第四十回

恵養民がへそくりをして実の兄を遠ざけること

滑魚児がうまいことをいって実の姉を欺くこと

 

さて、恵養民は、後妻から、分家をしようとせがまれてからというもの、ひどく辛い気持ちになりました。土笛と縦笛を合奏しようとしますと、琴と瑟を合奏することができなくなりました[1]。やんわりと宥めようとしましたが、滑氏は小人の家に生まれた田舎女、二つの家の敷居を跨いだ女でしたから、少しも物の道理が分かりませんでした。脅かそうと思いましたが、厳しい態度をとることができませんでした。それに今まで可愛がってきたのですから、滑氏も怖がりませんでした。そして、長城を壊すことができるほど、喉を振り絞って泣きました。先妻の子には冷たくしましたし、夫には口出しをして尻に敷きました。それからというもの「誠心誠意」の教え、「井田封建」の経世済民の策は、すっかり崩れてしまいました。その後、恵養民は孔耘軒と二度話しましたが、すっかり意気沮喪してしまっていました。孔耘軒は先生の見聞が少し広がり、以前の野暮ったさが抜けたのだと思いましたが、内助の功が強すぎて、厥心病[2]になったのだとは知りませんでした。

月日は流れて、すっかり冬になりました。ある日、恵養民の兄の恵観民が城内にやってきて、弟の私宅を訪れました。彼は十本ばかりの飴を甥たちのためにもってきました。恵養民はちょうど家にはいませんでしたが、三才が恵観民を見て、言いました。

「母さん、伯父さんだよ」

恵観民はとても喜び、引き寄せて抱きかかえますと接吻して、言いました。

「お利口さんだな。二三か月見ないうちに、ずいぶん大きくなったな。伯母さんが心配していたぞ。今日はお前をおぶっていってやるが、来るかね」

三才

「行くよ」

両儀も走ってきて

「伯父さん、ご飯は食べた」

「食べたよ。南関で二杯そばを食べた。お前たち二人に飴を買ってきてやったぞ。持っていってお食べ」

滑氏は生まれて半年の男の子を抱いてやってきますと、

「どうしてここへきて召し上がらずに、南関で召し上がったのですか。城内は私たちの家ではないということですか」

「わしは一元のおじさんに会ってから、南関の市場に出掛けたが、親戚たちがどうしてもわしと一緒に食事をしようとしたんだ。わしは本当は、今朝、城内に来て食事をする積もりだったのだがな。両儀や、ちびさんを抱いてきてわしに見せておくれ」

「義兄さんにおしっこをかけるかも知れませんよ」

「わしらの子供だもの。糞をされても構わないよ。いい物を着ているわけでもないからな」

滑氏は子供を両儀に渡し、両儀は恵観民に渡しました。恵観民は急いで着物を脱ぎ、受け取りますと、赤ん坊を見て、笑いました

「ちび公、名前は何というのだ」

両儀

「四象というんだ」

「ひょっとして四不象[3]ではないのか」

肌におしつけて抱きながら、尋ねました。

「お父さんはどうした」

両儀

「勉強部屋です」

「行って伯父さんが来たといっておくれ」

両儀は碧草軒に行きました。恵観民は三才に向かって

「お前はこの一年、うちに一回来ただけだな。お前、今日はわしと一緒に帰って、一緒に寝よう。伯母さんがお前のために沢山の熟した柿を用意してくれているぞ」

「胡桃はないの」

「八月に家で食べただろう。伯母さんが一籃残してあるから、暮れになったらお前にやろう」

恵養民がやってきて見てみますと、二人の子供は、一人は兄の懐に抱かれ、もう一人は兄の膝の上をはい回っておりました。両儀は戻ってきますと兄の手を引っ張りました。恵養民は、心の中に、肉親を思う気持ちがわきおこり、とても悲しくなりました。どうして実の弟が実の兄に会って悲しい気持ちになったのでしょうか。それは、今まで滑氏の言葉にいい加減に従ってきましたが、今日このような光景を見て、思わず心の中で、「すまないことをした。いい兄さんじゃないか」と思ったからでした。恵観民は弟がやってきましたので、喜んで、笑いながら、

「お前、知っているか。今年は畑の野菜が、とても豊作だったよ。それに、お金持ちがまるまる畑一区画分を買ってくれたよ。野菜の行商も少しずつ出荷していってくれるしな。夏の黄瓜や韮を売った金から、わしらの家の費用を除くと、今、五串五百文の蓄えがある。わしはお前の義姉さんに貯金をさせているから、お前が稼ぐ数両の学費を併せれば、滕相公への借金を返すことができるぞ。義昌号への十五両はおいておいて、来年返済することにしよう」

恵養民は答えました。

「ここには十数両あります─」

すると、滑氏が口を挟みました。

「忘れたのですか。十両は銭に換えて使ってしまったじゃありませんか。城内は城外と違って、衣服が多くいるのですよ。子供達が尻尾の切れた鶉のようだと、人さまから笑われます。主人だって、二着の服を着なければなりません。よそさまから呼ばれて宴会に出るとき、格好がつきますからね。学費は使ってしまって幾らも残っていません。来年、譚さんからの謝礼がくれば、城外へ行って返済のお手伝いをすることができるんですがね」

