第七回

老夫人が息子を愛して娼婦を受けいれること

旦那さまが親を棄てて難を避けること

 

幾年(いくとせ)も子と離れ、

隔つるは三千里、

親は子を待ち、痩せこけた顔となる。

今やつと顔を合はせてみたものの、

        ふたたび人に引つ張らる。

心配な事がありとも、

仲を取り持つ人あらば、

切なき気持ちになることはなし。

親に安否を尋ねぬうちに、

にはかに手紙が届きたり。

狼煙は激しく燃えさかり、

軍鼓は遠くで響きたり。

責任はなしといひ、

忠誠心を顧みず。

ほととぎす[1]つれにして、

野鴨[2]とともに、

親を棄てさり帰りゆく。

右調《行香子》

 晁大舎は、珍哥としばらく騒ぎました。小間使いは、奥の間で、小さなテーブルを、熱い炕の上に置き、ご飯を並べ、食べていました。すると、小間使いがあたふたと走ってきて、言いました。

「たくさんの鼠が、あの赤猫の籠から、ご飯を盗んで食べようとしております」

晁大舎「とんでもないな。あの猫はどうしているんだ」

下女「猫はどうしたわけか、目をしょぼしょぼさせて眠っております」

珍哥「仏さまの猫は、足元にいる鼠とは喧嘩をしないのですよ。十里離れた鼠なら死んでしまうのでしょうがね」

さらに笑いながら

「私も、昔、この赤猫が自然のものだと思いましたよ。一昨年、蒋さま[3]の家にゆきますと、あの白い獅子猫が走ってくるのを見ましたが、日に映えて、血のように赤かったので、とても珍しいものだと思いました。蒋太太は笑いながら『この猫が珍しいと思うかえ。』。蒋太太も私を騙し、外国から来たものだと言いました。私は信じてしまいました。後にあの人の下女たちに会ったとき、私はこっそり尋ねました。下女たちは言いました。『太太はあなたを騙されたのです。あれは茜の顔料です。お信じにならなければ、奥の亭に見にゆかれてください、たくさんおりますから』。周姨は言いました。『奥へ行って御覧になってください』。亭に行ってみますと、本当にたくさんいました。赤やら緑やら天藍[4]やら月白[5]やら紫のやらが、十二三匹、日に照り映え、とても綺麗でした。私は言いました。『周さん、赤いのを下さい』。周さんは言いました。『旦那さまが出てこられたら、一匹取ってさしあげましょう』。話をしておりますと、蒋さまがやってこられました。周さんは言いました。『珍哥が旦那さまに赤猫を下さいと申しております』。蒋さまは言いました。『これは大変なものなのだぞ。珍哥にやれだと。銀一二千両の物を人にやれだと。珍哥が二万幕の劇を上演してくれるのなら、一匹やることにしよう』。私は言いました。『下さらなくて結構ですよ。私が二分の銀子の茜を買えば、白い猫を買い、赤く染めることができますからね』。蒋さまは、周りを見ながら、笑って尋ねました。『おまえは珍哥に話したのか。』。周さんは『とても暇でしたので。話を致しました』といいますと、私に目くばせをし『本当に欲しければ、旦那さまにお礼をおっしゃってください』。私は叩頭し、赤いのを手にとり、外に出ました。すると、蒋太太が尋ねました。『何をする積もりだえ。猫を持って飛ぶように走ってゆくなんて』。私は言いました。『旦那さまがくださったのです』。外にもってゆき、箱を担ぐ人に命じ、家に送らせました。人々はそれを見ると、とてもめずらしがりました。ところが、正月のあと、三四か月の間に、毛が抜け、白猫に変わってしまいました。去年、蒋さまは私に会われたとき、尋ねました。『おまえはわしの赤猫をもっているか。』。私は言いました。『よそ様の白猫と交換致しました』。鸚哥についても、私には経験があります。花屋で、三銭の銀子で、一羽買いましたが、口はまだそれほど桃色にはなっていませんでした。私は、家の軒下にさげていたのですが、鸚哥は、毎日客が来ると、人が『小間使いや、姉さんは水を欲しがり、兄さんは例のことをしようとしているよ』といっているのを聞いていました。鸚哥は毎日それを聞きますと、話せるようになりました。人の姿を見ると、彼はその前で『小間使いや、姉さんは水を欲しがり、兄さんは例のことをしようとしているよ』と叫び、毎日この調子でした。劉海斎がやってきたときは、またもやこう言いました。『小間使いや、姉さんは水を欲しがり、兄さんは例のことをしようとしているよ』。劉海斎はとても喜び、まとわりつき、ほしいと言いました。私は与えないでいますと、彼はいいました。『一匹の生紗[6]を加えよう』。私は交換しました。彼は家に持ち帰ると、部屋の軒下に掛けました。彼の舅が家にやってきますと、鸚哥は叫びました。『小間使いや、姉さんは水を欲しがり、兄さんは例のことをしようとしているよ』。彼の姑は、恥ずかしくて顔を真っ赤にしました。しかし、鸚哥は、叱りつければ叱りつけるほど叫びました。劉海斎がやってきますと、彼の姑は『はやくこいつを遠くにもっていっておくれ。まったく憎たらしいよ』と言いました。そこで、劉海斎は、客間の軒下に鸚哥を掛けさせました。その後、彼の家で宴会が催され、人が来ましたので、鸚哥をしばらく喋らせますと、人々はハハと笑いました。劉海斎は、人を遣わし、鸚哥を私に返し、驢馬をかえしてくれ、生紗は私にくれると言いました。私はいいました。『あの驢馬は売ってお金にしてしまいました。お返しできません』」

