鄧夫人苦痛哭存孝
関漢卿
第一折
（冲末が浄の李存信、康君立とともに登場）
（李存信）米罕[1]は一斤まるごとを呑み、抹隣[2]に乗れず。弩門[3]と速門[4]、弓矢をいかで射るべけん。撒因答剌孫[5]、そを見れば奪ひて飲めり。飲めば莎塔八[6]し、転べば眠る。わが姓名を言ふならば、家将らは記憶することを得ざらん。一対の忽剌孩[7]は、いづれも狗が産みたるものぞ。
わたしは李存信。こちらは康君立。われら二人は、弓を引いたり、弩を踏むことはできず、戦闘、対峙することもできないが、兄じゃは唱うことができ、わたしは舞うことができる。わたしの父は李克用、阿媽はわれら二人を好み、われら二人がいなければ、酒も飲まず、肉も食べない。われら二人がいるときは、酒、肉を召され、われら二人をとても愛していらっしゃる。黄巣を破った後は、太平無事、阿媽は奪還した城池を、われら五百の義児家将らに、それぞれ鎮守させている。阿媽の御諚では、邢州をわれら二人に与えて鎮守させるとのこと。あそこは朱温の家の裏門、かれはわれらの父とは不和だ。われらが邢州を鎮守していることを知ったら、われらと闘うことだろう。われら二人は武芸はできず、酒肉を食らうことができるだけだ。捕らえられ、殺されたらどうしよう。
（康君立）今度、阿媽は、潞州上党郡を存孝に与えて鎮守させ、潞州地方においしい酒とおいしい肉を食べにゆかせる。二人で酒席を調えて、阿媽に別れを告げるとだけ言い、阿媽を酔わせて、「邢州は朱温の家の裏門で、あのものは阿媽とは仲が良くありませぬ。戦いを挑んできたら、われら二人が死ぬことは、大したことではございませぬが、人に知られれば、阿媽の名声を損うのではございませんか。李存孝に邢州を鎮守しにゆかせれば、まことに宜しゅうございましょう」と言うとしよう。
（李存信）われら二人は今日酒席を調え、父親に別れを告げにゆくとしよう。わたしは李存信、かれは康君立、二人はまことに口が達者で、ほんとうに一対のもの。（ともに退場）
（李克用が劉夫人とともに蛮卒子を率いて登場）
（李克用）蛮、蛮、蛮、地は悪しく、人は奔るに、宝馬[8]に跨り、雕鞍に坐す。鷹を飛ばし、犬を走らす、荒野山河。渇けば羊の酥酒を飲み[9]、飢うれば鹿の脯を食らふ。鳳の翎の矢を手に取りて、宝雕弓[10]は臂をもて斜めに引けり。林間に宴が闌くれば胡旋舞し、丹青をして絵に描かせん。
それがしは李克用。それがしは豳州節度使を襲封したが、酒気を帯び、段文楚を殴ったため、沙陀地方に流され、すでに十年になる。黄巣が反乱したため、聖上の御諚を奉じ、忻、代、石、嵐都招討使を加えられ、破黄巣天下兵馬大元帥となっている。沙陀を離れ、数日足らずで、圧関楼[11]の前に来て、二十四箇所の節度使を揃え、長安で勝利を得た。わが子存孝は鄧天王を捕らえ、孟截海を生け捕り、撾で張帰覇を打ち、十八騎であやまって長安に入り[12]、大いに黄巣を破り、長安を奪還した。聖上の御諚では、それがし配下の義児家将らを労って、すべての奪いかえした城池は、それがし配下の義児家将らに鎮守させ、盗賊を防がせるとのことだ。今日は太平無事で、四海は晏然、夫人や諸将と酒を飲み、楽しむのにはちょうどよい。兵士よ、酒肴を調えろ。いったいどうして周徳威が来ないのだ。
（周徳威が登場）帥鼓[13]と銅鑼を一二度敲き、轅門の内と外には英傑を列ねたるなり。三軍は報せおへたり平安喏、旗幡をばきつく巻きつけて、動かすことなし。
それがしは姓は周、名は徳威、字は鎮遠、山後[14]朔州[15]の人。こたびは、李克用さまに従って、黄巣をともに破った。天下は太平、それがしは蛮漢都総管となっている。今日は元帥さまがお呼びだ。何事だろうか。行かねばならぬ。はやくも着いた。取り次いでくれ。周徳威が参りしたと。
（卒子）かしこまりました。元帥さまにお知らせします。周徳威さまが入り口にいらっしゃいます。
（李克用）通せ。
（卒子）かしこまりました。どうぞ。（見える）
（周徳威）元帥さま、周徳威が参りました。
（李克用）将軍どの、本日あなたを招いたはほかでもない。思うに存孝にはたくさんの功績があるから、潞州上党郡を存孝に鎮守させ、邢州を李存信、康君立に鎮守させよう。なぜ李存信、康君立が来ないのだ。
（李存信が康君立とともに登場）
（李存信）阿媽が心の中で思へば、たちまちに前に到れり。兄じゃ、ご安心ください。わたしが行って、阿媽に会い、話をし、存孝を邢州へ行かせましょう。
（康君立）弟よ、とにかく細心にするのだぞ。
（李存信）阿媽、阿者、思えば当初、阿媽のお言葉では、潞州上党郡をわれら二人に与えて鎮守させるとのことでした。今日、阿媽は存孝にお与えになり、われら二人を邢州に行かせるのですね。（悲しむ）
（李克用）存信よ、どうして哭くのだ。
（李存信）阿媽、われら二人もはやく起き、おそく休んで[16]、舞ったり唱ったりしながら、阿媽を喜ばせましたのに、なぜあなたたち二人の息子を邢州へ行かせるのです。
（康君立）阿媽、思いみますに邢州は朱温の裏門、あのものは阿媽とは仲が良くありませぬ。戦いを挑んできたら、われら二人は何の武芸もできませぬ。われら二人が捕らえられれば、われらが死ぬのは大したことではございませぬが、阿媽がお酒を召されるときに、われら二人の舞うものと唱うものを捜しても、眼の前におらず、阿媽が突然ご病気になられても、生薬屋では、われら二人を贖うことはできませぬ。
（李存信）阿媽、どうか憐れと思し召されて、われら二人を潞州へ行かせ、邢州を存孝夫婦に鎮守させれば、まことに宜しゅうございましょう。
（李存信が盞を取る）兄じゃ、お酒をお持ちください。阿媽に一杯さしあげましょう。
（李克用）二人の孝行息子たちよ。おまえたちを潞州上党郡へゆかせよう。
（康君立）それならば、阿媽に感謝いたしましょう。
（周徳威）かれら二人にどのような功績があって、潞州上党郡に行かせるのでしょう。思うに飛虎将軍は南北に征討し、東西に掃討し、疲れれば馬で眠り、渇けば刀の血を飲んでいます。あのかたは潞州へゆくことができますが、かれら二人は行けないでしょう。
（李克用）周将軍の言う通りだ。兵士よ、存孝夫婦を呼んできてくれ。
（卒子）かしこまりました。
（正旦が李存孝とともに登場）
（李存孝）岩前に虎を打ち[17]、雄き心を持てるなり、勇敢にして先駆けすれば敵は敗れり。陣に上ればひとへに鉄の飛撾[18]により、唐の世界の乾坤を支へたるなり。
それがしは本姓は安、名は敬思といい、雁門関飛虎峪霊丘県の人。幼少の時、父母はいずれも亡くなった。さいわい鄧大戸の家で養われ、成人し、かれの家のために羊を飼った。阿媽李克用はそれがしに虎を打つ力があるのを目にすると、招安し、義児家将にし、封じて十三太保飛虎将軍李存孝とし、鄧大戸の家の婿にさせた。阿媽に従い、十八騎であやまって長安に入り、大いに黄巣を破ってから、天下は太平無事である。聖上の御諚では、われら義児家将に、奪還した城池を、それぞれ鎮守させることになっている。阿媽の話では、われら夫婦は潞州上党郡を鎮守しにゆけとのことだ。今、阿媽がお呼びだが、何事だろうか。行かねばならぬ。はやくもこちらに到着だ。夫人よ、行ってはならぬ。阿媽、阿者は、盛大に笛を吹いたり、鼓を打ったり、牛馬を屠り、美味を煮たり焼いたりし、五百蛮部落の胡児胡女たちに取り巻かれ[19]、ほんとうに楽しんでいらっしゃる。
（正旦）存孝さま、今日、父上は酒宴をなさり、われら二人を呼んでいますから、阿媽、阿者に会いにゆきましょう。ゆったりとした楽の音を聴けば、まことに楽しゅうございます。（唱う）
