、お嬢さまは仰いました。あなたを花の茂みに招いて、何杯かお酒を飲むのはいかがでしょうかと。
（正末）仰る通りにいたしましょう。
（梅香）たちまちに承知なされた。
（正末が旦に会う）お嬢さま、ごきげんよう。
（旦）秀才さま、ごきげんよう。
（正末）お訊ねしますが、お嬢さまはどちらのお方で、ご姓とお名は何と仰るのでしょうか。
（旦）わたくしはこの土地の妓女、姓は李、字は素蘭と申します。本日は清明節を賞でたため、幸いにご尊顔を拝することができました。ささやかな酒と肴がございますから、お嫌でなければ、ごいっしょに何杯か飲みましょう。お考えはいかがでしょうか。
（正末）ご厚意に感謝いたします。お言葉に背くわけにはまいりませぬ。
（旦）梅香や、お酒をもってきておくれ。秀才さまに一杯お注ぎするとしよう。
（正末）わたしに何の取り柄があって、お嬢さまからこのように持てなしていただけるのでございましょう。（唱う）
【後庭花】曲江池なる李亜仙の、江州に貶められし白楽天を憐れみたるに感謝せん[37]。願はくは御身李素蘭のとことはに麗しく、この玉壺生のながく縁を結ばんことを。双通叔が話をしなば、御身蘇卿は心より願ふべし[38]。世を渡り歩けるほどの多くのお金は持たざれど、財産を食ひつぶすとも幾年か留まらん。
【柳葉児】汝が家中の身内をば養はん。これもまたわたくしの駿馬より速く言葉を出だしたるなり[39]。ああ、御身謝天香は、耆卿を恋ひたり[40]。わたくしは臨川県に仮住まひして、麗春園[41]をぞ買ひ占めん。金山寺にて茶を売る船を並ぶるも物の数かは。
（旦）秀才さまがお嫌でなければ、わたくしは秀才さまと一生の連れ合いとなりましょう。わたくしは身に帯びている翠珠[42]の嚢が一つあり、二十五輪の香串[43]も一つございますから、秀才さまに差しあげて、ひとまず証拠の品としましょう。おみ足がすみやかに拙宅を踏まれますよう。
（正末）お嬢さまからの賜わりものを、つつしんでお受けするべきでしょう。わたくしは鬢髪を掻き揚げる玉の螳螂が一つ[44]と、白羅の春扇一本を持っていますから、お嬢さまにお送りし、ひとまずお収めいただきましょう。これもまた証拠の品にございます。
（旦）こちらの証拠の品物はわたくしが受け取りましょう。ひたすらに秀才さまをお待ちしますから、約束をお破りになることのございませぬよう。
（正末）わたくしは孔門の徒ですから、約束を破るわけにはまいりませぬ。（唱う）
【賺煞】われはこの沈香の串、翠珠の嚢を手に入れり。おみはこの玉の螳螂、白羅の扇を収められたり。四つの品はわれらの玉か氷のごとく清くして心の堅きことを示せり。
（旦）秀才さま、ただ一つ、年老いた母は性悪ですが、お責めになりませぬように。
（正末）お嬢さま、ご安心なさいませ。
（唱う）花代とするものは欠かすべからず、わたしはかれにおいしきものを選んで食べさせ、あたらしき服を着せ、毟りとらるるにしぞ任せん。莫大な財産を使ふにはあらねども、城南の金谷園[45]をつねに売らんとしたるなり。もし御身李素蘭の心を変ふることなくば、この玉壺生は、一春つねに買花銭をしぞ費やさん。（退場）
（旦）日も暮れました。梅香や、家へと帰ることにしましょう。（退場）
楔子
（冲末が陶伯常に扮し、従者を連れて登場）
（詩）三年のあひだ銭塘で役人をして、近ごろお召しの文を受け、建章に入る。自らを省みたれば循良なれど実績はなく[46]、つねに父老の『甘棠』を説くを慚ぢたり[47]。
わたくしは姓は陶、名は綱、字は伯常といい、広陵の人。進士に及第したために、杭州同知の役職を授かった。このたびは聖上の御諚を奉じ、上京するため、嘉興府を通りかかった。こちらには友人の李玉壺がいる。この人の文才は、わたしよりさらに優れているのだが、いかんせんこの人は酒色を恋うて、功名を得ていない。わたしは駅亭に留まり、すでに人を遣はして呼びにゆかせり。部下よ、入り口で番していろ。もし来たときは、わしに報せよ。
（正末が琴童を連れて登場）わたしは李玉壺。今、友人の陶伯常が、駅亭で呼んでいるから、ゆかねばならぬ。門番よ、取り次いでくれ、李玉壺がお会いしにまいりましたと。
（従者が報せる）お知らせします。李玉壺さまが会いにきました。
（陶伯常）お通ししてくれ。（会う）
（正末）あらかじめ兄じゃがやってこられることが分かっていれば、遠くまでお出迎えしておりましたのに。お迎えをいたしませんで、お咎めになりませぬよう。
（陶伯常）数年間、会うことはなく、安否を訊ねることもなかった。弟よ、掛けてくれ。
（正末）兄じゃ、お訊ねしますが、どうしてこちらに来られたのです。
