第四十一齣 顕聖(伍子胥の霊が現れる)

(伍員が登場)浩蕩[1]たる君恩は深きこと海のごと、鴟夷[2]は漂ひ浮沈に任せり。波は寄せては返せどもなどかは心なかるべき。孤臣の不二の心をば洗はんとせり。

このわしは剣を賜わり自殺をせしも、玉帝はわが忠義をば見そなはし、わが英霊を顕彰し、銭塘江の神に封ぜり。白き馬、(しろ)(はた)、雪の袍、銀の(よろひ)で、波に従ひ上下して、(うしほ)に依りて往来す。今聞けり、わが兵は戦に敗れ、越将は呉に入りたりと。とりあへず胥門に坐して、敵兵の到るを待たん。風を(はや)くし雷を震はせて、石を飛ばして(すな)を揚げ、かの者が拝礼しなば、道をあくべし。これぞまさしく、平素より勇烈の多ければ、死後、神霊は現はれん。

(頭を傾け、高みに腰掛ける。范蠡、末が人々を率いて登場)将官たちよ、聴くのだ。わしはこのたび、呉軍を追いかけ、松陵を通過している。夜を徹し、城内に殺到するのだ。

(人々)お二人に申し上げます。遥か彼方の胥門の上に神が見えます。目は火のよう、頭は車輪のようにございます。髯、髪は四方に伸びて、光は数里に発しております。進むわけにはまいりませぬ。

(范蠡、文種)わしが見に行こう。おや。本当に神がいる。あな恐ろしや。

胥門城は閻羅殿に似

神通力もて姿を現す

頭の大きさ車輪の如く

(まなこ)の光は飛電のごとし

合唱

進まんと(ほり)せども

驚愕に堪へず

いつたい何の神やらん

堂々と真昼に姿を現せり

(奥で銅鑼を鳴らす。范蠡、文種、人々が倒れ跪き、城の上に向かう)伍相国さまの御霊でございましょう。どうかお願いいたします。大いなる呉の老相国伍公さま、わたくしは君命を奉り、この地にやってまいりました。何とぞ道をおあけ下され。

(伍員)范大夫どの、あなたは主君をお助けし、すばらしき功業をなしとげられた。

(范蠡)滅相もございませぬ。

(伍員)文大夫どの。あなたは国家を支えられ、すばらしき功業をなしとげられた。

(文種)滅相もございませぬ。

(伍員)かねてより、御身らがわが国を破ろうと思うておいでになったので、わが首を西門に置き、越軍の呉に入るのを見ようとしたのだ。ただ、わしはこのことを見るに忍びなかったので、風雷をなし、御身らの軍を驚かしたのだ。だが、これは天の命。阻むべきではないだろう。御身らは東の門より入られよ。わたしの居場所を侵してはならぬ。はやく行かれよ。はやく行かれよ。

(伍員が退場。范蠡、文種)かような奇事が起ころうとは。これからすぐに東門を通っていこう。これぞまさしく、精霊はまさに死なざるべし、面貌は厳として生くるがごとし。

(退場)

(呉王夫差が西施を連れて登場。呉王夫差)ただよき夫婦のみが残れり。天地は暗く、道に迷へり。

(西施)言ふなかれ、呉宮にて恩沢を独占せしと。夢魂はつねに苧羅村の西にあり。

(呉王夫差)西施よ、見よ。陰風は惨惨として、殺気は騰騰。越兵は東門より入り、はや宮中に入りたり。いかにせばよかるらん。

(西施)大王さま、ご安心を。この間、姑蘇台が焼かれたときも、わたしは彼らに命令し、退散をさせました。今ここで怯えることはございません。こっそりと宮中の北門を出て、とりあえず陽山に行き隠れなさいまし。敵兵が宮中に入ってきたら、わたくしは彼らに退散するように命じましょう。そのときに大王さまは宮中にお戻りになれば宜しいでしょう。

(呉王夫差)それではさらばだ。西施よ。わしは北門外でじっとしていよう。わしをたばかってはならぬぞ。

(西施)滅相もございません。

(呉王夫差)これぞまさしく、とりあへず難を逃れて、程なくたがひに楽しまん。

(退場。西施)園中の樹林の下にしばし立ち、彼らが入ってくるのを待とう。范大夫さまはわたくしにお気付きになられるだろうか。

(范蠡、文種が人々を率いて登場)将官たちよ、聴いてくれ。わしは今、道をあけられ、はやくも東門へと入った。これよりは宮中に突入しようぞ。

(人々)お二方に申し上げます。遥か彼方の樹林の下に神女がおります。ひらひらとして驚鴻のごと、ゆらゆらとして游龍のごと。ぼんやりとして行ったり来たり、姿がはっきりいたしませぬ。進むわけにはまいりませぬ。

(范蠡、文種)見に行ってみよう。おや。本当に神女がいる。

(范蠡、文種)

樹林の中に観音院[3]あり

儀容(かんばせ)は世にも稀なり

夭矯[4]として游龍[5]のごと

蹁躚[6]として飛燕に似たり

(合唱して前に進む。奥で銅鑼を鳴らす。范蠡、文種、人々が驚く)ただ見るは、一陣の清き風、異香は人を襲ひたり。はなはだ似たり、西施美人の(かんばせ)に。

(人々が挨拶をする。西施が返事をする。范蠡、文種)西施さま、主君の命を奉り、兵を率ゐてこの地に至れり。呉王は今何処にありや。

(西施)范、文の大夫さま、お二人の忠義によって、国の仇に報いることができました。呉王は陽山へと逃げました。

(范蠡、文種)それならば、お前を陣中へと呼んで、まず王さまに会わせよう。

(西施)これぞまさしく、三載にしてすでに飛びたり他国の夢、一朝にしてまたも故郷の人となる。

(退場。范蠡、文種)将官たちよ、呉王はすでに陽山にあり。我らは徹夜で追ひかけて、奴を殺さん。これぞまさしく

矢を用ゐるに長弓を用うべし

弓を挽くなら強弓を挽け

人を射るにはまず馬を射よ

賊を捕へば必ずや王を捕らへよ

 

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]宏大の意。

[2]革袋。伍子胥は死後、革袋に死体を入れられ、長江に投棄された。第三十三齣参照。

[3]観音を祀った寺。

[4]曲がったりのびたりするさま。

[5]泳ぐ龍。

[6] くるくると舞い踊るさま。

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