晁大舎「その鸚哥はどうなったんだ」

珍哥「ある日、私が家にいなかったとき、真夜中に誰も鸚哥を部屋に入れなかったため、すっかり凍えてしまいました。すると、楊古月がいいました。『体はまだ暖かいですから、治してさしあげましょう』。酒杯で九味羌活湯[7]を温めて飲ませ、古いネッカチーフで包み、炕の上におき、放っておきました。日が西に傾くと、ネッカチーフが動きましたので、あけてみますと、生き返っていました。ところが、数か月後、楊古月が家で膏薬を煮ているときに、窒息死してしまいました」

そう言いながら、食事をとり、家具を片付けました。

 さて、晁老人は、晁大舎が二十五日にお参りをしてから、二十六日に任地に戻ってくることができると思っていましたが、二十七日を過ぎてもまだやってきませんでしたので、夫人に向かって言いました。

「源児は都で何か悪いことをしたから、今日で二十七日になったというのに、まだ戻ってこないのだろう。人から脅迫されるようなことがあったら大変だ」

晁夫人は深く溜め息をつくと

「他でもありません。風の噂ですが、家に役者を娶ったため、今ではまったく嫁を相手にせず、嫁は怒って死にそうになっているということです。役者を娶ったので、私たちに知らせる勇気がなく、都に住まわせているのでしょう」

晁老人「誰がそんなことを言っていたのだ」

夫人「誰も私たちには言いません。下女たちがこっそり喋っていたのを、私が小耳に挟んだのです」

晁老人「そんなことがあるものか。あれの嫁は手強いから、あれがそんなことをするのは許すはずがない。信じることはできん」

晁夫人「よくおっしゃいますね。皇帝が凶悪であれば、人民は軟弱になりますが、人民が反抗すれば、皇帝だってどうしようもないのですよ」

晁老人「本当であれば、役所に迎えずばなるまい、外に住まわせてどうするのだ」

夫人「ご自分でお考えになってください。しかし、嫁は私たちに腹を立てますよ」

晁老人「そんなことは構わず、人をやりし、宿屋の片付けをさせ、明日迎えることにしよう」

翌日の朝、晁鳳に一通の手紙と、百両の銀子を持たせ、急いで都に行かせました。その手紙には、こう書いてありました。

わしは晩年に生まれた一人息子のおまえと遠く離れて住んでいるが、おまえが朝晩親の言うことを聞き、我々二人の晩年を楽しませてくれることを望んでいる。都に何があるというのだ。大晦日も近いというのに、まだ都が恋しいのか。おまえは来るとき、側室を連れてきたということだが、どうしてすぐにわしに知らせず、外地に仮住まいさせたのだ。おまえには双方に気遣いをする苦しみを与えてしまった。今度、人を遣わし、おまえと側室を任地に迎え、一緒に住まわせることにしよう。おまえを咎めたりはしない。雑費が掛かるだろうから、百両を贈ろう。査収してくれ。晁鳳にまず報告をさせることにする。父より源児へ。

 晁鳳が手紙と品物をもち、役人用の馬に乗り、都に入り、晁大舎の宿屋までゆきますと、門は閉まっていませんでした。晁鳳がまっすぐ中に入りますと、珍哥は深緑の雲緞[8]の錦の袷、空色の緞子のチョッキ、真紅の緞子のズボンを着け、スカートを穿かずに、晁住の娘と、中庭で羽蹴りをして遊んでいました。彼女は、晁鳳を見ますと、飛ぶように部屋に走ってゆきました。晁大舎は、ちょうど裏の部屋から出てきました。晁鳳は叩頭をしました。

