銭大尹智寵謝天香雑劇
関漢卿撰
楔子
（冲末が柳耆卿に扮し、正旦の謝天香をつれて登場）
（柳の詩）もともとは、やすやすと青雲に上らんと思へども、紅顔のため、この身をば滞ほらしむ。生まれつき才多ければ、風月の場で人に譲らず。
わたくしは、姓は柳、名は永、字は耆卿ともうし、銭塘郡の者。平生、花[1]と酒とを思い、妓館に上り、嫖客となる。はからずも、遊学し、この地に到り、妓女の謝天香と馴染みとなった。思えば、今年は春榜[2]が行われ、試験場が開かれる。一日受験に遅れれば、さらに三年待つことになる。今日は彼女にお別れし、都に上り、試験を受けなければなるまい。お姐さん、わたしはこちらでたくさんの持て成しを受けました。京師に行って、官位を得たら、五花の官誥[3]、駟馬の香車[4]がもたらされ、御身は夫人、県君[5]になりますぞ。
（正旦）耆卿さま、衣服と旅費は、きちんと調えましたから、わたしのために、功名を逃されないでくださいまし。
（浄が張千に扮し登場、言う）わたしは張千、この開封府で楽探[6]の仕事をしている。管轄は、僧尼、道俗[7]、楽人で、新たな客を迎えたり、馴染みの客を送ったりするのはすべてわたしの仕事だ。このたびあらたに任命された知事さまの姓は銭。出迎えの者たちは、みな行ってしまったが、妓女たちは行ってはおらぬ。こちらでは妓女の謝天香が、妓館を管理しているから、一声掛けにゆかねばなるまい。入り口に着いたわい。謝姐さんはご在宅ですか。
（旦が見え、言う）お兄さん、何のご用で。
（張千）お姐さん、明日あらたに役人さまが着任されます。目通りのご支度をなさってください。
（旦）お兄さん、新たに着任されるのは、どのような役人さまでございましょう。
（張千）銭大尹です。
（旦）ひょっとして波斯銭大尹さまですか。
（張千）おかしなことを仰いますな。知事さまの諱をお呼びなさるとは。わたくしはまいります。謝姐さん、明日は、はやく来て、お目通りなさいませ。（退場）
（柳）お姐さん、嬉しいことです。銭大尹は、わたくしの同窓の友、明日はいっしょに銭大尹のところに行って、お世話をお願いいたしましょう。そうすれば、わたしも安心して行けましょう。
（正旦が唱う）
【仙呂賞花時】一曲は泪混じりと相成れり[8]。苦しきはひとへに高き離恨天[9]。両の泪は尊前に落ち、山河は遠く遥かなり。愁へつつ行の軒を調ふるを見る。
【幺篇】鸞膠で断たれし弦を接がんとし、雕鞍を見んとすれども見返り難し。新任の官員に謝す。民草に便宜を施されたれば、われらは一夜の並頭蓮となるをぞ得たる。
（ともに退場）
第一折
（外が銭大尹に扮し、張千を連れて登場、詩）
寒蛩は秋の夕に、せはしく織を促して、戴勝[10]は春の朝に、ねんごろに耕を勧めり。民草をお上が治むることなしと言ふならば、虫鳥の何ゆゑに鳴くかを知るべし[11]。
わたくしは姓は銭、名は可、字は可道と申し、銭塘の者。甲第[12]に合格してより、幾たびも抜擢せられ、すこぶる名声ありしかば、このたびは、聖恩を忝うして、開封府尹を加へられたり。若きときより、顔じゆうに長き髯あり、軍民たちは、面識がある者も、なき者も、みな波斯銭大尹とぞ呼びなせる。ひそかに思ふに、昔、一人の同窓の友、姓は柳、名は永、字は耆卿てふ者があり。この者の学問は、わたくしに劣ることなし。幾とせも別れたれども、志を得たかどうかが気に掛かる。本日は、登庁し、朝の勤めをしているところ。張千よ、署名をすべき文書をば、持ちきたれかし。
（張千）知事さまに申し上げます。楽人たちが謁見をしておりませぬ。
（銭大尹）前任官のもとではかような仕来たりがあったのか。
（張千）先例がございます。
（銭大尹）それならば、謁見させよ。
（張千）謁見をする楽人たちよ、出てまいれ。
（正旦が衆旦たちとともに登場、言う）本日は、新任の役人さまがいらっしゃったから、謁見しにゆくことにしよう。粗相のないよう。
（衆旦）心得ました。
（正旦が唱う）
【仙呂点絳唇】詩詞を講じて、笑まひつつ街で語るに、倣ふは難し[13]。世はおしなべて、風にたゆたふ游絲のごと。
【混江龍】わたくしは、日ごとに御身らを試みて、御身らを立派にしたくてたまらず[14]。終日父たることを願ひて、一日師となることを望めり。妓女の身のわたくしを迎へんとするものあらば、御身らに劇を演ずることを命ぜんと願ひたり。四つのことに、出世をば遅らされたり。ひとへに聡、明、智、慧のためなり。それゆゑに、辛苦を辞することぞなき。
（衆旦）お姐さん、籠の鸚哥が詩を誦えるのをご覧ください。
（旦）わたくしたちに、よく似ていますね。（唱う）
【油葫蘆】金の籠なる鸚哥は詩を詠みたれど、わたくしたちに、まことに似たり。聡明なればなるほどに、籠より出づる時はなからん。管絃を善くするは、人の日ごとに伺候したるによく似たり。歌唱に慣るるは、人の日ごとに仕事したるによく似たり。わたしが怨むはほかにもあらず、
（衆旦）お姐さま、どなたを怨んでらっしゃるのです。
（旦）弾唱[15]をよくする者は、日ごとお上にお仕えし、弾唱をよくせぬ者は、いささか気儘にしています。
（唱う）礼房[16]の書吏は怨めし。かれらはわたしの掌命司[17]。まず弾唱を善くせぬ者の名を除き、物言へぬ妓女となるを知らしむ。
【天下楽】人に名を知らるることを求めんや。その昔、熟慮することなかりしも、聡明であればあるほど、お勤めのなきことはあり得ず。技藝をばひけらかし、艶姿をばひけらかし、初老とならば、弟子[18]とぞ呼ばれたる。
