第百七回 

一品官が宮中で命を受けること

両姓の誼で千里離れたところから会いにくること

 

 さて、譚紹衣は浙江の藩司[1]の任地で、昼夜休まず、熱心に仕事をしましたが、上は徳のため、下は民のためにならないことはありませんでした[2]。浙江全省の官吏たちは、彼の誠実さに敬服し、人民は彼を清廉だと言いました。三年たちますと、彼を称える声が道に満ちました。しかし、譚紹衣はなおも小心翼々として、怠ることはありませんでした。ある日、急に天子が「浙江左布政司譚紹衣を上京させ、謁見を行い、話を聞くことにする」という勅命をくだしました。譚紹衣は、命令が下った日、すぐに出発し、水上では船、陸上では車に乗って、昼夜兼行で京師に入りました。謁見のとき、天子は、譚紹衣に、倭寇を平定し、人民を安らかにした功績があることを褒めました。三日足らずで、「『河南巡撫に、譚紹衣を任命する』これを(つつし)めり」という聖旨が下されました。

 官報が祥符に着きますと、城中では、今度来る巡撫さまが昔の北方の道の道台だという噂がたちました。官吏たちの中で、君子は喜び、人民たちの中で、正しい者はみな喜びました。正しい人が役人になりますと、彼がふたたびやってきた時は、喜びの声が野に満ちますが、小人が来れば、唾はき罵られるということが分かります。粗末な服を着ている者たちは、大変恐ろしいものです。また「仲睦まじい夫婦はいつまでも一緒にいることを喜ぶが、誠意のない友人は再会を恐れる」という諺からは、人の世の付き合いというものが、このようなものであるということが分かります。

 さて、二月二日、譚撫台は着任する一日前に、黄河を官船で渡りました。官船は五色の大きな(みずち)のように色が塗られていました。船の門は広く、紗の窓が四つ、真ん中に天を衝くような大きな帆柱が一本あり、雲には大きな旗が翻っていました。旗には「巡撫撫院」という黒い布を縫った字が書かれていました。官船は、五六隻の大きな船、四台の轎、二台の馬車、荷車十台、鞄数百個、布団と衣裳十数包みとともに、陳橋[3]から悠々と進みました。南岸では、鸞鈴をつけた早馬が、飛ぶように南へ走っていくのが見えました。船が河の中ほどにさしかかりますと、早馬が南にある河南の小屋掛けに向かって疾駆していくのが見えました。数十人の役人、文官の下役は棍棒を持ち、武官の下役は弓矢を持ち、黄河の南岸には、すでに数千人が集まっていました。

 船がまさに着岸しようとしたとき、分厚い手本[4]が、船の上に届けられましたが、中軍官はそれらを見ませんでした。まして巡撫さまはなおさらで、ただ一声

「河庁を呼んでくれ」

といっただけでした。河庁は急いで船に上がり、ご機嫌伺いをしました。譚撫台は命令しました。

「先ほど景隆口[5]を通ったが、縷堤[6]はまあまあだった。しかし、月堤[7]の外の遥堤は、牛飼いによって踏み荒らされてつるつるになっていた。目に見える所はこのような状態だったが、見えない所も、これと同じだろう。城内に入って報告をする必要はないが、詳しく視察をし、もっとひどく崩れている堤があれば、長さがどの位かきちんと測り、しっかりとした台帳を作って、公費で補修ができるようにしてくれ。南岸も同じように補修することにしよう」

河庁は

「はい」

といいますと、船を降りて行きました。

 巡撫は立ち上がって舟を降りようとしましたが、急に女が紙を手にしながら冤罪を訴える声が聞こえました。下役が女を押し退けましたが、巡撫は女と上呈書を祥符県に引き渡し、役所に入ったら彼女のために文書を提出するようにと、急いで命令しました。