恵観民は真面目な人でしたから、その言葉を聞きますと、本当だと信じて、

「お前は、肩書きのある人間なのだから、服を多く着ても構わないよ。人さまから城外の秀才は野暮臭いと笑われるようなことがあってはいかん。余っている金がなければ、わしが城外にいって手を尽くし、二つの家への借金の利息を払うことにしよう。来年になったらまた会おう。わしは帰るぞ。両儀、ちびさんを受けとってくれ。すっかり寝てしまった。三才、お前をうちにおぶっていって訌柿を食べさせてやろう」

恵養民

「昼の食事を用意しましたから、召し上がってからお帰りください」

滑氏

「四象を受けとってください。両儀に東の中庭の芹姐を呼んでこさせ、火をつけてもらいましょう。義兄さんに食事を差し上げましょうよ」

恵観民は笑って、

「飯ができるまでに、家に帰ることができるだろうから、わしは帰るよ。滕相公と約束したのだ。夕方に会って話しをするとな」

そして、手をひろげ、ふたたび四象に接吻しますと、両儀に渡しました。恵観民は叫びました。

「三才、おいで。お前をおぶっていってやろう」

滑氏

「その子は城外においておいてください」

両儀が小声で言いました。

「伯父さん、僕が一緒に行くよ」

恵観民

「お前のお母さんを手伝う人がいなくなってしまうぞ。お前は役に立つから、何かにつけ便利なのだ」

「伯父さん、伯父さんの家へ行って伯母さんや一元兄さんに会いたいんだ」

滑氏

「伯父さんと一緒にお行き」

恵養民

「食事をなさってからお帰りください」

恵観民は笑いながら、

「わしはお前たち読書人と違って、四五里の道など、楽なものだ。両儀、さあいこう」

そう言いながら、両儀を引っ張っていってしまいました。

恵観民は大笑いしながら門を出、恵養民は路地まで見送りました。恵観民

「送ってどうするのだ。歩くのが遅れるから、帰っておくれ」

そして、両儀を引っ張っていきました。恵養民はぼんやりと見送り、恵観民が道を曲がって、見えなくなりますと、戻ってきました。心に穴が開いたようで、辛い気持ちでしたが、辛い気持ちを話すことはできませんでしたし、話すわけにもいきませんでした。

家に戻って滑氏と顔を合わせますと、

「どうして兄さんに食事も出さずに帰らせてしまったんだ」

「あれまあ。あなたこそ実の弟で、お兄さんを引き止めなかった癖に、文句をおっしゃるのですね。私の考えでは、あの人は金が目当てで来たに違いありませんよ」

「兄さんは真面目な人だ。遠回しにものを言ったりするはずがないよ」

「何をおっしゃるのです。あの人は、さっき四五里の道は遊びみたいなものだと言っていましたが、私たちが城内にきてもうすぐ一年になるのに、銀子がいらないときは、少しも『遊び』に来なかったじゃありませんか」

「兄さんは忙しいんだ。城外にいた頃、兄さんは田圃でなければ菜園にいたじゃないか。あの人は働き者だから、用もなく城に来ようなどとは思わないのだよ」

「たとえ忙しくて、暇がなくても、城内に会いにきて、よそさまに、あなたに兄さんがいることを知らせてやるべきですよ」

「さっき言っただろう。兄さんは真面目な人なんだ」

「やめてください。義兄さんが真面目な人ですって。さっき言ったでしょう。私たちは城内に来たのですから、城外にいた時とは違うのです。子供達も少しは着飾らないといけません。尾羽の抜けた鶉みたいにしていて、人さまから笑われないようにしなければいけませんよ。あなたのお兄さんはあなたの前妻の子供を、じろじろ見ていましたが、私は顔から火が出るほど恥ずかしかったですよ。私が『蘆花記』[4]を演じているわけではないのですからね。あの人が控え目な行動をとることができない人なのだとでもおっしゃるつもりですか」

「わしは兄さんと向かい合って座っていた。わしが見ていないものを、お前だけが見たわけはあるまい」

「あなたの心はどこにいってしまっていたのですか。何をご覧になっていたのですか」

「金のことを考えていたんだ。わしは両替などしていないのに、どうしてわしが銅銭に両替して全部使ってしまったと言って、兄さんをだましたのだ」

「あなたが自分のお兄さんを兄と認めているのなら、どうしてさっき私にむかって『両替はしていない。女房はでたらめを言っている』と言って、銀子を取り出し、あの人にもち帰らせなかったのですか。あなただって銀子が惜しかったに違いありませんよ。それなのに、私がでたらめを言ったとおっしゃるのですね。私は思うのですが、これからは、聖人ぶるのはやめてください。私の言う通りにしていれば、大きな間違いはないのですからね」

実は、譚紹聞が夏に、家庭教師への謝礼金十二両を送ってきた時、滑氏は恵養民とともに、寝間で、貯蓄について話し合い、謝礼金を自分の懐に入れたのでした。しかし、今日、恵養民は、実の兄の誠実な態度を見て、兄弟の情を身にしみて感じ、以前夫婦で夜に相談したことは、人でなしのする事だったと考え、銀子を出して、家に送り、借金を返済させ、兄の焦眉の急を救おうとしたのでした。彼は言いました。

