第八回

王春宇がいいかげんに先生を推薦すること

侯冠玉がだらしなく生徒を放任すること

 

 さて、譚紹聞、婁樸が学校から出てきますと、譚、婁両郷紳の息子が十二歳で学校に入ったという噂はすぐに街中に広まり、二人の小さな秀才は、人々を大変喜ばせました。そして、この話は早くも王春宇の耳に入りました。彼は急いで新しい服に着替えますと、騾馬に乗り、姉のところへお祝いを言いにきました。

 王春宇は急いで胡同の入り口から入りますと、蔡湘に騾馬を預け、裏門から中に入りました。そして、一階に行って、王氏に会いますと

「姉さん、おめでとうございます。あの子が学校に入ったそうですね」

「その話しはやめておくれ。あの学院はどこの馬の骨で、どれほど偉いというんだね。子供たちが本を暗誦できれば、秀才にするといっていたくせに、端福児が何冊もの本を暗誦すると、年が若いからといって、子供達に本を幾冊か与え、読むようにといっただけだったのだよ。来年はもうあの子を受験させたりするものか。ひょっとしたらどこかの金持ちの子が、端福児の生員の座を占めてしまい、他に理由がないものだから、年が若いなどと言ったのかもしれないよ」

「甘羅[1]は十二歳で宰相になったのですから、年をとっていれば知恵があるとは限りません。そのお役人は、とんでもないでたらめを言っていますね。近頃は商売をするのも大変で、しょっちゅうだまされることがありますが、これも尤もなことですよ」

「お前だって文字を知っているのだから、明日、試験を受けにいってごらん。そして、暗誦ができなくても、年をとっているから、秀才になることができるぞと言ってごらんよ」

王春宇は笑って

「学院が私を秀才にするといっても、城内にはたくさん七八十歳の人がいるのですから、私まで順番が回ってきやしませんよ」

王氏も笑って、更に尋ねました

「隆吉の病気は良くなったかい」

「少し良くなりましたが、まだ丈夫になったとはいえません」

「少し良くなったら、是非試験を受けにいかせるべきだよ」

「駄目です。あれは端福児ほど本は読みません。私だって大した親ではありませんからね。ところで、端福児はどこへいったのですか。姿が見えませんが」

「私はあの子がむしゃくしゃしているのではないかと思ったから、街に遊びにいかせたのだよ」

「義兄さんは子供を街で遊ばせることを嫌っていたのに、どうして街へいかせたのですか。人はついているのですか」

「お前まで主人の肩を持つのかい。主人が旅に出るとき、婁先生にあの子の世話を頼んだので、婁先生はあの子にぴったりと付き添っていたんだよ。春はまだよかったが、夏になりますと、あの子は毎日青い顔をして、何日も腹下しをしていた。そこで、私があの子を勉強部屋に行かせないようにすると、だんだんと丈夫になった。隆吉も、勉強をさせたから病気になったのではないかね」

「隆吉は服を脱いでいて風邪をひいたのです。勉強をしたからではありません。姉さんのいわれることはご尤もですが、子供はやはり家でじっとしていた方がいいのです。ところで、婁先生は合格されて、上京されるのでしょう。義兄さんも家にはおられませんが、来年はどなたに勉強を見て頂くのですか。正月まであと十一二日ですが、姉さんは何かお考えをおもちですか」

「主人がどういうわけか婁先生の合格を知って、十月に、都から、縁組をした孔さんのところから来年の先生をお招きしろという手紙をよこしたのだよ。王中は報せを受けますと、すぐに孔さんのところへ二三回出向いた。無茶苦茶だと思わないかね。孔さんの家は、今、喪に服しているのだよ。勝手に家を出て勉強を教えたりできるものかね。それに、舅が結婚前の婿に勉強を教えたりするのが、いいことといえるかね。向こうだって厳しい躾けはしにくいだろう。王中は二回出向いたけれど、孔さんは程さんを招くといいと言ったそうだ。しかし、程さんも勉強を教えることを堅く断られたので、孔さんは程さんとゆっくり相談してみようと言っておられた。あの程さんが酒好きであることは、私はよく知っているから、たとえ招いたとしても、子供の面倒をみさせるわけにはいかないよ」

