劉夫人慶賞五侯宴

関漢卿

(冲末が李嗣源に扮し、蛮卒子を率いて登場、李嗣源)野管[1]羌笛の(ひびき)、音(いさ)ましく戦馬嘶く。叩くは鏤金画面の鼓[2]、振るは雲月p雕の旗[3]

それがしは大将李嗣源。父は沙陀の李克用。わが父の配下には将士が多く、五百の義児家将がおり、それぞれが勇猛で、ほんとうに、旗が並べば勝利し、馬が到れば成功している。黄巣を破って以来、われら父子は幾たびもすぐれた(いさお)を立てている。今は天下が太平で、父はたくさん功績があったため、忻、代、石、嵐、雁門関都招討使、天下兵馬大元帥を加えられ、河東晋王の職にも封ぜられている。配下の将は論功行賞を受けている。このたびは、聖上の御諚を奉じ、黄巣配下の草寇が絶えぬため、阿媽の御諚を奉り、われら五百の義児と家将は、雄兵を率い、草寇を捕らえることと相成った。勝利して帰還すれば、聖上はさらに官位を加え、褒美を賜わる。

御諚を奉じ師を出し雄兵を()て、草寇を除き功名(いさを)を立てん。赤心をもて国家に報い勇猛をほしいままにし、山河を保ち太平をしぞ享受せん。(退場)

(趙太公が登場)段段たる田の苗は遥けき村に連なりて、太公(ぢいさん)は村で児孫と遊びたり。鋤の力を得るのみなれど、天公の雨露の恩にぞ報いたる。

わたしは潞州長子県の人、姓は趙。人々は幾貫かのお金を持っているために、わたしを趙太公と呼んでいる。二人家族で、女房は劉氏だったが、近頃亡くなってしまった。遺された子は、一月足らずで、母親を失い、わたしも世話することはできない。わたしの家には糧食田地がたくさんあるが、一人の親戚もなく、小さな子供がいるばかり。ばあやと家の童僕たちに命じよう。大通りのどこからでもよいから、乳の出る女を捜してき、いささかのお金を与え、養って、子供を世話させるとしよう。今日は用事がないから、城内へ借金を取り立てにゆくとしよう。小者よ、田の稲の番をしろ。城内へ行き、借金を取り立てたら、すぐに来るから。(退場)

(正旦が子役を抱いて登場)わたしは潞州長子県の人、姓を李という。嫁いだ夫は姓を王といい、屠殺屋だった。二人家族で、近頃、子供を出産したが、子供の口が大きいために、子供を王阿三と呼んでいる[4]。はからずも、王屠は亡くなり、一貧は洗うがごとく、お金がない。仕方がないから、この子供を大通りでいささかの金品に換え、かれの父親を埋葬しよう。朝、こちらに来てから、尋ねてくる人がいないが、どうしよう。(哭く)

(趙太公が登場)わたしは趙太公。城内へお金を取り立てにいったが、一文の銭も得られなかった。ひとまず家へ帰ってゆこう。一群の人がいるが、何を見ているのやら。見にいってみよう。(正旦を見る)一人の女が、懐に子供を抱いているぞ。尋ねてみよう。おい女、子供を抱いてどうしてこちらで哭いている。いったいなぜだ。

(正旦)ご老人は、ご存じございますまいが、わたしはこの地の王屠の女房。近頃、この子を生んだのですが、一月足らずで、夫は亡くなり、埋葬するお金がないため、この子をいささかの金品に換え、父親を埋葬するのでございます。わたしはやむなくこうしているのでございます。

(趙太公)待てよ。待てよ。このような女を捜し、わたしの子供を世話させようとしていたところだ。こうするしかない…おい王嫂嫂、その子を売ろうとしても、誰も欲しがりはせぬ。服を着、飯を食べられる場所を捜した方が、良いではないか。

(正旦)それは違います。「一頭の馬は二つの鞍を背負はず、二つの車輪はいかで四つの轍を着けん」ともうします。烈女は二夫に嫁ぎませぬから、わたしは人に嫁ごうとはいたしませぬ。

(趙太公)嫁ごうとしないなら、人さまに身を質入れし、三年なり、五年なり、いささかの金品を得て、夫を埋葬すれば良かろう。

(正旦)身を質に入れようとしましても、誰も欲しがろうとはしませぬ。

(趙太公)あなたがよければ、わたしは趙太公というが、わたしの家でも、近頃、妻が亡くなったのだ。倅がいるが、育てる人がいないのだ。わたしの家に身を質入れするなら、何も重労働はさせない。わたしの倅を世話すれば、いささかのお金をやるから、夫を埋葬すれば良かろう。

(正旦)お待ちください。お待ちください。考えましょう。この子を人に与えれば、王家の血筋が絶えてしまおう。仕方ない。わたし一人が苦しむことにするとしよう。わが身を質に入れようと思います。太公さま。

(趙太公)それならば、今日、いささかの金品をやるから、夫を埋葬しろ。一枚の証文を書き、三年間、身を質入れするのだ。今日は証文を作り、お金をやるから、夫を埋葬し、わたしの家に住むことにしろ。

(正旦)これも仕方のないことだ。

(趙太公)幸せな奴だ。わしに遇うことができたのだからな。

(正旦が唱う)

【仙呂】【端正好】腹は愁へて、心は悲しむ。われらは貧しく目を挙ぐれども(うから)なく、われら孤寒の母と子を誰かは構ふことあらん。わが(つま)は今まで辛苦に耐へたりき。金品を得ることをえば、わが身を質入れすともよからん。

(趙太公)今日は夫を埋葬したから、わたしに従い、家へ行くのだ。

(正旦が唱う)今日はわが夫をみづから埋めたり。(ともに退場)

 

第一折

(趙太公が登場)王屠の女房がわたしの家に来てから、一月になる。あの証文はもともとは身を質入れするものであったが、わたしは身売りの証文に改め、ながいことわたしの家で使っている。この女はわたしの子供を育てているが、今から子供を抱いて出てこさせ、見てみよう。(呼ぶ)王大嫂。

(正旦が二人の子役を抱いて登場)趙太公の家に来てから、はやくも一月。もともとは身を三年間質入れする証文だったが、趙太公はこっそりと謀をし、身売りの証文に改め、かれの家でながいこと使っているのだ。今日は太公が呼んでいるが、何事だろうか。ゆかねばならぬ。思うにわたしの悲しみはいつ終わるやら。(唱う)

【仙呂】【点絳唇】短く嘆き、長く(なげ)けど、(むね)に満ちたる怨恨は、訴へ難し。わたしの衣袂は粗末にて、ことごとく草絡布にて綿絮(わた)はなし[5]

【混江龍】あの乱暴な豪戸(かねもち)は、良心に背き、凶暴を逞しうせり。かれは心が狡猾で、証文を改めたりき。そのかみは、わたしを乳母にすることを定めたれども、今はかの家に身を売りたるなりと強弁したり。束縛せられ、殴られ罵らるることは数知れず。寄る辺なきわれら母子(おやこ)の、身はさらに痩せ衰へたり。

(見える)員外さま、ご機嫌よう。

(趙太公)おまえはわたしの家に来て一月になる。わたしの子供を抱いてきて見せてくれ。

(正旦が子役を抱く)(趙太公が子役を見る)王大嫂、どうして倅がこのように痩せている。おまえの子供を連れてきて見せるのだ。

(正旦が自らの子役を抱く)

(太公が子役を見る)おまえの子供はどうしてこんなに良く育っている。この女はほんとうにけしからん。乳の出る乳房をかれの子供に飲ませ、乳の出ない乳房をわたしの子供に飲ませていては、どうして育つことができよう。この女は良からぬ心を持っている。このあばずれを打て。(打つ)

(正旦が唱う)

【油葫蘆】われらを打ちて殺すとも誰かは味方することあらん。百十般の対応をして、灯点し頃から二更の初めまで世話すれど、すこしでも乳を欠かせばひたすらにわあわあと哭き、いささか多めに乳を飲ませばげえげえと吐く、この子はひどく夜泣きして、気に障ることはせざりしに、揺りかごにお爺さまの(ひとへ)の袴を掛けんとすれば、三十(みそ)たび掛くれど蹴り飛ばしたり[6]

【天下楽】おまへと異なり[7]、気に障ることはせざるに、声を出すたび、声を出すたびひたすらに哭かんとしたり。揺りかごにお祓ひすれど手も付けられず。誰かはあへてかれに触るべき。誰かはあへてかれに触るべき。しかれども、わあわあと、かれは叫びて手も付けられず。

(趙太公)おまえの子供を連れてきて見せろ。(受け取って投げ捨てようとする)

(正旦が腕を引き止める)員外さま、憐れと思し召されませ。投げ捨ててはなりませぬ。

(趙太公)投げ捨てて殺してもどうということはないわい。幾貫かお金を使うだけのこと[8]

(正旦が唱う)

【金盞児】おんみら富めるかたがたは、金珠を持ちて、われら貧しきものたちは、孤独に耐ふれど、実の子が愛しきは同じことなり。わたしは二歩を一歩にし、いそいで通りに下りたり。戦ける身をわづかに起こし、震へたる手をやつと伸ばせり。哭きながら腕を引き止め、涙しながら衣を引き止む。

(正旦)員外さま、憐れと思し召されませ。倅を投げて殺しましても、血は飲めませぬし、肉も食べられず、こちらを汚してしまいましょう。員外さま、どうか憐れと思し召されませ。

(趙太公)おい女、返してやるから、抱いて出てゆけ。棄てるなり、人にやるなり好きにしろ。わたしはこいつを見たくないのだ。棄てぬなら、家に来たとき、おまえを許しはせぬからな。(退場)

(正旦)それならば、どうしましょう。息子や、われら母子はまもなくいっしょにいられなくなる。息子や、とても悲しいよ。(唱う)

【尾声】息子や。おまへがやがて仇に報いんことを望めり。かのものの家に身を寄せ、苦しみをともに受けたり。わたしは息子が十四五になるまで寄り添ふことを望みて、人さまのため奴婢となりたり。ひとり思へり、このろくでなしは恨むに堪へたり[9]

(言う)息子や、成人せぬならそれまでだが、成人したら、

(唱う)おまへは(もめん)の背子[10]を着、家ごとに事情を告げよ[11]。その時は、老いぼれは耄碌し、人さまのため重労働をし難かるべし。ああ、息子や。いささかのお金を求めて[12]、母の身請けの証文を買へ。(退場)

 

