第七十八回

錦の衝立を文靖祠に備えること

祝いの礼物を蕭墻街に並べること

 

 月日のたつのは速いものです。幼年から老年までは、あっという間ですし、朔から望になるのは、指を弾くよりも速いものです。紹聞のお祝いをするための相談や手配りは、まだ完全ではありませんでしたが、早くも十日目になりました。張類村は程嵩淑に衝立に書く文章を作るように頼み、程嵩淑はすっかり文章を書き終えました。蘇霖臣は、金字で文字を書こうとし、封丘門内の李文靖[1]公の祠で準備をしました。紹聞は済寧からもち帰った緞子の中から、真っ赤な色のものを選び、針子に命じて衝立に合わせて裁断させ、十二に分けました。蘇霖臣は升目を区切り、字数を計算しますと、金泥で書き上げました。果たして文章は班固、司馬遷のようで、お付き合いで書いたという雰囲気は少しもなく、字は鍾繇、王羲之のようで、太すぎるということはありませんでした。あとは期日に衝立を贈るのを待つばかりとなったことは、いうまでもありません。

 さて、満相公は小屋掛けを組み立てようと考え、五日前に譚家に行き、杉の長い材木、麻の細い縄などの物をすべて運びました。また、盛家の照灯[2]、看灯[3]、屋内用の絨毯、簾、椅子[4]、円卓、骨董品、法物[5]を運びました。紹聞は盛家以外の家は煩わせませんでした。紹聞はさらに済寧で売らなかったあやぎぬを取り出して、薬玉を作りました。丸々三日で、譚家は綾や錦でできた家のように飾り付けられました。門の前の舞台、布を巻いた手すり、錦の牌坊には、細工のこんだ旗が掛けられ、青緑色の盆景が並べられました。そして、劇が上演されないうちから、見物人が、がやがやとひっきりなしにやってきました。

 同じ街の馮健は、姚杏庵の店に行き、相談をしました。姚杏庵

「今回の譚家のお祝いで、俺たち同じ街の者は、みんな得をする。だが、劇が屋内劇で、宴席で上演されれば、街中(まちなか)の舞台は空になってしまう。この街の年よりや子供や婦人は、飾り付けられた舞台は見られても、劇は見られない。中庭の銅鑼や簫の音を聞くだけでは、面白くないじゃないか。我々がみんなで劇団を呼び、舞台で上演させてはどうだろう。そして、盛家の崑劇団は広間の前で上演することにすれば、互いに美しさを競いあうことができるじゃないか。」

「まずどこの劇団を呼ぶか相談しよう。」

「繍雲班はどうだ。」

「繍雲班は俺たちのために劇を上演してくれないよ。あれは大きな役所に出入りしている劇団だから、なまこや魴[6]の料理でなければ食べないぜ。俺たち蕭墻街は、あいつらには食事も出してやれないよ。それに、お役人たちのお祝儀一封は、民間の劇団を呼ぶ値段に匹敵するから、繍雲班は俺たちのことなど眼中にはないだろう。」

「正旦、貼旦は本当に綺麗だよ。みんなで金を出し合って、街中から数吊の銭を集め、譚家のお祝いのために、三日間上演して、みんなで目の保養をするのもいいだろう。」

「二人の旦は、どちらも奥の書院で酒を飲んだことがあり、この城内の郷紳のことは眼中にないんだ。まして俺たち平民はなおさらだよ。特に京師の旦は、口を開けば王府の話ばかりし、役人のことすら眼中にはないんだ。俺たちはその辺の劇団をたのんで、賑やかにやればいいさ。」

二人はハハと大笑いし始めました。

 そこで、梆鑼巻[7]という、民間の劇団のことを思い出しました。旦は城外で有名で、鴿蛋[8]と呼ばれていました。二人は紹聞のところに相談をしに来ました。紹聞

「皆さまにお心遣いをして頂き、どうもありがとうございます。しかし、うちにきている劇団の面倒さえみきれないかもしれませんから、劇団が二つになれば、まったく面倒を見ることができなくなってしまいます。」

姚杏庵

「私たち二人は、店で相談したのです。劇団が広間の前で上演をすると、街では劇がみられなくなってしまいます。これは街をないがしろにすることです。ご隠居さまのお誕生日のために、私たちは微力を尽くしたいのです。でき合いの舞台を利用するだけのことです。その他一切の食費や上演費、明りや蝋燭代は、お宅にとっては何のことはないでしょう。」