「私はいい先生を知っていますよ」

「誰だい」

「私達の街の三官[2]廟の侯先生です。先生の来年の家庭教師先はまだ決まっていません。先生はどこの県の方なのか知りませんが、向かいの粉屋の劉旺の縁つづきだとかいう話しです。大変穏やかな性格で、よく私の店にもやってこられます。わたしはあまり使わない字は帳面に書くことができないのですが、先生は私のためによく一二行帳面をつけてくれますから、字をよく知っているのではないでしょうか。先生はたったの二人家族ですから、食糧や味噌醤油を出しさえすればよく、賄い付きにする必要はありません」

「賄い付きにしなくていいというのは結構だ。世話をする必要がないからね。すぐにその人を招いてみよう」

「そういうことをおっしゃってはなりません。義兄さんや婁先生の学問のことは、私はまったく分かりませんが、どこか奥ゆかしげな感じがします。しかし、侯先生は婁先生ほど奥ゆかしげではありません。とりあえずこの話しはやめにして、もっと様子を探ってみましょう。すぐに決めてはいけません。義兄さんが戻ってこられたら、怒られるかも知れませんから」

「婁先生が科挙に合格しているものだから、奥ゆかしげだなどというのはおよしよ」

「あの人が科挙に合格したから、奥ゆかしげだと言っているのではありません。様子から、六七割は想像がつくのです。私は人物を見抜く目をもっているのですよ」

「主人は家にいないから、すべて私が取り仕切ることにするよ。食糧を差し上げるだけでいい人なら招くが、食事を出さなければならない人は嫌だよ」

 話の最中、端福児が三四十本の花火を抱え、籠一杯に物を入れて入ってきました。春宇

「お前、どこにいってきたんだ。籠の中身は何だい」

端福児は籠をおきますと、拱手して、言いました

「二十本の十丈菊なんだ」

「一本幾らしたんだ」

「二十五銭だよ」

「だまされたな。隆吉兄さんが花火を欲しがるときは、叔父さんは四十銭やるんだ。それで三本買えるぞ」

王氏

「閻相公がお金を払ったのかい」

「閻相公は、王中が来たら、帳簿につけるといっていたよ」

「春宇、私達の家は、すべて王中が取り仕切っているのだよ」

そう言いながら二階に上がりますと、五百銭をもってきて、端福児に渡し

「自分で払っておいで、帳房で帳簿につける必要はないよ」

春宇

「王中は姉さんの家で生まれた奴隷ですね。あの男は随分真面目ですね」

「真面目は真面目だが、ひどくつむじ曲がりな男でね。憎たらしいったらありゃしないよ。正月で、よそでは爆竹をならし、子供は花火を上げているが、あの男はなかなか帳房から五百銭を出させようとはしないだろうよ」

 春宇は話を終えると帰ろうとしました。王氏は昼食をとるように言いましたが、春宇

「もうすぐ正月ですから、仕事がとても忙しいのです。端福児が学校に入ったと聞かなかったら、ここに来ることもなかったでしょう。私は帰ります」

王氏は引き止めることもできずに、言いました。

「先生を招く話は、もう決まりだからね」

「孔家から報せがくるのを待たなければいけません。私はたまたま話をしただけです。私は実際のところ何もわからないのですからね。まあ、ゆっくりとお考えください。元宵節[3]までまだ一か月ありますからね。では失礼致します」