第二折

(外が李嗣源に扮し、馬に乗る動作をし、卒子を率いて登場)靴尖(くつさき)で鐙を蹴りて、筒袖で弓を引きたり。荒馬に騎り、四時の衣を着くるなり[13]

それがしは沙陀李克用の子李嗣源。わが阿媽は黄巣を破り、功績があったため、聖上はわが阿媽を太原府晋王の職に封じ、わが阿媽配下のものたちはみな官職に封ぜられ、褒美を賜った。こたびは阿媽の御諚を奉じ、われら数十人の名将は、各地で黄巣配下の残党を捕らえており、それがしは節度使の職に就いている。昨日の三更時分、夢をみたところ、虎が二つの翼を生やしていた。今朝周総管に尋ねにゆくと、かれは言った。「思いがけない喜びがあり、一人の大将を得ることができるだろう」と。それがしは今日、本営の兵卒を率い、荒野へ狩猟しにゆこう。諸将らよ、狩り場に散るのだ。(兔を見る)狩り場で雪練[14]のような白兔が驚いて飛び上がった。弓を引き絞り、矢を放ち、白兔に中てた。白兔は倒れたが、立ち上がるとすぐに逃げた。いそいで追えばいそいで逃げ、ゆっくり追えばゆっくり逃げる。諸将らよ、ゆっくりと追いかけてくれ。(退場)

(正旦が子役を抱いて登場)この子を抱いて、このように大雪が降っている中、荒野にこの子を棄てるとしよう。おまえもわたしを怨んではならないよ。(唱う)

【南呂】【一枝花】さきほどは死ぬるを免れ、すみやかに宅舎を離れつ。一心は空しく咽び、両脚はいそいで歩けり。袂でいそいで遮れど、わが子の身には綿入れは一枚もなし[15]。わたしはおまへと前へ行き、息を継ぐことさへもなし。わたしを遮る人はなく、子供をまつすぐ荒野に送る。

【梁州】今、命を受け、子を棄てんとす[16]。ああ、息子や。われら二人は本日離別せずばならず、この子はさだめし前生の業を受けたるらん。この子は姿は清げにて、(かんばせ)は英れたるなり。わたしは限りなく耐へて、かやうなる苦しみを受く。わたしは人にいかばかり罵られたる。おぼえず感嘆悲傷せり。本日は、本日は、母親が子を棄てたれど、わたしが邪慳なるにはあらず。この子を母より離さんとせど、いかで棄つべき。ああ。天よ、天。目を瞠りつつ、母子らはそれぞれ別る。かばかりに運は拙し。子の苦しみはいつ終はるべき。誰かはしばし休らふを得ん。おまへてふ子がなからましかばよからまし。その時はじめて安らぐを得ん。

(正旦)荒野に来たが、このように大雪が降っているから、どうして子供を棄てられよう。(唱う)

【隔尾】わたしはこなたで、断腸の思ひにて、おまへを捨てて、足を踏み、胸を打ち、ひとり嘆けり。望めども人はなければ、秣をば拾ひて覆ひ、いささかの乳を飲ませり。おまへのためにしばし留まることとせん。息子や。この官道の傍らで、おまへはいたく凍えなん。

(李嗣源が蛮卒子を率いて登場)大小の兵卒よ、白兔を追いかけろ。追いかけたくはなかったのだが、艾葉金[17]の矢がなくなったのは惜しいことだ。今、潞州長子県荒草坡の前まで追ってきたが、白兔が見えなくなり、地面に一本の矢が刺さっているばかり。左右のものよ、あの矢を拾ってきて、わたしの箙に挿してくれ。

(李嗣源が正旦を見る)おかしい。あの道の脇の女は、子供を抱いて、地面に置くと、ひとしきり哭き、戻っていった。数十歩行くとまた戻ってき、子供を抱き上げ、また哭いている。あの女は何回かこのようにしているが、きっと隠れた事情があろう。左右のものよ。あの女を呼んでこい。尋ねてみよう。

(卒子が呼ぶ)おい婆さん、われらが阿媽がお呼びだぞ。

(正旦が見る)官人、ご機嫌よう。

(李嗣源)おい女、その子供を抱き、地面に棄て、去ってからまた戻ってき、幾たびもそのようにしているが、きっと隠れた事情があろう。

(正旦)官人、くだくだしいのがお嫌でなければ、一遍申しあげるのをお聴きください。わたしはこの地の王屠の女房、以前この子供を生んだのですが、一月足らずで、王屠は亡くなり、埋葬の費用はございませんでした。わたしは趙太公の家に三年身を質入れし、かれの子供を世話することになりました。ところが趙太公はわたしの身を質入れする証文を、身売りの証文に改めました。以前趙太公に呼ばれましたとき、二人の子供を抱いてゆきましたが、太公はそれを見ますと、言いました。「おまえの子供は元気だが、わたしの子供はなぜ飢えている。おまえの子供を、棄てるなり、流すなりするがよい。おまえの子供を棄てないで戻ってきたら、おまえを許しはせぬからな」。そのためこの荒野に来て、わたしの子供を棄てようとしているのでございます。

(李嗣源)ああ。ほんとうに可哀想だ。おい女、荒野に棄てるよりも、人に与えれば良いではないか。

(正旦)差し上げようといたしましても、誰も欲しがろうとはしませぬ。

(李嗣源)おい女、子供を人に与えようとしているのなら、わたしに与えて子供にさせれば良いではないか。

(正旦)官人がお嫌でなければ、連れていってください。お尋ねしますが、官人は姓名を何とおっしゃるのでしょう。

(李嗣源)わたしは沙陀李克用の子李嗣源だ。やがて子供が成人したら、おまえに会いにこさせよう。かれの生年月日と幼名を言ってくれ。

(正旦)官人、この子供は八月十五日夜半子の刻生まれで、幼名を王阿三ともうします。

(李嗣源)左右のものよ、どこにいる。しっかりと子供を抱け。狩り場には紙、筆がないから、その襖子(あわせ)の上襟を捲り、子供の幼名生年月日月を書いてくれ。悲しむな。安心して戻ってゆけ。

(正旦が唱う)

【賀新郎】富豪が子供をきちんと養ひたまひなはば、この子は死ぬるを免れん。恩義に思ひ、大いに感謝す。

(李嗣源)わたしはおまえと親戚になれば良いではないか[18]

(正旦が唱う)官人の枝葉[19]になるなど滅相もなし。子供には、帽を執り、鞭を捧げ、靴を抱かせたまへかし[20]

(李嗣源)安心しろ。この子はわたしの実の子も同じこと。

(正旦が唱う)そを聴けば、わたしは心の内に喜ぶ。おまへは富貴を享受せん。今まさに英傑に遇ふ。ああ。趙太公は奸策が裏目となれり。息子や。おまへは今日は貧しき母を棄てたり。ああ、息子や。思はざりき、おまへがかくも富みたる父と縁結びをばなさんとは。

(李嗣源)おい女、安心しろ。おまえの子供が成人したら、おまえたち母と子をいずれにしても会わせてやろう。

(正旦)官人に大いに感謝いたします。息子や、おまえのせいでとても悲しい。(唱う)

【尾声】子供には剛気あり、みづからを慈しみ[21]、武藝を善くし、ただ斧鉞のみを執るべけん。わたしの子供はみづからの怨みを絶つべし。わたしの子供がゐることをわたしが聴かば、いささかの志節を保ち、かれに出くはすことあらば[22]、わたしの怨みは、息子や、その時は報いられなん。(退場)

(李嗣源)兵卒たちよ、聴くのだ。このものの子は、こたびわたしの息子となった。わたしは姓は李というから、李従珂と呼ぶことにする。家に行ったら一人も事情を漏らすのは許さない。一人でも漏らせば、許しはせぬぞ。

兵を駆り将を()ること数十年、玉兔(うさぎ)を追ひて軍馬を走らす。たちまちに女が哭き喚けるを見て、逐一以前の事情を尋ねつ。

かれは赤子をわたしに与え、養育させることを願った。文武を習わせ、兵権を取らせ、成人したら、かれら母子をふたたび団円させるとしよう。(退場)

 

第三折

(外が葛従周[23]に扮し、卒子を率いて登場)黄巣は乱をなし山河(やまかは)を裂き、群盗を結集し干戈を起こしつ。それがしは智謀に拠りて軍校を駆り、何ぞ用ゐん双鋒を石もて磨くを[24]

それがしは姓は葛、名は従周、濮州は鄄城の人。若くして先王の典章を学び、後に韜略遁甲の書を読み、文武は両全、智謀は人に勝っている。それがしは初め黄巣麾下で将帥となり、挙兵した後は、通過する都市は風に靡くように降伏した。ところが李克用一家は大いに黄巣を破り、黄巣が敗れてからは、それがしは梁元帥さまの配下で将となっている。それがしはこたび元帥さまの御諚を奉じ、李克用一家と闘っている。かれらは存孝[25]の威力に頼り、数年われらの隣境を侵していた。今、存孝はいなくなったから、ただではすまさぬ。われらは新たに一人の大将を得た。王彦章だ。この人は一本の渾鉄[26]の槍を使い、万夫不当の勇がある。かれこそは張車騎[27]の再来、唐敬徳[28]の再生で、とても優れている。それがしは今から王彦章を遣わし、十万の雄兵を率いさせ、李克用一家の名将を挑発し、出馬させよう。兵士よ、王彦章を招いてきてくれ。相談することがある。

(卒子)かしこまりました。王彦章さまはどちらにいらっしゃいます。

(王彦章が登場)幼年にして黄公[29]の策を習ひ、中年にして深く呂望[30]の書に通じたり。天が下なる英雄はわたしのことを聞かば恐れん。われこそは春秋に冠絶したる伍子胥なれ[31]

それがしは大将王彦章、河北の人だ。それがしは、文は三略に通じ、武は六韜を解し、智勇両全である。寸鉄が手にあれば、万夫も当たるべからざる勇気があり、片甲が身を覆えば、千人も敵し難い威力があり、鉄の槍を軽く挙げれば、武将はたまげ、馬を交えれば、敵兵は胆を潰す。天下の英雄たちは、それがしの名を聞けば、みな恐れている。今、元帥が呼んでいるから、ゆかねばならぬ。はやくも着いた。取り次げ。王彦章がきたとな。

(卒子)かしこまりました。(報せる)喏、元帥さまにお知らせします。王彦章さまでございます。

(葛従周)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。(会う)それがしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。