 下船の時、数十人の役人が跪きますと、中軍官が叫びました

「跪かずともよい」

人々は次々に立ち上がりました。彼らが通りますと、村では、盒子に酒を入れて歓迎しました。六十、七十の老人には、杖に縋って叩頭し、跪いて立ち上がることができない者もありました。これは、巡撫が道台だった時に、駅で、まぐさや豆を公正に売買し、少しも人民に損をさせず、漕糧[8]が容易に納付できるようにし、本当に必要な分だけを取り立て、一石、一斗、一升、一合たりとも余分に取り立てを行わず、下役や書吏が汚職を犯すと、すぐに処刑していたことによるものでした。今日、人民が酒を捧げますと、巡撫のお供は、一つのテ─ブルにつき一杯分を、肩に担いだ大きな錫の瓶の中に貯えました。このような田舎の酒は、玉液、瓊漿[9]に勝り、父母のようなお役人は、匂いを嗅ぐだけですっかり酔ってしまうもので、瓊林宴[10]の酒にも匹敵するものなのです。これはどうしてでしょうか。君主が国のために賢人を求めるのは、人民のためを考えているからに外なりません。そして、人民があなたの飲食袵席の徳[11]に感動すれば、あなたは、人民が跪いて捧げる酒に酔うことができ、あなたが死んでからも、人民にお供え物を捧げてもらえるからです。

 旗[12]、幟が先導をし、旌[13]、旄[14]が後から付き従い、天王寺の前に着きました。天王寺は、宋の軍隊が出動する時に、城の北で天王[15]をまつるための場所で、昔は祈祷が行われていましたが、今は役人を迎える場所になっていました。寺の前の大きな小屋掛けでは、二人の藩台と一人の臬台[16]が小屋掛けを出て、遠くまで出迎えました。巡撫は八人がきの轎を降り、藩台、臬台は、跪いて天子さまのご機嫌伺いをしました。巡撫は、立ったまま、天子さまはお健やかでいらっしゃると答えました。藩台、臬台は上座に向かってお祝いを言い、作法通りに、大官にまみえる時の礼を行いました。小屋掛けに入りますと、伺候していた役人が茶を差し出し、茶を飲み終わりますと、酒を差し出しました。酒が三回注がれますと、巡撫は立ち上がりました。北門から城内に入る道では、轎を引く馬が前を疾駆したので、魚や雁の列の様にはいきませんでした。旗や傘は道をあたふたと走り、白い蝶と黄色い蛾[17]とが入り交じりました。しかし、巡撫に近付いた時には、楽隊が笛を奏で、供回りが高い叫び声をあげ、初めて静粛になりました。

 半里足らずの所には、路傍に囲卓を垂らした机、敷物が置かれた座席、布が掛けられた椅子がありました。そこには、酒肴がたくさん並べられ、美酒が備えられ、横には七品の補服の役人が一人、襴衫を着た若い生員が一人立っていました。巡撫の轎がつきますと、二人は路傍でお辞儀をし、巡撫は急いで八人がきの轎から降りました。二人がテ─ブルの脇に案内しますと、巡撫は立ちながら話しをしました。遠くから見ますと、とても親しげな様子でしたが、近付くこともできませんでした。何を話しているのかは聞こえませんでした。しばらく歓談しますと、巡撫は轎に乗り、二人は轎の脇でうやうやしく送りました。まもなく、人々は二人の男が黄岩県知県譚紹聞と息子の秀才譚簣初だということを知りました。

 三回大砲が鳴り、巡撫は北門に入りました。まもなく、九声連珠砲が響き、城中の人は巡撫が役所に入ったことを知りました。役所の前には、蜂や蟻のように人が集まり、わいわいがやがやとしていましたが、譚紹聞父子だけは、人々の目をひきました。まもなく、