そう言いますと、さっさと入り口を出ていきました。王氏は端福児とともに裏門まで見送り、蔡湘が騾馬の縄をほどきました。王氏

「義妹(いもうと)に宜しく、年が明けたらまた会いましょう」

「よく伝えておきます」

騾馬に乗りますと、胡同を出ていきました。

 家に帰りますと、曹氏が尋ねました。

「どこへいってこられたのですか。南頂祖師社[4]からあなたを三四回呼びにきたのですが、あなたはどこにもいらっしゃいませんでしたね」

「義姉さんが宜しくと言っていたぞ。街で端福児が学校に入ったと噂していたから、急いで西街にお祝いを言いにいったのだ。しかし、義姉さんに会ったら、実は入学していないことが分かった。そこで、永いこと先生を招く話をして、帰ってきたのだ」

「婁先生が行ってしまわれたら、来年は誰を招くのでしょう。隆吉は勉強をしにいくのですか」

「親戚の家に二三年お世話になって、騒ぎが起きないのだから、とてもいい子だということなのだろう。しかし、俺はこれ以上あいつに勉強はさせないつもりだ」

「子供が勉強をすることができますし、お金も省けるのですから、是非いかせるべきですわ。義姉さんがお金持ちで物分かりがよくなければ、私だって初めから子供を勉強にいかせようなどと考えませんでしたよ。来年、先生を招くといっていたということですが、どなたを招くつもりなのか聞かれなかったのですか」

春宇は笑いながら

「何気なく侯先生のことを話したのだが、義姉さんはとても乗り気になってね」

「義姉さんの考えは尤もですわ。あの人は私に、食事を出さなければならない人は応対が大変だから、食糧を出すだけの人を呼ぶと言っていましたもの。食事を出すのは、いずれにしても、面倒なのですよ。侯先生を招けば、楽なものです。義姉さんが乗り気なのも尤もなことですわ」

「しかし、俺たちは学問のことは分からないから、あまり口を出すのも良くないよ」

「口を出すなというなら、何で侯先生の話をされたのですか」

「俺はどうやら余計なことを喋ってしまったようだよ」

 そもそも、この侯先生の女房は、曹氏の家の裏門の近くに住んでおり、暑い日は一緒になって話しをしていました。そして、両替屋を開いている儲対楼の新妻雲氏、同じ街の南の地蔵庵の尼の法円らと三人で、観音像の前で、義姉妹の契りを結んでいました。ですから、譚家で侯先生を招こうとしていることを聞きますと、曹氏は大満足でした。春宇は自分と侯先生とが干連襟[5]の関係であることなど知るよしもありませんでした。

 さて、十二月も過ぎ、正月がきて、十四日になりました。王春宇と同郷の人々は、旅立ちの紙銭を焼き、日が功曹[6]のところに描かれた護符を頭に頂き、肩には「朝山進香(おやままいり)」と書いた香袋を結び、青い旗を立て、銅鑼を鳴らしながら、三回「無量寿仏」と唱えました。黒ずくめの二三十人は、武当山の山頂へお参りに出掛けました。曹氏は家に残されて十日目に宴席を調え、隆吉に命じて、最初の日には、蕭墻街の義姉、侯先生の女房の董氏、両替屋の儲対楼の雲氏、地蔵庵の尼の法円を招きました。その日、婦人たちは早くから、王氏も後から車に乗ってやってきました。宴席では、姐姐[7]といったり、妹妹[8]といったり、山主[9]といったり、師傅[10]といったりして、大変仲睦まじい雰囲気でした。曹氏は義姉の家に侯先生を家庭教師として招いてもらおうと思っていましたので、すぐに王春宇が昨年した話しをもちだしました。董氏は王氏にべったりくっついて、熱っぽく頼み込みました。法円、雲氏も、代わる代わるすかしたり、おだてたりしたので、話しはすぐに纏まりました。法円は新たに頒布された大統書[11]を取り出して、いいました。

「施主様のために旅立ち、勉強始めの吉日をみてさしあげましょう」

ちょうど二十日が、「役所に出向いたり、衣冠を整えたり、親友に会ったり、勉強を始めたり、棟上げをしたり、臼を据えたりする」ための吉日で、十九日は「旅立ちに宜しい」吉日だということでした。王氏

