第十八巻

 

陝西の茶商人
 陝西の茶商人某は、江南で茶を売り、閿郷(ぶんきょう)[1]の旅店に泊まった。その東の廂房にさきに泊まっていたのは、山東の二人の布商人であった。かれらはそれぞれ夕飯を終えると、門を閉ざして眠った。客が夢みたところ、ざんばら髪、赤く短い鬚、凹んだ顔の怪物が、門を撞いて入ってきて、手に鉄の鎖を持ち、東の廂房の二人の布商人を捕まえて鎖を掛けた。ついで茶商人に鎖を掛け、三人は同じ縄で魚を貫いたかのように、門外の柳の樹に縛られた。(あやかし)はさらに他の旅店に突っ込んでいった。二人の布商人は鉄の鎖がとてもきつかったので、動くことができなかったが、茶商人は鎖がすこし緩んでいたので、もがいて脱けることができた。目覚めると、夢だと思った。宿の主人に告げたが、主人もそれほど怖がらなかった。翌日の五更、宿の主人が大声で叫んだが、東の廂房で二人の客が死んでいたのであった。半里離れた宿屋でも、一人の騾馬引きが死んでいた。

山娘娘
 臨平[2]の孫家の新婦が(あやかし)に憑かれたが、みずから「山娘娘」と称し、白粉を塗り、艶やかな衣服を着けるのを好み、白日その夫を抱いては媾い、卑猥なことを言うのであった。その夫は憂え、呉山の施道士を招いて法術を行わせることにした。祭壇を設けると、その妻は笑って言った。「施道士は大した名声もないのに、わたしを懲らしめにこようというのか。『王道士(あやかし)を斬る』のようにさせてやろう」。『王道士(あやかし)を斬る』とは、俗に演じられている劇で、道士の無能さを笑うものであった。道士がすぐに手で婦人の腹の下を押さえると、穢れた血が噴きだし、法術は効き目がなくなってしまった。
 道士は「わたしは穢れを避ける符を枕の中に持っているのだ」と言い、その弟子に取って貼るように命じると、ふたたび祭壇に坐して法術を行った。妻は懼れる様子を見せたが、(つくえ)の上に坐し、帚を揮って法術を行い、たがいにしばらく闘った。その夫が見たところ、()つ目の神が一匹の白い(さる)を捕らえたが、大きさは五尺ばかり、階の前に投げると、(さる)は俯いて伏した。道士が取って擲つと、擲つたびに小さくなり、生まれたての小猫ほどにまで縮んだ。取って素焼きの甕に入れ、符印[3]で封じると、たちまち黒い気が甕の中から出てきた。翌日江に投げると、婦人の病は癒えた。

瓜洲公子
 杭州の大方伯の地に胡家があり、娘と嫂二人が一つの楼に住んでいた。清明の日、嫂が見ると瓦の上に柳を掛けて橋にしてあったので、子供の悪戯かと疑い、竿を用いてはねのけた。晩に、羽衣の男子がにわかに寝台の前に来て、言った。「わたしは瓜洲公子だが、おまえたち姉妹と縁があるから、柳を折って鵲橋にし、瓦の上から渡ってきて、清明の佳節にふさわしいことをしたのだ[4]。おまえが壊すことはできないぞ」。そう言うと、部屋の中に住み、二人の婦人に憑いて祟った。その家は道士を招き『玉皇経』を念じてお祓いした。道士が来ると、(あやかし)は溲瓶を擲ち、経巻をびしょびしょにしたため、道士は逃げていった。胡翁は老媼五人に寝ずの番をさせたが、五人の嫗は髪がすべて(おさげ)になり、髪と髪とが繋がって、曳きあわなければ進むことができなかった。このようなことが一月あまり続いた。
 娘はかねてから婿が決まっていたので、日を択んで嫁ぐことにしたところ、(あやかし)は言った。「某家は縁がないから、わたしは往くことはできないが、こちらでひたすら一人の美人を抱えていても、物寂しいから、これでお別れするとしよう」。そして胡翁に言った。「わたしはこちらであなたを長らく騒がせましたが、お礼をしないことをたいへん愧じております。わたしにはとても美しい妹がおりますので、お贈りして妾にしようと思いますが、お納めいただけますでしょうか」。胡が面会を請うと、(あやかし)はそれを許し、母屋に簾を垂らして観させたが、望み見たところ絶世の美女であった。胡はおもわず心を動かし、いそいで結婚の日取りを尋ねると、(あやかし)は言った。「わたしはあなたを妹の夫にするのを願っていますが、妹はあなたが老いて醜いことを嫌っており、かなり嫌がっています。頤の下のお鬚をすべてお抜きになれば、結婚はうまくゆきましょう」。胡は年は五十あまり、肥えて髯が多かったが、その言葉に惑わされ、すべて剃ってしまった。すると(あやかし)は空中で大声で笑って去り、妹が来ることはなかった。

王白斎尚書[5]が潮鳴寺[6]の僧になること
 わたしの同年王白斎は、年若く、美しかった。入学した時、年はわずか十七であった。たまたま潮鳴寺に遊び、御影堂で老僧の像を見たところ、おもわず毛髪がぞっとして[7]、家に帰ると病んだ。その後は寺を通っても入ろうとしなかった。探花に及第する時に、夢みたところ、老僧が線香五十四本を与え、「わたしには三人の弟子がいる。一人は夢麟[8]、一人は銭維城[9]、一人はおんみだ。おんみは将来刑名を司る時、某事件を救済すれば、ふたたびもとの位に戻ることができよう」と言った。白斎は黙って語らなかった。後にはたして大司寇[10]になり、五十四歳で亡くなったが、結局救済したのは何の事件か分からなかった。

白天徳
 湖州の東門外に周という者がいた。その妻は踏青して城に入ったところ、邪気に染まって帰ってきた。その家が道士孫敬書を招き、『天蓬呪』を誦えさせ、鬼を打つ棒を用いて撃たせると、(あやかし)はその妻に憑いて「わたしは白天徳だ。祟っているのは、わたしの弟の維徳で、わたしとは関わりはない」と述べた。孫は符を書いて維徳を呼んでくると、尋ねた。

「周家の婦人にどのような怨みがあるのだ」

「怨みはない。わたしは路で遇い、美しいのを気に入り、ともに(えにし)を結んだのだ。愛しあっているのに、どうして邪魔しようとするのだ」

「今までどこに住んでいたのだ」

「東門の玄帝廟[11]の側にいて、こっそりと香火を享けて、すでに数百年になる」

孫は言った。「東門廟は玄帝太子の宮殿だ。そのかみ、全郡の火災を鎮めるために、離宮の東に(みたまや)を建てたのだ。おまえがみだりに玄帝廟と言うことはできないぞ」。(あやかし)は言った。「火災を治めるにはその母を治めるべきで、その子を治めるべきでない[12]。それは木を伐るときはその幹を伐るべきで、その枝を伐るべきでないのと同じだ。おまえは道士でありながら五行生剋の理[13]を知らず、法術を施してわたしを追い払おうとするのか」。その肩を拍ち、大声で笑いながら行ってしまった。周家の妻も恙なかった。

髑髏が願い事をすること
 杭州の陳以夔は、五鬼搬運法に優れ、人のために円光[14]すると、すこぶる(しるし)があった。その友人の孫という者がかれの家に泊まったところ、夜半、(とこ)の下から白髪の翁が走り出てきて、跪いて言った。「陳先生にお伝えください。わたしの髑髏を還し、わたしの屍を完全なものにしてくださいと」。孫は大いに驚き、いそいで起きあがり、燈で(とこ)の下を照らしたところ、髑髏が一つあったので、陳が鬼物を除いたり、使ったりしていたのは、朽ちた棺の中から頭蓋骨を取って護符を施したり、呪文を用いたりしていたからだということがはじめて分かった。孫が諌めても、陳は隠していたが、(とこ)の下の骨を取って示すと、陳は黙って、もとの処に送り返した。まもなく、陳は鬼たちに撃たれ、全身が青く腫れて死んでしまった。

