隨何賺風魔蒯通雑劇
第一折
（冲末が蕭丞相に扮し、従者を連れて登場）
（蕭相の詩）秦府[1]の図書を世人は収めず[2]、漢家[3]では刀筆のわれぞ優るる[4]。請ふらくは見よ、法律に三章あるを、第一の功臣は酇侯[5]ぞかし。
わたしは蕭何、本貫は豊沛の者。漢の天子を輔佐して功あり、官は丞相の職を拜せり。朝廷に、ただ一つ、安心できぬ事があり。わが漢に、三人の大功臣あり。第一は韓信、第二は英布、第三は彭越なり。今、韓信は斉王に封ぜられ、英布は九江王に封ぜられ、彭越は大梁王に封ぜられたり。いかんせん、韓信の軍権ははなはだ重く、雄兵は数十万、将軍は百余名あり。諺にいふ「太平は将軍が定むるも、将軍の太平を見るを許さず」と。韓信はもとはわたしが推薦せしもの、あのものは壇に登つて将軍に任命されて、五年で、項を除いて、劉を興して、大業を成しとげり。見しところ、あのものは尋常の輩にあらず。楚の霸王すら、あのものに滅ぼされたり。まして今、軍権を手に持ちたれば、もし悪しき心を持たば、漢の天下を窺ふは、手を翻すがごとくなるべし。これはみづから引き立てたるを、みづから葬り去るといふ、裏切り行為にはあらず。わたしは推薦せし者なれば、後日、事件が起こりなば、きつとわが身は罪せらるべし。それゆゑに、わたしは昼夜考へて、小細工を施さんとぞしたるなる。聖上に上奏し、まずあのものの部下を除いて、しかる後、あのものを排除して、ながく身後の患へを消さん。先日は、武陽侯樊噲と、この件につき相談をせしかども、あれやこれやとぐづぐづとして、決することはあらざりき。部下よ、樊噲を呼べ。
（従者）心得ました。樊噲さま、お入りください。
（浄が樊噲に扮し登場、詩）鴻門を踏み破り、勇烈多く、坐にありし項王も転げおちたり。一斗の美酒と一塊の肩肉を賜はりて、かつ醉ひ、かつ飽き、まるまる半月横臥せり[6]。
それがしは樊噲といい、沛県の者、武陽侯の官職を拝している。漢の天下を立ててこのかた、八方は平静で、四海は安寧。本日は何事もない。それがしは、もとは屠殺屋、本領を忘れられずに、わたしの家で昔の技を練習し、犬を殺していたところ、丞相の部下が呼びに来た。何事だろうか、行かねばならぬ。はやくも着いた。部下よ、取り次げ、樊噲が到着したとな。
（従者が知らせる）丞相さまにお知らせします、樊噲さまが入り口にいらっしゃいました。
（蕭相）お通ししてくれ。
（従者）お入り下さい。（会う）
（樊噲）丞相さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（蕭相）樊将軍どの、このたび御身を呼んだのは、ほかでもない。韓信の一件のためなのじゃ。昔はわたしがあのものを推薦したが、あのものは今、軍権ははなはだ重く、悪い心を起こしたら、大変なことになるであろう。多くの功臣たちの中では、御身のみが陛下ともっともお親しいから、きっと苦楽をともにするお心をお持ちであろう。それゆえに、御身を呼んで相談をするのじゃよ。
（樊噲）丞相どの、以前も申し上げましたが、韓信は淮陰の餓夫にございます。鴻門の会で主君が遭難したとき、それがしはたちまちに鴻門を踏み破り、中に入ったのでございます。項王はわたしの気概と威厳を目にし、酒一斗、生の豚肩肉を賜わり、わたしはそれを平らげました。項王は驚いて、目と口を大きく開けて、動けなくなったため、主君はようやく何事もなく、帰還することができたのです。その後に、壇を築いて将軍を任命するということになりましたので[7]、元帥になるのはきっとわたしだと想いましたが、丞相どの、御身はきっとそう思われたことでしょう[8]。