（陶伯常）弟は知るまいが、このたびは聖上の御諚によって、上京するため、この地を通り、そなたがこちらで色恋をしていることを耳にした。弟よ、そなたには満腔の才学があるというのに、功名を得ようとはせず、ひたすら花柳を恋うておる。わしはそなたが一生の大事を誤ることを怕れているのだが、いったいどうするつもりなのだ。
（正末）兄じゃの厳しいお話しを、聴かぬわけにはまいりませぬ。わたくしがでたらめであったため、ご心痛をばお掛けしました。わたくしは兄じゃに申し訳ないことをし、名教を汚してしまったのでございます。そうはいっても、あの妓女は風塵の態ではなく、貞節の婦でございますから、恋うているのでございます。ほんとうにわたくしが荒淫なのではございませぬ。
（陶伯常）そなたの心が堅いなら、別れることは難しかろう。今、わしは旅路を急いでおるのだが、ふだん作った文章が何かあるなら、都城に送って上奏しようぞ。もしも立身することができたときには、朋友の情誼を尽くすことができるが、どうだろう。
（正末）辱弟が作った万言の妙策がございますから、兄じゃよどうか引き立てをなさってください。
（陶伯常）持ってきて見せてくれ。（策を渡され、受け取って見る）よく書けている。わしはこの万言の妙策を持ち、直々に聖上のもとへ行き、そなたを推挙し、役人にさせ、頼みに負くことはあるまい。
（正末）兄じゃ、ありがとうございます。
（陶伯常）今日はそなたと長の別れをしなければならぬわい。
（正末が唱う）
【仙呂端正好】皇都に赴き、天闕に朝せん。今や国家は豪傑を選びたる。
（陶伯常）そなたの文をもってするなら、かならず重用されようぞ。
（正末が唱う）三冬たつぷり勉強をして文章は優るれば、翰墨を揮ひつつ、龍蛇[48]を走らせ、宮錦を着け、朝靴を履きて、官爵に封ぜられ、豪奢を享けん。その時は、兄ぢやには草を結んで、環を銜んで感謝せん[49]。（退場）
（陶伯常）弟は行ってしまった。ぐずぐずするわけにはゆかぬ。万言の妙策を持ち、京師に戻り、聖上に会うとしよう。（退場）
第二折
わたくしは李素蘭の母。去年の清明の時から、娘は一人の秀才を家に連れてきて、仲良く過ごし、寸歩も離れぬ。あいつははじめて来たときは、少々お金を払ったが、今は「篩で驢馬に餌をやる－豆が漏れる」ありさまで[50]、かれを追い出すこともできない。このようなありさまで、わたしの家は何を食べたらよいのだろう。このところ、姓を何といい、甚舎と呼ばれる客商が、娘とお酒を飲もうとしている。その人は金持ちでもあり、今日はわたしの家に来て、お茶を飲まれる。小者や、あの方が来られたら、報せておくれ。
（浄が甚舎に扮して登場）わたしは山西平陽府の者、姓は何という。人はみなわたしを甚舎と呼んでいる。故郷の老人たちは、わたしの顔を見、綽名をつけて、甚黒子と呼ぶ。わたしは三十台の車に羊絨と潞紬[51]を載せて、嘉興府に来て商っている。こちらには妓女の李素蘭がおり、姿はまことに麗しい。わたしはかれと一生の連れ合いになろうとしている。やり手婆に招かれたから、今日は家まで茶を飲みにゆくとしよう。婆さん、いるかい。
（卜児）甚舎さまだ。お入り下さい。（会う）
（甚舎）お婆さん、今日はまっすぐあなたの家へ茶を飲みに来たのです。
（卜児）甚舎さま、娘には馴染みの客がおりますが、そいつを追い出し、あなたを家に住まわせてさしあげましょう。
（甚舎）お婆さん、二十両銀子を上げてお茶代にするとしよう。娘をわたしに嫁がせるなら、わたしは車三十台分の羊絨潞紬を、みんなあなたに差しあげて結納金にするとしよう。
（卜児）甚舎さま、ご安心くださいまし。わたくしは娘に話してまいりましょう。娘が承知いたしましたら、わたくしは梅香を遣わして、お呼びしましょう。
（甚舎）ありがとう、お婆さん、宿に帰って、返事をひたすら待つとしよう。（退場）
（卜児）甚舎さまは行かれてしまった。寝室に行き、素蘭に知らせることにしよう。承知せぬはずはあるまい。（退場）
（旦が梅香を連れ、絵を持って登場）わたしは李素蘭、李玉壺さまと馴染みとなりて、はやくも一年余りなり。われら二人はまごころをもつて付き合ひ、かれは李玉壺、わたしは素蘭、一幅の絵を描き、玉壺のなかに一輪の素蘭の花を挿すを描けり。李玉壺さまはおんみずから、一首の詞『玉壺春』をば作られて、おもてに書かれり。昔はじめて会ひしとき、真心の証しとしたる翠珠の嚢、玉螳螂を、両脇に掛く。朝な朝なに宴して、夜な夜な娯しみたるときは、この『玉壺春』を思ひ出し、たちまちに新しき歌にして唱ひたり[52]。
本日は、李玉壺さまは街中へ数人の知り合いを訪ねてゆかれた。そろそろ戻ってこられるはずだ。梅香や、あちらに食事と酒肴を用意し、わたしとかれで食べるとしよう。体がすこし疲れたから、ひとまず休むことにしよう。（旦が眠る）