馮健

「譚さまがこの劇団を受け入れなければ、私は訴状を一枚書いて、若さまが近所の人々をひどい目に遭わせたと訴えますよ。」

三人はふたたび大笑いし始めました。紹聞はこうなりますと、断るわけにもいかなくなり、拱手をして彼らの言うことをきくことにしました。二人は喜んで帰って行きました。

 十四日の午後になりますと、突然、筒や箱が車二台分引かれてきました。役者たちが、譚家についたのでした。

宝剣児

「若さま、夏さま、満相公がまいります。」

紹聞は急いで東の廂房に運ばせました。

 間もなく、盛希僑、満相公、夏鼎─礼服に着替えていました─が一緒にやってきました。紹聞は、彼らを客間に迎え入れました。

盛希僑

「本当は、明日、劇を上演し、酒を飲んで、おばさんのお祝いをするつもりだったのだが、待ちきれなくて、今日やって来たんだ。おばさんに挨拶をしたいんだが。」

紹聞

「明日お客が来ると思っていたので、まだ奥では準備ができていません。明日になったら挨拶をすることに致しましょう。早くから来て頂いて、大変申し訳ありません。」

夏鼎

「明日、衝立を贈る時に、一緒に挨拶をする方がいいでしょう。」

満相公

「譚さんのおっしゃる通りにするのが一番の礼儀でしょう。」

盛希僑

「仕方ない。まずは劇を上演しよう。」

 年寄りの副末が演目をもってきて、劇を決めるようにいいました。盛希僑「新しく作った誕生祝いの劇を上演してくれ。お前たち芸人にどのくらい学問があるのか見てやろう。明日はお客様をもてなすのだからな。」

 舞台に上がりますと、『王母閬苑大会』[9]を上演しました。その劇は、四幕あり、麻姑[10]が玉液を差し上げ、月娥[11]が霓裳[12]で舞い、零陵[13]の何仙姑[14]が霊芝を献じ、長安の謝自然[15]が寿桃[16]を奉るというものでした。老旦は年は三十七八歳でしたが、とても色気がありました。二人の旦は二十三四歳で、三年前には知事から銀鼠[17]のあわせ、灰鼠[18]の外套を貰ったことがありました。山東からやってきたばかりの崑曲の旦は、成年に達しておらず、まるで天宮の仙女のようでした。盛公子は喜んで頬の皺が消えず、心がむずむずするのをおさえることができませんでした。そして、腰の財布の紐を解きますと、粒銀三四個を出しました。紹聞も真っ赤な祝儀袋をやることにしました。役者はこのようなことには慣れていましたから、ほとんど反応を示しませんでした。貼旦は退場するとき、黒い衣をかぶせながら、ゆっくりと粒銀を拾い、赤い包みを受けとりますと、上座に向かってあまり丁寧でない叩頭をしました。

 盛希僑は副末を呼んでいいました。

「いいぞ。いいぞ。お前はどうして自分で劇を作ることができるのだ。」

「長いこと歌っていますと、曲牌にそって歌詞をうめることができるようになるのです。しかし、平仄はまだよくわかりません。旦那さまがたにぼろを見破られるのではないかと心配です。」

「心配ない。心配ない。お前たちが歌えば、本当に学問のある人でも、はっきりとは分からないよ。部屋の中で、手で膝を打って、お前たちのために調子をとっているやつらは、みんな玄人ぶって、崑曲に通じているふりをしているんだ。まったくむかつくやつらだよ。『鷓鴣天』『菩薩蠻』[19]などの話をすれば、やつらはますますでたらめなことをぬかすんだ。お前たちは彼らを見れば、心の中で、この旦那さまは玄人だと思うだろうが、やつらは、醜態をさらけ出しているだけなのだ。やつらが分かっていたとしたら、俺は大きくて太い陽物だよ。」

