第十二回

譚孝移が病床で息子に遺言すること

孔耘軒が正論によって婿を正すこと

 

 さて、譚孝移は病の床に就きましたが、病気は良くならずに、だんだん重くなりました。これは、一つには譚家の家運が、盛運から衰運に向かっていたから、二つには孝移の運命が、生から死へと向かっていたからでした。もしも孝移が耄耋[1]の寿命を得ていれば、聡明な端福児は、当然賢明な先祖のような人物になり、この書も、何もお話しすることがなくなってしまっていたことでしょう。私は品行方正の士が、惜しくも亡くなったことをお話ししなければなりません。

 ある日、孝移は顔を外に向けて、眠っておりました。ふと目を開けますと、端福児が火鉢の脇におり、西洋の壺に入れられた茶の番をしていました。彼は、父親が目を覚ましたら、喉を潤してあげようと思って伺候していたのでした。孝移はしげしげと眺め、この子はまもなく未亡人の子になってしまう、母親は愚かでこの子を溺愛している、将来どのようなことになるか分からないと考え、思わず叫びました。

「お前」

しかし、一声叫びますと、頬には涙が止めどなく流れ、二の句が継げませんでした。孝移は心を静めますと、尋ねました。

「母さんはどこへ行ったのだ」

端福児は涙を浮かべながら答えました。

「お母さまは一晩中眠られなかったので、東の楼へ行って休まれています。私にここでお父さまの様子を見させてらっしゃるのです」

「ご苦労さま。母さんを起こさないようにな。王中を呼んできてくれ」

端福児は王中を呼んできました。王中は入口の外に立ち、寝室の中に入ろうとしませんでした。孝移

「病気がここまで進んだのだから、入ってきても構わぬ」

王中が入ってゆきますと、孝移が王中に向かって叫びました。

「枕を立てて、私を座らせてくれ」

孝移が枕に凭れて座りますと、王中は入口のところまで引き下がりました。孝移はふたたび顔中に涙を流しますと、端福児を呼び

「わが子よ。おまえは今年十三歳だ。父さんのこの病気は、多分良くならないだろう。おまえに言っておきたいことがあるが、おまえが小さすぎて、記憶できないのではないかと気掛かりだ。大切なことだけを選んでお前に話そう。覚えておくのだぞ。『熱心に勉強をし、正しい人と交われ』。これだけだ」

端福児は言いました。

「分かりました」

孝移は泣きたくなるのを抑えて

「お前、唱えてみてくれ」

「『熱心に勉強をし、正しい人と交われ』」

孝移「書いてみせてくれ」

端福児は赤い単帖を探してきて、その上に書きますと、父親に渡しました。孝移は赤い帖子を布団の上に置き、端福児の手を掴みましたが、それ以上こらえることはできず、ウッウッと大泣きしながら、言いました。

「良い子だ。この言葉を守りさえすれば、先祖を光り輝かすことはできなくても、家を没落させることはないだろう。家を栄えさせることはできなくても、財産を手放すようなことにはならないだろう。わしが死んだら、埋葬はとりあえずしなくてよい。おまえは小さいうちは、毎年霊前で紙銭を燃やし、わしにこの言葉を読んで聞かせてくれ。やがて大きくなって、わしを埋葬したら、毎年墓参りの時に、わしの墓の前で唱えてくれ。分かったか」

端福児も悲しくて答えることができませんでした。そして枕辺で俯きますと、ウッウッと泣き出しました。

 孝移が王中を見ますと、彼はうなだれて涙を流し、胸元をすっかり湿らせていました。孝移は王中を呼びました。

「こちらへ来るのだ」

王中が枕辺に行きますと、孝移は言いました。

「お前はずっとわしに仕え、少しも嘘をついたことがなかった。家中の者がお前の世話になった。わしが死んだら、息子はお前に任せるから、世話して立派に育て上げてくれ。家の中に住みたくなくなったら、─端福児、聞くのだ。城南の菜園二十畝と、南街の靴屋二間と庭一つ、靴屋の三十両の元手を、すべて王中に与えるように」

