第十九巻
周世福
山西石楼県の周世福、周世禄兄弟が闘ったとき、刀で兄の腹を突いたため、腸が二寸はみ出した。しばらくすると、腹の傷は平復して口のようになり、閉じたり開いたりすることができた。腸が外に垂れ下がったので、錫の碗で覆い、帯で縛ったが、大小便はいずれもここから出るのであった。このようなことが三年あまり続いてはじめて死んだ。死んだ日、鬼が家人の体に憑き、その弟を罵った。「おまえがわたしを殺したのは、前生の定めだが、数年早かったので、わたしは多くの汚穢に耐えさせられたのだ」。
韓宗g
わたしの甥韓宗gは、幼くして聡明で、五歳で『離騷』などの書を読むことができ、十三歳で秀才に挙げられた。十四歳のとき、楊制軍[1]が観風[2]して超等[3]に抜擢し、敷文書院[4]に送り込んだが、掌教[5]の少宗伯[6]斉召南[7]はかれを見て驚き、言った。「この子は風格が凡庸でないが、心配なのは長生きしないことだけだ」。
己卯八月一日の早朝、突然その母に言った。「わたしは昨日とても奇妙な夢を見ました。天上を仰ぎ見ると数百人が雲霧の中を奔走していました。文書を捲る者、紙や筆を授ける者がおり、姿も一様ではありませんでした。やがて点呼の声が聞こえましたが、三十七名になりますと、わたしの名前でしたので、驚いて一声応えて目が醒めたのです。呼ばれた名前は、一つ一つはっきりとしており、目醒めた時はまだ記憶していましたが、朝になり、衣を着て起きますと、すべて忘れてしまいました」。そして天榜[8]に名があったのだから、今回の試験は合格すると思った。
郷試になり、三場[9]がおわると、中秋で、月は昼のように明るかった。答案を提出しようとすると、人が叫んだ。「韓宗g、帰ろう」。このようなことが三たび、声はだんだん激しくなり、ぐずぐずしているのを責めているようであった。甥は「はい」と応えた。答案提出の時になると、四方を顧みても人がいなかったので、よろよろと帰った。翌日、ともに受験した友人たちに尋ねると、みな言った。「そのようなことはしていない。ぼくたちがいっしょに帰ろうとするなら、かならずほかの呼び方をする。君の名を呼ぼうとはしないよ[10]」。
合格発表があったが、不合格であったので、甥は悵悵として楽しまなかった。たちまち病に罹り、癒えることはなかった。臨終のとき「頭を挙げて明月を望み、頭を低れて故郷を思ふ[11]」の二句を苦吟すると、目を瞠って母に言った。「わたしは急に前生の事を悟りました。わたしはもともと玉帝の前で花を献じる童子でした。玉帝さまの誕生日、わたしは花を献じた時に下界の花燈[12]を盗み見たため、仙人たちはわたしの不敬を憎み、罰としてその日のうちに人の世に降したのです。今は期限が満ちたので帰るようにと促しているのです。お母さまには苦しまれませぬよう」。享年は十五であった。そもそも民間では正月九日は玉帝の誕生日だと伝えられている。
徐兪氏
ケ州[13]の知事徐廷璐は、妻兪氏と夫婦仲がとても良かった。兪が亡くなると、徐はたいへん嘆き、その化粧品や香のついた衣服を、一つ一つふだんのように置き、その半臂[14]を取って枕を覆った。一七[15]に、庭で供養していると、若い婢が驚いて叫んだ。「奥さまが活きかえりました」。徐が走って見にゆくと、夫人が半臂を着けて牀の上に端坐しており、子女や奴僕が奔って集まり、みなで見た。徐が走っていって抱こうとすると、その影は奄然[16]と消えたが、半臂はまだ立っており、しばらくするとはじめて倒れた。
ある晩、徐は席を設け、夫人とさしで飲もうとしたが、杯を執ると泣いて言った。「おまえが飲むのを戒めてくれていたのに、今では誰がわたしを戒めるのだろう」。話していると、手中の杯は突然所在を失い、侍立していた婢僕たちがくまなく捜したが見付からなかった。しばらくすると、杯は席上で覆っており、酒はすでに残り少なくなっていた。
妾が人に、「これからは奥さまがわたしを罵ることはできません」と語ったが、晩になると、夫人がまっすぐ寝台に登ってきて、その頬を打った。頬の上には青い指の痕ができ、三日たってはじめて消えた。それからというもの、家を挙げて、生前にもまして畏れ敬った。
琵琶墳
董太史潮[17]は、若くして科挙に合格し、書画文辞で時輩に冠絶しており、性格は磊落であった。詩を好み[18]、つねに名士たちとともに陶然亭[19]に集まり、散歩して詩を吟じていた。ひとり城門のほとりに行くと、突然琵琶の音が聞こえた。跡をつけると、音は数間のあばら屋から出ており、十七八の美しい娘が、淡紅の衣を着け、窓に拠りかかりながら弦を弾いていた。董を見ても、すこしも羞じて避けることはなく、相変わらず弦を弾いていた。董は徘徊して立ち去ることができなかった。仲間たちは董が長いこと来ないのを怪しみ、連れ立って捜したところ、董が壊れた窓に寄りかかってぼんやりと立っており、呼んでも返事しなかった。人々が唾を吐きかけると、董は驚いて目覚めたが、娘は姿もなければ声もしなかった。そこではじめて事情を話し、人々が部屋に入って捜したところ、壊れた瓦に崩れた垣、まったく人の痕跡はなく、蓬の生えた土盛りがあるばかり、俗にいう「琵琶墳」であった[20]。董を扶けて帰ったが、まもなく、疾のために常州に帰り、家で亡くなった。
曹阿狗
帰安[21]の程三郎は、妻は若く賢く、隣近所は三娘子と称していた。夏の日、朝の化粧をしていると、突然挙動がおかしくなったので、三郎は祟りに遇ったかと疑い、左手でその頬を打った。三娘子は叫んだ。「わたしを打たないでください。わたしは隣人の曹阿狗です。お宅で食事をお供えになっていることを聞き、人といっしょに赴いてきたのです。まいりましたが、わたしだけ席がございません。わたしは恥ずかしくお腹が空いておりますが、三娘子さまが賢いことを知り、わざわざ憑いて食べものを求めているだけでございます。怖がらないでくださいまし」。その隣の曹家は、大族で、前の晩に僧を招き『燄口経[22]』を誦えさせていた。阿狗は、曹氏の無頼で、若くして結婚せずに亡くなった者であった。阿狗には子孫がおらず、ほんとうにかれのために食事を供えていなかったため、この言葉を聞くとやはり驚き、ともに酒漿[23]紙銭を持って三娘子の前に行き、お祈りした。三娘子は言った。「今晩はわたしのためだけに食事を供え、わたしを河に送るべきだ。これから祭祀するときは、阿狗の名がなければならぬ」。曹氏が懼れ、言われた通りに送ったところ、三娘子は癒えた。
銭仲玉
銭生仲玉は、若くして落魄し、蘭溪[24]の役所でぶらぶらしていた[25]。上元の晩、仲間はみな外出し、観燈したが、仲玉は心が鬱鬱として、ひとり往かず、庭で月影を踏みながら嘆いた。「五百両があれば、骨肉が団円できるのだが」。そう言うと、階の下から「ございますよ。ございますよ」と返事が聞こえた。仲玉は友人がからかっているかと疑い、くまなく見たが、人が見えなかったので、書斎に還って坐していた。
すると窓の外で謖謖[26]と音がし、一人の美女が幃を掲げて入ってくると言った。「驚かないでください。妾は人ではございませんが、禍をなす者ではございません。佳節に異郷で、寂しさをともにしておりました。たまたまあなたのお言葉を聞き、あなたは七尺の男子なのですから、五百両を得るのは難しくないでしょうと笑ったのです」。仲玉は言った。
「それならさきほど『ございますよ。ございますよ』と言ったのはあなたですか」