（蕭相が笑う）それもおかしなことですな。
（樊噲）やすやすと餓えた男が元帥に任じられたのでございます。わたくしを任じていれば、五年たらずで楚を滅ぼして、赤子のように項羽を捕らえていたことでしょう。今日、大事はすでに定まりましたから、まあ仕方ございますまいが、あの韓信は、鶏を縛る力さえございませぬ。淮陰の市場で二人の少年が股下を潜り抜けろといいますと、あのものは潜り抜けたのでございます。あのものに何の力がございましょう。わたくしが手を下すにも及びませぬ。一人か二人の、力ある者に命じて、かれを呼び、ざくりと一刀両段にすれば、後の患えは除かれて、まことにすっきりいたしましょう。
（蕭相）勝手なことをするわけにはゆかぬわい。部下よ、張良どのを呼んできてくれ。
（樊噲）あの爺さんは、しっかりとした考えがますますなくなっていますが、まあいいでしょう。人に命じて呼んでこさせることにしましょう。
（正末が張良に扮し登場）わたしは姓は張、名は良、字は子房とまうし、韓の人。祖父以来、五代にわたり、韓の臣たり。秦の始皇は無道にて、韓を滅ぼしたりしかば、それがしは韓のため復讐せんとし、漢王に従ひて、秦の天下を滅ぼして、わが韓をふたたび立てんとぞしたる。はからずも項羽がふたたび韓を滅ぼしたりしかば、漢王をもつぱら扶け、項羽を窮死せしめたり。今や天下はすでに定まり、干戈は収まりぬ。蕭丞相が人を寄越して、招きたれども、何事ならむ、行かずばならず。想ふにわれが漢朝の天下をばうち立てたるは、た易きことにはあらざりき。（唱う）
【仙呂点絳唇】経典を焼き、儒者を埋め、刑を多くし、税を重くす。それゆゑに民は怒りて、秦の鹿をばともに逐ひ、今日はやくも英明の主を立てしなり。
【混江龍】想ふにわたくし張良は不遇なりしとき、秦の世をあらかじめ知り、人を避くるにすぎざりしかど[9]、やうやく劉家の天下を定め、はじめて漢の司徒たるを得り。今や諸侯に封ぜられ、陳留邑を手に入れて、若き時、下邳にて難を逃れたるにぞ勝りたる。黄公の兵法を熟読し、呂望の兵書を味読せしこともあり。高皇を佐け、南北を征討し、諸将に隨ひ、東西を掃蕩したり。秋風の中、楚の歌を唱ひ尽くして、はやくも垓下の兵卒どもを散ぜしめたり。かの重瞳[10]にはさまざまの武勇ありしも、十方に伏兵を置きたるを、など抜け出づることを得ん。かれを追ひ詰め、東呉に向ける顔なからしめ、烏江に自刎せしめしも天の定めぞ。陛下には慶びあれば、四海には虞れなからん。
（言う）はやくも着いたぞ。部下よ、取り次いでくれ、張子房が到着したとな。
（従者）心得ました。（知らせる）丞相さまにお知らせします。張子房さまが来られました。
（蕭相）お通ししてくれ。
（従者）お入り下さい。
（正末が会う）丞相さま、本日わたしを呼ばれましたは、いかなるご相談にございましょう。
（蕭相）司徒どの、こたび御身をお呼びしたのは、ほかでもない、韓信の一件のためなのです。昔、わたしはかれを推薦いたしましたが、かれは今、軍権ははなはだ重く、のちのち悪い心を持てば、上奏をしたわたしに累を及ぼして、解決がつかなくなります。そこで御身をお呼びして、相談をするのです。どうしたらかれを除いて、後の患えを逃れることができるでしょう。
（樊噲）韓信は淮陰の一餓夫で、功績も能力もございませぬ。愚見では、韓信をおびき寄せ、殺してしまえばよろしいでしょう。何らの難しいこともございますまい。