王中は泣きながら、言いました。

「旦那さま。そんなことを仰らないで下さい。私は死んでも出てゆきませんから」

「お前はわしの深い考えが分かっていないのだ。口約束では証拠にならないが、お前は契約書を書くこともできまい。しかし、息子に叩頭しさえすれば、後日、約束通りにしてもらえるだろう」

王中は泣きながら

「旦那さまが養生されることが大事です。そんな悲しい話はなさらないで下さいまし。お心がますます辛くなるでしょうから」

 話しをしていますと、王氏が東の楼で目を覚まし、堂楼の下にやってきました。見ますと三人が顔中に涙を流していました。王中は部屋の入り口から出てゆきましたが、涙はますます溢れてきました。王氏は心中密かに思いました。

「この二十五日は、災いが退く日だから、悲しむことはない」

そして夫に向かって言いました。

「もう泣くのはおやめください。疲れれば病気がますます悪くなります。病気にならない人などいないのですから、気を楽になされば、すぐに良くなります。悲しいときは、王中に婁先生、侯さんを呼んでこさせ、腹を割って話をされれば、気も楽になるでしょう。さらに食事を召し上がれば、良くならないはずがございません」

孝移もまさにその様に考えていました。王氏は初めてまともなことを言いました。そして、すぐに王中を呼び、

「宋禄に車の準備をさせ、迎えにゆかせなさい」

と言いました。

 車の用意をしたとき、孔耘軒が礼物を入れた盒子を準備して、門口にやってきました。孝移はすぐに彼を呼んで話をしました。王中は車に乗ってゆきましたが、途中で、婁潜斎が歩いてくるのに出会いました。下男は雪糕[2]を持っていました。そこで、一緒に車に乗って家に戻りました。潜斎が病室に入りますと、耘軒もおりましたので、挨拶はせずに、そのまま腰を掛けました。そして、まずこう尋ねました。

「ここ二三日はいかがですか。気分は宜しいですか」

孝移は目に一杯の涙を浮かべ、頷き、喘ぎながら言いました。

「この病気は良くなることはないでしょう。息子のことだけが、気掛かりです。彼は潜斎さんの弟子、耘軒さんの婿で、あなたがたとはずっと親しくしてきました。どうか私に代わって面倒を見てやってください。起き上がってお二人に叩頭することができませんが、心の中ではすでに叩頭しております」

二人は声を揃えて

「養生されることが大切です、つまらない話しはなさらないで下さい」

二人は無理にそう言いましたが、目にはもう涙を浮かべ、涙が流れないように抑えました。孝移は端福児を近付けて言いました。

「今日お前をお二人にお預けした…」

 言い終わらぬうちに、痛いと一声叫びました。体中が震え、床の上の布団がぶるぶる揺れました。王氏は慌て、急いで入ってきますと、撫でさすりました。婁、孔の二人は、席を外すしかありませんでした。彼らは外に立ってやきもきしていましたが、何もすることはできませんでした。王氏は泣きながら

「お二方、どうか行かれないで下さい。女だけでは心細いのです。どうか泊まってゆかれて下さい」

婁、孔は言いました。

「勿論です」

程無く、孝移は顔中汗だくになりました。少し落ち着いたものの、喋ることはできなくなり、時折呻き声を出すだけでした。婁、孔は、おもての広間へ行き、腰を掛け、悶々として顔を見合わせました。王氏は枕辺に腰を掛け、涙を流しましたが、大声を出すことはできませんでした。端福児は格子戸に頭を凭せ掛け、泣き続けました。王中は前の中庭と奥の中庭を行ったり来たりし、ただただあたふたとしていました。日が暮れますと、薄いス─プを飲んだものの、真夜中になりますと、方正篤実な学者は、「君子は終と曰ふ」[3]ということになってしまいました。これぞ