（張千）謝姐さん、何ゆえに今、来られたのです。こちらにいらっしゃってください。取り次ぎをいたしましょう。（報せる）知事さまに、ご報告申し上げます。楽人たちが謁見をしにまいりました。
（銭大尹）他の者たちは入ってくるな。一番綺麗な者だけに会うとしよう。
（張千）他の者たちはみな帰れ。謝姐さんだけ入るがよい。
（衆旦が退場）
（正旦が見え、拝礼する）妓女謝天香が、つつしんで、お目通りいたします。
（銭大尹）お上にお仕えするときは、粗相のないよう。
（旦）かしこまりました。
（門を出て、言う）お兄さん、あのお役人は、ほんとうに、冷たいお顔をなさっていました。（唱う）
【金盞児】たちまちに見る、かの人のお姿の階を下りたるを。お上の役所に死するは必定。常日ごろ、品官[19]宣使[20]を子供のごときものと見なせど、あの方は、「お上にお仕へするときは、粗相なきように」と言はれ、口を開けど、そのほかの言葉はなかりき。一飯の間なれども、心は戦く、両炊の時[21]。
（柳）姐さんは謁見にゆかれたが、姐さんに会いにゆこう。
（旦に会い、言う）お姐さん、謁見をなさいましたか。わたくしがあの方に会いにゆきましょう。
（正旦）おやめください。知事さまはほかの方とは違います。
（柳）構いません。兄さんはわたくしを他人とは違うと思ってらっしゃいますから。
（張千に見え、言う）お兄さん、取り次ぎをしておくれ。杭州の柳永が参謁をしにきましたと。
（張千）朝、謝姐さんの家にいた先生だ。こちらにいらっしゃってください。お取り次ぎいたしましょう。（取り次ぎをする）役所の外に杭州の柳永さまが、挨拶に見えられました。
（銭大尹）杭州の柳永といっていたのか。
（張千）はい。
（銭大尹が笑う）わしの言葉が終わらぬうちに、柳どのがはたして来られた。喜びにたえぬわい。お招きしてくれ。
（張千）お入りください。
（柳が銭に見え、言う）わたくしは、遊学をしてこの地に到り、はからずも栄転に逢ふ。一つには、兄上をお祝ひし、二つには、功名を得にゆくとせん。
（銭大尹）柳どのと別れて久しく、会いたく思うておりました。心配をしておりましたが、今日、会うことができましたのは、まことに幸せ。部下よ、酒をもて。
（柳）わたくしは急いでおります。お茶やご飯を準備なさるには及びませぬ。
（銭大尹）そうはいっても、久しく会わなかったのですから、少しだけなら構いますまい。張千よ、訟庁[22]に酒をもて。柳学士どのをもてなすことといたそうぞ。
（柳）お兄さま、こちらは国家の公堂ですから、わたくしの坐る場所ではございませぬ。
（銭大尹）それは違います。一つには、わが同窓の友なのですし、二つには、一代の才学のある方なのですから、お持て成しするのは当然。御身を引き留め、幾日かここで過ごしていただきたいと思っております。ただ「大いなる丈夫は、功名を思うべし」とも申しますから、無理に引き留めはいたしませぬが。なみなみと一杯飲まれよ。（酒をとる）
（柳）お酒はたっぷり戴きました。お兄さん、長の旅路に出ることといたします。
（銭大尹）持て成しもしておりませぬが、後日合格なさったときには、お祝いをいたしましょう。遠くまで送らぬことを許されよ。
（柳）兄じゃ、送られるには及びませぬ。（外に出て旦に見え、言う）柳永よ、どういうことだ。姐さんのために来たのに、どうして忘れてしまったのだ。もう一度行くとしよう。
（正旦）耆卿さま、行かれてはなりませぬ。あの知事さまは、ほかの方とは違います。
（柳）構わないよ。兄さんはわたくしを特別扱いしてくれるのだ。
（張千に会い、言う）張千よ、もう一度取り次ぎをしておくれ。
（張千）何ゆえふたたび来られたのでしょう。
（柳）杭州の柳永がまた挨拶に来た、話があると言ってくれ。
（張千が取り次ぎをする）杭州の柳永さまがまた会いたいとのことにございます。お話があるそうにございます。
（銭大尹）そうだろう。そうだろう。わしがこの地で知事をしていて、到らぬ処があるからだろう。お通ししてくれ。
（張千）お入りください。
（見える、銭大尹）わたしはこの地を知事をしておりますが、たくさんの到らぬ処がございますから、立派な言葉で、導いてくださるのでしょう。
（柳）他でもござらぬ。謝氏をよろしくお願いします。
（銭）耆卿どの、お大事に。遠くまで送らぬことをお許しください。
（柳）ありがとうございます。
（柳が旦に見える）お姐さん、話をしました。お大事にとのことでした。
（正旦）耆卿さま、知事さまのお気持ちがお分かりになられましょうか。
（柳）分かりませぬ。
（正旦が唱う）
【酔中天】初めて相見えしときは、学士と呼びて、粗略にはせず。今、戻りたる御身に向かひて言ひ含めん。知事さまは、冷き眼でしきりに窺ひ。交椅の上で尊大にされ、先ほどと異なれり。少しく別れたるのみなるに、字で呼ばれり。
（柳）ご心配なら、また行きましょう。
（正旦）耆卿さま、行かれてはなりませぬ。
（柳）構いませぬ。兄はわたしを他人とは違うと思っておりますから。
（銭大尹）張千よ、近う寄れ。先ほど耆卿は、謝氏をよろしくと言っていた。謝氏とは高い冠と、大きな帯の、優れた士大夫なのであろう。言ってくれ。
（張千）知事さま、朝、謁見しておりました、謝天香のことにございます。
（銭大尹）なに。朝の謝氏だと。耆卿め、間違った心遣いをしておるな。
（柳が張千に会い、言う）張兄さん、また取り次ぎをしておくれ。杭州の柳永が、またお話をしにきましたと。
（張千）何ゆえふたたび来られたのです。お取次ぎいたすわけにまいりませぬ。
（柳）大丈夫です。また声をお掛けください。