「師傅は字をご存じなのですか」

雲氏がいいました。

「尼寺でも、大勢のお金持ちの相手をするのです、字を知らなければ、お金持ちの相手はできませんよ」

法円は王氏に向かって

「施主様、私はいつもお宅に伺っているのですよ」

「どうしてあなたとお会いしたことがないのでしょう」

「私は一年に二回お宅に伺って、五月の端午の節句には艾虎[12]を、十二月には花門[13]をお送りしているのですが、山主さまはそれを御覧になると気に入られ、腰を掛けないうちに、百銭を出して、『忙しいのでしょう。よその家に早くお行きなさい』といわれました。私も忙しかったので、奥へ行って山主様とお会いしなかったのです」

「これから私の家に来られるときは、裏通りに面した門からお入りください。表門から入られる必要はありません」

「阿弥陀仏。菩薩(さま)が引っ越しをされるときは、私も一緒に参りましょう」

食事が終わりますと、人々は別れました。曹氏は十九日に車で迎えにくることを王氏と約束しました。

 さて、王中は正月になりますと、坊っちゃんが毎日門の前で胡桃遊び[14]をしたり、花火をあげたり、提灯遊びをしたり、晩にはどうしても火箭[15]を上げようとしたりするのを目にしました。省城は人が集まるところですから、正月は賑やかで、毎日、至る所で劇が上演されていました。坊っちゃんはあっちへ行ったりこっちへ行ったりするので、王中は気が気ではありませんでした。そこで、毎日のように孔家へ行って先生になってくれとお願いしました。孔耘軒は、程嵩淑が学問が広く、経書や史書に通じている、酒好きではあるが、非凡な資質をもっている、気の合う人もいないから、酒でうさを晴らし、俗世間の目をごまかしているのだ、と考えていました。そこで、王中が何度も相談にきますと、程嵩淑のことを少し話してやろうと思い、王中に言いました。

「程さんは多分承諾してくださるだろう。一二日したら程さんからの返事をおまえに知らせよう」

 ところが、王氏は十七日になりますと、新しく雇った子供の双慶児に、帳房の閻相公のところにいって、先生を招くための帖子をもって来るように命じ、王中を曲米街の侯先生の所へいかせました。王中は狐につままれたような気分で、何だか訳が分かりませんでした。堂楼にやってきて尋ねますと、王氏から一部始終を話され、十日にすでに、食糧を出すことを説明したこと、裏の小さな空き家は、先生が住むためのものであるということを知りました。王中は心の中で三割は心配しました。侯先生が本当に良い人かは分からないと思ったからでした。しかし、七割は喜びました。坊っちゃんを管理してくれる人ができたからでした。そこで、女主人の命令に従いました。東街に帖子を渡しにいったとき、文昌巷を通り掛かりました。そこで、孔耘軒に、十九日に先生がやってきて、二十日に勉強を始めることになった旨伝えました。 これは、物をよく知らない商人が話を持ち出し、頭の切れる女房が推薦を行い、尼が日を決め、先生の女房が推薦を行ったもので、侯先生の人物も知られようというものです。

 そもそも、侯先生は、名を冠玉、字を中有といい、どこの県の人とも知れませんでした。しかし、生員で、試験で一二度二等になったこともあり、八股文ならば、「起、承、転、結」のきまりに大変詳しく、五経ならば、『詩経』『書経』『易経』『礼記』『春秋』の名を挙げることができました[16]。しかし、故郷で何やら醜態を演じ、ひどい目に遭い、借金にも追われたため、仕方なく、董氏を引き連れ、省城に逃れ、親戚で、粉屋をしている劉旺の下に身を寄せていたのでした。やがて、劉旺が同じ街の三官廟に子供を集めるように言いましたので、二年間子供を教えることになりました。しかし、誕生日に、子供を酒で泥酔させたため、子供の母親が三官廟にやってきて大騒ぎをし、面子は丸潰れ、学校は解散ということになってしまいました。劉旺が王春宇に頼んでとりなしてもらいましたが、子供の家では

