第三十五齣 被擒(太子友が捕らわれる)

(太子友が二軍[1]を率いて登場)

わが身は危ふく 国は危ふし

わが父は遥かにおはせば いかで知るべき

激闘せんと思へども 群臣はいまだ揃はず

逃亡せんと思へども 国家はすでに滅びたり

高みより試みに一臨すれば、敵騎は城を見下ろして、風雲の色は分からず。天地の心はいかで知るべき。陣は連なり、江月近く、戦は苦しく、陣雲暗し。日夕ふたたび楼上にあり、時に聞く軍楽の音。わしは呉の太子友。父王の命を受け、江口を守り、越に備へり。誰か知るべき、わが国の精鋭は、ことごとく征きて斉を伐ちたり。このわれに老弱の万人を付すといへども、百の兵士も一に当たらず。越王は自ら兕甲[2]十万、君子[3]六千をば率ゐ、直ちに太湖を渡りたり。このわれは連戦連敗、しばしば飛ぶ矢を身に浴びて、身には深手を被れり。(たいこ)は止んで力は果てて、矢は竭きて弦は断たれり。戦は終はり骨を砂礫のまにまに晒し。降伏し、夷狄の地にて身を終へんとす。今や陣には三四百人を存したるのみ。厳重に囲まれて、一命の尽きんとするを目の当たりにす。聞くならく、伍相国はすでに自尽を賜はりしとか。わが身も何ぞ惜しむに足らん。父上は外国(とつくに)にあり、帰るは難く、母上は宮中にあり、憂へ畏れり。哀れなり、哀れなり。わが呉は、太伯以来、今日まで、一朝ならず。

千年の故国

百世の洪基[4]

守備するは江東の地ぞ

奸臣は信ぜられ

忠臣はことごとく誅殺せらる

つゆも思はず 国の傾き危ふきを

ひたすらに西秦に抗ひて

東斉を滅ぼして

三晋を収めんとして

山河を見れば千点の涙は盈てり

わしは今、進まんとして逡巡し、退かんとするもいづくにゆかん。

(奥から喊声が聞こえる。人々が越兵に扮して登場)

重重[5]と四方には干戈を置きて

団団[6]と八方に虎狼の威あり

陣地をくまなく巡行す

囲みを破らるるなかれ

(合唱)

銅鑼の音は揃はんとして

太鼓の音は起こらんとせり

過失があらば

たちまち来たりて汝を殺さん

文元帥の命を奉じて、前軍は注意して東南、西南両方面を守備すべし。呉の太子を逃がした者は、正将も、副将もことごとく斬に処すべし。

(退場。太子友)こたびのことは父上が自ら招きたまひたることなれば、このわしも父上をお構ひもうすことはかなはず。ただし社稷と宗廟の、一朝にして滅亡せしは、哀れむべきなり。

高山に雲暗く

社稷は煙に霞みたり

目に満つる凄涼の景

人をしていかでか痛悲せざらしむ

本日は、

老いたる母の独り身にして

父上の遠きにおはすを省みず

天涯の孤鴻(おほとり)の北海に還るを目にし

手紙(ふみ)を書き、送らんと(ほり)すれど

山河は遥けく、遠ければ、寄することこそ難からめ

頃刻にして幽鬼とならん

白骨は乱れ重なり

血に汚れたる遊魂はいづれの日にか帰るべき

(奥で再び喊声がする。人々が登場)

江に沿ひ 整整と車騎は並びて

連山の、処処に旌旗は連なれり

喊声は天地(あめつち)を動かして

兵士(つはもの)の声は(かみ)にぞ似たるなる

(合唱)

范元帥のご命令だ。しんがりは注意して東北、西北両方面を守備するのだ。呉の太子を逃したものは、正将、副将を問わずことごとく斬首するぞ。

(退場。太子友が北に向かって拝礼する)

父上さま、

ご恩にはいまだ報いず

母上さま、

いづれの日にか慈幃(みもと)[7]に向かはん

伯嚭め。老いぼれめ、わしは死んでも、

怨みの心は死ぬることなく

地の底までも追ひかけん

将校たちよ。辺りでは何更の太鼓が鳴っているのか。

(人々)辺りでは太鼓や角笛がしきりに鳴っておりますが、何更なのかは分かりませぬ。

(太子友)どうして急に妖風が吹いてきたのだ。越兵が陣中に侵入してきたのだろう。一陣の怪風は吹き、半更(まよなか)の陣営に残月は凄凄たり。鐘楼に鼓角[8]の乱吹するを聞く。眺むれば陣門に殺気は満てり。

(人々が登場)連日の戦闘で呉軍は殺し尽くされた。陣には数百人もおるまい。われらは今から前進し突入しよう。

(太子友を見る)

若さま、今すぐ投降なさるべし。

(太子友が剣をもって出てきて戦う)勾践め、わが父に殺されなかった恩があるのに、背くとは。降伏などするものか。

(人々が太子友の剣を奪う)わが越にもいとも小さき石室があり、数頭の痩馬がおりまする。若さまにはそちらにおいでくださいまし。

(太子友)

頃刻にして人の世を遠く離れて

黄泉は夢にても帰するは難し

人の世の海角天涯にさへ及ばず[9]

(人々が太子友を捕らえて退場し、松明をもって登場)われらは勝ちに乗じて前進だ。まずはかの姑蘇台を焼き払おうぞ。

(台を焼く。西施が城の上に立つ)越国の兵たちよ、聞いておくれ。わらわは越の西施です。今は呉国の夫人となっておりまする。范、文二大夫に伝えておくれ。呉の大王はここにはいませぬ。私を(おびや)かさないでおくれ。とりあえず兵を収めて帰っておくれ。

(人々がひざまずく)西施さまの仰せとあれば、とりあえず両将軍に報告をいたしましょう。これぞまさしく、しばし聴く、城の上なる佳人の(めい)、しばし倒せり、陣中の大将の旗。

(退場)

 

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]一万二千五百人から編成される軍隊をいう。

[2]水牛の皮の鎧を纏った精鋭。

[3]越王の親衛隊。

[4]国家。

[5]重なりあうさま。

[6]丸く集まっているさま。

[7]母親のいる帳。母親の居場所。

[8]太鼓と角笛。

[9]以上三句、牢獄に押し込められ、人の世から隔絶される自分の境遇を歌う。

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