（張千が取り次ぎをし、言う）杭州の柳永さまが、お話があるそうにございます。
（銭大尹）呼んでまいれ。
（柳が中に入る）
（銭大尹）耆卿どの、何のお話しか。
（柳）兄さん、謝氏をよろしくお願いします。
（銭大尹）先ほど申したであろう。お大事に、遠くまで送らぬことを許してくれと。
（柳が旦に見え、言う）知事さまは、お大事にとのことでした。どうということはございませんでした。
（正旦が唱う）
【金盞児】御身は筆を手に執りて、文詞を作り、まつたき才に疵はなけれど、このたびは、弁へもなく、考へもなし。かの人が、お大事にと仰られしは、釣鰲[23]の八韻賦[24]を見、折桂[25]の五言詩[26]を待ち、十年辛苦の心を敬ひ、状元となる時を重んぜんとしたまへばなり。
（柳）お姐さん、心配のしすぎです。ご安心できないのなら、またゆきましょう。
（正旦）耆卿さま。ゆかれてはなりませぬ。
（柳）構いません。兄さんは、わたくしを他人とは違うと思ってらっしゃいますから。
（張干に見え、言う）張兄さん、また取り次ぎをしてください。杭州の柳永がふたたび話をしにきましたと。
（張千）まだゆかれなかったのですか。今回はいけませんぞ。
（柳）構いません。
（張千が取り次ぎをする）杭州の柳永さまがふたたび話をしにこられました。
（銭大尹）呼んでまいれ。
（見える、銭大尹）耆卿どの、何のお話しか。
（柳）お兄さん、謝氏をよろしくお願いします。
（銭大尹が怒る）耆卿どの、「桃花を植ゑて開かしめ、竹竿を折る」。
（柳）お兄さん、ありがとうございます。
（外に出て旦に見える）話をしました。
（正旦）知事さまは何と仰られましたか。
（柳）知事さまは「桃花を植ゑて開かしめ、竹竿を折る」と仰いました。
（正旦が唱う）
【酔扶帰】御身はかやうに才思のなきか。何ゆゑぞ、二つのことを悟らざる。知事さまの詞は、意味のなき詞にあらず。何ゆゑぞ、その中の意を解せざる。「桃花を植ゑて、竹枝を折る」と言ひけるは、色を重んじ、君子を軽んずることを言へるなり。
（柳）ご心配なら、また話をしにゆきましょう。
（正旦）耆卿さま、行かれてはなりませぬ。
（柳）構いません。兄さんは、わたくしを、他人とは違うと思ってらっしゃいますから。
（張千に見える）張兄さん、また取り次ぎをしてください。杭州の柳永がふたたび話をしにきましたと。
（張千）取り次ぎをいたすわけにまいりませぬ。
（柳）わたしが自分でまいりましょう。
（張千が取り次ぎをする）
（銭大尹）杭州の柳永だろう。
（張千）仰る通りにございます。
（銭大尹）畜生め、とりあえず向こうに行っているがよい。
（柳）張千は入っていったが、何ゆえに出てこぬのだろう。取り次ぎをしていないのではあるまいか。わたしが自分で入ってゆこう。（入り、見える）お兄さん。
（銭大尹が怒る）謝氏をよろしくと申すのだろう。張千、文書を持ってこい。耆卿は何たるざまなのだ[27]。「君子は重からざれば威あらず、学ばば則ち固ならず」[28]と言う。どうしてこんなに軽薄になったのだ。こちらは役所で、妓楼ではないというのに、ひたすらに謝氏、謝氏と申すとは。耆卿よ、わしは開封の府尹であって、教坊司の楽探ではない。昔、そなたを手厚く遇したのはなぜか。そなたに才があったからだ。「徳が才にまされば君子、才が徳にまされば小人」と古人は言われた。こたび、そなたの所行を見たが、才は多いが徳は足りない。『礼記』には「君子は奸声乱色を、留めずば聡明ならん」[29]とある。『老子』には「五色は人を盲たらしめ、五音は人を聾たらしむ」という。大丈夫は「天下の憂へに先だちて憂へ、天下の楽しみに後れて楽しむ」。「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず」[30]なのだ。これが大丈夫というものだ。こたび、そなたは別れを告げに来られたが、良い言葉、善い行いがあるかと思えば、一言もなく、ただろくでもない妓女のため、幾たびも往復するのは、卑しい男も恥じることだぞ。まして衣冠の士であれば、愧じるのが当然だ。耆卿どの、色街よりも、功名に心を留められるがよい。「三十にして立つ」と言うではないか。当今の王元之[31]は、七歳で文を作ったが[32]、今や官位は三品で、翰林学士の職にある。恥ずかしくございませぬか。耆卿どの。
（詩）渾身に錦繍多く、満腹の文章に富みたるに、王内翰[33]に倣ふことなく、ひたすら謝天香を説く。
張千よ、近う寄れ（耳打ちする）こうすればよい。
（張千）かしこまりました。
（銭大尹）部下よ、退庁の太鼓を鳴らせ。私宅に戻るぞ。（退場）
（柳が旦に見える）
（正旦）何を仰ったのですか。知事さまを怒らせて。
（柳）お姐さん、安心なさい。帝都に赴き、官位を得たら、銭可道よ、いつまでも大尹でいたいなら、わたしと出くわさないようにするがいい。お姐さん、今度こそ、長の旅路につきましょう。
（正旦）城外の酒屋までお送りし、とりあえず餞といたしましょう。
（張千が登場）しばし待たれよ。わたくしも柳先生をお送りしましょう。
（柳）それはご苦労。お姐さん、行くにあたって、詞を一首作りましたよ。詞は『定風波』で、商角調、お姐さんに、思いを示すことにしましょう。