（正末）樊将軍よ、御身はまちがっていられる。韓信は四海を平らげ、功績を建て、天下はかれの罪を知らぬ。もしかれを殺したら、衆望を失うことがあるやも知れぬ。丞相どの、御身もさらによく考えねばなりませぬ。乱暴なことをされてはなりませぬ。（唱う）
【油葫蘆】想へば昔、ともに起こりて秦を亡ぼし、天下を取りしは、すべてわれらの文と武なりき。
（言う）丞相どの、お考えあれ。
（唱う）項王と馬を交へて、勝敗を決するものは誰もなし。もしもかの韓淮陰が西楚を辞せんとすることなくば、漢高皇はかならずや巴蜀に悶死したりけむ。それゆゑに張良は一通の上書をし[11]、蕭丞相は三たび推挙せられて、百万の大軍をもて台を築きたりしなり。げにげに「君子はさきに手を打つ」ものぞかし。
（蕭相）司徒どの、韓信に何の功かこれあらん。項羽を誅滅したりしは、すべて天子の洪福と、諸将の威風が、かのものを追ひ詰めて、烏江に自刎せしめたるなり。
（正末）丞相さま、何を仰います、もし韓信がいなければ[12]、（唱う）
【天下楽】今や百二の山河[13]は宮居を固め、かれ[14]はただ排除を望み[15]、かのひと[16]を剣下に誅せり。これぞまさしく「不正を用ゐ、正直を棄ておかば、民は服せず」。わたくしは見識をひけらかしたるにはあらず。丞相さま、御身も自らお考へあれ、誰が楚の項羽を倒したりしかを。
（蕭相）わたくしは不才ではありますが、主君の禄を食んでおり、主君に忠義を尽くさねばなりませぬ。今、韓信は三斉王の印を持ち、配下の兵は十余万、将軍は百余名ありますが、万一のことがあったら、いかがしましょう。
（樊噲）丞相さまの仰る通りにございます。想うにかれは軍権がはなはだ重く、もしかれを除かなければ、かならずや後の患えがあることでしょう。
（正末が唱う）
【那吒令】御身ははじめはかれを求めて、推薦したりき。その後にかれを怕れて、足を踏まれてあはてて侯に封じたり[17]。今ではかれを忌み嫌ひ、本人を殺し、一族を滅ぼさんとす。かれは十大功を立て、万鍾の禄を受くべきものなるに、かやうにかれをあれやこれやと陥れたり。
（樊噲）韓信は一餓夫にございましたに、やすやすとあのものを元帥にしたのです。あのものにどのような功績があったのでございましょう。
（正末）かのものの功績を、御身はよくご存知のはず。かのものは九里山にて、ただ一戦で項羽を追い詰め、烏江で自刎させました。このような大功は申すには及びませぬから、わたしはさらに一二の例を御身に聴かせることにしましょう。（唱う）
【鵲踏枝】かのものは陳余を撃つに、権術ありき。夏悦を擒にせしときは、機略を使へり。かれは淮河を堰きとめて、夜に龍且を斬りたりき。智恵を使ひて魏豹を捕らへ、力を用ゐて斉王を擒にしたり。その功績は古今にたえてなきものぞ。
（蕭相）項羽が烏江で自刎したのは、すべて五侯[18]の力であって、あのものと関わりはございませぬに、なぜあのものの功績であると仰るのでしょうか。
（正末）丞相さま、九里山での大戦を、ご覧になられましたでしょう。（唱う）
【寄生草】九里山では地形に隨ひ、八卦の陣に士卒を並べり。ありがたや、韓元帥は先鋒となり、五侯を遣はし、項羽を死地へ駆りたりき。重瞳を瞞きて、陰陵路へと逃れしめたり。たとひ烏騅[19]が幾重もの囲みを突くとも、烏江に渡る船なきをいかんとも得ざらしめたり。
（言う）ああ、韓信はこのような功績を立てたのに、殺そうとなさるとは。わたしならなおさらのことであろう。わたしは天子に別れを告げて、紫袍と象簡をば納め、赤松子に隨って、道を学んだほうが、まことによいであろう。