【仙呂】【点絳唇】一斉に楽の音を奏づるを聴く、かのひとは大唐の苗裔にして、親戚を並べたまひたり。今日はわが父母が揃ひたまへば、まさに龍虎が風雲に会したる[20]なり。
【混江龍】われわれ沙陀は勢ひ雄く、真珠翡翠に囲まれんとも、珍しと思ふことなし。珍羞百味を設くとも、三杯の水酒の比にあらず[21]。毎日ひたすら鳳を炮り、龍を烹て、まことに楽しく、羊を屠り、馬を殺して宴をなさざる日とてなし。義児家将らは功を立て、一人一人が官位を求め、褒賞を受け、妻や子に恩典を与へたるなり。
（正旦）存孝さま、ごいっしょに、まず阿媽にお会いしましょう。もう酔っていらっしゃいます。
（李存孝）われらは行かずに、阿者に会おう。阿媽は体に酒が零れて、両脇を支えられ、ずいぶん酔っていらっしゃる。
（正旦が唱う）
【油葫蘆】かのひとは、盞を執り、壺をば捧げたるなり。いそいで跪きたれど、かのひとはあちらにて管を巻きたり。阿媽は錦の袍がみな酒に濡るるを顧みず、手当たり次第にひたすら食らへり。かのひとは、あちらにて、策に縋りてへべれけに酔ふ[22]。あちらでは、盛大に楽器を奏で[23]、冬冬と鼉皮の画鼓を打ち、悠悠[24]とゆるやかに鷓鴣笛[25]を吹く。
【天下楽】見よ。あちらには、大小の兵士がきちんと列なる。げにやげに[26]、富貴を楽しみたまひたる。傍らに周徳威は坐し、あちらには酒肴が並び、蛮官たちはぴたと従ひ、両脇に軍は並べり。
（正旦）阿媽に会いにゆきましょう。
（李存孝）ゆこう。（見える）
（李存孝）阿媽。存孝夫婦が参りました。
（李克用）存孝が来たな。ほかの息子たちはあちこちを鎮守しにいった。今日は吉日、おまえたち二人は邢州を鎮守しにゆけ。康君立、李存信、おまえたち二人は潞州上党郡を鎮守しにゆけ。
（李存孝）阿媽、黄巣を破る前、阿媽のお話では、「黄巣を破り、天下太平となったら、潞州上党郡を与えて鎮守させよう」ということでした。阿媽はその前言を破られました。今日、阿媽は邢州を鎮守せよとのことですが、邢州は朱温の家の裏門、ひねもすかれと対峙することになったら、どうしたらよろしいのでしょう。
（正旦）存孝さま。阿者にも話しにゆきましょう。阿者。存孝さまのために、もう一言仰ってください。
（劉夫人）息子や、邢州を鎮守しにおゆき。阿媽は酔われた。ひとまずお行き。
（李存孝）阿媽はむかし、潞州上党郡を下さるということでしたが、こたび、康君立、李存信どのを信じ、わたしを邢州へ行かせようとなさっています。阿者。阿媽に一言仰ってくだされば、まことに宜しゅうございましょう。
（劉夫人）阿媽は酔っていらっしゃるのだ。
（李存孝）康君立、李存信どの、どのような功績があり、潞州上党郡を鎮守しにゆかれる。
（李存信）阿媽のお話では、おまえを邢州へ行かせるとのこと。どちらも同じ良い場所だ。功績などは問題ではない。
（李存孝）思えば昔、圧関楼の前で、三層の柵、七層の囲、千員の猛将、八卦の陣を見たが、その時は平地を踏むかのようだった。
（正旦）阿媽はまことに不実なお方。（唱う）
【節節高】今日は太平無事にして、人を用ゐし時をまつたく思ひたまはず[27]。存孝さまはおんみのために国を安んじ、悪戦し、名利を求めき。三層の鹿角と、七層の囲を見れども、平地に登るがごとくしき。げに八卦の陣、千員の驍将たちは、謀略を施したりき。阿者。かのひとは唐朝の社稷を守りき。
（李存孝）康君立、李存信どの、おんみら二人は、どのような功績があったため、潞州を鎮守しにゆかれる。
（正旦が唱う）
【元和令】げに人は鉄衣を脱がず、馬は鞍、轡を外さず。阿者は今日、父上にお話しをなしたまへかし。思へばかれ[28]は以前より力を出せり。なにゆゑぞ功績がなきに、かれらに宜しき城池を与へたまひたる。阿者。わたしの李存孝さまは、何の望みのあるべきや。
（劉夫人）息子や、阿媽は酔っているから、酒が醒めた時に話そう。
（正旦）思いみますに、康君立、李存信さまたちには、どのような功績がございましょう。（唱う）
【遊四門】おんみらは、酒食を啖ふのみにして、他の人を苦戦せしめて、迷惑を掛けたるを知ることぞなき。阿媽。おんみはひたすら李存信、康君立らを引き立てたまへど、かれらは、いかでか、槍を横にし、馬を縦らせ、闘ふべけん。おんみはかれらに背かれん。人は勢利を逐ふものぞかし。
（李存孝）康君立、李存信どの、思えば昔、十八騎であやまって長安に入り、葛従周を撃破し、黄巣を攻め破り、天下を太平たらしめたのは、わたしの功績だ。おまえたちにはどのような功績がある。
（李存信）われら二人は功績はないが、唱うことができ、舞うことができるのだ。
（正旦が唱う）
【勝葫蘆】かのひとはいつ、鞭もて金の鐙を敲き、にこにこ笑ひ、凱歌を唱ひて戻るべき。軍中に繍旗を振るをはるかに望めば、おんみらは身体はぶるぶる、心肺はどきどき、脅かされて、ぱたぱたと飛ぶがごとくに走るべし。
（李存孝）おんみら二人にどのような手柄がおありか。一頭の荒馬を与えても乗れず、一張の強弓を与えても射られず、酒肉を貪ることだけが、おんみらの手柄です。
（正旦が唱う）
【後庭花】一頭の荒馬を与へどえ乗らず、一張の強弓を与へどえ射ず。かのひと[29]は、他の人々と、陣頭で功績を争ひたれど、おんみらは帳房にぼんやりと坐りたるのみ。われらには実力があり[30]。おんみらは、天を欺き地を欺かんとするなかれ。おんみらは、飢うる時には肉を食べ、渇く時には酪水[31]を飲み、閑な時には打髀殖[32]し、酔へる時にはみだりに唱へり。酔へる時にはみだりに唱へり。
【柳葉児】おんみらは、十八般の武器を持てども、鞭、鐗、撾、槌をえ回さず、おんみらは、臂膊をはだけて刀もて劈らんとはせず。がやがやとした三軍の内にあり、馬がしきりに嘶きたるを聴くのみで、はやくも脅え、ふはふはと、魄は散じて魂は飛ぶなり。
（正旦）存孝さま、今日は吉日、駄馬と輜重を調えて、阿媽、阿者に別れを告げて、長の旅路につきましょう。
（李存孝）今日は吉日。阿媽、阿者に別れを告げて、長の旅路につきましょう。
（正旦が唱う）
【尾声】仕方なし。汝は兄弟の意に従ふは難くして、吾は今日は舅姑の意をよしとせず。
（劉夫人）息子や、ひとまず焦るのはやめるのだ。阿媽の酔いが醒めたら、相談するとしよう。
（正旦）行けば宜しゅうございましょう。
（唱う）などてかわれら夫妻を謗る[33]。児掏窩を発し尽くして李を姓とせざるに過ぎず[34]。本日は神さまさへも愚かなり。
（言う）ありがたいことでございます。
（唱う）一人だけ遠く離れて、それぞれ別に城池を占めたり。かくせずば、李存信、康君立らは、おんみを葬り去るべけん。かれらはいづれも良心に背き、ご機嫌取りをしたるなり。存孝さま、かれら二人は弁が立ち、狡猾な、功績を横取りする賊。（退場）
（劉夫人）康君立、李存信。阿媽は酔ったから、とりあえず介添えし、後堂に戻ってゆこう。（退場）
（周徳威）存孝は黄巣を破り、大唐の天下を奪還したのに、良い土地をあの二人に与え、邢州を存孝に与えるとは。元帥さまは今日は酔われていらっしゃる。明日、酒が醒めたら、話をし、存孝夫婦を潞州上党郡へゆかせれば、はじめてわたしの願いが叶おう。
元帥さまは酒を貪り存孝に不義理をすれば、明日は是と非を論ずべし。（退場）
（李存信）康君立どの、いかがです。かならずや潞州を得ると申しましたが、今日ははたして思った通りになりました。潞州の豊かな地方に行くなら、邢州に行き、朱温一家と毎日交戦するよりましです。