[15]一錠が冥界では三分として用いられること
 杭州の龔薇垣生員は、甘泉の元県令龔明水の従子[16]であった。病中、夢で冥府に遊んだところ、街巷、店舖は、人の世と異ならなかったが、黄沙が漲り、日月は見えなかった。見れば店には番頭がおり、知り合いであったので、走ってゆき、路を尋ねた。番頭は笑って言った。「こちらに路はございません。こちらへ来て、さらにどちらへ往こうとなさるのでしょうか」。さらに尋ねても答えなかった。薇垣はやむをえず、道を彷徨した。
 四人がきの轎に乗り、先払い、しんがりをつけてくる者があったので、近づいて見たところ、自分の岳翁(しゅうと)某であったので、走ってゆき、尋ねると、老人は悲しげに言った。「こちらは人の世ではないのに、どうして来たのだ」。薇垣ははじめて自分がすでに死んだことを悟り、病中の事情をみずから述べ、その父母の寿命を尋ねた。岳翁(しゅうと)は言った。「それはわたしが司っていることではない。あなたの叔父さまの明水先生[17]が今王府で勉強を教えているから、尋ねてゆくべきだ。ただ王府は厳かで、侍衛はとても多いから、手厚く取り次ぎ料を払わなければ取り次いでもらえまい」。薇垣は尋ねた。「取り次ぎ料とは何でしょうか」「人の世で普通に用いている錫のことだ。人の世で錫一錠を焼くと、冥界では三分として用いられる。破れたり湿ったりしているものは、一二分として用いられるのだ」。薇垣は言葉を聞くと、いそいで王府に走っていったが、その身に錫を帯びていないことを忘れていた。
 宮門に着くと、侍衛する者は麻のよう、薇垣を見ると、手を伸ばして(まいない)を求めたが、薇垣は応えず、ただ「(おじ)の明水がこちらで勉強を教えておりますので、お取り次ぎください」と言った。侍衛している者たちは怒り、罵った。「一人の老いた腐れ頭巾がお屋敷にいるだけでも、たいへん忌まわしいのに、さらに一人、若い腐れ頭巾が来るのには耐えられぬわい」。杖を揮って撃たれたので、驚いて目醒めたところ、家人はすでに傍を取り囲んで泣いていた。数か月後、薇垣は突然理由なく縊れ死んだ。

鶏卵で糞を担ぐこと
 杭州の清泰門[18]外に観音堂に住む徐という者がおり[19]、その妻は五通神[20]に憑かれていた。朔望になるたびに、その家に行き、飲食し、事件があればかならず予告してやるのであった[21]。妻はもとより困窮しており、夫を助けて田に糞を運んでいたが、神は憐れみ、代わりに糞を担いでやった。かれは二つの鶏卵の殼を桶にし、一石ばかりの糞を盛り、細い竹の管で担いだが、木の桶に盛るよりすこし多いのであった。糞を灌いだ田はたいへん肥えた。

狐丹
 常州府武進県に呂という者がおり、妻が狐に憑かれていた。美しい男子の装いをし、唐巾[22]を戴き、人のために吉凶を語れば、(しるし)があったりなかったりした。人が占いをしてもらいにきた時、狐が外出していれば、箋を書いて焚き、その灰を甕の中に収めるように命じた。狐は来ると、口から物を吐いたが、紅い色で、小さい鏡のよう、大きさは一寸ほどに過ぎず、それを持って甕の中に向け、灰を照らすと、焚いた言葉を朗誦することができ、すこしも誤らなかった。照らしおわると、腹に呑み込んだ。ある人がそれは狐丹だと言っていた。狐が回答するときは、妻に口授させたが、妻が忘れることを心配し、手で妻の手の指の節を抓むと、記憶することができるのであった。長篇の韻文でも、すべて暗誦することができたが、それが終わってしまえば相変わらず字が読めなくなるのであった。
 某秀才は、妻の中表[23]の親戚であったが、狐と唱酬しようとし、狐に取り次ぐように頼んだ。狐は言った。「一句があるから、おんみが対句を作ることができれば、唱酬することができるだろう。『紅白の桃花紙窓に映じ、花に二色無し[24]』だ」。妻がそれを告げると、秀才は対句を作ることができず、慚じて退いた。この狐は今なおその家におり、銭竹初明府がわたしに語ったのであった。

処州[25]の小便した婦人の怪事件
 処州の郷民陳瑞が妻を送って実家に帰らせようとし、半塘橋を通り掛かった時のこと、妻が厠へ小便をしにいったきり、長いこと戻ってこなかった。陳は捜しにいったが見付からなかった。前方の村の攢屋[26]で、紅い裙が外に露わになっているのが望まれたので、いそいで見にゆくと、妻の裙であった。人によって棺の中に引き入れられたかのように、半ばが外に露わになっていた。僵屍(キョンシ)が祟ったかと疑い、斧を出してその妻を救おうとした。棺の持ち主張某を訪問すると「これはうちの姑母(おば)の棺でございます。姑母(おば)は死んだ時、年は三十あまり、その子も亡くなり、葬儀を営む資力がなかったため、長いことこちらに安置されているのです」と言った。陳が棺を開けるように頼むと、はじめは許さなかったが、陳が再三哀願すると、はじめて許した。開けると、白鬚の男が、手に某の妻の裙を持っていたが、妻の姿はなかった。そこで、陳は生きている妻がいなくなったことをお上に訴え、張は死んだ(おば)がいなくなったことをお上に訴えたが、お上は裁くことができず、今でも疑獄となっている。

道家に全骨法があること
 杭州の龍井がはじめて開かれた時、葉姓の商人がその仕事を司った[27]。倪某という者が、葉のために工事の期日を択んでやった。十年後、葉が亡くなると、倪はたちまち急病となり、鬼たちがその身に附いたが、さまざまな言葉で、「わたしの骨を返せ。わたしの骨を返せ」と言った。声は啾啾然としており、楚、越、呉、魯の方言がすべて混じっていたが、最後に陳朝傅将軍と自称する者が言った。「わたしは蕭摩訶[28]を助けて南北を征討し、こちらに葬られて千年になる。葉某とともにみだりにわたしの骨を傷うことはできないぞ」。家人は取り囲んで頼んだ。「これは官府が命じたことで、主人は抗うことはできませんでした。将軍さまにはご諒察していただけませんか」。将軍は言った。「これは公務で、逆らうことはできないが、おまえは葉某とともに骨を掘り、棺を暴いた事を官府に知らせるべきだったのだ。官府が従わなければ、おまえたちには罪はないのだ。今回おまえたちはお上に告げずに、みだりにわたしたち数十人の骨を混ぜて投げ捨て、男に女の首が附き、老人に少年の脚が附くことになっている。今でもたくさんの遺骨が欠けたり散じたりしているが、鬼はどうして安らかでいられよう」。家人が仏法によってお祓いすることを願うと、将軍は言った。「仏は役に立たないが、道家には全骨法があるから、頼みにゆけ」。
 そこで、葉家の人々は北斗を拝する施柳南[29]、万近蓬[30]らを訪ね、拝礼して頼み、祭壇を龍井に設けた。法術を行うこと七日で、西湖では神燈が赫然として、水上に散らばり、積み重なって塔となったり、横に並んで雁字となったり、集まって大きな車輪のようになったり、散じて万点の蛍になったりした。まもなく、斗母[31](くだ)ってきたが、霞佩[32]瓔珞で、いかめしく装っており、近づいて見ることができなかった。二人の囚人を牽いてきたが、それは葉某と倪で、いずれも階の前に跪いた。鬼数十匹が争ってやってきて笞うつと、斗母は怒鳴った。「これもおまえたちの定めだから、怨むことはない。わたしは九幽使者に命じてすべての残骨を提出させ、おまえたちを元に戻してやればよかろう」。まもなく、髑髏数十体はいずれも白い気に取り巻かれ、転がってかたまりになり、欠けた処はすべて補われた。将軍は身長一丈あまり、金の鎧を着け、鬼たちを率いて斗母に拝謝した。葉も鎖を解き、合掌膜拝[33]して去り、倪は病が癒えた。これは近蓬がわたしに語ったことである。

地蔵王の頬を打つこと
 両江総督于成龍[34]が不遇であった時、夢みてとある宮殿に行ったところ、上手(かみて)に「地蔵王府」の四文字が書いてあり、殿上では老僧が結跏趺坐して目を閉じていた。于は思った。「地蔵王は人の世の生死を司っている。家には老僕某がおり、まめまめしかったが[35]、長いこと病気で寝たきりだ」。そこで長揖して訴え、寿命を延ばしてやるように頼んだ。再三話したが、僧は黙然として返事しなかったので、于は怒り、進み出ると手ずからかれの頬を打った。老僧は眼を開いて笑うと、一本の指を曲げて示した。目醒めてから人々に告げると、みな言った。「地蔵王の一本の指は、寿命一紀を延ばすということです」。そして(しもべ)は病が癒え、人の世にさらに十二年生きた。

