第百八回 

薛全淑が洞房で花燭の典を挙げること

譚簣初が合格通知版に名が載ること

 

 さて、譚黄岩の家では、嫁を娶るための礼物がすっかり揃い、薛楡次の家の持参品もすっかり揃いました。撫台は、さらに金や玉のかんざしや真珠、翡翠の頭飾り、楠の箱、楩[1]の衣桁、鉄梨[2]、紫檀で作った品物を加えました。結婚式の五日前、首領官に大きな屋敷を選ばせて公館とさせ、薛夫人と全淑をそこに住まわせ、下女や乳母数十人を付き従わせました。薛夫人

「役所はとても便利なのですから、これ以上引っ越しをなさる必要はございますまい」

撫台

「私も好き好んで引っ越しをするわけではありませんが、先方から簣初が自ら迎えに来ますと、たくさんの不都合があるのです。大堂の儀門は、朝廷の儀門で、開ける時は必ず楽を奏で、爆竹をならさなければなりませんが、内輪の祝いごとのために朝廷の儀仗を用いていいはずがありません。これが不都合の一です。役所では譚家の者が役人をしており、嫁を迎えにくる新郎も譚という名字ですから、公私混同の嫌いがあります。これが不都合の二です。それに、簣初が嫁を迎えにきたとき、外甥の澐は、十三歳でも主人として新婦につき沿い、告先の礼を行うことができます。しかし、役所で儀式を行えば、彼は大堂に立って客を迎えることができず、私は族伯として族甥[3]を迎えることができません。婚姻は人の道の中で最も重要なものですが、簣初が薛氏の先祖に対して報告を行う場所がありません。これが不都合の三です。公館を設け、薛府のように、楡次公の位牌を置き、薛澐を主人とし、奠雁の儀式に付き添わせるしかありません。これは重大な儀式であり、絶対にいい加減なことをしてはいけません」

 薛夫人は、巡撫と同腹の姉妹で、平素から礼法に通じておりましたので、すぐに話しを理解しました。下役のかしらは、首領官をつれ、巡撫の役所の西の、以前役人をしていた人の大きな屋敷を選びました。そこは、書房のある中庭がついた、とても広いもので、テ─ブル、椅子、床、帳、台所、竈がすっかり揃っていました。夕方になりますと、提灯をつけ、薛氏母子は三台の大きな轎に乗り、下女と乳母は二人かきの小さな轎七台に乗り、垂れ髪の小者、白髭の下男は歩いていき、公館に行って泊まりました。あとは吉日がくるのを待つばかりでした。

 黄岩公の家では、すでに西の楼を掃除させ、新郎新婦の洞房[4]にしていました。また、碧草軒を綺麗に掃除し、植木鉢を並べ、金魚鉢を置き、書画を掛けました。そこへ、盛希僑が、譚紹聞へのご機嫌伺いの手紙を自ら届けにきました。そして、すぐに彫刻をした漆塗りの衝立を送り、飾り付けをし、結婚式の日に客をもてなす場所としました。

 十六日になりますと、譚家からは、浙江で使っていた役人用の轎四台を担ぎだしました。どの轎にも赤い綾子の薬玉がついていました。また、昔、浙江で使っていた傘、扇、旗、幟、粛清、回避牌一対を用い、新しく作った黄岩県の提灯二対をさげましたが、これらは、ささやかで、贅沢ではない、分相応のものでした。簣初は、花轎に腰掛け、花嫁を迎えに行きましたが、新郎の付き添いとして、張正心に引率を頼みました。二台の轎には、娘を迎える客が腰掛けました。途中では、八人が喇叭、銅鑼、太鼓を、吹いたり叩いたりし、もう八人は笙、管、簫、笛を、演奏しました。薛家の公館につくと、楡次公の十三歳の息子が、門の左で立って迎えました。二人の長い髭をはやした年配の下男が伺候していました。張正心は、簣初とともに轎から降りますと、息子は拱手をし、お辞儀をして中へ案内しました。娘を迎える客が轎から降りますと、娘を送る客が出迎えました。双方の下女と乳母は、押し合いながら中に入りました。

 張正心は、簣初を案内して大広間に行き、松子元肉茶を沸かして捧げました。茶を飲み終わりますと、張正心は、楡次公の位牌がどこにあるかを尋ねました。新郎を引率して先祖に報告をしなければならないからでした。薛公子は答えました

「お客様のいるところに位牌をもってくることはできません。亡父楡次公と書かれた位牌は書斎のある中庭の北の建物にあります。ご質問を叩頭とみなすことに致しましょう。おみ足をお運び頂く訳には参りません」

「男のご先祖への儀礼では、これが一番大事ですから、叩頭するべきでしょう」

そして、一緒に、笛の先導で、楡次公の位牌の前に行きました。上には昔の人民が楡次公の徳に感動して作った「文章の宿望[5]は江の左[6]にあり、康済[7]の宏猷[8]は霍[9]以東にあり」[10]という対聯が掛かっていました。人々は、前と後ろで八拝の礼を行いました。薛公子も同じ数の答礼を行いました。そして、張正心が簣初に代わって傷み入りますと言って断りますと、一回叩頭し、ふたたび叩頭しようとしました。張正心は引き止めました。薛公子は年が若く、力も弱かったので、それ以上動くことはできませんでした。

