第三十齣 採蓮(西施が蓮の実を摘む)
(呉王夫差、伯嚭が登場。呉王夫差)
秋されば楽しきことは数多あり
別殿[1]に風は涼しく
岸を挟みて蓮は薫れり
本日は大いに酔はん
(伯嚭)
古より姑蘇の地は繁華なり
遠方を臣服せしめ
進貢は絶ゆることなし
誰か勝らん 江東[2]の国の強きに
(呉王夫差、伯嚭が相見える。伯嚭)陛下のご恩を受けたのですが、少しもお礼をしておりませぬ。本日はささやかな贈り物をし、寸志を述べるといたしましょう。ただいまは宮門にあり[3]。勝手に入るわけにはまいりませぬので。
(呉王夫差)老太宰よ、贈り物とはどういうことだ。どのようなものなのだ。
(伯嚭)文笥[4]百枚にございます。
(呉王夫差)たくさんはいらぬぞ。
(伯嚭)狐皮五十双です。
(呉王夫差)それはますます多いな。
(伯嚭)さらに自ら織りました葛布十万匹でございます。
(呉王夫差)太宰よ、嘘をつけ。お前の家にはどれだけの者がいるのだ。そんなにたくさん織るなんて。
(伯嚭)私は礼帖[5]を持っております。王さまご覧くださいまし。
(呉王夫差)謹んで文笥百枚、狐皮五十双、葛布十万匹を調え、東海の寡君勾践が下大夫泄庸を遣わして謹んで呉王さまに進上いたします。どうぞお納めくださいまし。
(呉王夫差)太宰よ、贈り物などもっていないと思っていたが、もっていたのだな。平素はけちなそのほうが、何故にもってきたのだ。
(伯嚭)わたくしは王さまの後宮に人が多く、夏には生臭いために、わざわざ人を遣わして越王に話しをしました。越王は全国の婦人に命じて徹夜で織らせたのでございます[6]。これは私が贈ったも同じことです。私が話をしなければ、越王が送ってくるはずがございませぬ。
(呉王夫差)お前はいつも他人のものを自分のものにするからな。
(伯嚭)王さま、普段からわたくしの人柄はご存知でしょう。このように自分のものを差し出して、他人にものを施すのです。[7]
(呉王夫差)冗談を言うな。越王がこのように従順なら、手紙を書いて領土を贈らねばならん。東は勾甬、西は檇李、南は姑末、北は平原に至る領土で、とりあえず謝意を述べようと思うのだが、お前はどう思う。
(伯嚭)結構なことにございます。出ていって泄庸に話しをし、彼らにふたたび進貢をさせましょう。
(退場、呉王夫差)西施が入内せし後は、妙なる舞と清らな歌で、朝にも晩にも楽しみて、それよりほどなく、千回に及ぶ雲雨を行ひ、万杯に及ぶ合歓の酒を飲みたり。姿形が美しきのみならず、性格も穏やかにして、老いたるわしは、必ずや西施のもとでみまからん。ここ数日は魂のいづれに飛びゆけるかを知らず。昨日は侍女たちに湖へ蓮の実を採りにいくやう命じたり。思ふにわしの魂は湖の上を歩みたるらん。今日はわが魂を探しにゆかん。
内侍たち、後宮から妃をつれてきて、湖上へ蓮の実採りにゆくのだ。
(人々が返事をする。旦が登場)
丹楓の葉は染まり
たちまちに湖の光は澄みて
涼しさは商素[8]に生ぜり
(呉王夫差に拝礼をする。呉王夫差)
三千の宮女を擁せり
(人々)
絳綵は春も艶やか[11]
鉛華は昼も輝けり[12]
埋め尽くす鴛鴦浦[13]
(西施)
若耶は遙けく
浣紗渓 いづこにありや
(呉王夫差)西施よ、おまえは髪を洗ったばかりだな。
(西施)大王さま、晩に涼んで疲れてしまい、起きるのが遅くなりました。
(呉王夫差)西施よ、晩に涼んだときのことを覚えているか。
(西施)はい。氷の肌に玉の骨、おのづから清涼にして汗をかくこともなし。水殿[14]に風は来りて、暗香[15]は盈つ。一点の明月は人を窺ひ、人はいまだに寝ることなく、枕に倚れば釵は横に鬢は乱れり。
(呉王夫差)立ちあがれば、庭に音なく、時に見る、まばらな星の銀河を渡るを。こころみに問ふ、夜はいかにぞと。夜はすでに三更にして、金波[16]は渡り、玉縄[17]は低くめぐれり。
(人々)秋風のいつきたるかを指折り数ふ 思はざりき歳月のひそかに巡るを。
(呉王夫差)西施よ、昨日はすでに画船[18]と簫鼓を準備した。ともに湖上へ蓮の実を採りにゆこうぞ。
(人々)画船はすでに準備されております。大王さまとお妃さまのご搭乗をお待ちいたしておりまする。