（康君立）弟よ、存孝は、今回は、きっと怨みに思っていよう。わたしが潞州に行き、存孝のあら探しをし、阿媽を唆し、存孝を殺させれば、はじめてわたしの平生の願いが叶おう。今日は旅装を調えて、まずは邢州へ行き、詐って阿媽の話を伝え、義児家将らに、それぞれもとの姓を称させるとしよう。かれらが本姓を称したら、わたしが阿媽を唆し、存孝を殺させて、はじめてわたしの平生の願いが叶おう。
阿媽はお酒を飲むを好まれ、酔へば焼豚にぞ似たる。安敬思をし殺めなば、平素の願ひは叶ふべし。（ともに退場）
第二折
（李存孝が蛮卒子を率いて登場）鉄の鎧は輝きて体をしかと覆ひたり、虎皮を着け錦袍こそは新たなれ。軍に臨めば勝ちを決して誉れは高く、邢州をながく鎮めて万の民を保ちたるなり。
それがしは十三太保李存孝。前部先鋒破黄巣都総管金吾上将軍に封ぜられている[35]。邢州を治めてこのかた、兵士をきちんと操練し、人民を安撫して私心なく、王彦章を殺害し、正視できないようにさせ[36]、朱全忠を鎮め、境界を侵犯させないようにしている。今日は何事もないから、州衙でぼんやり坐っていると、誰かが来たぞ。
（李存信が康君立とともに登場）
（李存信）上党郡を後にして、知らぬ間に邢州に来た。
わたしは李存信、こちらは康君立。はやくも着いた。これが邢州の役所か。兵士よ、取り次げ。李存信、康君立が入り口にいるとな。
（卒子）かしこまりました。（報せる）将軍さまにお知らせします。李存信さま、康君立さまがお越しです。
（李存孝）二人の兄じゃが来られたか、阿媽の御諚があるのだろう。お通ししろ。
（卒子）かしこまりました。どうぞ。（見る）
（康君立）李存孝よ、阿媽の御諚ぞ。おまえにはたくさんの手柄があるが、おまえの本姓が分からなくなる恐れがあるから、李姓を棄てさせ[37]、また安敬思と呼ぶことにする。阿媽の御諚に従わないなら、おまえを殺す。はやく姓を改めろ。わたしはすぐに阿媽に報告しにゆくぞ。
（李存孝）なぜ姓名を改めさせるのでしょうか。阿媽の御諚であるならば、背くわけにはまいりませぬ。兵士よ、酒肴を調えろ。二人の兄じゃが宴してゆかれるぞ。
（康君立）それには及ばぬ。わたしは阿媽に報告しにゆく。阿媽の御諚を偽って伝え、存孝に姓名を改めさせ、父上を唆し、怒らせる。からくりを弄ぶのも気分がよいわい[38]。（ともに退場）
（李存孝）阿媽。わたしは阿媽のお世話になって、成人し、妻と子に恩典を与えましたに、今日はどうして、わたしに姓を改めさせるのでしょうか。阿媽、わたしとて、悪戦苦闘し、霜に眠り、雪に臥し、たくさんの功績がございましたに、今日はわたしを用いなくなったのですね。毎日毎日へべれけに酔い、讒言を信じ、善人を損なわれるとは。
わたしはもとより国を安んずる李存孝、今日は太平なれば昔の将を用ゐることなし。（退場）
（李克用が劉夫人とともに登場）
（李克用）太平無事の日に遇ふことを喜べり、宴を開き綺羅を列ぬるには宜し。
それがしは李克用。聖上の御諚を奉じ、義児家将にあちこちを鎮守させている。四海は安寧、八方は無事、酒を飲み、楽しむのにはちょうどよい。誰かが来たぞ。
（李存信が康君立とともに登場）阿媽、禍にございます。
（李克用）なぜ大騒ぎしているのだ。
（康君立）李存孝は邢州に着きますと、父上がかれに潞州を与えなかったことを怨んで、姓を安敬思と改めました。かれは飛虎軍を率いて阿媽を殺そうとしています。どうしたらよろしいでしょう。
（李存信）阿媽を殺すのは大したことはございませんが、われら二人はどうしたらよろしいでしょう。わたしの阿媽。
（李克用）存孝め、けしからん。姓を改めるのはよいが、どうして飛虎軍を率いて殺しにくるのだ。ただでは済まさぬ。よし。今日は蛮兵を点呼して、羊飼いを捕らえにゆこう[39]。
（劉夫人）お待ちください。元帥さま、なぜよくお考えにならないのです。李存孝はそのような男ではございませぬ。元帥さま、ひとまずご安心なさいませ。わたしはみずから邢州へ行き、存孝が姓を改めていなければ、おのずから考えがございます。姓を改めていましたら、兵を発して捕らえても、遅くはございませんでしょう。
刀斧手も用ゐず武威を輝かし、鴉の脚の槍を持つ下士官をきちんと並べん[40]。機謀を用ゐて説得し、心を変へさせ、両の手で存孝の名を与ふべし[41]。（退場）
（李克用）康君立、李存信。阿者は行ってしまった。存孝が心変わりしているのなら、それがしみずからあの羊飼いを捕らえにゆこう。
戦を好む蛮官と、命知らずの家将に告げん。一人一人は盔を戴き甲を纏ひ、一人一人は矢を押さへ弓を引き、きちんと剣と戟を列ねて、びつしりと槍と刀を立てよかし。三千の鴉兵[42]は先鋒となり———山に逢はば道を開き、水に遇はば橋を掛くべし。左哨の蛮兵三千は百戦錬磨、右哨の蛮兵三千は勇猛果敢、殿軍の蛮兵三千は糧秣を運び、さらに五百の義児家将らは、みな勇を奮ひて先駆け、戦闘対峙す。馬に坐れば北海の毒蛟のごと、鞍の上の将軍は南山の猛虎のごとし。それがしは兵を駆り、将を率て邢州に行き、恩を忘れし羊飼ひをばみづから捕らへん。家将は雄々しく武芸は完璧、蛮官は勇猛にして先駆けんとす。存孝を捕まへてみづから殺さば、血は東南の半壁の天に注がん。（ともに退場）
（李存孝が正旦、卒子とともに登場）
（李存孝）喜びが尽きざるうちに、悲しみが来る。
夫人は存じていないであろうが、今、阿媽の御諚が、康君立、李存信により伝えられた。五百の義児家将らは、ことごとく姓を改め、李姓を称さぬようにとのことだから、わたしは安敬思と改名をせねばならない。阿媽は二人の言葉を信じているのだろう。どうしよう。
（正旦）将軍さま、二人の悪者たちの言葉を信じられてはなりませぬ。かれらの計略に嵌りましょう。よくお考えにならなければなりませぬ。
（李存孝）かれら二人はみずから言葉を伝えにき、わたしに姓を改めさせた。わたしが姓を改めようとしたのではない。
（正旦）お父さまがあなたに姓を改めさせたのであれば、忠によって国を治め、義によって民を導きなさいまし。（唱う）
【南呂】【一枝花】諺に「官清ければ民はおのづと安らかに、法正しければ天の心は順はん」とぞ言はれたる。かのものたちは「家貧しければ孝子顕はる」とは言へず[43]。われらはそれぞれ功績を立て、正しき事のなきときも親を尊ぶ[44]。われらに命じてそれぞれの姓を問はしめ[45]、われらが父母とお呼びすれども、怒りたまひしことはなかりき。今日はわれらがおんみの家を辱むるを嫌ひたまへり。そのかみ、おんみは真心をもてわれらを認めたまひしに。
（李存孝）夫人よ、思えば昔、黄巣を破った時に、招安されて義児家将となったが、あの時、用いられなければ、良かったのだ。
【梁州】狂ほしき友に従ふこともなく、賄し親戚となりしこともなし。黄巣を破るとき、血戦すること三千陣、十たび生き、九たび死に、千辛と万苦を経にき。出仕したれば、妻と子に恩典を与へたりにき。大いなる家は地を踏み根を悟り[46]、前後の軍は袴を捺へ裩を摩りにき[47]。われらは、われらは、画堂の中に、鼎を列ね、茵を重ね、役所にて、役所にて、杖を束ねて民を治めき[48]。ああ、ああ、ああ、われらは戦場を経て、荒らかに将兵たちを捕らへにき。げに本分に従ふことなし[49]。われわれの忠言を信じたまはず、讒言のみを信じたまへり。割股するわれわれを不孝なりとし、父母を殺むる悪者たちを孝行と言ひ、清濁を弁じたまはず。
（李存孝）夫人よ、わたしはこちらでくさくさと腰掛けている。兵士よ、見張りせよ。誰かが来たぞ。
（孛老児が小末の尼とともに登場）
（孛老児）老いぼれは李大戸。むかし子がなかったために、縁組みし、この子を倅としたのだが、今は田地、家財、邸宅、農具を買い調え、実の子ができたから、おまえを倅としようとはせぬ。おまえは出てゆけ。