 大広間に戻りますと、ふたたび茶が出されました。酒が並べられ、簣初が首座になり、酒や料理が幾つか出された後には、さらに一杯の茶が出されました。張正心がお相伴をしていた席から立ち上がりますと、太鼓が響きました。今回の、広間での奠雁の儀式、門の外での御輪の儀式は、すべて聖人が作った儀礼の通りに行われました。

 張正心、簣初が轎に乗りますと、嫁を迎える女と嫁を送る客が、全淑を助けて、八人がきの大轎に乗せました。母と娘が別れるとき、涙が乾かなかったことは、お話しいたしません。四人の女の客は、一緒に轎に乗りました。撫台の奥方は、八人がきの轎に乗り、おばが姪を送る時には、さらに太鼓の音が加わりました。最も美しかったのは、四人がきの轎や八人がきの轎が大通りに並んでいたこと。最もおかしかったのは、黄色の傘に青い傘が交じり、金瓜に銀瓜が交じり、龍旗[11]に豹虎旗[12]が交じり、あたふたと走りながら、前になったり後ろになったりして、統一がとれていなかったことでした。見ていた人々は、指差して笑いました。

 花轎は担がれて蕭墻街の大門の前につきました。横には三匹の飾りの錦がひかれており、まるで三つのひさしのある傘のようでしたが、色は三色別々でした。金泥で書いた一斗升ほどの大きさの喜の字が、照壁に貼られましたが、これと新しい対聯は、いずれも蘇霖臣が自ら書いたものでした。墨は黒くて漆のよう、字には潤いがあって油のようで、とてもきらびやかでした。門が狭く、八人がきの轎が通ることができませんでしたので、女達は仕方なく大通りで轎から降りました。地面には一面に筵の他、赤い毛氈、模様のある氆氌[13]が敷かれました。正門から洞房まで、露台[14]の甬道[15]はまるで一本の軟らかい道のようでした。門がまちの上には馬の鞍が一つ、織機の筬が一つ置かれ、「平安吉勝」の意を表していました[16]。嫁迎えの女、嫁送りの客が新婦の轎の前に行き、花か玉のような新婦を助けて轎から降ろすと、頭には五つの鳳の飾りのついた金の冠を載せ、真珠の垂れ飾り、たくさんの飾り房をつけていました。身には七事、巾着と霞璧をつけており、錦の刺繍はきらきらと輝き、宮裙には百の折り目がありました。両足には鳳履をはいていました。街には見物の男女が集まってきました。撫台の軍牢や皀隷は黒皮の鞭を振るいました。しかし、群衆が押し寄せてきたため、楡次公の旧い轎は、押されてガラス窓にひびが入りました。すると、急に叫び声が聞こえました。

「木の上の子供が木が折れて落ちた」

太鼓が演奏されている脇では、息子や娘を呼ぶ声もしました。古人は「見る者堵の如し」[17]といいましたが、それよりも凄い有様でした。

 四人の女の客は、新婦を助け、玉の瓶を抱えながら、大門に入りました。女の家族および下女と乳母は一緒に中に入りました。堂楼の中庭に着きますと、真ん中には四角いテ─ブルが設けられ、絨毯が敷かれ、四面に囲裙[18]がめぐらされ、上には赤紙の大きな張り子の升が置かれていました。升の中には五穀が盛られ、「稼穡惟れ宝」[19]の趣旨を表していました。斗の中には銅鏡が一枚置かれ、日に映えて、輝きは目を奪わんばかりでした。これは、洗顔、化粧などのあらゆることを表していました。麺棒が一本、菜切り包丁が一本さしてあるのは、料理を作り、舅と姑に仕える意を表していました。大きな秤、細い杼が挿してあるのは、機織りをすることを表していました。これらの置き物は、『家礼』に従ったものではありませんでしたが、徳、言、容、功という、婦人の務めを表したものでした。いわゆる「諸れを野に求め[20]、郷に観る」とは、この趣旨なのです。

 薛全淑は譚簣初に従って天地を拝し、玉の瓶を抱え、下女に助けられながら洞房に入りました。そして、玉の瓶を置きますと、腰掛けに座りました。全姑は茶を捧げ持ってきて、横に控えました。全淑は昔の友達をみますと、心の中で、思いがけない久し振りの再会を喜びました。しかし、二人の賢い娘は、慕い合う気持ちを口に出すわけにもいきませんでしたので、目と目で睦みあうだけでした。

 譚紹聞は、息子を連れて碧草軒に行き、客の相手をし、茶を飲みおわると食事を設けました。張正心は薛澐に首座を譲りましたが、薛澐は承知しませんでした。

張正心「今日のお客はあなた一人だけです。僣越なまねをすることはできません」

薛澐は拱手して謝意を示し、東の席に座りました。譚紹聞は西向きでお相伴をしました。張正心は西の席に座り、譚簣初は東北に向かってお相伴をしました。山海の珍味の、豊富で清潔なさまは、いうまでもありませんでした。従者をねぎらう宴席は、すべて王象藎が準備したもので、整然として、少しの乱れもありませんでした。人々はたらふく飲み食いしました。お祝儀の額は、すべて閻仲端が決めました。金額はそれぞれの働きにふさわしい額でしたので、皆喜びました。