晁大舎「俺はちょうど任地に戻ろうとしていたのに、お前はどうしてまたやってきたのだ」

晁鳳「旦那さまを待っていたのに、戻ってこられなかったため、大旦那さまが、私に旦那さまと珍哥さまを迎えにゆくように命じられたのです」

晁大舎は小声で尋ねました。

「お父さまやお母さまは、どうして珍哥がいることを知っているのだ。だれが話したのだ」

晁鳳「大旦那さま、大奥さまがどうして知られたのかは存じません。今朝、私を遣わし、迎えにこさせたのです。旦那さまをすぐに帰らせるように、先に報告をするようにとのことでした。大旦那さまの手紙があり、さらに二封の銀子もございます」

そう言いながら手渡しました。

 晁大舎は、手紙を開き、見てみますと、手紙には、とても自分のことを心配しているということが書かれていましたので、少し申し訳ない気がしました。そして、すぐに酒とご飯を準備し、晁鳳に食べさせ、報告のために先に彼を帰らせることにしました。さらに、人夫と馬を雇う準備をし、珍哥とともに、翌朝出発し、通州へゆこうと思いました。晁鳳が食事をとりますと、彼に三百銭、晁老人への手紙を与え、こう書きました。

申し上げます。私は人でなしの行いをしましたので、お父さま、お母さまにお知らせるわけには参りませんでした。しかし、お父さま、お母さまがお咎めにならないのでしたら、明日、妾とともにお父さま、お母さまにご挨拶を致します。ただし、私は奥ではなく、東の屋敷の書斎に住みたいと思います。すぐに掃除をさせていただけないでしょうか。銀百両はすでに受けとりました。息子源より

 晁鳳は、その日の灯点し頃に役所に戻り、晁老人夫婦に報告をし、晁大舎と新しく娶った妾が明日やってくるので、東の屋敷の書斎を掃除させ、彼らを住まわせましょうと言いました。

晁夫人「おまえは新しい妾に会ったのかい」

晁鳳「私が中に入りますと、その新しい妾は、ズボンを穿き、晁住の嫁と羽蹴りをしていました。そして、わたしを見ますと、家の中に走りこんでゆきました」

夫人は尋ねました。

「どんな顔をしていたかね」

晁鳳「奥さまは御覧になったことがございます。あの女劇団の中で正旦に扮していた小珍哥です」

晁夫人は尋ねました。

「あの劇団にはたくさんの女がいたから、どれだか思い出せないが」

晁鳳「吉夫人が奥さまのために送別をしたときに、彼女は紅娘[9]に扮しておりました。その後、雑戯を選んだときは、陳妙常[10]に扮しておりました。奥さまは演技がうまいとおっしゃり、彼女に二本の汗巾、三銭の銀子を与えられ、彼女はあらためて、夫人のご褒美へのお礼を述べていたではありませんか」

晁夫人「ああ、あの女か。なかなか美人だったじゃないか」

晁老人はそれを聞くと

「何ということだ。あの女か」

晁夫人「彼女なら、まあいいでしょう。なかなか活発な娘でしたよ。あなたもきっとご覧になっているでしょう」

晁老人「わしは見たことはないが、名前を聞いたことがある。あれがどんな人間だと思う。あれは、昔、合格したばかりの挙人を腹上死させた女だ。樊庫吏は彼女を囲ったため、女房が首を吊り、告訴された。あれはまともな女ではない。あんな女を娶ってどうするのだ」

晁夫人「私たちの家に来れば良くなるでしょう」

晁老人「しみついた性格は、すぐには改めることはできないものだ」

晁夫人「あの女は色気があって賢いのですから、心配することなどございません」

晁老人「劇を演じさせるのではないのだから、色気があって賢いことは必要ない。どうりで嫁は彼女をおさえつけることができず、屈服させられたわけだ」

さらに言いました。

「すぐに東の書斎を片付けさせろ」

その夜のうちに表具師を呼び、天花板、窓に紙を貼り、左官屋を呼び、炕を造り、翌日の夕方まで大騒ぎをしました。

 さて、晁大舎は、父親の手紙を見ますと、すぐに準備をし、珍哥とともに、役所に帰ろうとしました。珍哥はもたもたとして、出発するのが嫌そうでした。晁住もさんざん邪魔をし、珍哥に、役所に入らないように、影で唆し、晁大舎に向かって言いました。

「役所の中はとても狭いのですから、人が増えれば、住むことはできないでしょう。一碗のご飯を食べるにも、不便です。私の考えですが、やはり旦那さまが一人で行かれ、正月と元宵節を過ごされから、来られれば宜しいでしょう」

晁大舎「狭いといったが、あれは珍哥を騙していたのだ。役所はとても広い。東の書斎は、我々がいってもいっぱいにはならないほどだ。食事が不便なら、特別に作らせて食べることにしよう。うちには使用人が少ないからな」