「お前に従うにせよ従わないにせよ、あの銀子を持ってきて見せてくれ」

すると、滑氏は慌てて

「ただで人にあげてしまいましたよ。見ないでください」

恵養民は笑って、

「でたらめを言って。どうもしないからちょっと見せてくれ」

滑氏は押し黙ったまま、持ってこようとしませんでした。恵養民も争おうとしましたが、そこへ、趙大児と飯炊き女の樊婆が、拝匣を持ってやってきました。滑氏

「西院の趙さんじゃありませんか。ちょっとどいてください。話をしますから」

恵養民は仕方なく碧草軒に行きました。

趙大児は、にこにこしながら部屋に入ってきますと、

「ご隠居さまが、奥さまと、明日の昼に西の中庭で過ごしたいとおっしゃっています」

「何度も御馳走して頂き、申し訳ございません」

「何もございませんが、ゆっくり話しでも致しましょう」

「あなたも口がお上手なこと」

趙大児、樊婆は、さらにしばらく無駄話しをしますと、行ってしまいました。

恵養民は戻ってきますと、晩にふたたび銀子のことを尋ねました。滑氏がひたすら強情を張り、嘘をついたことは、ふたたびお話しする必要もございますまい。

次の日の昼近くに、趙大児が呼びにきました。滑氏は新しい服に着替え、四象を抱いて、宴会にやってきました。王氏は孔慧娘とともに裏門で出迎えました。堂楼に入りますと、それぞれが挨拶をして席に着きました。滑氏

「春に御馳走になったのに、今日もまた御馳走をしていただきまして」

王氏

「一年間お構いもしませんで、奥さま、どうかお許しください」

間もなく酒肴が並べられ、滑氏が正面席に、王氏が横の席に座り、孔慧娘はテ─ブルの隅でお相伴をしました。

「ご隠居さまは本当にお幸せです。お嫁さんは美しく、学問もありそうですね」

「ただ、体が弱いのですよ」

「おめでたですか」

「病気なのか、何なのか分かりません。毎日、心臓が悪くなったり、腹がつっかえたりするのです」

孔慧娘は顔を赤らめ、うつむいて黙っていました。滑氏

「私はこの方を見るのが好きでたまりません。じっくり見るにたえるお顔をしてらっしゃいます」

王氏は冗談をいうのが好きでしたから、すぐに言いました

「この娘にあなたと義姉妹の契りを結ばせてはどうでしょうかね」

「偉いお方と義姉妹の契りを結ぶことなどできません。家も貧しく、この方に差し上げるものは何もございません」

「うまいことをおっしゃいますね」

孔慧娘も慌てて

「夫の先生の奥さまで、私は嫁のようなものですから、母娘の契りをかわせば、かえってよそよそしくなってしまいます」

そこへ、冰梅が興官児を抱いてやってきて、言いました。

「この子が目を覚まして、ご隠居さまに会いたいというのです」

王氏

「先生の奥さまにご挨拶をなさい」

冰梅が興官児を王氏に渡しますと、興官児は上を向いて二回挨拶をしました。滑氏は子供を抱きますと、急いで答礼をして席を譲りました。王氏

「先生の奥さんが座るようにおっしゃっているのだから、腰掛けを持ってきて、ここにお座り」

滑氏は孔慧娘を褒めるのをやめませんでした。王氏は冰梅を指さしながら

「この娘は実家がなく、どこにも行く所がありません。あなたがお嫌でなければ、この子と義姉妹の契りを交わされてはいかがですか」

滑氏

「貧乏で、あなたにお小遣いをあげることもできませんが、お嫌ではありませんか」

「奥さまは申し分のない方ですよ」

そこで、冰梅を叩頭させ、冰梅は上座に向かって挨拶をしました。滑氏は四象を抱いたまま、急いで席を立ちますと、片手で引き止めて、

「いい娘さんですね。言われた通りにすぐ挨拶をされるなんて」

座席について杯を重ねますと、四象が泣きだしました。興官児は小さな目を見張ってじっと見ていました。滑氏

「おまえのような馬鹿なおじさんは、甥[5]におさえつけてぶってもらうといい」

王氏は冰梅に四象を連れてゆかせ、

「お義母さんは料理を召し上がって下さい」

そして、互いに「親家母[6]」と称して、とても仲良くしました。

話しをしておりますと、来年のことが話題になりました。滑氏

「家では借金をしていて、義兄はとても慌てています。夫は兄弟で話しをしているうちに、本当に城外が懐かしくなって、城内のことは考えなくなってしまいました」

王氏

「先生に一年も来ていただき、申し訳なく思っております。来年は必ず謝礼を増やしましょう。毎年生活が苦しいので、あまり多くすることはできませんがね。お帰りになったら、もう一年とどまられるように勧めておいてください。先生はよく教えてくださり、昔の侯先生とは大違いですよ。あの人は毎日骨牌遊びをしていましたからね。ただ、あの人の奥さんはなかなかいい人で、あなたと同じように人付き合いのいい方でしたよ」