「あの先生は子供をほったらかしにしている」

といったり、

「あの先生は規則を守らない」

といったりしました。二三日掛け合った挙句、とりあえず一年で授業を終わらせ、翌年は子供たちはそれぞれ別の先生につくことになりました。春宇が先日王氏に、侯先生の名前を出しておきながら、後になると深く関わろうとしなくなったのはこういうわけだったのです。ところが、何とその侯先生が碧草軒の家庭教師になってしまったのでした。

 「新米の坊さんは鐘をつきたがる」[17]という通り、先生は一日中家から出ることもありませんでした。そして、譚紹聞が以前読んでいた本で、自分が教えにくいものは、すべて捨てさせ、書店へ出掛けて子供用の八股文の本を二冊買ってきて、読み始めました。先生は紹聞に向かっていいました。

「早くから八股文を読んでいれば、去年の試験で二題の八股文の問題があったから、学院もおまえを合格させていただろう。五経を暗唱しても、役には立たぬ。お前も分かっているだろう。八股文は役に立つが、五経は必要ないのだ。婁先生だってそうだ。あの方は経書や史書に通じているということだが、あの方の合格答案を見てみるがよい。簡潔な文章で、経書や史書からの引用をしていないばかりでなく、経書や史書について述べようともしていないぞ。私は先日たまたま孔耘軒が副榜に合格したときの朱巻[18]をみたが、なかなかしっかりしたでき栄えだった。しかし、典故を用いているという難点があった。だから、上位合格はできなかったのだ。要するに、子供が勉強をする場合、必要なのは功名を得ることだ。功名を得るために役に立たないものは、読まないにこしたことはない。経書や史書を学び、大家をまねするのは、人を欺くことだ。古今の文章や学問で名を知られた人に、童生などは少しもいなかったではないか。彼らは閣部でなければ、翰林学士だった。出世をしなければ、文章は決して後世に伝わらないのだ。それに、彼らの文章は皆あっさりとしたもので、経書や史書とは何の関係もない。有為の学力を、わざわざ功名と関係のないところに費やす必要はない。わしが買ってきた二冊の八股文を、何度も読んで、その通りに真似すれば、功名は必ず得ることができよう。おまえの顔を見てみますと、お前のお祖父さんやお父さんが功名を得られていることが分かる。しかし、お前は眉が薄いから、まだ独身だろう。魚尾宮[19]がやや低いから、妻は無理にでも娶るのがいいだろう[20]。子や娘は将来出世するだろう」

さらに紹聞に尋ねました。

「おまえは生まれた年月日と時間を覚えているか」

「鼠年で、五月の端午の生まれですが、生まれた時間は存じません」

侯中有はちょっと考えますと、つぶやきました。

「鼠とは子ということだ。五月は午だ。子午はどちらも桃花殺入[21]で、もともとは邪淫を司るが、文人にとっては才華を司るものなのだ。しかし、時間が正確でないかもしれない。勉強が終わったら、お母さまに尋ねて、はっきりと話をきき、干支を調べておくのだ」

さらに、紹聞に尋ねました。

「お前が住んでいるこの家の宮星[22]の組み合わせを、先生方に見て頂いたか」

「存じません」

中有はちょっと首をふりますと、更にいいました。

「家は生命を養うところ、墓は魂をおちつけるところだ。家のことはまあいいが、お前のご先祖さまの墓はどこにあるのだ」

「城外六七里の所にあります」

「晴れて暖かくなったら、ちょっと見にいってみよう。風水家は、みんな宿無しで、文章をわきまえておらぬ。卜則巍の『雪心賦』[23]、劉伯温の『披肝露胆経』[24]など、彼らは読みこなせないだろう。二十四山[25]の山の向きや水の流れなど、はっきりと分かるものか」

