第二十八齣 見王(西施が呉王に見える)
(呉王夫差、伯嚭、王孫駱が登場。呉王夫差)
海国の烽煙は今やことごとく払はれて
士気は揚がりて空をも凌げり
(伯嚭)
太平の世に旧き軍衣を着くるを恥ぢたり
(王孫駱)
われと汝は朝廷にあり
勤労を忘るるなかれ
(伯嚭、王孫駱)王さま、伯嚭、王孫駱が参りました。
(呉王夫差)太宰、大夫よ、挨拶は抜きだ。太宰よ、わしは斉を伐とうと思うが、伍員の老いぼれはしばしばわしに諫言している。わしはあやつの言葉を聞かず、あやつが騒ぐことを恐れて、斉国に遣わした。ところが先日孔仲尼が門人の子貢を遣わし、わしに斉を伐つように言ってきた。孔仲尼どのは大聖人だが、かようなことをおっしゃるとは。ますます斉を伐つべきだ。それに呉と魯は兄弟の国。伍員が戻ってきたら、すぐ出陣だ。
(伯嚭)王さまのおっしゃることはごもっともです。
(呉王夫差)太宰、大夫よ、わしは昼姑蘇台で寝て、夢を見て、章明宮に入ったのだ。そこには米の入った釜が二つあったが、米を炊けども炊き上がらなんだ。黒い犬が二頭おり、南と北で吠えていた。鋼の鍬が二つあり、わが宮殿の壁に突き刺さっていた。流れる水が湯湯[1]と、わが宮殿に入ってきた。奥の部屋ではかんかんと、鍛冶屋のような音が聞こえた。前庭には、梧桐がたくさん生えていた。この夢の吉凶を、試みに占ってくれ。
(伯嚭が拝礼してお祝いする)王さまの夢はすばらしきもの。兵を起こして斉を伐つべし。わたくしは、章明とは、敵を破り、功を成し、名声を明らかにすることなりと聞いております。二つの釜でご飯を炊いても、炊き上がらなかったのは、王さまの徳が余りあるということです。二頭の犬が南と北で吠えていたということは、四方が帰順し、諸侯を召すということです。二つの鍬が宮殿の壁に刺さったということは、農民、工人が力を尽くし、田夫が耕すということです。流水が宮殿に入ってきたということは、隣国が進貢し、財貨が満ちるということです。奥の部屋で鍛冶屋のような音が聞こえたというのは、宮女が楽しみ、声が和するということです。前のお庭に梧桐がたくさん生じたということは、桐で琴瑟を作りますから、音が和するということです。王さまの夢はすばらしきもの。兵を起こして斉を伐たれるべきであります。
(呉王夫差)太宰の言うことはもっともだ。王孫大夫よ、試みに占ってみよ。
(王孫駱)私は平素より愚昧にして、占いは存じませぬ。城西の陽山に一異士がおり。公孫聖と呼ばれております。見聞が豊富ですので、ご不明な点がございましたら、問われれば必ずや吉凶を知ることができましょう。
(呉王夫差)大夫よ、その者を呼んできてくれ。ぐずぐずしてはならぬぞよ。
(王孫駱が返事をして退場。范蠡、西施が登場。范蠡)
風塵に奔走するも心はいまだ衰へず
往年の囚はれ人は朝廷を訪れり
(西施)
何ゆゑぞ軽軽しくも故国を棄つる
花は落ち、枝を離れて
風に任せて翻る
(范蠡)西施よ、とりあえず宮門の外で待っているのだ。先に行き謁見するから、その後から入ってくるのだ。
(人々が来訪を告げる。范蠡が中に入る)越の陪臣范蠡が叩頭をしたします。
(呉王夫差)立たれよ。
(范蠡)とんでもございませぬ。東海[2]の寡君[3]勾践は久しくご挨拶いたしませんでしたので、私を遣わし、いささかご挨拶申し上げるのでございます。それから、先王の妹で、歌舞をわきまえた、西施というものを、献上いたします。お使いください。
(呉王夫差が喜ぶ)范大夫どの、遠路ご苦労であった。西施は今どこにいるのだ。
(范蠡)宮門におります。勝手に入れるわけにはまいりませんので。
(呉王夫差)范大夫よ、呼んできてくれ。
(范蠡が西施を案内して中に入る。呉王夫差が笑う)西施よ、立つのだ。はたして天姿国色で、絶世無双じゃ。わが宮殿の女たちにも、彼女に勝るものはおるまい。越王のおばならば、范大夫よ、おまえの主君はこのわしをおじさまと呼ばねばならぬぞ。
(范蠡)左様でございます。
(伯嚭)王さま、私は大勢の婦人を見てまいりましたが、かばかりに美しきご婦人は見たことがございませぬ。范大夫どの、御身らは善人です。私ならば、本国にとどめおき、自分で楽しみ、他の人に送りはしませぬ。
(范蠡)太宰さま、ご冗談を。大王さま、わが君は呉より越へと戻りし日より、日々王さまの恩徳を懐かしみ、忘れようとはいたしませぬ。
(范蠡)
故郷に戻りてより後は、日夜無聊で
北のかた、姑蘇を望みて、涙をひそかに弾きたり
王さまに罰せられんことを恐れて
煎らるるがごと、寝返りをうつ
深きご恩に報ゆることもかなはねど
佳人を献じ、とりあへず灑掃に供すべし[4]
(合唱)
見れば楚腰[5]は
風前に鮫綃をとりて舞ひたり
美人を描くことこそ難けれ
(西施)
金屋に阿嬌をば貯へたりと称せられんことを羞ぢたり[8]
泥途[9]にあること久しきも
にはかに雲霄に上れり
本日はさいはひに恩星[10]は高く照れども
なほ憂ふ、胸の思ひの晴れざることを
(合唱。伯嚭)王さま、越王の恭順の意は、まことに敬うべきものです。