晁住はさらに言いました。

「国子監での勉強は、まだ終わっていないのですから[11]、旦那さまは、これからも都に住まわれなければなりません。みんなが行ってしまえば、旦那さまもお寂しいでしょう。珍哥さまが役所に入られれば、出てくることはできませんからね」

珍哥「この人の言うことは尤もです。あなたがゆかれなければ、私は参りません」

晁大舎「何を言っているんだ。正月には、お父さま、お母さまが迎えにこなくても、我々は挨拶しにゆかなければいけないんだ。お父さま、お母さまが人を遣わされ、銀子を旅費としてもってきたというのに、理由をつけてゆかぬわけにもいかんだろう。元宵節が過ぎてから、おまえと戻ってきても遅くはない。この家は引き払わず、あらゆる物にきちんと封印をし、門番に見張らせることにしよう」

珍哥、晁住は、心の中では乗り気ではありませんでしたが、腹の中の怒りを、黙って口にしないことにするしかありませんでした。

 翌朝、二十九日に、二台の大轎と、たくさんの騾馬で、通州に着き、役所に入りました。珍哥は轎からおりると、真紅の通袖[12]の衫、白綾の顧繍[13]の連裙[14]、頭一杯のかんざしをつけ、中庭に行きました。そこでは、晁老人夫妻が腰掛けていました。晁大舎は、まず挨拶をしました。珍哥は、進み出て八回の拝礼をし、靴と枕[15]を渡しました。晁老人が珍哥を見てみますと、

美しき顔、すつきりと弥生の柳の花のやう。聡き性、澄みきつて九華の蓮の根のごとし。下界におりし褒女以でなけれあ、呉王を惑わしたる西施。妲妃の生まれ変わりでなけれあ、董卓を騙した貂蝉。信じずば、目を擦り眉を立て、彼女をとくと御覧あれ。

 晁老人夫婦は、このようなめかし込んだ、落ち着きのない若い娘を見ますと、眉を潜め、顔を暗くし、深く浅く溜め息をついて喜びました。珍哥が拝礼を終えますと、晁老人夫婦は、二両の拝銭[16]を与え、珍哥とともに東の屋敷に送り返しました。珍哥は、舅姑があまり喜んでいないと思い、楽しそうではありませんでした。

 晁大舎は、翌年の正月二日になりますと、都に入ろうとし、三日の仕事始めまでに、国子監の先生と蘇錦衣、劉錦衣に新年のお祝いをしようとしました。そのとき、梁生、胡旦も官職を得て、それぞれの部署で下役をしていました。彼らは、晁大舎とは通家兄弟のように付き合っておりましたので、真っ先に彼に挨拶をしようとしました。そこで、人夫と馬を選び、出発して都に入り、ふたたび旧宅に行き、泊まりました。晁大舎は、珍哥とお熱い仲でしたが、珍哥ばかりでなく、小間使いや下女も一人もおりませんでしたので、とても寂しく、晁住に、国子監の前の馴染みの女を迎えるように命じ、彼女を晁大舎に付き添わせ、数日を過ごしました。晁大舎は、外に挨拶にゆくときは、やはり晁住を残し、家で番をさせました。

 十日になりますと、晁大舎は礼物を買い、衣装を二揃い、四両の腕輪を一揃い作り、八両の銀子を包み、女を送り返しました。そして、すぐに通州に戻り、飾り提灯を掛け、爆竹をならし、珍哥とともに元宵節を過ごしました。二月の花朝[17]の後には、都へいって国子監に入ろうとし、さらに、西山に遊びにゆこうとも思いました。そして、二月十九日を選び、都へゆき、国子監の前の女を迎え、住まわせました。

 ところが、二月の終わりになりますと、也先に関する辺境からの報せが、日一日と厳しいものになりました。城夫[18]を選び、牌甲[19]を編成し、間諜を探しました。戸部は兵糧を集めました。工部は火器、懸簾[20]、滾木[21]を準備し、鎧兜を検査し、武器を磨き、城壁を修理しました。吏、兵の二部は、文武の役人を派遣し、城門を守らせ、軍門[22]に軍務を行わせ、団営[23]の人馬を訓練させました。五城兵馬司[24]と宛、大両県[25]では街道の通行を止め、柵を造り、とても物々しい有様でした。城門は早く閉じられ、遅く開けられました。