 奥では三つの宴席を設けました。王氏は、撫台夫人のために一人用の席を設け、お相伴をする人はおかず、四人の送迎をする女たちのために二つの席をもうけ、曹氏と自分でお相伴をするつもりでした。ところが、撫台の奥方は旧家の人で、代々科挙合格者を出した家柄でもあり、礼法をよくわきまえていましたので、すこしも間違ったことをしようとしませんでした。奥方は王氏をおばさまと呼び、自分を甥の嫁と称して[21]、言いました。

「私たちの家がお客をおもてなし致しますのに、私たちが首座に着くわけにはまいりません」

撫台の奥方の身分が高かったので、王氏は普段はおしゃべりなのに、今日はまったく受け答えをしませんでした。撫台の奥方は埒があかないと思ったので、弟[22]の嫁の巫氏を呼んでくるように命じました。実は、撫台の奥方は、すでに巫氏を呼んでお祝いを言おうとしたのでした。しかし、巫氏は役人の奥方ではありましたが、役所に行ったことはありませんでしたので、撫台の奥方が、今日、嫁を送ってきたと聞きますと、すっかり気圧されてしまい、堂楼にあがってこようとはしませんでした。そして、下女に野暮ったい返事をしました。

「暇がなくて、忙しいんだよ」

しかし、撫台の奥方はさらに下女を遣わして呼びにきましたので、巫氏は何も言うこともできず、仕方なく楼に上りました。撫台の奥方が巫氏に会って、奥さまおめでとうございますと言いますと、巫翠姐は答えました。

「何もおめでたいことなどありません。毎日忙しいのです」

撫台の奥方は、族弟の夫人ががさつな女であることが分かったので、下女に言い付けました。

「奥さんのところに料理があるかどうか見ておくれ」

「ございます」

撫台の奥方は、

「私とおばさまが対座して客のお相伴をするという法はありません。私は兄弟の嫁たちと、暇を見付けて話しをしようと思います。ここで私と兄弟の嫁がお客のお相伴をしていれば、二人とも気が楽でしょう」

といいますと、王氏に向かって拝礼を行い、楼を降りていきました。巫翠姐は仕方なく付き従い、自分の楼に行きました。下女たちはすでに果物皿、盆、杯、壺、瓶の類いを並べ終わっていました。

 三つの席の食事が終わらないうちに、薛澐は帰途につき、役所に入りました。公館はすでに主人に渡されていました。

 撫台の奥方は、食事を終えますと、洞房へ姪を見に行こうとしました。薛全淑は、すでに着替えをし、頭一杯にかんざしを飾り、全身に色物の衣をきていました。彼女の世話はすべて全姑がしました。撫台の奥方は、腰掛けて一杯の茶を飲み、ねぎらいの言葉をかけますと、役所に帰ると言いました。下女は下男に、下男は控えていた人々にそのことを伝えました。八人がきの轎がきちんと置かれ、傘と扇が並べられますと、嫁を送ってきた人々の二台の轎は、下男や嫁つきの下女の乗る、二人がきの小さな轎を従え、銅鑼を鳴らしたり、先触れの声を揚げないようにと言い付けて、巡撫の役所に戻っていきました。

 さて、薛全淑、王全姑の二人は、西の楼で仲睦まじく歓談しました。王全姑は、薛全淑が質問をしようとしては顔を赤らめていると思い、薛全淑は王全姑が話しをしたいのだが気が引けているのだと思いました。王全姑は少し考えますと、楼のドアに鍵をかけ、全淑の前に行き、跪いて小声で言いました。

「私はご隠居さまのお引き合わせで、若さまにもう一年お仕えしています」

すると、全淑は全姑を急いで助けおこし、やはり小声で、

「縁は前世で定められたものです。今日、天が人の望みを適えた以上、私たち二人は仲のいい姉妹同士です。座って話しをしましょう」

しかし、王全姑は座ろうとしませんでした。薛全淑は立ち上がって、

「あなたが座らないなら、私たちは一緒に立ちましょう」

と言い、手で王全姑を引っ張り、二人は肩を並べて腰を下ろしました。手に手をとりあい、小声で話しますと、ちょうど大きな鏡を嵌め込んだ衝立に姿が映りました。一人は綺麗な服を着て艶やかな化粧をしており、もう一人は身だしなみは普通で、斜めに二つのかんざしをさしていました。四人の佳人は、顔と顔とを見合わせました。この仲睦まじく優しい心は、昔から優れた筆をもってしても描くことはできないものです。鈍感で無知なものが、美しい光景を無駄にしてしまっていたのは笑うべきことです。中庭では、楼の中の新婦はそれぞれ勝手なことをしているのだろうと思っていました。全姑は全淑に懇ろに仕え、逆らおうとはしませんでした。双方が丸く収まるとは、まさにこのことでした。二人は並んで座りましたが、親愛の情の中にも三割の敬意を、畏敬の念の中にも睦まじい気持ちをもっていました。そして、玉の竹の子のような手で、葱のような指を握り、親しみあって何もいうことができませんでした。