(葛従周)王彦章よ、呼んだのはほかでもない。李克用は、数年間、わが隣境を侵していたが、こたび存孝はいなくなった。おまえは十万の雄兵を率い、李克用一家を挑発し、名将を出馬させるのだ。勝利して帰還すれば、梁元帥さまは、きっと褒美を厚くなさり、官位を加えられようぞ。

(王彦章)それがしは御諚を受け、十万の雄兵を点呼して、本日、寨を発ちましょう。大小の三軍よ、わが命を聴け。李克用一家と闘いにゆく。それがしは

兵を駆り、将を率て、豪勇を示せるは、すべて渾鉄六沈槍に拠れるなり。馬は北海の蛟が水を(いづ)るかのやう、人は南山の虎が岡を下りるかのやう。敵兵は一見すれば魂を消し、威風は糾糾[32]名を揚げつべし。陣に臨めば将を生け捕り、勇敢に鋒を交へて戦はん。(退場)

(葛従周)兵士よ、王彦章は兵を率い、李克用一家と交戦しにいった。

(卒子)行かれました。

(葛従周)あの者は勇猛だから、かならず勝利するだろう。われらが梁元帥さまは黄巣の比ではない。大将を斬り、許そうとしないだろう。

十万の兵たちは勇敢に先頭に立ち、千人の将たちは勇猛を逞しうせん。おのおのが官職に封ぜられ褒美を賜はることを求めて、それぞれが重職と名の顕れんことを望めり。軍鑼を収め寨を発ちて、凱歌をうたひ勝利して旗を振るべし。(退場)

(李嗣源が蛮卒子を率いて登場)馬は食む(すな)混じりの草、人は研ぐ血の着く刀。地は寒く毯帳は冷え、殺気あり陣雲高し。

それがしは李嗣源。こたび草寇を捕らえて戻ったが、梁元帥めはけしからん。賊将王彦章を遣わし、十万の軍兵を率いさせ、闘いを挑ませている。かれは存孝がいないことを知るのみで、われら五虎大将がいることを知らない。かれは大したことはあるまい。それがしは今二十万の雄兵、五人の虎将を率い、梁兵と交戦しにゆく。兵士よ。李亜子、石敬瑭、孟知祥、劉知遠、李従珂五人の将軍を呼んでこい。

(卒子)かしこまりました。将軍さまがたはどちらにいらっしゃいます。

(李亜子が登場)幼小にして武藝を習ひ、南北を征討し闘はんとす。軍に臨めば塵を望みて勝敗を知り[33]、対峙すれば土を嗅ぎ兵機を知れり[34]

それがしは李亜子。今、嗣源兄じゃがお呼びだから、お会いしにゆかねばならぬ。はやくも着いた。下役よ、取り次げ。李亜子がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。李亜子さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。(見える)兄じゃがお呼びになりましたのは、何故にございましょう。

(李嗣源)亜子よ、呼んだのはほかでもない。こたび梁の将軍王彦章が戦いを挑んできたから、五将が揃ったら、軍馬を分け与えるとしよう。

(李亜子)かしこまりました。

(石敬瑭が登場)若くして韜略を習ひ兵機を知り、旗を並べて対峙して敵を迎へつ。軍に臨めば弓をよくして敵兵を脅かし、大将軍は八面虎狼の威を持てり[35]

それがしは石敬瑭。今先鋒の将李嗣源が呼んでいるから、ゆかねばならぬ。はやくも着いた。下役よ、取り次げ。石敬瑭がきたとな。

(卒子)かしこまりました。(報せる)阿媽にお知らせいたします。石敬瑭さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。(会う)それがしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。

(李嗣源)石敬瑭よ、こたびおまえたち五将を呼んで、王彦章と闘いにゆかせるのだ。揃ったときに軍馬を分け与えるとしよう。

(石敬瑭)かしこまりました。

(孟知祥が登場)三略と六韜を学び、死にもの狂ひで功労(いさをし)を立つ。赤心をもて輔弼をするが良将なれば、忠を尽くして皇朝(すめくに)をしぞ保つなる。

それがしは孟知祥。今、李嗣源が呼んでいるから、ゆかねばならぬ。はやくも着いた。下役よ、取り次げ。孟知祥がきたとな。

(卒子)阿媽にお知らせいたします。孟知祥さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。(見える)孟知祥(わたくし)を呼ばれましたは、どのようなご相談にございましょう。

(李嗣源)ひとまずあちらにいろ。

(劉知遠が登場)蛮将は雄々しく陣を連ねたり、北風にはためくはp雕旗なり。馬前の戦士はみな勇ましく、百万の軍中で敵と戦ふ。

それがしは劉知遠。練兵場で兵士を操練していると、兄じゃが軍議でお呼びだから、ゆかねばならぬ。はやくも着いた。下役よ、取り次げ。劉知遠がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。劉知遠さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。

(劉知遠が見える)兄じゃ、呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。

(李嗣源)ひとまずあちらにいろ。五将が揃ったとき、軍馬を分け与えるとしよう。

(劉知遠)かしこまりました。

(李従珂が登場)若くして黄公を習ひ智略は多く、陣に臨めば干戈を定む。刀を宇宙(そら)に横ざまにせば三軍は沮喪して、匹馬にて先駆けし百合(ももたび)戦ふ。

それがしは李従珂。練兵場で蛮兵を操練していると、阿媽がお呼びだ。何事だろうか。ゆかねばならぬ。はやくも着いた。下役よ、取り次げ。李従珂がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。李従珂さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。

(李従珂)阿媽、わたしを呼ばれましたのはいかなるご用にございましょう。

(李嗣源)呼んだのはほかでもない。こたび梁元帥は王彦章に命じて十万の雄兵を率いさせ、闘いを挑んできた。それがしは今から二十万の人馬を率い、五隊の兵を進め、王彦章を擒にしにゆく。李亜子よ、兵三千を率い、軍は左の隊を進め、計画に従って兵を進めろ。

(李亜子)かしこまりました。それがしは今から兵三千を率い、軍は左の隊を進め、王彦章と闘いにゆきましょう。

人は英雄馬は犇めく、鋒を交へて今日江山を定めてん。両陣は対峙して旗は相望み[36]、彦章を捕らへずばとはに帰らじ。(退場)

(李嗣源)石敬瑭よ、近う寄れ。三千の人馬を分け与えよう。おまえの軍は右哨を行き、計画に従って兵を進めよ。

(石敬瑭)かしこまりました。本日は三千の人馬を率い、軍は右哨を行きましょう。

軍令をみづから伝へ威風をば逞しうして、鼓を破り旗を奪ひて並ぶものなし。十万の軍中に勇猛をほしいままにし、彦章を生け捕りて一等の(いさを)を立てん。(退場)

(李嗣源)孟知祥、三千の精兵を分け与えよう。おまえの軍は前哨を行き、王彦章と対峙、戦闘せよ。計画に従って兵を進めろ。

(孟知祥)かしこまりました。それがしは今から三千の人馬を率い、軍は前哨を行き、王彦章を擒にしにゆきましょう。

本日は発奮し、戈矛を率ゐ、義児と家将は勇猛を逞しうせり。p雕旗を振り蛮兵を進ませて、彦章を擒にせずば誓つてやまじ。(退場)

(李嗣源)劉知遠よ、三千の雄兵を分け与えよう。おまえの軍は中路を行き、王彦章と鋒を交えろ。計画に従って兵を進めろ。

(劉知遠)かしこまりました。兄じゃの御諚を奉り、本営の人馬を率い、王彦章と闘いにゆきましょう。大小の蛮兵よ、わが命を聴け。明日になったら、

蛮将たちは勇敢で先頭に立ち、よく闘ひて軍馬はぐるぐる回るなり。鼉皮(だひ)(つづみ)と喊声は地を震わせて、p雕の旗は日を蔽ひ、天を遮る。ゆうゆうと胡笳はゆつくり奏でられ、ぺらぺらと口は蛮語を語るなり。敵に遇ひなば死にもの狂ひで戦ひて、はじめてわれら五虎将の武藝に熟練したるを示さん。(退場)

(李嗣源)李従珂よ、三千の人馬を与え、おまえの軍は後哨を行き、王彦章と鋒を交えにゆけ。計画に従って兵を進めろ。

(李従珂)かしこまりました。阿媽の御諚を受け、三千の人馬を率い、軍は後哨を行き、王彦章と交戦しにゆきましょう。

兵は行き将は勇んで先駆けて、塞北の息子は数人列なれり。黄公の三略の智をいささか施し、賊将を馬前にて生け捕らん。(退場)

(李嗣源)五人の虎将は行ってしまった。それがしは大勢の雄兵を率い、軍を進めて呼応すれば、王彦章を擒にするのは、手のひらを翻すように容易いことだ。

糾糾として威厳あり殺気は盛んに、三軍を()て豪勇を示したるなり。山水に拠り寨を築き、賊兵を掃蕩し(いさを)を立てん。(退場)

(王彦章が馬に乗る動作をし、卒子を率いて登場)それがしは王彦章。元帥の御諚を奉り、十万の雄兵を率い、李克用一家の軍兵と闘っている。遠くに埃が立っているが、兵が来たのだろう。

(李亜子が馬に乗る動作をして登場)それがしは李亜子。来たのは誰だ。

(王彦章)それがしは梁の将軍王彦章。おまえは誰だ。

(李亜子)それがしは李亜子。鋒を交えるか。太鼓を鳴らせ。(戦う)

(石敬瑭が馬に乗る動作をして登場)それがしは石敬瑭。王彦章ではないか。(戦う)

(孟知祥が馬に乗る動作をして登場)それがしは孟知祥。本営の人馬を率い、王彦章を撃破しにゆく。王彦章を逃がすな。

(劉知遠が馬に乗る動作をして登場)それがしは劉知遠。王彦章ではないか。(戦う)

(李嗣源が馬に乗る動作をして登場)王彦章を逃がすな。

(李従珂が馬に乗る動作をして登場)それがしは李従珂。王彦章を捕らえろ。(混戦する)

(王彦章)五人の虎将がそれがし一人と戦っている。これはまずい。逃げろや逃げろ。(退場)

(李嗣源)王彦章が敗走したぞ。ただではすまさぬ。無名の下士官よ、何を恐れることがあろうか。李亜子、石敬瑭、孟知祥、劉知遠は、それがしに従って大寨に戻ってゆき、李従珂を留めてしんがりをさせ、王彦章がまた来たら、ふたたび鋒を交えさせよう。かれはどうしてわが軍兵に勝てようか。陣中に戻ってゆこう。