「はい」
仲玉は言った。「どこにあるのですか」。女は笑って言った。「落ち着いてください。落ち着いてください」。すぐに仲玉の手を引き、ともに坐すると言った。
「妾は汪六姑といい、こちらに葬られましたが、汚泥に侵されております。高い処に改葬してくだされば、かならずあなたのお言葉通りにお礼しましょう」
「何の病で亡くなったのですか」
女は手で顔を蔽うと言った。「恥ずかしくて言うことはできません」。無理に尋ねると、言った。「妾は幼い時から風情を知っていました。貧乏な家で生長し、住んでいた楼は通りに面していました。たまたま窓に倚りかかっていましたら、一人の美少年がおしっこをしていましたが、その陰を出しており、紅々として玉のよう、妾はかれを慕い、天下の男子はみなこのようなのだと思いました。その後、野菜売りの周某に嫁ぎましたが、貌は佳くなく、体はもっとも穢らわしく、見た少年にまったく似ていませんでしたので、残念に思い、病気になり、口では事情を話せずに、亡くなったのです」。仲玉はそれを聞くと、心が大いに動き、下着を弛め、女の手を引き、さすらせた。すると突然、人の声が近づいてきたので、女はにわかに衣を払って起きあがると「まだご縁がございません」と言った。仲玉が塀の下に送ってゆくと、女は銀の腕輪を取って与え、「どうか忘れないでください」と言うと消えた。仲玉は恍然として夢のよう、銀の腕輪を見ると、手の中にあったので、隠しておいた。
翌晩、人が静まると、ひとりで塀の陰を歩み、くまなく見たがふたたび会うことはなかった。主人に語り、腕輪を出して証しにすると、主人は驚き、土を三尺ばかり掘ると、女の屍があった。衣服、装身具はすべて朽ちていたが、肌の色は生きているかのよう、仲玉が見た女と異ならず、右の臂には腕輪がまだ残っていた。仲玉は衣を脱いで被せ、棺や衾[27]を調え、高い阜に改葬してやった。
その晩、夢みたところ、女が来てお礼を言った。「あなたの信義に感じ、お金のある場所をお告げしましょう。あなたの寝台から左に向かって三尺のところに、昔、人が五百両を埋めてあります。夜が明けましたらお取りください」。言われた通りにしたところ、はたして金額通りの金を得た。
寄生する蝦蟆
朱生依仁は、書に巧みであったので、広西慶遠府の陳太守希芳はかれを招いて祐筆にしていた。折しも盛夏であったので、太守は僚友を招いて飲むことにした。席に就くと、それぞれが冠を取った。人々が見たところ、朱生の頭上に一匹の大きな蝦蟆がしゃがんでいたので、地に払い落としたところ、突然消えてしまった。飲んで夜になると、蝦蟆はまた朱の頭上に登っていたが朱は気が付かなかったので、仲間はまた払い落としてやった。席上の酒肴、果物は、すっかりめちゃくちゃになり、蝦蟆はふたたび現れなかった。朱生は帰って眠ったが、頭頂が痒いと感じた。翌日、頭頂の髪はすべて脱け、頭頂は瘤のように盛り上がり、紅い色になった。そして皮が突然破裂すると、一匹の蝦蟆が中から頭を伸ばし、目を瞠って眺めた。前の二本の足は頭頂に据えられていたが、腰から下は頭皮の中にあり、針で刺しても死ななかった。引き出そうとしたが、痛くて耐えられず、医者は治すことができなかった。老いた門番が言った。「それは寄生虫ですから、金の簪で刺せば死にましょう」。試すとはたして験があり、その蝦蟆を出すことができた。朱生はとりたてて病はなかったが、頭頂の骨は窪み、盂[28]を仰向けにしたかのようであった。
礅[29]の怪
高睿功は、世家の子であった。かれが住んでいる庁の前には怪がいた。毎晩人が歩いていると、身長一丈あまりの白衣の男が後をつけ、手で人の目を掩うのだが、冷たさは氷のようであった。そこでおもての門を閉ざし、別に門を開いて出入りしていた。すると白衣の男は昼に現れるようになり、人々はみな避けた。睿功がたまたま酒に酔って庁に坐していたところ、白衣の男が階に登り、柱に倚りかかって立ち、手でその鬚を捻り、天を仰いで目を細め、睿功が坐しているのが見えないようであった。睿功はひそかにかれの後ろに行き、拳を揮って撃ったが、誤って柱に中たり、指を挫いて血を流した。白衣の男はすでに丹墀[30]の中に立っていた。睿功は大声で叫びながら走って撃とうとしたが、折しも陰雨で、苔が滑らかであったため地に倒れた。白衣の男はそれを見て大声で笑い、手を挙げて撃ちかかってきたが、腰を屈めることができなかった。足で蹴ろうとしたが、足も長いので挙げることができなかった。そこで大いに怒り、階を巡って走った。睿功はかれが無能であることを知ると、進み出て、その足を抱きかかえ、力一杯持ち上げると、白衣の男は地に倒れて消えた。睿功は家人を呼び、かれがはじめに現れた処を掘らせたところ、深さ三尺のところに、白磁の旧い坐礅があった。礅の上には鮮血がまだ残っていたが、それは睿功の指の血が染めたものであった。撃ち砕くと、怪はいなくなった。
六郎神[31]が闘うこと
広西南寧の郊外では、六郎神を祀っていたが、人が無礼なことを言うと、祟るのであった。美しい娘をもっとも好み、美しい者は憑かれることが多かった。その害を受ける者は、紙銭一束、飯一盂、二三の楽人を用い、真夜中に祀り、曠野に送ってゆけば、よそへ去ってゆくのであった。人々が六郎を送らない夜はなかった。
楊三姑という者は、年は十七、姿形は美しかった。日が暮れようとする頃、父母とともに坐していると、突然嫣然と笑った。しばらくすると、部屋に駆け込み、朱を施し、粉を塗り、さまざまに羞じらった。父母が尋ねてゆくと、磚や石が空から擲たれ、部屋の入り口は閉ざされ、両人が談笑する声が聞こえるばかりであった。六郎だと知れたので、すぐに楽人を呼んで送ろうとしたが、六郎は去ろうとしなかった。朝になると、女は普段通り出てきて、言った。「六郎さまは美少年で、頭には将巾を戴き[32]、身には軟甲[33]を着け、年は二十七八ばかりで、わたしととても睦まじくしていますから、あのかたをお送りになることはありません」。父母はどうすることもできなかった。
数日後、突然あたふたと奔り出てくると言った。「もう一人の六郎さまが来ました。大きな鬍で、貌はとても凶悪で、前の六郎さまと、わたしのことで争って殴りあいました。前の六郎さまはかれの敵ではなく、もうすぐ去ってしまわれましょう」。するとにわかに部屋からとても劇しく闘う声が聞こえ、あらゆる物が壊されているかのようだったので、父母は楽人を召して二人を送らせた。二人はいずれも去り、三姑も恙なかった。
返魂香
わたしの家の婢女招姐の祖母周氏は、年は七十余、仏を信仰してたいへん敬虔であった。ある晩、寝たところ、部屋に老嫗が立った。はじめはたいへん短かったが、見るとだんだん長くなり、紙片を手にしてその几の上に積み上げた。藍の布裙[34]を着ていたが、色はとても鮮やかであった。周は、どちらも同じ藍色なのに、どうしてかれだけ鮮やかなのだろうと憶い、「おばあさんの藍布はどちらで染めたのでしょうか」と尋ねたが、答えなかった。周は怒り罵った。
「わたしが尋ねているのに答えないとは、鬼だろう」。
嫗は言った。
「そうです」
「鬼ならば、わたしを捉えにきたのか」
「そうです」
周はますます怒り、罵った。
「わたしは捉えられないぞ」
手でその頬を打つと、知らぬ間に魂が出て、すでに門の外におり、老嫗は見えなくなっていた。
