第三十四齣 思憶(西施が范蠡を思う)
(宦官が登場)龍檻は沈沈として水殿[1]清く、禁門は深く鎖され寂として声さへもなし。君王の去りし後舞衣は冷え、夕暮に花びらを浮かべつつ水は城をぞ出づるなる。
わしは館娃宮を掌る宦官じゃ。昨日は我が大王さまは斉を伐つため、お妃さまと一緒に行かれようとした。お妃さまはお体の調子が優れず、ひとり宮中にいらっしゃる。どうしてまだ洗髪をしにこられないのだろう。こちらで待っているよりほかにないだろう。
(張風桃、李月梅が宮女に扮して登場。張風桃)
粉をつけ、朱をぬらば
顔の醜きを誰か嫌はん
宦官に会ひ、引き寄せられて[2]
簾の辺に空しく集へり。
(李月梅)
我々につかまるも恥ぢもせず
紅き猿股 手にとりて、殿中を走りたり
(張風桃、李月梅)老公公、万福をいたしましょう。
(宦官)張風桃、李月梅姐さん、揖をいたしましょう。常日頃あなたが嬉しそうにしているのを見たことがございませんが。今日はどうしてこのように嬉しそうにしてらっしゃるのです。
(張風桃、李月梅)実は、普段は大王さまがこちらにおられ、毎朝寒食、毎晩元宵[3]、ぶらぶらと遊ぶ時間がなかったのです。先日は斉を征伐にいかれましたが、お妃さまもお体がお疲れですので、毎日洞房で休んでらっしゃいます。私たちは暇ですから、楽しくないはずがございません。
(宦官)そうでしたか。お妃さまは最近どうしてお疲れなのです。
(張風桃、李月梅)ご存知ないのですね。大王さまに日夜体を損なわれているためでございましょう。
(宦官)さようなことはございますまい。
(張風桃)大王さまがお妃さまを見て喜ばれるのは言うまでもございませんが、わたくしとて先日お妃さまから接吻するよう命じられ、嫌々ながらお妃さまと接吻をしたのです。口の中がすっかりいい匂いになりましたよ。
(宦官)嘘を言って。お妃さまがあなたと接吻したりするはずがないでしょう。
(張風桃)ご存知ないのですね。福建から、先日、西施舌という海産物が進上されてまいりました。盗んで食べてみましたが、うまさは筆舌に尽くしがたいもの。これはお妃さまと接吻をしたも同じことです。
(宦官)それは結構な。
(李月梅)お妃さまは先日乳が痒くなられ、私に乳を搾るように命じられました。私はお妃さまの乳を吸いましたが、思わず全身が痺れてしまいました。
(宦官)また嘘を言って。お妃さまがあなたに乳を搾らせるわけがないでしょう。
(李月梅)嘘ではございませぬ。先日呉淞江から河豚の白子が進上されてきたのです。西施乳と申します。大王さまが残されたものを、私は食べてみましたが、うまさは筆舌に尽くしがたいもの。これはお妃さまの乳を吸ったも同然です。
(宦官)ますます結構なことですね。二人がそう言うなら、わたしもお妃さまの腕に枕したことがあるのですよ。
(張風桃、李月梅)それはどういうことでございましょう。
(宦官)先日、金壇から蓮根が献上されてきました。とても白くて柔らかく、西施臂と呼ばれています。普段は大王さまに水殿でお仕えし、夜には疲れて眠るのですが、蓮根を枕にするのです。これはお妃さまの腕に枕をしたも同然のこと。
(張風桃、李月梅)老公公、それはとても結構ですね。環珮の音が響いております。お妃さまのお出ましでしょう。
(西施が手に渓紗を持って登場)
重九は毎年来るも
鴛鴦はなほ離れ離れぞ
奇すしき出逢ひは引き裂かれ
故郷は千里
思ひは万般
日がなふり返るに堪へず
しばらく時の過ぐるを待たば
必ずや天長く地久しからん
南を望めば
若耶には烟水が巡りたり
いづれのところか渓の頭なるべき
(宦官、張風桃、李月梅)お妃さま、叩頭いたします。
(西施)立っておくれ。体が疲れ、人が騒ぐのには耐えられない。前殿へ行き、待っていてくれ。しばらくじっと座っているから。