 王振は、教官の出で、子も孫もいました。彼は正統帝に天子自らの出征を勧め、天子の偉大な徳を頼りにして、也先を殺し、功績をたて、自分の息子を諸侯にしようとしました。大臣たちは、年をとったものも若いものも諫めました。晁大舎は、もともと世間知らずで、何が「忠孝」であるかも分かりませんでした。彼は、物々しい有様を見ますと、君主はもちろん、親すらも顧みず、怯えておならや小便を漏らしながら、宿屋に駆け戻り、国子監の入り口の女を送りかえし、大事な荷物を纏めました。そして、十数両の銀子を使い、城門を開けさせ、通州に向かいました。風のように役所に入りますと、父母に会いましたが、曹操の酒席に顔良[26]のことを報せた斥候のように、はっきりと話しをすることもできませんでした[27]。彼は父親と母親を捨て、銀子をくるみ、珍哥を連れて帰るつもりでした。

晁老人「もしそうなら、役人などやってはおれん。すぐに辞職を告げる文書を送ることにしよう。許しが出なければ、有罪になるのを覚悟で、官職を棄て、逃げ帰るまでだ」

そもそも晁大舎は、自らを犠牲にしてまでして父母とここにいるつもりはありませんでした。敵を防ぎとめることができなければ、柳州城に身を置くことになるからでした[28]。しかし、父親が官職を棄てるのを承知する積もりもありませんでした。万一何ごともなかったら、自分が使う金を父親に稼いでもらうことができなくなるからでした。そこで、とにかく自分は故郷に帰り、高見の見物をしよう、老いた父親はここに置き去りにし、危険な目に遭わせるしかないと考えました。しかし、そのことを口には出しませんでした。

晁老人「よく考えてみれば『三十六計、逃ぐるに如かず』だ。也先がこなかったら、わしは捜索を受け、充軍[29]か死刑に問われるだろうが、全部で数千の銀子を使えば、何ごともないだろう。銀子を使うことができなくても、刑部でじっとしている方が、也先に首を切られるよりましだ。やはり一家で荷物を纏めて帰るのがいいだろう」

晁大舎も承知しました。

 晁老人は、当該部署に辞職の文書を作らせ、おもての書斎に行き、幕賓の邢皋門と相談をし、上申書の原稿を書かせ、文書に添付しようとしました。邢皋門は、ちょうど袁山人と将棋をしており、晁老人がやってきたのを見ますと、手を休め、ゆったりと腰を掛けました。そして、このところ也先が辺境に侵入していること、天子自らの出征が要請されていることについて、みんなで話し合いました。

邢皋門「ここ数日は、天文の様子がとてもよくありませんから、天子様は軽々しく動かれるべきではありません。欽天監は、上奏文を提出するでしょうし、群臣たちも諫めるでしょうから、天子さまはきっと動くことはできないものと思われます」

晁老人「司礼監の王さまがしきりに勧めているから、天子様をお引き止めすることはできないだろう」

邢皋門「天子さまの御心がすでに決まっているのであれば、これも運命で、どうしようもないことです」

晁老人「毎日持病の発作が起こっているから、命がとても心配だ。断然、辞職を告げて帰ることに決めたぞ。すでに当該部署に、文書の原稿を作らせている。さらに上申書を出し、やむを得ぬ事情を書くことにしよう。皋門さんが原稿を書いてください。ぐずぐずしていてはいけないから、とりあえず明日に送ることにしよう」

邢皋門は微かに笑うと

『もし私がここから逃げたら、殿さまは誰と一緒にここを守るのか。』[30]とはこのことです。私はくわしく天文を観察しましたが、天子さまが軽々しく外に出られるのが良くないというだけで、それ以外には、大したことはありません。それに歳星[31]がちょうど通州の分野にありますので、通州は磐石のように安泰です。辞職をしてどうなさるのです。災いに瀕して責任を放棄するのは、いけないことであるばかりでなく、人々から品性が下劣だと思われます。安心してお仕事を続けられてください。どうか私にいろいろとお尋ねになってください。私があたふたしだしてから、老先生が逃げられても遅くはないでしょう」

晁老人は、どうしても承知しようとしませんでした。そして、邢皋門が上申書の原稿を作らないのをみますと、晁大舎に辞職の本音を隠した稟帖を作らせましたが、文章はまったく下手くそでした。順天府、撫院、関院[32]、屯院[33]に上申したものの、邢皋門には知らせませんでした。これら上級官庁は、文書に批評を加えましたが、おおむねあまり良いことは書きませんでした。関院は、雲南の人で、姓を紀といい、挙人出身、進士のような権勢はありませんでしたが、大変率直な批評を加えました。それは以下のようなものでした。

おまえは華亭知県から通州知州に昇任したが、何のために知州になったのだ。平和なときは何も言わなかったくせに、急に病と称し、何のために去ってゆくのだ。国家が多難で、外敵が国内にいるというのに、重病であると嘘をつき、逃げようとするとは何事か。このような心掛けでは、品行方正であるとはいえぬ。即刻お上の視察を仰ぐことにしよう。本官の弾劾状に利き目がないと思ってはならんぞ。ここに交付する。

