第三十六齣 飛報(間者が呉王に急報を伝える)
(呉王夫差、伯嚭が登場)
斉国は服従したり
三晋はいかならむ
これよりは転戦し、黄河を渡らん
(伯嚭)
諸侯はすべて命に従ふ
誰か勝らん、このわれの功の多きに
凱歌を奏で、長歌を発せり
(相見える。呉王夫差)太宰よ、わしは兵を率いて北征し、斉国をすでに服従せしめた。これよりはわが魯公の弟[1]と晋公午[2]を黄池[3]に会し、斉桓晋文[4]の故事に倣おうと思う。昨日は黄河を渡り、わが軍は晋に臨んだ。盟主となって、諸侯に覇をとなえようと思うが、太宰はどう思う。
(伯嚭)呉は太伯、晋は唐叔の後裔にして、ともに姫姓にございます。わが国は尊ければ、盟主になるのは必ずや我々であるはずです。盟主の地位を何人も奪おうとはいたしますまい。
(人々が間者に扮して登場)奔馳すること稲妻のごと、倏忽たること流星のごと。お知らせにございます。
(呉王夫差)どこから来たのだ。報告とは何事じゃ。
(人々)本国からまいりました。戦の知らせにございます。越王の勾践が兕甲十万、君子六千を率い、五湖を出て、三江に入り、すでに檇李[5]を通り過ぎ、まっすぐ姑蘇にやってきました。将兵の勇猛なありさまは、一言では申し尽くせませぬ。
(呉王夫差)そうであったか。
山河に囲まれ
威は江東を圧したり
越王の勾践は、その昔、困窮し
このわしにつねに従ひ、頼りなきありさまなりしが
なにゆゑ兵戈を動かしたるや
なにゆゑ兵戈を動かしたるや
(人々)
秋風の中 剣戟は崆峒[6]に倚り
兕甲十万は喚き叫べり
六千人の君子は従ひ
兵戈はびつしり並びたり
轅門は長き刀と大いなる弓ばかりなり
人は虎、馬は龍にぞ相似たる
(伯嚭)先日、王さまは太子さまと王孫彌庸に、精兵を率い、江口で敵兵を阻むよう、お命じになられましたが。
(呉王夫差)
息子は勇猛
精兵を率ゐつつ、江上に闘へり
さらに彌庸も援護をし
はなはだ豪強
賊を殺して戦功を収むべし
役に立たざることのあらめや
役に立たざることのあらめや
(人々)大王さま、申し上げるまでもないことでございますが、太子さまはお気の毒なことでございました。
(呉王夫差)どういうことだ。
(人々)
ただ一人、転戦されて先鋒となり
一本槍と単騎にて鞚を飛ばし[7]
おん自らは矢に中り、深手を負はれり
(呉王夫差)そのときどうしたのだ。
(人々)取り急ぎ兵を退き、砦に帰還いたしました。軍馬は僅か二十分の一となり、その上すべてが刀と矢で傷ついておりました。逃げて砦に戻ったものの痛みには堪えられませぬ。敵兵は暗い夜に門番を斬り、陣中に侵入し、わが将兵はすっかりいなくなりました。
(呉王夫差)それならば、太子は奴らに捕らえられたのか。
(人々)もちろんにございます。捕らえられ、殺されたことでしょう。
(呉王夫差)あな悲しや。
(伯嚭)王さま、この者はでたらめを申しておるやもしれませぬ。そのようなことはございません。
(呉王夫差)間者よ、もう一度たずねよう。
(呉王夫差)
姑蘇台は雲に聳えて
あまねく高き塀を廻らす
わしの西施がそこにおるのじゃ。
佳人は日夜その中に住む
美人は烽火を恐るるが
兵士は騒ぎたるにあらずや
兵士は騒ぎたるにあらずや
(人々)大王さま、申し上げるまでもないことでございますが、姑蘇台はすっかり焼き尽くされました。
(伯嚭がふざける)慌てるな。また造ればよい。
(人々)大王さまの龍舟は、みな奪われてしまいました。西施さまが城に登られ、越兵に騒ぐなと、命令をなさったお陰で、越兵は海路を経て長江に入ったのです。
(人々)
姑蘇台は焼け、空赤く
人は驚き、怯えたり
みな一場の春夢となりぬ
西施が功を建てしがために
海路を通り、長江に入る
(呉王夫差)西施のお陰ということだな。さらに聞くが、敵は海路を経て長江に入り、何をするつもりなのだ。