「帰って主人と相談してみましょう。あの人達兄弟がいいというかどうかは分かりません。もしいいといったら、ご隠居さまにお知らせ致します」

「先生がいいとおっしゃろうとおっしゃるまいと、もう冬なのですから、子供に帖子を送らせて、契約することに致しましょう」

「それからもう一つ、みっともないことは申し上げるべきではありませんが、私たちはもう身内になったのですから、すべてお話し致しましょう。残りの謝礼は、すべて私にお渡しください。ご存じの通り、男は金遣いが荒いのですが、私たち女は細心です。お金を一か所に集めておいたほうが、よそ様への借金を返すこともできますし、彼ら兄弟の手に入ってばらばらになってしまうこともありません。この事は恥ずかしくてお話しできなかったのですが、もう身内になりましたから、すべて正直にお話し致しましょう」

「あなたは暮らしが苦しいのが心配なのですね。私なども今では心配で、毎日ぐっすり眠ることもできません。よそから千数両の銀子を借りていますし、子供達も小さいですし、暗くなってみんなが眠っても、私は鶏が鳴く頃まで寝られないのですよ。このことは誰も知りませんがね」

「寝られないのは、どうしようもありませんね。本当に私たち奥を預かる者は大変です。話しをする所がないのですから」

二人は話し合い、蜜と油のように意気投合しましたので、来年のことは、話しをするまでもありませんでした。日が西に沈みますと、滑氏は帰ろうとしました。王氏は慧娘、冰梅とともに滑氏を裏門まで送りました。さらに、趙大児に命じて、包んだ菓子を家に送らせました。

晩になりますと、恵養民は碧草軒から家に戻りました。滑氏は笑いながら、

「来年のことは、私がうまくやっておいたよ」

「何と言ったんだ」

滑氏は冰梅と契りを交わしたこと、まもなく帖子が送られてくること、謝礼があがることを一しきり話しました。恵養民は笑って

「お前たちのお陰だよ」

果たして数日後、王氏が礼物を入れた箱を用意させ、冰梅を連れて滑氏の家にやってきました。さらに一日たちますと、碧草軒に宴席が設けられ、孔耘軒が招かれ、恵先生の来年の契約書を置いていきました。

十二月、王氏は恵養民が城外に戻ることを知りますと、十二両を届けさせ、礼物をいれた箱を滑氏に渡しました。滑氏は大事にしまっておきました。恵養民は戻ってきますと、金を少し分けて城外に送り、世間の人々に噂されるのを防ぎ、彼らの目をごまかそうとしました。ところが、滑氏は鉄のような決心をしており、歯を食いしばって、一文も出そうとはしませんでした。恵養民は何度も優しい言葉で掛け合いましたが、滑氏はかえって声を荒げて争いました。恵養民は噂が立てば、理学者としての名声に傷がつき、城内の友人たちに笑われるだろうと思いましたので、仕方なく「吾れ未だこれを何如ともするなし」[7]という態度をとるしかありませんでした。実は、滑氏は銀子を確保して分家することを考えていましたが、当面は別のことを考えていました。彼女は実の弟のことを気に掛けていたのでした。彼女は、両儀、三才、四象の面倒を、いずれは叔父にみてもらいたいと考えていましたので、必死に夫に逆らったのでした。これぞまさに、

許国夫人は『載馳』[8]を作るも、

田舎女は気が荒ければ理解せず。

実家の弟貧乏なれば、

武三思を助けんと常に思へり。

恵養民夫婦が角つきあったことはお話し致しません。さて、十二月の中旬になりますと、滑氏の実弟の滑玉が、城内の姉の所に会いにきました。彼は、胡同の入り口で道を尋ねますと、中庭に入ってまいりました。飴を一包みもっておりました。その時、恵養民は家におりませんでした。滑氏は急に弟がきましたので、弟が天から降りてきたかのように、とても喜びました。三才は叔父から贈り物を受け取りました。滑氏は滑玉を家に招き入れますと、尋ねました。

「食事はすんだかい」

「火神廟[9]の入り口で食事をしたよ」

「店の物など、うまくなかったろう」

そして、すぐに両儀に言い付け、隣の芹姐を呼んできて、子守りをさせました。そこへ、飯炊きの樊婆が蒸[10]をもってやってきました。滑氏

「お心遣いどうもありがとうございます─お暇ですか。ちょっと台所のお手伝いをしてください」

枕元から二百の大銭[11]を取り出しますと、両儀に与え、こっそり街の惣菜屋から食べ物を買ってくるように命じました。姉と弟は腰を掛けて話しをしました。

滑玉

「義兄さんは書斎かい」

「昨日、帖子が送られてきて、南馬道の張家から招かれたと言っていたよ。今日は宴会に行ったんだろう。ここ二三年手紙もよこさないで、どこにいたんだい」

「正陽関[12]で米、もち米屋を開いていたんだが、商売に縛られて、兄さんや姉さんに会いにくることができなかったんだよ」

「奥さんはどうした。子供は何人いるんだい」

「娘が一人いるだけだよ」

「商売はどうだい」

「まあ儲かっている。だが元手が小さいから、稼ぎをあげることはできない。まとまった金が入ってきても、手元に資本がないから、みすみす手放すしかないんだ。諺にも『元手なければ利益なし。元手があれば利益は多し』というが、これも仕方のないことさ」

「まだ賭け事はしているのかい」

滑玉は後悔するような調子で、

「若い時は考えもなく、義兄さんと一緒に、悪いことをしていた。姉さんが気が付いて、義兄さんと何度か喧嘩したことがあった。姉さんも覚えているだろう。俺も今じゃ年をとって、商売に縛られて、まともな仕事で精一杯だ。あんな悪いことを本気でしようとは二度と思わないよ」