周は黄沙の中を行き、足は地を履んでいなかった。四方には人がいなかった。建物を望み見たが、すべて白壁で、とても広かったので、中に入った。案には香が一本あったが、五色で、秤の竿のように長く、上は火が紅く点り、下は色糸で幾重にも覆われ、世間で子供が被っている劉海搭のようであった[35]。老嫗が香の下で拝礼していたが、貌はとても優しく、周にどうして来たかと尋ねたので、周は言った。
「路に迷ってこちらに来ました」
「帰りたいですか」
「帰りたいのですが、できないのです」
嫗は言った。「お香を嗅げばすぐに帰れますよ」。周が嗅ぐと、異香が脳を貫き、驚いて蘇ったが、家で倒れてすでに三日になっていた。ある人が言った。「それが聚窟山[36]の返魂香だ」。
観音が別れを告げること
方姫[37]は檀香の観音像を信仰していたが、長さは四寸であった。わたしは性来礼節に拘らないので、礼拝しなかったが、禁じもしなかった。張媽という者は、信仰がもっとも篤く、毎朝かならず仏前に往き、香を焚き、稽首しおわると、はじめて掃除するのであった。わたしはある日の朝、洗顔の湯を求め、たいへん急いでいたが、張は仏を拝するのを止めなかったので、わたしは怒り、観音像を取ると地に擲ち、足で踏んだ。姫は泣いて言った。「昨夜、夢みましたところ、観音さまがわたしに別れを告げにきて、『明日は小さな災いがあるから、わたしはよそへ行くとしよう』と仰いました。今回はたしてあなたに踏まれてしまいましたが、これが運命なのですね」。そして準提庵[38]に送り込んだ。わたしは想った。仏法はすべて空なのだから、そのような気の利いたことはできない、きっと鬼物が憑いているのだと。その後、家人が仏を信仰するのを許さなかった。
兔児神[39]
国初、御史某は若くして科挙に合格し、福建を巡按した。胡天保という者はかれの貌が美しいのを慕い、輿に乗ったり、役所に坐したりするたびに、かならず伺い見ていた。巡按は疑わしいと思ったが、結局そのわけが分からず、胥吏も事情を語ろうとしなかった。まもなく、巡按がほかの県を巡ることになると、胡はいっしょに往き、厠に潜んでその臀を覗いた。巡按はますます訝り、召して尋ねた。はじめは事情を話さなかったが、三木[40]を加えると、言った。「実は大人のお美しい貌を見て、忘れられなかったのです。天上の桂が凡鳥の集まる所でないことははっきり分かっていましたが、神魂は漂って、知らぬまに無礼にもこちらに来たのでございます」。巡按は大いに怒り、かれの命を刑具で奪った。
一月後、胡はその郷里の人の夢枕に立って言った。「わたしは非礼な心によって貴人に無礼を働いたのだから、殺されたのはもとより当然のことだが、所詮は一片の愛欲、一時の痴情であって、尋常の人を害する者とは違う。冥界の官吏はみなわたしを笑い、わたしをからかい、わたしを怒る者はいない。今、陰官はわたしを封じて兔児神にし、もっぱら俗世の男色の事を司らせている。わたしのために廟を建て、香火[41]を招いてくれ」。閩の風俗では、もともと男子を招いて契弟[42]とすることがあったので、郷里の人が夢の中の言葉を述べるのを聞くと、争って醵金して廟を建てた。はたして霊験は響くかのようであった。およそ密会しようとして、願いを果たせない者は、みな祷りにいった。
程魚門[43]は言った。「この巡按は『晏子春秋』の、羽人を誅しないように勧めた故事[44]を読んでいないので、とても手荒なことをしたのだ。狄偉人先生ならそうすることはなかっただろう。言い伝えでは先生が編修[45]であった時、若くて貌が美しかった。車夫の某は、やはり年若く、役所に入り、先生のために車を推し、とてもまめまめしくし、給料を与えようとしても[46]、受けることなく、先生もかれを気に入っていた。まもなく危篤になり、医者たちも効かない、息絶えようとする時、主人を招いてきて、言った。『奴はもう死にますから、申さぬわけにはまいりません。奴が病死するに至ったわけは、旦那さまのお貌がお美しいのをお慕いしていたからでございます』。先生は大声で笑い、その肩を叩いて言った。『馬鹿な奴だな。そのような気持ちがあるなら、どうしてはやく言わなかったのだ』。そして手厚く葬ってやったのだ」。
玉梅
香亭の家の婢玉梅は、年は十余歳、もともとまめまめしかったが、突然怠け者になり、終日眠り、笞うっても改まらなかった。毎晩喃喃として、人とこっそり語っているようであったが、尋ねても、話そうとしないので、下着を剥ぎ、その陰を調べると、すでに処女ではなく、めちゃくちゃになっていた。拷問すると言った。「夜に怪が現れるのです。姿は黒い羊のようで、人の言葉を話すことができます。陽物は毛錐のようで、痛みには耐えられません。人に告げないように戒め、人に告げれば、わたしを連れ去り、死地に置くとのことでした」。人々は愕然とした。
婢が横になるのを伺い、夜ひそかに聴いてみると、はじめは猫が水を飲む音がし、ついで呻いた。香亭は人々を率い、棍棒を持って入り、燭で照らしたが人がいなかったので、尋ねた。「怪はどこにいるのだ」。婢は牀の下を指すと言った。「この緑色の眼の者でございます」。はたして二筋の眼光が輝いており、帳の色はことごとく緑になっていた。棍棒で撃つと、跳びあがり、窓を衝いて去り、部屋の帳の鉤、箱の鎖の類は、ちゃらちゃらと音をたてた。
翌日婢は行方不明になり、くまなく捜したが見付からなかった。薄暮、料理人は紅い布裙が薪小屋の西の隅で風に飄っているのを見たので、捜しにゆくと婢がいた。ぼんやりとして目醒めなかったが、生姜汁を灌ぐと、蘇って言った。
「怪は昨夜来て、『おまえの主人に知られてしまったから、おまえを抱いて去らないわけにはゆかない』と言いました。そしてわたしを薪小屋の中に隠し、今夜また来ることを約したのです」
「猫が水を飲む音がしたが、何なのだ」
「怪はわたしを犯すたびに、舐めてから交わるのです。口で舐めるとすこし楽になるのです」
香亭が即日媒酌を呼び、玉梅を他の家に転売したところ、怪は来なくなった。
盧彪
わたしの若い時の同館[47]盧彪は、ある日庶常館に来たが、顔色が優れなかったので、尋ねると、こう言った。「昨日西湖に墓参りしにいったが、帰るのが遅くなった。城門は閉ざされていたので、とある宿屋に泊まった。夜の月はとても明るかったので、鶏が鳴くとすぐに起き、月影を踏みながら城に入った。清波門[48]外に行き、石の上でしばらく休んでいると、遠くから一人の娘が来て、わたしに向かって平伏した。わたしはかれが人でないことを疑い、口ずから『大悲呪』を誦えて拒んだ。女は聞くのを畏れて近づこうとしないかのようだったので、わたしは近づいて誦えた。わたしが女に近づくほどに、女はわたしから遠ざかったので、わたしは驚き、狂奔すること数里、甕城[49]に入ろうとすると、東の方角がようやく白み、魚売りが天秤を担いで往来していた。この時は、もはや恐れることはない、また元の場所に行き、行動を探ってはどうかと思った。ところが路を進むと、女は高い石の上に坐しており、待っていたかのようだった。そしてわたしを望み見ると大声で笑い、駆け寄ってきて打とうとした。冷たい風は箭のよう、毛髪はすべて顫えた。わたしは慌て、ふたたび『大悲呪』を誦えて拒んだ。女は大いに怒り、手を上に向かって伸ばすと、二本の骨でかたかたと音をたて[50]、顔は青になったり黄になったりし、七竅から血を流した。わたしはおもわず狂って叫ぶと地に倒れたが、骸骨はそのまま圧してきたので、わたしはそれから昏昏として意識がなくなった。その後、路を行く者が通りがかり、扶け起こし、生姜汁をわたしに灌いだので、はじめて意識が戻って家に還ることができたのだ」。わたしは急いで同窓生たちとともに酒を買い、盧を慰めてやった。見ればその耳鼻二つの穴及び辮髪の中にはまだ青い泥が詰まっており、粒状で小豆のようであった。ある人が言った。「すべて盧さんがみずから詰めたものです。ですから両手もみな泥で汚れているのです」。