夏鼎

「盛兄さん、自分が分からないからって、他の人たちが分からないなんておっしゃってはいけませんよ。」

盛希僑

「口を挾むな。僕が山東にいたとき、おじは有名な進士で、山東の有名な解元[20]を先生として呼びよせていた。章丘県[21]の知事が自作の伝奇を送ってきた時、二人は、すぐれた劇だと言って褒めていたが、彼らでさえも、その劇の中には幾つか知らない字や、たくさんの出典のわからない典故があるといっていた。今、家の中で劇をみているやつらは、ただの俗な客に過ぎない。西瓜ほどの大きさの字を、少し知っているだけなのに、何もかもわかっているような顔をしている。僕は絶対に彼らを信じないぞ。崑曲は、衣装箱に入っているものがよく、新しくて、姿が優雅で、見る人の気分を悪くさせなければそれで十分なんだ。」

「分かりました。分かりました。崑曲を演じる者には不愉快な者はいないが、崑曲を聞く者には不愉快な人がいるということですね。」

満相公

「そういうことです。

盛希僑 

「満相公、お前は黙っていろ。お前たち門客は、いつになったら扇子で手をたたき、玄人ぶるのをやめるんだ。俺が怒鳴りつけなければ、お前は第一級の不愉快の神様になるだろうよ。」

 盛公子が観劇をしている者たちの醜悪な様について語ったことはここまでと致します。さて、日が西に落ちますと、音楽もやみました。夕飯がおわりますと、夜の演奏の準備が行われました。満相公は紹聞にむかって、

「誕生日の宴会の幹事の人を呼んできて、お酒をさしあげましょう。」

紹聞は言われた通りにし、小者を呼びにやらせました。間もなく肴の小皿が配られ、赤い蝋燭が点されました。銅鑼や太鼓が鳴り響き、絨毯の上に一人の書童が、男娼とともに現れました。湘簾[22]の中では何人かの飯炊きの老婆が、女の親戚のお供をして腰掛けていました。笑い声が耳の底にかすかに響き、蘭麝が鼻に微かに香りました。役者は、なかなか綺麗な姿をしていました。

見目麗しき若者は、潘安[23]衛玠[24]のよう。すんなりとした娘は、西施[25]、南威[26]のよう。忠孝節義の人物は、三つの長い髭を靡かせ、まことに氷の心、鉄の肝。佞幸奸臣は、隈取りのついたお面をかぶり、犬の肺に狼の肝。紳士たちが出会えば、拱手や拝礼は次第書きに従っているかのよう。砦で戦えば、刀、槍、剣、矛の使い方は兵法書に基いているかのよう。老人に扮する者は力なくよぼよぼした装いをし、人々は哀れむ。道化役は滑稽なせりふをはき、人々は高笑いする。運が悪くなれば、夢にも思わぬ試練にあい、幽霊は嘲り、仏も救ってはくれない。運が良くなれば、思いもかけぬ団円と栄誉、主人は出世し下男も立身する。

劇は、鐘楼が四鼓をつげるまで上演され、明りが消え、楽器がやみますと、酒に酔った人々は解散しました。

 さて、十五日の朝、譚家は寿麺[27]を用意して客を接待しました。王象藎がやってきますと、紹聞は、彼に碧草軒で茶を出す仕事を割り当てました。そして、三日間、書斎で歓談する文雅なお客たちの世話をしました。紹聞は、街の俗人たちはおもての中庭で劇を見て騒いでいて、絶対に書斎には来ないことをよく知っていました。紹聞は、仕事を適任者に任せたということができましょう。