(伯嚭)
越王は東海の臣僚[11]にして
厚恩を受くること一朝ならず
越王は貧窮し、今に至るも
困苦を告ぐることもなし
多嬌を送り忠孝を示したり
(合唱)
祈るべし
願はくは、両国の百年までも誼の永からんことを
(呉王夫差)
わしの心は淫らなるものなれば
洞房の寂しきことを最も恐れり
このたび美人の来たりしは
わが一生の楽しみぞ
朝にも晩にもかの人を胸に抱かん
(合唱)
祈るべし
願はくは、王さまの百年も添ひ遂げんことを
(伍子胥が登場)風塵に奔走し鬢はすっかり白くなり、運は衰え志気は挫けり。わが身は国を去れること三千里。一日に君を思うこと十二時。王さま、伍員が参りました。
(呉王夫差)老相国よ。戻ってきたな。戦の期日はどうなった。
(伍子胥)斉君は晩秋に交戦するとおっしゃいました。王さまにご報告申し上げます。
(范蠡)伍相国さま、こんにちは。
(伍子胥)范大夫どの、こちらへ何をしにこられたか。
(范蠡)わが君がこの娘をば大王さまに献上し、使っていただくのでございます。
(伍子胥)王さま、受け取られてはなりませぬ。わたくしは五音は耳を聞こえなくするもので、五色は目を眩ますものと聞いております。それゆえに、桀は妹喜に、紂は妲己に、幽王は褒姒のために、献公は驪姫のため滅ぼされたのです。昔から命と国を喪うに、婦人が原因でなかったものはございません。今、越王が娘を献上いたしましたは、王さまが暗君たちに習われるのを期待したもの。決して受けてはなりませぬ。
(呉王夫差)老相国よ、おまえが国にいなかったので、わしは清々しておったが、ここに戻ってきたとたん、他人のことに口出しするとは。この娘を受け入れたとて、悪いことなどあるまいに。ずっと遠出をしていたのだから、とっとと妻子に会いにいけ。ここで騒いでいてはいかん。さあ、さあ、さあ。
(伯嚭)王さまのおっしゃることはごもっともです。
(伍子胥が長嘆息する)ああ、もうだめだ。「友と飲むなら千鍾さえも少ないが、話しが合わねば半句でも余計なもの」とはまさにこのこと。
(退場。呉王夫差)憎らしい爺めが。必ずや殺してやる。そうすれば胸もすっきりするだろう。
(伯嚭)王さまのおっしゃることはごもっともです。
(呉王夫差)范大夫どの、その昔あいつの話しを聞いていたらば、ご主君と貴殿を殺していただろう。帰国されたら、ご主君にお話しあれ。お国にあのような者がいたらば、決して用いてはならぬとな。
(范蠡)わが君は決してあのような者は用いませぬ。
(呉王夫差)太宰よ、范大夫どのといっしょに前殿へ行き、旅路の労をねぎらって差し上げるのだ。わしは明日また宴を設け、送別をすることにしよう。
(范蠡、伯嚭が退場。呉王夫差)内侍たちはどこにいる。
(人々が返事をする。呉王夫差)わしは西施と合巹杯[12]を飲もうと思う。はやく華燭を用意して、洞房に案内してくれ。
(人々が返事をする。呉王夫差が西施の手をとる。呉王夫差)
平素より、楽しみを追ひ求めども
一人も気に入る者はなし
元気はいまだ衰へず
天の下せるこの美人
優しくてまことに麗し
今のところは倒鳳と顛鸞になるを許さず[13]
(合唱)
われは老いたり
われは老いたり
鴛衾と繍帳を諦めて[14]
昼間も夜も一人で過ごさん
(西施)
大王さまは香玉を憐れむと仰せられども
雲雨にいまだ遭ふことなし
王さまはわらはのいまだ幼きをご配慮めされり
(呉王夫差)
閉ぢられしおまへの門を軽く敲けり
(西施)
必ずやとこしへに水魚のごとく交はらん
(合唱)
(呉王夫差)誰か勝らん、絶世の佳人の顔
(西施)洞房の深きところで縁を結べり
(人々)歌へば翡翠の簾の前に残んの月あり。
(合唱)酔ふて倒れば、夢の中にて、巫陽の雲[17]となりつべし
[1]水流が盛んなさま。
[2]越のこと。
[3]自分の主君を謙遜していう言葉。
[4]「佳人を献じて掃除にでも使っていただきましょう。」ということ。
[5] その霊王が細腰の美女を好んだことから、細腰をいう。
[6]「布裙荊釵」の略。粗末な服装をいう。
[7]蓬と茅。貧賎の境遇を譬える。
[8]漢の武帝が四歳のとき、美貌の阿嬌という宮女を見て気に入り、彼女を嫁にとったら金の家に住まわせてやりたいといったという故事が、『漢武故事』に見える。これに因み、「金屋貯嬌」は、顔で結婚相手を選ぶということを意味することになった。
[9]泥濘路。
[10]救いの星。吉星。
[11]臣下をいう。越王は呉王の臣下も同然といったもの。
[12]夫婦固めの杯。
[13]倒れる鳳とまろぶ鸞。雲雨をする男女を喩える。
[14]鴛鴦の刺繍をした布団と刺繍を施した帳。いずれも閨房にあるもの。ここでは房事を喩えている。
[15]西施を喩える。
[16]呉王を喩える。
[17]巫山の南に出る雲。その昔、楚の襄王が、夢で神女と交わったところ、別れ際に神女が、自分は巫山の南で雲となり雨となろうといったという故事を踏まえる。呉王は酔って倒れれば、夢の中で西施と雲雨を行うだろう、の意。