（正末が琴童を連れて登場）陶伯常兄じゃは、わが万言の妙策を持ってゆかれたが、推挙されるかどうかは分からぬ。（嘆く）ああ。功名を望むことなく、流落するのに甘んじているわけではないが、わたしは素蘭と、馴染みとなって一年余り、二人の仲は睦まじいため、別れることはできぬのだ。
（琴童）若さま、あなたは功名を得ようとなされず、妓楼に上り、嫖客となろうとされてらっしゃいますが、何も良いことはございませぬ。
（正末）琴童、おまえは知るまいが、嫖客の名は四海に伝わり、青楼に揚がるもの。役人となるよりもよいことがあるものだ。嫖客となるには十の条件がある。一に家柄、二に容姿、三に談話、四に装束、五に温和、六に省傍[53]、七に博覧、八に歌唱、九に枕席[54]、十に伴当[55]。嫖客となるものは、九流三教すべてに明るく、八万四千の傍門[56]にすべて通じて、嫖客にはじめてなれるのであって、容易なことではないのだぞ。（唱う）
【南呂一枝花】日々、春風の燕子楼、月の夜の鳴珂巷、鶯に花の脂粉社、詩と酒の綺羅郷に[57]、玉を弄び、香に囲まれ[58]、豪気三千丈を持ち[59]、金釵十二行[60]を列ねり。わたくしは翠紅堆[61]の粉を塗りたる何郎[62]、花胡同[63]に眉を描ける張敞[64]なり。
【梁州第七】錦の布団で頭を伸ばし、戯れて、紅裙の中に手を入れて耐へ難からしむ[65]。鋒を交ふるとき謀略を施さんとし[66]、吹弾歌舞をひけらかし、角徴宮商をば論じ、猿の心と馬の意を欲しいままにし、剣の舌と槍の唇を逞しうせり。ねんねえ[67]の眼はきよろきよろ、ばかものの手脚はあたふた。玄人のこのわれが、旗を並べて、馬を止めば、麗しき才子は、戈と甲を横たへ、頭を抱へ、項を縮め、美しき嫖客は袍と盔とを卸し、投降すべし。胸の中なる謀からいへば、このわれは寨の中の色恋の元帥さまぞ[68]。詩を吟じ、誼を通ずることに長け、梨園にて新しき曲を作りて、たちまちに新しき歌を作れり。
（到着し、言う）梅香や、お嬢さまはどちらかな。
（梅香）旦那さま、いらっしゃいまし。お嬢さまはお休みでございます。わたしが呼んでまいりましょう。
（正末）お嬢さまを呼ばないでくれ。恐らくびっくりされるであろう。わたしが見てみることにしよう。（唱う）
【牧羊関】一輪の麗しき蘭にも似たる人を見ば[69]、風前に睡りたる海棠のやう。げに心地よき鴛枕牙床[70]、げに麗しき繍褥羅衾、いとも嬉しき翠屏錦帳[71]。
（旦が目覚める）ほんとうによく眠りました。
（正末が唱う）熟睡せるとき、素き体は、鮮やかなる紅玉のごと、目を醒ませども蕙魄[72]は幽香をしぞ散じたる。眼は濛濛、西子の春に美しく眠るかのやう[73]、汗は溶溶、太真の浴を終へて妝ふかのやう。
（旦）玉壺生さま、いらっしゃいまし。
（正末）まいりましたよ。
（旦）玉壺生さま、この絵をご覧くださいまし。いかなる巧みな筆によっても、描けるものではございませぬ。
（正末）よく描けています。（唱う）
【隔尾】見れば四時の蘭蕙[74]はまことに旺んに、一架の薔薇の庭中に香れるも物の数かは。今日は手折りて、書斎の玉壺の中に挿し、緑窓に近づけば、淡妝[75]の梨花に勝りて、日々両の眸をば洗ひ清めて、楽しく賞でたり。
（旦）玉壺生さま、わたしのせいで功名を得られなかったら、どうなさいます。
（正末）お嬢さま、そのように仰ってはなりませぬ。（唱う）
【賀新郎】わたくしはただ花を髪挿して、酒に耽りて、詞章をば賦せんとしたり。わたしが月の桂を手折らば[76]、このやうに浅斟低唱[77]することもなかるべし。禹門三月桃花の浪を望むことなく[78]、ひたすらに、清き風、明るき月に、素蘭を伴はんとせり。役人になるとは別の風光あり。皇国の龍虎榜[79]をば奪はんとせず、花叢[80]にて燕鴬場[81]を占むるにしくはなかるべし。わたくしはただ梨園にて開府頭庁相たらんとし[82]、花柳営にて鼎鼐を調へて、風流所にて陰陽を理むるとせん[83]。
（旦）梅香や、お酒を持ってきておくれ。わたしは玉壺生さまと何杯かお酒を飲んで、この『玉壺春』の曲を歌おう。
（正末）この画に向かい、この詞を歌えば、まことに賞でるに堪えましょう。
（唱う）
【四塊玉】この壺は、描きなば玉の潤ひ、この蘭は、描きなば香は蕩ひ、軟かき玉、宜しき香は尋常ならず。この玉は香りを生じ、花は言の葉をば解し、麗しき姿はまことに描くに堪へたり、描きなば詠ずるに堪へ、詠じなば賞づるに堪へたり。
（旦）われは一首の『玉壺春』詞を示さんとせり。
（詞）香は宜しく淡雅にて、天然の風趣あり、蕊は嫩らかく幽雅にて、まことに白く艶やかなり。看れば四季、ながく香りて、蓬蓽[84]に遠ざかり、なでふ野陌[85]の隣とならん。ただ客を持て成すのみにて、遊覧をする人のみだりに摘むを許すことなし[86]。玲瓏瑩軟、汚れなき色、玉潔氷清、潤ひぞある。玉壺の中に、蘭花を插さば、梅花の寿陽の額に点じたるに勝らん[87]。引き裂くなかれ、群芳とともにみだりにな折りたまひそ。