(人々が太鼓を鳴らし、船を発進させる。西施)わが越渓に採蓮曲は二つあり。こころみに大王さまのために歌はん。
(呉王夫差)西施よ、ありがとう。
(西施が歌う)
秋の江の岸辺には蓮こそ多けれ
採蓮の女児 船を漕ぐ歌
花房と蓮の実はともに戢戢[19]
進むを争ひ 折るを競ひて緑葉のまにまに歌へり
恨むらくは 長き茎に逢ひたるも 蓮の根を得ることのなき
断たれしところに糸多く 棘の手を傷つくる
いづれの時にか伴を求めて帰りきたらん
山河は遙かに 頭をめぐらすこともなし
(呉王夫差)絶妙じゃな。酒をもて。大觥[20]を飲むとしようぞ。
(西施)
蓮を採る 蓮を採る 芙蓉の衣
秋風は波を起こして 鳧雁[21]は飛べり
羅の裙と玉の腕にて 軽やかに櫓を揺らしたり
呉で歌ひ 越で笛吹く 相思の苦
相思の苦
寄り添ふべからず[27]
江南に蓮を採り すでに夕暮れ
海の辺の旅人はいまだ還らず[28]
(呉王夫差)ますますすばらしい。さらに大觥を飲もうぞ。
(呉王夫差)
澄みたる湖水は一万頃
花は集まり錦繍のごと
十里には紅妝[29]を敷く
両岸より緩やかに風は来たりて
そよそよと袂を渡り 涼を生ぜり
たゆたふは
百隊の蘭舟[30]に
千群の画槳[31]なり
流れには競ひて放つ蓮採りの船
(合唱)
ただ願はくは二人とも睦み合ひ
とこしへに鴛鴦に倣はんことを
(西施)
愛づるに堪へたり
波は平らに掌のごと
深きところに歌声は繚繞たり[32]
隠隠と斉唱すれど
麗しき顔と羅の裙は見ることを得ず
緑葉、紅花はわらはと同じ[33]
むなしく思ふ
藕絲は断たれて繋がることなし[34]
水玉は丸けれど砕け散り[35]
端無くも新たな棘はことさらに裳裾を牽けり
(合唱。呉王夫差)西施よ、わしは蓮の花とおまえの顔を見比べているが、花はおまえに及ばぬぞ。
相依りて、玉と香とを比べあふ[36]
花と顔とを比ぶれば
花は恥ぢ入り 深く隠れん
身に影の沿ふがごと
身に影の沿ふがごと
何人か根と実のごとく寄り添はん[37]
思ひみよ
美しき顔に赤みはさして
芳しき花心は露を吸い込めり
清らかな波は濺ぎて 裙襠を潤せり
(合唱。呉王夫差が酔う。西施)
悲しや
夕日は山に含まれて
寒鴉は帰るも
ぐづぐづと水雲郷にとどまれり
風露は冷たく
風露は冷たく
いかでか堪へん 蓮房を傷なふに
寂しや
たくさんの蓮の実を一緒に集め
絡まれる蓮絲を分く
浣紗渓にて出会ひし人はいづこにありや
(合唱、呉王夫差)おまえのお陰でまた酔ってしまったわい。
(西施)大王さま、浦に風はめぐり、山に日は落ちましたから、船を戻すといたしましょう。
(呉王夫差)内侍らよ、命を伝えよ。各船の宮女たちに、蓮華を手にし、妃を館娃宮へ送るよう命じるのだ。
(宮女たちが花を手に執り進む。人々)
日は蒼黄[38]たり
蘭橈は帰りゆき 船はあまねく香るなり
秋風は烈しく吹きて 寒潮は漲れり
争ひて蓮摘みの歌を唱へり
さらに十里の回塘[39]に
月は初めて上るなり
(呉王夫差が西施にむかって)
酔ひの醒めたる眼にて
じつと見たれば
憎むべき顔[40]
紅裙は緑衣の男に嫁ぐべし[41]
たちまちに胸はむずむず
恨むらくは牙牀[42]に上るを得ざること
(呉王夫差が酔う。西施が呉王夫差を背負う)
顛鸞と倒鳳[43]
随蜂と趁蝶[44]を
いかで拒まん
(人々)
帰りの路に暮の雲は長うして
空の中に響きを聞けり
館娃の高き処にて笙簧を奏でたり
もう館娃宮につきました。大王さま、お妃さまが宮殿に入られます。
(呉王夫差)内侍たち、すぐに華燭を持ってきて、洞房へいくのだ。
(人々が返事をする。人々)
宛転と[45]
千行の灯燭は輝きて
道を夾んで羅綺は盤旋りたり
笙歌は嘹喨[46]
香霧は氤氳[47]
麝蘭は処処に漂へり
(呉王夫差)
今宵は楽しきことあれば
いそいそと羅の帳に入れり
二人揃ひて布団の中で鸞鳳[48]にしぞ倣ふべき
やすやすと手放しはせず
良宵に思ひのままに狂ふべし
(酔って人々に支えられるしぐさ。西施)
損なはれたる香と玉[49]
踏みしだかれし紅、翠[50]
いやいや相手をするよりほかなし
(人々)
銀河は明るし
娟娟[53]たる残月は回廊に下りたり
(尾声)
(呉王夫差)ぐてんぐてんに酔つ払ひ 洞房に入り