勝利して軍を収めて旌旗(はた)を巻き、軍を進めて寨を発ちて闘ひを終ふ。諸将は鞭で金鐙を敲きて響かせ、軍を返してともに凱歌を唱ひて戻れり。(四将がともに退場)

(李従珂)阿媽は兵を戻していった。それがしはしんがりし、賊兵を防ぐとしよう。

征雲は籠め、霧雲は収まり、殺気は(そら)に衝きあげて愁へは地に満つ。群雁は(たうまる)[37](おほとり)(はいたか)[38]を撲ち、五虎は錦毛の彪[39]を破れり。(退場)

(趙太公が登場)窓外の日光は弾指に進み、席間の花影は座間に移るなり。

老いぼれは趙太公。あの女にかれの子供を棄てさせてから、わたしの子供だけを育てて、十八年、育てた子供は成人した。近頃、わたしは病に罹った。わたしが死ねば、わたしの子供は気付かぬだろう[40]。人を遣り、わたしの子供を捜してこさせ、幾つかかれに言い含めよう。息子よ、どこだ。

(浄の趙脖揪が登場)わたしは農民、大法螺を吹く。でまかせを言ふありさまは流るる水のごときなり。沙三を連れて跚橇(たけうま)[41]しにゆき、王留に伴ひて意地悪するを学びたり。

わたしは趙脖揪。わたしの父は趙太公、七代の先祖はすべて農民で、半生粗暴で、斯文を貴んではいない。仲間は王留、趙二、牛表、牛筋。田を鋤いて暮らし、耕やし植えて並ぶものがない。秋の収穫はすでにおわり、社神をお祭りしているところだ。瓢箪棚の下で宴を開き、陶器や磁器の鉢、盆で酒を醸す。

茄子は皮ごと呑み込んで、稍瓜(しろうり)は種ごと呑み込む。蘿卜(かぶら)には生醤(なまみそ)を着け、村酒(いなかざけ)は大碗に盛る。『花桑樹』[42]を唱ひ、ぐてんぐてんに酔ひ、『村田楽』[43]を舞ひ、疲るれば草墩[44]に坐す。閑な時には豆腐を作り、退屈ならば麩を作る[45]。酔へば喧嘩し、老人に告げにゆく。黄桑棒[46]で、殴られて気を失ふ。和解のための酒を調へ、永く楽しむ太平の春。

今日は幾杯か酒を飲んだが、親父が家で病に罹っているから、とりあえず家に戻って親父に会おう。はやくも着いた。そのまま入ってゆくとしよう。(見える)親父どの、ご病気はいかがです。乳母はどこへ行きました。

(趙太公)息子よ、おまえは知るまいが、かれはおまえの乳母ではない。かれはわたしの家が買ってきたものだ。むかし、捜してきて乳母にしたが、良い乳房を実の子に飲ませ、乳の出ない乳房をおまえに飲ませたために、おまえはこんなに痩せているのだ。これからは乳母と言わずに、王嫂[47]と呼べ。わたしが生きているうちに、朝晩、殴り、罵れば、やがておまえに構おうとしなくなるだろう。息子よ、わたしを扶けて後堂にゆかせてくれ。(退場)

(浄趙脖揪)お父さま、仰らなければ、わたしはどうして知ることができたでしょう。ほんとうに、と、と、と、とても悲しゅうございます。今から呼び出してきましょう。王嫂、出てこい。

(正旦が登場)月日が経つのはほんとうに速い。子供をあのお役人に差し上げてから、もう十八年、子供は生きているのやら。今、趙太公は病に罹り、子供にわたしを呼ばせているから、会いにゆかねばならない。(見える)

(浄趙脖揪)おい王嫂。

(正旦)どうしてわたしを王嫂と呼ぶ。わたしはおまえの乳母なのだよ。

(浄趙脖揪)わたしはおまえの父親だ[48]。むかし親父はおまえを買ってきてわたしの家の奴隷にし、乳母にしたのだ。わたしをよく育ててくれたな[49]。おまえは良い乳房をおまえの子供に飲ませ、乳の出ない乳房をわたしに飲ませ、ことさらにわたしを餓えさせ、痩せさせたな。今からは乳母と呼ばずに、王嫂と呼ぶ。牛に水を飲ませにゆけ。牛の口を濡らすな[50]。牛の口を濡らしたら、家に戻ってきたときに、五十回の黄桑棍だ。(退場)

(正旦)どうしよう。むかしのことをかれはもともと知らなかったが、知られたからには、苦しみに耐えるしかない。井戸端で牛に水を飲ませなければならないだろう。このように国家祥瑞(ゆき)が降り、ほんとうに寒い気候だ。(唱う)

【正宮】【端正好】風はびゆうびゆう、総身は(しび)れ、わたしはぶるぶる総身は戦き、凍えて手脚は曲げ難し。いそいで走り荒れた土手に来、胸のどきどき震ふることを覚えたり。

【滾繍球】こなたにて、しかとは立てず、むなしく喘ぐ。力なく、手と腕は萎え、痩せたる体は、にはかには動かし難し。井戸端に来たれども、雪はわたしの(まなこ)を打てば、いかで開かん。風はわが身を吹き倒し、凍ゆれば自ら嘆き自ら怨む。これもまたわが前世前縁。凍ゆれば縄を持ちえず、手を曲げて、しかとは立てず、肩を峙て、苦しみこそは、言ひ難きなれ。

(正旦)水桶を井戸端に並べ、釣瓶を下ろす。ほんとうに寒い気候だ。(唱う)

【倘秀才】わたしはこなたでしかとは立てず、ぜえぜえ喘ぐ。この縄に息を吐きかけ、軟らかくせり。一桶の水を提げ、井戸端を離るれば、寒さに手を曲ぐるは難く、げにこそ動き難きなれ。

(正旦)釣瓶を井戸に落としたが、家に戻ってゆくわけにもゆかない。家に行けば、また殴られ、罵られよう。仕方ない。こちらで首吊りするとしよう。

(外が李従珂に扮し、馬に乗る動作をし、蛮卒子を率いて登場)幾度(いくたび)戦場(いくさのには)で闘へば、沙陀の将士は優れたることを示せり。黄巣を破りしは真の良将、阿媽を扶けて国を保てり。

それがしは大将李従珂。阿媽の御諚を奉り、われら五虎将は王彦章と交戦しにゆき、王彦章を捕らえ、今日は勝利し帰還する。わたしの父李嗣源と四人のおじは先に戻っていった。それがしは三千の軍馬を率いて後哨となり、潞州長子県を過ぎ、この村に来た。(旦を見る)おかしいぞ。あの井戸端の女は、一担ぎの水を置き、樹に一本の縄を掛け、首吊りをしようとし、ひたすら泣き喚いている。左右のものよ、どこにいる。あの女を呼んできてくれ。わたしはかれに尋ねよう。

(卒子)かしこまりました。おい女、上様がお呼びだぞ。

(正旦)お兄さん[51]、呼ばれましたはいかなるご用にございましょう。

(李従珂)左右のものよ、馬を繋げ。(馬を下りる)腰掛けを持ってきて坐らせてくれ。

(正旦が見る)官人、ご機嫌よう。

(李従珂が突然立ち上がる)ほんとうにおかしい。この婆さんがわたしに拝礼した途端、あたかも人に推し上げられたかのようだ。この婆さんの福分はわたしより大きいのだろう。おい婆さん、なぜ樹に縄を結びつけ首吊りをしようとしていた。一遍話して聴かせてくれ。

(正旦)官人はご存じございますまいが、老いぼれは趙太公の家に住んでおります。太公は因業で、井戸端に来て、水を汲み、牛に飲ませるようにと命令したのです。ところが釣瓶を井戸に落としてしまいました。家に三鬚鈎を取りにゆくわけにもゆかず、首吊りしようとしているのでございます。

(李従珂)可哀想に。この婆さんは井戸に釣瓶を落としたために、家に戻ってゆこうとはせず、こちらで自殺しようとしている。ああ。螻蟻さえ生を貪るというのに、人たるものがどうして命を惜しまないことがあろうか。左右のものよ、揉鈎槍[52]を持ち、井戸の中から釣瓶を掬いだしてやれ。

(卒子)かしこまりました。(桶を掬う)掬いだしました。

(李従珂)釣瓶をその婆さんにやれ。

(正旦)官人に大いに感謝いたします。(見る)この官人の美しいお顔を見れば、まるでわたしの王阿三のよう。

(李従珂)この婆さんはほんとうにけしからん。好意で桶を掬いだしてやったのに、どうしてわたしを見て哭くのだ。

(正旦)老いぼれは官人を見て哭こうとしたりはいたしませぬ。老いぼれにもむかし倅がございましたが、幼いときにお役人に差し上げたのでございます。今、生きていれば、同じくらいの年頃でございます。老いぼれは官人を見て、わたしの子供を思いだし、悲しんでいるのです。

(李従珂)おい婆さん、むかし子供があったが、役人に与えたのだな。その役人は姓名は何というのだ。どんな服を着ていた。どんな馬に騎っていた。初めから終わりまでゆっくりと一遍話せ。

(正旦が唱う)

【倘秀才】その官人は連珠を磨ける玉兔鶻[53]を締め、前檐(ひさし)の巻きたる白氈笠[54]を戴きたりき。

(李従珂)かれがあなたのところに来たのはどうしてだ。

(正旦が唱う)玉兔(うさぎ)を追ふため、この地へと来たまひき。玉轡(くつばみ)を掛け、軍馬を引きて、斜めに鐙を突き出したり。

(李従珂)その役人はどうしてあなたに子供を求めた。

(正旦が唱う)

【呆骨朶】その官人はにこにことして、手に一本の雕翎(わしのは)の矢を持ちたりき。わたしは倅をその官員に与へてき。

(李従珂)今までどんな便りがあった。

(正旦が唱う)富みたるやら、安らかなるやら、栄えたるやら、穏やかなるやら。

(李従珂)長いこと、子供と会っていないのだな。

(正旦が唱う)行かんとすれど行き難からん。

(李従珂)子供に会ったことがあるか。

(正旦が唱う)会はんとすれど会ひ難からん。

(李従珂)おまえの子供は幼名を何という。

(正旦が唱う)王阿三はいづこにゐるやら。

(李従珂)あなたの子供を貰っていった役人は、姓名を何というのだ。

(正旦が唱う)李嗣源さまはさいはひに福を得たりき。

(李従珂)おかしい。この婆さんはわたしの阿媽の名を呼んでいる。左右のものよ、この世のなかに、幾人の李嗣源がいる。

(卒子)阿媽お一人が李嗣源でございます。

(李従珂)おい婆さん、わたしは李嗣源と一枚の紙に書き判する間柄[55]、家に行ったら話をし、あなたの子供がいた時は、会いにこさせよう。子供は今何歳だ。何月何日何時の生まれか。言ってくれ。