儒仏いずれにも容れられないこと
 杭州の楊生兆南は、儒学を修め、禅学に通じていた。亡くなって一年後、その妻の夢枕に立つと言った。「人は死ねばかならず帰属する場所がある。わたしはもともと儒士だったので、魂を司る者はわたしを文昌[36]の所に送った。帝君は問題を出してわたしを試みたが、わたしは文を作ることができなかったので、帝君に容れられなかった。魂を司る者は今度はわたしを仏菩薩の処に送った。仏はお経を出してわたしに尋ねたが、わたしは解くことができなかったので、仏にも容れられなかった。冥界を徬徨し、足を休める場所がないので、しかたなく、某月日に張某の家に転生することにした。わたしは一生仏を慕おうと思うので、張家に告げにいってくれ。生臭物でわたしを育てて、ふたたび堕落させないようにしてくれと」。張はもともと兆南の友人であった。期日になったので見にゆくと、かれの家でははたして男子が生まれていたが、坐禅を組みながら生まれていた。三年哭き止まなかったので、張氏が生臭物を食べさせると、哭くことをにわかに止め、驚癇[37](やまい)になってしまった。これは乾隆四十三年の事であった。

鳥門山のこと
 紹興の東関[38]に張という者がおり、妻が病んだので医者を呼ぼうとし、鳥門山を通ったところ、白鬚の(おきな)がついてきた。時に日はすでに暮れていたが、この(おきな)は足が地に着かず、夕陽に照らされても影がなかったので、鬼だと疑った。かれの素姓を尋ねると、(おきな)も隠さずに、言った。「わたしは人ではなく、鬼だが、おんみに頼むことがある。おんみを害するものではない。わたしは骸骨が鳥門山の西に葬られているが、石を採掘する者に日がな穿たれ、山の石は傾いている。わたしの(つか)の朽ちた棺はすでに半ばが露出しており、まもなく河に落ちるだろう。どうかわたしを哀れんで、改葬してくれ。新橋の地に行くと、五匹の水に溺れた鬼が坐っておんみを待っているが、おんみのためにさきに除きにゆくとしよう」。懐から朱家の(こなもち)を出し[39]、張に食べさせてやると言った。「明日は朱家に行き、朱家の(こなもち)を包んだ紙を証拠にするのだ」。張とともに新橋に行くと、五つの黒い気が橋に坐していた。(おきな)がさきに往き、樹の枝を折って打ったところ、啾啾と声をたて、すべて水に落ちた。張が医者の家に行こうとすると、(おきな)は別れの拝礼をして去った。
 翌日、張は朱家に往き、(こなもち)を買うとき、例の紙を出したが、それは朱の店の広告であった。事情を告げると、宿の主人は悄然として言った。「御覧になった(おきな)は、姓は莫、名は全章といい、わたしの親戚です。改葬を、どうしてわたしに頼まずにあなたに頼んだのでしょう。思うにあなたとご縁があるのでございましょう。あなたは五匹の水鬼に殺される運命ではないので、神さまが(おきな)に命じて鬼を除いてあげたのでしょう」。張を引いて鳥門山に往き、墓と棺を見たところ、水を離れることわずか一尺ばかりであったので、ほかに土地を択んで改葬した。

楊二
 杭州の楊二は、ふだん拳法と棒術を仕事にしていた。夏の夜、裏庭の築山に坐して涼んでいると、石の裂け目の中から小さい頭が出てきて、まずはその髪を露わにし、さらにその顔を露わにした。楊が大いに驚き、棍棒を持って撃つと、頭は見えなくなった。翌日楼に宿ると、楼の下で絶え間なく往き来する下駄の音が聞こえたので、賊かと疑ったが、盗人が下駄を着けるとは思われなかった。まもなく、下駄の音が階段を上ってきたが、それは長い帽子を帯びた白衣の男で[40]、手に四角い提灯を持ち、にこにこと楊に向かって笑った。楊が鉄尺で撃つと、白衣の人は楼の下に墜ち、怒った声で言った。「よくも打ったな。よくも打ったな。仲間を呼んできて、おまえを始末してやる」。
 翌日、楊がその弟子たちを集めて告げると、無頼たちは騒いだ。「そいつに仲間がいるなら、俺たちにも仲間がいる。兄貴を守り、楼に登って鬼を打とう」。そして肴を買って痛飲し、それぞれ武器を持って楼に登ったが、鬼は来なかった。鶏が鳴く頃、無頼たちはそれぞれ疲れて横になった。朝起きて、楊二を捜したが見えなかった。捜したところ、すでに楼の下の竹の(しじ)で死んでいた。

呉秉中
 呉秉中は、葵巷[41]に住んでおり、わたしの旧宅の隣人だったが、汪名天先生を招いてその息子や甥を教えさせていた。月夜に先生の部屋に行き、閑談していると、塀の上に一人の老翁がいるのが見えたが、身の丈は一尺ばかり、白い髪、尖った頭で、坐してかれがすることを真似ていた。呉が喫煙すると、(おきな)も喫煙し、呉が拱手すると、(おきな)も拱手した。大いに奇妙なことだと思い、汪先生を呼んで見せたところ、先生が見たものも同じであった。しかしその甥の錫九が見にゆくと、何も見えなかった。その年の秋、秉中と汪はいずれも死んだが、錫九だけは今なお生存している。

土窟(つちむろ)の怪獣
 福建商人の陳某は、客商たちと航海し、台風に遇い、漂流してとある山の麓に着いた。見れば山のへりは平坦で歩くことができたので、連れ立って薪を採った。進んだ当初は、路がたいへん狭かったが、行くこと一二里で、広々とした。時に日は暮れようとしており、海の風は寂しげ、林の鳥は悲しげであったので、深入りしようとはせずに、帰った。
 翌日、風はさらに激しくなり、舟は進まなかったので、舟の人々は昨日の土地を窮めつくさなかったことを悔い、ふたたび往くことを誓い、陳を引いて同行させた。前の道を行くこと八九里で、(たにがわ)があり、水の色は澄んだ緑、傍には土の山があったが、それほど高くなく、穴の中では(もののけ)が喘いでいるかのようであった。人々は懼れて逃げたが、陳は胆力を恃み、樹に上り、身を隠して窺っていた。
 まもなく、その(もののけ)は穴の外に出てきたが、大きさは水牛の倍で、姿は象のよう、頭頂に一本の角が生えていたが、透明で犀利、石の上に盤踞して長嘯すると、声は竹木を引き裂いた。陳は驚き、懼れ、墜ちそうになった。すると虎、豹、猿、鹿がそれぞれ仲間を連れてやってきて、その下に俯伏したが、その数は千匹に止まらなかった。(もののけ)は肥えたものを択んで践むと、舌で腹を舐め、血を吸ったが、獣たちはいずれも股栗して動こうとしなかった。三四匹の獣を食らうと、また尾を曳いて穴に入った。客商は下りると、もとの道を辿って帰り、人々に見たことを語ったが、結局山と獣が何という名なのかは分からなかった。

鶏の脚をした人
 福建商人の楊某は、代々海上交易を生業にしていたが、その祖父が康煕年間に客とともに海に出て、つむじ風に吹かれ、湾に入ったと言った。その水は四方が高く、真ん中の港だけが低く、海水の下にあるのであった。楊の舟は旋回しながら落ちていったが、人と船はいずれも無事であった。
 港の底に着くと、山川、草木、田地、野菜、穀物は、まるで人の世のようであったが、家屋だけがなかった。岸の側には船が泊まっており、中に数十人がいたが、やはり中州から来た者たちで、楊たちを見ると、骨肉であるかのように歓んだ。そしてこの水は閏年か閏月に一日だけ高さが海水と等しくなるので、舟は帰ることができるが、僅かな時間だけなので、すこし遅れればふたたび上ることはできないと言った。その人が以前台風に吹かれてきた時も、人がこの港にいたが、その後閏の水に遇って帰ることができた。しかしかれは遅れてしまい、こちらに留まること六年、しばしば閏月に当たったが時間に遅れてしまったために、去ることができなかったのであった。
 楊と同じ舟の乗客は四十人いたが、さまざまな穀物、野菜を持っていたので、土地を分けて耕作した。その土地はすこぶる肥沃で倍の収穫があった。人が灌漑する必要はなかったので、終日先に来た舟の人々と往来し、わが身が浮き世の外にいるのをほとんど忘れた。惜しいことには黄暦(こよみ)で日時を知ることができなかったので、食事を終えるたびに、みな舟に乗り、水が満ちるのを待つばかりであった。
 ある日、楊が旅人と野外を散歩していると、(たにがわ)を隔てて男たちが(たに)の入り口に近づくのが望まれたが、いずれも身長一丈あまり、衣がなく、体に毛があり、脚は鶏の爪のよう、脛は牛の膝のようであった。楊を見ると、きいきいと向かいあって話したが、言葉は理解できなかった。帰ってほかの舟の人々に話すと、来た時に(たに)の入り口で見たことがある、(たにがわ)に水が満ちているので渡ることができないが、かれがこちらに来たら、わたしたちは皆殺しだと言うのであった。
 六年後の八月、風が吹き、水が満ちたので、先に来た舟の人々とともに帰った。楊家にはついていったことのある老僕がおり、今ではもう八十あまりになっていたが、まだ生きていたので、詳細を語ることができた。按ずるに台湾には鶏爪番[42]がおり、つねに樹の上に棲んでいるが、これはその苗裔であろうか。

