第九十二回 

観察公が合格発表をして一族の誼を重んじること

簣初童が本を貰って孝行の心を動かすこと

 

 さて、譚道台は邪教徒たちの布施の帳簿を燃やしますと、数日間出張していたために見ていなかった文書を点検しました。梅克仁は多くの公文書をもってきて、城内の若旦那たちがご機嫌伺いにきたと言いました。道台は

「数日間の案件がたまっているから、会う暇はない。役所に戻って仕事をするように」

と命じました。ついでに提塘官[1]がもってきた十数冊の官報を読み、さらに触れ文や上申書を読もうとしました。ところが体が疲れ、上瞼のまつげが、下まぶたにくっつきそうになりました。

 背もたれに寄り掛かりますと、家に帰った夢を見ました。すると、一人の男が意気揚々と歩いて来ました。それは譚孝移でした。そこで、体を曲げて挨拶をしますと、急に夜を告げる大砲が天を震わせて響き、役所の太鼓がトントンとなり始めましたので、思わず夢から醒めました。譚道台は溜め息をついて、

「先祖は一つなので、夢の中でも忘れられないのだ」

と言いますと、床を掃除し、布団を敷き、早寝早起きをすることにし、五鼓に伺候するようにと言い付けました。

 そもそも本当に忙しい人は[2]、疲れたときに眠るので、ことさらにぐっすり眠ろうとはしないものです。彼らは早朝に目覚めたときはすぐに起き、日が高くのぼるまでどうしても寝ようなどとは思いません。それはまるで高僧が勤行をしているようなものです。譚道台は五鼓に起きますと、顔を洗い、口を濯ぎ、茶を飲み、公文書を見、案件について相談しようとしました。ところが、幕僚たちは、このとき西の席、東の部屋、北の窓辺の床で、南柯の夢をみていました。譚道台は仕方なく二束の生員、童生の観風の答案を、筆をとり、墨をふくませて、読みはじめました。十行を一度に読み下だす目で、すべての詩文に目を通しました。生員たちの答案は、三冊選びました。童生の答案は、筆遣いがよく、字のしっかりしたものを、やはり三冊選びました。生員では張正心、呉彦翹、蘇省躬が、童生では葛振声、譚紹聞、譚簣初が選ばれました。譚道台は思いました。

「文章を審査する時は公平にしなければいけない。同族の二人を一度にえらべば、嫌疑を受けるのは免れない。観風にいい成績で合格しても、何の利益もないが、きっとあらぬ噂をたてられることだろう。紹聞を落とすことにしよう」

 考えが決まりますと、すぐに宿直の礼房を呼びました。礼房は呼び声を聞きますと、簽押房に入ってきて伺候しました。道台は言い付けました。

「観風の件だが、邪教徒の捕縛、審問のために出張していたので、半月近く合格掲示をだしていない。今日、答案を見て生員三人、童生二人を選んだ。答案には名前が書いてある。お前に渡すから、すぐに掲示文の序文を書き、順位通りに合格掲示を書くのだ。原稿を送ってきてわしに見せる必要はない。書いてあることを書き写し、表彰をする日は空けておいてくれ。持ってきたら印を押し、朱筆をいれ、今日の朝に貼り出すことにするから」

 礼房は命令を受けますと退出し、言われた通りに取り計らいました。掲示文が送られてきますと、道台は朱筆を入れ、表彰をする日を埋めました。印章係が印を、年月を書いた部分と繋ぎ目に押しました。そして、太鼓と笛を鳴らしながら、照壁に貼りました。礼房は十の銀花、五匹の赤い絹、十封の湖筆、五箱の徽墨を買ってきて、表彰を行う日に与えることにしました。

 表彰を行う日になりますと、四人の先生が、命令を受けて道台の役所に入り、五人の生員、童生が大堂にやってきて待機しました。生員は張正心が三十五歳でしたが、呉彦翹、蘇省躬は、ともに顔に皺がより、白い髭をはやしており、どちらも五十歳前後でした。童生葛振声は、二十年前にはまだ子供らしさがありましたが、今ではもう四十歳になり、その上顔は醜く、体は大きかったので、譚簣初を見ますと自分の醜さを恥じずにはいられませんでした。簣初は顔が綺麗で、眉目はすずやかでしたが、物腰は幾分ぎごちなさがありました。しかし、下役や書吏は、衛玠[3]を見ようとせずにはいられませんでした。

 まもなく、道台が二堂に腰を掛けますと、一人の先生が生員、童生を引き連れてきました。そして、席次の順に、一人一人にお祝儀と筆、墨を与え、答案を返しながら、詩文の美しさをほめ、勉強をし、それぞれ努力するようにと言い、すぐに桐蔭閣に案内してもてなしました。