「巡撫さまが、奥で黄岩県の譚さまを呼んでいられます」

紹聞父子は役所に入りました。外には会いにきた者が、中には会いにきてくれという者が、たくさんおりました。間もなく藩台、臬台、道台、知府は、蕭墻街の黄岩公が巡撫の近い親戚であることを知りました。下役たちは、腹の中で蕭墻街の三文字をしっかり記憶しました。位の高い役人がいますと、役所の下役や役人たちは、自分たちの名前を知ってもらい、口利きをしてもらおうと思うものなのです。まして位の高い役人が巡撫の族弟や族侄だったらなおさらのことです。

 譚紹衣は、河南の巡撫になりましたが、その善政は、作者がほめだせば、編を重ねても言いつくすことはできず、話しは名臣伝となり、家の物語ではなくなってしまいます。書かれる内容に主と従とがあるのは、小説でも同じことですから、省略することにいたします。

 さて、譚紹衣は、着任して少し暇になった時に、紹聞に簣初の縁談をもちかけました。

「天子さまが河南巡撫になるようにとの命を下されたとき、わしは、公的には分を過ぎていることを恐ろしく思ったが、私的には感激し、嬉しいと思った。簣初と薛家の娘との結婚の事だが、わしは、京師にいたときに、人に命じて、浙江へ家族を迎えにいかせたから、一月ほどすればくるだろう。到着したら、まず結納品を買い、結納品を贈ったらすぐに結婚式をしよう。『易』は「乾坤」について記し[18]、『詩』は『関雎』[19]を巻首に置き、『書』は「厘降」[20]を褒め、『春秋』は元妃[21]を重んじているが、五倫六経[22]の偉大な趣旨を、八股文を学ぶ秀才に説かせても、老書生の陳腐な話しのようになってしまう。賢い薛家の娘と、優れた才能をもつ簣初を結婚させることは─わしはあれこれ考えて─一番適当だと思っていたが、結婚は天が定めるもので、人が定めるものではなかった。二十歳近くなったというのに、男と女は数千里離れあっていた。それに、役人生活で、北は北京、南は福建、朝は山東、晩は山西と、すこしも居場所が定まらなかった。ところが、お前は終養を請求し、わしは河南巡撫になれとの命令を受けた。千里離れていた二人の縁結びは、六礼がすんだときに、我ら兄弟二人が君親[23]の義によって成立させよう。将来桂、蘭[24]が繁茂することは、占いをしなくとも分かりきったことだ。ところで、私は今までお前に尋ねなかったが、簣初は誰の子供なのだ」

「庶出です。妾が産んだものです」

「正室は何という名字だ」

「先妻は父親がいきていたときに決めたもので、孔という姓です。後妻は父親が亡くなった後に母親が決めたもので、巫という姓です」

「想像だが、お父さんが決められたのは、きっと士大夫の一族だろう。わしはお父さんの学識と性格を知っている。お母さんが決められたのは、きっと街中の者だろう。婦人が縁結びを取り仕切るときは、母方の親戚を世話するか、富裕な小人の家を世話するかのどちらかで、このことは聞かなくとも分かることなのだ。そうでなければ、聖人が『女は外を言わず』[25]という戒めをするはずがない。ちょっと尋ねるが、簣初の生母は何という名字だ」

「おかしなことに、今まで聞いたことがございません」

「おまえは間違っているぞ。経書に『妾を買うにその姓を知らざれば即ち之を卜す』[26]とある。占いは質問をした後でするものに違いない。簣初は学校に名を連ねたのに、父親たる者が、簣初の生母が何という名字なのかも知らないようでは、簣初が役人になることはできないぞ。後日、族譜を編纂するときも、生母某氏出と注を付けることになるが、姓が分からなければ、「紹聞庶子」と注しなければならない。子のために父親の諱を記したりすれば、後世に示すことなどできない。朱子は、「家庭に礼がなければ、きっと天地がひっくり返ったような有様になる」といっている。我々は代々仕官をし、今、わしら兄弟は、どちらも皇恩をこうむって役人となった。家庭では礼法に従わなければならない。曖昧なことをしてはいかん」