（正末）お酒を持ってきておくれ。お嬢さまに一杯注ごう。お嬢さま、一杯干されよ。まことにすぐれたご才能です。
（唱う）
【隔尾】なにゆゑぞ金を撃ち、玉を敲ける言の葉の響きたる。玉の骨、氷の肌の体の香りたるによるなり[88]。描きなば、あっさりと、軽やかに、はなはだ程よし。これよりは、高く巻き、展ぶることなく、繍の袋を作り、謹んで中に入れ、むざむざと唾を飲み、冷たき眼をせるよそ者に語らるることなからしめん。
（旦が読み上げる）玉の螳螂、翠珠の嚢、銀燭を高々と焼き、紅妝を照らしたり、このわれは「春風一曲杜韋娘」に勝りたり[89]。
（卜児が突然登場）くそったれめが、結構なことを唱っているよ。この門を踏み開けよう。
（旦が慌てる）
（卜児）ぺっ、やめておくれよ。何が「春風一曲杜韋娘」だ。
（正末が唱う）
【罵玉郎】禍事は天より降れり。お婆さん、な叫びたまひそ。われらが相談しつつあるとき、やつてきて、やぶから棒に波を起こせり。一対の白き目を見張り、一双の黒き爪を伸ばして、一本の黄桑棒を引き寄せり。
【感皇恩】ああ。あきらかに鴛鴦を打ち殺し、鸞凰を打ち散らすなり。この玉壺生は、素蘭女と、ただ御身柳青娘[90]に告げずばならず。
（卜児）わたしはおまえを回回、達達[91]に売ってしまおう。
（旦が悲しむ）
（正末が唱う）これよりは北苑[92]で風に吹かれて、西廂に月を待つことはなからん[93]。狂をしき蝶は窺ひ、野の蜂は騒ぎたて、蜘蛛は慌てん[94]。
【采茶歌】素蘭よ、翠珠の嚢は何処にかゆかん、玉の螳螂は慌てふためく[95]。銀燭を高々と焼き、紅妝を照らししかども引き裂かれ、月の夜に二人して玉壺の腔を歌ふは望めず、「春風一曲杜韋娘」に勝りしも徒なりき。
（卜児）梅香や、甚舎さまをお呼びするのだ。
（甚舎が登場）わたしは甚舎、旅館でぼんやり坐っていると、婆さんが人を遣わし呼びに来たから、行かねばならぬ。（会う）お嬢さん、ごきげんよう。お婆さん、わたしは来たよ。
（卜児）素蘭や、このお客さまを見てごらん。お金持ちだし、なかなかの男前、貧乏な秀才よりもましだろう。
（甚舎）車三十台分の羊絨潞紬を、みなお婆さんに差しあげて、お嬢さんを娶ろうと思います。
（正末が唱う）
【牧羊関】人々の境遇は、おそらくは天の計らひ。やつてきて、いとも冷たく、雪の上に霜を加へて[96]、このものはわれらの逢瀬を断ち切りて、洞房花燭を台無しにせんとせるならん。
（卜児）李玉壺さん、御身は読書をなさいますから、まことに賢く、法度も知ってらっしゃいましょう。わたしの娘を娶りたくても、あなたは姓は李、わたしも姓は李、同姓は結婚ができないことを、あなたは知ってらっしゃいますか。李婉児[97]はどうしてふたたび娼妓となったか。李府尹の息子も姓が李であったためなのです。判決の『南柯子』の詞が、立派な証拠にございます。
（正末が唱う）汝は宰府でのお裁きの『南柯子』ならず[98]、これはまさしく玉壺生のささやかなる詞章なり。はからずも花柳亭、鳴珂巷[99]にて、口達者なるいと悪しき、やり手婆に出くはせり。
（卜児）槐の花が黄とならば、挙子[100]は忙し。官職を求めに行かれず、ひたすらわたしの娘を恋われてどうなさるおつもりですか。
（正末が唱う）
【二煞】わたくしは春風の蘭蕊[101]の麗しき顔をしたるを恋ひしため、ああ、秋に槐の花が咲き、挙子の慌ただしきことをはや忘れたり。玉壺生は香わしき素蘭に別れ、宿の空しき床に向かひて、梅花紙帳[102]に独り寝をせり。寂しく、侘しく、悲しくて、音信はなく、遥かに隔たり、呉江にてうらぶれり。
（旦）玉壺生さま、もしもあなたが行かれれば、わたくしはどういたしましょう。あなたのせいでとても悲しゅうございます。（悲しむ）
（正末）お嬢さま、今日別れれば、いつ会うことができますのやら。
（唱う）
【黄鍾尾】誰かふたたび、わが荔枝漿、薔薇露、葡萄醸をば供すべき。誰かふたたび、わが口に合ふご飯、日頃の茶、酔ひを醒ませる湯をば調へん。わたくしは気落ちして、びくびくし、物を思へるにはあらず、ただ願はくは、御身の玉骨氷肌[103]を保ち、傲雪欺霜[104]の碧窓[105]に映へ、枝に枝を挿し[106]気ままに振る舞ふことなきを。巫山の窈窕娘[107]に別れば、章台の走馬郎[108]はいたく憂へり。嘉禾の旧友たちと別れて、蘇州の刺史の腸を断つ[109]、ふたたび相逢はんとすれど望みなし。花前月下に二人して並びしことを口にせば、鐵石の心肝さへも、じつくりと物思ふべし。（退場）
（卜児）李玉壺はいってしまった、甚舎さまはお金持ちだから、あの方を家にお泊めしよう。