(正旦)八月十五日夜半子の刻生まれで、年は十八歳、幼名は王阿三です。

(李従珂)おかしい。この婆さんが言う生年月日は、わたしと同年同月同日同刻で、名が違うだけだ。ここにはきっと隠れた事情があるのであろう。家に行ったら、いずれにしてもあなたの息子をあなたに会いにこさせるが、お考えはいかがかな。

(正旦)官人、どうか息子をわたしに会いにこさせてください。(唱う)

【啄木児尾声】かならず李嗣源さまに伝へて、わが閔子騫に告げたまへかし[56]。居る時はわれら母子(おやこ)を再会せしめたまへかし。逢はんとすれば、南柯の夢で団円(まどゐ)するよりほかはなければ。(退場)

(李従珂)おかしい。この婆さんはかれの息子の話をしたが、わたしと同年同月同日同刻生まれで、幼名が違うだけだ。かれは王阿三、わたしは李従珂、ここにはきっと隠れた事情があるのであろう。家に行き、はっきり尋ね、その後で会いにきても、遅くはなかろう。

語るを聴けば涙は梭のやう、たちまちに苦しみを受くる婆さんを見る。幼名阿三は誰やらん。おそらくは李従珂(このわれ)ならん。(退場)

 

第四折

(李嗣源が蛮卒子を連れて登場)桃は暗く柳は明るく夏は至れり[57]、菊は凋み梅は褪せ春はまた来る。

それがしは李嗣源。月日が経つのはほんとうに速い。潞州長子県であの子供を貰ってきてから、十八年だ。子供は十八歳、十八般武藝を学び、すべてをよくし、寸鉄が手にあれば万夫不当の勇力がある。倅は李従珂という。こたび王彦章は宣戦布告の文書を送ってきて闘いを挑んだが、わたしは老阿媽の御諚を奉り、将帥となり、李亜子は先鋒となり、石敬瑭は左の隊となり、孟知祥は右哨となり、劉知遠は中路となり、李従珂は殿軍となり、二十万の大軍を率い、王彦章と鋒を交えにいったのだ。われら五虎将は大いに王彦章を破り、すでに勝利し、帰還した。この闘いでは、倅李従珂が活躍した。今われら四虎将は先に戻り、李従珂が後哨となり追ってくる。阿媽、阿者は大いに喜び、わが阿媽はわれら五将を封じて五侯にし、わが老阿者は五侯宴という宴を設け、三軍をねぎらおうとしている。阿者の御諚では、五将が揃ったら、阿者に報告せよとのことだ。今になってもどうして五将が来ないのか。

(李亜子が登場)三十(みそぢ)男児(をのこ)は鬢に斑なく、勇猛を江山に展ぶ。馬前におのづと封侯の剣あれば[58]、何ぞ用ゐん筆硯の間に逼塞するを。

それがしは大将李亜子。阿媽の御諚を奉り、われら五虎将は王彦章と鋒を交えにゆき、すでに勝利し、帰陣した。阿媽、阿者に会う前に、李嗣源兄じゃに会いにゆこう。到着だ。おい下役よ、取り次いでくれ。李亜子がきたとな。

(卒子)かしこまりました。(報せる)阿媽にお知らせいたします。李亜子さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。どうぞ。(見える)

(李嗣源)どうぞ。将軍どの、来られましたな。

(李亜子)兄じゃ、参りました。

(李嗣源)将軍どの、お掛けください。左右のものよ、入り口で見張りせよ。誰かが来たぞ。

(孟知祥が登場[59])三尺の龍泉[60]に万巻の(ふみ)、皇天はなにゆゑぞわれを生みたる。山東の宰相と山西の将[61]、かのものが丈夫(ますらを)ならばわれも丈夫(ますらを)[62]

それがしは家将孟知祥。阿媽の御諚を奉り、われら五将は王彦章を捕らえてすでに戻ってきた。李嗣源兄じゃが人を遣わし、招いているから、ゆかねばならぬ。はやくも着いた。おい下役よ、取り次いでくれ。孟知祥がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。孟知祥さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。どうぞ。

(孟知祥が見る)兄じゃ、参りました。

(李嗣源)将軍どの、来られましたな。阿者の御諚では、われら五虎将が揃ったら、阿者がねぎらいにくるとのことです。将軍どの、お掛けください。左右のものよ、入り口で見張りして、諸将が来たら、わたしに報せよ。

(石敬瑭が登場)雄威は赳赳辺疆を定め、p袍烏鎧黒纓槍[63]。天が下なる英雄はわたしのことを聞かば恐れん、勇敢で先頭に立つ石敬瑭。

それがしは家将石敬瑭。阿媽の御諚を奉り、われら五将は王彦章を捕まえることとなり、あちらに行けば、ただ一戦で、王彦章を大いに破り、今すでに勝利して、帰陣した。李嗣源さまがお呼びであるから、ゆかねばならぬ。おい下役よ、取り次いでくれ。石敬瑭がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。石敬瑭さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。どうぞ。(会う)

(石敬瑭)三人の兄じゃ、参りました。

(李嗣源)将軍どの、お掛けください。朝、阿媽の御諚を賜ったのですが、われら五将は功績がございますため、阿媽はわれらを封じて五侯になさるとのこと。明日阿者は五侯宴という宴を設け、阿者みずからが三軍をねぎらうとのこと。五将が揃ったら、われらはいっしょに行くとしましょう。

(劉知遠が登場)功名を立て姓名を顕はさんとし、鞍馬に(こころ)を労するを辞することなし。

それがしは劉知遠。わが阿媽の御諚を奉り、われら五将は王彦章を捕まえて、今すでに勝利して帰陣した。阿媽に会う前に、李嗣源兄じゃに会いにゆこう。はやくも着いた。下役よ、取り次いでくれ。劉知遠がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。劉知遠さまでございます。

(李嗣源)通せ。

(卒子)かしこまりました。どうぞ。

(劉知遠が見える)兄じゃ、劉知遠(わたくし)は勝利して帰陣しました。

(李嗣源)将軍どの、お掛けください。阿媽の御諚を受けたのですが、われら五将に功績がございますため、阿者は五侯宴という宴を設け、阿者みずからが三軍をねぎらうとのこと。ほかには誰が来ていませぬか。

(李亜子)李従珂将軍が来ておりませぬ。

(李嗣源)左右のものよ、入り口で見張りして、来たときは、わたしに報せよ。

(李従珂が登場)英雄は赳赳として江河を鎮め、志気は昂昂として干戈を整ふ。雄威は凛凛、人みな恐る、われこそは勇敢で先頭に立てる李従珂。

それがしは李従珂。阿媽の御諚を奉り、われら五虎将は王彦章を捕らえ、本日、勝利し帰陣した。老阿媽に会う前に、わが阿媽に会いにゆこう。おい下役よ、取り次げ。李従珂がきたとな。

(卒子)かしこまりました。阿媽にお知らせいたします。李従珂さまでございます。

(李嗣源)李従珂が来たか。通せ。

(卒子)かしこまりました。お入りください。

(李従珂が見える)阿媽、参りました。

(李嗣源)従珂よ、どうして来るのが遅れた。

(李従珂)阿媽。わたしは潞州長子県趙家荘に来ましたところ、一人の婆さんに会ったのですが、樹に縄を結びつけ、首吊りしようとしておりました。そのわけを尋ねますと、釣瓶を井戸に落としていたのでございます。かれの主人は恐ろしく、三鬚鈎[64]を取りにゆきますとき、殴られ、罵られてしまう恐れがあるため、死に場所を捜していたのでございます。わたしは左右のものに命じて、婆さんのため、釣瓶を掬い出してやりました。その婆さんはわたしを見ると、ひたすら哭いておりました。そのわけを尋ねますと、言いました。「わたしにも一人の倅がございましたが、十八年前にお役人に差し上げたのでございます」。わたしがかれの生年月日を尋ねますと、八月十五日夜半子の刻生まれで、幼名は王阿三、今生きていれば十八歳だと言いました。わたしはさらに尋ねました。「あなたの息子を連れていったお役人は姓名を何というのだ」。その婆さんは何と父上の名を言いました。どうやらかれの息子は、わたしと同年同月同日同刻生まれで、姓名が違うだけです。わたしはその婆さんに言いました。「わたしはあなたの子供を連れていったお役人とは一枚の紙に書き判する間柄だ」と。その婆さんは泣き喚き、わたしに跪き、哀願しました。「官人、憐れと思し召されませ。帰られて倅に会われましたなら、かならずわたしに会いにこさせてくださいまし」。父上、わたしは思うのですが、父上にはわたしがいるのでございますから、他人の家の子供を求めてどうなさいます。父上、今、その人はどこにいますか。呼び出してきて、わたしに会わせ、実の母親に会いにゆかせれば、まことに宜しゅうございましょう。

(李嗣源が驚く)待て。待て。息子よ、おまえは存じておらぬであろうが、わたしは子供を貰ってき、朝晩おまえを世話させようとしていたのだ。そいつのことではあるまいか。わたしはかれを馬に乗せたが、落馬して死んでしまった。今はその子供はいない。かれ[65]には構うな。明日、阿者は五侯宴という宴を設け、われら五侯をねぎらおうとなさっている。とりあえず休みにゆけ。明日は早いぞ。

(李従珂)阿媽、ほんとうに仰らぬおつもりですか。

(李嗣源)いないと言っているのに、ひたすら訊くのか。

(李亜子が人々とともに言う)従珂よ、父上にはたしかに一人の子供があったが、馬を走らせていたとき、落ちて死んだのだ。

(李従珂)あなたがたがわたしを騙し、言おうとなさらないのなら、仕方ない。この門を出るとしよう。今日みなは話をしようとしなかった。さきほど、阿媽と四人のおじは目と目を見合わせていたが、そこにはきっと隠れた事情があるのだろう。今日はひとまずかれらに尋ねず、明日になったら、酒の合間に、老阿者の前で、いずれにしても、はっきり尋ねることにしよう。(退場)