（小末の尼）お父さま、むかし子がなかったときは、わたしはあなたの子となりましたが、あなたは今田地、家財、邸宅、農具を手に入れて、わたしがいらなくなりました。清廉な役人がおわしますから、いっしょに訴訟しにゆきましょう。はやくも役所の入り口に着きました。訴え事にございます。
（李存孝）何者が門前で大騒ぎしているのだ。兵士よ、捕らえてきてくれ。
（卒子が捕らえて連れてくる）かしこまりました。捕らえました。面を上げよ。
（孛老児が小末とともに跪く[50]）
（李存孝）子供よ、何を訴える。
（小末）大人、憐れと思し召されませ。むかし、父には子供がございませんでしたので、わたしを子供にしようとしました。かれは今では、田地、家財、邸宅、農具を手に入れて、実の子供を持ちましたので、わたしを子供とする必要がなくなりました。そしてわたしを追い出そうとしましたので、わざわざ告げにまいりましたのでございます。大人、憐れと思し召されませ。わたしにお味方してくださいまし。
（李存孝）この子はわたしと同じだ。そのむかし、必要だった時にはかれを子としたが、今日は子ができたため、かれを子としようとせぬのだ。兵士よ、あの爺さんを打ってくれ。
（正旦）ひとまず打たずに、お待ちください。（唱う）
【牧羊関】話を聴けば、心に悶を懐きたり。ゆゑなく怒り、役所に入りくるときに憚ることのなき悪人を打つ[51]。父と子はつねに争ひ、父と子はつねに諍ふ。
（李存孝）兵士よ、打ってくれ。
（唱う）詞は尽きざるにかれを罵り、口を止むることなきに拳もて打つ。げに愚かなる蕭丞相どの[52]。
（正旦）赤瓦不剌海[53]。
（唱う）おまへはまことに粗野な下役[54]。
（李存孝）兵士よ、追い出してくれ。
（卒子）かしこまりました。出てゆけ。
（孛老児）むざむざあいつに殴られた。ほかの所へ訴えにゆこう。（ともに退場）
（劉夫人が登場）老いぼれは沙陀の李克用の妻劉夫人。李存孝が姓名を改めたため、数日足らずでこの邢州に来て、人に尋ねたが、はたして安敬思と姓を改めていた。こちらは李存孝の屋敷だ。左右のものよ、取り次げ。阿者が来たと。
（卒子）かしこまりました。将軍さまにお知らせします。阿者がお越しです。
（正旦）阿者を迎えにゆかれませ。わたしは衣服を換えにゆきます。（服を換える）
（劉夫人が見る）
（李存孝）阿者がいらっしゃることを前もって存じていれば、お迎えいたすべきでした。お迎えをしませんでしたが、お咎めになりませぬよう。（拝する）
（劉夫人が怒る）李存孝や、阿媽はおまえに酷いことなどしていないのに、姓名を改めるとは、ほんとうにとんでもないよ。
（李存孝）阿者、ひとまず怒らないでください。兵士よ、酒と果物を調えてこい。
（卒子）かしこまりました。
（李存孝が酒を渡す）阿者、一杯干されませ。
（劉夫人）息子や、わたしは酒を飲まぬのだ。
（正旦）ひとまず行かず、こちらで眺めているのだが、阿者は少々悲しんでいらっしゃる。いったいどうしてなのだろう。（唱う）
【紅芍薬】阿者は馬を下り、宅門に入り、ゆつくりと階を過ぎたまひたり。存孝さまは壺、盞を捧げつつ二三巡せり。かのひと[55]は唇を着くることなし。かのひとは初めからぷんぷん怒り、まつたく怒りを鎮めんとせず。わたしはこなたで傍に立ち、殷勤にして、怠慢にしやうとはせず。
【菩薩梁州】わたしはこちらで挨拶を施しおはり、平身し、拱手して前に進めり。悪しき娘はご挨拶せん。阿者、遠路お疲れさまでした。
（劉夫人）悪く思われないでくだされ。安敬思夫人どの。
（正旦が唱う）話を聴けば三魂は去り、阿者が憂憤を懐けるを知る。この罪人は問ふを須ゐず[56]、さらに調書を書くを須ゐず。「岸に到れば水が村をば隔つるをはじめて悟る[57]」、つばらかに事情を申さん。
（劉夫人）息子や、われら夫婦はおまえに酷いことなどはしていないのに、姓名を改めるとは。康君立、李存信が話さなければ、阿媽は知ることはできなかったよ。今、おまえの阿媽は大小の蛮兵を率いておまえを捕らえにこようとしていらっしゃる。わたしはまったく信じずに、ひとりで来たが、おまえは姓名を改めていた。わたしたちがおまえにどんな酷いことをした。
（正旦）存孝さま、仰らないでどうなさいます。
（李存孝）阿者。康君立、李存信の話では、われら五百の義児家将らはことごとく姓を改めよ、わたしには安姓を称せよということでした。思うにわたしは、阿媽、阿者のお世話になって成人し、妻子に恩典を与え、かように立派な官職にございますから、阿者、阿媽の恩義を忘れようとはしませぬ。（哭く）思はず叫び、痛く哭き、刀を提げ肺腑をかき乱さんとせり。育て上げられ、身を立て、名を揚げたりしかば、阿者、おんみたち養父母をいかで忘れん。
（劉夫人）そのようことはないと思っていたよ[58]。阿媽はたいへんおまえを咎めていらっしゃる。
（正旦が唱う）
【罵玉郎】そのむかし、おんみは腰に先鋒の印を掛け、われらは辛苦に耐へたりき。かのひとは英雄の慷慨を逞しうしつくして、ひたすらに繍旗を並べ、戦馬を集め、軍陣を衝きたまひにき。
【感皇恩】阿者、かのひとは、おんみのために功績を立て、乾坤を支へたりにき。かのひとは、おんみのために黄巣を破り、帰覇と戦ひ、朱温を破りき。そのかみは、賢士を招きたまひしかども、今日はわれらは偃武修文し、今となりては、征戦はなく、士馬は絶え、辺塵は収まりたるなり。
【採茶歌】おんみはなどて人を顧みたまはざる。なにゆゑぞ、太平の世に、旧き将をば用ゐざる。半紙の功名百戦の身、見返れば高き塚には麒麟が臥したり[59]。
（劉夫人）嫁や、おまえは家にいておくれ。わたしと息子は阿媽に会い、二人の悪者の嘘を暴くことにしよう。
（正旦）阿者。存孝さまを行かせてはなりませぬ。あちらに行けば康君立、李存信が、存孝さまのお命を不当に葬りさりましょう。
（劉夫人）嫁や、安心しておくれ。この件は、決着をつけねばならない。嫁や、家にいておくれ。わたしは存孝を連れてゆく。考えがあるのだ。
（李存孝）わたしは行って黒白を着けるとしよう。鄧夫人よ、安心するのだ。
（正旦が唱う）
【尾声】あちらに行かば、劉夫人をして心頭の悶を散ぜしめよかし。かくせずば、われらが李家の父上さまは、いかでか腹の怒りを消して、嘘と真を弁じたまはん。ひとへに福の神により[60]、禍根を除きたまへかし。康君立、李存信らに、大虫を打つおんみの拳をお見舞ひすべし。やつらは人を陥れたるものなれば、やつらを打たばすんなりと、おんみのために、潞州を争ひたる怨みをぞ白状すべき[61]。（退場）
（劉夫人）息子や、旅装を調え、わたしに従い、おまえの父に会いにゆくのだ。
万丈の深き水さへ底は見ゆれど、人心のみこそ測り難けれ。（ともに退場）
（李克用が李存信、康君立とともに登場）
（李克用）李存信、康君立よ。阿者が行った後、事情が分からぬ。酒を持て。存孝にそのような事はなかったのだろう。
（李存信）阿媽、かれは姓を改めました。わたしは嘘をついたりしませぬ。
（康君立）われら二人が嘘をつくなら、大風がわれらの帽子を吹くでしょう。
（李克用）本当だな[62]。酒を持て。何杯か飲ませてくれ。
（康君立）何杯か飲むのにはちょうど宜しゅうございます。
（劉夫人が李存孝とともに登場）
（劉夫人）息子が来ました。兵士よ、取り次げ。阿者が来たと。
（李克用）阿者が来たなら、呼んできて何杯か飲ませよう。
（卒子）かしこまりました。どうぞ。
（李存孝）阿者は先に行かれ、わたしのために一声仰ってください。
（劉夫人）息子や、安心しておくれ。分かっているよ。