 さて、蕭墻街の十字路には、蟻や蜂のように人々が群がり、身動きすることもできませんでした。間もなく、細楽[28]を従えた、八つの楽隊が通り過ぎました。街の人々が呼んだ劇団は、八洞[29]の神仙に扮しました。盛家の劇団は六人の仙女に扮し、手に玉の如意を持ち、木でつくった霊芝、松の枝の払子、蟠桃[30]の盆、h花[31]の籠、瓊漿[32]の卣[33]を持っていました。後ろには十二の衝立があり、二十四人が衝立を立てますと、日に照り映えて、まぶしく光り、金文字が輝きました。後ろの二十四台のテ─ブルには、赤い毛氈が敷かれていました。一対目のテ─ブルの片方には大きな狻猊炉[34]が置かれ、都梁[35]、零陵[36]の上等な線香が焚かれていました。狻猊の口からは煙が出ており、近寄ると変わった香りが鼻をつきました。もう片方には頭のてっぺんに大きな盆を捧げもった回回(フイフイ)[37]の像があり、上には一対のお椀ほどの太さの寿燭[38]、金箔を塗った仙人が挿されていました。二対目のテ─ブルには、一つには果物の小皿が十六枚、もう一つのテ─ブルには象牙の箸と調匙[39]、真ん中には銀の爵[40]が一対ありました。三対目のテ─ブルには、一つには、五鳳冠[41]、真珠の排子[42]、七つの財布、一本の玉の飾りのついた帯があり、もう一つのテ─ブルには霞璧[43]が一揃い、刺繍のあるスカ─トが一揃いありました。四対目のテ─ブルは、二つとも薄絹、緞子、あやぎぬでした。長い物は巻かれており、四角い物は折りたたまれており、五つの色は目を奪わんばかりでした。実はこれは紹聞が済寧で売らなかった物で、今日、彩りをそえるための生地として使っていたのでした。五対目のテ─ブルは、片方には海の珍味が十二包み、もう片方のテ─ブルには南方の品物が十二包みが置かれていました。六対目のテ─ブルは、一つには外省の食べ物、金華[44]のハム、大理[45]の工魚[46]、天津の蟹[47]、徳安[48]の雉が置かれ、もう一つのテ─ブルには河南の産物、黄河の鯉、魯山[49]の鹿脯[50]、光州[51]の諛鴨[52]、固始[53]の板鵝[54]が置かれていました。七対目のテ─ブルには、城外の田畑でとれるありふれた物が置かれ、二つのテ─ブルには大きな盆が置かれ、誕生祝いにちなんで、冰桃[55]、雪藕[56]、交梨、火棗[57]、金字の赤い札が置かれていました。これは、蘇霖臣が衝立を書いている時に書いたものでした。八対目のテ─ブルには一つには砂糖でできた仙人が八つ、真ん中には南極老人[58]の像が置かれ、後ろには宝塔が五つ、油酥、脂酥[59]、提糖、包糖[60]、小麦の菓子が十二種類置かれていました。九対目のテ─ブルには、寿麺[61]が十束置かれ、上には篆字の寿の字[62]が貼られていました。十対目のテ─ブルには、寿桃[63]の形をした蒸し菓子が八百個置かれ、桃の突き出たところにはすべて赤い点がつけられていました。以上はすべてご隠居さまのものでした。後ろの四つのテ─ブルは、小さい若さまの物でした。一番目のテ─ブルは、進士の小さな唐巾[64]、赤い小さな補服[65]が一着、小さな緞子の靴下が一揃い、小さな緞子の靴が一揃い、小さな絹の帯が一本置かれていました。二番目のテ─ブルには、「長命富貴」の琺瑯の銀の鎖が一つ、金の首輪が一つ、象牙の縁取りのある舶来の扇が二本、沈香の扇の根付けが二つ、メッキの虎の頭が一つ、蓮の実の形をした鈴、茘枝の形をした鈴、甜菜の形をした鈴、菱の実の形をした鈴がそれぞれ二つ、「五子奪魁」[66]の小さな銀の子供が五つ、その他、おしゃぶり[67]、たにしの形をした金斗[68]など、様々な子供用品がすべて揃っていました。三番目のテ─ブルには星藜堂書坊から借りた『永楽大典』[69]十六帙、表装屋から借りた『淳化閣帖』[70]三十冊、さらに掛け軸、巻き物がそれぞれ四種類置かれていました。四番目のテ─ブルには、歙硯[71]が一つ、湖筆[72]が十封、徽墨[73]が四箱、莱石[74]の筆立てが一つ、蔡玉[75]の鎮紙[76]が二巻き、紫檀の墨床[77]が一つ、寿山石の印が五つ、水晶の印泥入れが一つ、閩[78]の硯水池[79]一つ、宜興[80]の有名人が絵を描いた四角い急須が一つ置かれていました。以上、誕生祝いの品は、全部で二十四テ─ブルでした。ほかにも、角の上に三尺の赤い絹を縛ってある肥えた羊が二頭、注ぎ口に赤い花がつけてある美酒が四瓶ありました。その後ろには、「堂上では杯が酌み交わされ、門の左には弓が懸けられ」[81]たくさんのお客がいました。

 通りで見ていた人々は、老いた男も若い男も、醜い女も美しい女も、みな豪勢だと言い、司馬温公が帰朝し[82]、梁絨状元が街にくりだした[83]時のようでした。木の上からは子供が下を見、塀からは美しい女が外を覗き、喜ばない者は一人もなく、褒めない者も一人もありませんでした。