孔林[51]の古墓
雍正年間、陳文勤公世倌[52]は孔林を整備した。聖墓を離れること西へ十余歩のところで、地面が陥没していたので、探ったところ、中は空で、広さは一丈あまり、石の榻があり、榻の上の朱塗りの棺はすでに朽ちていたが、白骨一体はたいへん大きかった。傍には銅剣が置かれていたが、長さは一丈あまり、透明で緑色、竹簡数十頁には、蝌蚪の文字が書かれているようであった。取って見たところ、灰になった。鼎、俎、尊、彝の類も[53]、多くは破損摩耗していた。文勤公はこの墓は孔子よりも前のものだから、動かすべきでないと思い、謹んで磚や石を加えて封じ、少牢[54]を供えてやった。
史閣部[55]が乩に降ること
揚州の謝啓昆太守[56]が扶乩[57]したところ、灰盤[58]に『正気歌』数句が書かれたので、太守は文山先生[59]かと疑い、冠を整えてうやうやしく拝した。神に姓名を尋ねると、「亡国の庸臣[60]史可法だ」と言った。時に太守は史公の祠と墓を修築し、周りに松や梅を植えていたが、尋ねた。「あなたのために祠と墓を修理していることを、ご存じでしょうか」「知っている。これは土地を治める者の責務だが、俗吏ができることではない」。みずからの官階を尋ねると、「位無きを患へず、立つ所以を患ふ[61]」と答えた。謝は子がなかったので、尋ねた。
「将来、男子を授かりましょうか」
「男子があって名声が消えるより、男子がなくても名声が残った方がよい。太守よ勉めよ」
「先生は最近神になったのですか」
「神になったのだ」
「何の神さまでございましょう」
「天曹[62]の稽察大使だ」
書きおわると、長い紙一幅を求めたので、尋ねた。
「何に使われるのでしょう」
「わたしはみずから対聯を題しようとしているのだ」
紙を与えると、「一代の興亡は気数に帰し、千秋の廟貌は江山に傍ふ[63]」と題した。筆力は蒼勁、謝公はそれを対にして、廟中に懸けてやった。
首を懸けた竿
某知事が宝山[64]の知事をしていた時、行商がひったくりを訴えにきた。ひったくりがあった処は入り江の船を泊める所であった[65]。知事がその地を見にゆくと、水路で城中に行くことができるのに、舟に乗っている者はこちらで人夫を雇って出発するのが慣例となっていたので、訝しく思ったが、人々はそのわけを言わなかった。
すると把総が会いにきて言った。「この地はもとより舟で通行することができますが、客商が来ました時に、かならず荷物を陸揚げいたしますのは、港の貧民に荷物を担がせることによって口を糊させてやるためでございます」。知事がひったくり事件について尋ねると、言った。「申すわけにはまいりませぬ。把総の罪をお許しになるのでしたら、はじめて申し上げましょう」
知事は言った。
「法律には自首すれば罪を免れるという条文がある。おまえがわたしに告げれば、自首だから、差し障りなかろう」
「ひったくりした者たちは、いずれも土地の有力な人々で、把総の息子もその中にいるのです。先月某商がこちらに来たとき、水路が通じているのを見、荷物を陸揚げしようとせず、口論になりましたことは、実際にございます」
乾隆三十年の新しい条例[66]では、強盗を捕らえた者は、破格の特進をすることとなっていた。知事は事件を処理する時、昇進したいと思っていたので、盗賊を捕らえたことをつぶさに報告した。把総は事情を知っていたので、窩家[67]の条例に照らしてただちに処刑した。一度に斬られた者は六人、知事は安慶[68]知府に特進した。
六年後、松泰道[69]の職務を代行した。海岸を巡察して宝山のひったくりがあった処に至ったが、見れば六本の竿に髑髏が掛けられてまだ残っていた。そこでお供の下役に尋ねた。「前方にたくさんあるものは何だ」。下役は言った。「あれは六人の盗賊でございます。大人はかれらのおかげで昇進なさいましたのにお忘れになったのですか」。令は思わずぞっとして、怒って言った。「馬鹿野郎。わたしをこちらに連れてこいと誰が言った。はやく戻れ。はやく戻れ」。役所に担いでゆくと、門番を罵った。「こちらは奥の間なのに、おまえはどうして某把総を勝手に入れたのだ」。そう言うと背に瘡が生じたが、一つの瘡に六つの頭がついており、齧られているかのようであった。家人は不吉であることを知ると、紙銭を焼き、高僧を招いて懺悔させたが、結局癒えることはなかった。
陳紫山
わたしの郷試、会試の同年陳紫山は、名を大[日侖]といい、溧陽[70]の人であった。入学した時、年はようやく十九であった。たまたま病が劇しくなったとき、紫衣の僧を夢みたが、みずから「元圭大師」と称し、かれの手を握って言った。「おまえはわたしに背いて人の世に行ったが、帰ってきてはどうだ」。陳が答えないでいると、僧は笑って言った。「ちょっと待てよ。まだ瓊林[71]の一杯の酒、瀛台[72]の一碗の羹があるから、食べてからやってきたとて遅くはないな」。その指を折りながら「さらに十七年別れるとしよう」と言うと去っていった。陳は目覚めると、汗をかいて癒えた。己未に進士に合格し、翰林に入り、侍読学士に昇任した。
三十八歳のとき、秋に下痢が止まらなくなり、以前夢みた十七年の期日のことを思いだし、癒えないことをみずから悟った。そしてしばしば家人に向かって笑いながら言った。「大師は来ていないから、また期日を改めたのかも知れない」。とある日に早く起き、香を焚き、沐浴し、朝衣朝冠を求めて着けると、言った。「わが師が来たから、わたしは去ろう」。同年の金質夫編修[73]はふだんから仏教を好んでいる者であったが、傍で怒鳴った。「かれを牽いてきて、今度はかれを引いて去る。去ったり来たりするのはなぜだ」。陳は目をしばし閉じ、つとめて起きあがると目を瞠って答えた。「来るときにもともと礙げがなかったのだから、去るのにも妨げはない。人の世と天の上とは、一つの壇場[74]なのだ」。そう言うと、結跏趺坐して亡くなった。
火の日を忌む
曹来殷太史[75]が京師で昼寝し、夢みたところ、偉丈夫が拝礼しにきて、みずから「黄昆圃先生[76]」と称した。とある場所に引いてゆくと、宮闕は巍然として、中に神さまがいたが、顔は真四角、本朝の衣冠を着け、曹を招き入れて会うと、言った。「わたしたち三人はみな翰林衙門の役人だから、先輩後輩の礼を行うだけで、僚属の礼は行わないことにしよう」。腰掛けると曹を見て言った。「卿は十一歳の時に大いに善いことを行ったことがある。上帝はそれを知り、わざわざ卿をこちらに召して職を授けることにしたから、卿はすぐに来るがよい」。曹は幼い時にどんなことをしたかを憶えていなかったので、再三断り、つよく述べた。「家は貧しく、子は幼いので、来ることは望みません」。神さまはとても不機嫌になり、傍の昆圃先生を顧みると言った。「もう一度、このものに勧めるのだ」。そう言うと、振り返らずに入っていった。