(李嗣源)従珂は行ってしまった。

(卒子)行かれました。

(李嗣源)ああ。四人の弟よ、あの子は実の母親に会ったのだ。事情を知ったら、わたしはこんなに年を取っているのに、どうしたら良いだろう。

(石敬瑭)兄じゃ、大丈夫です。われらは今から先に行き、阿者に知らせ、しっかりと秘密にし、話をさせねばよいでしょう。

(李嗣源)弟よ、おまえの言うとおりだ。かれが老阿者に会いにゆく前に、老阿者に会いにゆこう。

わたしは思はず輾転し暗かに疑う、そのかみは知る人ぞなき。従珂が実の母親に会ひにゆくなら、涙なき鉄人のわたしさへ悲むべけん。(ともに退場)

(李嗣源が四将とともに装いを整えて登場、李嗣源)今日は宴を調えたから、老阿者を招きにゆこう。阿者、どうかいらしてください。

(正旦が劉夫人に扮して登場)老いぼれは劉夫人。五人の子供が梁兵を大いに破り、勝利して帰還したため、老いぼれは今日五侯宴という宴を設けた。一つには功労を慶賀するため、二つには子供らをねぎらうためだ。宴はすべて調って、老いぼれを待つばかりであるから、ゆかねばならぬ。(唱う)

【商調】【集賢賓】見るはひらひら列なれる錦繍の旗、にこにこと凱歌をうたひて戻るなり。聴くはとんとん叩かるる鼉皮の鼓と[66]、ゆうゆうと吹かれたる鳳管の笛[67]。第一には、彦章を捕まへて勝利を得たる息子らを会せんがため、第二には、功労を賀し祝賀の宴をせんがため。息子らはにこにこと両脇に()み、みな糾糾たる雄威あり。かれらは高く玉斝を捧げ、香醪をなみなみ捧げ、一斉に跪きたり。

(李嗣源、李亜子、石敬瑭、孟知祥、劉知遠諸将が跪いて退場)

(李嗣源が酒を運ぶ)阿者、一杯干されませ。

(正旦が酒を受け取る)子供たち、立っておくれ。

(李嗣源)わたしたちにどんな功労があり、阿者にはかようにお気遣いいただくのでしょう。

(正旦)子供たち、お掛けなさい。

(衆)滅相もございませぬ。

(正旦が唱う)

【逍遥楽】十分に酔ひはじめて帰り、箸、点棒を回しつつ席を逃るることを得ず[68]

(李亜子が酒を運ぶ)酒を持て。阿者、一杯干されませ。

(正旦が酒を受け取り、唱う)この盞を措くとせん。子供らよ。かれ[69]をゆつたり坐らせよかし。長幼を並ぶるにただ年のみを論ずべし。觥籌[70]は交錯し、李嗣源は筆頭となり、それぞれが座を与へられたり。

(石敬瑭)阿者に一杯お注ぎしましょう。阿者、一杯干されませ。

(正旦)子供たち、今日は何の宴だえ。

(衆)今日は五侯宴でございます。

(正旦)五侯宴なら、なぜ李従珂が見えないのだえ。

(李嗣源)左右のものよ、どこにいる。入り口で見張りして、李従珂が来たときはわたしに報せよ。

(李従珂が登場)「気に掛からねばそれまでなれど、心に掛かれば人は乱れん」とぞいへる。

昨日、わが阿媽に、王阿三の一件を尋ねたが、わが阿媽と左右のものたちは隠して言おうとしなかった。今日五侯宴で、老阿者にお会いしたら、いずれにしてもはっきり尋ねることにしよう。到着だ。取り次げ。李従珂がきたと。

(卒子)かしこまりました。阿者にお知らせいたします。李従珂さまでございます。

(正旦)通しておくれ。

(卒子)かしこまりました。ゆかれませ。

(李従珂が正旦に見える)

(正旦)従珂や、来たね。

(李従珂)老阿者、参りました。(拝する)

(正旦)ほんとうに良い子だね。従珂や、どうして来るのが遅かった。

(李従珂)潞州長子県へ

(李嗣源が遮る)従珂よ、でたらめを言うな。ただ酒を飲め。

(李従珂)潞州長子県へ

(李嗣源が遮る)従珂。言うべきことは言い、言うべきでないことは言うな。ただ酒を飲め。

(李従珂)老阿者、わたしが話をしようとしますと、阿媽は何度も邪魔します。どうして話をさせぬのでしょう。もう酒は飲みませぬ。

(正旦)李嗣源どの。子供に話をさせるのだ。阻んではならぬ。

(李従珂)老阿者。潞州長子県を通りましたとき、一人の婆さんが、樹に縄を結び、首吊りしようとしておりました。わけを尋ねましたところ、井戸端へ水汲みにいったとき、釣瓶を井戸に落としてしまったとのことでした。かれの主人は因業で、婆さんは打たれる恐れがあるために、家に三鬚鈎を取りにゆこうとはせず、死のうとしていたのでございます。わたしは人に命じて釣瓶を掬いあげてやりました。その婆さんはわたしを見るとひたすら哭いておりました。わたしは言いました。「なぜわたしを見てひたすら哭くのだ」。その婆さんは言いました。「お役人さまを見て哭いたりはいたしませぬ。むかし一人の倅がございましたのですが、十八年前、お役人に差し上げたのでございます。今、生きておりますならば、お役人さまと同じ年頃でございましょう」。わたしが子供の生年月日を問いますと、その婆さんは言いました。「わたしの子供は八月十五日夜半子の刻生まれで、幼名を王阿三ともうします」。わたしはさらに尋ねました。「あなたの息子を連れていった役人は、姓名を何というのだ」。その婆さんは阿媽の名を言いました。思い起こせば、その婆さんが語ったかれの子供の八字は、わたしと同年同月同日同刻で、姓名が違うだけでした。わたしは李従珂、かれは王阿三。わたしは昨日阿媽にお尋ねしましたが、かたくなに言おうとなさいませんでした。今日は老阿者と諸将がこちらにおわしますから、王阿三を出てこさせ、わたしに会わせてくださいまし。何を恐れてらっしゃるのです。

(正旦が李嗣源を見る)息子や。あの子は母親に会ったのだろう。

(李嗣源)父親に会ったとは申していませぬ。阿者。倅に仰いますな。わたしはこんなに年を取り、この子一人が頼りです。もし阿者がかれに話せば、倅とは生き別れになりましょう。

(正旦)従珂や、おまえの阿媽には息子がいたが、馬を走らせ、落ちて死んだのだ。

(李従珂)老阿者、わたしを騙してはなりませぬ。わたしに仰い。何を恐れてらっしゃるのです。

(正旦が唱う)

【醋葫蘆】思へばそのかみおまへには弟ありき[71]、おまへの阿媽は貰ひきたれど、いささかも良き衣食をば与へざりにき。おまへの阿媽はその後におまへを生めば、そのものに牛や羊を放牧させて過ごさしめたり。今頃は死ににけるらん。

(孟知祥)阿者。わたしは阿者に一杯のお酒をお注ぎしておりませぬ。阿者。わたしは一杯のお酒をお注ぎしますから、阿者には酒令を行っていただきましょう。今日は以前の宴と異なり、人々はみな喜ばねばなりませぬ。酒を持て。わたしは一杯注ぐとしよう。

(正旦)子供たち、今日は吉日、みな楽しんで酒を飲むのだ。悲しむのは許さないよ。

(李嗣源)阿者の仰るとおりです。みんな従え。楽しんで酒を飲み、悲しむことは許さぬぞ。

(李従珂)お待ちください。お待ちください。老阿者、この件が明らかになりましたらば、お酒をいただくことにしましょう。老阿者、仰ってください。

(李嗣源が跪く)阿者。倅に話されてはなりませぬ。

(正旦)李嗣源どの、(唱う)

【醋葫蘆】わたしが小声であなたを呼べば、あなたはひたすら、強ばつた笑ひを浮かべ、機嫌を取れり。われわれが打ち明くるまでもなく、かれは知りたり。あの子は頭を抬ぐれば意を会したり[72]。われわれが話をせずば、心の中にて疑はん。

(李従珂)阿媽、仰ってください。

(李嗣源)わたしに何を言えというのだ。

(李従珂)老阿者、仰ってください。

(正旦)おまえの阿媽はおまえ一人を生んだだけ。わたしに何を言えというのだ。

(李従珂)お待ちください。お待ちください。老阿者と阿媽がどちらも言おうとなさらないなら、仕方ない。命があっても詮無いこと。わたしはこちらで剣を抜き、自刎しましょう。

(正旦、李嗣源、諸将が手を押さえ、剣を奪う)

(李嗣源)息子よ。おまえにもしものことがあったら、誰がわたしを養うのだ。息子よ。

(正旦)仕方ない。李嗣源どの、わたしは話そう。

(李嗣源)阿者。とりあえず倅に話さないでください。

(正旦)わたしが話せば、(唱う)

【後庭花】李嗣源は天涯孤独となりぬべし[73]

(李嗣源が悲しむ)

(李従珂)老阿者。今王阿三はどこにいるのでございましょう。

(正旦)息子や、十八年前、おまえの阿媽は大雪の中、潞州長子県から、おまえを抱いてきたのだよ。

(李従珂)老阿者、わたしはいったい誰なのでございましょう。

(正旦が唱う)ああ、息子や。王阿三こそなんぢなれ。

(李従珂)わたしが王阿三だったのか。ほんとうに腹が立つ。(昏倒する)

(衆が救う)

(李嗣源)従珂児よ、しっかりするのだ。

(正旦)従珂児、しっかり。

(李従珂が目醒め、悲しむ)ああ、とても悲しい。

(正旦)息子や、悲しまないでくれ。

(李従珂)老阿者、わたしの実母は今、千般の苦しみを受けております。どうして悲しまないことがございましょう。

(李嗣源)阿者、仰らなくても宜しかったに。倅は事情を知りましたから、今すぐ実母に会いにゆこうとしております。どうしましょう。

(正旦が唱う)養親のわれらがあの子を欺かば、

(正旦)われらはあの子の養父母です。あの子は実母が限りない苦しみを受けているのを見たのですから、会いにゆかせねば、

(唱う)ああ、息子や。あの子の生みの母親は何の希望のあるべけん。かれは今、使役せられたり。かれは今、六十余歳、身は凍え、腹は飢え、哭きつつ水を汲めるなり。おまへはそれを欺くや。

(李嗣源)阿者、倅に生き別れてしまいます。

(正旦)息子や。かれはこちらで馬に騎り、楽しくしているが、かれの実母は人さまのため、水を汲み、あちらで殴られ、罵られている。息子や、お考えなされ。(唱う)