 桐蔭閣に着きますと、東西の二つの部屋にはクロスが掛けられたテ─ブルと椅子が置かれ、象牙の箸と台盞[4]が揃えられていました。東側と西側に一つずつ席が設けられており、四人の先生のテ─ブルは、少し上座に、五人の生員、童生のテ─ブルは、少し下座に置かれていました。席を譲りあい、腰を掛けますと、あるのは山海の珍味、燻製や煮物など、うまいものばかりでした。物の道理を知らぬ者は、これは道台さまのおごりなのだと思いましたが、物の道理をわきまえた者は、これは孔子様のおかげなのだと思いました。

 酒に酔い、腹が一杯になりますと、先生たちは、五人の生員、童生を連れて二堂に行き、礼を言いました。すると、中から下男が一人、慌てて出てきていいました。

「道台さまは、忙しいので皆さんと親睦を深めることができず、たいへん申し訳ないといっています。皆さん、どうかご自由になさってください」

五人は、与えられた賞品を持って、次々に退出しました。すると、一人の小者がやってきて、譚簣初に向かって言いました。

「道台さまがあなたと奥の書斎で話しをしたいそうです」

四人の先生「お前は少し待っているのだ。道台さまが何かお話しをされるから」

言い終わりますと、生員、童生とともに表門を出て、馬に乗って去っていきました。

 さて、内宅からきた小者は、譚簣初を連れて宅門に入り、中庭に立ちました。道台は三堂の軒下に立っていて、

「こちらへおいで」

と言いました。簣初が階段を上りますと、道台は手をとって、三堂に入りました。そして、位牌の前に案内しますと、位牌棚の入り口に掛かっている絹の幕をめくり、振り返って言いました。

「私と一緒に叩頭するのだ」

下女が二つの敷物を敷きますと、道台は前に、簣初は後ろに、拱手して跪きました。道台は報告しました。

「これは鴻臚派の末裔で、河南の省城に住み、昔丹徒に墓参りした、忠弼の孫で、私の甥の世代にあたります。今日ご先祖様の位牌の前に叩頭いたします」

いい終わりますと、一緒に叩頭しました。拱手の挨拶が終わりますと、道台は手を引いて言いました。

「私はまだおまえのお祖母さんに叩頭していないから、おまえにおばさんへの挨拶をさせるわけにはいかない。東の書斎にいって話をしよう。それから、とても大切なものを、今日おまえに渡そう」

 道台は先を歩き、簣初は従いました。拝礼をしているとき、内宅の夫人、娘は、カ─テンの紗から見たり、カ─テンの端を開いて見たりし、初めて来た同族の子供だといいました。簣初が中庭を通りますと、女中や飯炊き女達は、門の脇や、塀の陰に立っていて、注目しました。簣初が通り過ぎて遠くへいってしまいますと、彼らは一か所に集まって、こそこそと話しました。

「あれまあ。珍しいこと。あの若さまは、どうしてうちの東の屋敷の二相公と瓜二つなんだろう。双子でも、あんなには似ないだろうに」

 下女たちのおしゃべりのことはお話しいたしません。さて、道台は東の書斎に行き、腰を掛けました。簣初も拱手して腰を掛けました。簣初は、棚の上に書籍が棟木に届くほど積まれており、古いものが新しいものよりも多いのを見ますと、心の中でとても羨ましく思いました。目は口ほどにものをいうものです。観察公は簣初が考えていることを察しますと、棚から一冊の本を取りだし、簣初に渡して言いました。

「この大切な本をお前にやろう」

簣初は受けとりますと、机の上に拡げました。題簽には『霊宝遺編』の四文字が書かれていましたが、その由来はよく分かりませんでした。

「これは譚家の先祖が、霊宝で役人をされたときの遺稿だ」

「私の祖父が、二十年以上前、江南に墓参りをしたと聞いていますが、どうしてこの本を持ち帰らなかったのでしょう」

道台「あの時は、手紙を出して族譜編集を呼び掛けたが、この遺稿はまだなかったのだ。おまえのお祖父さんが丹徒にきたのは、嘉靖元年で、これは嘉靖三年[5]に刊刻したものだ。このことは序文の年月をみれば、すぐに分かる」

急に下男が報告しました。

「開封府の楊知事が会いにこられました」

道台

「お前は本を読んでいなさい。私がお客に会って戻ってきたら、また話しをしよう」

 観察は、桐蔭閣に行き、客に会いました。水運、宿駅などに関する公務について話しをし、一時たって戻ってきました。そして、簣初が『霊宝遺編』を読んでおり、顔には拭いたばかりの涙のあとがあるのを見ますと、密かに感嘆しました。