先生は曹を引くと笑いながら「わたしは翰林衙門がとても実入りが少ないことをよく知っている。おんみはどうして恋恋として来ようとせぬのだ」と言ったので、曹はさらに哀願した。先生は言った。「わたしがひとまずおんみのために取りなせば、免れることができようが、今後、火の日に外出してはならない。くれぐれも忘れないようにするのだ」。曹は尋ねた。
「神さまはどなたでしょうか」
「張京江さまだ」
「どちらにいらっしゃるのでしょう」
「天曹の都察院だ」
曹は目覚めた後、外出するたびに、かならず黄暦を調べ、火の日になると、慶弔事であっても、ことごとく行かなかった。しかし数年たつと、ほとんど忘れてしまった。
乾隆三十三年臘月二十三日、厳冬友舍人[77]は曹を程魚門の家に迎えて詩会を行ったが、民間ではその日竈を祀るので、それを題にした。席上酒が数巡すると、曹は倀然と眠っているかのよう、目は閉じて体は倒れた。客たちは大いに驚き、詩の中に竈神を侮る言葉があったので、神が祟ったのかと疑い、大勢で竈に向かって礼拝、祈祷した。三更になると、曹はようやく蘇り、みずから語った。「黒い袍の人がわたしを送って戻ってきました」。翌日、黄暦を取って見ると、二十三日で、火の日であった。
朱法師
同館の翰林朱澐の父朴庵先生は、陝西の人で、若い時は生徒を教えることを生業としていた。たまたまとある村に行くと、村人が触れ回った。「朱法師さまがいらっしゃったぞ」。酒肴を具えて姓名を書き、魔除けすることを求めた。朱は笑って言った。「わたしは蒙童の師で、法師ではない。それにもとより法術は知らないから、怪を鎮めることはできない。何のつもりだ」。人々は言った。「この村は狐仙がおり、三年間、民を害していましたが、昨日空中で語りました。『明日は朱法師が来るから、わたしは避けるべきだろう』。今日先生がいらっしゃいましたが、はたしてご姓を朱とおっしゃいますから、法師さまでございましょう」。朱が姓名を書き与えると、某村ははたして安らかであった。
まもなく、朱は別の村を通ったが、その村人は以前のように歓迎し、言った。「狐仙が言うには、二十年後、朱法師さまと太学[78]の崇志堂でお会いするとのことでした」。朱はその時まだ郷試に合格していなかった。
後に壬子科の挙人に合格し、国子監助教[79]に選ばれた。国子監の祭器は長いこと狐に盗み去られており、祭を司る者はあたふたとして、捜したが見付からず、弁償することを相談していたが、朱は以前の言葉を思いだし、文を作って祭った。ある晩、俎豆[80]の類が、すべて崇志堂に並べられたが、すこしも損われていなかった。指折り数えると、某村に行ってからすでに二十年になっていた。
城門の顔
広西府庁の下役常寧は、五鼓に急用があって城を出た。門に着くと、まだ鍵は開けられておらず、手でさすったところ、軟らかく人肌のようであった。下役は大いに驚き、残んの月のかすかな光の中、瞳を凝らして見たところ、人の顔が城門を塞いでいたが、五官がすべて具わっており、両眼は箕のようであったので、驚いて逃げ帰った。夜が明けると、隊列を組んで城を出たが、特に変わったことはなかった。
竹の葉の鬼
豊溪[81]の呉奉珴は、福建の山中で役人をしていたが、病と称して帰郷した。舟が豫章[82]を過ぎると、気候が暑くなったので、百花洲で空き家を借りたが、建物は広く、すこぶる快適であった。建物の内と外ではつねに鬼が嘯くような音がし、家人がひとりで歩けば、幾つかの黒い影がしばしば見られるのであった。ある晩、呉が榻を置き、闌干の側で涼んでいると、塀の隅の芭蕉の茂みでさわさわと音がするのが聞こえ、無数の人が走り出てきたが、長い者、短い者、肥えた者、痩せた者、いずれも一尺ばかりに過ぎなかった。もっとも後ろの一人はやや大きく、大きな笠帽を被っているので、その顔は見えなかった。塀の中を繞ったが、数十個の不倒翁のようであった。呉が急いで人を呼んでくると、たちまち見えなくなり、一面に飛ぶ蛍と化した。呉はそれを捉えたが、一匹の蛍が手に入ると、戛然と音がして、ほかの蛍はすべて消えた。火を取って照らすと、一枚の竹の葉にすぎなかった。
驢大爺
某顕官の長子は、性格が凶暴で、側仕えの者がすこしでも思い通りにならないと、撲ち殺してしまうのであった。侍女たちは下半身を不法な刑具で叩かれていた。まもなく病死したが[83]、ふだん信用していたしもべの夢に現れると言った。「冥府はわたしが残虐だったので、罰として畜生にすることにした。明朝驢の腹に入ることになっている。おまえははやく某衚衕の驢馬肉屋に往き、雌の驢馬を買って帰り、わたしの命を救ってくれ。すこしでも遅れれば、手遅れになってしまう」。言葉はとても哀しげであった。しもべは驚いて目覚めたが、疑わしく思ったので、また眠ってしまった。するとふたたび夢で告げられた。「おまえに恩義があるから、おまえに救わせようとしたのに、どうしてふだんの恩義を忘れるのだ」。しもべがすぐに某衚衕に赴くと、一頭の雌の驢馬が屠殺されようとしていた。買って屋敷に帰ると、はたして一頭の子を生んだが、人を見ると顔見知りのようにし、人が「大爺」と呼ぶと、跳びはねてやってくるのであった。
画家の鄒某は、その屋敷の側に住んでいたが、ある日驢が鳴くのを聞くと、そのしもべが言った。「これはうちの大爺のお声でございます」。
熊太太
康煕年間、内城の伍公某という者は、三等侍衛[84]で、聖上に従って木蘭[85]で狩猟したが、猟犬を追い掛けていて、深い澗に墜ちたので、死ぬものと観念した。餓えること三日、人熊[86]が澗を通り、かれを抱きかかえて上っていったので、自分は食われてしまうのだと思い、ますます驚いた。熊は抱きかかえながら山の洞窟に入ると、果物を採ってきて食べさせたり、羊や豚を担いできて食わせてやったりした。伍がそれを見て眉を顰めると、熊は木の葉を採り、じっくり焼いて食べさせてやった。しばらくすると、怖れる気持ちはなくなっていった。小便するたび、熊はかならずその陰を見て笑ったので、はじめて熊が雌であることを知り、夫婦となった。三子を生んだが、勇力は人並みはずれていた。
伍が山を出ようとすると、熊は許さなかったが、その子が家に還らせることを求めると、熊は許した。長子は名を諾布といい、官は藍翎侍衛[87]、巨きな車で父母を迎えて家に還らせると、しもべたちは「熊太太」と称した。人が面会を求めると、熊は話すことができなかったが、叉手して答礼することはできた。その家で十余年養われ、伍公に先だって亡くなった。学士春台はみずからそれを見、わたしに語ったのであった。
冤鬼が誤認すること
杭城艮山門[88]外兪家橋の楊元龍は、湖墅[89]の米屋で帳簿を管理していた。湖墅は兪家橋から五里であったので、元龍は、朝に往き、晩に返るのが日課になっていた。とある日、米屋は商売繁盛であったため、一更過ぎにようやく帰ることになった。得勝壩橋に着くと、知り合いの李孝先が二人の男とともに急いで奔っていた。元龍が呼ぶと、李は答えた。「二人がどうしてわたしを引いて蘇州へ行こうとしているか分かりません」。楊が二人に尋ねると、いずれも笑って答えなかった。元龍が拱手して李に別れを告げると、李は頼んだ。「潮王廟[90]から一里ばかりの小さな石橋のほとりで、あなたの姓名を尋ねる者があったら、ほかの苗字を告げるべきです。苗字が楊だと言ってはいけません。苗字が楊だと言ってしまったら、名前も告げるべきです。よく憶えておきなさい。よく憶えておきなさい」。元龍がわけを尋ねようとすると、孝先はあたふたと行ってしまった。