紹聞は心服し、密かにこう思いました。

「陛下がこの方に、百官を率い、万民を統べ、百二十の府州県を治める大任を授けられたのも尤もなことだ」

「おまえは、今、家にいるが、他に何ごともない。鴻臚派には、新らしい世代が加わった。おまえも黄岩知県になり、将来は昇任することだろう。二人の子供の名は、族譜に記載しなければならない。おまえが今日うちにきたから、簣初の生母の姓氏を尋ね、すぐに書きとめ、刻工に命じて版木に彫って印刷し、お父さんが丹徒で書いた族譜の後ろにつなげることにしよう。将来簣初が科挙に合格したとき、族譜にその出自がはっきりと書いてあれば、高い位についた時に、生母に封誥を授けるように請求することができる。もしもはっきりと尋ねなければ、簣初については『河南の副榜、黄岩県知県譚紹聞庶子』と書かなければならない。父親の名前は、君主の前でだけ口にすることができるもので、『春秋左氏伝』には『欒書退けり』とある[27]。もしも簣初のために『紹聞』と書くとしたら、簣初は心安らかではいられまい。それに丹徒の一族や、城市の大半の士大夫は、不愉快な気持ちになるだろう。わしの考えでは、簣初、用威をおまえの名前の下に書き、用威のところには『後妻巫氏出』と書き、簣初のところには『生母某氏』と注するべきだ。聖人は『必ずや名を正さんか』[28]といわれたが、聖人は神龍のように変化し、決して現実に疎かったわけではないのだ」

 紹聞は命令を受けて役所を出、家に戻りますと、まず母親に会いにいきました。そして、冰梅の出身を尋ねますと、役所に入って報告をしました。

「巡撫さまの命を受け、冰梅の出自を尋ねてまいりました。簣初の生母は、もともと代々官僚だった家の末裔です。彼女の話しによれば、江南の人だが、どこの県なのかは記憶していないとのことです。彼女の父親は蔭生[29]でしたが、祖先がどんな大官だったのかは分かりません。彼女は、幼いとき趙という姓だったことしか知りません。彼女の祖父は、宦官と争い、正徳帝によって棍棒でぶたれて、殺されました。彼女の祖母と彼女の母親は、何とか司とやらに送られそうになり、ひどいめにあうといわれました。彼女も京師に護送されました。途中で、祖母は母親とともに自尽しましたが、彼女のおじは秀才で─彼女は、彼が葛子淹といったと記憶しています─一緒に京師に送られました。姑と嫁が自尽したので、彼女のおじは彼女におばへの哭礼をさせました。役人がやってきて─彼女は、三束の長い髭をはやし、彼女は劇の忠臣のような人だったと記憶していますが─趙さんの姪ごさんなら、北京に送ったりはしないと言いました。そこで、彼女のおじは彼女を連れて逃げ、誰もいないところへ行きますと、彼女に『あの三束の髭を生やしたお役人に、何度も叩頭をおし』と言って、泣きました。そして、河南の省城に逃げますと、自分は劉という姓だと偽りましたが、旅費がなかったため、彼女をつれて南に帰るわけにもいかず、衣服をすっかり売ってしまいました。彼女のおじは、他人には、賭博をして負けたと言い、人々は、彼女のおじのことを『[木鬲]子眼』[30]だと言いました。そして、彼女のおじが彼女を薛媒婆の家に寄寓させ、彼女が私たちの家に売られたのです。彼女のおじは、別れるとき泣きながら、以前のことは絶対話してはいけない、生きてはいけないから、と言いました。ですから、彼女はうちに永いこといましたが、誰も彼女に質問はせず、彼女も話そうとはしなかったのです。しかし、今日、話しをしたときは、ずっと泣きやみませんでした」