 端福児は勉強が終わりますと、そのことをそのまま話しました。王氏はとても喜びました。そして、食事の後、王中をよび、二番目の門の外の厦房[26]に杯をおき、紹聞を勉強部屋にいかせ、先生を呼び、八字[27]を見てもらい、裏の建物に腰掛けてもらうことにしました。

 紹聞は言われた通りにしました。まもなく、中有は紹聞に案内されて二番目の門の外に行きました。紹聞は足を止め、先生を先に厦房に入れました。中有は二番目の門の中にある建物を指さしますと、尋ねました。

「部屋は幾つあるのだ」

紹聞が答えられないでおりますと、趙大児が漆塗りの椅子を運んで出てこようとしていました。中有は女が出てこようとして、中に入っていったのを見ますと、

「ずいぶん広い家だな」

王中が酒を酌み、紹聞が杯を手にとりました。三杯も飲まないうちに、王氏が二番目の門から出ていきました。趙大児は椅子を背負って、外におきました。中有は酒を飲みながら、窓の外で人が動いているのを見ますと、主人の夫人であると考えました。紹聞がいいました。

「酒が温かくないようですね」

「酒はもういらない」

そして、紹聞に生まれた年月、日時を尋ねました。中有は横三寸、縦四寸の、小さな黄色い表紙の『百中経』[28]をめくりました。そして言うには

「七日は芒種[29]だから、おまえは四月生まれに属する。これなら子午の相衝[30]はない。衝は破壊をつかさどるのだ。以前おまえの顔を見たが真ん丸だったので、八字に問題はないと思ったが、やはりその通りだった。これは天地の間の誰もが信じている道理で、絶対に変わることのないものだ」

更に日時と干支を調べますと、大声で

「これはいい。これこそぴったりの八字だ。これが本当の飛天禄馬[31]の格だ」

といい、学堂[32]とは何か、貴神[33]とは何かを、逐一詳しく話しました。次に運行[34]をみますと、いいました。

「お前は順行運[35]で、五月の節句には二日隔たっており、一歳運ということになるから、一歳、十一歳、十二歳のときがとても良い運気だ[36]。来年、再来年と、年運はますます良くなるから、きっと学校に入ることができるだろう。十六歳になったら、たとえ連続合格[37]とまではいかなくても、二十二歳までにはきっと進士に合格するだろう。その後はずっと幸福だ。私はお前の先生なのだから、わしがお前にお世辞をいっている訳はない。見たところこれは一、二品官になり、妻、財産、子供、地位ともに恵まれる運勢だ。それに、お父さまもお母さまも長生きされるぞ」

 この話を聞きますと、端福児はすっかりのぼせてしまい、自分が左相[38]の甘羅、国初の解縉[39]であるかのような気がしてきました。王氏は大満足で、喜びのあまり狂わんばかりでした。そこで思わず窓の外に向かっていいました。

「先生はとても見る目がおありです。息子は良い運勢ですが、どうか宜しくご指導願います」

中有は立ち上がって尋ねました。

「こちらはどなたかな」

紹聞

「母です」

「お母さまでしたか。お見それいたしました。ご挨拶もいたしませんで」

「いいのですよ。この子は骨が折れますでしょう」

中有は席について

「お子さんのこの運勢なら、お母さまは将来一品の誥封[40]を受けられるはずです」

「丁寧に指導して下されば、先生にも幸せがもたらされることでしょう」

そして、王中に命じて酒に燗をつけさせ、自分は趙大児と一緒に奥へ引っ込んでいきました。

 王中は先生のために酒をつぎました。中有

「王中、お前の地閣[41]はとても四角いから、いずれ出世することだろう。紹聞がお役人になって金を儲けたら、お前を小役人に取り立ててくれるだろう」

王中は少しも返事をしませんでした。先生は酒を飲んで話をし、夜の勉強が終わりますと、ようやく碧草軒に帰っていきました。王中は先生を目で見送りながら、ひどく腹をたてました。これぞ、