元龍が進んで橋に着くと、はたして二人の男が草の中に坐してその姓名を尋ねた。元龍が姓は楊だと答えると、二人の男はすぐに進み出て、掴んで言った。「長いこと待っていたのだ。今日はおまえを放すことはできないぞ」。元龍は手で拒んだが、相手の仲間はだんだん多くなってゆき、水中に引き込もうとしたので、はじめて鬼だと気付き、以前の言葉を思い出すと、大声で叫んだ。「わたくし楊元龍は皆さんに仇はございません」。一匹の鬼が言った。「間違えた。帰してよかろう」。叫んでいると、たまたま湯円[91]を売る者が橋を通り、人が叫ぶ声を聞くと、燈を持って照らし、元龍が水中にいるのを見ると、急いで救った。元龍が起きあがって見たところ、隣人の張老であったので、事情を告げた。張老は元龍を送って家に帰らせた。
翌朝、元龍が孝先に会いにゆくと、孝先が納棺されていた。尋ねると、その家の人は、「昨晩中風で死にました」と言った。そもそも李に遇った時は、李が死んだ時であったが、蘇州に行ったのがどうしてなのか分からなかった。
代州[92]の狩人
代州の狩人李崇南が郊外で騎射した時のこと、鴿が群れをなしていたので、火縄銃を撃ったところ、まさにその背に中たったが、鉛玉を負ったまま飛んでいった。李は驚き、山の洞窟に追っていったが、鴿は入ってゆき、見えなくなった。李は洞を貫いて進んだが、石室はとても寛かった。石人数十体があり、彫刻はきわめて巧みだったが、頭はすべて斬りとられており、それぞれが手に持っていた。もっとも後ろの一人は、頭に枕して横たわっており、目を怒らして李を見たが、睛は閃閃として動こうとしているかのようであった。李が大いに怖れ、退こうとすると、鉛玉を帯びた鴿が率いる数万の鴿が争って咬んだり撲ったりしにきた。李は空砲を持ち、撃ちながら逃げたが、おもわず池の中に落ちてしまった。水は紅く熱い血のよう、臭いはとても腥かった。鴿はたいへん渇いているようで、争って池の水を飲んだので、李はようやく逃れることができた。洞窟を出ると、衣に染みた紅い水は、並外れて鮮やかで、夜間、燈や月の下で照らせば、火のように輝いたが、結局例の山や例の鴿が何の怪であるのかは分からなかった。
金剛が騒ぐこと
厳州[93]の司寇某に、親戚の徐という者がおり、『金剛経』を誦えることができた。司寇が亡くなった後、徐は功徳を施し、日に八百遍、経を誦えてやった。ある晩、病が重くなり、夢みたところ、鬼卒に召されて閻羅殿に行った。上座には王が坐していて言った。「某司寇は仕事を処理する時に、とても刻薄だったから、上帝の檄を奉じて、わたしの処に引き渡された。尋ねるべき事はとても多かった。ところが突然金剛神が闖入してきて、大騒ぎし、わたしが審理することを許さず、強引にわたしに向かって某司寇を連れてゆかせろと要求した。わたしは地下の冥官で、金剛は天上の神将だから、わたしは抵抗するわけにゆかず、連れてゆかせるよりほかなかった。金剛は何とかれを釈放した。わたしは罪人が逃れれば、上帝に報告できないので、やむなく地蔵王の処に調べにいった。そしてあなたが人の世で余計なことをし、かれのために『金剛経』を念じたからだということがはじめて分かった。地蔵王は公務が公平に処理されており、某司寇を救うことはできないことを知ると、金剛神を遮り、ふたたび騒ぎにくることを許さず、某公を連れ戻し、裁判を受けさせた。あなたを召したわけは、このことを知らせ、これ以上、経を誦えてやらないようにさせるためだ。あなたとてまったくの好意からしたことで、大きな罪過がないことをひとまず考慮し、あなたを陽界に還らせよう。しかしみだりに神さまを召せば、かならず小さなお咎めがある。すでに罰として寿命一紀を減じたからな」。徐は大いに驚いて目醒め、十年足らずで亡くなった。
呉西林[94]が言った。「金剛は仏家の無骨な神で、党同伐異し、呼ぶのを聞けばかならず来るし、求めがあればかならず応じ、まったく理の曲直を顧みない。だから仏氏はかれを門の外に鎮座させ、見栄えを良くし、外敵を防ぐために用いている。この経を誦える者は、慎重にするべきだ」。
頭香を焚くこと
世の神前で香を焚く者たちは、早朝の一本目を頭香というが、二本目になると、尊ばない。山陰の沈という者は、どうしても城隍廟に行って頭香を焚こうとし、しばしば早く起きて行ったが、人がさきに焚いていたので、悶悶として楽しまなかった。その弟某はそれを知ると、あらかじめ廟祝[95]に知らせ、他人を入れず、かれがさきに来るのを待ってから、門を開いて客を入れるようにさせた。廟祝は言われた通りにした。沈が早朝見にゆくと香を焚く者が来ていなかったので、大いに喜び、香に火を点けて礼拝したが、地に倒れたまま起きなかった。
担いで家に帰ると、大声で叫んだ。「わたしは沈某の妻だ。わたしは焼き餅をやいたが、殺される罪ではなかった。わたしの夫は悪者で、わたしがお産する時に、産婆に頼んで二本の鉄の針を産門に置かせたため、命を落とした。家じゅうの人々は、気が付かなかった。わたしは城隍神に訴えたが、神はわたしの夫は寿命が終わっていないと言い、審理するのを許さなかった。先月、関帝がこちらを通ったとき、わたしは怨みを訴えにいったが、城隍はわたしが儀仗に衝突したと言い、今度はわたしを香案の脚に縛った。さいわい天網は恢恢としていた。わたしの夫は頭香を焚きにきて、わたしに捉えられたため、わざわざ命を取りにきたのだ[96]」。
沈家の人々はすべて集まり、拝礼して頼み、紙銭百万を焚くことを願ったり、名僧を招いて済度することを願ったりした。沈は妻の声で言った。「愚かな人たちだ。わたしはとても惨い死にかたをしたので、天閽[97]を叩きにゆき、城隍が悪を許し、沈某が悪を行った事を、すべて訴えようとしたのだから、わずかな紙銭で済度しようとしても免れることはできない」。そう言うと、沈は牀の上から床に落ち、七竅から血を流して死んでしまった。
樹の怪
費此度はみずから西蜀を征伐し、三峽の澗に行ったところ、樹が一本立っていたが、枯れた枝が残っており、花や葉はなかった。兵士がその下を通るとかならず死に、死んだ者は三人いた。費は怒り、みずから見にいったが、その木は枝が鳥の爪のよう、人が通るのを見ると、攫みかかってきた。費が鋭い剣で斬ると、株が落ちて血が流れた[98]。その後旅人は恙なかった。
広信[99]の狐仙
徐芷亭方伯[100]が広信府の知事となった当初、西の廂房が長いこと閉ざされており、中に狐がいると言われていた。徐夫人がそれを信じず、みずから見にゆくと、鼾が聞こえたので、戸を開けたところ、人はおらず、声は榻の中から出ていた。夫人が棍棒で敲くと、空中で人が語った。「奥さま、お打ちにならないでください。わたしは呉剛子[101]で、こちらに百余年おりますが、去ろうと思っておりました。しばしば引っ越ししようとしましたが、門神がわたしを阻んでいるのです。奥さまがわたしのためにお祭りをし、代わりにお取りなしくだされば、わたしは朝廷の役所を譲って出てゆきましょう」。