（劉夫人が会う）李克用どの、また酔われたのですね。わたしが行かねば、あやうく息子を殺してしまうところでしたよ。
（李存信が報せる）阿者。唖子兄じゃが狩りに行き、狩り場で馬から落ちました。
（劉夫人が慌てる）それならば、どうしよう。わたしは息子を見にゆこう。
（存孝が引く）阿者、わたしのために仰ってください。
（劉夫人）唖子が狩りにゆき、狩り場で馬から落ちたのだ。息子を見にゆき、すぐに来るよ。
（李存孝）阿者が行ってしまわれたら、阿媽は酒を帯び、かれら二人の言葉を信じ、わたしの命を葬り去ってしまうでしょう。
（劉夫人）聞き分けがないね。実の子が馬から落ちたら、実の母はどうして悲しまないでいられよう。「腸より出せば腸は熱し[63]」というではないか。もう構ってはいられないよ。わたしは息子を見にゆこう。（推して、退場）
（李存孝が哭く）阿者は、唖子が馬から落ちたため、とても心配なさっていた。母は子を気に掛けて慈しむもの。突然、二つの事が心に浮かんだぞ。義子と実子は仮のものと真のもの。唖子は所詮は実の骨肉、わたしは赤の他人だと[64]。「腸より出せば腸は熱し」といわれているが、阿者、身内はやはり身内なのですね。
（李存信が盞を取る）阿媽、一杯干されませ。
（李克用が酔う）わたしは酔った。
（康君立）阿媽。存孝が入り口におりまする。あのものは義に背き、恩を忘れておりまする。
（李克用）わたしは五裂篾迭[65]。（退場）
（李存信）兄じゃ。阿媽は、五裂篾迭と仰った。酔われているが、どうしたらよいだろう。明日、阿媽の酔いが醒めたら、「五つに裂けとお命じになりました」と言うことにしよう。
（康君立）おまえの言う通りだ。存孝を殺さなければ、明日、阿媽の酔いが醒め、阿者が話をしたときに、われら二人は殺されてしまうだろう。兵士よ、存孝を捕らえてきてくれ。
（李存孝）康君立、李存信。わたしを連れてどこに行く。
（李存信）阿媽の御諚ぞ。おまえは義に背き、恩を忘れたため、五輌の車でおまえを裂くのだ。
（李存孝）阿媽、まことに酷うございます。わたしにどんな罪があり、わたしを五つに裂くのでしょう。わたしが死ぬのは大したことではございませぬが、鄧夫人は家にいますから、どうしてわたしが殺されたことを知りましょう。二人の弟よ、来てくれ。安休休、薛阿灘よ、わたしの虎皮袍、虎磕脳、鉄燕撾を、鄧夫人に渡してくれれば、わたしに会うのと同じことだ。
（李存孝が哭く）鄧夫人よ、わたしは今日殺される。仕置場にまもなく赴く。
愛しき妻には身を寄するところもなからん、夫婦の愛も断たれなん[66]。わたしは死なば、淡き煙と、朽ちたる草に伴はれ、枯れたる木、荒れたる墳が故郷とならん。夫婦がふたたび相見えんとするときは、夫人よ、南柯の夢よりほかはなかるべし。
（李存信）おいおまえ、聴け。
機謀を用ゐて段取りをじつくりとつけたれば、羊飼ひめの死期は迫れり。李存孝はまことに姓を改めたれば、邢州で斬りし後、報告すべし。
（李存孝）皇天はご存じだ。国家のためにわたしが多くの功績を立てているのを。わたしはかつて孟截海を生け捕りし、怒って鄧天王を捕まえ、張帰覇を撃破し、力ずくで太原を取り、さらに并州[67]を奪い、たちまちに五将を誅した。華厳川[68]の大戦で、葛従周を撃破し、十八騎であやまって長安に入り、黄巣を攻め破り、唐の社稷を支えたのは、わたしの手柄だ。今日はわたしを用いずに、五つに裂くとは。（哭く）仕方ない。
わが志気は雲をも凌ぎ、斗牛を射たれば、蒼天はこのわれを公侯となしたまひにき。命を懸けて社稷を扶け、悪戦苦闘し、戈矛を統べにき。旌旗の日影龍蛇は動き[69]、野草閑花は満地に愁へき。英雄は非業に死にて黄泉に行けり。これこそは忠心孝義の結末ぞかし。
鄧夫人よ、まことに苦しい。とても悲しい。（退場）
（李存信）今日は存孝を五つに裂いた。明日、阿媽がわれらに尋ねたら、話をしよう。われらはゆこう。
金風は動かざれども、あらかじめ蝉は覚れり、無常[70]はひそかに来れども、死するまで悟ることなし。（ともに退場）
（周徳威が登場）事を論ずる人は多きも、物にもとより定めあるなり。
それがしは周徳威。どうしよう。李克用さまが酒を帯び、存孝を殺すとは思わなかった。康君立、李存信の嘘を信じて、飛虎将軍をたちまちに五つに裂いて殺してしまった。昨日は酒を帯びていたから、気付いていられぬ。今日はただちに帥府に赴き、その詳細を尋ねよう。
二人の賊は謀略により、存孝を五つに裂きて殺したり。蛮官たちはみづから帳下に臨みたり。李克用さまがいかにして言ひ逃れするのかを見るとせん。（退場）
第三折
（劉夫人が登場）刺繍を習ふことなく、荒馬に弓を引き敵と戦はんとす。狩り場にてよく虎を射て、陣に臨めば兵機を知れり。
老いぼれは劉夫人。昨日は存孝を連れてきて、阿媽に話をしようとしたが、唖子が狩り場で馬から落ちた。わたしはみずから狩り場に行って息子に会ったが、馬から落ちていなかった。すべては李存信、康君立らの策略だった。存孝はどうしただろう。下役に様子を探りにゆかせたが、そろそろやってくるはずだ。
（正旦が莽古歹に扮して登場）わたしは莽古歹。阿者の言葉を奉り、存孝さまのご様子を探りにいったが、阿媽は酔い、康君立、李存信の言葉を信じ、存孝さまを五つに裂いていた。ぐずぐずしてはならない。阿者に報告しにゆこう。（唱う）
【中呂】【粉蝶児】かれら二人の奸物どもは、職に当たれば忠烈なりと見なされつ。仕事せず、酒を好めるわれらが親方さまを思へば、かれら二人は虺蛇[71]のごと、蝮蝎[72]のごと、心腸の悪しきものぞかし。風車のごとくぱたぱた走れば、やうやく屋敷が望まれぬ。
【酔春風】一気に走り、両脚をしばしも休めず、阿者に向かひて、始めより、つばらに話さん。零れし水を収むることは難くして、死するまでうまくゆくことはなからん[73]。今日は一つも偽ることなく語らん[74]。
（劉夫人）良き下役よ。
暖帽[75]と貂裘はもつとも似合ひ、下役は軽々と走ること飛ぶにぞ似たる。存孝は申し開きを終へたるや。使者はすべての事情を知るべし[76]。
存孝に会ったか。阿媽は酔っていたか。康君立、李存信は何と言っていた。息をするのが楽になったら、ゆっくりお話し。
（正旦が唱う）
【上小楼】阿媽は酔ひ、心の中は凶悪なりき。かれら二人は巧みな言葉で、しやしやり出て、英傑を損なひたりき。かれら二人は仲を裂き、口論を引き起こし、弁明させず。かれら二人は傍で、強きを恃み、罪を作れり。
（劉夫人）下役よ、阿媽は何と言った。存孝は何と言った。
李阿媽は酒を貪れど、李存孝は忠心を持ち仁義あり。父と子は仲睦まじくしたりしに、存信と君立は口を挟めり。
阿媽と存孝は、どちらが正しく、どちらが正しくなかったのか、もう一遍話すのだ。
（正旦が唱う）
【上小楼】子は子たり、父は父たり。父と子に過ちはなかりしも、むざむざと恩義は断たれり。阿媽はきびしく阻み、遮り、情けを掛くることはなかりき。かれは言ひたり。「おまへは安家のものなればいかでか李家の枝葉となるべき」。
（劉夫人）下役よ、阿媽のところに二人の逆賊はいたか。
（莽古歹）二人とは。
（劉夫人）一人は康君立、双尾の蝎[77]は骨の髓をば侵したり。一人は李存信、両頭の蛇[78]なれば讒言したり。かれらは忠良かつ英邁な虎将を損なはんとせり。かれらには国を治むる計略はなく、赤心をもて国に報ゆることはなし。かれら二人はいかにして言ひ逃れせし。
（莽古歹）阿者。始めから終わりまで阿者にお話しするのをお聴きくださいまし。どうか悲しまれないでください。（唱う）
【十二月】康君立はひどく凶悪、李存信は蝎のごとし。かのものたちの凶暴なるを以てせば、古今にぞ冠絶すべけん。かのひと[79]が、霜に寝ね、雪に臥ししも徒なりき。阿媽は定見なきかたなれば邪に従ひき。