【双雁児】「坐したるものは立ちたるものの飢うるを知らず[74]」となることをかれは望まず。母親の恩愛をいかでかは忘れ得べけん[75]。おまへがかれに怨みを雪がせ、おまへがかれを会ひにゆかせば、かれはおまへに会ひに来らん。

(李従珂が悲しむ)

(李嗣源が呼ぶ)従珂。従珂。

(李従珂は返事しない)

(李嗣源)従珂と呼ぶと、応えないから、今度は旧い幼名を叫んでみよう。王阿三。

(李従珂が返事する)阿媽、わたくしはおりまする。

(李嗣源)阿者、さきほど従珂と呼んだときには、返事せず、王阿三と呼んだときには、返事しました。

(李嗣源が鶏鴨論を語る)このことで、ある物語を思い出しました。むかし河南府武陵県に王員外という人がいました。家は黄河の岸辺近くにありました。とある日、散歩し、蘆の茂った堤に行くと、数十の鴨の卵がありました。王員外は言いました。「枯れ草の茂る堤に、どうして鴨の卵があるのだ」。王員外が鴨の卵を家に持ってゆきますと、一羽の雌鶏がちょうど卵を温めていましたので、鴨の卵を雌鶏にやり、幾日か抱かせたところ、みな鴨の雛になってしまいました。雌鶏は日がな一日、鴨たちを連れ、餌を探しました。一月たつと、だんだん羽毛が生えてきました。雌鶏が子鴨を連れて黄河の岸辺に来たところ、黄河に数羽の蒼鴨が浮かんでいました。子鴨らは岸辺でそれを見た途端、みな水中に入り、鴨たちとともに戯れました。雌鶏は岸で振り返り、鴨の雛が水に飛び込んでいるのを見ると、命を失うことを恐れて、岸で飛びあがって叫びました。王員外がたまたま外に出たところ、子鴨が水中で親鴨と戯れていました。王員外は言いました。「可哀想に。母鶏がなぜ叫んでいるのかと思ったが、鴨の雛が水に入るのを見ていたのだな。かれらはそれぞれ生みの親に会っているのだ。母鶏よ、おまえはどうして叫ぶのだ」。王員外は言いました。「この物語は、世の人々が他人の子供を養うのと同じことだ。よく養っても親しまないのは、これと同じことだ」。後に鶏鴨論を作り、世人の戒めとしました。証拠に詩がございます。詩に曰く、鴨に雛あり鶏は途中からそを抱きたり、抱きたれば鴨と成り相従へり。生長し羽毛を生じ、母鶏に従ひて岸辺に遊べり。水中に蒼鴨の戯れたるを目にするや、子鴨らは水に入り漂ふにしぞ任せたる。鶏は岸辺にて振り返り、徘徊し叫べども顧みらるることぞなき。(まみ)は穿たれ腸は断たれて[76]、羽を整へ翼を斂め(こころ)は悠悠[77]。王公[78]は鴨たちが母に随ひ、子鴨の群の波に戯れ泳ぐを見たり。君に勧めん他人の子をな養ひそ、成人しなば(こころ)の留まることはなからん。養育の恩愛に全く報いず、これこそは他人の子供を養ふことの結末ならめ。

ああ、息子よ、ほんとうにとても悲しい。

(正旦)息子や、悲しんではならぬ。

(李嗣源)阿者、どうして悲しまないでいられましょう。

(李従珂が正旦に別れを告げる)老阿者、ご安心なさいまし。今日は打ち明けてくださいましたね。憐れと思し召されませ。こちらでわが身は栄えても、わたしの実母はかの地にて、他人のために水を汲み、殴られ、罵られ、さんざん苦しみ、まもなく死んでしまいましょう。こちらにいて、母に会いにゆかないわけにはまいりませぬ。話を終えても雨の涙は千本流れ、あたかも刀で(しん)と腸とをかき乱されるかのようでございます。母たるものが飢えを忍んでいるというのに、子たるものが富み栄えるとは。可哀想に。まもなく死んでしまいましょう。養育をしてくださったお母さまにはお礼しにまいります。

(正旦)従珂や、今日は百十騎の人馬を率い、母上に会いにゆくのだ。息子や、はやめに戻ってくるのだよ。

(李嗣源)息子よ、おまえを十八年間育てたが無駄であった。

(李従珂)阿媽、悲しまれますな。母親に会いましたら、いっしょにすぐに参ります。

(正旦、李嗣源が悲しむ)息子や、はやめに戻ってくるのだよ。

(李従珂が拝辞する)かしこまりました。門を出た。今日は百十騎の人馬を率い、ただちに潞州長子県へ行き、母上にお会いしよう。わたしはさきほど尊堂[79]にお別れしたが両の涙を流していられた。実母のために憂えは尽きない。本日、兵を率いて長子県に行ったら、賊を捕らえて母の怨みに報いよう。(退場)

(正旦)嗣源どの、従珂は行ってしまいました。

(李嗣源)従珂は行ってしまいました。

(正旦)嗣源どの、今日は後から人馬を率い、まっすぐ潞州長子県に行き、あの子に会い、かれの母御をいっしょに迎えてくるように。万事細心にするのだよ。

(衆が応える)かしこまりました。

(正旦が唱う)

【尾声】剣戟をいそいで並べ、蛮官たちは兵器(うちもの)を取り、倅[80]にひたと従へり。わたしはかれ[81]の母親の寄る辺なきことを憐れむ。すみやかに行き、かれが実母を認めなば、いそいで戻りきたれかし。(退場)

(李嗣源)今日、われら兄弟五人は、本営の人馬を点呼し、倅の後から、ただちに潞州長子県に行き、倅の実の母親を迎えにゆこう。大小の三軍よ、わが命を聴け。本日は出発し、倅を応援しにゆこう。

兵を駆り、将を()て、優れたるさまを示して、従珂は実母に会ひにゆきたり。潞州は長子県に着きなば、かれら母子をとくとく帰郷せしむべし。(ともに退場)

 

第五折

(浄が趙脖揪に扮して登場)わたしは老趙、日がな一日、眼がぴくぴくする。山人がわたしを占ったところ、わたしは死ぬということだ。わたしは趙脖揪。ここ数日、すこし眼がぴくぴくする。あの婆さんはけしからん。水を汲ませ、牛に飲ませ、一日に百五十桶の水を求めているが、今日はまだ来ない。今すぐに人を遣り、あの婆さんを捕まえてこさせよう。

(正旦が水桶を担いで登場)このような苦しみは、いつ終わるやら。(唱う)

【双調】【新水令】「あのあばずれを捕らへよ」と叫べるを聴き、わあわあと大騒ぎするを見る。悪しき心の若者は、為す術のなき老骨を虐めたるなり。これもまたわが運の拙きことによるものなれば、必死に耐へたり。

(正旦が浄を見る)(浄)おい婆さん、一日中どこにいた。死んでしまえ。

(正旦)井戸端で水を汲み、牛に飲ませておりました。

(浄)一日で、どれほどの水を汲んだ。あばずれめ、ほんとうにけしからん。このように言っても無駄だな。死んでしまえ。縄を持ってきて、この婆さんを吊り上げて、打ち殺してやる。死んでしまえ。(浄が正旦を吊り上げる)

(正旦)天よ。誰に救ってもらったものか。

(李従珂が卒子たちを率いて突然登場)それがしは李従珂。大小の三軍よ、潞州長子県趙家荘に来た。兵士たち、この村を囲め。(兵士たちが村を囲む)

(李従珂)わたしの母がどこにいるかを尋ねるのだ。(門に入る)

(浄)お父さま。どのようなお役人さまでしょう。ほんとうに恐ろしゅうございます。(浄が慌てる)

(正旦が唱う)

【川撥棹】ただ見るは、がやがやと、がやがやと軍の来れる。それぞれが志気を抱きて、馬上にて堂々とせり。雄赳赳たる名声は四海に揚がり、喜孜孜たる笑まひは(ほほ)に満てるなり。

(李従珂)吊されているのは母じゃではないか。兵士よ、はやく縄を解き、介添えし、連れてくるのだ。

(正旦が唱う)

【七弟兄】こなたで見れば、英傑は、二歩を一歩にして入りきたり、大股で進み出で、頭を下げて礼儀正しく拝したり。

(李従珂が拝する)母じゃ、あなたは息子がお分かりになりますか。

(正旦が唱う)

【梅花酒】たえず母ぢやと呼びかけて、涙眼を揉みて開け、進み出でたり。あたふたと(つゑ)に縋れば、兵卒たちは一字に並び、官員たちは両脇にしぞ連なれる。わたしの子供は素晴らしや。がばと地面に跪く、がばと地面に跪く。

(李従珂)母上、わたし王阿三がお分かりになりますか。

(正旦)誰が王阿三なのですか。

(李従珂)わたくしが王阿三です。

(正旦と従珂が悲しむ)

(正旦が唱う)

【喜江南】息子や。今日は「月明千里故人は来る[82]」なり。好事は人に奔りきたれり。わが子は状貌(かほ)が堂堂として麗しく、まことに立派。赦免状(ゆるしぶみ)が九重の天より飛びおりたるかのごとし。

(正旦が従珂を確認し、悲しむ)

(正旦)息子よ、おまえが来なければ、わたしの命はなかっただろう。

(李従珂)母上、あなたを殴り、苛めたものはどこにいますか。

(正旦が浄を指す)こいつがわたしを打ったのだ。

(李従珂)こいつが母を苛めていたのか。

(浄)どなたでしょうか。

(李従珂)どなたでしょうかだと。この人はわたしの実の母だ。

(趙脖揪)あなたの実のお母さんだったのですか。それならば、わたしの命はございませぬ。

(李従珂)こいつを縛ってくれ。

(李嗣源が四将とともに登場)

(李嗣源)潞州長子県趙家荘に来た。従珂ではないか。

(李従珂)阿媽も来られた。母上。阿媽と会われませ。

(李嗣源)おい婆さん、わたしが分かるか。

(正旦が嗣源を見る)官人に大いに感謝いたさねばなりませぬ。

(李嗣源が趙脖揪を見る)こいつは誰だ。

(李従珂)阿媽、こいつは趙太公の息子です。

(李嗣源)おいおまえ。趙太公はどこへいった。

(趙脖揪)大人、憐れと思し召されませ。わたしの父は死にました。むかし証文を改めたのは、わたしの父です。今、このかたの母じゃを苛めましたのはわたしです。このかたの母じゃを朝に打ち、暮に罵りましたのもわたしです。今となっては、お許しになるのでしたら、お許しになり、お許しにならぬのでしたら、すぐに哈剌(ハラ)[83]してくださいまし。