夫人は大いに驚き、酒肴を具えて竹の牀に向かって並べ、門神を祭り、事情を告げた。するとまた空中で語るのが聞こえた。「奥さまのご恩を受けましたが、恥ずかしいことにお礼するものがございませんので、謹んでお祝いしにまいりました。お宅の旦那さまは近々昇進なさいましょう。お願いするのは、七月七日に、くれぐれも役人同士で紅梅園に行き遊び戯れないようにしてくださいということでございます[102]。その日は悪鬼が庭園で祟りをなすことでしょう」。そう言うと静かになった。
期日になり、方伯の表兄[103]某が庭園を通ったところ、樹の上で二人の紅い衣の子供が手で人を招いていた。近づいて見ると、姿はなく、崩れる音が聞こえ、築山の石が倒れ、圧しつぶされるところであった。九月、徐公は贛南道[104]に昇任した。この事は徐公の子秉鑑がわたしに語った。
白石の精
天長[105]の林司坊名は師という者が[106]家で乩壇[107]を設けたところ、怪物が壇を占め、みずから「白石真人」と称し、人が吉凶を尋ねるとすこぶる験があった。しばしば林に、仙人修行し、顔の真ん中に一つの眼を開けば、上帝の宮室、雲の中の神仙を見ることができると教えた。林はそれから惚けてしまい、しばしば小刀で鼻を刻み、人々がその刀を奪うと、怒り罵った。
とある日、乩盤に書いた。「わたしは土地神だ。今あなたに纏わりついているのは西山白石の精だが、神通力は絶大で、わたしはその指図を受けている。かれは字を書くことができず、乩の文字は、すべてわたしに代書させている。今日かれは西天に往き、仏を拝するので、わたしはわざわざ知らせにきたのだ。はやく乩盤を壊し、本県の城隍に訴えれば、この難を免れよう。ただ絶対にこの怪に、土地神が漏らしにきたと知らせてはならないぞ」。たまたま蒋太史苕生[108]が金陵から来て、そのわけを知ると、すぐにその盤を壊し、三十両で天師符一枚を買い、林の部屋に懸けたところ、怪ははたして来なくなった。
十年後、林君は亡くなったが、符はまだ中堂に掛かっていた。線香が倒れ、その符の硃砂を焼き、字は消えたが、裏打ち紙は損なわれなかった。その時、蒋は京師にいたが、林の訃音を得る前に、たまたま天師が上京し、蒋に告げた。
「あなたの親家[109]の林さまが亡くなりました」
「どうして分かったのですか」
「某月日、わたしが遣わした符の神将がすでに帰ってきたからです[110]」
後に林家で符が焼けたことを知り、はじめて愕然とした。
扶乩した時、蒋が席に着いていたが、盤は動かなかった。蒋が去った後、人が乩に尋ねると、「あの老人は文光[111]が人を射ているので、わたしは会うのを喜ばないのだ」と書いた。土地は言った。「白石の精が林家で祟っているのは、林の魂を取り、労役に供しようとしているからにすぎない」。
鬼の輪
蒋少司馬時庵[112]の公子某は、数人の友人とともに京師で愍忠寺[113]に遊んだ。時に清明であったが、野原で踏青していると、数間の精舍があり、中で琵琶の音がした。走ってゆくと、一人の女が背を向けて坐し、手で弦を弾いていた。近づいて見ると、女は振り向き、青面で獰猛な者に変じ、まっすぐ打ち掛かってきた。陰風は人を襲い、人々は驚いて逃げ帰った。時にまだ午後だったので、おたがいに眼が霞んだのだと思い、四人で多勢であることを恃み、それぞれが棍棒を持ってふたたび往くと、四人の黒い男が坐して待っており、手に銅の輪を持って人に掛けた。その輪を掛けられた者たちは、みな傾き倒れ、棍棒で打つことができなかった。あたふたとしていたところ、数人の男が馬を駆って突っ込んできたので、怪ははじめて見えなくなった。四人は帰ると、それぞれ十余日病んだ。
東医宝鑑に狐を懲らす法があること
蕭山[114]の李選民は、若くて自由気儘であった。仏廟で香を焚いていたところ、美女がおり、四方を顧みたが人がいなかったので、言葉を交わした。女は姓を呉といい、幼くして父母を亡くし、舅に頼って暮らしている、舅母に苛められるので、こちらで仏を拝み、佳い連れ合いを得ることを願っているのだとみずから語った。李が言葉で挑むと、女は承諾し、いっしょに家に帰ったが、情愛はとても篤かった。しばらくすると、李は体が日に日に痩せてきて、交接の際に精を吸い取られている、普通の夫婦とは違っていると感じた。それに十里以内の事は、かならず予知したので、狐だと気が付き、追い払おうとしたが手立てがなかった。
ある日、その友人の楊孝廉を連れて三十里離れたところに行き、事情を告げた。楊は言った。「わたしは『東医宝鑑』[115]に狐を懲らしめる術があったと記憶しています。どうかお試しください」。ともに琉璃廠に往き、その書を捜して手に入れ、東洋人に解説を求めて術を行うと[116]、女ははたして涕泣して去った。
これはわたしが西江[117]の謝蘊山太史[118]の家でみずから楊孝廉に会い、語ってもらったことである。『東医宝鑑』の何巻何頁かを尋ねなかったのは惜しいことであった。
乩の言葉
撫州[119]の太守陳太暉は、及第する前、浙江で郷試があったとき、乩神に向かって試験問題を尋ねたところ、「体を具ふるも微なり[120]」と答えた。後に副車に合格したので、告げていたのは、問題ではなかったことをはじめて悟った[121]。対聯を求める者があると、「努力して餐飯を加へよ、小心友生に事へよ」の十字を書いた。「二句目は何が出典でしたか」と尋ねると、「秀才は時文を読み、杜詩を読まず、憐れむべし笑ふべし」と言った[122]。陳が友人とともに鑑湖[123]に遊び、蓮を観ると、乩は尋ねた。「昨日の鑑湖の遊覧は楽しかったか」。紅い蓮を詠じた者が、詩に唱和することを求めると、乩に題した。「紅衣落ち尽くし小姑[124]忙し、此より朝来葉も亦香し。悩むなかれ韶光の太だ匆迫たるを、花開くこと三日なれば即ち長しと為す」。
雲門山[125]の氓[126]に、鬼に憑かれて騒いでいる者がいたので、乩盤のもとに行き、救いを求めると、乩は「わたしは救うことはできない。某村の于二太爺に救いにきてもらえ」と書いた。言われた通りに、于二太爺を呼んでくると、于はその家の東北の角に向かって声を荒げて言った。「おまえたちは四川に往かねばならぬ。はやく去れ」。すると空中で「至極ごもっともでございます」と返事があった。それからは怪は静かになった。于二太爺とは、某村の学究で、鬼を祓うのはどんな言葉かと尋ねたが、笑って答えなかった。乩に尋ねたが、乩も語らなかった。
最終更新日:2022年11月11日
[1]制軍は総督。楊制軍は楊廷璋と思われる。乾隆二十四年から二十九年まで閩浙総督。
[2] 民情視察。
[3] 最上等。
[4] 書院名。仁和県鳳凰山万松嶺にある。乾隆元年『浙江通志』巻二十五・学校一参照。
[5] 書院の教師。
[6]小宗伯の誤り。礼部侍郎。
[7] 天台の人。乾隆二年の進士。
[8] 未詳だが、天上の合格掲示板のことであろう。
[9] 科挙の試験は頭場、二場、三場の三つに分けて行われていた。
[10] 諱を呼ぶのは非礼。この場合は韓兄などと呼ぶべきなのであろう。
[11] 李白『静夜思』「舉頭望山月、低頭思故郷」の、ほとんど盗作。
[12] 元宵節の提灯。
[13] 河南省の州名。
[14] 袖の短い上着。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』二百二十七頁参照。
[15] 初七日。
[16] 明らかでないさま。
[17] 海塩の人。乾隆二十八年の進士。太史は翰林。
[18] 原文「而有國風之好」。「國風之好」が未詳。とりあえずこう訳す。