 姜氏も同じ街の女達をつれて、一緒に見に来ましたが、家に戻ると、一日中腹を立てていました。そして、次の日になって日が高くのぼっても、起きませんでした。これぞまさに、

悲しいといふ人あれば、楽しいといふ人もあり、

喜びを感じたり、悲しみを感じたり、態度はまちまち。

言ふなかれ、街中の人々がみな喜ぶと、

片隅で悲しみを抱く人もあり。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]。宋代の政治家。『宋史』巻二百八十二に伝がある。

[2]照明用の明りか。

[3]観賞用の明りか。

[4]原文「搭椅」。どのようなものなのかは未詳。

[5]儀仗隊が用いるもの。

[6] おしきうお。『三才図会』「魴縮頭穿脊博腹。色青白而味美。今之ケ魚也。漢水中者尤美。」。 (図:『三才図会』)(図:『本草綱目』)

[7]河南の地方劇の一つ。稲子という拍子木と、銅鑼で演奏を行う劇。現在の河南稲子の原形。

[8]文字上の意味は、「イエバトの卵」ということ。イエバトは、「霈鴿子旺処飛」(イエバトは餌の多いところに飛んでいく─権勢のある人に靡く)という諺にあるように、権勢に靡く者の象徴。「蛋」は「旦」と同音。したがって、「霈鴿蛋」には「権勢に靡く旦」という含意がある。

[9] この劇は現在残っていないが、題名から察するに、西王母の長寿を祝う内容の劇であろう。西王母の誕生会を題材にした戯曲には、戯文『王母蟠桃会』、宋雑劇『宴瑶池爨』、金元院本『王母祝寿』『蟠桃会』『瑶池会』などがある。また元の鍾嗣成、明の朱有燉にもそれぞれ雑劇『蟠桃会』がある。『王母閬苑大会』もこの系統の戯曲であろう。

[10]後漢の時代の仙女。『神仙伝』参照。

[11]月宮の仙女。嫦娥。

[12]虹色の衣装。

[13]湖広(現湖南省)永州府。

[14]仙女の名。則天武后の時代の人という。三月七日が神誕。『道譜源流図』参照。

[15]唐代の女仙人。『歴世真仙体道通鑑后集』巻五参照。

[16]人の命を延ばすという桃。

[17] シロリス。

[18] チンチラ。青鼠。濃い灰色をしており、腹は白。尾の毛はふさふさしていてすばしこく、よくはねるという。皮でコ─トを作り、灰白色のものがよく、灰黒色のものがそれにつぐという。『清稗類鈔』灰鼠「灰鼠、一名青鼠、深灰色、腹白、尾毛鬆而長性霊敏、善挑躍、吉林諸山有之。皮以製裘、灰白色者佳、灰黒次之。」。

[19] ともに曲牌名。

[20]郷試の首席及第者。

[21]山東省済南府。

[22]斑竹(湘妃竹)でつくった簾。

[23]潘岳。晋の時代の美男子。『晋書』巻五十五に伝がある。

[24]晋の時代の美男子。『晋書』巻三十六に伝がある。

[25]春秋時代、越の美女。越王勾践によって、呉王夫差に献じられ、呉王夫差は、彼女を寵愛し、国を滅ぼしたという。『越絶書』巻十二「越乃飾美女西施、鄭旦、使大夫種獻之於呉王。」。

[26]春秋時代、晋の美女。晋の文公が彼女を寵愛し、政治を怠ったという。『戦国策』魏策「晋文公得南之威、三日不聴朝、遂推南之威而遠之、曰、『後世必有以色忘其国者』。

[27]誕生祝いに食べるうどん。

[28]弦楽器、管楽器のこと。

[29]神仙がいる洞窟。

[30]三千年に一度実を結ぶという伝説上の桃の木。

[31]仙境にあるという玉の花。

[32]鉛霜(酢酸鉛)。

[33]酒器。 (図:『三才図会』)

[34]猊(獅子)の形をした香炉。 (猊の図:『三才図会』)

[35]湖南省武岡県。

[36]湖南省永州府。

[37] 回教徒

[38]誕生祝いのために用いる蝋燭。

[39]ちりれんげ。

[40]酒器。(図:『三才図会』)