 邢さんは晁老人が二度と辞職のことを口にしなかったので、諫言が受け入れられたのだと思いました。ところが、晁老人は邢さんには内緒で、あらゆる方面に文書を申請していたのでした。しかし、晁老人は、関院の命令を得ますと、自分が帰ろうと思う心を抑え、晁大舎と珍哥だけを帰らせる準備をしようとしました。

 ある日、晁老人が邢皋門、袁山人、息子の晁源とともに、座って話をしていますと、役所の入り口の拍子木が叩かれ、兵備道[34]の文書が届けられました。開けてみますと、中には、半分の真っ白な連四紙[35]が入っており、翠藍の模様の縁取りに、真っ黒な楷書で、大きな赤い判、真四角の印が押してありました。読んでみますと、そこにはこう書かれていました。

陛下によって派遣され、通州等の場所を治め、漕糧、屯田、駅伝を兼任する山東按察司副使許が、口実を設けて職責を逃れることを責め、役人を鼓舞することについて。

本年三月八日、陛下の命をこうむり、直隷等の地を巡按し、もっぱら防衛の事務を処理し、将軍を調べることを司っていた。監察御史紀は以前このような文書を発した。『平和な境遇に身を置くことは、君子の深く愁えることである。苦難の境遇は、最高の賢者が修練をする場所である』と。昨今、辺境からの報せが頻繁に届いているが、まさに忠良な者が奮励努力する機会、君主と臣下が恥辱を憂えるべき時である。鶏の鳴き声を聞いて勇躍し[36]、敵を滅ぼすのは[37]、まさにこの時である。通州知州晁思孝は、平和なときに着任したが、そのありさまは蟻が生臭い肉につくときのようであった。しかし、変事に遭遇して逃げるさまは、あたかも兎がすばしこさをひけらかすときのようである。先頃、彼は勝手に仮病を使い、急に辞職を請うた。上申書に対し、すでに厳しく戒告を行ったが、さらに訓戒を行うべきである。そこで晁思孝に文書を送り、文書の通りに事務を行わせ、晁思孝が心を奮い起こして、妄念をのぞき、心を込めて城を守り、失敗をもたらさないようにと命じた。彼が命令に従えば、わしは彼がした悪事を咎めないばかりでなく、彼が改心したことを褒めることにする。しかし、晩の空気が決して朝の空気のようにならないように、懦弱な心を奮い起こすことができないのであれば、本官は捕縛、尋問を行い、その後で上奏を行う。これは心から出た言葉だから、後悔することがないようにせよ。着任したら、文書を奉じて訓戒を行う。この文書の通りに事務を行うように。風雲が急を告げている時、すみやかに外交上の談判で国威を輝かすべきである。これ以上、山中に隠居する気持ちを起こし、弾劾状を書かれるようなことがあってはならない。本官は忠告する、文書の通りにとりはからえ。

 晁知州は、この文書を見ますと、二つの頭蓋骨を真っ二つにかち割られ、盆に持った氷を注がれたかのように、びっくりしてへたりこみ、しばらく話しをすることができませんでした。邢皋門は、晁知州が自分に内緒で文書を上申し、辞職を告げたことを知りましたが、何とも思いませんでした。しかし、晁老人は孟子に対してひどく恥ずかしい気がしました[38]。ほかの災いはいざ知らず、この関院のお咎めに関しては、心が釣瓶のように、落ち着きませんでした。

 不愉快なことは、一つでは終わらないものです。晁大舎とともに旅装をととのえ、轎と馬に刷毛を掛け、三月十六日を選び、珍哥とともに陸路を通って帰ることにしたところ、華亭県にいたときに使っていた下役の家族、一人は宋庫吏の弟宋其仁、もう一人は曹快手の子曹希建が、役所の入り口にやってきて、言いました。

「折り入って申し上げたいことがございます」

晁老人親子は、しばらく考えてから、役所の門を開け、彼らを中に入れ、会いました。二人は叩頭を終えると、言いました。

「正月に、江院[39]が松江に立ち寄られたとき、大勢の人民が、庫吏の宋其礼、快手の曹一佳、並びに旦那さまの秘書の孫商、執事の晁書を、役所に告発しました。江院は告訴状を批准し、蘇松に命じ、松江の理刑[40]の陳さまに批評を送り、宋其礼、曹一佳を監獄に入れ、五日に一回比較[41]を行い、孫書吏、晁執事を捕らえようとしました。彼ら二人は、一生懸命罪を背負おうと思っていますが、多分すべての罪を背負うことはできないでしょう。公文書が現在の任地に送られ、手配が行われれば、事件はおさえることができなくなってしまうでしょう」