「宦官と争って災いを受けたのなら、正しい君子だったのだろう。彼女のおじは、彼女の名節を全うさせるために苦心したのだから、やはり立派な人だったといえよう。祖母、母親が自縊したのは、節烈というべきだ。ただ、三束の髭をはやした役人の名前が分からないのは惜しいことだ。彼は臨機応変な態度をとり、篭を開けて鳥を逃がしたのだ。この役人の子孫は、きっと繁栄していることだろう。おまえが質問をしたお陰で、たくさんの善行が明らかになった。道理で簣初は才識が優れ、容貌が謙虚なわけだ。鴻臚派はきっと幸福になるだろう。わしも霊宝公、孝廉公に叩頭してお祝いを言わなければならん」

 話しをしておりますと、鎮江の家族がすでに商水県[31]周家口に着いた、川に沿った州県知事は餞別を送り、船曳き人夫を準備している、伝牌[32]は朱仙鎮に着いた、という知らせがありました。朱仙鎮の役人は、船曳き百五十名を急いで選んで、待機させていました。馬をとばして轅門に知らせますと、伝宣官[33]は、大船が周家口に着いたら、小船へ乗り換えて、竓水を進むように、と言いました。

「兄嫁[34]を迎えるときは、おまえが梅克仁をつれていかなければいけない。昔から弟と兄嫁は親しくしないものだが[35]、夫婦のために兄弟の仲を損なうわけにはいかない[36]。しかし、今回家族を送ってくるのは、丹徒の誰か分からない。下役たちは必ず彼らを迎えるだろうが、家族を送ってくる者は、一世代下の無位無官の者で、受け答えをすることができないだろう。それに薛家の姑太太は、もともとの親戚関係からいえばおまえとは姉妹関係だが、新しい親戚関係からいえばお前と姪は舅と嫁の関係だ。だから、兄弟で姉を世話し、父と母とで息子、娘を世話することにすれば、情に適い、理に適っているのだ。おまえたちは、周家口から朱仙鎮にふたたび報告が来たら、大轎十台と、下女や乳母を揃えるように命じてくれ。朱仙鎮には公館があるはずだ。おまえは梅克仁と公館にいって、待っているがよい。船から陸に上がって、朝に出発すれば、昼近くには城に入るだろう」

 さらに一日たちますと、河の船が、明日、朱仙鎮に停泊するという知らせがありました。祥符県では轎と馬を待機させ、譚紹聞は轎に乗り、梅克仁と十人の下役は、馬に乗り、巳の刻に朱仙鎮に着きました。南から来た船は夕方に着岸し、轎が公館に運びこまれました。譚紹聞は、譚紹衣夫人に会い、明日の朝に出発することを話しました。翌日の昼近くに、開封の南門に着きますと、多くの下役たちが、続々と迎えに来ました。すべて譚紹聞が遣わしたものでした。大砲が三回鳴りますと、轎は城門に入りました。間もなく、さらに大砲が三回鳴り、譚紹衣夫人が八人がきの轎の大轎で巡撫の役所に入りました。八九台の四人がきの轎は、すべて側門から、奥の間に入りました。車に乗った小者や若い下女も、奥の間に入りました。

 翌日になりますと、藩台、臬台、道台、知府がお祝いにきたので、みんなで出迎えました。他の府州県から省城にやって来た者は、みな手本を持ってお祝いにきました。政務に関して討論をしたいと思っていた者は、面会して酒を飲みながら議論しました。その他手紙を書いてお祝いを言いにきた者は、伝宣官は手本を返し、来訪への礼を述べました。午後、大官へ返礼をするときは、首領官[37]が道に跪いて傷み入りますと言いました。日が暮れてから、来訪への感謝を述べた手本を、帙に入れて送りますと、伝宣官は帳簿に記載をし、送り返しました。

 翌朝、宅門から、祥符の陰陽官に、会って話しがしたいという伝言がもたらされました。陰陽官は今まで巡撫の役所に行ったことがありませんでしたので、呼び出しを受けますと、喜んで、どうしたらいいか分からなくなりました。そして、急いで補服[38]を着て、巡撫の役所の入り口で待機しました。まもなく、奥から呼び出しが掛かったので、陰陽官はお辞儀をして中に走り込みました。そして、花庁[39]に案内されますと、一跪三叩頭をし、立ち上がってうやうやしく命令をききました。撫台