 すると、樊婆がドアを叩いて

「点心を持って参りました」

全姑はドアを開けました。樊婆

「入り口を閉めていらっしゃいますが、お腹が減らないのでしょうか」

全姑は点心を受けとりますと言いました。

「また茶を沸かしてきておくれ」

「茶をとって参ります。ドアに鍵をかけないでください」

 夕方になりますと、中庭にはだんだんと人影がなくなりました。灯点し頃が近くなりました。中庭が真っ暗になる頃、全姑は小さな提灯をもって、全淑を奥の中庭に案内しました。全淑

「私は道が分からないわ」

全姑

「私の肩につかまってください」

暫くして戻りますと、銀の燭台で蝋燭を燃やしました。やがて、巫氏、冰梅と用威が、新婦の楼にやってきました。新婦は立ったまま、まだ廟見[23]の儀式をしていないので、礼を行うわけにはいかないと言いました。

巫氏

「用威、お兄さんを呼んでおいで」

簣初が部屋に行きますと、テ─ブルの上には杯や小皿がすべて揃っていました。巫氏は礼が行き届いていないのを恐れ、冰梅、用威に行くように促し、全姑だけを残しました。

 一更近くなりますと、全姑は酒を注いで二人に勧め、夫婦固めの杯を飲ませ、催妝の詩[24]を唱和させ、去っていこうとしましたが、全淑は衣の襟をひっぱって放しませんでした。しかし、全姑は軽く手をおしのけ、楼のドアを閉じて去っていきました。新夫婦が敬いあうさまは、まるで賓客を遇する時のように敬意に満ちていました。愛し合うさまは、友人に対する時のような愛情に満ちていました。二更に起こったことは、「流蘇[25]を垂らし、銀蒜[26]を圧す」の六文字で言い尽くす事ができますので、小説家の轍をふむ積もりはございません。

 翌日、薛太太と薛澐は、男女の使用人を引き連れ、蕭墻街に食糧を贈ってきました。ご隠居さまへの一席分の料理、譚黄岩への一席分の料理、巫氏と冰梅への一席分の料理、新郎、娘への点心十二種の、全部で五つの盒子でした。譚家では、彼らをもてなし、晩に帰りました。従者たちにお祝儀を出すと、人々は満足しました。

 三日目に、新郎新婦は、廟見の儀式を行い、ふたたび家族全員へ挨拶を行いました。それが終わりますと、義母に会い─礼では「反馬」[27]といい、俗には「回門」といいます─新夫婦は、撫台様にも叩頭しました。撫台は手厚い礼物を受けとらずに、こう言いました。

「わしは郷試、会試の朱巻二冊をもらうことにしよう。これによっておじさま[28]の名が歯録[29]の履歴の部分に載ることになったのだからな。わしが撫台にまでなったのは、簣初にとっては名誉なことだっただろうが、族譜の簣初の名の下に『連捷進士』と刻むことができれば、丹徒一族にとっても名誉なことだ。簣初よ、勉強に励むのだぞ」

そして、簣初をもてなして帰らせました。

 簣初夫婦が戻った時は、まだ時間が早かったのですが、全姑はすでに楼の下で待っていました。全淑は楼の下に行き、王氏、巫氏、冰梅に、反面の礼[30]を行いました。自分の楼に戻りますと、全姑が茶を捧げもってきました。全淑は笑って、

「私はまだあなたに挨拶をしていません」

そう言いながら万福をしました。全姑は茶椀を置き、急いで礼を返しました。簣初は笑って

「結構だね。どうして僕には挨拶をしてくれないんだい」

全姑は笑って

「あなたが私たち二人の前にいるのは、無礼ですよ」

簣初は笑って

「どうして僕が無礼なんだ」

「お話しできません」

全淑は顔を赤らめ、奥をむいて腰掛けました。全姑

「ご隠居さまは、昨夜、私をこの楼にこさせて泊まらせました。私たち二人は夫婦になったのです」

簣初は笑って

「お前は字を知らないが、この人には学問があるのだよ。僕は彼女が分かる言葉を使おう。これからは『熊魚兼ねるべし』だ[31]

全姑は訳がわからず、全淑はベッドの上で恥ずかしがって奥をむいていました。簣初

「全姑は訳がわからないようだから、お前は僕にはいと言ってくれ」

全淑はますます恥ずかしがりました。簣初は全姑にむかって、馴々しい様子を示し、全淑をはずかしがらせようとしました。全淑は慌てました。そして無理に答えました。

「鷸蚌の争いを起こさずにすみます[32]

簣初

「道理で君は絵がうまいわけだ。本当にいい絵だ。これからは『火斉必ず得しむ』[33]ということになるな」

全姑は、二人が笑っているのを、呆気にとられて見ていました。その晩は、ご隠居さまの命令を奉じて、楼の下の南の間に移りました。

 楼の上には、二つのテ─ブルが設けられました。一つは簣初の勉強机で、経史をひもとく場所でした。もう一つは全淑が絵を描くテ─ブルで、よい筆と墨を使って、毎日『洛神の賦』[34]や、管道升*[35]の竹を模写していました。ある日、簣初に紙を買ってもらいたいといいますと、簣初は笑って、