「それはいいことだよ」

話をしておりますと、両儀が飯を持ってきました。

「今、子供は何人だい」

「先妻のこれもいれて、兄弟三人だよ」

「今度の義兄さんはいい人かい」

「読書人だが、役立たずでね。何を考えているのかもよく分からないよ。食事をしていっておくれ。私が話すから。今は勉強を教えていて何両かの収入があるのだが、あの人はどうしても家に持ち帰って、共有財産にして使おうとするんだよ。お前、お前はよそでいろいろなことを見ているだろう。どんなに立派な宴会でも、お開きにならないことはないんだよ。ごらんよ、どこの家の兄弟だって、それぞれ貯蓄をしているじゃないか。それに、金はあの人が自分で稼いだもので、兄弟二人で稼いだものでもないんだよ。主人の兄には数十両のへそくりがあって、主人の兄の女房が運用しているんだ。あの人はそのことを知らないし、言っても信じないだろうよ。私も今少し貯蓄をしているが、あの人は自分の名声を気に掛けて、毎日私に金を出せというんだよ。子供が多いと、後日分家したときに、財産が何もなくて、親子で目と目を見合わせることしかできなくなってしまうよ」

「姉さん、本当にその通りだよ。俺たちの叔父さんが親父と分家したとき、叔父さんは裕福になったが、俺たちは貧乏になったもの」

「何が言いたいんだい」

「みんなは、叔父さんが裕福になったのは、嫁さんの実家があの人を援助したからだと言っているよ。俺たちは、叔父さんが家にいたとき、毎日市場に出掛けて、嫁さんの実家に次々とへそくりを送っていたことを知っているよ。今時の人間は、誰も親戚を助けたりはしないよ。姉さん、手元に幾両かあったら、俺にくれ。こっそり正陽関にもっていって運用してあげるから」

滑氏はじろりと見ますといいました。

「主人の先妻の子に聞かれないようにしないと」

そして、叫びました。

「両儀、食器を下げておくれ」

両儀が食器を一つ一つ台所に運びますと、滑氏は言い付けました。

「お前、今日は城外に戻って、伯母さんに、白い木綿糸を二両ください、城内にもっていって私が使いますからと言っておくれ。台所で肉料理を食べたら、すぐにいくんだ。寒くならないうちにね」

両儀は城外に帰ることができると聞きますととても喜び、急いで食事をとり、行ってしまいました。

滑氏は両儀がいってしまったのを見ますと、芹姐と樊婆を家に帰らせました。そして、中庭の門を閉じ、戻ってきて腰掛けますと、言いました。

「お前、何両かあげるから、私のために運用しておくれ。しかし、絶対に賭博をしてはいけないよ」

「さっき言ったろう。昔、俺を賭博に誘ったのは誰だい。俺は今では賭博を見さえもしないよ。もし俺がまた賭けをしたら、俺は両目を失明し、十本の指には腫れ物ができるだろうよ」

「誓いをたてなくてもいいさ」

「誓いを立てているんじゃないんだ。賭博の二文字を聞いただけで、思わずむかむかしてくるんだ」

「お前が私のために運用してくれるのなら、後日、元手を除いた利益を分けることにしよう。私だってお前にただ働きはさせないよ」

「姉さん、何を言うんだい。俺たちは同じ乳を吸って大きくなったんじゃないか。ただで姉さんのために運用してやるよ。いずれ金を儲けたら、二人の甥っ子たちのために持ってきてやるよ。何もごまかしたりはしないよ。彼らに叔父さんらしいところをみせてやるさ。俺が姉さんをだましたりしても、頭の上では天が見ているからね」

「そんなことは言わなくていいんだよ。金を取り出すから待っておくれ。お前、台所から鍬を取ってきておくれ」

滑玉は鍬をもってきました。滑氏は灯りを点し、弟に照らさせ、寝台を移動しますと、寝台の脚の下の煉瓦を掘って開けました。そこには蓋をした罐があり、滑氏はそれを丸ごと取り出しました。滑玉

「どうしてこんな変なところに埋めてあるんだい」

「長持ちの中においておけば、お前の義兄さんの手に入って、城外に行ってしまっているよ。お前、何を考えているんだい」

罐ごと入り口の所に抱えていきますと、テ─ブルの上にあけました。大小十五の銀塊がありました。滑氏

「秤はないが、二十四両だ、少しも欠けてはいないよ。大きな塊を一つ残しておくよ。いずれ使うだろうからね。あとは全部持っていって、私のために増やしておくれ」

「秤がないが仕方がないな。俺が両替屋へいって量ってこよう。姉さんはこの小さいのを手元に置いておきな。大きいのを残していくと、二十両を割ってしまうかもしれないからな」

「私は二つの小さいのを残しておこう」

そして、一本の手巾を手にとりますと、二十両の銀を包みました。滑玉はそれを懐に押し込んで、

「じゃあ帰るよ。兄さんが帰ってくるとまずいからね」

「そうだね。お前、二人の甥っ子の命は、すべてお前にかかっているからね」

「それ以上言う必要はないよ。俺は赤の他人じゃなんだからな」

そして、銀子を持っていってしまいました。

滑氏は門を開けますと、弟が胡同の入り口を出ていくのを見ていました。彼女は、門口にもたれながら、しばらく言葉もありませんでした。胸は早鐘のように鳴っていました。突然、四象が起きて寝台で泣くのが聞こえたので、門を閉じて家に戻りましたが、心の中に穴が開いたような気分でした。