（詞）春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心[34]はなべてのことを気に掛けず。日は花の枝に上りて、鶯は柳の帯に喧し。なほ香はしき衾に臥せど、暖酥は痩せて[35]、雲髻は膩じみて、懨懨として日ねもす粧ふことぞ懶き。いかんともせず、薄情の一たび去りて、音信のなきを。かくなることを知らませば、雕鞍[36]を閉ぢ込めざりしことを悔いたり。鶏窓[37]に蛮箋[38]と象管[39]を調へて、引きとめて、唱和せしめて、日ねもす寄り添ひ、棄てらるることなからしめ、針と綫を取り、かの人とともに坐し、若き日を虚しく過ごすを免れたらまし。
（張が書き写す）先に帰るといたしましょう。（退場）
（正旦）耆卿さま、御身が行ってしまわれましたら、わたくしは、どうすればよろしいのでしょう。
（柳）姐さん、ご安心なさい。すぐに戻ってまいりますから。
（正旦が唱う）
【賺煞】府に奉仕して閑はなく、勤めすること数知れず。これよりは、うち嘆くことはなからん。熱きに手を触るるがごとく[40]、役人に愛想をしぞふりまける。咳をするのみにても、お咎めあるべし。宴が終はらば、家に行き、閑さへあらば、御身を思はん。皓き歯は、清らに歌ひ、思ひを語り、舞ひ疲れたる袖はしとどに濡れそぼちたり。
（退場）
第二折
（銭大尹が登場）事の心に掛からずばそれまでなれど、心に掛くれば人は乱れん。
わしは銭大尹、昨日は張千に仕事をさせたが、報告をしにこない。部下よ、入り口で番をして、来たら報せよ。
（張千が登場）わたしは張千。わが知事さまの御諚を奉じて仕事をし、戻ってきたぞ。知事さまに会いにゆこう。（見える）
（銭大尹）張千よ、命じた件はどうなった。
（張千）知事さまの御諚を奉じ、二人とともに酒屋にて餞別をいたしました。柳耆卿さまは旅立たれるとき、詞をお作りになりました。調べは『定風波』にございます。わたくしは記憶してまいりました。
（銭大尹）覚えてきたのか。
（張千）しっかりと記憶しておりまする。
（銭大尹）唱えてみよ。
（張千）「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを…」（語らなくなる）
（銭大尹）どうしたのだ。
（張千）知事さま、忘れてしまいました。
（銭大尹）しっかりと記憶していると申したではないか。
（張千）知事さまを見て怖くなり、忘れてしまったのでございます。
（銭大尹）抄本は持っているのか。
（張千）ございます。
（銭大尹）見せてみよ。
（張千）書き写してきてよかったわい。（手渡す）
（銭が受け取る）「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを気に掛けず。日は花の枝に上りて、鶯は柳の帯に喧し。なほ香はしき衾に臥せど、暖酥は痩せて、雲髻は膩じみて、懨懨として日ねもす化粧するに懶し。いかんともせず、薄情の一たび去りて、音信のなきを。かくなることを知りたれば、雕鞍を閉じ込めざりしことを悔いたり。鶏窓に蛮箋と象管を調へて、引きとめて、唱和せしめて、日ねもす寄り添ひ、棄てらるることなからしめ、針と綫を取り、かの人とともに坐し、若き日を虚しく過ごすを免れたりしに」か。ああ、柳耆卿は、まことに高い才能を持っているわい。五言の詩、八韻の賦と、万言の策に意を用いれば、都堂になれぬはずがない。また見てみよう。「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを」か。耆卿はわしを咎めて行ってしまったわい。このわしは姓は銭、名は可、字は可道というが、詞の「可可」の字は、あきらかにこのわしを諷刺したもの。今しがた、張千はよく記憶していると申していたが、「あらゆることを」まで読んで、「可可」の二文字を忘れたと言っていた。「可可」の字を読んでしまえば、上官の諱を犯すことになり、扣庁[41]で四十回殴られるからな。あいつはなかなか賢い奴だ。
（張千）仰る通りにございます。
（銭大尹）謝天香を呼び、『定風波』の詞を唱わせよう「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを」。もし「可可」の二字を唱えば、上官の諱を犯したことになるから、扣庁で四十回殴るとしよう。謝氏を殴れば、罪人ということになるから、耆卿がふたたび家に行くこともあるまい。耆卿よ、友人は心遣いをしているのだぞ。これから朝の仕事をし、後堂に閑坐しよう。張千よ、謝天香を名指しで呼んでまいるのだ。
（張千）かしこまりました。謝天香さんはご在宅でしょうか。
（正旦）どなたが門で叫ばれてらっしゃるのでしょう。
（張に会う）張千兄さんだったのですか。何のご用にございましょう。
（張千）お姐さん、知事さまは、名指しで、あなたを呼ぶように、お命じになられたのです。
（正旦が唱う）
【南呂一枝花】そのかみは、すみやかに黛を引き、今日は侍りて喉を響かす。汝はそも、性悪しき首領なりしか。面前で叫ぶは誰そとわれは思へり。さきほどは笑顔を作り、応へせり。わが渋き顔をなどてかご覧になるべき[42]。かのひとは、はなはだ分に過ぎたるお方。わたくしは、醜き姿形なりしに、なんぴとぞ、大尹にわれを褒めたる。
【梁州第七】謝天香は賂をせしにはあらず。柳耆卿どのは、お酒を飲まれ、無礼をなされば、知事さまは、恨みに思はれ、やすやすと逃しはすまじ。横恋慕には耐へがたく、防ぐは叶はず。無礼を働き、取り繕ひをすることなきを、気掛りといふ[43]。旅立たれたる才郎のことを思へば、執着なさることなかれ、相談するは許されず[44]。かの人[45]は、かの人は、本当はいささかの頼みをせんとなさりしに[46]、ああ、ああ、ああ。なんぴとか風霜を引き起こすことを望まん。知事さまは行くも止まるも、たちまちに宰相にならんと思へり。こつそりと眉を寄せ、張敞を罵りて、雲となり、雨となる、粋な心はあるべうもなく、陰陽を燮理すること[47]を僅かにご存知なるのみ。