（旦）お母さま、李玉壺さまはあなたのせいで追い出されましたから、わたくしはあなたのためにお金を稼ぎはいたしませぬ。梅香や、鋏をもってきておくれ。（髪を剪る）
（詩）楽しみはただ一春なれど、おそらくは宿世の縁を結びたるらん。今日は青絲の髪を剪り、心から人に嫁がぬことを示さん。（退場）
（卜児）ああ。この娘は髪の毛を剪り、お金を稼ごうとはしない。甚舎さま、ご安心くださいまし。わたくしはいずれにしても娘をあなたに嫁がせますから。
（甚舎）お婆さん、お嬢さんはわたしに嫁ごうとはせずに、髪の毛を剪ってしまった。どうしたらいいだろう。
（詩）かのひとは、もとは煙花妓なりしかど、禿師姑となりたり。もしかれをして甚黒子に嫁がしめんとせば、李玉壺が死するよりほかはなからん。（ともに退場）
第三折
（貼旦が陳玉英に扮して登場）わたしは陳玉英。この嘉興府で第二の妓女。第一の妓女の李素蘭さんは、李玉壺さまと馴染みとなったが、母親に邪魔をされ、髪の毛を剪り、お役所に出てこられぬから、今ではわたしが第一の妓女となっている。李玉壺さまは昨日わたしを訪ねられ、李素蘭さんと会おうとし、今日会うことを約束された。梅香に素蘭さんを先に呼ばせて、ひとまず部屋に隠れさせ、何を言うかをみるとしよう。李玉壺さまがそろそろいらっしゃるだろう。
（正末が登場）やり手婆に邪魔をされ、腹を立て、あのひとの家を離れて、宿に泊まって数日になる。心の中では思い切れぬので、昨日は陳玉英ねえさんにお願いし、素蘭と一目会おうとし、今日会うことを約束したのだ。行こうとせねば、気に掛かり、思い切ることができない。行こうとすれば、人にあれこれ噂されるのが恐ろしい。まことににっちもさっちもゆかぬ。（唱う）
【中呂粉蝶児】われは朝夕行き来して、端無くも大騒ぎをぞ惹き起こしたる。われは花柳の巷を占むべきにはあらず。あれやこれやと言はるるは、耐へ難し。舞榭と歌台[110]に別れを告げて、なにゆゑぞ夜を徹し、怨みの債を生ぜざる[111]。
（言う）ある人がわたしを戒め、こう言った。「李玉壺さん、御身はまことに痴れ者です」と。わたしは言った。「御身らはこのような病を患われたことがないのでしょう」と。
（唱う）
【酔春風】情愛の厚きこと山のごと、恋情の深きこと海のごと。かれの心とわたしの心はいづれも同じく、などてか改むるを得ん。わが胸中の恩情と、枕辺の愛情と、布団のなかの恩愛を想へかし。
（言う）ねえさん、いらっしゃいますか。
（貼旦）李玉壺さん、いらっしゃいまし。お入り下さい。
（正末）わたしはわざわざねえさんにお願いをしにきたのです。
（貼旦）李玉壺さん、わたしは人を遣わして、お嬢さまをお招きしましょう。ただ、やり手婆はすこし手強いですから、もし知られたら、どういたしましょう。
（正末が唱う）
【迎仙客】ねえさんの、才人を憐れみたるに感謝せん。御身は洛伽山[112]にて苦難を救はるる観自在。喪門[113]に出くはさんとも、吊客[114]に逢はんとも、一月に一年の災に出くはさんとも[115]、鶯花寨にて死するとせん。
（貼旦）玉壺さま、あなたは老いてらっしゃらず、素蘭さんもお若いですから、慌てていかがなされます。諺にこう申します。「情があらば誰か怕れん、年を隔てて相逢ふを」。
（正末が唱う）
【紅繍鞋】やり手婆を瞞きて、門外へ離れしめ、たちまちにわが望夫石[116]をば山より招き下ろしたり。ああ。御身ははなはだ聡明にして、便宜を施すねえさんなれば、謀をば立てたまふ。御身は言ひたり。かのひとは麗しく、やうやく二八、わたくし[117]は美しく、いまだ頭は白からずと。ねえさんは仰れり。わたくしは若き日のまた来ぬことを恐れりと。
（旦が登場）李玉壺さまと陳玉英の家で会うことを約束したから、行かねばならぬ。（会う）玉壺生さま。あなたのせいでとても悲しゅうございます。（悲しむ）
（正末）お嬢さま、このように隔てられ、どうしたら宜しいのでしょう（唱う）
【満庭芳】じつくりと美しき顔を見ば、春は杏の頬に生じて、笑まひは蓮の腮に入りたり。われはもとより夜に秦楼の金釵の客を訪ねんとせり。御身にしかと事問はん。なにゆゑぞ犀梳[118]と鳳釵を帯ぶることなく、宝鏡と鸞台[119]に傍ふに懶き。なにゆゑぞ雲鬢は金額[120]に乱れたる。覚えずわれは疑へり。まことに誰がためなりしかと。
（旦）わたくしは御身のために髪の毛を剪りました。わたくしは今、塵に埋もれた宝鑑[121]か、埃に汚れた銀筝[122]のよう、役所での仕事に応じておりませぬ。御身のせいでまことに淋しゅうございます。（悲しむ）
（正末が唱う）