(西施)野外には幾たびか鶏の音を聞けり
(人々)ただ願ふらくは 万歳千秋 楽しみの尽きざることを。
(呉王夫差)銀箭、銅鼓 漏水多く[54]
(西施)こころみに見よ、涼しき月の紅き波にし落ちぬるを
(人々)呉歌と楚舞 歓びはいまだ終はらず
(合唱)東方はやうやく白み 楽しみをいかにすべけん
[1]正殿以外の建物。
[2]長江東岸の地。すなわち呉。
[3]主語は贈り物。
[4] どのような物なのかは未詳。模様のある箱状の物か。勾践が夫差にこれを七つ送ったという記述が「呉越春秋」にある。
[5]贈り物に添える挨拶状。
[6]葛布は通気性がよい夏用の布。これを着れば、夏でも後宮は汗臭くならずにすむという趣旨と思われる。
[7]原文「的是這等風自己之流、慷他人之慨的」。未詳。とりあえず、このように訳す。
[8]商素は素商のことで、秋のこと。商は五音の一つであり、秋に相当。素は白に同じであり、白は五色の一つであり、秋に相当する。
[9]戦国時代、秦の昭王をいうが、ここでは関係あるまい。越から見て西にある、呉の国の夫差自身をいったものであろう。
[10]翡翠の羽で作った傘。
[11]絳綵は赤いあやぎぬ。花の咲き乱れる春でさえも、宮女たちの身に着けている赤いあやぎぬは美しく見えるということ。
[12]鉛華は白粉のこと。白粉を塗った宮女たちの顔は昼でも明るく輝いているということ。
[13]未詳。
[14]水辺にある殿閣。
[15]闇に漂う花の香り。
[16]月光、月影をいう。
[17]北斗第五星玉衡の北にある二つの星。天乙、太乙をいう。
[18]彩色を施した舟。
[19]集まるさま。
[21]鴨と雁。
[22]木犀の棹。
[23]木蘭の櫂。
[24]遠い果てにある浦。
[25]用例をほかに知らぬが、蓮の葉が生い茂り、島のように見えているのが葉嶼であろう。
[26] これも用例をほかに知らぬが、蓮の花が咲いている湖、または岸辺に花が咲いている湖をいうのであろう。
[27]呉にいる西施が、越にいる范蠡に逢うことができず、苦しんでいるさまを歌ったものであろう。
[28]原文「海上征夫猶未還」。「海上征夫」は越の国の范蠡を指していよう。
[29]本来は赤い服を着けた宮女たちをいうが、ここでは地面一杯に咲いた花のことであろう。
[30]木蘭の舟
[31]彩色を施した櫂。
[32]原文「見深処繚繞歌声」。「深処」とは、もちろん蓮の葉が深く茂っているところであろう。
[33]原文「緑葉紅花一様」。よく分からぬが、あとの部分で、蓮に自分を喩えていることから、蓮は自分と同じであると歌ったものか。
[34]原文「藕断難聯」。孟郊「去婦詩」「妾心藕中絲、雖断猶連牽」をふまえる。自分と范蠡が離ればなれになってしまっていることをいう。
[35]原文「珠円却砕」。杜甫『重江鄭監審前湖』「棹払荷珠砕却円」を逆にふまえる。
[36]玉が西施、香が蓮を指していると思われるが未詳。
[37]原文「誰似根共心双」。未詳。心は「蓮心」で、蓮の実のことと思われる。
[38]急ぐさま、倉皇に同じ。ここでは日がつるべ落としで落ちてゆくさまをいったものであろう。
[39] くねくねと曲がった水辺。
[40] これは逆説。可愛いの意。
[41]原文「紅裙宜嫁緑衣郎」。緑衣は「詩経」邶風の篇名で、衛の荘姜が妾に正妻の地位を奪われ、作ったとされる詩。ここでは呉王が西施を正妻にしようとしていることをいっているという。張忱石等校注『浣紗記校注』による。
[44]花を追い求めてやってくる蜂や蝶。男を喩える。ここでは呉王夫差のこと。
[45] ゆらゆらとするさま。
[46] よく響き渡るさま。
[47] もやもやとしたさま。
[48]顛鸞、倒鳳のこと。
[49]原文「残香破玉」。香も玉も女性をさす。損なわれた女性。すなわち西施自身のこと。
[50]原文「蹂紅践翠」。紅は花、緑は柳。いずれも女性をさす。踏みしだかれた花と柳。こちらも損なわれた女性の意味で、西施自身のこと。
[51]鴛鴦の形をした瓦。
[52]散らしたように霜が降りる。
[53]美しいさま。
[54]銀箭は漏刻の部品の一つ。銅鼓は時報を告げる太鼓をいっていよう。「漏水多く」は長い時間が経過するの意。