晩に恵養民が戻ってきましたが、滑氏は滑玉のことを黙っていました。そして、妙に慇懃に茶を出しました。それからというもの、両儀にも少し優しくするようになり、正月に義兄義姉のところへ戻ったときも、以前よりしおらしくするようになりました。

次の年、譚紹聞が勉強を始め、先生と生徒が勉強をしたことは、いうまでもありません。

さて、三月になりますと、恵家では借金の利息がふたたびふえてきました。利息つきの借金などするものではないのです。諺にも、「借金は我慢しろ。返済は急いでしろ」と申します。この言葉は聖人の言葉ではありませんが、至理名言であります。恵観民は昨年、滕相公の義昌号の利息を払っていましたが、元本は少しも返済しませんでした。これは人の体に腫れ物ができて激しく痛むとき、血膿を出すと、楽になりますが、膿の根っこがまだ残っていて、数日たちますと、ふたたびもとにもどってしまうようなもので、多くのお金持ちが、こうした腫れ物の害を受けているのです。まして、恵観民のような貧乏人はなおさらのことでした。三月になりますと、滕相公がやってきて、実家から、息子のために結婚式を挙げたいという手紙が届いたといいました。義昌号からは、出資者から、資本を回収して、決算をし、商売をやめるようにという手紙がきたのだと言ってきました。二人とも今まで通り借金の催促をし、朝晩とりたてにきました。何度も催促するうちに、言葉もだんだんきつく、厳しくなりました。恵観民は、端境期で、麦は青くなったばかり、野菜も育っていませんでしたので、金を用立てることはまったくできず、城内に実弟を訪ねるしかありませんでした。

今回は、前回よりも焦っていましたので、まっすぐ碧草軒にやってきました。恵養民は譚紹聞と経書を講義しているところでした。恵養民は兄を見ますと、本を手放しました。恵観民は言いました。

「お前、家にきてくれ」

そこで、恵養民は家についていきました。両儀、三才は伯父に会いにきて、以前と同じように喜んで飛び回りました。恵観民は心配ごとがありましたので、ちょっと相手をしてやりますと、いいました。

「お前、二つの家の借金取りは、どちらも言うことをきいてくれず、どうしても全額返してほしいと言うんだ。無茶な話しだよ。わしは本当にどうしようもないんだ。何とかして、あいつらに金を払ってくれ。春になれば、子供達と一緒に菜園で仕事をするから」

恵養民

「どうしましょう。兄さん、食事をして帰られてください。明日、家へ帰って考えることにしますから」

滑氏

「借金取りは収穫の時まで待ってくれるでしょう」

恵観民

「どうしても待たないと言ったら、どうするのだ」

恵養民

「城外にいって考えましょう」

恵観民

「城外にいってどうする積もりだ。口からでまかせを言っても役には立たんぞ」

滑氏

「義兄さん、食事をしてから相談しましょう」

そして、四象を恵養民に渡しました。恵観民は四象を受けとり、抱きかかえますと遊びました。滑氏は台所へ行き、食事を作り、兄弟二人は食事をとりました。恵観民は帰るときに

「お前、明日はかならず城外に来てくれ。すぐに来ておくれ」

恵養民はうなずきますと、兄を送っていきました。

戻ってきますと、銀子の話をしました。滑氏

「去年、あなたと貯蓄を残すことについて相談した時、あなたははっきりと賛成なさったじゃありませんか。今になって私に金をくれとおっしゃるとはどういうことですか。世間では女の舌には骨がないと言いますが、あなたのような立派な男でも、昨日はああ言い今日はこう言うということがあるとは思いませんでしたよ」

「お前が貯蓄を残すといったのは、正しいことだ。だが、今日、兄さんはあんなに慌てていた。少しも金を出さなければ、気の毒だし、友人たちが知ったら、わしの名声に傷がついてしまう」

「あなたの名声なんてどうでもいいですよ。名声など食べることはできませんし、名声で銀子を手に入れようと思ったってそんなことはできませんからね」

恵養民は焦って、箱をあけようとしました。滑氏は承知しようとせず、引っ張って離しませんでした。恵養民は無理やり二粒の小さな粒銀をとりだしますと、尋ねました。

「他のはどうしたのだ」

滑氏は怒り慌てて、思わずいいました。

「他は弟にやってしまいましたよ」

「お前は自分の弟がどういう人間だか知っているから、あいつに金をやるはずがない。一体どこに金をおいてあるんだ。もってきていっしょに相談しよう。わしだって全部兄さんにあげようとは思ってないよ」

「本当にやってしまったのです。だましてなんかいません」

「あいつが来ていないのに、あいつにやることができるはずがないじゃないか」

「去年の十二月、あなたが南馬道の張さんの家の酒宴にゆかれたとき、あれが訪ねてきたのです。その時にやってしまいましたよ。あれは、今、正陽関で穀物商をしていて、私たちのために運用してくれていますよ」