昔より死せざる人はなけれども、

正人の死は悲しみをもたらせり。

 さて、譚孝移は寿命がすでに尽き、魂は天に帰りました。王氏は床に伏し、天地が暗くならんばかりに泣きました。端福児は地面を転げ回り、泣き叫び続けました。趙大児は女主人の脇で泣きました。宋禄、蔡湘、ケ祥は馬屋の中で泣きました。二人の飯炊き女は台所で泣きました。閻楷は帳房で泣きました。徳喜児、双慶児は庭で泣きました。王中は楼の外で、死の床に向かって泣きました。婁、孔は楼に入ろうとはせず、客間の衝立の後ろで、楼の入り口を見ながら、ぽろぽろと涙をこぼしました。この泣き声で左右の隣の家はびっくりして目を覚まし、起き出してきて耳をすましました。そして口々に

「良い人だったのに、良い人だったのに、真面目な学者さんだったのに」

と言いました。

 譚家では半夜泣き続け、夜を明かしました。しかし、将来の事は話していませんでした。婁、孔は、王中をおもての広間に呼び、閻楷も帳房からやってきました。王中は叩頭しました。立ち上がりますと、婁潜斎が言いました。

「さしあたって必要なのは棺です」

王中は泣きながら

「旦那さまの病気は、もともと良くなるはずでしたので、実は棺はまだ買っていないのです」

閻楷

「去年、泰隆号の番頭の孟三爺が急病になり、銀五十両で、王知府の墓の檜を買い、自前の棺を作り、漆を塗りました。後に病気が良くなって不要になったので、城隍廟に置いてあります。あの人は私たちの家に住んでいますから、あの人に話してみましょう。もし承諾すれば、あの人の一年八十両の家賃にすればよいでしょう」

耘軒

「それはよい。閻さん、すぐに買いにいって下さい」

閻楷が出掛けてゆきますと、侯先生も部屋にやってきました。閻楷は戻ってくると言いました。

「二つ返事で決まりました。後は運んでくるだけです」

潜斎

「棺があって良かった。これも『善人には天が味方する』というものです」

侯冠玉

「『赤壁の賦』[4]に『且つ夫れ天地の間、物(おのおの)主有り』[5]とありますが、これぞまさに『之を為す莫くして為すは、天なり』[6]というもの。もともとこうなる運命だったのです」

王中は人に命じて担ぎにやらせました。やがて、黒々と漆が塗られた立派な棺が担がれてきて、部屋に置かれました。婁、孔はさらに六品の冠帯を用意しました。食事時になりますと、二人は家に帰ろうとしましたが、王中は行かせようとしませんでした。婁潜斎は言いました。

「午後になったら来ます。納棺に立ち会い、こちらにとどまりましょう。明日は訃報の送付、開弔[7]などの事務を処理しましょう」

王中は食事をとってもらおうとしましたが、二人は断りました。王中が何度も頼みますと、侯冠玉

「おまえは知らないのか。『子の喪有る者の側らに食するに、未だ嘗て飽せず』[8]ということを。私達は一緒に帰りましょう」

王中は表門まで見送りますと、言いました。

「旦那さま方、午後はすぐに来られて下さい」

耘軒

「勿論です」

実は、二人は食事をとる気にもなれませんでしたので、家事を言い付けてから、葬式を執り行ない、親友との友情を全うしようとしたのでした。

 昼飯が終わりますと、婁、孔がやってきました。侯冠玉もやってきました。後から曹氏が隆吉を連れてやってきました。王中はすでに棺を据えておきました。王氏はすでに官服を夫に着せ、口に大真珠を含ませ、真ん中の広間に運びました。王氏母子は付き従って大いに泣き、婁、孔は涙を浮かべて納棺を見守りました。幎目帛[9]、握手帛[10]は、すべて『家礼』の通りに行われました。王氏は趙大児に麺人、麺鶏を持ってこさせました。孔耘軒が言いました。