（張千）お姐さん、とりあえず行くのはおやめくださいまし。わたくしがあなたを隠して、知事さまを見せてあげましょう[48]。
（正旦が見る）知事さまは、まことに冷たい顔をしていらっしゃる。
（唱う）
【隔尾】厳しき顔で羅幌[49]に端座し、和気春風の画堂に満つることぞなき。もつとも愁はしきことは、真つ先に唱はねばならぬことなり。この場所で女が歌を唱ひなば、わが財産を振る舞ひて、賞とせん。[50]
（張千）お姐さん、礼儀正しくなさいませ。
（正旦が見える）妓女謝天香がつつしんで参上しました。
（銭大尹）柳耆卿が恋うておる謝天香か。
（正旦が唱う）
【賀新郎】ああ、思へば東坡の『満庭芳』は、「香靄雕盤」[51]、禍ははやくも天より降りたり。さしあたり嘲りを防ぐすべなし。知事さまは、大いなる度量を持たれたまへかし。何ぞ仔細に考ふることなかるべき。
（銭大尹）「賂をせしにはあらず」とはいかに。
（正旦が唱う）賂を送るとも、落籍し、妓女をやめ、賤業を棄て、良民となることをいかで得べけん。酒を飲み、でたらめを申されしのみ。わたしはもとより、開封府庁に奉仕するものなれば、柳耆卿さまが恋はるる謝天香たるをいかで得べけん。
（銭大尹）張千よ、酒をもて。一杯飲んで、謝天香に一曲唱わせるとしよう。
（正旦）宮調をお知らせください。
（銭大尹）商角調だ。
（正旦）曲名をお知らせください。
（銭大尹）『定風波』だ。
（正旦が唱う）春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを、
（張が咳をする）
（正旦が改める）やめにせり｡[52]
（銭大尹）聡明強毅を才といい、正直中和を性という。「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを」、「可可」の二文字を唱えば、わしの諱を犯し、扣庁で四十回責められるため、張千の咳を聞き、「可可」の二文字を「巳巳」に改めたというわけだ。おう。この「可」の字は歌戈韻で、「巳」の字は斉微韻だぞ。謝天香よ、わしのところに古本があるが、韻を踏まずに、平仄を過って、宮商[53]を乱すなら、扣庁で四十回責めるであろうぞ。斉微韻により唱うのだ。唱い間違えば、張千よ、大きな棒を用意せよ。
（正旦が唱う）春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを気に掛けず。日は花の枝に上りて、鶯は柳の帯に喧し。なほ香はしき衾に臥せど、暖酥は痩せて、雲髻は膩じみて、懨懨として日ねもす化粧するに懶し。いかんともせず、薄情の一たび去りて、音信のなきを。かくなることを知りたれば、雕鞍を閉じ込めざりしことを悔いたり。鶏窓に蛮箋と象管を調へて、引きとめて、唱和せしめて、日ねもす寄り添ひ、棄てらるることなからしめ、針と綫を取り、かの人とともに坐し、若き日を虚しく過ごすを免れたらまし。
（銭大尹）ああ、柳耆卿が愛していたのも道理というもの。わしが見たとて、思わず心が動くわい。張千よ、近う寄れ。落花媒人となるなら、褒美を取らせよう。謝天香に言うがよい。夫人は無理だが、妾にしようと。今日、楽籍から名を除き、包髻[54]、団衫[55]、紬の手巾を与えよう。張千よ、話をしてやれ。
（張千が正旦に見え、言う）お姐さん、知事さまは夫人は無理だが、妾にすると仰いました。楽籍からは名を除き、包髻、団衫、紬の手巾をくださるそうです。どうお思いになりますか。
（正旦が唱う）
【牧羊関】知事さまの声誉は天下に伝はれど、わたくしは教坊の楽籍にあり。わたくしは妓女にして、知事さまは当代の名儒なり。わたくしは賓客に侍し、いささかの歌を唱つてさしあぐるのみ。わたくしは、路に臨める金絲の柳、知事さまは、海に掛けたる紫金の梁。あやまちて、わたくしを愛せられたりしにや。いかでか門の相敵し、戸の相対するを得べけんや[56]。
（銭大尹）張千よ、謝天香をわしの家へと連れてゆけ。
（正旦）杭州の柳耆卿さま、もはや望みはなくなりました。（唱う）
【二煞】秀才たちの暮らしは魚の浪に躍るがごとくにて、大人さまの行く末は狗の湯を探るがごとし[57]。侍妾らは幃房[58]に近づき、手巾を捧げ、いささか顔を見るを得るのみ。護衣[59]を着け、親しく寄り傍ひ、髪を梳くとき、わが胸に背を寄せらるるのみ。いづれの時にか、児女の団円するを得ん。
（言う）杭州の柳耆卿さまのもとに嫁し、自由になろうと思っていたのに、どうしたらいいだろう。（唱う）
【煞尾】ああ、ああ、ああ、「棒を避け、棒に当たる」とはまさにこのこと。「竹籃を出で筐に入る」とはまさにこのこと。われはひたすら羅網[60]にありて、抜け出ることはかなはず、望みは絶たれ、百尺の石の門のごと、などかは破ることを得べけん。いささか伎倆を尽くすとも、愁へはわが腸を断ち、脱殻金蝉のからくりは望むかたなし。
（退場）
（銭大尹）張千よ、謝天香をわしの家へと送るのだ。
（詩）わが心中の事どもを、はつきりと言はんとはせず。柳耆卿が来ば、おのづから心遣ひを解すべし。
（退場）
第三折
（正旦が登場）わたくしは謝天香、銭知事さまの邸宅に入りてより、はや三年、歌妓の心はすつかり消えたり。（唱う）
【正宮端正好】そのかみは、風塵にあり、歌妓となり、幾つかの宴に出でて、家に至れば、自由なる身となりにしかども、今日は底無しの牢に入れり。