「女は紙をつくることができるのだから、僕に紙が欲しいなどということはあるまい」[36]

全淑は少し怒って

「ひどいことをいって罵られるのですね」[37]

簣初は笑って

「僕と君とは、もともと『其の浅きに就』いたものだから、交わりが浅いのに深いと言うわけにはいかないんだ[38]

全淑は思わず笑いました。夫婦と妻妾は楽しみ、簣初は修撰郎[39]のように振る舞いました。それ以後、勉強は毎日のように進歩しました。

 およそ人の勉強が進むのには、二種類あります。一つは、気持ちがひどく塞いで、憤りを発して勉強するもの、もう一つは、気持ちがとても伸び伸びして、心を楽しませて勉強を進めるものです。簣初は、昼間は碧草軒で脇目も振らずに勉強をし、夕方には自分の楼に行き、絵を描き、書を談じましたが、たまに韻を選んで聯吟をしますと、霊感が沸いてくるのでした。二つの勉強が相俟って、詩の創作意欲は、風や泉のように沸き起こり、抑えることができなくなり、自分でもどうなっているのかわからないほどでした。そして、秋の試験[40]になりますと、第四名の『春秋』経魁[41]に合格しました。

 十二月になりますと、叔父の王春宇が商売で大金を儲け、その額は一万両を超え、数十万両に達しました。正月になりますと、漢口で大きな薬屋を開き、上京して海岱門の東の二条胡同[42]の如松号で薬を売ることにしました。さらに河南省の禹州横山廟[43]で伏牛山[44]の山査子、花粉、蒼朮(おけら)、桔梗、連翹などの普通の品物を買い、封丘の監獄の黄耆[45]、湯陰の扁鵲廟の九岐艾[46]、汝州魚山の香附子[47]とともに売りました。売り終わりますと、鄚州の縁日に行き、ふたたび薬を買い、漢口に戻りました。人が集まる場所には、各省の会館があるものですが、河南のものだけはありませんでした。しかし、漢口には河南会館がありました。そこでは、懐慶[48]の地黄が売られていたため、王春宇は漢口にいることが多かったのでした。しかし、彼はもう年をとっていましたので、京師の如松号の薬屋に行き、資本を清算し、息子の王隆吉に渡して管理させようと思っていました。ちょうど、姉の孫の簣初が挙人に合格し、正月二日に上京して会試を受けることになっていました。そこで、叔父の王春宇が九月の合格発表の時にやって来てお祝いを述べ、簣初を都へつれていこうといいますと、家中の者は皆喜び、叔父さんが都へ連れていってくれるのなら、あの子は年が若いが、少しも心配はないと言いました。

 年末に、譚紹聞は轎に乗って盛家に行きますと、こう言いました。

「息子が受験のため北へ行くのですが、盛さんの家の手紙、品物を、息子に持って行かせて、弟さんに渡しましょう。僕もご機嫌伺いの手紙を出しましょう」

盛希僑

「どうもありがとう。ちょうど手紙を書いたので、君に持っていってもらおうと思っていたんだ。僕の家ではおかしなことがあったから、君に話さなけりゃなるまい。十数日前、僕の家の女房が急に僕に向かって、弟を呼び戻すべきだと言ったんだよ。僕は彼は京師にいて科挙の勉強をしているから、彼の勉強の邪魔をする訳にはいかないと言ったんだ。すると、女房は『科挙に合格することなど小さなことです。お母さまのことが大事です。ご老人は年をとられ、いつも希瑗さんのことを口にされています。あの方を呼び戻して、ご老人を喜ばせるべきです』と言ったんだ。僕はそれを聞いて、心の中で、『犬の口に象牙が生える』とはこのことだと思ったよ。しかし、僕は、一体彼女が何を考えているのかしっかりとは掴めなかったので、こう言った『あいつが戻ってきたら、また仲違いをするんだろう』。すると女房は『兄嫁が義弟と仲違いをする訳がありません。そんなことをすれば、不面目なことになってしまいます。夫が弟と仲違いをしているのに、自分の女房を隠れ蓑にしているのです。私だって進士の孫です。あなたが私のことを道理をわきまえない奴だとおっしゃっても私は承知しません。あなたとあの人が分家しようとしたため、私を悪者扱いにし、家を乱す賢くない女であるということにしたのです。私は承服できません。私はこんなことを目にしたことがありますよ。私の叔父が福建で役人をして戻ってきたとき、鞄を客間において、私の父と一緒に鍵を開け、元宝を二人のものとしました。私は小さい時、この目で見たのです。あなたが弟に不誠実な態度をとっていたことを私は知っています。もしも私が影で調停をしていなければ、あなた方兄弟は喧嘩をして血を流していたはずです』といった。僕は心の中で、女房が態度を改めたことを喜び、こう言った『すべて僕の性根が悪かったせいだ。賢いお前が弟を執り成してくれたのはとても有難いよ。僕は馬鹿だったよ。まるで太鼓の中にすんでいたようなものだ[49]。明日すぐに上京するか、人を京師に遣わすかして、弟を呼び戻し、ご老人を喜ばせてあげよう。僕はお前の立派さに気が付かなかった。申し訳ない。申し訳ない』。今回、簣初くんが上京して会試を受けるから、僕は彼を呼んで送別をし、僕の手紙を持っていってもらおう」