「こんなものをどうなさるのですか」

王氏

「これは陰陽師の劉先生が殃式[11]で指示された魔除けなのです」

「棺の中には虫がわくようなものを入れてはいけません。陰陽師の話を、あまり信じられてはいけません」

潜斎

「棺の上に置けば、それで良いでしょう。中に入れる必要はありません」

ところが、王氏は承知せず、どうしても棺の中に入れようとしました。二人は仕方なく、なすがままにさせ、孝移を棺の中に入れました。納棺がすみますと、王中は泣きながら端福児を抱き上げ、もう一度父親を見せ、最后のお別れをさせました。人々は涙を流しました。棺蓋が担ぎあげられ、さっと被せられました。釘を打つ音が響き、胸を突き刺しました。部屋中に泣き声が響きました。王氏は地面に昏倒し、髪の毛がざんばらになりました。端福児は棺を掴み、足踏みして泣き叫びました。王中は地べたに跪き、手で地面を打ちながら大泣きしました。婁、孔は親友を失い、胸を刀で刺されるような思いで、悲しみの余り口もきけませんでした。他のことはくどくどとお話し致しません。これぞまさに古人の言う

人生でもつとも辛く苦しきは、

生別、死別にしくものぞなき。

 さて、曹氏は衝立の後ろにいましたが、悲しくなり、小さい声で二声三声泣きました。そして、姉が地面に倒れたのを見ますと、助け起こして奥に戻りました。まもなく、皆は泣きやみました。潜斎は王中に苫塊[12]をしつらえさせ、孝子を草の上に座らせました。

 日はすでに暮れ、婁、孔は訃報、位牌の書き方について相談しました。すると、徳喜児が奥からやってきて、言いました。

「奥さまが、お二方は家に帰って、今晩の二更に躱殃[13]をなさるようにと申しております」

潜斎

「最近そのような邪悪なことが言われているのは残念なことです。父母の体が冷たくもならないうちに、家中が父母をほったらかしにして避けてしまう道理があるでしょうか」

耘軒

「無理もありません。最近の士大夫の家では、道理を弁えず、父母が死んだときは、陰陽家が話す邪神のことを信じて、子は、父母のためにこれらの邪悪を避けようとするのです。父母の墓を造るときは、風水家がいう縁起のよい話しを信じ、子は、父母のために、これらの幸福を求めようとするのです。程嵩淑さんが山東におられるのが残念です。もし家にいれば、必ずやめさせるでしょうに。そもそも「彪」という字は『六経』にはまったくなく、『白虎通』にだけ見えます[14]から、後世の陰陽家が作り出した事柄であることが分かります」

「出殃のことを、民間では出魂と呼んでいます」

「昔から招魂の文はあっても、躱殃の記事はありません、人は死ねば魂魄は消え去りますから、子が慕っても呼びだすことはできません、ですから『僾として見、愾として聞き』[15]といったり、聖人が『祭るに在るが如くす』[16]といったりするのです。しかし、まだ冷たくもなっていない遺体を置き去りにして遠くへ去るのは、鄭の人が『伯有[17]が来た』と思って、みんな逃げてしまい、どこかへいってしまったようなもの[18]ではありませんか」

婁潜斎「耘軒さんのお話しを聞きますと、悲しみを忘れて笑ってしまいます。先の八月の郷試の時、拙宅では二間を貸しました。東は河南府新安県の友人が借り、西は汝州宝豊県の友人が借りました。私の街で、躱殃の時に泥棒に入られるという事件がありましたので、夕方話をしますと、新安の友人が言うには、彼の県の風習では、家に死体を置いておくのは、一年半だったり、十余年だったりするそうです、埋めてからは、陰陽先生に『三元総録』[19]をみて、殃状を書いてもらうのですが、三日というものもあれば、五日というものもあり、夜中というものもあれば、昼間というものもあり、東南に向かうというものもあれば、西に向かうというものもあり、青い気になって去っていくというものもあれば、黄色い気になって去っていくというものもあります。宝豊の友人の話では、彼の県の風習では、父母が死ぬと、その日のうちに陰陽先生に殃状を書いてもらい─これも『三元総録』によるので、死後三日というものもあれば、五日というものもあり、未の刻というものもあれば、丑の刻というものもあり、東西南北など方位は一定ではなく、青、黄、黒、白、赤などの気になって─色も一定ではないのですが、去っていくといいます。両県を比べ合わせてみてみますと、宝豊県では葬儀の後に躱殃はしませんが、邪神が人をとり殺したということはありません、一方、新安県では死んだときに躱殃はしませんが、邪神が人をとり殺したということはないのです」