海和尚
 潘某は、漁業に練達し、すこぶる豊かであった。ある日、仲間とともに海辺で投網し、曳いたところ、ふだんに倍して重いと感じられたので、数人で力を併せて引いた。網を出すと、中には魚はおらず、六七人の小人(こびと)が趺坐しているばかり、人を見ると合掌し、頂礼の動作をしたが、全身に毛が生えていて獼猴(さる)のよう、その頭頂は剃られて髪がなく、言葉は理解できなかった。網を開いて放つと、いずれも海面を進むこと数十歩で沈んだ。土人は言った。「それは『海和尚』といい、捕らえて塩漬け肉にすると、飢えを一年忍ぶことができます」。

一足の蛇
 謝大癡が言った。その友人某が黔[43]にいた時、ある村に往ったところ、民家にはしばしばある物が懸けていた。鱗甲は透き通り、すでに臘化して乾いていた。話では、ここから五里のところに山があり、薪を採る場所である、山麓は往来するための路で、傍に枯れた樹一株があり、きわめて大きいということであった。樹の中には一匹の蛇が隠れていたが、人の首、(ろば)の耳で、耳を揺り動かせば音をたてることができ、鱗は松の皮のよう、一本だけ足があり、爪は龍のよう、舌を吐けばとても長く、跳ねて進めば迅速であった。人に近づくとかならず口から毒気を噴き、人を昏倒させ、その後で舌を人の鼻に入れ、血を吸って飲むのであった。村人は乞食を募り、金を与え、その災いを除こうとしたが、応じる者はいなかった。
 一年後、二人の乞食が命に応じ、手厚い報酬を求めたので、人々は醵金してその金額を揃えてやった。その人は唾を取り、べっとりと体に塗り、裸で誘い、蛇がやってくると、いそいで路傍の田に逃げた。蛇は追いついたが、泥に陥り、動くことができなくなった。その後、二人の乞食が躍り上がり、長い竿のついた刀で突き刺し、力一杯斬り、その首を断つと、死んでしまった。村民で害を被った者たちは、争ってその肉を裂いた。

(どぶがい)
 ある人が閩[44]で海口[45]に出て薪を採っていたが、ある山に行くと、山の(たにがわ)にびっしりと(どぶがい)が横たわっていた。大きい者は一丈ばかり、小さい者も長さ数尺、ごろごろと重なり合い、千百をもって数えた。その人が驚いて、行こうとすると、たちまち一つの(どぶがい)が口を開いたが、その殼の中には藍色の顔の人がおり、夜叉のよう、その中に横たわっていた。人を見ると、手足をすべて動かして、攫もうとする動作をし、起とうとしたが脱けることができなかった。そもそもその体は殼に生えており、(どぶがい)を借りて背中の殼にしていたため、殼から脱け出ることができないのであった。まもなく、(どぶがい)たちはみな口を開いたが、みな先ほどの夜叉のような顔をしていた。その人があたふたといそいで逃げると、背後でぱくぱくと音がし、(どぶがい)たちがみな転がってついてきた。舟に着くと、舟の人が巨きな斧で斬り、その一つを捕らえたが、殼はすっかり砕かれ、夜叉も死んでいた。持ち帰って人々に示したが、いずれもそのものを知らなかった。

山和尚
 李という者が中州を旅していたとき、大水に遇ったため、山に登って避難した。水の勢いがにわかに増したので、その人はさらに山の頂へと登った。すでに日は暮れていたが、見れば小さな草屋があった。そこは山の住民が耕作したり夜回りしたりするときに泊まる場所で、中には草が敷きつめられ、傍に竹の拍子木が置かれていた。その人は泊まったが、真夜中、水を踏む音が聞こえたので、見たところ、一人の色黒、短躯の太った和尚が水面に浮かびながらやってきた。その人が大声で叫ぶと、この(あやかし)はすこし退き、しばらくするとまた進んできた。その人は切羽詰まって、拍子木を取るとはげしく撃った。山の住民がみな集まると、(あやかし)は去り、その夜は来ることがなかった。翌日水が退いたので、山人に尋ねると、言った。「それは山和尚です。その人は身寄りがなく、他人の脳を食らっているのです」。

紙銭の灰を贈ること
 杭州の捕快[46]某は、その息子とともに賊を捕らえていたが、息子は毎晩帰ってこなかった。その父は訝り、仲間に探らせたところ、息子は枯れ草の中で談笑し、しばらくすると、攢屋[47]の中に走ってゆき、下着を脱ぎ、朽ちた棺を抱き、媾いの動作をしているのであった。その仲間が大声で叫ぶと、息子は驚いて起きあがり、やむをえず、(したばき)の帯を締めると仲間について帰ったが、精はなおびしょびしょとして止まることがなかった。その陽物を撫でると、下腹部に至るまで、氷雪のように冷たかった。その母が尋ねると、「わたしは某夜に小さな家で火を貰ったのですが、美しい婦人がわたしに挑み、わたしと結婚しましたので、一月あまり夫婦生活をしていたのです。わたしは白銀五十両を贈られました」と言った。母は罵った。「鬼が銀を持っているはずがないよ」。若者が懐中の包みを取り、(つくえ)の上に擲ったところ、鏗然と音がしたが、見たところ、紙銭の灰であった。隣人に尋ねると、言った。「攢屋に安置されているのは死んだばかりの孀婦(やもめ)です」。

湯翰林
 銭塘の湯翰林其五[48]が、不遇であった時のこと、貢院で受験するため、部屋を借りて泊まっていたが、その狭さに苦しんでいた。見れば傍に大きな邸宅があったが、たいへん固く鎖ざされており、寂然として住む人がなかった。隣人に尋ねると、言った。「こちらは杭州太守柴公さまの家ですが、悪鬼が祟りますので、買う人がいないのでございます」。湯はもとより大胆であったので、言った。「借りて住まうことはできるか」。隣人はその狂おしさを笑ったが、阻まなかった。湯が鍵を開け、門を啓いて入ると、楼の上には二つの卓と四脚の椅子があり、楼の西には竹の箱があった。長いこと住む人がいなかったのに、塵や埃は積もっていなかった。湯は喜び、荷物を(ひっさ)げて楼に登ると、一つの壺と一本の棍棒を手にしながら、燭を点けて読書していた。
 三鼓になると、陰気な風が窓の外で起こり、燈の燄は小さくなり、ざんばら髪の女が裸で血を噴きながら入ってきた。湯が棍棒を揮うと、女は惘然として、「貴人がこちらにいらっしゃいます。間違えました」と言い、窓から出ていった。湯は鬼が出ていったことを喜ぶと、衣を脱いで安眠しようとした。するとたちまち楼の西の廂房ですうすうと音がした。見れば、女が西の廂房から出てきたが、手に裙、(あわせ)、艶やかな色の衣、梳篦(すきぐし)などの物を持ち、身繕いしようとしているかのようであった。湯はますます恐くなくなり、酒を飲みながら読書していた。
 まもなく、娘は化粧を終え、艶やかな衣服を着け、冉冉と前に来ると跪いて訴えた。「(わたし)は怨みを抱いており、あなたでなければ雪ぐことはできません。(わたし)は姓を朱、名を筆花といい、杭州の柴太守の妾でした。正妻は嫉妬深くて狡猾、太守が(わたし)を愛していることを知ると、危害を加えようとしませんでした。そして(わたし)が子を産む時、産婆に(まいない)し、出産した後、生の桐油をわたしの子宮に塗り[49]、爛れさせ、殺したのです。(わたし)の息子は名を某といい、正妻はかれを息子としています。今では成人しておりますが、(わたし)の息子であることを知りません。十年後、あなたは湖北の主考[50]になりますが、息子があなたのもとで合格いたしますので、あなたは(わたし)の怨みをお告げになるべきです。(わたし)の屍はまだこの楼の東の井戸端に埋められており、八角の磚がしるしになっております。息子にはこちらに来て生みの母を改葬するように命じてください」。そして竹の箱を指しながら言った。「こちらには(わたし)の髪飾りや化粧道具を収めてあります。(わたし)が亡くなった時、太守はとても悲しみ、去るに臨んで家人に命じ、わたしの箱を家に持ちかえらせませんでした。目に触れて心が悲しくなることを恐れたからです。後に盗み取りにくる者がいましたが、(わたし)は陰風を吐きかけて退けました。今この中にはまだ三百両が残っておりますので、お贈りすることができます」。湯は悲しくなり、諾々とするばかり、その後はすべて言われた通りにした。楼上の(あやかし)はそれからは絶え、屋敷も転売された。