[19] 亭名。北京市宣武区にある。
[20] 未詳。文脈からすると、琵琶を弾く女の幽霊の出る墓のことか。
[21] 浙江省の県名。
[22] 燄口は餓鬼の名。燄口経は未詳だが、『燄口餓鬼経』『燄口儀軌経』などという経があり、あるいはそれのことか。丁福保編『仏学大辞典』二千七百十九頁参照。
[23] 酒と飲料。
[24] 浙江省の県名。
[25] 原文「錢生仲玉、少年落魄、游蘭溪署中」。「游蘭溪署中」が具体的にどういう状況なのか未詳。寄食していたか、幕僚をしていたか。
[26] 松風の吹くさま。そのような音。
[30] 丹漆で塗り込めた庭。
[31] 未詳。楊六郎を神として祀ったものか。楊六郎は楊廷昭。『楊家府通俗演義』などの登場人物。
[32] 原文「頭戴將巾」。「將巾」が未詳。将軍の頭巾か。
[33] 未詳だが、身動きが比較的容易にできる簡便な鎧であろう。
[34] 麻布、綿布の裙。
[35] 原文「如世間嬰孩所戴劉海搭状」。「劉海搭」は未詳。ただ、文脈からして房飾りの付いた帽子のようなものであろう。劉海は全真教の五祖の一人、劉操のことだが、おかっぱ頭の人物として、よく画題にされる。図は年画で「劉海戯金蟾」といわれる図柄。
[36] 『佩文韻府』引『述異記』「聚窟洲有返魂樹、伐其根心、於玉釜中煮取汁、又熬之令可丸、名曰驚精香、或名震霊丸、或名返生香、或名卻死香、死尸聞其気即活」。
[37] 袁枚の妾方聡のこと。
[40] 首かせ、手かせ、足かせ。
[41] 廟を管理する人。
[42] 男娼。『清稗類鈔』方言類「契弟、男子売淫者也」。
[43] 程晋芳。歙県の人。乾隆三十六年の進士。
[44] 『晏子春秋』外篇に、景公に恋慕した羽人を景公が処刑しようとしたが晏子に諫められたという話が見える。羽人は羽を集めて儀仗などを作る官。『晏子春秋』外篇「景公蓋姣、有羽人視景公僭者。公謂左右曰、問之、何視寡人之僭也。羽人對曰、言亦死、而不言亦死、窃姣公也。公曰、合色寡人也。殺之。晏子不時而入、見曰、蓋聞君有所怒羽人。公曰、然。色寡人、故將殺之。晏子對曰、嬰聞拒欲不道、惡愛不祥、雖使色君、于法不宜殺也。公曰、惡然乎。若使沐浴、寡人將使抱背」。
[45] 官名。翰林院編修。
[46] 原文「與僱直錢」。「僱直錢」が未詳。とりあえずこう訳す。
[47] 庶常館の同学。庶常館は庶吉士を教育する学館。袁枚は乾隆四年に進士となり、庶吉士になっている。
[48]杭州城の東側の門の一つ。暗門。
[49] 城の外に突出した円形または方形の小城。
[50] 原文「將手向上一伸、兩條枯骨側側有聲」。「兩條枯骨」が具体的にどの部分なのか未詳。とりあえず二本の腕の骨であると解す。「側側」も未詳だが、いずれにしても骨がぶつかる音であろう。
[51] 曲阜にある、孔子一族の墓所。
[52] 海寧の人。康煕四十二年の進士。雍正二年から四年まで山東巡撫。その際、孔廟を修築したことが『清史稿』巻三百九に見える。
[54] 供物の羊、豚。これに牛を加えると太牢という。
[55]史可法。明末の忠臣。明滅亡の際、南京兵部尚書だったが殉難した。『明史』巻二百七十四などに伝がある。閣部は内閣のこと。
[56] 南康の人。乾隆二十六年の進士。
[59] 文天祥。文山は号。
[60] 凡庸な臣。ここでは謙遜。
[61] 『論語』里仁。謝啓昆が清から官位を授かっていることを咎めているか。
[62] 道教語。天上の官司。
[63] 「王朝の興亡は運命次第、宗廟は山河とともにとこしえにある」という意味に解す。「廟」も「貌」もみたまやの意。
[64] 江蘇省の県名。
[65] 原文「被搶處係一坍港泊舟所也」。「坍港」は未詳。とりあえず、このように訳す。
[66] 判例法。
[67] 犯人隠匿。
[68] 安徽省の府名。
[69] 江蘇省の道名。
[70] 江蘇省の県名。
[71]宋代、皇帝は新たに合格した進士に対し、瓊林苑で酒宴を賜った。この言葉、陳の科挙合格を暗示する。
[72]瀛台は故宮の太液池の中にある小島。康煕、乾隆両朝で、黄帝が夏期政務を執る場所として利用された。この句、陳が侍読になることを暗示する。
[73] 金文淳。仁和の人。乾隆四年の進士。字は質甫。質夫は誤り。編修は翰林院編修。
[74] 仏の教えを説くところ。
[76]黄叔琳。大興の人。康煕三十年の進士。
[77] 厳長明。江寧の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。
[78] 国子監。
[79] 国子監の教官。従七品。
[81] 湖北省の鎮名。
[82] 江西省の県名。
[83] 主語は「某顕官の長子」。
[84] 武官名。正五品官。
[85]木蘭囲場。熱河にあった狩り場。
[86] 未詳だが、人のような熊であろう。
[87] 武官名。五六品官。
[88]杭州の東北門。
[89] 浙江省の鎮名。
[90] 仁和県にある廟名。乾隆元年『浙江通志』巻二百十七・祠祀一参照。
[91] 餡のある白玉団子風の食品。蕭帆主編『中国烹飪辞典』三百二頁参照。
[92] 山西省の州名。
[93] 浙江省の府名。
[94] 呉穎芳。仁和の人。『清史列伝』巻七十一などに伝がある。
[95] 廟守。
[96] 原文「我夫来焼頭香、被我捉住、特来索命」。「特来索命」が落ち着きが悪いように思われるが未詳。
[97] 天の門。
[98] 原文「株落血流」。「株」は樹の根本だから「落ちる」はずはないのだが未詳。
[99] 江西省の府名。
[100] 方伯は布政使。
[101] 未詳。月の中で桂樹を伐っているという呉剛のことか。
[102] 原文「切勿抱官官到紅梅園嬉戲」。「抱官官」が未詳。とりあえずこう訳す。
[103] 苗字の異なる従兄。
[104] 江西省の道名。
[105] 安徽省の県名。
[106] 原文「天長林司坊名師者」。未詳。とりあえず、このように訳す。
[107] 扶乩を行う祭壇。
[108] 蒋士銓。鉛山の人。乾隆二十二年の進士。
[109] 夫婦双方の親がお互いを呼ぶときの呼称。
[110] 原文「我所遣符上神將已来帰位故也」。「帰位」が未詳。とりあえずこう訳す。
[111] 文才。教養。
[112] 蒋元益。長洲の人。乾隆十年の進士。
[114] 浙江省の県名。
[116] 原文「求東洋人譯而行之」。「東洋人」は日本人と思われるが未詳。とりあえずこう訳す。
[117] 江西の誤りか。
[118] 謝啓昆。江西南康の人。乾隆二十六年の進士。太史は翰林。
[119] 江西省の府名。
[120] 『孟子』公孫丑上「昔者窃聞之、子夏、子游、子張皆有聖人之一体、冉牛、閔子、顔淵則具体而微」。本来は冉牛、閔子、顔淵が孔子と同じように聖人であったが貧しかったということを述べた句。
[121]副車は副榜貢生。郷試には合格したが、郷試合格者である挙人に定員があるため、挙人になれなかった者をいう。実力は挙人と同じだが、地位が挙人より格下(生員扱い)になるので「体を具ふるも微なり」という言葉が讖をなしたということになる。
[122]杜甫『贈左僕射鄭国公厳公武』「開口取将相、小心事友生」。
[123] 湖名。紹興県の南にある。
[124]許渾『春日題韋曲野老村舍』「鶯啼幼婦嬾、蚕出小姑忙」。
[125] 浙江省の山名。
[126] 移住してきた住民。