（劉夫人）わたしが思うに存孝は、華厳川で命を懸けて、大いに黄巣を破り、辺疆を鎮めた。かれは天を支える白玉の柱、海に掛けた紫金の梁だ。かれら二人のならず者は、どのように存孝を殺したのだ。
（正旦が唱う）
【堯民歌】一本の紫金の梁をむざむざと二三に斬れり。阿者、おやめなさいまし[80]。かのひとはいかでかは弁明すべけん。思ひおこせば、十八騎にて、長安の城内に、豪勇を逞しうししかども、今日はひゆるひゆる旋風となる。わたしは嘆けり。存孝さまに相見えんとする時は、阿者、水底に明月を掬ふよりほかなかるべし。
（劉夫人）下役よ、話そうとして話さないのは、いったいなぜだ。
（莽古歹）李存信、康君立の言葉によって、存孝さまは、五輌の車で裂き殺されたのでございます。
（劉夫人）可哀想に。あれは死に臨む時、棍棒で体を打たれ、さんざんに罵られ、命は黄泉にたちまち埋もれてしまったのだね。存孝は怨みを抱いていただろう。息子や、どうして死んだのだ。
（正旦が唱う）
【耍孩児】馬の下へと一声怒鳴れば烈しき雷にぞ似たる[81]。鶻が寒鳩[82]を打つかのやうにひどく凶悪。かれら二人はすみやかに進みいでたり。存孝さまは弁明せんとしたまへど、いかでかは弁明すべけん。一人は口を指しながら、三十句まで罵りき。一人は肋を支へつつ、ばしばしばしと、五六たびまで蹴りたりき[83]。げにこそ別れは辛きなれ。存孝さまは五輌の車で引き裂かれ、たちまち七つ八つになりにき。
（劉夫人）思うにあいつは、存孝から、罪があるという自供書を取り、供述に偽りはないという文書を求め、欺いて仕置場に推してゆき、七尺の体を葬り去ったのだろう。
（正旦が唱う）
【三煞】罪を問ふこともせず、文書に点を打つこともせず[84]、前で引き、後ろで推して、無理に連行したるなり。軍兵は鉄の桶のごとくに周囲で騒ぎ、棍棒は麻の茂みのごとくに前後を遮りて、ぐいぐいと仕置場に推してゆきたり。二人の賊の願ひは叶ひ、英傑を不当に殺せり。
（劉夫人）思えば昔、わが存孝には、たくさんの手柄があった。孟截海を生け捕り、鄧天王を殺し、槍で張帰覇を刺し殺し、十八騎で長安に入り、撾で耿彪を打ち殺し、火で永豊倉[85]を焼き、九牛の力、虎を打つ威力があった。どうしてわたしの息子を殺した。
（莽古歹）存孝さまは仰いました。（唱う）
【二煞】鄧天王を旗下で斬り、孟截海を馬上に提げ、大虫を打ち鮮血を流さしめ、双つの撾もて千人を打ち殺したることもあり。本日は、九牛の力はあれども、五輌の車で五方より身を引かるるをえ阻まず。将軍は苦しみて死に、見るものに一人とて嘆かぬはなし。
（劉夫人）五輌の車、五五二十五頭の牛で、一斉に引いたら、存孝はどうなった。
（正旦が唱う）
【尾声】打たるれば、牛たちは、驚き跳ねたり。打て打てと叫べば[86]鞭はひゆうひゆうと揮はれたりき。一斉に引きたれば、虎をも殴る将軍の命は葬り去られにき。（退場）
（劉夫人）李克用どの、二人の賊の言葉を信じ、存孝を不当に殺されたのですね。李克用どの、ほんとうに凶悪な。
五輌の車を五方より一斉に引き、鉄石の人は叫びていたく哭きけん。身の骨と肉を引き裂き、血は赤く黄沙の土地を染めにけん。母子はふたたび団円しえず、思へばますます悲しみを添ふ。劉夫人は苦しみ哀しむ。李存孝の身は冥府にぞ帰したりし。
（哭く）ああ、存孝や、おまえのせいでとても悲しい。（退場）
第四折
（李克用、李存信、康君立が蛮卒子を率いて登場）
（李克用）塞上の羌管の韻、北風に戦馬は嘶く。縷金画面鼓[87]、雲月皂雕旗[88]。
それがしは李克用。昨日は、蛮官たちと酒を飲み、十分に酒を飲んだ。存孝が来たというが、下役よ、存孝を呼んできてくれ。
（李存信）どうしよう。
（劉夫人が登場）李克用どの、良いことをなさいましたね。二人の悪者を信じ、毎日酒を飲むとは。なぜ存孝を五つに裂かれた。わたしはみずから邢州に行きましたが、存孝は姓名を改めていませんでした。康君立、李存信らの悪者二人が、策を用いて、安敬思と改めさせていたのです。昨日、わたしは存孝を連れてお会いしにきましたに、どうして二人の悪者に五輌の車で存孝を裂かせたのです。嫁は遺骨を、鄧家荘へ背負ってゆきました。息子や、ほんとうにとても悲しい。
（李克用）夫人よ、おまえが言わねば気付かなかった。あの二人が息子を葬り去ったのだな。わたしは、「五裂篾迭。わたしは酔った」と言ったのだ。かれはどうして息子を五つに裂いたのだ。二人のならず者を捕らえ、鄧家荘に行かせて殺し、腹を割き、心を抉り、わたしの息子の怨みに報いることにしよう。すぐに位牌と供物を調え、人を遣わし、嫁を戻らせろ。（哭く）ああ。存孝よ。
話を聴けば涙は千筋、過てば刀もてわが心腸をかき乱さるるがごときなり。義児家将らがみな悲しむは、酒を帯び忠良を損なへばなり。存信、康君立めは、存孝を五つに裂きて殺したり。大小の兵士はみな喪に服し、家将蛮官はいたく悲しむ。ああ。仁義忠孝の子よ、われら恩なく義なき老いたる父母をな怨みそ。（ともに退場）
（正旦が引魂幡を持ち、哭きながら登場）先に亡くなってしまうとは。存孝さま。まことに悲しゅうございます。存孝さま。（唱う）
【双調】【新水令】引魂幡を二三たびはためかせたり、存孝さま、おんみの霊は陽関の大道を忘るるなかれ[89]。ぽろぽろと涙は傾くるがごと、いらいらと意は焼くるがごときなり。遥けき山河を避くるを得ざれば、かならず到着する日はあるべし。
【水仙子】引魂幡をしかと執り、手で揺らし、骨箱を軽軽とみづから背負へり。おんみの悠悠[90]たる魂魄は消耗をすることぞなき、
（言う）こちらは飛虎峪ではないか、
（唱う）おんみは遥か彼方へ行きそ[91]。堪へきれず、堪へきれず痛哭したり。ある時はぷんぷん怒り、ある時はよろよろ倒る。ああ天よ、心の痛みを癒すは難し。
（劉夫人が登場）嫁の鄧夫人ではないか。一声呼んでみるとしよう。嫁や、鄧夫人どの、待ちなされ。
（正旦が唱う）
【慶東原】ばたばたといそがしく歩みを移し、ぱたぱたと脚を止めず、わあわあと背後にて声高に叫べるは誰そ。
（劉夫人）鄧夫人どの、わたしです。（会って哭く）ほんとうに悲しい。存孝や。
（正旦が唱う）阿者。わたしの存孝さまを殺されましたね。
（劉夫人）わたしが何と言ったかえ。
（正旦が唱う）「決着はつかざれど、最後には決着をつくべし」と言ひたまひにき[92]。
（劉夫人）嫁や、一言を忘れていなかったのだね。
（正旦が唱う）悲しみを心のうちに悟れども、誰に言ふべき。
（劉夫人）嫁や、ひとまず骨箱を置いておくれ。阿媽は二人の悪者を捕まえてきて、存孝の仇に報い、恨みを雪ぐ。（李克用が周徳威とともに蛮卒子を率い、李存信、康君立を捕らえて登場）
（李克用）嫁よ、わたしのもとを去っていったが、恐れるな。祭祀の道具を持ってきてくれ。虎磕脳[93]、螭虎帯[94]、鉄の飛撾を存孝の霊前に供え、康君立、李存信を縄で縛って祭祀を行い、二人の賊をゆっくり殺そう。周将軍よ、祭文を読んでくれ。