黒苗洞
 湖南の房県は、万山の中にあった。西北の八百里は、たくさんの奇怪な山があるばかり、苗洞[51]は千をもって数え、入ってゆこうとする人はなかった。樵が誤って洞内に入り、路に迷って出ることができなくなったときのこと、全身に毛が生えた数人の黒い男がいたが、言葉は意味不明で鳥のよう[52]、草で巣を作り、樹の頂に棲んでいた。樵を見ると、喜び、藤でその手足を縛り、梢に掛けた。樵は殺されるものと観念した。
 突然、一人の老嫗が他の巣の中からやってきた。白い髪、高い(ひたい)、ほとんど人の姿のよう、話しているのも楚[53]の言葉で、樵に言った。「なぜ誤ってこの集落に入ったのです。わたしも房県城内の人でしたが、康熙某年は凶年であったため、乞食してこの集落に迷い込みました。黒苗たちははじめはわたしを食らおうとしましたが、後にわたしの下半身を触り、女だと知ると、巣に住まわせて、妻にしたのです」。二人の黒い毛人を指しながら言った。「かれらはわたしの息子で、これでもわたしの言うことを聴きますから、あなたをお救いいたしましょう」。樵は感謝した。老嫗は身を躍らせて樹に上り、みずからかれの縛めを解き、袖の中から栗、棗数粒を出すと言った。「飢えを療してあげましょう」。そして二人の黒い毛人の耳に向かってしばらく語ったが、言葉は呶呶として理解できなかった。樹の枝一本を手にし、布巾[54]を縛ると言った[55]。「おまえたちの仲間がわたしの同郷人を殺そうとしたら、これを示して、わたしの意思を知らせるのだよ」。
 二人の毛人は樵を送り、行くこと三日ばかり、ようやくもとの路に辿りついて帰った。路行く人々はみな言った。「それは黒苗洞で、迷い込んだ者たちはすべてかれらに食べられて、昔から帰ってきた者はいない」。

空中で辮髪を引くこと
 蕪湖[56]の波止場[57]の巡司[58]衙門の弓兵趙信は、年は三十あまり、妻を娶っていなかった。とある日、野中の廟の中へ往くと、長居して談笑し、家に帰ろうとしなかった。人が尋ねると、「某家に入り婿したのです」と言い、その妻が美しく、家が富んでいることを大いに自慢した。翌日また往くと、普段のように楽しげに笑っていた。人がいっしょに行くと、何もおらず、鬼に弄ばれていることが分かったので、その父母に厳重に監禁するように言い、門を閉ざして飲食を通じさせた。すると趙は部屋で叫んだ。「来ましたよ。来ましたよ。わたしの辮髪を引かないでください」。
 家人が窓の隙間からひそかに窺うと、かれの頭の辮髪は空中にまっすぐ立ち、人に(ひっさ)げられているかのようだったので、ますます厳重に警護した。三日後、声がしなくなったので、戸を開いて見たところ、辮髪を使って(とこ)の手すりでみずから縊れていた。

蓬髪の鬼
 県[59]の于道士は白日鬼を見ることができた。いつも城内の趙家に往き、酒を飲んでいたが、こっそりと主人に言った。「お宅の西の楼の夾牆[60]の中から鬼がざんばら髪で走り出てきて、東や西を窺っています。顔は盗賊のよう、きっと怨みを持っていて、人を捕らえようとしているのでしょうが、お宅の誰であるかは分かりません」。主人は言った。「どのようにして調べましょうか[61]」。道士は言った。「わたしは明日早く来て、鬼がどこに蔵れているかを看たら、お告げしましょう。あなたは家人を呼んで一人一人来させ、鬼がどんな様子をするかを看れば、事情が明らかになりましょう」。主人はその通りだと思った。
 翌日、道士はやってくると「鬼は西の(ひろま)案卓(つくえ)の下にいます」と言った。主人が家丁を集めて卓の前を往来させると、鬼はまったく相手にしなかったが、娘の六姑娘が通ると、鬼はかれに向かって大声で笑った。道士は言った。「これですよ[62]。とりあえず娘さんには知らせないことにしましょう。驚き怖れるでしょうから」。主人が「祓うことができますか」と尋ねると、「これは生前の罪ですので、祓うことはできません」と言った。それからというもの、磚を抛ち、瓦を擲つ音が聞こえ、一月あまり絶えることがなかった。突然、六姑娘がお産のために亡くなると、家ははたして平静になった。

綿を借りて納棺すること
 蕪湖の趙明府[63]必恭は、湖南衡陽の知事をしていた時、劇しい傷寒を病み、息絶えてしまった。家人は棺に収める綿をすべて調達したが、かれの胸元がまだ温かかったので、納棺しなかった。
 趙は夢で黄沙の中を進んだが、茫漠として太陽は見えなかった。小さな河を過ぎると、空はようやく晴れ渡ったが、廟があり「準提観音庵」と題されていた。入ってゆくと、老僧が趺坐しており、とても香しい素麺を煮ていた。空腹を感じたので、僧に向かって食べさせてくれと頼むと、僧は怒鳴った。「こちらで乞食することはない。はやく家に還れ。家に麺があるぞ[64]」。趙はよろよろと走り出ると、同郷の呉某に遇ったが、呉は拱手して「お恵みを蒙りました。わたしの体を暖めてくださいまして」とお礼を言った。
 趙は言っていることが分からず、はっと目醒めると、庵の中と同じように素麺の香りがした。そもそも家人は死骸の番をし、終日食事していなかったので、麺を煮て空腹を充たそうとしていたのであった。趙がすぐに食べさせてくれと言うと、家人は「旦那さまは一月あまりご病気で、湯や水をお口になさいませんでしたから、麺を召し上がることはできますまい」と言ったが、趙はどうしても食らおうとした。家人が仕方なく、一碗を与えたところ、普段通り飲み食いし、病も癒えた。心の中で、呉某がお礼を言っていたのは、でたらめな夢であり、何かの前兆ではないと想い、まったく家人に語らなかった。
 二年後、趙の眷属が蕪湖に還ることになり、そのかみ納棺した綿を入れた箱を持ち帰った。時しも呉某が死に、盛夏で、綿を買う場所がなかったため、納棺する時に綿を借りにきたので、すぐに与えた。さらに三年後、趙は官を罷めて帰り、たまたま家人と以前のことを語ったところ、千里離れた所まで、二年前に、綿を呉が用いることになるので、生き霊が早々とお礼を言いにきたことをはじめて悟ったのであった。

洞庭君が船に留まること
 洞庭湖で貨物を載せる船が、貨物を卸すと、毎年かならず形が良く、清潔な船が一隻、千人の人夫が曳いても動かなくなるのであった。船員はみなそのことを知っており、「これは洞庭君が留まっていらっしゃるのだ」と言い、成りゆきに任せ、貨物を積まず、舵取りや水夫は、みな別の船に往って生活するのであった。夜になると、神燈を輝かせながら、波間に出たり入ったりし、早朝に、もともと泊まっていた場所へ戻るのであった。毎年船は順繰りに任務を担当するのだが、昔から一つの家だけが煩わされることはなく、ぶつかって壊れたりすることもなかった。

纜将軍(らんしょうぐん)が勢いを失うこと
 鄱陽湖で舟に乗り、風に遇うと、龍のような黒い(ともづな)がいつも舟にぶつかってきて、舟がかならず壊れるので、「纜将軍(らんしょうぐん)」と呼び、毎年祭ることにしていた。雍正十年、大旱魃で湖水が乾くと、朽ちた(ともづな)(すな)の上に横たわっていた。農民が斬って焼いたところ、涎が尽きて血が出てきた。それからは、纜将軍(らんしょうぐん)がふたたび祟ることはなく、舵取りがふたたび祭ることもなかった。