 晁知州は、それを聞きますと、泣きっ面を蜂に刺されたときのように不愉快になり、尋ねました。

「郷紳、挙人たちには、出てきて公正なことをいった者はいなかったのか」

宋其仁「人民たちは大勢で、旦那さまが、以前、あの地で彼らを苦しめたのは、郷紳、挙人たちに唆されたからだと言いました。すると彼らは郷紳、挙人たちを威嚇し、『おまえたちが出てきて俺たちを押さえ付けなければ、我々は我慢しよう。おまえたちが出てきて向こうの味方をするなら、俺たちは、ここ数年間に人民に危害を加えた罪を、上申書にして提出することにするぞ』。ですから、郷紳、挙人たちは遠くに逃げてしまい、出頭しようとしないのです」

 晁知州は尋ねました。

「秀才たちは、出てきて何も言わなかったのか」

宋其仁「秀才はまず回覧板を送り、上呈書を作り、江院に送ろうとしました。さいわい、二人の首貢、次貢[42]の生員が人々を宥め、いいました。『我々は読書人だから、体面を重んじなければいけない。子弟が父母官を告訴するのは、薄情なことで、告訴をしてうまくいっても、我々の名声に傷がついてしまう。告訴がうまくゆかなければ、もっとひどいことになる。『先任官は、後任官の目』[43]というからな。現任の父母官が我々を人間扱いしなかったら、告訴状をだすことにすればいいだろう』。人々『私たちは公憤でものを言っていますが、あなた方二人は私情でものを言っています。告訴をやめることはできません』。喩相公が言いました。『私は公正に話をしているのであって、私情などはありません。あいつは私の土地を他人に与える判決を出し、租税を納めるよう私に迫り、私が家にいないときに、家の女たちをすべて監獄に送りました。これ以上腹立たしいことはありません。張さんだって、お父さんがならず者に辱められたとき、原告、被告それぞれ銀十五両の罰金に処せられました。そのならず者は、下役に数両の銀子を与え、告訴を受けた家が貧しくて納めることができないと上申しましたので、すべて原告に対して追及が行われたのです。さいわい刑庁[44]の巴四府が執り成しをし、二十両を免除しました。そうでなければ、あの年は凶作でしたから、張さんは身売りをしたとしても、三十両の銀子も納めることはできなかったでしょう』。張さんは言いました。『もうその話しはやめにしよう。胸が痛くなるからな』。彼ら二人がここまで喋ると、人々はこう言いました。『喩さん、張さんは老成された方で、お考えはご尤もですから、我々はおとなしくすることにしましょう』」

 晁知州「喩秀才、張秀才とは誰だったかしら」

宋其仁「これはおかしなことを。すっかりお忘れになったはずはありますまい」

晁知州「華亭にいたとき、正直にいって、そのようなことはたくさんあったから、どれだったかわからないのだ。しかし、おまえたち二人は、何のためにきたのだ」

宋其仁「すぐに権力のある人の文書をお求めになってください。曹一佳と宋其礼の二人は罪を免れることはできません。彼らは、どうせ華亭に住むことはできないのですから、充軍になり、人々の恨みを濯ぎ、人々の目から離れた方がいいでしょう。取調べ官に悪いことを言ったり、拷問に掛けたりしないように頼み、孫書房と晁執事の捕縛の告示が出ないようにするしかありません」

晁知州は眉をしかめますと、黙ってしまいました。

 晁大舎「大したことではない。『天が崩れても、四人の金剛が支える』と言うからな。とりあえずご飯を食べて休むがよい。じっくり相談するから」

宋其仁、曹希建を離れさせました。

晁老人「どうしたものだろうな。恐らく江院に上奏文があるのだろう。上奏文がなくても、宋其礼、曹一佳が充軍になってから、兵部の人々を接待したら、すぐに良くない噂がたってしまうぞ」

晁大舎「お父さま、ご安心ください。大したことはありません。私が事を処理すればいいのです」

すぐに晁住を遣わし、自分の騾馬[45]を準備させ、昼夜兼行で都に行かせ、急いで胡君寵、梁安朝ら二人をよび、緊急事態について相談することにしました。晁住は、急いで去ってゆきました。晁大舎が家に帰る荷物を整え、この件について相談してから、すぐに出発したことはお話しいたしません。まさに、

追ひ風がすつかり止めば、

はしなくもくる俄か雨。

 晁大舎が三月十六日に出発することができましたかどうかは、さらに次回をお聞きください。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1] ほととぎすは「不如帰去(帰った方がいい)」と鳴くとされる。