昨年は三官廟にて面子をつぶし、

本年は碧草軒にて人相見。

龍のやうだとおべんちやら、

おそらくは夢の中より来し人ならん。

 王氏は、この時以来、侯先生に心服し、夜に彼と会うのを心待ちにしました。そして、紹聞に向かって

「都のお父さまから手紙がきて、お前の義父さんを先生にしようとしたが、私と叔父さんが侯先生を招くことにしたんだよ。お父さんだって帰ってきたら、喜んで下さるよ」

翌日の午後は、墓地を見て、陰陽の話をしましたが、王氏は正気を失ったかのように、あれこれ騒ぎました。侯先生は抜け目なく気をきかせては、王氏を悦ばせました。王氏はそのたびに心をうたれ、先生は上は天文に、下は地理に通じている、このような人は、天上天下を探しても見当たらないだろうと、真面目に信じ込みました。紹聞も、婁先生が厳しく、少しも自由にさせてくれないと思っておりましたので、自由な侯先生の方が良いと考えました。侯先生の足場はしっかりと固まり、他の人はどうすることもできなくなりました。そのため、侯冠玉は碧草軒に、その後三年間とどまることができたのでした。子供のために師を選ぶのは、とても大事なことです。ですから、孝移は臨終の時に、遺言をしましたし、婁潜斎、孔耘軒は、どちらも孝移の友人でしたが、紹聞が勝手なことをするのを許さなかったのでした。しかし、これは後の話しですからお話し致しません。

 さて、侯冠玉は最初の一か月は、毎日書斎におりました。やがて、隆吉は父親がお参りに出掛け、家にいなくなりましたので、店で帳簿をつけなければならなくなりました。春宇が帰ってきますと、店員たちは隆吉が賢く、帳簿をつけるのがうまくなったと褒め、一年に十二両の給料を出そうといいだしました。春宇は商人でしたから、息子をさっさと商人にしてしまったほうが得だと考え、勉強をさせるのをやめることにしました。端福児は一緒に勉強をする仲間を失い、勉強に張り合いがなくなりました。すると、侯冠玉はだんだんと街に出るようになりました。初めは店の帳場で無駄話しをしていましたが、やがて、廟にいって芝居を見るようになり、どの女形が若いとか、どの女形が垢抜けているとか言いだしました。更に、酒屋に借りを作り、賭博場にも借金をし、媒酌人をしたり、占いをしたりしました。書斎には誰もいない先生の席が残されました。これはどういう訳でしょうか。そもそも書物を理解していない人は、机に座ると、気持ちがくさくさし、心の中に真の楽しみをもっていない人は、下世話な事を耳にすれば、すぐに心がうきうきしてしまうものなのです。侯冠玉がこのような事をしだしたのは当然のことでした。端福児は楽しくなり、先生にしたがって縁日に出掛けたり、物見に出かけたりしました。そうでないときは、家の中でさんざん遊び回りました。王氏は安心しました。子供が読書をして病気になるのを心配することがなくなったからでした。王中だけは、心の中で焦りましたが、救う手立てはありませんでした。これぞ、

一隻の早船は岸辺より離るるも、

たちまちに波止場にてとどまれり。

櫓の遅く曳綱の緩みしは何故ぞ、

舵取りの以前とすつかり替はりしがため。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]戦国時代、秦の人。十二歳で宰相の呂不韋に仕えて趙に使いし、上卿に封ぜられた。王春宇が「宰相になった」と言っているのは誤り。『史記』巻七十一に伝がある。