「いい子だ。霊宝公にいい子孫ができたものだ」

「この本には缺文があるようです。傍注に幾つか字が欠けているとありますが、どういうわけなのでしょうか」

「この本のことを私たちは知らず、先祖たちも言い伝えを残していなかった。ところが、ある親戚がいて─もともとは旧家だったのだが、子孫たちが学業を怠って─たくさんの蔵書を、二束三文で売っていた。私は幼い時からそのことを聞いていた。おまえのお祖父さんが墓参りに来られてから一二年後に、この親戚はますます貧しくなり、車一台分のさまざまな本を、私たちの家に売り、二千銭がほしいといった。私は親戚の誼を思い、四両の紋銀[6]、二袋の米を与え、車に乗せて持ち帰らせた。そして、本を大広間の入り口に置き、一冊ずつじっくりと読んだが、本は『檀弓』が欠けている『礼記』、『春官』が欠けている『周礼』のような有様だった[7]。ところが、中には二つの大事な文章があった。一つは彼の家の少宗伯[8]の上疏の原稿、もう一つはわが霊宝公の詩文の原稿だ。そこで、幾つかをあわせて一冊の本にしたのだ。この本は、もともと題名がなかった。どうやら彼の家のご先祖が霊宝公の詩を書き写したもののようだ。めくってみると末尾に印が押してあった。印肉は美しく、赤い色はあせておらず、しかも霊宝公の諱だった。わしはこれが霊宝公の手稿ではないかと思ったが、どうして彼の家にながれたのかはわからなかった。中には『舅氏岫窓公の粤西に任ぜられるに送る』の詩もあった。そこで親戚や古老たちを訪ねまわり、霊宝公が龔岫窓先生の実の外甥だということをつきとめた。これが我が家の遺文であることは疑いない。しかし、この本は虫食いが多くて完全ではなく、刊刻するとき、欠けたところを補うわけにはいかず、半分が欠けたものは、棄てるわけにも補うわけにもいかなかった。また、霊宝公も書名をつけられていなかったので、『霊宝遺編』という題簽をつけたのだ。おまえは霊宝公の嫡流だから、今日お前に渡すことにしよう。私は明日すぐに版木屋を役所に呼び、版木をもう一揃い彫らせてお前に渡そう。先祖の詩文は、他の人が見れば、行雲流水のようなものだが、我々子孫がみれば、吉光の片羽[9]や、金、玉、珠、貝のようなものだ。さあ、私の前においで─」

そこで簣初が近寄りますと、道台は十四歳の少年の肩を何度も叩き、言いました。

「いい子だな。お前の肩の荷は重いぞ」

「棚の上のほかの本は何の本でしょうか」

「わしは公務で外出しなければならん。下男に点心と茶をもってこさせよう。本は散らかしても構わない。自由に見て、自由に選ぶがいい。欲しいものがあれば、それはおまえのものだ」

「おじさまは読まれないのですか」

「良い本は本を好む人々と共有するものだ。まして身内ならなおさらのことだ」

「お子さんたちは読まれないのですか」

「南京は本が発行されている所だ。河南の書店の本は、みな南京からきたものだ。私が南で本を買うのは簡単だ。それに私は手元が豊かだ。おまえは本が好きだが、金が少なくて買うことができない。これは立派な子弟の、人に言えない苦しみだ」

話をしていますと、小者が点心を持ってきました。道台は簣初と一緒にそれを食べ、さらに一杯の茶を飲みますと、言いました。

「おまえが欲しい本を、テ─ブルの上に置くがいい。私が戻ってきたら、下男をお前につけて本を送らせよう。これは『宝剣を烈士に贈る』[10]ということではなく、『万巻の蔵書は子孫に宜し』[11]ということなのだ。お前はどうか『十年樹木風煙に長』[12]じて、わしに報いてくれ。

 観察は奥の間に入りますと、官服に着替え、役所に行き、布政司、按察使に会い、政務について相談することにしました。

夫人「あの子は、どうして東の中庭の三老爺の家の瀛相公とそっくりなのですか。話す言葉は違いますが、もしも話しをしなければ、まったく見分けがつきませんよ。召し使いたちが、双子だというのも尤もですよ」

観察は笑って、

「昔、長沙王は十世代後に、墓泥棒に墓をあばかれ、宝物をすっかり盗まれた。後に墓泥棒が街で長沙王の子孫に会ったとき、長沙王が自分を捕らえにきたと思って、叫んで逃げたので、捕らえられたという[13]。十代後の子孫でも顔が似ることがわかる。二人は、今、鴻臚、宜賓の両派に分かれているものの、同じ血脈をうけついでいるから、同じ顔なのだ。南の瀛升は、我が一族の模範的な子供だ。祥符の簣初も、我が一族の出色の子供だ。わしは十日前に点呼をした時、二人がそっくりだと思い、心の中でとても喜んでいた。あれの文字は、幼稚ではあったが、話し方には大物らしさがあった。すぐに台所に食事を用意させ、客に会って戻ったら、書斎であれと一緒に食事をすることにしよう」