呉二姑娘
 全椒の金棕亭進士[65]は、揚州馬氏の玲瓏山館[66]に寄寓していた。孫の某は、年は十七、文才はすこぶる優れていたので、祖父について勉強しており、祖父と孫は別々の部屋で寝ていた。夜に寝惚けて叫ぶ声がしたので、魘されていると思い、起きて様子を見て呼びかけると、孫はすぐに目を醒ました。棕亭は自分の部屋に戻って横になった。まもなくまた魘されたので、棕亭がふたたび往くと、その孫はすでに(とこ)に起坐していた。かれが棕亭と向かいあい、両手を上に向け、「一本の指を曲げてください」と言うと、一本の指が曲がり、「五本の指を曲げてください」と言うと、五本の指が曲がった。そのあとは、叉手したり、拱手したり、さまざまな動作をした。棕亭が怒鳴りつけると、泣きながら、家に帰って母親に会いたいと言ったので、轎を呼び、送り返した。
 病人はみずから衣、冠、靴、帯を取って着けると、祖父母を上座に着かせ、別れの拝礼をして言った。「わたしはすぐに仙界に登ってゆきます」。家を挙げて慌てふためき、為す術もなかった。正午、精神がすこし安定すると、こっそりと祖父を引いて耳打ちした。「ほかでもございません。子狐がわたしを騒がしているだけなのです」。そう言うと、初めのように狂乱し、みずから「呉二姑娘はわたしと前世の縁があります」と称し、「妹の呉三姑娘も来ました。姉妹二人はともにわたしに嫁ごうとしています」とも言った。そして淫猥なことを話したが、聞くに堪えないものであった。棕亭を引きよせると、息を吐きかけたが、その冷たさは氷のよう、鼻腔からまっすぐ丹田まで届き、毛や髪さえもぞっとした。
 鎮江の蒋春農中翰[67]が天師符一枚を贈ったので、掛けようとしたところ、病人がにわかに奪いにきたが、さいわい綾子(りんず)だったので、爪で抓まれても破れなかった。棕亭が符を広げて病人に向けると、またも冷たい息に吹かれ、符は窓の外に飛び、綾子(りんず)は裂けてしまった。棕亭はやむをえず、城隍廟、関帝廟で祈祷した。数日すると、突然病人が叫んだ。「お迎えしろ。お迎えしろ。伏魔大帝[68]さまがいらっしゃった」。
 棕亭はぞっとして、家人を率いてともに跪いた。病人は棕亭の名を呼ぶと罵った。「金兆燕、おまえは進士でありながら、帽子を脱ぎ、頭頂を露わにし、公服を着ないでわたしを迎えるとはな。そのような道理があるのか」。棕亭は叩頭、謝罪した。まもなく、また叫んだ。「お迎えしろ。お迎えしろ。孔聖人がいらっしゃった」。棕亭はまたも叩頭して迎えた。文、武二聖は、ともに語ったが、ひそひそとして聞き取ることができなかった。いずれも病人の口から山東、山西二箇所の人の口吻で語り、このようなことが午の刻から申の刻まで続いた。家を挙げて長跪、哀願し、起立しようとしなかったので、脚はすっかり腫れてしまった。病人は声を荒げて言った。「妖魔はすでに斬られた。おまえの孫を封じて上真[69]の諸侯にしよう。わたしは帰るぞ」。棕亭は叩頭して送ると、病人に粥を進めた。病人は空に向かって手招きすると「粥を食べます。粥を食べます」と言い、相変わらず狂おしいことを語った。棕亭は、文、武二聖は、いずれも(あやかし)が成りすましていることにはっと気付くと、病人を責めた。「わたしは年は六十を越え、昔から人に騙されたことがなかったが、今回はおまえに弄ばれてしまった」。病人は首を縮め、奥を向き、口を掩って笑い、得意そうにし、一月あまり狂っていた。
 林道士という者が来て、北斗を拝すれば祓うことができると言ったので、棕亭は祭壇を設けて斎醮[70]させ、終日お経を誦えさせた。このようにすること七日、病人は精神がようやく正常になったので、いそいで結婚させ、舅の家に入り婿させると、(あやかし)ははたして来なくなった。これは乾隆四十七年三月の事で、棕亭先生がみずからわたしに語ったことである。

石の獅子が命を救ってくれと頼むこと
 広東潮州府の東門外では、通行人が通るたびに、命を救ってくれと叫ぶ声が聞こえるのであった。見てみると、四方には人がおらず、声は地下から出ているのであった。死人が生き返ったのかと疑い、鋤を持って掘ったところ、土を掘りさげること三尺ばかりのところで、石の獅子が(うわばみ)にその頚を締められていた。人々は大いに驚き、(うわばみ)を撃ち殺し、石の獅子を廟に担ぎこんだ。土人が祈祷すれば、霊験はなのめならぬものであったが、敬い信じなければ、たちまち禍が降されるのであった。それからというもの、香火はたいへん盛んになった。
 太守の方公はそれを聞くと、妖異だと思い、その廟を壊そうとしたが、民衆は騒ぎ立て、暴動が起きそうになった。太守がやむをえず、石の獅子を城に迎え入れ、別に廟を建ててやるのだと偽ると、人々はようやく承知した。演武場に担いでゆくと、鎚で石の獅子を砕き、河に投げたが、特に変わったことはなかった。太守方公は名を応元といい、湖南巴陵の人であった。
 按ずるに、晋の元康年間、呉郡の懐瑤の家の地下で吠える声が聞こえたので、掘ったところ、二匹の犬がいた。長老は「これは犀犬というが、捕らえた者の家は富み栄えるのだ」と言った。その事は『異苑』に載せられている。

旱魃
 乾隆二十六年、京師は大旱魃となった。健歩[71]の張貴は某都統[72]のために公文を届けて良郷[73]に行くことになった。夜遅くに城を出て、人がいない所に行くと、たちまち黒い風が捲き起こり、その燭を吹き消したので、郵亭で雨を避けた。すると娘が燈を持ってきたが、年は十七八ばかり、(かお)はとりわけ美しく、張貴を家に招き、茶を飲ませ、馬を柱に繋いでやり、ともに寝ることを願った。健歩は望外の喜びで、朝まで綢繆としていた。鶏が鳴く頃、女は衣を羽織って起きあがり、引き留めても承知しなかった。健歩は体が疲れていたので、さらに熟睡したが、夢の中で、露がその鼻に冷たく、草がその口を刺すのを感じた。空がかすかに明るくなると、はじめてわが身が荒れ塚の間に臥していることに気付いた。大いに驚き、馬を牽こうとしたが、馬は樹の上に縛られており、届けるべき文書は、すでに期限に五十刻[74]遅れていた。
 官司が都統のもとに調査しにゆき[75]、遅配の不正があるのを慮り[76]、都統は佐領[77]に命じて厳しく訊問させたので、健歩はくわしく事情を語った。都統がその(つか)を訪ねるように命じたところ、女は張家の娘で、嫁ぐ前に人と姦通し、事が露見したために、羞じ、怒り、みずから縊れ、しばしば通行人に祟っていることが分かった。
 ある人が言った。「それは旱魃[78]だ。(さる)の体、ざんばら髪で、一本足で歩くのは、獣魃で、縊れ死んだ僵屍(キョンシ)で、出てきて人を迷わせるのは、鬼魃だ[79]。捕らえて焼けば、雨をもたらすことができるぞ」。そこで上奏して棺を啓いたところ、女の僵屍(キョンシ)で、(かお)は生きているかのよう、全身に白い毛が生えており、焼くと、翌日は大雨となった。

蠍の(あやかし)
 佟明府が芮城[80]の知事をしていた時のこと、郷民が夏に背を露わにして石の上に坐し、一碗の麺を手にしていたが、食らいおわらないうちに、たちまち大声で叫び、地に倒れ、息絶えてしまった。人々が見ると、背の真ん中に穴があり、深さは数寸、黒い気が湧いていたが、何の(やまい)であるのかは分からなかった。お上につぶさに報告し、麺を売る人に毒殺されたかと疑った。佟公が調べにゆくと、坐していた石の傍に裂け目があり、黒い血が裂け目の中に流れ込んでいたが、その下で吸ったり吐いたりするような音がしていたので、石を掘るように命じた。掘りさげること三尺ばかり、石の穴の中に蠍がいたが、鵝鳥ほどの大きさ、首を抬げて血を飲んでおり、尾は曲がっていて金色であった。郷民が争って(からすき)(すき)を持って撃つと、蠍は死んだが尾は損われなかった。死者の背中を調べると、傷痕はぴったり一致した。蠍の尾は倉庫に収められ、今でも残っている。