(李嗣源)こいつは証文を改めて、貧しい人を虐げたから、陣頭に推しだして斬首しよう。李従珂よ、母上の衣服を換えてさしあげて、車に馬を繋ぎ、ともに京師に行き、老阿者と阿媽にお目通りするとしよう。

(正旦が唱う)

【沽美酒】本日は京師を望めば雲霧はたなびき、帝闕(みやゐ)に向かへば蓬莱にさへ勝るなり。諸共に栄華を享けて好事(かうじ)は諧ひぬ。玄纁と玉帛を享受して、われらが一家はことごとく豪邁なるなり。

【太平令】かならず香車麾蓋[84]を得べし、母と子は所詮は英れたるものぞ。昇平の世を楽しみて、げに雍熙(なごやか)にて勝るものなし。ああ。今日は、楽しく、麗しく、快し。皇恩に謝し、鞠躬し、礼拝す。

(李嗣源)本日は牛馬をつぶし、祝賀の宴を設けよう。

李従珂は孝義を先にし、母親を傷み憐れむ。夫を葬らんがため、身を質入れし、相抛棄せられたること数十余年[85]。水を汲むとき詳細を知り、井戸端で母子(おやこ)なることを悟れり。本日やうやく再会し、王阿三母子は団円(まどゐ)せり。

 

題目 王阿三母子両団円

正名 劉夫人慶賞五侯宴

 

最終更新日:2007年8月4日

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[1] 未詳だが、野で吹く笛であろう。「野笛」という言葉はある。

[2] 原文「擂的是鏤金画面鼓」。「画面鼓」は未詳。胴の表面に彩色が施された太鼓であろうか。

[3] 原文「打的是雲月p雕旗」。「雲月p雕旗」は未詳だが、雲、月、黒いワシの図案のある旗であろう。p雕旗という言葉は張可久『水仙子』懐古に用例がある。『存孝打虎』『哭存孝』に用例あり。

[4] 原文「妾身近日所生了個孩児、見孩児口大、就喚孩児做王阿三」。趣旨未詳。とりあえずこう訳す。

[5] 原文「則我這衣袂粗疏、都是些草絡布無綿絮」。「草絡布」は未詳。

[6] 原文「這孩児能夜啼不犯触、則従那揺車児上掛著爺単袴、掛到有三十遍倒蹄驢」。「倒蹄驢」が未詳。とりあえずこう訳す。

[7] 原文「不似您這孩児」。自分の子供を見ながら唱っているのであろう。

[8] 原文「則使的幾貫銭」。趣旨未詳。とりあえずこう訳す。

[9] 原文「堪恨這個無徒」。「無徒」は趙太公を指していると解す。

[10] :『三才図会』。

[11] 原文「排門児告些故疏」。「故疏」が未詳。とりあえずこう訳す。

[12] 原文「你尋些個口啣銭」。「口啣銭」は死者の口に含ませる銭。転じてわずかな金銭の喩え。

[13] 原文「善著四時衣」。未詳。とりあえずこう訳す。四季を通じて衣を着けている。夏期、裸で肉体労働をすることがないという趣旨か。

[14] 真っ白なねりぎぬ。

[15] 原文「俺孩児渾身上綿繭児無一葉」。「綿繭児」は未詳。とりあえずこう訳す。

[16] 原文「我如今官差可便棄舍」。「官差」が未詳。本来は、役所の仕事。ここでは趙太公の命令を喩えるか。

[17] 原文「可惜了我那枝艾葉金箭去了」。「艾葉金」が未詳。「」は鏃なのだが、「艾葉金」という金があるのか、金で作った「艾葉」なのかが未詳。

[18] 赤ん坊に呼びかけていると解す。

[19] 子孫の喩え。

[20] 原文「教孩児執帽フ鞭抱靴」。息子を李嗣源の帽、鞭、靴の係にさせろ。息子を下僕として扱えという趣旨であろう。

[21] 原文「怕孩児有剛気自己著疼熱」。「自己著疼熱」が未詳。とりあえずこう訳す。

[22] 原文「若有些志節、把他来便撞者」。「若有些志節」が未詳。「気丈に頑張り」というぐらいの意味か。

[23] 五代、梁の人。陳留郡王。『五代史』巻二十一などに伝がある。

[24] 原文「何用双鋒石上磨」。「双鋒」が未詳。諸刃の剣か。

[25]李存孝のこと。『唐書』巻二百十八などに伝がある。李克用の義子であったが、讒言により、誅せられた。かれを主人公とした元雑劇に『存孝打虎』『哭存孝』などがある。

[26] 精錬していない鉄。

[27] 張飛。車騎将軍であったことがある。

[28] 尉遅敬徳。唐の建国の功臣。『唐書』巻八十九などに伝がある。

[29] 未詳だが、黄石公のことであろう。黄石公は漢の張良に『三略』を与えた人。

[30] 太公望呂尚。『六韜』はかれの著作とされる。

[31] 原文「我是那圧尽春秋伍子胥」。未詳。とりあえずこう訳す。

[32] ここでは「赳赳」の意であろう。たけだけしいこと。

[33] 原文「臨軍望塵知勝敗」。『五代史』唐臣伝「周徳威有而多智、能望塵知敵数」。

[34] 原文「対壘嗅土識兵機」。「嗅土」は典故がありそうだが未詳。単に「望塵」と対にするために作られた言葉か。

[35] 原文「大将軍八面虎狼威」。「八面威風」といえば威風が十分なこと。

[36] 原文「両陣対円旗相望」。「対円」はそれぞれの陣営が半円形になって対峙すること。

[37] 巨大なニワトリ。『集韻』「鶤、鳥名、説文、鶤鶏也、爾雅、鶏三尺為鶤、或从昆」。

[38] 写真 画像元頁

[39] 原文「五虎戦敗錦毛彪」。「錦毛彪」は典故がありそうだが未詳。「彪」は小さなトラ。

[40] 原文「恐怕我那孩児不知」。李氏が家に来たいきさつに趙脖揪が気付かないであろうといったもの。

[41] 高蹺に同じ。竹馬式の棒に乗り、歩くこと。

[42] 曲名と思われるが未詳。

[43] 未詳。

[44] 麦藁で編んだ丸い座具。

[45] 原文「闔椁%、腐、悶後跚麺筋」。「磨豆腐」は大豆を臼でひき、豆腐の原料である豆乳を作ること。「跚麺筋」はいかなる動作か未詳。

[46] 元曲の常用語。クワの棒であろうが、黄桑とは何なのか未詳。「桑棍」「黄桑棍」とも。『漢語大詞典』黄桑棒条にいわく「硬木棍」と。『玉壺春』『凍蘇秦』『両団円』『両世姻縁』などにも用例がある。

[47] 王おばさん。

[48] 原文「我可是你爹爹哩」。自分が相手より一世代年上の者であるとし、相手を貶めたもの。

[49] これは皮肉。

[50] 原文「你与我飲牛去、休湿了那牛嘴児」。未詳。とりあえずこう訳す。無理難題を言っているのか。

[51] これは卒子に呼びかけているのであろう。

[52] 原文同じ。未詳。鳶口のようなものか。

[53]腰帯をいう。吐鶻、兔胡とも。周汛『中国衣冠服飾大辞典』四百五十一頁参照。

[54] 氈笠はフェルトの笠。:『三才図会』。

[55] 後ろにも出てくる。

[56] 原文「道与俺那閔子騫」。「閔子騫」は、いうまでもなく孔子の弟子。継母にも孝行を尽くしたことで著名。ここでは李従珂(王阿三)の喩え。

[57] 原文「桃暗柳明終夏至」。「桃暗柳明」は「桃明柳暗」とすべきところであろう。「桃暗柳明」となっているのは平仄の関係。陸游『遊山西村』「山重水復疑無路、柳暗花明又一村」。

[58] 原文「馬前自有封侯剣」。「封侯剣」は典故がありそうだが未詳。王侯に封ぜられるような功を立てる剣ということであろう。

[59] 以下の詩は『凍蘇秦』にも見える。

[60]豫章の雷煥が石函の中から掘り出した龍泉剣のこと。『晋書』張華伝に見える。

[61] 『史記』趙充国辛慶忌伝賛「秦漢以来、山東出相、山西出将」。

[62] 『孟子』滕文公上「成[間見]謂齊景公曰、彼丈夫也、我丈夫也、吾何畏彼哉」。

[63]「p袍」は黒い軍服。「烏鎧」は黒いよろい。「黒纓槍」は黒い房飾りの付いた槍。

[64] 未詳だが、先が三つ又になった棒であろう。

[65]李従珂(王阿三)の生母李氏を指していると解す。

[66] 鼉はワニ。ワニ皮の太鼓。

[67] 笙。形が鳳凰に似ているところから。

[68] 原文「転籌箸不得逃席」。「転」が未詳。「籌箸」は箸と点棒。とりあえずこう訳す。

[69]李嗣源を指していると解す。

[70] 杯と点棒。

[71] 原文「那時節曾記得你有個弟弟」。訳はこれでよいのであろうが、すぐ後の「おまへの阿媽はその後におまへを生めば(你阿媽後来生下你)」と矛盾する。

[72] 原文「那孩児挙頭会意」。「挙頭会意」は未詳。すぐに他人の心を見抜くという方向か。

[73] 原文「則俺這李嗣源別有誰」。未詳。とりあえずこう訳す。

[74] 原文「他怎肯坐而不覚立而饑」。「坐而不覚立而饑」は「坐児不覚立児饑」の誤りであろう。「坐児不覚立児饑」は諺で、坐っているものは立っているものの飢えていることが分からない、良い境遇にあるものは悪い境遇にあるものの苦しみが分からない、ということ。

[75] 原文「母恩臨怎忘的」。「恩臨」が未詳。とりあえずこう訳す。

[76] 原文「眼欲穿兮腸欲断」。「眼穿腸断」は切望するさま。

[77] 憂えるさま。

[78]王員外のこと。

[79] 他人の母のこと。ここでは劉夫人を指す。

[80]李嗣源を指す。

[81]李従珂を指す。

[82] 遠く離れていた人が会うときの、元曲の常套句。『碧桃花』『還牢末』などに用例がある。

[83] 蒙古語で「殺す」の意。

[84] 将帥が用いる旗と傘。

[85] 原文「相抛棄数十余年」。未詳。とりあえずこう訳す。

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