【石榴花】御身は言へり。「筝を弾くこともなく、玉雁は並ぶるに懶く、琴は塵にぞ埋もれたる」と。緑窓のもと、御身が針を執られぬはもちろんのこと、われもまた硯台を土に塗れしめ、詩を棄てたりき。このわれのために御身は病み疲れ、裙の帯をば支へられたり[123]。このわれは御身のために沈腰[124]を緩ましめ、身は痩せり。われに問はるることを怖れば、帯をな解きそ[125]。ねえさん[126]、鏡を貸したまへかし。（映す）
（正末が唱う）
【闘鵪鶉】御身は淡く描かれし洛浦の神仙、このわれは、泥で捏ねたる、江に身投げし太白のごと。わが心をな疑ひたまいそ。このわれをな責めたまひそ。
（旦）かようにわたしを棄て去られ、どうして家に来られぬのです。
（正末が唱う）十たび朱門に謁せども九たび開かず。このわれは手立てを考へ出だし得ず。やり手婆は蘭房[127]に目を光らせたれば、このわれは大海に帰する龍となり得ず[128]。
（貼旦）お嬢さま、悲しまれないでくださいまし。先に憂えて、後に喜び、苦しみが尽き、楽しみが来るものでございます。悲しんでどうなさいます。
（正末）ねえさん、大騒ぎしないでください。恐らくはやり手婆が聴いていましょう。
（貼旦）そんなに恐ろしいのですか。
（正末が唱う）
【快活三】やり手婆は、金斗の街を建てんとしたれど[129]、楚の陽台とならんとすれば[130]、一輪の並頭蓮[131]をむごたらしくも両つに分けて、刀もて合歓帯を断ちきれり。[132]
【鮑老児】強ばらせたる顔は寒々として雪を払ひて、冷たき顔は氷の塊にぞ似たる、歹闘毛は眼に掛かり、下に向かひて並びたり[133]。まさしく人の脳をかち割るひどき妖怪[134]。ともすればをかしな顔をし、河に身を投げ、井戸に身を投げ、街を経巡り、嘘をつき、巧みなる言葉にて黒を白とぞ言ひくるめたる。
（卜児が甚舍を連れて登場）わたしの娘が家にいない、きっとまた陳玉英の家であの貧乏人と話していよう。甚舎さま、わたしといっしょにかれを尋ねてゆかれてはいかがでしょう。この門は閉じられている。きっとこちらにいるのだろう。開けておくれ。開けておくれ。
（旦が驚く）やり手婆がやってきました。どうしたら宜しいでしょう。
（正末が唱う）
【十二月】かれは驚き、顔色を失へり、かれは驚き、手と脚を擡げ得ず。ねえさん、「先に憂へて、後に喜ぶ」とはいへず、いささかも「苦しみの尽き、楽しみの来る」ことぞなき。
（旦）玉壺生さま、どうしたら宜しいでしょう。やり手婆がやってきました。
（正末が唱う）やり手婆は意気地なき秀才に構はざるべし、わたくしはか弱き裙釵[135]の驚かんことを恐れり。
（言う）ねえさん。
（唱う）
【堯民歌】わたくしは「洛陽の酒色の一時に来たる」にあらず、「蒺莉の沙に野花の咲く」[136]ことと相成れり。誤ちて流るる水に随ひて、天台に泛ぶは叶はず、今宵は夢の陽台に到ることなかるべし。あな哀し、おそらくは定めなるべし。
（言う）わたしが何を怕れましょうや。
（唱う）出くはしたとて構ふまじ。
（門を開ける）
（甚舎）お嬢さん、ごきげんよう。
（卜児）陳玉英め、おまえはわたしのすぐ隣に住み、わたしの娘をこちらに蔵していたのだね。李玉壺さん、あなたも恥知らずな方ですね。娘や、ほんとうに大胆なことだねえ。歯を引き抜いて、頭突きを食らわし[137]、いっしょに役所へ訴えにゆくとしよう。
（正末）やり手婆はまことに無礼（唱う）
【上小楼】さまざまの仕草は見るにぞ得堪へざる。ほんたうに嫌らしきもの。やつてきて瑶琴を打ち砕き、菱花をば打ち壊し、金釵をば打ち散らしたり。顎を引っ張り、頭突きを食らはし、自らを損なへり。かのものは死にもの狂ひで大騒ぎして、罵詈雑言は聴くに得堪へず。
（甚舎）貧乏人め、無礼なり。おまえは先にこのひとの家に通っていたが、車三十台分の羊絨潞紬を持っているこのわしに敵うまい。裁きはすぐに着くであろうぞ。
（正末が唱う）
【幺篇】双秀才どの、見知らぬ顔を恕されよ。県知事さま、人を追ひ払はれよかし[138]。御身も田地を質に入れたり売つたりし、子を棄てて、妻を離縁し、米を送つて、薪を与へねばならず。
（卜児）わたくしはお金持ちならすぐお泊めするのです。
（正末が唱う）汝が本性は変はることなく、山河の変はるは易からん[139]。猛き心はなほ存し、来るものにつけ買ひせしむることはなく、現金で買はせんとぞせる。
（甚舎）わたしは顔が男前、金持ちでもある。おまえがどうしてわたしより優れていようぞ。
（正末）やり手婆がそなたを気に入ったのも道理だ。（唱う）
【耍孩児】このものは、野暮も野暮、かくも汚き姿となりたり。兔のねぐらに献策すべし。たとひそなたに車数十台分の羊絨と紬緞があらんとも、幾たびも日や風に晒さるるには得耐ふまじ。一本の背の骨は、黄桑棒を受くるに備へよ。八片の頭蓋骨を翠崖[140]に打ちつくる仕度をすべし。そなたの元手は光州[141]にて買ひ、滑州[142]にて売るものにして、行く先々で、田舎者らと馴染みとなれど、鸞鳳のごとく睦みあふわけにはゆかず[143]。