孔耘軒は思わず微笑して言いました。

「それは珍しいことではありません。陰陽師は、他にも『落魂書』『黒書』を持っています。男は魂が抜け出て、広東の香山県[20]海岸村に落ち、趙家の男子に転生するといいます。また、女は魂が抜け出ますと、雲南普屑府に落ちて、城の東郊外の張家の娘に転生するといいます。惜しむらくは、本があまりに小さく、天下の死者は無数なので、香山県の家で男ばかりが生まれ、普洱府の家で女ばかり生まれることになることです。男がたくさん生まれれば、他の所へ移ることもできますが、女が多く生まれれば、『女児国』ができてしまうではありませんか」

侯冠玉は言いました。

「孟子は『取らざれば必ず天殃有らん』[21]と言っていますが、人々は人が死ねばその人の災いがあると言います。子夏は『富貴は天にあり』[22]と言っていますが、人々は富貴は地にあると言います。本当に邪説が横行し、仁義を押し潰しているのです」

言い終わりますと、立ち上がって去ってゆきました。

 潜斎は端福児に尋ねました。

「紹聞、おまえはどう思う」

「私は躱殃は致しません」

「それで良いのだ」

孔耘軒はしきりにうなずいて

「宜しい、宜しい」

と言いました。潜斎はさらに王中を呼びました。

「奥へ行って、私達二人はここで訃報を書くから、今夜は家には帰らない、奥さん達も躱殃をする必要はないと言ってくれ」

 王中は、奥へ行って、そのことを話しました。曹氏は王氏に向かって言いました。

「絶対に駄目です。殿方は胆っ玉がすわっていますが、私たちは用心しなければ」

「ええ、仰る通りですわ。真面目なことなんですから」

しかし、客を追い払うわけにもゆきませんでした。一更を過ぎますと、王氏は双慶児を、前の中庭の套房へ行かせ、二人の男にこう言わせました。

「奥さまたちはひどく怯えています。坊っちゃんを戻して、奥さまたちと一緒に寝かせて下さい」

端福児はすでに筵の上で眠っていました。潜斎は端福児を帰らせることにしました。双慶児が呼び起こし、奥に戻ってゆきました。奥ではすでに準備をしてあり、女達が端福児を迎え、裏門に鍵を掛け、侯先生の女房の家に躱殃をしました。─侯先生は暇ができたので喜び、堂々と賭博に出掛けました。

 婁、孔は、近親者への十数通の訃報を書き終え、酔翁の椅子[23]の上で眠りました。潜斎はしきりに伸びをしました。孔耘軒もなかなか眠れませんでした。テ─ブルの上には一皿の灯明があり、暗くなったり明るくなったりして、ひどく不気味でした。孔耘軒が立ち上がって灯りを掻き立てますと、婁潜斎も立ち上がりました。そして口の中で唱えました。

「『物在るも人は亡く見期(あふとき)無し』[24]ですな」

「気が滅入りますね。もう真夜中ですが、私たちも眠れません」

そこで、二人は夜が明けるまで話しをしました。

 次の日になりますと、表門の外で大きな哭き声が聞こえました。入ってきたのは王春宇でした。彼は、霊前に行って挨拶しますと、痛哭して、こう言いました。

「私は昨晩亳州から帰り、義兄さんが亡くなったことを知りました。義兄さんはまだ都にいられるものと思っていました。義兄さんが役人になられることを望んでいたのに、この様な災いに遭われるとは」

言い終わりますと、また大哭きしました。人々は彼を慰め、端福児は叩頭しました。王春宇はそのまま奥へ行き、姉と会いました。互いに一しきり哭きあった後、ずっと亳州にいて、義兄が戻ってきたことを知らなかったと言いました。王氏は言いました。

「おまえの義兄さんは寿命が尽きていたのだよ。医者を呼んで看病させたが、いっこうに薬は効かなかった。神頼みもしてみたが、神様も霊験がなかった。籤を引いて占いをしたが、全然中たらなかった。もう亡くなったから、こんなことを言っても仕方がない。ところで、埋葬をするにはまだ早い。今は成服[25]、封柩[26]を行っているのだが、たくさんのお客がきている。破孝[27]の宴会のときは、全部おまえに手伝ってもらうよ」