[2]正式でない配偶者。

[3]原文「蒋皇親」。「皇親」は皇室の親族をいう。

[4] スカイブルー。

[5]淡いブルー。

[6]晒していない紗の布。

[7]羌活一銭五分、防風、蒼朮各一銭、細辛五分、川芎、白芷、生地黄、黄芩各八分、甘草六分を用いて作る風邪薬。

[8]雲の模様のある緞子。清姚廷遴『姚氏記事編』「明季現任官府、用雲緞為圓領、士大夫在家、亦有穿雲緞袍者、公子生員輩、止穿綾紬紗羅。今凡有銭者、任具華美、雲緞外套、遍地穿矣」。

[9]戯曲『西廂記』の登場人物。

[10]戯曲『玉簪記』の登場人物。

[11]三年間勉強する。

[12]紋様の一種。胸、背、両袖の上端に施した紋飾。

[13]上海の顧氏によって生産された刺繍製品。清葉夢珠『閲世編』巻七「露香園顧氏繍、海内馳名、不特翎毛、花卉、巧若生成、而山水、人物、無不逼肖活現、向来価亦最貴、尺幅之素、精者値銀幾両、全幅高大者、不啻数金」。

[14] ワンピース。

[15]原文「鞋枕」。叩頭用のクッションか。

[16]拝礼を受けた後に授けるお金。

[17]二月十二日。

[18]城を修繕する人夫。

[19]中国の隣保組織。十戸を一牌、十牌を一甲という。

[20]布に綿を詰めた矢避け。明茅元儀『武備志』堡約「懸簾者、為護陴也。夫陴之不存、石及之也。陴之不守、矢及之也。石及之、為堅陴可免矣。矢及之、非懸簾不能免也…懸簾以布為之、実為氈絮、或即用民間絮被、以両竿直出掲之、如車轅然」。

[21]城の上から転がす、防御用の木。

[22]総督、巡撫のことをいう。

[23]明代、土木の変の後、于謙が精兵十万を訓練してつくった軍団。

[24]五城は北京のこと。明代、北京の治安維持にあたった官署。

[25]河北省宛平県、大興県のことと思われる。北京の南西、南東に位置する県。

[26] 『三国志演義』に登場する袁紹の部下。袁紹が曹操とたたかった際、関羽に斬られた。

[27] この部分、戯曲に典故があるかと思われるが未詳。

[28] 「危険な地」という意味に相違ないと思われるが、その根拠は未詳。

[29]兵士として軍務につかせること。

[30] 『孟子』離婁下「如伋去、君誰与守」。

[31]木星の古称。

[32]関防提督。

[33]屯田道。

[34]清代の道台の一。所管地の安寧秩序の維持にあたった。『清国行政法汎論、道員』「兵備道、以保持管内安寧秩序、為其職掌」。

[35]安徽省県に産する丈夫な紙。明文震亨『長物志』器具「今呉中灑金紙、松江潭箋紙倶不耐久、県連四最佳」。

[36]原文「聞鶏起舞」。晋の祖逖が、時ならぬ時に鶏が鳴いたのを聞き、それが凶兆とされているにもかかわらず、喜んで舞ったという故事に基づく言葉。『晋書』祖逖伝「(祖逖)与司空劉琨共被同寝、中夜聞荒鶏鳴、蹴琨覚曰『此非悪声也』因起舞」。

[37]原文「滅此朝食」。『左伝、成公二年』「斉侯曰『余姑翦滅此而後朝食』」に典故のある言葉。

[38]原文「着実有些『慚于孟子』」。『もし私がここから逃げたら、殿さまは誰と一緒にここを守るのか。』の注参照。

[39]江蘇省按察使。

[40]刑事を担当する官。具体的には推官。

[41]期限までに職務を全うしない者に罰を与えること。

[42]首貢は恩貢生のこと。国家に慶事があるときに国子監に送られる生員。次貢は歳貢生のこと。生員の最古参者のうち、国子監に送られるもの。『清史稿、選舉一、學校一、國學』「貢監生諸色目多沿明制、歳貢、取府、州、縣學食廩年深者、挨次升貢。順治二年、命直省歳貢士京師。府學歳一人、州學三歳二人、縣學二歳一人、一正二陪。學政嚴加。選、濫充發回原學。五名以上、學政罰俸。十五年、令到部時詳査、年力強壯者、乃許送監。康熙元年、減貢額、府三歳二人、州二歳一人、縣三歳一人。八年、復照順治二年例。二十六年、罷歳貢廷試。其後但由學政挨序考准咨部選授本省訓導。得缺後、巡撫一加考驗、願入監者益鮮矣。恩貢、因明制、國家有慶典或登極詔書、以當貢者充之。順治元年、詔直省府、州、縣學、以本年正貢作恩貢、次貢作歳貢。歴代恩詔皆如之」。

[43] 「先任官と後任官は仲がよい」という趣旨。

[44]推官。府の役人で、刑事を司る。

[45]原文「走騾」乗用の騾馬。

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