【滾繍球】朝には、洗顔の水を運びて、夕には、床を敷き、布団を重ね、羅幃に入りたり。今しがた、布団を敷きのべたりしかど、孤鬼[61]のごと、体を縮め、眠るほかなし。まるまる三年、名はあれど実はなし[62]。もともとは、風流なる耆卿の連れ合ひ。恩情を受け、大尹の妻となりしかど、実情を誰か知るべき
（二旦が妾に扮して登場）われら二人は、銭大尹家の妾なり。本日は何事もなし。謝という姓のお姐さまを見にゆこう。
（旦に見える）お姐さま、われら二人は、お姐さまに会いにきました。
（正旦）お掛けください。
（二旦）お姐さま、家に来られて三年になりますが、知事さまが来られたことはございましょうか。
（正旦が唱う）
【倘秀才】ともに寝ねなば、天や地がご存知のはず。知事さまの蒲団が横か竪かも知らず、初めより、お召しはさらに稀となりたり。思へばわたしは、もとより下賤の者なれば、知事さまのお体を汚すべし
（二旦）お姐さま、そうはいっても、すこしは親しくなさるべきです。
（正旦が唱う）
【滾繍球】御身らのお教へに、悪意はなからん。しかれども、お役人とは、合はぬ話しをいたすわけにはゆかざらん。
（二旦）お姐さま。何も落ち度はございませぬのか。
（正旦が唱う）落ち度はなきやと仰れど、かやうにするを、得るや得ざるや。わたくしは、ひたすらに緩急遅速を考へり[63]。猛き何郎[64]は、優しくすとも[65]、粉を塗ることははなはだ難く、悪しき張敞[66]は、頼むとも、などかは眉を描くべき。尊卑を弁へざるを得ず。
（二旦）お尋ねしますが、そのかみの、柳七さまの『楽章集』は、お持ちでしょうか。
（正旦が唱う）
【倘秀才】花七[67]やら柳七やらのお話はやめたまへかし。もし聴かれなば－ここを何処と思し召さるる－知事さまのお耳には、そのかみのあれやこれやが聞こゆべし[68]。ひたすらに左様なことを仰るはやめたまへかし。腐りて黄ばみし漬物を、わたしはなほも記憶せり[69]。
（二旦）お姐さま、どの句かを、一遍お聞かせ下さいまし。
（正旦が唱う）
【窮河西】御身らが、『楽章集』を袖に蔵せることを言ひなば、わたくしの身は損なはるべし。大曲を学ばんとせば、ことごとく唱つて聞かせん。もともとは、記憶して人前で歌ひたれども、これよりは、歌へとふたたび言ふなかれ[70]。
（二旦）竹雲亭に賭け事をしにゆきましょう。
（正旦）お姐さまがた、まいりましょう。（唱う）
【滾繍球】先日象棋をせしときに、賭けたるものは手巾のみ。御身はわたしの玉束納、籐の箱をば空しく帰らしむることぞなき[71]。最近は、雨の降りし日、御身はわたしに繍の鞋を勝ちとられ、口もきかれず。僅かなる賭物のために、交はりを絶ち、僅かなる勝ち負けに、顔色を醜くし、わたしを愚かなりと言ふ。
（二旦）お姐さま、このさいころを投げましょう。負けました。お姐さま、お投げ下さい。
（正旦がさいころを手にとる）（唱う）
【倘秀才】一四五は撮十[72]で、二三二は夾七[73]で、さいころを振り、一二三は鼠尾[74]となる。銭を賭くれど、運はなし。お姐さま、今一度、投げられよかし。
（二旦）もう一度投げてみましょう。また負けました。お投げ下さい。
（正旦が唱う）
【呆骨朶】さいころを骰盆に置き、二三五はまた烏十[75]、お金を賭けずに勝負して、わたしは御身に二度贏てり。このことからも、さいころを、とりあへずやめにすべきは明らかなり[76]。お姐さま、わたくしは幾たびも荘家となれり[77]、本日はなどてかやうに負けたまふ。
（銭大尹が杖をとってひそかに登場）
（二旦が驚いて退場）
（正旦が唱う）
【倘秀才】騒ぐをやめよ。とこしへに御身らとは争はず。臭き尸骸を寄せあひて、あちらに腰を掛けよかし。
（銭が杖を旦の右肩に置く）
（正旦が払う）
（唱う）御身らはまことに閑人なり[78]
（銭が技杖を旦の左肩に置く）
（正旦が払う）
（唱う）糞つたれ
（銭が杖を旦の右肩に置く）
（正旦が握りしめて振り向く）
（唱う）いつたい誰だえ
（銭大尹）謝天香、誰を罵っておるのだ。
（正旦があわてて跪く）（唱う）
【酔太平】びつくりし、あたふたと跪き、覚えず泪は雨のごとくに流れたり。そろそろとわがもとにやつてきて、黙つて立たれり。見れば二人はいづれも逃げたり。知事さまが杖を当てられたるときに、ぺちやくちや無礼なることを語るべきにはあらざりき[79]。われはまことに罪を犯せり。
（銭大尹）謝天香よ、恐ろしいのか。
（正旦）恐ろしゅうございます。
（銭大尹）許されたいか。
（正旦）許していただきとうございます。
（銭大尹）許してもらいたいのなら、詩でも詞でも、一首作れば、許してやろうぞ。
（正旦）お題をお願いいたします。
（銭大尹）骰盆のさいころを題としよう。
（正旦）詩ができました。
（詩）下賎なる骨を一掴み[80]、君の掌に置かば、おそらくは、汚らはしきを厭ふべし。抛つは風任せなり
（銭大尹が笑う）聖人は「心に在らば志となり、言を発せば詩となりて、情が動かば、言に現れ、言が足らずば、嗟嘆となりて、嗟嘆が足らずば、歌を詠ず」[81]とのたもうている。この四句の詩のあらましは、娶られて妾となったが、家にきて三年の間、相手にされず、心を知ってもらえぬというものだ。謝天香よ、このわしも、四句の詩に和するから、聴くがよい。
（詩）このものの四六に通じたるがため[82]、手の中にいささか捧げもちたれば、さいころに深き想ひあり[83]。風馬牛とは思ひしことなし。
謝天香よ、なんじはわが家にあること三年、怒りを抱くことなかれ。よき日を選び、数日中に、妾にするが、どう思う。