「年下の者が仕事をするのは当然です。食事を出されることはありません」

「僕が考えたことなのだから、僕なりの理由でやらせてもらうよ」

紹聞は別れ、盛希僑は表門の外まで送りました。

 さて、紹聞は戻りますと、簣初とともに、旅をする同年を呼んで、送別を行いました。盛希僑も簣初に食事をおごり、手紙を渡しました。あとは春がきて、王春宇とともに北上するのを待つばかりでした。

 正月の二日、受験のため北上しました。京師につきますと、如松号には行かず、中州会館に投宿しました。そして、国子監へいき、盛希瑗に手紙を渡し、別れの挨拶をしました。試験が近付きますと、観象台の近くに小さな宿屋を探し、試験場に入りました。試験が終わりますと、謄録[50]、対読[51]が行われたことは、細かくは申し上げません。譚簣初の答案は、筵の三号で厳重に封をされ、翰林院編修呉啓修の『春秋』房に届けられました。そして、副総裁に推薦され、合格と書いた札をつけられ、各省の採用の定数の伺いをたて、決裁が行われるのを待つばかりとなりました。あいにく『春秋』房が推薦した答案は、定数を一つ越えていましたので、残った筵の三号、貢の九号から一つを選ばなければならなくなりました。二つの答案は、甲乙付け難く、試験官の呉老先生は、優劣をつけることができませんでした。副総裁は筵の三号の文に一句よく分からないところがありましたので、定数外に置きました。しかし、どうした訳か、筵の三号の答案は、束の中にあり、貢の九号の答案が床に落ちました。副総裁は、置き間違えたのだと思い、筵の三号の答案を取り除き、貢の九号の答案を拾い上げて束に入れました。ところが、さらに一晩がたち、真夜中に目がさめますと、机の上でス─ス─という音がきこえました。窓には何やら黒々とした影が見えました。夜が明けてから見てみますと、貢の九号の答案は、油と墨ですっかり汚されていて、上呈することができなくなっていました。副総裁は言葉もなく、密かに、この生員は心掛けがよくないのだと思いました。そして、筵の三号を推薦することにしました。答案は、大総裁に「中」という評語をつけられ、合格発表のときは第二十一位で合格しました。殿試では、さらに第二十三位の進士を賜りました。そして、宮殿での伝臚[52]のあと、勅命により翰林院庶吉士[53]に選ばれました。すぐに伝令が宿屋に行き、二十五日に着任するようにと知らせました。その日になりますと、簣初は冠と帯をつけ、同年とともに翰林院に行き、勅旨を聞き、朝衣、朝冠に着替え、聖廟に参拝し、同年とともに拝礼をしました。

 着任の儀式がおわりますと、宿屋に帰りました。盛希瑗は、南陽県学教諭に任命され、河南に戻る日を告げにきました。譚簣初

「何日か後になります。僕は休暇を乞い、墓を修理するつもりです。希瑗さんと一緒に行って、お話しを聞けば、途中寂しい思いをすることもないでしょう」

二人は約束をしますと、譚簣初は休暇を請い、掌院学士[54]の承諾を得ました。二人は同じ車に乗り、部下と荷物を積んだ車一台とともに、彰儀門を出て、河南にやってきました。