「一つ頼みたいことがある。おまえに結婚の吉日を選んでほしいのだ」

陰陽官は跪いて言いました。

「新郎新婦の八字をお見せください。八字を合わせ、天徳、歳徳の吉神の方位、貴神[40]が照臨する吉日に従って、詳しく婚約書[41]を書いてさしあげます」

撫台

「二十日以内、十五日以降に、日を定めてくれればよい。すぐに婚約書を書いてくれ」

 陰陽官は叩頭して立ち上がりますと、巡撫の役所の表門を出ても、補服を脱ごうとしませんでした。通りを急いで歩いて帰るさまは、まるで人々が彼が巡撫の役所にいったことを知っていると思っているかのようでした。彼は、家に着きますと、黄儀鳳[42]の『選択全書』を開き、縁起のいい言葉を書き写しました。さらに、急いで手紙屋に行き、金箔をおいた龍鳳の大きな帖子を買い、徽墨と湖筆で、帖子に書き写しました。そして、あまりきれいでない文字で、分かりにくい文章を記し、それを写し終わりますと、礼服を着け、小者とともに帖子を捧げ持って、ふたたび巡撫の役所に参上しました。

 上号房の下役が代わりに帖子を提出しました。撫台は「一えに周堂[43]に遵いて図るに、乾造[44]は天乙貴人、坤造[45]は紫微紅鸞、謹んで本月十六日を択ばば喜神照臨し、辰の刻三分の青龍雲に入る吉時吉刻に定めば大いに利し」と書かれているのを見ますと、他の行は読まず、お祝儀四両を赤い封に入れて出しました。陰陽官が受付けに行くきますと、付けでは、帖子を渡した手数料を取ろうとしました。陰陽官は不意を突かれて、封を開けられ、一両をとられて、ようやく自由にしてもらいました。

 巡撫の役所の門の前では、様々な役所の小使いたちが、それぞれの役所の長官に、十六日に撫台の所で結婚式があることを報告しました。それから三日間にわたって、布政司、按察司、道台、知府及び省城に来ている河南の役人、総兵、参将、遊撃等の役人たちは、繻子、緞子、綾子、薄絹、真珠、翡翠、腕輪、耳輪に、結婚祝いと書き、さらに、銀子を付け加えて、暖女[46]のお祝いと書きました。これらのものは、全部でおよそ五千両の価値がありましたが、撫台は受け取ろうとしませんでした。しかし、役人たちは承知せず、何度もやってきました。撫台は、無視するわけにもいかず、仕方なく受け取りましたが、家に置いておこうとはせず、半分を新婦の母親にわたして新婦の持参品にさせ、半分を黄岩公に送って結婚費用にさせました。男の家と女の家では、流れに従って船を進めるかのように、何の苦労もなく事を進めました。衣服、箪笥、鞄、寝台、小机、テ─ブル、椅子、衣桁、鏡台、銅の盆、錫のランプの類いは、省城にいれば金さえあれば買うことができましたし、旧家が物を売りにだすのにでくわせば、安値で珍しい品を得ることができました。

 譚家の結納品、薛家の結納品は、すっかり揃いました。あとは吉日がきて、奠雁、御輪[47]の礼を行うのを待つばかりでした。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]布政司。