（正旦が唱う）
【二煞】平素より、眼に掛けられず、気に掛けらるることもなけれど、本日、心を改めらるるに、何かは遅きことのあるべき。知事さまのお言葉に、わたくしは、いよよ疑ふ。知事さまは、戯れごとを言ひたまふにあらず、酔ひたまひたるにもあらず、惚けられたるにもあらず、寝言をば仰せらるとも、今は昼なり。
（言う）知事さまは、でたらめを仰っているのではありますまいか。
（銭大尹）酒などは飲んでおらぬし、でたらめなどは申しておらぬ。聡明なそなたを愛し、悲しんで哭くのを憐れと思うのじゃ。
（正旦）
【一煞】知事さま、お言葉が出たれば、悔ゆるはかなはず。駟馬が奔らば、追ふはかなはず。わたくしは、蘭堂に出入して、画閣に身を置き、香車で進み、羅幃に宿れど、知事さまは、まるまる三年、訪ひたまひたることぞなき。このたびは、忝くも匪妓を愛せられたれば、哭き咽べるなり。
（銭大尹）謝天香よ、後堂へ衣服を換えにゆくがよい。
（正旦が唱う）
【煞尾】このたびは、文雅にも才藝を施せど、今まではげんなりとして気力なかりき。知事さまの一言は、碑にすべきなり。十分信ずるわけにはゆかず。かく立派なる官員さまで、かやうに高き官位なれども、出ださるる言葉はまことに軽きものなり。御身が心を傾けざりしは、わたくしに見識のなきがためなり。わたくしは花の街、柳の陌[84]にて、嘘をつき、人を欺きたるにはあらず。わたくしは、御身をばよく知れり。（退場）
（銭大尹）張千よ、吉き日を選び、謝天香を妾としよう。とりあえず後堂で休むとしよう。（退場）
第四折
（銭大尹が張千を連れて登場）わしは銭大尹。柳耆卿は状元に及第し、三日間、誇官[85]している。張千よ、宴をととのえ、街にゆき、新しい状元の柳耆卿をば引きとめて、銭府尹が状元を呼んでおりますと申すのだ。来ようとせねば、馬を引っぱり、行かせないようにするのだ。とにかく呼んでまいるのだ。来たら報告するように。（退場）
（柳耆卿が従者を連れて登場、詩）そのかみは、齷齪として誇るに足らず、本日は放蕩にして思ひは涯なし。春風に意を得れば、馬の蹄は疾くして、一日にして長安の花を見尽くせり[86]。
わたしは柳永、謝天香と別れてよりのち、帝都に到り、たちまちに状元に及第したり。このたびは、宰相の儀仗を借りて、三日誇官し、銭大尹が謝天香をば娶りたることを聞きたり。
銭可道め、謝氏がわたしの恋人であることを知っていながら。どうしてくれよう。部下よ、儀仗を並べ、ゆっくりと進むべし。
（張千が登場）状元さま、銭知事さまがお呼びです。
（柳）わしは行かぬぞ。
（張千が馬を牽く）状元さまを、知事さまに、会わせなければならないのです。（ともに退場）
（銭大尹が登場）朝、張千を遣わして、柳耆卿どのを呼ばせたが、何ゆえにやってこぬのだ。
（張千が柳とともに登場）状元さま、しばらくお待ちくださいまし。取り次ぎをしてまいりましょう。（取り次ぎをする）状元さまが来られました。
（銭大尹）お通ししてくれ。
（柳が見える）
（銭大尹）柳どの、栄達なさりましたは、ご立派なこと。酒をもて。本日はお祝いをいたしましょう。（酒をつぐ）柳どの、一杯召されませ。
（柳）酒量が少のうございますから、飲めませぬ。
（銭大尹）以前は、花とお酒を好まれましたのに、今日は何ゆえ召されませぬのか。
（柳）今は昔と違います。職責に縛られて、功名を望んでいるので、お酒をどうしていただけましょう。
（銭大尹）それならば、功名はとっくに手に入れられたのですから、お酒を召しあがらないのは、わたしを咎めてらっしゃるのでしょう。張千よ、近う寄れ。（耳元でささやく）
（張千）かしこまりました。謝夫人さま、知事さまは、表の広間で客人をもてなされ、謝夫人さまをお呼びです。
（正旦）天香よ、誰か思はん、今日のあらんとは。（唱う）
【中呂粉蝶児】まずは水護衣[87]をば送り、まずは熬麩[88]でほのかに香る澡豆[89]を潤して、温柑清[90]を暖めて、手で揉んで、下地の南定粉[91]に薔薇露をば混ぜて、蘇合の香油を破つて開けて、棘針梢を焼きたれば、油臭きを厭ひたり。
【酔春風】指に着け、じつとりと塗るわけにはゆかず、綿をもて、そつと着くるよりほかはなからん。門前の楽探は、官妓を待てり。わたくしは、本日は、醜くはなし。醜くはなし。お屋敷の夫人にはあらざれど、お金持ちの側室なれば、妓女に勝れり。
（言う）知事さまは、表の広間で、客人を持て成していらっしゃるとか。ひとまず行かずに、見てみよう。（唱う）
【石榴花】坐せるはいかなる見目麗しき儒者かと思ひ、たちまちに窺ひて、眸を凝らせば、三年のあひだ杭州に来やうとはせず、わたくしを置き去りにして、国はあれども身を寄すること難からしめしものなりき[92]。ことさらに、からかひて、恥を晒さしむるにやあらん。衣服はそれぞれ立派なるものなれど[93]、如何にせんとも、事情をば悟り得ず。
【闘鵪鶉】私怨、公憤、たえてなく、われらのために酒宴を設けり。
（言う）行ったら、何とお話し申しあげればよかろう。
（唱う）わたしはひたすら見ぬふりをせり。わざわざ訪ねてまいりましたと言ふはかなはず。
（見える）
（銭大尹）天香よ、耆卿どのに、ご挨拶申しあげるのだ。
（正旦が唱う）礼を終ふれば、役人たちは、すみやかに首を垂れり。
（銭大尹）天香よ、近う寄れ。
（正旦が唱う）そば近くより離れよと言ふものはあらざれば、傍らに立つよりほかなし。前に後ろに付き隨ふよりほかはなし。
（銭大尹）天香よ、耆卿どののため、一杯斟いでさしあげよ。
（正旦）かしこまりました。（唱う）