(宦官、張風桃、李月梅が返事をして退場。西施)(千秋歳)別館に寒々と砧が聞こえ、厳城に角笛の音は響けり、秋声は寥廓に入り、東帰の燕は海上より来て、南来の雁は沙頭に落ちたり。若耶の風、稽山の月、あたかも昨日のごときなり。呉王のわが身にまつはるをいかんともするすべはなし。呉王の情のからまるをいかんともするすべはなし。惜しむべし、風流の士と会ふこともなく、谷川のほとりにて、そのかみ交はしし言の葉のみの残れるを。今やわが楼頭の約に背ける。夢闌けしとき、酒醒めしのち、思へば、わらはの呉の国に来りし日より、はや三年なり。故国の君主の命を受け、范蠡さまの言葉を胸に、呉王をば誑かし、思ひのままに淫楽せしめ、呉にまさに敗亡の兆しのあるを目の当たりにせり。ただ歳月はぐずぐずとして、帰る日は卜すべからず。父母の安否はいかに。范相公の功はいかに。我が国の復興はいかならん。これこそは、漢皋の仙女[4]の去りて、環珮は空しく留まり、浙水の人[5]は遥かに、渓紗はなほも存すなれ。まことに人を悲しましめたり。
追憶するは浣渓のほとりの遊楽
はしなくも邂逅し、結婚を求めしことは笑ふべし
輾転としてかの人に偽りなしと思ひたり
かの人のみづから事情を説くを聞く
思ふに彼らがおとなしくするはずもなし[6]
痴れたる心でよき逑と思ひなし
つひにはかならず佳遇とならんと思ひたり
われはいまだにうぶな心で
年も幼し
羞づるに堪へたり
歳月はぐづぐづとして
病める心は悲しめり
日がな見る憔悴の加はるを
停花滞柳[7]
いかで知るべき、日のやうやくに長くなれるを
主君はつとに幽閉されて
臣下はつとに他国に捕はれ
城池はつとに荒丘となる
しがらみは多くして
孤身はつひに漂流す
二股の縁を結ぶとは誰か知るべき
一方は我々を旅路での仮初の知り合ひなりと思ひなし
一方は我々を繍の帳にて百年の縁を結びし鸞鳳なりと思ひたり
今や投ぜり
異国の敵に
嫌々ながらみづから相手をせざるを得ず
たちまちに鴛幃を掩ふも
疑ふらくは虎帳に臥すかと
鸞冠を帯び
兜をかぶるがごときなり
浣渓の紗は手にあるも
かの人は何処にありや
相も変はらず空しく閉ざす翠の眉根
三年の間、主君が汚辱を受けたるがため
両点の春山[8]に愁は絶えず
幾たびか陰にて謀を成し
一心に新を迎へて旧を送れり[9]
ひたすらに時を待ち
また愁ふ
夜は寒けれど魚なし
船中に月は明るく、むなしく針を垂らしたり
雲山は万畳にして故郷は何処ぞ
目に満ちたるは敗荷衰柳[10]
高楼にいかで登らん
窮兵[11]は北のかた中原に渡りたり
いづれの日にか恨みに報い、南のかた湖上に舟を飛ばすべき
見返るなかれ
つひには功業を収むべし
催促は急なれどいまだ報ゆることを得ず
ぐづぐづするは笑ふべく、織女牽牛を見るを羞づ
断魂し、春遊をせし侶を求めり
夢は巡れり浣渓沙
自ら思ふ、帰心はあたかも銭塘の水のごと
最後には、西陵[12]の古き渡しに至るべし
一すぢの清泉は玉溝[13]に接し
君王の行くところ、秋はまだ来ず
誰かいはんや、水はこれ無常のものと
水もまた宮居に至り、咽びて流れず
[1] 水辺の殿閣。
[2]原文「遇内官拖番」未詳。とりあえず、上のように訳す。
[3]寒食は清明の二日前、元宵は一月十五日。ここでは朝な夕なに楽しむことをいうという。張忱石等校注『浣紗記校注』参照。
[4]鄭交甫に漢皋で佩玉を授けた仙女のこと。『南都賦』「游女弄珠於漢皋之曲」注「韓詩外傳曰、鄭交甫將南適楚、遵波漢皋臺下、乃遇二女、佩兩珠、大如荊雞之卵」。
[6]原文「料他們応不便干休」。越の人々が、呉にやられたまま黙っているはずはあるまい、の意。
[7]衰えた花や柳。花や柳は女性を表す。西施自身が衰えていることをいう。
[8]両眉をいう。
[9]呉王の妃となり、范蠡のもとを離れたことをいう。
[10]枯れた蓮と柳。
[11] みすぼらしい軍隊。呉の軍隊を悪く言ったもの。
[12]浙江省蕭山県の西にある渡津の名。
[13]宮中にある溝の美称。