「何ということだ。わしをだましているのか」

「壁の下に穴がまだ開いていますよ。今、私たちが塩を入れているのが、その罐です。あなたをだましたって何にもなりゃしませんよ」

「何ということだ。お前はどうしてそんなに了見がないのだ。我家は借金で首が回らなくなってしまうぞ」

「私が了見のある女だったら、あなたの嫁になんてなっていませんよ。弟は私に誓いを立てたのですから、安心してください」

「あいつは滑魚児と呼ばれているんだ。お前は羊肉を犬にくれてやったようなものだ。取り戻せるとでも思っているのか」

「弟のことは私が保証します」

「お前の保証は誰がするんだ」

「私に保証はいりませんよ」

恵養民は埒があかないと思いましたので、怒りをこらえて一晩眠り、夜が明けますと、すぐに碧草軒にいきました。暫くしますと、譚紹聞が勉強をしにきました。恵養民

「紹聞、下男に、よい馬を一頭用意するようにいっておくれ。私は城外へいき、それから親戚の家にいき、明日の晩に戻るから」

譚紹聞は、すぐにケ祥に宋禄を呼ばせますと、言い付けました。

「馬を一頭用意してくれ。先生が城外にゆかれるから」

宋禄は馬をひいてきました。恵養民は、家にいって朝飯をかきこみますと、一匹の馬に乗り、南門を出ました。そして、実家には行かず、まっすぐ城の東南の滑家村へ滑玉を尋ねにいきました。

滑家荘は城から三十里のところにあり、昼には後妻の実家につきました。恵養民は、数年前、ここに三四度来たことがありましたので、家を知っていました。馬からおりますと、義弟の滑九皋が出てきて、ハハと笑いながら、

「恵さん、どういう風の吹き回しですか」

そして、恵養民を藁屋に案内しました。滑九皋は小さな店を開いていて、門前には飯屋がありました。ボーイが馬を厩屋に繋ぎました。二人が挨拶をして席につきますと、ボーイが二碗の湯麺を出しました。滑九皋が勧めました。

「義兄さん、お茶をどうぞ」

恵養民は碗を手にとり、少し飲みますと、尋ねました。

「滑玉さんは最近どうしていますか」

九皋は溜め息をついて、

「聞かないでください。あん畜生の話になると、私はじっとしていられませんや」

そういいながら、頭を何度もふりました。恵養民は心の中で心配していましたが、その様子を見て、ますます焦り、疑い、確かなことを尋ねようとしました。滑九皋

「ああ、ここ二年、誰もあれに会ってはいませんよ。先月の二十四日、県庁の使いが朱書きの令状をもってやってきて、東の県であれを追及している、あいつは女房を売り飛ばした、といいました。私は、あれが二年間留守にしていると言いましたが、使いは承知せず、私を城内に連れていきました。両隣も一緒についてゆかされました。下役たちがしきりに賄賂をせびったので、店の一石の麦に相当する資金も使い果たしてしまいました。三枚の誓約書を書かされ、刑房の先生、宅門[13]の旦那には七八両の銀子を払いました。すると、知事さまは返答の文書を書かれ、東県から文書を持ってきた使者を帰らせました。私は城内に十三、四日も止めおかれました。義兄さんが蕭墻街で教師をしていることは知っていましたが、格好のいいことではないので、姪や外孫に会いには行きませんでした。あいつのことなど話してどうなさるのです」

「その『妻を売りとばした』というのは、あの人が口ききをして、よその家の女房を売ったということですか」

「よその家の女房があいつに売り飛ばされるなんてことはありませんよ。あれは家で毎日賭けごとをしていて、荘頭[14]の資格も賭けをして売ってしまったのです。そして、この村にいられなくなり、息子と女房を連れて逃げたのです。風の噂では、周家口[15]、正陽関辺りにいて、川のほとりで舟曳きをしていたということです。私は、賭博をする男が、若い女房と子供をつれて、水路や波止場にいたら、絶対にいいことはないだろうといつも心配していました。しかし、あいつが女房まで売るとは思いませんでした。小さな孫娘も、どこへいったか分かりません。やはり売られてしまったのでしょう。あいつの岳父は東県の紐家だったのですが、あいつはよりによって東県に売ったのです。ですから、あいつの岳父は東県に訴え、東県は文書を書いてあいつを捕まえにきたのです。しかし、誰もあいつの姿は見ていませんよ」

話をしていますと、小者がテ─ブルを拭き、二皿の旬の野菜、麺と焼餅を出しました。滑九皋は箸を手にとりますと、とってやり、さらに酒をもってくるように命じました。恵養民は心配事があったので、無理に少し食べますと、さらに尋ねました。

「昨年の十二月の半ば頃、あの人がきたのですが、三叔(あなた)は知りませんか」

「昨年の十二月に、あいつが来たのですか。だが、私はあいつには会っていませんし、あいつもこの村には入ってこれませんよ。聞くところによると、あいつは西の村で食ったり飲んだりして十数日賭けをしたといいますがね。あいつがどこかで泥棒をして、悪銭を手に入れたんだろうと疑っている人がいましたが、あいつが女房を売って得た金だとは誰も思ってはいなかったでしょうな」