 家に着きますと、位牌に拝礼をし、祖母、父親、母親、生母に叩頭し、話しをしました。祖母の王氏は言いました。

「お前は休んでおいで。服を着替えておくれ」

自分の楼に戻りますと、全淑、全姑が寝室へと案内しました。全淑は、笑みを浮かべて万福をしますと、

「おめでとうございます」

簣初は返しの拱手を行い、笑って、

「元気にしているかい」

全姑は叩頭し、笑いながら、

「旦那さま、おめでとうございます」

簣初は手をのばして引き起こしますと、言いました。

「もういい。明日は官服を着て返礼しよう」

全淑

「とんでもございません」

全姑

「もったいないことです」

 夫婦と妻妾は、しばらく仲睦まじくしますと、堂楼に行き、進士に合格したこと、翰林院庶吉士に選ばれたことを話しました。王氏

「最近は、人の話しを聞いても、耳ががんがんするばかりだ。お前が話すことは、私には分からないよ。大広間に行って、お父さんに話しをしておいで」

父子は大広間に行き、上京と都を出たこと、経緯を詳しくはなしました。黄岩公は尋ねました。

「祥符の家々への手紙をもってきたか」

簣初

「明日、挨拶に行くときに届けます」

「お前のお祖父さまがよその方の手紙をもってこられた時は、一刻もぐずぐずすることはなかったぞ」

簣初は、急いで奥へ行き、つづらをあけますと、宛名に従って、京師で役人をしている人の実家に届けさせました。

 翌朝になりますと、黄岩公、太史公は、それぞれ大きな轎に乗り、下男を従え、正門を出て、霊宝公の墓に参拝をし、供物を捧げました。黄岩公は祈りました。

「子孫が進士になり、天子さまによって翰林院庶吉士に選ばれましたので、墓前には封贈碑[55]を、墓の外には神道碑を刻み、吉日を選んで建てることに致します」

辺りを見回すと柳の木が、塀よりも高く鬱蒼と茂っていました。諺にいう、「一楊去れば、百楊出ず」でした。この墓には塀が巡らされており、少しも人に踏み躙られることがなかったため、新しい木がとてもよく伸びていました。黄岩公は墓守りに命じ、穴を埋め、細い木を伐りました。そして、後日、工賃をうけとる時、十分の四の手当てを加えることにしました。墓守りは喜んで命令に従いました。黄岩公父子は、ふたたび轎に乗って城内に入りました。西門に入りますと、道はお祝いのためのテ─ブルでいっぱいで、人々は杯を手に執っていました。黄岩公父子は急いで轎から降り、一人一人に礼を言いました。

「日を改めて答礼に伺いましょう」

 家に着いて食事をとりますと、黄岩公

「まず撫台様の役所に挨拶をしにいくべきだ」

簣初は聯捷[56]の答案二十、朝考の答案二十を選び、西河沿[57]の洪家の『縉紳』四部、刻絲[58]の蠎袍一揃い、顧繍[59]の朝服一揃い、朝靴四組、羊脂玉の瓶を一つ、金の象嵌をほどこした如意一箱を選びました。そして、金瓜と赤い傘の先導をうけ、京師から連れて来た従者四人を連れながら、巡撫の役所につきますと、帖子をとりついでもらいました。大砲が三回鳴りますと、二つの楼では一斉に太鼓が演奏され、儀門が開き、撫台さまが暖閣に現れ、傘と扇が恭しく待機しました。簣初は、譚紹衣が暖閣で傘と扇に隠されているのを見ますと、轎に腰掛けようとはせず、急いで降り、大堂に駆け上がりました。傘と扇は道を開けました。撫台は大笑いして、

「お前が翰林学士に選ばれたので、お前を迎えることにしたが、これは朝廷の制度に従ったのであって、私情によるものではない。〈お前が翰林学士になったのは〉丹徒の一族にとって名誉なことだ」

簣初は進み出て跪きますと、申し上げました。

「私は撫台さまのご来臨をうけ光栄です。位牌を拝んでから、叩頭をしてお礼申し上げます」

撫台はハハと大笑いし、手を引いて暖閣に入りました。簣初はお辞儀をして付き従いました。奥の間につきますと、位牌堂をあけ、撫台が前、簣初は後ろになりました。撫台は跪いて祈りました。

「鴻臚派の末裔譚簣初は、進士に合格し、天子さまのご恩を被り、翰林院庶吉士を授けられました。私が簣初とともに謹んでご先祖様に報告いたします」

一緒に叩頭をしました。簣初は撫台をたすけて座らせ、叩頭し、拝礼を行いました。撫台

「礼はこれだけでいいだろう」

簣初は拝礼を行い、さらに譚紹衣夫人への拝礼をおえました。そして楡次公の夫人を呼んで拝礼を行いました。楡次夫人が立派な婿を見てみますと、若くて美貌で、官服を着ますと、輝きは目を奪わんばかりでしたので、とても喜びました。簣初が拝礼をするときは、薛澐が付き添っており、拝礼が終わりますと、同じように拝礼を返しました。撫台は心の中でとても喜んで、笑いながら言いました。

「わしの縁結びを見よ。姪のために選んだ婿はどうだ。わしはもっと祝い酒[60]を飲みたいものだ」

簣初は、役所にとどまって歓待し、撫台は首座、薛澐は客でしたので東側に、簣初は甥でしたので西に座りました。料理が出されますと、撫台

「わしは平生役人をしていたときは、飲みすぎたことはなかった。しかし、今日はすでに三つの大杯を飲んで、喜びの気持ちを表した」

薛澐がなみなみと酒を注ぎますと、簣初は自ら杯を捧げました。今日の宴は、とても楽しいものでした。宴が終わりますと、簣初は役所を出て家に帰りましたが、祝い客が門を埋めたことは、細かく述べる必要はございますまい。

 今のところ、譚紹聞父子は、高い爵位や手厚い禄を得てはおりませんが、天子さまのご恩を受け、心を慰め、冥土の譚孝移を慰めることもできました。これで、孔慧娘も瞑目することができるというものです。彼が以前のように軽薄な行いをし、以前の非を改めなければ、この書は終わりません。王中は誠実に主人を守り、心を変えませんでした。作者は彼を奴隷とは見做さず、下男の身分を帳消しにし、彼が金を着服しなかったことを表彰するものです。

 お話しはここまで、これ以上くどくどと続ける必要はございますまい。物語りはこれでおしまいであります。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]楠に似た喬木という。『玉篇』「楩、楩木似豫章」。