波涛は沸き立ち
遥かなる大海に風強し
姑蘇は遙かに、道は通ぜず
長江に来たりなば、必ずや相逢はん
周に進貢せんとせるらん
周に進貢せんとせるらん
(人々)大王さま、まだご存じないのですか。進貢などはいたしません。奴らは長江に入り、わが軍の退路を断とうとしているのでございます。
敵方は兵を擁して江上を遮れり
もし遭はば必ずや干戈を交へん
范蠡を殿軍に、文種を先鋒にせり
帰路は断たれて逃ぐるにあてなく
呉を望めども、万重の雲入る山々ばかりなり
いかでか囲みを抜け出でん
(呉王夫差)間者よ。すっかり分かった。有り難う。お前に元宝一個をやるから、人には言うなよ。
(人々)大王さま、有り難うございます。
(退場。呉王夫差)太宰よ。どうしたらいいだろう。その昔、勾践を釈放せよといったのはお前だぞ。斉を征伐せよといったのもお前だぞ。公孫聖、伍相国を殺せといったのもお前だぞ。どうしたらいいだろう。
(伯嚭)王さま、これらはすべて王さまおん自らのお考えです。私はちょっとお勧めしたにすぎませぬ。王さまがあの時ご承知なされなければ。私とてどうすることもできませんでした。
(呉王夫差)轅門の外に誰か来たようだ。晋国の使者が来たのだろう。先ほどは、陣中に将校が七名いたが、間者の話を聞いていたから、必ずや情報を漏らすであろう。太宰よ、奴らを全員殺してくれ。
(伯嚭が返事をして退場。晋の大夫董褐が登場)今日の朝、晋王さまの命を受け、急いで呉王の陣に至った。わしは晋の大夫董褐じゃ。王さまの命を受け、呉王に見えん。すぐに入って構わぬだろう。
(中に入って会見する)呉の大王さま、晋国の下大夫董褐がまいりました。
(呉王夫差)董大夫どの、挨拶は抜きになされよ。こちらへ何をしにこられた。
(董褐)本国の主君の命を奉じて、会盟の期日を決めにまいったのです。あわせていずれの国が盟主となるかを相談しにまいりました。
(呉王夫差)大夫どの、呉は太伯の後裔で、晋は唐叔の末裔にございます。同じ姫姓の国とはもうせ、わが国は長兄の尊きにある。血を歃るときは、呉が最初、晋はその次、魯はそのまた次となるべきじゃ。期日は明日の昼としよう。ぐずぐずしてはなりませぬ。
(董褐)謹んで承りました。主君に報告いたしましょう。(退場)
(呉王夫差)王孫駱大夫はどこにおる。
(王孫駱)王さま、王孫駱にございまする。
(呉王夫差)大夫よ、過日、公孫聖、伍相国の言葉を聞かなかったが、本日果たして勾践が呉に侵入し、太子を殺し、姑蘇台を焼き払った。敵は海路を経てまっすぐ長江を進撃している。わしは今兵を擁して晋城の郊外におり、帰りの路ははなはだ長い。会盟をせず帰るべきか、会盟をして晋を立てるか。
(王孫駱)王さま、会盟をせずに帰られれば、越人はますますわれらを臆病と思いなし、必ずや全力をあげ、わが帰路を断つことでしょう。斉、宋も必ず我々が敗れるものと考えて、両岸から攻撃してくることでしょう。そうなれば我々に生きのびる道はございませぬ。会盟し、晋を立てれば、晋は諸侯に指図して、必ずや我々を天子に謁見させましょう。呉に帰るのはますます遅れてしまいます。真夜中に兵士と馬に食事をとらせ、こっそりと前進し、晋城に行き、勝敗を決められたほうが宜しゅうございましょう。さすれば必ず諸侯に指図することができ、動きに余裕が生まれるはずです。
(呉王夫差)大夫の計はすばらしい。今すぐに各陣営の将兵たちに命令し、二更に食事を作らせて、三更に集結させよう。人には枚[10]を含ませて、馬からは鈴を取り外し、弓に弦を張り、刀を鞘から出し、晋城に殺到させよう。ぐずぐずするのは許さずに、遅れる者は斬るとしよう。
(王孫駱が命令を伝える)これぞまさしく、金鼓[11]は道をすばやく進み、旌旗は河を背にして並ぶ。一夜の苦しみをな辞しそ、身を万全に保つためには。