 道台は役所を出て、一時もたたないうちに、ふたたび役所に戻ってきました。そして、官服を脱ぎますと、書斎に行き、尋ねました。

「テ─ブルの上の本はお前が選んだのか」

「『五経』『左伝』『周礼』『通鑑綱目』です。ほかの詩稿や文集は、すぐに読もうとは思いません」

「若い者にはこれだけで十分だ。ほかのものは必要ない」

そして、門番を呼び、

「四人の轎かきに、喬師爺の二人乗りの轎を準備するように伝えてくれ。衣装櫃の棚[14]に、本を詰めてくれ。覆いは必要ない。昼食をとったら、力仕事用の下役の頭を呼んで、一緒に送らせよう」

 すぐに、テ─ブルが拭かれ、食事が出されました。とても質素なものでした。譚紹衣と簣初は、昼食をとりおわりますと、下役の頭を呼び入れました。入ってきた下役の頭は、新しく選ばれた夏鼎でした。実は夏鼎は先日邪教徒を捕縛にいった時、二十名の干役の中にいたのでした。この男は目先が利き、口が達者でしたので、頭役がいなくなりますと、代わりを勤めていたのでした。夏鼎は、宅門で呼び声をききますと、慌てて中に入ってきました。そして、観察に会いますと、急いで叩頭しました。また、簣初にも叩頭しないわけにはいきませんでした。観察は命じました。

「轎かきに衣装櫃の棚を担ぎ込ませ、テ─ブルの上の本を、きれいに詰めて、この子の家へ送ってくれ。早く報告がくるのを待っているぞ」

夏鼎は一言

「畏まりました」

と答え、後ろを向きました。そこへ、轎かきが衣装櫃の棚を運んできました。夏鼎は本を一つ一つ並べ、紐でたばね、きれいに棚に詰めました。観察が内宅に戻りますと、すぐに二人の小者がついてきました。一人の小者は、大きな箱を捧げもち、一人の小者は大きな毛氈の包みを捧げもっていました。そして、すぐに小さな轎を厩から担ぎ出しました。観察

「家に着いたら、ご隠居さまに宜しく伝えてくれ」

簣初は拱手して別れを告げました。観察は箱、毛氈の包みを轎の中に置くように命じました。簣初が轎に乗りますと、夏鼎は轎の柄を執りました。そして、道台の役所を出、街や路地を通り、譚家の裏門に着きました。

 夏鼎は慇懃に振るまい、頼みごとをしようとしました。ところが、王象藎が裏門で出迎えていましたし、報告が遅れると困るとも思ったので、仕方なく轎かきを連れて帰りました。まさに、

昔から卑しさと愚かさは隣り合はわせぞ

窮すれば窮するほどに狡くなるもの

人を欺き、罠に掛けたと思ふとも

結局はおのれが他人以下だと気付く

 

 最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]各省が京師に駐在させている、公文を伝達するための官員。

[2]原文「原来真正必有事焉之人」。「有事」とは口語で、「忙しい」ということ。「必有事焉」という言葉自体は『孟子』公孫丑上に出てくる言葉で、「必ず()ふことあり」と訓じ、「忙しい」ということとは無関係である。

[3] 第七十八回の注参照。

[4]酒器をおく台。

[5]一五二四年。

[6]良質の銀。

[7]肝心かなめのところがない。

[8]礼部侍郎。

[9]吉光は神獣の名。『十洲記』に、「武帝天漢三年西国の王吉光の毛の裘を献ず。色は黄白。蓋し神馬の類なり。裘水に入るも数日沈まず、火に入るも焦げず」。

[10] 「見所のある人物によいものを与える」ということ。

[11] 「たくさんの書籍を教育のために与える」ということ。

[12] 「十年後には成長を遂げて」ということ。

[13]呉人が五百年前に死んだ長沙王呉芮の墓をあばき、街で呉綱と会ったところ、呉綱が長沙王とそっくりであったので、その旨を告げると、呉綱が呉芮は自分の先祖であると答えたという故事。『三国志』諸葛誕伝[注]「世語曰『黄初末、呉人發長沙王呉芮冢、以其塼於臨湘為孫堅立廟。芮容貌如生、衣服不朽。後豫發者見呉綱曰『君何類長沙王呉芮、但微短耳』綱瞿然曰『是先祖也、君何由見之?』見者言所由、綱曰『更葬否?』答曰『即更葬矣』自芮之卒年至冢發、四百餘年、綱、芮之十六世孫矣。』。

[14]原文「衣箱扛架」。衣装櫃を置く棚で、担ぎ棒を付けて移動させることができるものであろう。

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