（周徳威が祭文を読む）維大[95]九月上旬の日、忻、代、石、嵐、雁門関都招討使、破黄巣兵馬大元帥李克用らは、祭を故男[96]飛虎将軍李存孝の霊に致して曰く、惟霊は生まれて朔漠に居り、飛虎に長じ、しばしば敵に遇ひて戦ひ、猿臂は射撃を善くしたり。両張の弓、両袋の矢を、左手右手で射、手をもて鉄の撾を舞はせ、将を愛して三合に及ばざりき[97]。虎を山峪の中に打ち、賊兵を禁城の内に破りしことあり。撾もて耿彪を打ち殺し、たちまちに三将を誅し、五虎を殺せり。一字長蛇陣[98]を撃破し、葛従周を撃破せり。渭南[99]にて三戦し、十八騎にてあやまちて長安に入り、矢もて黄巨夭を射、傅存審と悪戦し、李罕之を制圧し、鄧天王を生け捕り、高思継と急戦し[100]、孟截海を生け捕り、大いに王彦章を破りき。黎民を救ひ、また長安に入城し、太平を享受してふたたび京兆府にぞ臨みし。英霊を祭り、親藩は罪を悔いたり[101]。今、克用は酒を貪り、狂言を信ぜしがため、義男家将を損なへり。今、賊たちをことごとく誅戮し、公のため怨みを雪がん。諸将は縞素[102]し、わたしが哭かば、心無き草木も顔色を改めて、青山天地も面目を失ふべけん。将軍は陽世で金印を掛くることなかりしかども、冥府にては鬼兵の権を掌るべし。諸将蛮官は痛哭し、壁上の飛撾に血は消ゆることなく、階下には龍駒馬をむなしく繋ぎ、帳前には虎皮袍をむなしく掛けたり。英雄存孝は今日喪べども、力を出し功を建つることこそ多かりしか。赤心をもて国家に報い、天下を安んじ、万古に清き名を顕はせり。嗚呼哀しいかな。伏して惟へらく尚はくは饗けよ。
（正旦が唱う）
【川撥棹】父は倅をゆゑなく殺したりと言へば、家将らはいたく哭きたり。蓋世の功績は、万載に顕彰すべきものなれば、みなかれのため喪に服すべし。兵士らは跪けかし。
【七弟兄】おんみはこなたに拠りたまへかし[103]。功績を示したまひしことぞ空しき。ずしりと二本の燕撾は落ちて[104]、ひらひらと雑彩[105]の繍旗は揺れて、とんとんと画鼓[106]と征鼙[107]は叩かれぬ。
【梅花酒】おみは虎磕脳をば被り、黄驃の馬に跨り[108]、鋼の鑿を矢に挿して、花梢の弓を引きたまひにき[109]。地は寒く氈帳の冷たきことを閲すれば[110]、陣雲殺気は高かりき。こなたにてふと見れば、おみゆゑにまことに悲しや。李存孝どの。
【収江南】ああ、なにゆゑぞ帳前にむなしく虎皮袍をば掛くる。命を懸けて唐朝を立てたまひしも徒なりき。槍を横にし馬を縦らせ溪橋を過ぎたまひしも徒なりき[111]。これが結末。十八騎にて黄巣を破りしことも徒なりき。
（李克用）下役よ。李存信、康君立を霊前で捕らえ、殺してくれ。（蛮卒子が二浄を捕らえる）かしこまりました。
（李存信）阿媽、どうか憐れと思し召されて、われら二人をお許しください。
（康君立）阿媽、こたび許してくださいますなら、今度は二度といたしませぬ。
（正旦が唱う）
【沽美酒】康君立よ、汝はみづからを省みよ[112]。李存信には禍が訪れきたれり。存孝さまを欺きて仕置場に入れ、むざむざと葬り去りて、妻や家族を離散せしめど[113]、所詮は罪こそ逃れ難けれ。
【太平令】これもおまへが弱ければなり[114]。おまへを捕らへ、剮にして敲くべし。人々を集むれば、いと騒がしく、車、馬、縄を用意し、こいつを縛り、五輌の車をもて裂きて、わが李存孝さまのためにぞ報いてん。
（李克用）下役よ、二人の悪者を五つに裂け。
（蛮卒子が李存信、康君立を殺す）かしこまりました。
（李存信）殺される。（退場）
（李克用）二人の悪者を五つに裂き、わが存孝の怨みに報いたから、息子は墓の頂で官職に封じよう[115]。鄧夫人よ、おんみには良い城池を与え、老年を過ごさせよう。聴け。
李存信は賢者を嫉み殺むれば、飛虎は怨みを呑みたりき。鄧夫人は痛哭し、夫のために難に遇ひたり。康君立と存信は、五輌の車をもて街頭で裂き殺したり。黄籙大醮[116]をば設け、わが存孝を済度して昇天せしめん。
最終更新日:2007年7月22日
[1]蒙古語で肉のこと。
[2]蒙古語で「馬」の意。
[3]蒙古語であろうが未詳。
[4]蒙古語で「矢」の意。
[5]蒙古語で、「撒因」は「良い」、「答剌孫」は「酒」の意。
[6]蒙古語で「酔う」の意。
[7]「虎剌孩」「忽剌海」「忽辣海」などとも表記。蒙古語で「賊」のこと。
[8]駿馬。
[9]原文「渇飲羊酥酒」。「羊酥酒」は未詳。「酥酒」という言葉はあり、蘇軾の『泗州除夜雪中黄師是送酥酒』という詩が二首残っている。詩の全文「暮雪紛紛投砕米、春流咽咽走黄沙。旧遊似夢徒能説、逐客如僧豈有家。冷硯欲書先自凍、孤灯何事独成花。使君半夜分酥酒、驚起妻孥一笑嘩」。「関右土酥黄似酒、揚州雲液却如酥。欲従元放覓拄杖、忽有曲生来坐隅。対雪不堪令飽暖、隔船応已厭歌呼。明朝積玉深三尺、高枕床頭尚一壷」。この中に「揚州雲液却如酥」とあることから、「酥酒」は酥を加工して造る酒というよりは、酥のように白く滑らかな酒のことなのであろう。「羊酥酒」も、羊の酥を加工して造る酒というよりは、羊の酥のように白く滑らかな酒のことなのであろう。
[10]原文同じ。「雕弓」は彫刻を施した弓。「宝」は未詳。「宝弓」といえば天子の弓をいうが李克用は天子ではない。
[12]原文「十八騎誤入長安」。未詳。とりあえずこう訳す。後ろにもしばしば出てくる。
[13]原文同じ。軍鼓と思われるが未詳。
[14]文脈からして山西省のことなのであろうが、山西省は普通は「山右」という。
[15]山西省の州名。
[16]原文「俺両個也早起晩夕」。「晩夕」は「晩憩」の誤字。「夕」と「憩」は同音。
[19]原文「五百番部落胡児胡女扶持著」。「五百番部落」は未詳。
[20]原文「可正是龍虎風雲会」。「龍虎風雲」は『易』乾「雲従龍、風従虎」に典故のある言葉で、英雄が時を得ることの喩え。
[21]原文「置造下珍羞百味、又不比水酒三杯」。「珍羞百味」も「水酒三杯」以下のものぐらいにしか思わないという方向であろう。
[22]原文「他那裏剛扶剛策醺醺的酔」。「剛」が未詳。とりあえずこう訳す。
[23]原文「一壁廂動楽器是大体」。「大体」は未詳。とりあえずこう訳す。
[24]ここでは笛の音の擬音であろう。
[25]原文同じ。未詳。
[26]原文「端的是虚也波実」。未詳。とりあえずこう訳す。「也波」は襯字。
[27]原文「全不想那用人得這之際」。未詳。とりあえずこう訳す。
[28]李存孝をさす。
[29]李存孝をさす。
[30]原文「咱可便委其実」。「委其実」が未詳。とりあえずこう訳す。
[31]未詳だが、乳あるいはその加工飲料であろう。
[32]金、玉、銅、石、骨などで作った錘を兔に当てる遊び｡『元朝秘史』巻三「于斡難河氷上打髀石」に詳細な注がある。
[33]原文「別近謗俺夫妻毎甚的」。「別近謗」が未詳。とりあえずこう訳す。
[34]原文「只不過発尽児掏窩不姓李」。「発尽児掏窩」が未詳。とりあえずこう訳す。
[35]原文「官封為前部先鋒破黄巣都総管金吾上将軍」。「前部先鋒破黄巣都総管金吾上将軍」がどこで区切れるのか未詳。とりあえずこう訳す。
[36]原文「殺王彦章、不敢正眼視之」。「不敢正眼視之」の主語は王彦章、「之」は李存孝たちを指していると思われるが、前の部分で「殺王彦章」とあることとの論理的つながりが未詳。
[37]原文「著你出姓」。「出姓」が未詳。とりあえずこう訳す。
[38]原文「耍了頭也是乾浄」。「耍了頭」が未詳。とりあえずこう訳す。
[40]原文「鴉脚槍齊擺軍校」。「鴉脚槍」は未詳。とりあえずこう訳す。
[41]原文「両隻手交付与一個存孝」。未詳。訳文の趣旨に解す。
[42]神出鬼没の塀をいう。『黒韃事略』「故其騎突也、或遠或近、或多或少、或聚或散、或出或没、来如天墜、去如電逝、謂之鴉兵撒星陣」。
[43]原文「他那裏家貧顕孝子」。「家貧顕孝子」は諺。「国難識忠臣」と続く。「他」は康君立、李存信を指していると解す。
[44]原文「無正事尊親」。未詳。「無正・事・尊親」と区切り、親が正しいことをしていないときにも親を尊ぶことにつとめるという趣旨に解す。