[41]五つの鳳凰の飾りのついた冠。(鳳冠の写真:周等著『中国歴代婦女妝飾』)。

[42]牌子ともいう。髷止めのこと。

[43]襟飾り。(図:周等著『中国歴代婦女妝飾』明代霞)。

[44]浙江省金華府。

[45]雲南省大理府。

[46]大理裂尻魚、弓魚、屑海花などと称する。鯉の仲間。雲南省屑海に産する。学名schizopyge taliensis。(図:蕭帆主編『中国烹辞典』)。

[47] 『新校天津衛志』巻三土産、蟹「秋間肥美、味甲天下。」。

[48]江西九江府。

[49]南陽府。

[50]鹿の干し肉。明宋攫『宋氏養生部』に製法を載せる。「一取肉片切軒、以花椒醤煩揉之、甑蒸熟、復入焼火焙燥。一切軒、用塩、川椒、地椒、蒔蘿、酒煩 揉透、停一日以油沃、日暴為脯、用烹。一同熟羊[羊巴]后一制。凡煮惟七八分熟、宜慢火、過則干燥無味。野獣径此]。

[51]汝寧府。

[52]家鴨の塩漬け。

[53]汝寧府。

[54] あひるを調味料に漬け、板状にして乾燥させたもの。

[55]砂糖漬けの果物の串刺しを冰糖葫蘆ということから類推して、桃の砂糖漬けかと思われるが未詳。

[56]雪のように白い蓮根のことかと思われるが未詳。

[57]紫微夫人が晋の許穆に空を飛ぶための薬として与えた物の名だが、具体的にどの様な物なのかは未詳。参考『神仙伝』「許穆得道、紫微夫人与之金漿、交梨、火棗。此飛騰薬也。」。

[58]寿老人のこと。人の寿命を司る。

[59]油酥、脂酥ともにさくさくとしたお菓子のことをいうのだろうが、どこが違うのかは未詳。油酥は植物性の油を、脂酥は動物性の油を使って作った菓子か。なお、『夢梁録』巻十六、葷素従食店には、「油酥餅児」の名が見える。

[60]提糖、包糖ともに飴のことをいうのだろうが、未詳。提糖は引き伸ばした飴で、包糖は球状にした飴のことか。

[61]誕生祝いに食べるうどん。

[62]原文「寿花」。寿の字の形をした飾り模様ということであろう。

[63]誕生祝いの桃。

[64]士人の着用する帽子。(図:『三才図会』)

[65]清代の文武官の礼服。補子(階級を現すための縫い取りをした一尺四方の布)をつけるのでこの名がある。(補服の図:上海戯曲学校中国服装研究組編著『中国歴代服飾』)(補子の図:上海戯曲学校中国服装研究組編著『中国歴代服飾』)

[66]五人の子供が兜を奪い合う姿をかたどった像。(「五子奪魁」の図を見る)。

[67]原文「咬牙棒」とりあえずこのように訳す。

[68]食器:酒、水、茶などを入れる器。

[69]明の永楽元年に作られた類書。二万二千八百七十七巻。

[70]宋太宗が作らせた法帖。十巻。漢代から唐代までの著名な書家の書を収める。

[71]安徽省婺源産の硯。

[72]浙江省湖州で産する筆。

[73]安徽省徽州府で産する墨。

[74]山東省莱州府産の石。暗青色、白色のものがあり、柔らかくて細工がしやすく、食器などを作るという。『雲林石譜』莱石「莱州石色青黯、透明斑剥、石理縦横、潤而無声、亦有赤白色。石未出土最軟、工人取巧鐫礱成器、甚軽妙、見風即勁。或為鐺銚、久堪烹眇、有益于銅鉄。」。

[75]未詳。

[76]文鎮。

[77]墨を置く机状のもの。

[78]建州窯のこと。福建省徳化県に産する磁器。

[79]水盂(筆洗)のようなものと思われるが、未詳。

[80]江蘇常州府。

[81]男の子が産まれたとき、門に弓をかける風習。

[82]司馬温公は宋の司馬光のこと。「司馬温公が帰朝」とは、元豊八年に神宗が崩御し、洛陽にいた司馬光が開封に戻ったときのことをいう。

[83]原文「游街」。科挙の合格者が、街に繰り出すこと。梁絨は宋代の人、雍煕の進士で翰林学士。開封府知事を務めたこともある。科挙に合格したとき、八十二歳だったとされる。宋陳襄『文昌雑録』参照。

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