【上小楼】話をせんと思へども、いかなる罠があるやも知れず。そ知らぬふりをし、東君に金甌を捧ぐるにしくはなからん。酒に酔はれば、われをいたぶることはあるまじ。
（柳）天香よ、もうすこし近くにきてくれ。
（正旦が唱う）今のわたしは妓女だった頃とは違っておりまする
（銭大尹）天香よ、お酌をし、状元どのにこの杯を飲ませるがよい。（酒を手渡す）
（柳）いただきませぬ。
（正旦が唱う）
【幺篇】かのひとは、ひたすら手を挙げ、わたくしは泪をこらへ、尋ねたり答へたり、行つたり来たり、掴んだり引いたりはせず。こちらでは思ひのままにするは叶はず。
（柳）お姐さん、何ゆえに痩せられたのです。
（正旦が唱う）皮ばかりなるわれを見て、ごつごつと面窶れせし由をな問はれたまひそね。
（銭大尹）耆卿どの、何ゆえにお酒を召されぬ。
（柳）飲めぬからです。
（銭大尹）まあよかろう。話はせねば分からぬし、木は穿たねば穴が開かない。氷は持たねば冷たくはなく、胆は嘗めねば苦くはないもの。「君子は機を見て行動し、一日の終はりを待たず」と言われているのに、耆卿は何ゆえ遅いのだ。貴殿は謝氏に執心し、鳴珂[94]にて、好き勝手をし、耳と目の楽しみをほしいままにし、功名を目指すのを怠ったので、このわしは侃侃として貴殿を諌め、貴殿は怏怏としてこのわしと別れた。貴殿が去ると、人を遣わし、様子を探らせ、『定風波』の詞を、貴殿が残したことを知り、張千を遣わして、謝氏を呼ばせた。張千は盞を執り、謝氏は歌った。『定風波』の詞を唱わせたが、諱を犯すと思いきや、謝氏は韻字を取り替えた。わしはその才を愛して、すぐさま楽籍から名を除き、わが家に娶って側室として、他人から謗られるのを避けなかったが、それは貴殿と誼があったからなのだ。もしも彼女に客商売を続けさせたら、貴殿の高い名声を貶めることになったであろう。わしはこの地で三年知事をし、民草を治めるときに、水や米さえ受けることなく[95]、天香に指一本も触れてはいない。路の辺の柳を剪って、塀から出ている花を折ろうと思ったが[96]、二人を夫婦にするべきだろう。すべては『定風波』のお蔭。かのものが詞を作り、曲を変えたため、このわしは、「賢を見て斉しからんことを思」って[97]、怒りをば喜びに変え、かのものに金揺鳳[98]を被らせて、宮中の装いに倣わせて、鳴鸞の玉を佩びさせ、歌と舞をば罷めさせたのだ[99]。わしは無妄の愆[100]を受け、足下のために、平生の願いを適えてやったのだ。貴殿は煙月しようとはせず、ひさしく金殿閣[101]を離れた。わたしは美しい花[102]が金持ちの男のものになるのを恐れ、三年牡丹の花を養い、貴殿が龍虎榜[103]に記されるのを待ったのだ。柳どの、お考えなされ。妓女がどうして大官の妾となれよう。合格すれば、品官[104]は歌い女を妻にすることはできない。それゆえに、鴛鴦を閉じこめて、翡翠を棲まわせ[105]、合歓を結び、琴瑟を調えたのだ[106]。貴殿はわしが鳳台にむざむざと鏡を鎖しているものと思っただろうが[107]、このわしは、鸞膠[108]で弦を接ごうとしたわけだ[109]。比翼の鳥をどうして分けることができよう。もう一度、並頭の蓮をば結ばせようぞ。このわしは天香をいつわって妾とし、志気のある友人を待っていたのだ。多くは言うまい。天香よ、面と向かって肝胆を述べ、どういうことか、お話し申しあげるがよいぞ。
（詩）錦繍と紅妝の娘を選び、銀鞍と白面の郎に与へん。柳耆卿どの、あやまちて開封の主を恨むことなかれ。これぞまさしく、銭大尹は智恵をもて天香を寵したるなり。
（柳）ああ、わたしのために、お気遣いくださいまして、ありがとうございます。お姐さん、わたくしが去った後、何ゆえに知事さまの屋敷に行かれた。こころみにお話しくだされ。
（正旦が唱う）
【哨遍】才郎と別れてより後、知事さまの簾幕に、春風は吹き渡りたり。觥籌[110]の交錯するなく[111]、賓客の閑遊するなし。一杯の酒を飲み、役所に坐してしきりに呼べり。楽探は忙しく引きたれば、わたしはひどくびつくりし、公庁に伺候するよりほかはなかりき。知事さまは、舞はしめしことはなく、歌はししのみ。鳳凰杯に酒を斟ぎ、尊の前にて手渡せり。商角調の填詞の韻脚をば搜し、「春されば、緑と紅にうち嘆き、芳心はあらゆることを可可」まで歌ひ、口をつぐめり。
【耍孩児】知事さまの諱があれば、別の韻字にひそかに換へり。たちまちに、楽籍より名を除かれて、仲睦まじくせんと言はれり。しかれども、三年のあひだ、いずれの時にか、臥所を占めしことあらん。千日何ぞ枕に寄りしことあらん。知事さまのお心は、伺ひ難し。われはもと、泥になずみし飛絮[112]なりしかど、纜のなき孤舟とぞ相成れる[113]。
【二煞】わたくしは、美しきこと、杏や桃に似たりしに、知事さまは、何ゆゑぞ、卯酉[114]となりたまひたる。わたくしの顔色は春の昼にぞ当たりたる[115]。花を見るのは、嬌態を見るに及ばず。酒を飲みなば、巨甌を飲むべし。清らかなる香をたれか嗅ぐべき。闌に深く囲はれ、なじかは花を挿したることのあるべきや[116]。
（銭大尹）張千よ、今すぐ車馬を調えて、謝天香を状元どののお屋敷へ送るのだ。
（柳が旦とともに拝謝する）知事さまの大恩にふかく感ぜり。
（正旦が唱う）
【随尾】天香は、艶陽の天気[117]となるとは思ひもよらず。むざむざと諦むる心こそなかりしかども、誰か思はん、牡丹の花の手折られて、東君[118]の手に入りて、今日、章台[119]の路傍の柳[120]に分け与へられんとは。