【四煞】ただ財産を食いつぶし、泥の球をばそなたの眼に換へ、喜びて手巾もて下顎を覆ふを想ふことなかれ[144]。一式の装ひは、まことに優れ[145]、大いなる信袋[146]を、三山骨[147]に垂らしたり。硬き木綿の衫を着て、十字路を闊歩せり[148]。
（甚舎）このわしは山西の客商の甚黒子、このわしの着ているものはおまえとはまったく違うぞ。
（正末が唱う）じっくりと見ば、話す言葉は山西の客商のもの、一尺の、頭を覆へる[149]、目深なる氈帽を着け、一対の足を包める[150]、十斤の頑丈な紐を着けたる麻鞋を穿く。
（甚舎）貧乏人めが、わたしには車三十台分の羊絨と潞紬があるのだ。
（正末が唱う）
【三煞】万貫の財はあれども、わたくしの七歩の才に勝ることなし。二人のうちのいずれか名声大ならん。そなたの財は、つねに虎口を踏みながら、紅塵のうちを歩めども[151]、わたしの才は、龍門を跳び、金殿に並ぶべし。そなたは口と舌を鋭くするなかれ、やり手婆は、口の甜きこと蜜鉢に似たれども、心の苦きことは黄檗のごときなり。
（卜児）李玉壺さん、あなたはこんなに貧乏ですのに、わたしの娘があなたを守ってどうするのです。
（正末が唱う）
【二煞】かのひとは飢ゑ凍えども常のごとくし[152]、わたくしは清貧に甘んぜん。かのひとはわたくしの紫の羅襴[153]、白き象簡[154]、黄金の帯を待ち望み[155]、わたくしは駟馬の車をこの鶯花陣[156]に響かしめ、五花誥をもたらして、かれのため妓女の身分を取り除くべし[157]。諺に「真面目なる者はかならず報はれん」とぞまうしたる。わたくしがたとひ桑枢甕牖[158]にあらんとも、かのひとは布襖裙釵[159]を願ふべし。
（卜児）李玉壺さん、お金がないなら、わたしの家では、あなたをお泊めしないまでです。あなたに唆されたため、娘はわたしと仲違いしておりますよ。清廉な官員さまがきちんといらっしゃるのですから、裁きを受けにゆきましょう。
（陶伯常が張千を連れて登場）わたくしは陶伯常、嘉興府の新任の太守なり。張千よ、儀仗を列ね、ゆっくり行こう。
（卜児が叫ぶ）訴えごとがございます。
（陶伯常）張千よ、誰かが不平を鳴らしておるぞ。こちらに連れてまいるのだ。
（張千）面を上げよ。
（陶伯常）お婆さん、そなたは誰を訴えるのじゃ。（末に気が付く）弟の李玉壺ではないか。
（正末）陶伯常兄じゃではございませぬか。
（陶伯常）張千よ、人々をみな役所へと連れてゆくのだ。一人も欠けないようにせよ。
（正末が唱う）
【煞尾】ありがたや、やり手婆は年貢の納め時となり、ばかものは死すべき時を迎へたり。
（甚舎）あのかたはわしをどれほど打たれるのだろう。
（正末）それほど多くは打たれぬでしょう。財産を恃んで、罪のない人々を虐げたため、
（唱う）百回殴られ、三千里あまりの流罪に処せられん。
（卜児）あのかたはわたしを殺されるのですか。
（正末）人のお金を巻き上げて、陷れ、人の脳をばうち破り、人の皮をば剥いだため、
（唱う）骸が完きことを得ば、幸ひならん。（退場）
第四折
（陶伯常が従者を連れて登場）わたしは陶伯常、京師に来てから、ありがたき聖恩により、嘉興府の太守の職に遷任したり。李玉壺の万言の妙策を聖上に奉り、聖上はおほいに喜び、李玉壺をこの府の同知に任命し、わが同僚となさしめたまへり。李玉壺の朝廷に赴いて恩徳に謝することをば免れしめて、すみやかに任地へと行かせたり。大通りへとさしかかり、一群の人々の騒ぐを見れば、はからずもそはまさに李玉壺なりき。外見の悪しきことを恐れて、従者に命じ、人々を役所へ連行せしめたり。
張千よ、人々をみな法廷へ連れてくるのだ。
（張千）心得ました。人々は揃っております。
（正末が卜児、旦、甚舎とともに登場）本日はお裁きを受け、白黒をつけましょう。
（甚舎）車三十台分の羊絨潞紬に物を言わせて、このようなことになるとは。
（正末が唱う）
【双調新水令】このものは、むりやりに武陵溪へと入りたることを悟ることなし。想ふにそなたは野の蜂なれば、蜂蜜と親しむを得ず。「花を惜しみて春には早く起く」ことを台無しにして、「月夜を愛し遅く眠る」を形無しにせり[160]。むりに色事せんとすれども、物の道理を弁へず。馬鹿ものめ、何人か汝をしてお金を払ひ、憂へをば買はしめし。
（衆が陶伯常に見える）
（張千）面を上げよ。
（陶伯常）みなのもの、跪け。李玉壺だけは立つがよい。
（卜児）知事さま、わたしは原告で、そのものは被告ですのに、どうしてわたしを跪かせて、そのものを立たせるのでございましょう。
（正末が唱う）