[45]原文「著俺把各自姓排頭児問」。まったく未詳。
[46]原文「大人家踏地知根」。「踏地知根」は含意未詳。
[47]原文「前後軍捺褲摩裩」。「捺褲摩裩」は未詳。「捺胯摩腰」という言葉があり、｢胯｣を押さえたり「腰」を摩ったりする、格好をつけるという意味。これと同じか。身繕いを正すという方向か。
[48]原文「投至向衙院裏束杖理民」。「束杖」が未詳。
[49]原文「暢好是不依本分」。「不依本分」が誰のことをいっているかが未詳。李克用のことを言っているようにも思われるが、だとすると李克用が理不尽なことをしているという方向か。
[50]原文「孛老児同小末尼上」。「尼」が未詳。衍字と解す。
[51]原文「更打著這入衙来不問諱的喬民」。「問諱」が未詳。とりあえずこう訳す。
[52]原文「暢好背晦也蕭丞相」。「蕭丞相」は蕭何。蕭何は、法律家の代名詞。『漢書』刑法志「於是相国蕭何攈摭秦法、取其宜於時者、作律九章」。ここでは李大戸を取り調べる李存孝の喩え。
[53]女真語の罵語。「死んじまえ」の意味。
[54]卒子に向かって話しているものと解す。
[55]劉夫人をさす。
[56]原文「這公事何須的問」。「公事」は罪人の意に解し、李存孝のことをいったものと解す。
[57]原文「到岸方知水隔村」。未詳。実地に調べるとはじめて事情が明らかになるという趣旨か。
[58]原文「我道孩児無這等勾当」。「這等勾当」は李存孝が姓名を改めるようなことを指していよう。
[59]原文「半紙功名百戦身、転頭高塚臥麒麟」。元好問『雑著』「半紙虚名百戦身、転頭高塚臥麒麟」。「半紙功名」は価値のない功名ということであろう。なお、「高塚臥麒麟」という言葉は、杜甫『曲江』「江上小堂巣翡翠、花辺高冢臥麒麟」。
[60]原文「全憑著這福神」。「福神」は劉夫人の喩え。
[61]原文「可与你那争潞州冤仇証了本」。「証了本」が未詳。とりあえずこう訳す。
[62]原文「此是実」。未詳。とりあえずこう訳す。
[63]原文「腸裏出来腸裏熱」。実の子が可愛いことをいう諺。
[64]原文「我是四海与他人」。「四海与他人」が未詳。とりあえずこう訳す。
[65]『元曲釈詞』は火源潔『華夷訳語』通用門「不曰兀禄、知曰篾迭」を引き、蒙古語で「知らない」の意と解している。「五裂」が「兀禄」と同じで「ない」、「篾迭」が「知る」の意と解釈しているのであろう。とりあえず、これに従う。
[66]原文「嬌妻暗想身無主、夫婦恩情也断腸」。「腸」には実際上の意味がないと解す。「腸」の字があるのは押韻の関係。
[67]山西省の州名。
[68]未詳。正史に一箇所見える。陝西省辺りの地名か。『宋史』巻四百五十三・張［玉巳］「［玉巳］陳兵華厳川、俄白気貫日、吏士驩奮、戦于興平、咸陽、渭河、石鼈」。
[69]原文「旌旗日影龍蛇動」。「旌旗日影」が未詳。日の模様の入った旗か。「龍蛇」は矛、戟などの武器。
[70]冥府の死者。死に神。
[71]まむし。
[72]まむしとさそり。
[73]原文「至死也無対」。「無対」が未詳。とりあえずこう訳す。
[74]原文「今日個一樁也不借」。「借」が未詳。とりあえずこう訳す。
[75]冬用帽子。
[76]原文「尽在来人是与非」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。「来人」は使者。
[77]『佩文韻府』引『癸辛雑識』「宋江三十六賛解宝」。
[78]春秋時代楚の令尹孫叔敖が幼時両頭の蛇を埋め、陰徳を積んだ話が『賈誼新書』巻六、春秋に見える。「孫叔敖之為嬰児也、出遊而還、憂而不食。其母問其故、泣而対曰、今日吾見両頭蛇、恐去死無日矣。其母曰、今蛇安在。曰、吾聞見両頭蛇者死、吾恐他人又見、吾已埋之也。其母曰、無憂、汝不死。吾聞之、有陰徳者、天報以福。人聞之、皆諭其能仁也。及為令尹、未治而国人信之」。
[79]李存孝をさす。
[80]原文「阿者休波」。未詳。とりあえずこう訳す。これ以上、李存孝の悲惨な最期について質問するのはおやめなさいといっていると解す。
[81]原文「則聴的喝一声馬下如雷烈」。「馬下」が未詳。とりあえずこう訳す。
[82]『佩文韻府』引文同雨詩「寒鳩劬劬屋上鳴」。
[83]原文「一個扶著軟肋裏撲撲撲的撞到五六靴」。「扶」が未詳。肋骨の脇にある腕をばんざいさせて、肋骨を蹴ることを述べているか。
[84]原文「又不曽点紙節」。「点紙節」は「点紙」とも。契約書などの重要文書に、署名捺印のほかに、正面に幾つかの墨点を記し、背面に暗号を書くこと。
[85]後世の羅貫中『残唐五代史演義伝』第十六回の回目が「存孝火焼永豊倉」。長安付近の食糧庫。
[86]原文「叫道是打打俫俫」。「打打俫俫」が未詳。とりあえずこう訳す。
[87]「縷金」は金の象嵌。「画面」は未詳だが、表面に彩色を施していることであろう。
[89]原文「存孝也、則你這一霊児休忘了陽関大道」。「陽関大道」は、『漢語大詞典』に、「泛指康荘大道」とするが、なぜ李存孝に向かって「休忘了陽関大道」と呼びかけているのかが未詳。
[90]ここでは浮動するさま。
[91]原文「你可休冥冥杳杳差去了」。「差」が未詳。衍字か。
[92]原文「你可道不著落保、到頭来須有個帰著」。「不著落保」が未詳。とりあえずこう訳す。
[94]螭虎は角のない龍という。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』五百九十四頁参照。螭虎帯は螭虎をバックルにあしらった帯であろう。
[95]以下二文字缺。
[96]亡き息子。
[97]原文「愛将不及三合」。「愛将」は未詳。
[98]『孫子』九地の説く陣形の一つ。常山之蛇。蛇のように軍勢を一本の棒のように長く布陣する陣形。『孫子』九地「故善用兵者、譬如率然、率然者、常山之蛇也、撃其首、則尾至、撃其尾、則首至、撃其中、則首尾倶至」。
[99]陝西省の県名。
[100]原文「病戦高思継」。「病戦」は未詳。「疾戦」「急戦」の意に解す。
[101]原文「親藩悔罪」。「親藩」は未詳。
[102]喪服を着ること。
[103]原文「你兀的拠著」。「拠著」が未詳。とりあえずこう訳す。
[104]原文「沈黙黙両柄燕撾落」。「燕撾」は武器と思われるが未詳。
[105]五色の彩りをいう。
[106]未詳だが、彩色を施した太鼓であろう。
[107]未詳だが、軍鼓の一種であろう。鼙は馬上で鳴らす鼓。
[108]原文「馬跨著黄驃」。「黄驃」は未詳だが、「驃」は黄に白い斑のある白鹿毛の馬をいうので、白鹿毛の馬のことか。。
[109]原文「弓控著花梢」。「花梢」は未詳だが、「梢」は弰、ゆはずのことで、「花梢」は模様を施されたゆはずのことであろう。
[110]原文「経了些地寒氈帳冷」。「地寒氈帳冷」は典故がありそうだが未詳。「氈帳」は毛氈の帳。
[111]原文「枉了你横槍縦馬過溪橋」。「横槍縦馬過溪橋」は基づくところがありそうだが未詳。
[112]原文「康君立你自道」。「自道」は「みずからを思う」ということで、「自省」の意に解す。「自省」となっていないのは押韻の関係。
[113]原文「摔砕了我渾家大小」。「摔砕」が未詳。とりあえずこう訳す。
[114]原文「也是你争弱」。「争弱」が未詳。とりあえずこう訳す。
[115]原文「将孩児墓頂上封官」。官位を追贈するのであろう。
[116]道教で行う追善の儀式。黄籙斎。胡孚琛主編『中華道教大辞典』五百十二頁参照。『資治通鑑』唐紀「僖宗光啓三年、与鄭杞董瑾謀、因中元夜邀高駢至其第、建黄籙斎」注「黄籙大斎者、普召天神地祇人鬼而設醮、追懺罪根、冀升仙界、以為功徳不可思議、皆誕説也」。