「それは女房を売った金ではなくて、わたしの金です」

「義兄さんの金とは、どういうことです」

恵養民は滑氏が謝礼金をこっそり滑玉に渡したことを話しました。

「義兄さんは前世であいつに借りがあって、あいつがこの世で取り返したんですな。あの人でなしめ。親戚にまで迷惑をかけるとは」

恵養民は事実を知りましたが、どうしようもなく、帰ろうとしました。滑九皋は一晩引き止めようとしましたが、恵養民は泊まろうとはしませんでした。店の門を出ますと、かいば桶の馬も腹一杯になっていました。恵養民は、義弟に別れを告げますと、馬に乗りましたが、ひどくがっかりしました。そして、晩に、自分の村に着きました。

兄に会いますと、何も言えず、一元を呼ぶと、言いました。

「馬にまぐさをやってくれ。腹を減らさせないようにな」

恵観民は妻の鄭氏をよぶと、こっそり言い付けました。

「弟はなかなか家には戻ってこなかったから、棚の上の鶏を捕まえて、潰すのがいいだろう。掴まえるときに鶏を騒がせてはいかんぞ。わしらは酒を飲む。半分は残し、明日の朝は、弟に食事を出し、城内に行って、人様に勉強を教えることができるようにしてやろう。おまえは鶏を殺してきてくれ。わしは南荘へ行って、酒をつけ買いしてこよう。急須を二つわしに渡してくれ」

鄭氏は言われた通りにしました。恵観民は南荘へ酒をつけ買いしにいきました。

一時たちますと、鶏はすっかり炒められました。さらに三四種の菜園でとれた乾燥野菜が添えられました。恵観民は酒をつけ買いして戻ってきますと、鄭氏に燗をつけさせました。恵養民は、以前自分が住んでいた部屋の寝台に横になりますと、声を出すこともできませんでした。恵観民は急いで灯りを手にとりますと、鶏と酒をもってきました。恵養民は体の具合が悪いから、食事をしたくないといいました。恵観民は急いで生姜湯をわかすように命じました。そして、鶏と酒を片付けて、明日の朝に食べることにしました。恵養民は生姜湯を啜りますと、人に話しを聞かれるのではないかと心配しました。恵観民は自分の布団をもってきて弟の脚にかぶせ、ドアを閉じますと、休みにいきました。

実は、恵養民は、妻の言いなりになって兄を裏切ったので、不安だったのでした。そして、今日は、あっという間に一年分の謝礼金を失ってしまったので、ますます兄にすまないと思ったものの、その気持ちを述べることもできませんでしたので、少し風邪をひいたと嘘をいったのでした。ところが、兄に優しくされてしまったので、ますます辛い気持ちになってしまいました。後に、彼が人に会いたがらない病気になったのは、この夜のことに原因があったのです。これぞまさに、

男たるもの女の言葉を聞くなかれ、

腹に剣あり口に刀あり血を帯べり。

正平[16]の『鸚鵡賦』[17]を読み誤れば、

世の中は脊令原[18]を失はん。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]原文「欲協塤箎、却有難調琴瑟」。「兄弟仲をよくしようとすると、夫婦仲が悪くなりました」の意。「塤箎」は『詩』小雅何人斯に「伯氏吹塤、仲氏吹箎」とあるのをふまえ、兄弟仲を喩える。「琴瑟」は『詩』關雎「窈窕淑女、琴瑟友之」をふまえ、夫婦仲を喩える。

[2]五臓の陰気が上逆して胸部を犯し痛むことをいう。

[3] シフゾウ。頭は鹿、蹄は牛、尾は驢馬、首は駱駝に似ているシカ科の動物。

[4]明代の戯曲。閔子騫が継母にいじめられる故事を描く。作者未詳。

[5]甥とは、一世代下の、息子以外の男子をいう。ここでいう甥とは、興官児のこと。恵養民と譚紹聞は師弟の関係なので、譚紹聞の子供は恵養民の子供より一世代下ということになる。

[6]姻戚間で嫁と婿の親同士相互間の呼称。

[7]原文「吾未如之何也」。『論語』子罕「吾未如之何也已矣」(私はこれをどうしようもない)に因む言葉。

[8] 『詩経』鄘風の篇名。許の穆夫人が故国衛の滅亡を聞き、衛を救うことができないのを悲しんで詠んだ詩とされる。

[9]火の神回禄を祀る廟。

[10]米、小麦粉を蒸して作った菓子。

[11]北方で流通していた二十文に相当する大きな銅貨。

[12]河南省汝寧府。

[13]官邸の入り口。

[14]官府の荘園の管理人。四十二畝の土地を管理する。『清史稿』食貨志一「初設官荘、以近畿民来帥者為班頭、給縄地、一縄四十二畝」。

[15]河南省陳州府の地名。現在の周口市。

[16]後漢の文学者禰衡の字。

[17] 『鸚鵡賦』は禰衡の作った賦で、鸚鵡を詠じたもの。鸚鵡は、ここでは女を指していよう。「正平の『鸚鵡譜』を読み誤れば」とは「間違って女のいうことを聴けば」という意であろう。

[18] 「脊令原」は『詩経』小雅常棣の「脊令在原、兄弟急難」(脊令が野原に落ちると、兄弟が急いで救いにくる)に因む言葉。兄弟が助け合うことをいう。

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