蛇王
 楚の地に蛇王というものがいる。姿は帝江[81]に似ており、耳、目、爪、鼻がなく、口があるばかり、その形は四角く、肉でできた櫃のよう[82]、渾渾[83]として進み、通り過ぎる処では草木はすべて枯れ、口で吸ったり呑んだりすると、巨大な(うわばみ)や凶悪な蛇はすべて口中の水となり、肉でできた櫃はぱんぱんに大きくなるのであった。
 常州の葉某という者が、兄弟二人で、巴陵[84]の地に遊んだときのこと、蛇たちが風のように走っており、何かを避けているかのようであった。やがて腥い風はますます激しくなったので、二人は怖れ、樹の上に逃げた。まもなく、正方形で、(はりねずみ)のようだが(とげ)がなく、体はそれほど大きくない肉でできた櫃が、東の方からやってきた。その弟が矢を持って射ると、まさに櫃の顔に中たったが、櫃は気が付かないかのよう、矢を受けたまま行ってしまった。射た者は樹を下りると、この(もののけ)の体に近づき、ふたたび射ようとし、その矢を抜いたが、倒れてしまい、しばらく起たなかった。兄が樹を下りて見たところ、屍は黒い水と化していた。洞庭に老いた漁師がおり、「わたしは蛇王を捕らえることができる」と言った。人々が大いに驚き、尋ねると、言った。「百余個の小麦の饅頭(マントウ)を作り、長い竿の鉄の(さすまた)に刺してあいつの口元に送るとよい。あいつがすこし吸ったら、取り去って新しいものに易える。数十回このようにすると、はじめの饅頭(マントウ)は黴びて腐って泥のようになり、黒くなったり、黄になったり、かすかに(あか)くなったりする。饅頭(マントウ)の色が元通り白くなったら、大勢で囲んで殺すのだ。豚や犬のようなものにすぎず、人を食らうことはできない」。人々が試したところ、その言葉の通りであった。

顔淵が先師となって罪を裁くこと
 杭州の張紘秀才は、夏に(はらくだし)で死んだが、家は貧しく棺がなかったので、その(おじ)に援助を乞うた[85](おじ)は海寧に居たので、五日で往復したところ紘は蘇り、天帝の所に行き裁きを受けたと語った。すでに罪案は死刑に決まっていたが、「わたしは諸生です」と言うと、一人の役人を遣わして学宮に護送してゆかせ、二人の先師を呼び出すと言った。「この者はすでに罪案は決まっていますが、お二人に判決していただかなければなりません」。一人の師が言った。「罪は軽微だが事は重大だから[86]、死刑にするべきだ」。一人の師は言った。「そうはいっても、事情は憐れむべきものだし、かれは首謀者ではないから、とりあえず減等してやり、五年後に行いを改めればそれでよかろう。かれの父親は嶺南で役人をし、人民に功徳を施したから、とりあえず護送して、父親に会わせよう」。護送してきた役人に命じて嶺南名宦祠へ護送してゆかせ、その父に会わせた。父は大声で「わたしの息子ではない」と叫び、拒んで会わなかった。母である夫人は傍の部屋から出てくると泣きながら言った。「お父さまはおまえを子とはお認めにならない[87]。おまえははやく帰って過ちを改めるのだ。ただおまえは死んで久しいから、屍が腐っているだろう。帰ることができれば帰り、そうでないときは天帝さまの所に帰れば、おのずとご沙汰があるだろう。絶対に他人の屍を借りてはならないよ」。鬼僕をともに家に行かせ、家人が認めようとするかを窺わせた。家に行くと、屍はまだ横たわったまま腐っておらず、傍に一つの燈と一碗の飯があった。護送人が紘を推して屍の上に倒すと、屍はにわかに動き、妻子は哭きながら驚いてかれを見た。鬼僕は叫んだ。「認められたぞ。奥さまにご報告できる」。そのまま去った。紘が活きかえると、人々は争って紘の隠事を尋ねたが、紘は言わなかった。五年足らずで、紘は死んだ。
 その従兄で名は綱という者は、毛西河[88]の友人であったが、西河に告げた。「大清の兵が杭州を落としたとき、潞王[89]は北へ去ったが、その側室[90]は塘西[91]の孟氏の家に留まって隠れた。わたしの弟は王某に誘われ、出頭して褒美を得ようと企てたが、その後悔い、名を列ねなかった。後に王某とともに出頭した者五人は、いずれも急死した。わたしの弟は死んだのに甦ったが、狡い性格は改まらず、朱道士と一羽の鶴をめぐって争い[92]、こっそりと道士の名を海寇の事件に列ね[93]、死なせてしまった。先師の教えに負き、慈母の教えに逆らったのだから、結局長生きしなかったのは当然だ」。「学宮の先師の姓名ですが、紘は誰だと言っていましたか」と尋ねると、「一人は顔淵、一人は子服景伯[94]でした」と言った。

豆腐に箸が掛けられていること
 四川茂州の張という富豪は、老年で一児を生み、たいへん愛し、遊びに出るたびに、かならず盛装させていた。八歳のとき、縁日を観に外出し、返らなかった。くまなく探してとある(たにがわ)に行くと、すでに殺され、裸で水に横たわっており、衣服、装身具はすべて剥ぎ取られていた。張はお上に訴えたが、下手人は捕まらなかったので、刺史葉公はみずから城隍廟に宿って夢占いすることにした。夜に夢みたところ、城隍神が門を開いて葉を迎え、酒盛りしたが、(つくえ)の上には豆腐が一碗、竹の箸がその上に掛けられていた。傍にはほかに物はなく、結局席上一言も発しなかった。葉は目醒めた後に夢解きしたが、わけが分からなかった。後に捕快[95]は金鎖を持って質屋に入る男を見たので、捕らえて訊ねたところ、犯罪の証拠がすべて揃っていた。その男は姓を符といったが、竹を(とうふ)の上に掛ければ、「符」の字になることにはじめて気付いた。

蒋金娥
 通州興仁鎮の銭氏の娘は、年頃になると、農民の顧家に嫁いで妻となった。病で死んだが、たちまち蘇ると叫んだ。「ここはどこですか。わたしはどうしてこちらに来たのでしょう。わたしは常熟の蒋撫台の娘で、幼名は金娥というのです」。そしてくわしく蒋家の事を述べ、泣き止まず、その夫を拒んで言った。「あなたは誰ですか。わたしに近づこうとするとは。わたしを常熟に送り返させるべきです」。鏡を取ってみずからを映すと、大いに慟いた。「この人はわたしではなく、わたしはこの人ではありません」。鏡を擲つとふたたび映そうとしなかった。
 銭が人を遣わし、ひそかに蒋家を訪ねさせたところ、お嬢さまは名を金娥といい、病死した年月は合っていたので、舟を雇って常熟に送ってゆかせた。蒋家ではそれを信じず、家人を遣わし、舟に見にこさせた。女は会ったばかりなのに、某某の姓名を呼ぶことができた。見物人はたちまち垣のようになった。蒋家では事が奇怪であることを恐れ、路銀を贈り、通州に戻るように促した。女はもともと字を識らなかったが、病んだ後はたちまち字を理解し、吟詠することができるようになり、挙止は嫻雅で、今までの田舎女の有様ではなくなった。
 何義門先生[96]の甥で権之と号する者は、かつて蒋家の娘と婚約したが、娘を娶らないうちに亡くなっていた。そこで事実を知らせにくると、女は何に会いにゆき、姑父[97]と称した。ともに往事を語ったが、あらゆることをよく記憶しており、何を義父[98]と呼びなした。何が女にやはり元の夫[99]と結婚するようにと勧めると、女は承知せず、尼になろうとしたが、果たさなかった。これは乾隆三十二年のことであった。

わたしの血を返せ
 刑部の獄卒楊七という者は、山東の人参泥棒[100]の某と仲が良かった。囚人は事が露見したため、処刑されることになっていたが、人参を楊に(まいない)し、さらに三十両を与え、首を縫い、棺に納めてくれと頼んだ。楊は約束に負いた上、人の血を饅頭(マントウ)に浸すと労咳を治すことができるということを思いだし、しきたり通りに血を取り、家に帰ってその身内の某に差し上げようとした。しかし家に着くと、たちまち両手でみずからの喉を扼し、大声で「わたしの血を返せ。わたしの銀を返せ」と叫んだ。その父母妻子は紙銭を焼き、僧を招いて救おうとしたが、結局喉を断たれて死んでしまった。

 