【駐馬聴】やり手婆は喚きたて、論ひ、髄を抉りて、筋を引きぬく索命鬼よりも恐ろし。妓女に会ひ、あれこれ罵り、家を襲へる殺人鬼よりも恐ろし。やり手婆は「坐れるものは立ちたるものの飢ゑを知るなし」[161]、甚黒子は「東の店は西の店の利を見ることなし」[162]。めちやくちやに、がなりたて、二列立ちたる下役をまつたく怕れず。
（卜児）知事さま、どうか憐れと思われてくださいまし。李玉壺はその昔、娘と馴染みになりました。その後、わが家に山西の客商の甚舎が泊まると、李玉壺は面白くなくなって、出ていったのでございます。ところがかれはわれら母娘を唆し、仲違いさせましたので、わたくしは訴えにきたのです。なぜ原告を跪かせて、被告を立たせるのでしょうか。これはとんでもないことにございます。
（陶伯常）この件は、『玉壺春』の絵があったのだから、明らかにそなたの娘は李玉壺と婚約をしていたのであろう。そなたはどうして甚舎を泊めた。
（正末）思い知ったか[163]。（唱う）
【水仙子】わたくしは、『玉壺春』は消し去られ、また語らるることもなく、運は退き、雷に打たれたる薦福の碑とならんと思ひたりしかど[164]、そも素蘭香も春の日に逢ひ、沈香串をふたたび素き手に携へて、翠珠の嚢は合浦に重ねて還るかのごと[165]。玉螳螂は蘭叢のうちに飛びまはり[166]、白羅の扇はとこしへに明月のごとく輝けば、杜韋娘を王魁[167]に嫁がせるわけにはゆかず。
（陶伯常）お婆さん、聴くがいい。李玉壺が万言の妙策を献じたために、聖上はかれをこの府の同知に任名されたのだ。
（甚舎）たいへんだ。
（卜児）李玉壺さま、わたしはあなたが貧乏になる定めにはないものと思うていました。
（正末が唱う）
【落梅風】公道に依り、正理に従ひ[168]、役人の権威を恃むことはなし[169]。李素蘭の香雲を剪りたるはなぜかといはば、これもまた二人して比翼を諧ふることをば願ひたればなり。
（陶伯常）李素蘭よ、わしはそなたを李玉壺と結婚させて妻としようぞ。そなたはどう考えるかな。
（旦）ありがとうございます。お役人さま、わたくしは落籍をいたしたく思います。
（陶伯常）弟よ、李素蘭をそなたの夫人としてよいか。
（正末）すべては兄じゃの取り持ちによるものにございます。わたくしはご恩を忘れはいたしませぬ。（唱う）
【雁児落】碧桃の間には鸞鳳を棲まはしめ、翠沼の畔には鴛鴦を番はしめたり。緑陰に鴬と燕の騒ぎ、錦塢に蜂と蝶との戯るるに任さん。
【得勝令】ああ。連理[170]は手厚く育まれ、並蒂[171]はともに繁れり。本日は煙花の市[172]に別れを告げて、錦繍の闈へとともに帰らん。佳き日に備へ、合歓の帯をつねに結ばん。結婚を遂げ、同心結は離るることなし。
（陶伯常）落籍をしたのなら、礼案[173]から名を除かせよう。素蘭を玉壺と娶わせて夫人としよう。
（甚舎）知事さま、それはなりません。このひとも姓は李で、あのひとも姓は李にございます。同じ姓では結婚はできませぬ。
（旦）知事さま、わたしはもともとは姓は張、幼いときより縁組し、あのひとの義女となったのでございます。わたしがこのたび姓を改めようとするのに、よくないことなどございませぬ。
（陶伯常）ほんとうか。
（卜児）ああ。不孝な娘は、わたしを親とは認めてくれなくなってしまった。わたしはごまかすわけにはゆかない。ほんとうはわたしが縁組した娘です。もともとは苗字は張にございます。
（陶伯常）李玉壺よ、そなたは白銀百両を、この婆さんに与えて養育費とするがよい。甚黒子よ、そのほうは財産に物を言わせて、他人の妻や妾を奪い、してはならない罪を犯した。四十回杖で打ち、役所から追い出そう。李玉壺は、今やこの府の同知となった。張素蘭には五花官誥を賜わって夫人としよう。なんじら二人は宮居を望み、聖恩に感謝せよ。
（末、旦が恩徳に謝す）
（正末が唱う）
【沽美酒】大恩人の取り持ちにしぞ感謝せん、本性は変はらざるものにはあらず。鶯花寨の名は麗しからざるものなれば[174]、願はくは、落籍し、正妻となし、結婚し、夫婦とならん。
【太平令】五花誥を受け、身は栄へ、やんごとなくして、七香車は調へられぬ[175]。玉壺子は国器と称へられたれば、素蘭女は佳き連れ合ひとなるに堪ふべし。これよりは衣食は足りて、あらゆることは意に叶ふべし。ああ、天地の間で一生を徒にすることぞなからん。
（陶伯常）李玉壺よ、聴くがよい。
（詞）汝が万言の妙策が明光[176]に転奏せられたるために、官爵に封ぜられ、位は黄堂[177]をしぞ理むる。十年の窓下を徒にすることはなく、本日は紫綬金章を手に入れり。素蘭女は婚姻をする定めなりしかば、本姓を改めて落籍を許されり。やり手婆は銀百両を与へられ、甚黒子は処罰され、故郷へ帰れり。これよりは夫は栄へ、妻は貴く、天地のごとくとこしへに団円すべし。