[2]鉄刀木。材は黒色で堅く、美しい。

[3]簣初のこと。

[4]新郎新婦の寝室。

[5]老成して名望のある人。

[6]長江下流の南岸の地をいう。

[7]民を安んじ助ける。

[8]偉大な謀りごと。

[9]春秋時代の国名。山西省霍州。楡次の西南。

[10]対聯全体の意味は「江南の名望のある学者さまが、山西の楡次で善政を施された」ということ。

[11]龍を描いた旗。(図:『三才図会』儀制)

[12]虎、豹を描いた旗と思われるが、『三才図会』には、虎旗、豹旗という儀仗は見られない。

[13] プル。チベット語。チベット産の毛織物。

[14]屋外にあって屋根などの覆いのない台。

[15]渡り廊下。

[16] 「鞍」と「安」、「筬」と「勝」は音が同じ。

[17]見物人が塀のようである。『礼記』射義。

[18] テ─ブル掛け。

[19] 「穀物は宝である」。『詩経』大雅‧蕩‧桑柔。

[20]出典未詳。

[21] 「甥」とは親族で、一世代下の、息子以外の男子をいう。撫台の奥方は、王氏の孫の嫁の母親だから、王氏にとっては「甥の嫁」となる。

[22] 「弟」とは、同世代の年少の男子をいう。撫台と譚紹聞は同世代で、撫台が兄、紹聞が弟だから、撫台の奥方にとって譚紹聞は「弟」となる。

[23]嫁が嫁して初めて夫の家の廟に参拝すること。

[24]結婚の晩に花婿が花嫁に贈る詩。

[25]五彩の糸を交えた房。車馬、帳幕、旌旗につける。

[26]簾の重し。銀で作ったにんにくの形の重し。

[27]結婚後三か月後に、嫁の乗ってきた馬を実家に帰すことをいう。

[28]譚孝移のこと。

[29]姓名、出生年月日、原籍、経歴、過古三代の科挙の成績を記した証書。

[30]外から戻って父母に挨拶すること。

[31]熊の掌と魚の肉。共に美味な食品の代名詞。ここで簣初が言いたいのは、「二人の美女の囲まれて暮らせる」ということ。

[32]妻と妾で争うことがなくてすみます。

[33] 『礼記』月令。元の意味は「火加減をよくする」ということ。ここでは、妻と妾で助け合うことをいう

[34]魏の曹植の作った賦。

[35]元代の詩人、趙孟頫の妻。管夫人ともいわれる。呉興の人、字は仲姫。墨竹蘭梅をよく描く。

[36]原文「娘行自会做紙、何必求人」。「紙」と「子」は河南の方言では同音なので、この言葉は、「女は子供を産めるのだから、僕に子供がほしいなどということはあるまい」という内容を掛けてある。

[37]原文「罵人没深浅」。

[38]原文「我之与卿、原是就其浅矣、交浅不敢言深」。「就其浅矣」は、『詩経』邶風、谷風に因む言葉。「交浅而言深」は、『淮南子』齊俗訓「交淺而言深、是亂也」に因む言葉。ただし、ここでは、自分たちが男女の交わりをあまりしていないという内容と掛けてある。

[39]国史編集官。翰林院の状元をこれにあてる。「修撰郎のように振る舞いました」とは「博学なものとして振る舞った」ということ。

[40]郷試。

[41]郷試の三、四、五位合格者。

[42]海岱門は、現在の崇文門のこと。二条胡同は、現在の崇文門北部にあった胡同の名。

[43]未詳。

[44]河南省嵩県の西南。

[45]黄色い耆。耆は普通赤紫色。薬草の名。やわらぐさ。葉は羽状複葉で、夏季あづきに似た花を開き、実を結ぶ。根を薬用とする。(図:「三才図会」)

[46]扁鵲廟は湯陰県の東南十五里の伏道村にある廟。『明一統志』巻二十八参照。『明一統志』巻二十八、土産には「艾、湯陰県扁鵲墓旁出」とある。

[47] こうぶし。莎草(はますげ)の球根をいう。(図:「本草綱目」)

[48]河南省の府名。

[49]原文「竟是在鼓中住着一般」。「つんぼ桟敷に置かれていた」ということ。

[50]試験の答案の謄本を作ること。

[51]試験官が答案の原本と謄本を読み合わせること。

[52]科挙の時、殿試の後、進士の名を一々唱えること。

[53]翰林院の専属官。進士のうち文学にすぐれ、書を善くするものをこれに任ずる。

[54]翰林院長官。

[55]子孫が官職に就いたことによってその父祖の墓に追贈される石碑。

[56]郷試、会試、殿試に合格すること。

[57]北京の前門の西部一帯をいう。

[58]綴れ織り。皇帝、皇后の衣服に用いられた。

[59]上海の顧氏によって生産された刺繍製品。 清葉夢珠『閲世編』巻七「露香園顧氏繍、海内馳名、不特翎毛、花卉、巧若生成、而山水、人物、無不逼肖活現、向来価亦最貴、尺幅之素、精者値銀幾両、全幅高大者、不啻数金」。

[60]原文「媒紅酒」。媒酌人に感謝する酒。

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