最終更新日:2009911

子不語

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[1] 河南省の県名。

[2] 浙江省の県名。

[3]印を捺した護符であろう。

[4] 原文「我瓜洲公子也、與汝姑嫂有縁、故折柳做鵲橋、從瓦上度來、以應清明佳節」。清明節では、家々の門に柳を挿すので、「以應清明佳節」と言っているものと思われる。

[5] 王際華。銭塘の人。乾隆十年の進士。『清史稿』巻三百二十七などに伝がある。

[6] 仁和県の寺名。

[7] 原文「不覺毛髮淅瀝」。「毛髮淅瀝」が未詳。とりあえず「毛髮悚然」の意として訳す。

[8] 正白旗蒙古の人。乾隆十年の進士。

[9] 武進の人。乾隆十年の進士。

[10] 刑部尚書。ただし、王際華が刑部尚書になったということは正史に記載がない。

[11] 玄帝は天帝のこと。

[12] 原文「治火災當治其母、不當治其子」。訳文は正しいと思われるが、文脈上の繋がりが未詳。

[13]五行相生と相剋の理。木が火、火が土、土が金、金が水、水が木を生じるのが相生。木が土に剋ち、土が水に剋ち、水が火に剋ち、火が金に剋ち、金が木に剋つのが相剋。

[14] 法術の一種。術者が呪語を誦え、子供に鏡や白紙を見せ、そこに映る映像から吉凶などを占うという。陳永正主編『中国方術大辞典』百六十一頁参照。

[15] 未詳だが、錫箔を貼った紙銭であろう。

[16] 一族で、自分の子以外の、自分より一世代下の男子。

[17] 龔鑑。銭塘の人。『清史稿』巻四百八十二などに伝がある。

[18] 杭州城の東側の門の一つ。崇新門、薦橋門、螺螄門とも。乾隆元年『浙江通志』巻二十三・城池上引『万暦杭州志』参照。

[19] 原文「杭州清泰門外有觀音堂徐姓者」。「觀音堂徐姓」が未詳。とりあえずこう訳す。

[20] 神の名。五聖、五郎神とも。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百九十八頁参照。

[21] 主語は五通神。

[22] :『三才図会』。

[23]中表は○祖父の姉妹の子供、○父の姉妹の子供、○祖母の兄弟姉妹の子供、○母の兄弟姉妹の子供、○以上の人たちの子供、などの親族関係を指す。

[24] 含意は未詳だが、「二色」には喜怒の意があるので、花に感情がないことをいっているか。

[25] 浙江省の府名。

[26] 攢室。霊柩安置所。

[27] 原文「杭州龍井初開時、商人葉姓者司其事」。未詳。とりあえずこう訳す。龍井は西湖の西側風篁峰にある井戸と思われるが、この井戸が開かれたのは赤烏年間のこと。「商人葉姓」も一切未詳。

[28] 南北朝陳の人。北伐をしたことで有名。『陳書』巻三十一などに伝がある。

[29]施光輅。銭塘の人。

[30] 万福。県の人。

[31] 北斗星の母。斗姆元君。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百七十四頁参照。

[32]霞帔。写真

[33]手のひらを額に当てて、長跪する拝礼。

[34] 永寧の人。康煕二十年から二十三年まで両江総督。『清史稿』巻二百八十三などに伝がある。

[35] 原文「願而勤」。「願」が未詳。とりあえずこう訳す。

[36] 文昌帝君。学問の神。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百五頁参照。写真

[37] 驚いたことによって引き起こされる癲癇。謝観等編著『中国医学大辞典』千二百五十一頁参照。

[38] 地名。会稽県の東六十里の地。乾隆元年『浙江通志』巻三十六・関梁四参照。

[39] 原文「出懷中朱家糕與張食曰」。「朱家糕」が未詳。朱家ブランドの糕である可能性あり。

[40] 原文「則一白衣人帶甬長帽」。「甬長帽」が未詳。とりあえずこう訳す。

[41] 杭州の街巷名。現存。

[42] 台湾の原住民。首狩りの習慣があるという。『臺陽筆記』雞爪番「臺地内山生番、種類不一、性皆嗜殺、雞爪番為尤甚。處窮島中、末ム飲血為活。漆髮赤體、手足三指如雞爪、陟嶺若飛。見人則取頭顱而去、以皮穿髏作念珠挂項間、多者為盛、雄占一社、眾番皆避其鋒、土人比之曰虎、其信然也」。

[43] 貴州省。

[44] 福建省。

[45] 固有名詞と解す。海口鎮。

[46] 捕り手。

[47] 前注参照。

[48] 湯世昌。仁和の人。乾隆十六年の進士。

[49] 原文「賄收生婆於落胎後將生桐油塗我産宮」。「生桐油」が未詳。とりあえずこう訳す。桐油は油桐子油。きりあぶら。有毒。謝観等編著『中国医学大辞典』七百五十三頁参照。

[50] 郷試の試験官。

[51] 未詳だが、苗族の部落であろう。

[52] 原文「語兜離似鳥」。「兜離」は匈奴の言語のさま。『後漢書』列女・董祀妻蔡琰伝「言兜離兮、状窈停」注「兜離、匈奴言語之貌」。

[53] ここでは湖南のこと。

[54] 麻布の頭巾。喪服の一種。

[55] 主語は老嫗。

[56] 安徽省の県名。

[57] 原文「江口」。未詳。とりあえずこう訳す。

[58] 巡検使。従九品官。

[59] 安徽省の県名。

[60] 二重壁。物置などとして使う。

[61] 原文「何以驗之」。鬼が捕らえようとしている人が誰かをどのようにして調べようかということ。

[62] 原文「此其是矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[63] 知県。

[64] 原文「家中有麵等汝」。「等」が未詳。とりあえずこう訳す。「麺がお前を待っているぞ」ということではないと思われるが。

[65]金兆燕。乾隆三十一年の進士。

[66]塩商馬曰琯、馬曰璐兄弟の小玲瓏山館。文人のサロンとなっていた。

[67] 蒋宗海。丹徒の人。乾隆十七年の進士。中翰は内翰、翰林学士。

[68] 関羽の称号。万暦四十二年に勅により、三界伏魔大帝に封ぜられた。

[69] 上仙。もっとも優れた仙人。

[70] 道教の祭祀。胡孚琛主編『中華道教大辞典』五百六頁参照。

[71] 郵便配達。

[72] 武官名。

[73] 河北省の県名。

[74] 十二時間。旧時、昼夜を百刻に分けていた。

[75] 原文「官司行査至本都統」。未詳。とりあえずこう訳す。

[76] 原文「慮有捺擱情弊」。「捺擱」は官庁の用語と思われるが未詳。とりあえずこう訳す。郵便物を故意に手元に留めて配達しないことであろう。

[77] 武官名。都統の属官。

[78] ひでりの神。『詩』大雅・雲漢「旱魃為虐、如如焚」。〔伝〕魃、神也。〔疏〕神異経曰、南方有人、長二三尺、袒身而目在頂上、走行如風、名曰魃、所見之国大旱、赤地千里」。

[79]獣魃、鬼魃は何か基づくところがあるかも知れないが未詳。

[80] 山西省の県名。

[81] :『三才図会』。

[82] 原文「肉櫃」。未詳。とりあえずこう訳す。

[83] 巨大なさま。

[84] 湖南省の県名。

[85] 原文「從其叔乞助」。「從」が未詳。とりあえずこう訳す。

[86] 原文「罪輕而情重」。未詳。とりあえずこう訳す。文脈からして、実際に犯した罪自体は大したものではないが、犯そうとした罪はたいへん重大なものだということか。

[87] 原文「父不汝子矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[88] 毛奇齢。蕭山の人。『清史稿』巻四百八十七などに伝がある。

[89] 朱翊鏐。穆宗の第四子。『明史』巻百二十などに伝がある。杭州に避難していたが、順治二年、清に下った。『明季南略』巻十「潞王出降」参照。

[90] 原文「宮眷」。未詳。とりあえずこう訳す。

[91] 未詳。塘棲鎮か。杭州北部の鎮名。

[92] 原文「與朱道士爭一鶴」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[93] 原文「乃私竄道士名於海寇案中」。未詳。とりあえずこう訳す。

[94]子服可。春秋時代、魯の大夫。景伯は号。

[95] 捕り手。

[96] 。長洲の人。康煕四十二年の進士。

[97]姑父とは父の姉妹の夫をいうはずで、蒋金娥が何義門先生のことをどうしてこう呼ぶのかがまったく未詳。

[98] 舅ということではなく、契約による擬製的な父。

[99] 顧家の夫のことであろう。

[100] 原文「偸參囚」。未詳だが、訳文の意味であろう。

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