[2]道家の奉ずる神。天官、地官、水官。

[3]旧時、中国では、一般的に元宵節(一月十五日)から子供の勉強を始めた。(例えば、『儒林外史』第二回を見よ)。

[4]南頂とは湖北の武当山、道教の聖地。南頂祖師社とは旧時中原一帯の民間で南頂参りをするために結成された結社のこと。

[5]義理の相婿同士。

[6]叢辰の名。十二月将の一。日と月とが十月に寅宮に於いて相会することをいう。

[7]年長女性に対する呼び掛け。

[8]年少女性に対する呼び掛け。

[9]僧から俗人に対する呼び掛け。

[10]僧に対する呼び掛け。

[11]太史院使劉基が作った暦。明代を通じて用いられた。

[12] よもぎの葉をきって作った人形。虎に乗った形をしている。小さな釵につけ、それを女が鬢にさす。端午の節句に贈物とする。清富察敦崇『燕京歳時記』「毎至端陽。閨閣中之巧者、用綾羅制成小虎及粽子…以彩綫穿之、懸于醂頭、或繋于小児之背」

[13]部屋の入り口に飾る絵のこと。門画。

[14]胡桃五つを使ってするお手玉遊び。

[15]矢の形をした打ち上げ花火。

[16] 「五経に関しては、その名前しか知らなかった」という皮肉。

[17]原文「新来和尚好撞鐘」。初めはどんな人でも勤勉だということ。

[18]郷試、会試の合格者の履歴、答案などを印刷した小冊子。

[19]相術の用語で目尻のことをいう。別名を奸門、妻妾宮ともいう。

[20] 『古今図書集成』引『神相全編』に「七、妻妾:妻妾者位居魚尾、号曰奸門……奸門深陥、常作新郎」(七、妻妾宮:妻妾宮は魚尾に位置し、奸門といい…奸門が深くくぼんでいると、縁遠い)とある。

[21]桃花殺とは凶神の名。別名を咸池、桃花星ともいう。

[22]北斗の第一から第四に至る四つの星をいう。

[23]旧時流行していた風水家の著作の一つ、卜応天の著作であるとされている。卜応天は字を則巍といい、唐の人。

[24]旧時流行していた風水家の著作。劉基の著と伝えられる。劉基は字を伯温と言い、明初の人。

[25]堪輿家の用語で、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、甲、乙、丙、丁、庚、辛、壬、癸、乾、艮、坤、巽のこと。この二十四文字を用いて方角を表す。

[26]正房の前方、左右両脇にある建物。廂房のこと。

[27]出生年、月、日、時に干支を配したもの。

[28]算命の本と思われるが未詳。

[29]二十四節気の一つ。

[30]星命学では子午、丑未、寅辰、卯酉、辰戌、己亥が相衝の関係にあるとされる。たとえば、子の年、午の月に生まれた場合、相衝があるということになる。

[31]星命家の用語。四柱の中に不吉な神がいるが、凶事をなすことができないため、禄を得る相。『三元通会』飛天禄馬参照。

[32]相術の用語で、耳の近くをいう。

[33]六壬占の用語。『大六壬類集』貴神起例参照。

[34]八字から算出される年運。

[35]陽の歳(十干が甲、丙、戊、庚、壬)に生まれた男性は順行運とされる。鄭小江主編『中国神秘術大観』三十二葉参照。

[36]鄭小江主編『中国神秘術大観』によれば、順行運の人の年運を算出するときは、@生まれた日の後の、一番近い節日までの日数を算出し、A三日を一歳とし、あまりの日を四ヶ月とする。たとえば、順行運の人の誕生日と節日が足かけ三日隔たっていれば、その人は一歳運となり、下一桁が一の歳に大運が訪れることになる。本文で、侯冠玉は五月七日生まれで順行運の譚紹聞を、五月の節句と二日隔たっていることを理由に一歳運としているが、これは誤り。

[37]秀才から挙人、挙人から進士へと、春秋の試験で連続合格すること。

[38]左丞相の略。

[39]明初の吉水の人、若くして進士に合格したが、年少だったため、家に帰って勉強を続けるように命じられた。後に翰林学士になった。『明史』巻百四十七に伝がある。

[40]五品以上の官員とその先祖および妻に、皇帝の命により栄典を与えること。

[41]相術の用語。地角、奴僕宮ともいう。頬骨の下の部分。

 

 

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