 王春宇は奥から出てきますと、婁、孔に挨拶しました。たまたま侯先生もそこにおりましたので、やはり挨拶して腰を掛けました。そして、口を開きますと

「私は他の仕事はできませんが、酒席の準備はすべて私が引き受けましょう。端福児の宴会には、なまこ、まて貝、ふかひれなどの珍味が絶対必要です。そうすれば義兄の生前の体面を保つことができます」

潜斎

「お義兄さんの体面を保つためには、酒席などは関係ありません」

王春宇は気の利いた男でしたから、話を引込めました。そして成服、破孝のことについて尋ねました。孔耘軒が言いました。

「これは我々の土地の俗習です。私は先父が死んだとき、破孝はしませんでした。古には『大孝』[28]『純孝』[29]がありました。孝という字は、息子が親に仕える様子を表し[30]ていますから、「孝を破る」などというべきではありません。同族の弟や甥、姻戚の甥や婿でも、期年[31]、大功[32]、小功[33]、緦麻[34]など、やはり決まりがあります。隣近所が弔問にきたとき、彼らを真っ先にもてなすことなどできません」

王春宇は婁、孔にこう言われますと、二の句がつげず、それ以上質問はしませんでした。

 さて、王氏は、弟が婁、孔とおもての広間で話をしているので、葬式の話をしているのだと思い、衝立の後ろへ行って盗み聞きしました。そして弟が婁、孔から批判されているのを知りますと、自分の家の葬儀を、どの様に執り行なってよいか分からなくなり、こらえきれずに言いました。

「ここには婁先生、孔さんがいらっしゃいますから、お葬式は、婁さんや、孔さんに世話していただきましょう。楽師を雇い、尼を招いて法事をしてもらうことにしましょう」

婁、孔が言葉を返そうとしますと、侯冠玉が言いました。

「書物に『隣で葬式があるときは、春でも歌わず、隣で葬儀が行われていれば、歌をうたわない』[35]とあります。春なのに隣近所では劇も上演していません、まして葬式のときに、喇叭を吹き、太鼓を鳴らすことがありましょうか」

婁潜斎は自分の弟子が『春でも歌わず』と読んでいることを知りました。王氏はそれを聞くと怒り、衝立の後ろで大声で

「楽師は絶対必要です。法事も絶対に行います」

孔耘軒

「楽師のことはまた相談しましょう。法事に関しては、封柩の日に客がたくさん来て慌ただしくなりますから、『二七』でも『三七』でも『百日』でも、奥さんの気が済むようにして頂きましょう」

王氏

「孔さんの仰ることは人情に適っています。─侯先生、そのお話しは、何という本に書かれているきまりなのですか」

侯冠玉はお喋りを後悔しましたが、奥さんが衝立の裏で話しを聞いて怒ってしまいましたので、理由をつけて逃げてゆきました。

 婁、孔は処理すべきことを、すべて礼法通りに行い、それが終わりますとそれぞれ家に帰ってゆきました。

 塗殯[36]の日になりますと、隣近所、姻戚や友人が、礼物を持って弔問にきました。客を接待し、宴席を整えたことは、いちいち細かく申し上げれば、きりがございません。「皇明応誥贈承徳郎[37]介軒府君の霊」[38]という札が、孝幔に懸けられ、「封柩止弔」[39]の四文字が、表門の脇に貼られました。これぞ賢良方正に推挙された、拔貢生譚忠弼、字は孝移、号は介軒の「棺を蓋いて事定まる」でありました。こんな詩がございます。