[2]原文「上焉為徳、下焉為民」。『書経』咸有一徳「為上為徳、為下為民」(上の命令を奉じて、徳のある政治を民に及ぼす)に因む。

[3]駅の名。河南省開封県の東北。

[4]上長に会うときに用いる自己紹介状。

[5]所在地未詳。

[6]小さい堤防。『六部成語』工部、縷堤「細小之堤防也」。

[7]堤防の一種。大堤の外に築き、河流に接するもの。『清会典』工部凡工有堤。[注]堤之式有大堤、有月堤、有越堤、有遥堤、有縷堤、有格堤、有橕堤、以土或石為之」。

[8]清代、山東、河南、江蘇、安徽、浙江、湖北、湖南、奉天各省から徴収して京師に輸送する米豆をいう。

[9]玉液、瓊漿。ともに鉛霜(酢酸鉛)のこと。甘みがあるが有毒。鉛糖。

[10]瓊林は宋の庭園の名。宋代には進士のために瓊林園で酒宴を設けた、後に殿試の合格発表の後、皇帝が新しい進士に酒宴を賜ることを、瓊林宴というようになった。

[11]普段の徳行のこと。飲食は飲み食らうこと、袵席は寝ること、飲食袵席は日常生活のこと。

[12]儀仗の一つ。(図:『三才図会』器用)

[13]儀仗の一つ。(図:『三才図会』器用)

[14]儀仗の一つ。(図:『三才図会』器用)

[15]四天王。

[16]按察司。風俗政教を調べて奏聞する。

[17]旗や傘を蝶や蛾に譬える。

[18] 『易経』繋辞「乾道は男と成り、坤道は女と成る」

[19] 『詩経』の篇名。男女の愛情を述べた詩

[20]装具を納めて臣下に嫁をやること。降嫁。『書経』堯典に出てくる言葉。

[21]正妻。『左伝』隠公元年。

[22]『易』、『書』、『詩』、『周礼』、『礼記』、『春秋』。

[23]主君と親。

[24]子孫のこと。「蘭桂騰芳」とは子孫繁栄を意味する。『故事成語考』「子孫発達、謂之蘭桂騰芳」。

[25] 「女は家の外のことについて言わない」。『礼記』内則。

[26] 「妾を買うときにその姓が分からなければ、姓を占う」。『礼記』曲礼「妻を娶るに同姓を(めと)らず。故に妾を買いて其の姓を知らざれば、則ちこれを卜す」。

[27] 『左伝』成公十六年に、欒鍼が天子の前で、「書退けり」と言ったという話しがある。欒書は欒鍼の父親。

[28] 「名分を正さなければならない」。『論語』子路。

[29]父祖に勲功があるものを監生にしたもの。

[30]格子の目。

[31]河南省開封府。

[32]知らせを伝える札。

[33]号令を伝える官。

[34]紹衣の妻。

[35]原文「叔嫂無服」。

[36]自分の妻のために譚紹聞に迷惑を掛ける訳にはいかない。

[37]清代、地方官の補助官をいう。『清国行政法汎論』地方官庁・正印官及佐貳雑職首領「布按両司、及府庁之経歴、理問、都事、知事、照磨、州之吏目、県之典史、均皆謂之首領」。

[38]清代の文武官の礼服。(図:上海市戯曲学校中国服装宋史研究組編著「中国歴代服飾」)

[39]花園に面した客間。

[40]天徳、歳徳、貴神。いずれも占いの用語であろうが、未詳。以下、占いの言葉が出てくるが、特に注記しない限り、未詳である。

[41]原文「龍鳳帖」。

[42]伝記未詳。

[43]結婚するに適した吉日。

[44]男の八字。

[45]女の八字。

[46]結婚の三日後、女の実家が女に火を通した食事を届けること。

[47]奠雁は、結婚の日、新郎が新婦の家にいき、廟堂に雁を捧げること。御輪は、新婦が車に乗るとき、新郎が手ずから手すりの縄を新婦に授け、自ら車を御し、車輪を三周させる儀式。『儀礼』昏義「父親醮子而命之迎。男先於女也。子承命以迎。主人筵几於廟、而拜迎于門外。婿執鴈入、揖讓升堂、再拜奠鴈。蓋親受之於父母也。降出、御婦車、而婿授綏、御輪三周」。

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