正しく生くれば死ぬる時には心安らか、

正しき人の死ぬる時には心残りなし。

終生我が身を慎めば、

世の模範とぞはやさるる。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]耄は七十歳、耋は八十歳。

[2]清袁枚『随園食単』に、雪花糕・雪蒸糕を載せるが『岐路灯』の雪糕と同一かどうかは未詳。

[3] 『礼記』檀弓「君子曰終、小人曰死」(君子が死ぬことを終といい、小人が死ぬことを死という)。

[4] 『赤壁賦』には『前赤壁賦』と『後赤壁賦』があるが、これは『前赤壁賦』の文句。

[5] 「この世のものにはすべて主宰者がある」。

[6] 『孟子』万章上。「しようと思わないのに自然にそうなるのが運命である」。

[7]人の死後およそ三日目に庭に仮屋を作り、弔問の受け付けを始めること。

[8] 『論語』述而。「孔子は服喪中の者の脇で食事をするときは、腹が一杯になるまで食べなかった」。

[9]死者の顔を覆う布。絹を用いて作り、一辺が一尺二寸、中には綿が入っているという。(図:「三才図会」衣服三)

[10]死者の手を包む布。 絹を用いて作り、長さ一尺二寸、幅五寸で、綿が詰めてある。(前注図参照)

[11]何月何日何時に死者の魂が家を離れて飛翔するということや禁忌について書いた文書。

[12]藁のむしろと土の塊で作った枕。喪に服する者の寝具。

[13]死者の魂が家を離れて飛翔するときに、家族が家を空にすること。

[14] 『白虎通』「五祀春木主煞上、故以所勝祭之也」。「金味所以辛何西方煞傷成物、辛所以彪煞傷之也。猶五味得辛、乃委煞也」。

[15] 『礼記』祭義「祭之日、入室、僾然必有見乎其位…出戸而聴、愾然必有聞乎其嘆息之声」。(祭祀の日、位牌を置いてある御霊屋に入ったときは、親の顔を見ているかのようにする。…門を出てからは耳元で親の長嘆息する声を聞いているかのような気持ちになる)

[16] 『論語』八佾。「孔子は先祖を祭るとき、祖先が本当に目の前にいるかのように振る舞った」。

[17]鄭の皇族。殺されて幽霊となり、駟帯・公孫段を殺したという。

[18]原文「鄭人以為『伯有至矣』、則皆走、不知所往」『左伝』昭公七年の「鄭人相驚以伯有、曰『伯有至矣』、則皆走、不知所往」に因む言葉。

[19]陰陽師が殃状を書くときに使う書物と思われるが未詳。

[20]広東省広州府。

[21] 「斉が燕を併呑しなければきっと天の災いがあるだろう」。『孟子』梁恵王下にでてくる言葉。ただし、これは孟子がいった言葉ではなく、斉の宣王が孟子に尋ねた言葉。孟子は燕の人民が斉の統治者を喜ぶのであれば征服しても構わないと答えた。

[22] 『論語』顔淵。「富貴は天によって決められるものである」。

[23]寄り掛かったり寝たりすることのできる椅子兼寝台。

[24]李頎『贈盧王旧居』。

[25]服喪。

[26]棺を布で覆うこと。

[27]葬儀を行っている家に、隣近所の友人が弔問にきたとき、孝帛(長帯或いは四角い白布)を答礼とすること。

[28] 『礼記』祭義「孝有三、大孝尊親」(孝には三つの等級がある、最も偉大な孝は天下の人が父母を尊敬するようにすることである)

[29] 『左伝』隠公元年「君子曰、穎孝叔、純孝也。愛其母、施及荘公」(君子はいった『穎孝叔は純粋な孝子である。その母親を愛して、荘公にまで影響を及ぼした』

[30] 『説文』に「善く父母に事へる(こと)」とある。

[31]一年の喪。

[32]九か月の喪。

[33]五か月の喪。

[34]三か月の喪。

[35]原文「隣有喪、春不相、里有殯、不巷歌」。『礼記』曲礼上「隣有喪、不相、里有殯、不巷歌」(隣で葬式があるときは、米を搗くときでも歌わず、隣で葬儀が行われていれば、路地で歌をうたわない)

[36]木板や煉瓦を棺の周囲に積み重ね、密封し、漆を塗ること。

[37]正六品の官に与えられる名号。

[38] 「明国の勅命に応じ、承徳郎を贈られた故介軒君の霊」

[39] 「封柩は済み、弔問受け付けは終わりました」

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