（蕭相）司徒どの、御身はまちがってらっしゃる。役人をして、堂食[20]を食べ、御酒[21]を飲めば、どれだけ楽しいことでしょう。それなのに、官を棄て、道を学ばれるとは、どういうことでしょう。
（正末が唱う）
【金盞児】わたしは今や盈虚を見て、乗除を悟りぬ[22]。山林に隠れ、富貴を棄てて、栄辱のなきことにしくはなし。ただちに龍楼鳳閣を辞し、ただわが蝸廬を守るといたさん。甘んじて四皓を追ひて、振り返り、三閭を嘆かん。
（蕭相）司徒どの、わたくしは門には画戟、戸には椒図[23]を並べているが、まことによかろう。
（正末が唱う）御身のごとく門に二つの画戟を並べ、戸に八椒図を並ぶるを誰か望まん。
（樊噲）丞相さま、張良どのを呼んではならぬと申しあげましたでしょう。このかたは何の考えもございませぬ。この件はどうしたらよいでしょう。
（蕭相）樊将軍よ、しばし待たれよ。司徒どのが帰られたら、ふたたび相談するとしよう。
（正末）丞相どの、失礼つかまつりまする。わたしは今すぐ、山中へ修行しにゆきましょう。（唱う）
【賺煞尾】諍ひの場を跳び出でて、功績簿をば帳消しにせり。仙人の修行をし、辟穀[24]をせんとせり。気侭に逍遥するを得ば、願ひは足るべし。これ以上、玉帯金魚[25]を論ずることなく、行く末をじつくりと考へん。われのみが前車と後車を戒めとせり[26]。三斉王は不当な仕打ちに遭ひたれば、子房公は帰らん。太平の天子は百霊に扶けらるるに一任すべし。（退場）
（樊噲）丞相どの、愚見では、人を遣わし、天子が雲夢山に遊ばれるから、韓信を朝廷に戻らせて、ひとまず留守居にすると言わせることにしましょう。韓信は利を貪る者ですから、詔書を見ればきっと朝廷に入りましょう。その時に、三斉王の印を奪って、かれを捕らえて殺しましょう。かれは天へと飛び上がる力をもってはおりますまい。
（蕭相）その計略はすばらしい。わたしは明日、天子に見え、使者を遣わし、韓信を朝廷に戻らせて、謀反の罪に陥れ、十悪の大罪[27]に問うとしよう。あのものを殺すのがわたしの願いだ。
（詩）推薦を受け、壇に登りて、漢朝に立ち、兵権はなはだ重きものなれば、滅ぶは難きことならん。
（樊噲の詩）計を定めて、除かば後の患へはなからん。蕭何の智恵の高きをはじめて信じたり。（ともに退場）
第二折
（外が韓信に扮し、兵卒を連れて登場、詩）壇に登りて、大軍を率ゐ、劉を興して、項を滅ぼし、威名をば顕せり。その昔、提牌の職[28]を解せずば、なんぴとか高皇をお助けし、太平を定むべき。
それがしは姓は韓、名は信といい、淮陰は下湘の人。初め項王の麾下に投じて、提牌執戟郎となった。後に蕭何の推薦を受け、漢王は高い台を築き、それがしを元帥とした。それがしは劉を興して、楚を破り、十大功をうち立てた。こたび天子は雲夢山に遊ばんとして、それがしを朝廷に戻らせて、ひとまず留守居役となされた。それがしの部下蒯文通は、機略に富んでいるものだから、あのものを呼び、この件につき相談しよう。部下よ、蒯文通を呼んできてくれ。
（兵卒）蒯文通どの、元帥さまがお呼びです。
（正末が蒯文通に扮し登場）それがしは姓は蒯、名は徹、字は文通という。今は、韓元帥の門下で説客となっている。元帥さまがお呼びだが、何事だろうか、行かねばならぬ。部下よ、取り次いでくれ、蒯文通がまいりましたと。
（兵卒）元帥さまにお知らせします、蒯文通がまいりました。
（韓信）かれをこちらへ。
（兵卒）お通り下さい。
（会う、正末）元帥さまが蒯徹を呼ばれましたは、何事にございましょうか。
（韓信）蒯徹よ、そなたを呼んだはほかでもない、蕭何が使者を遣わしてきて、詔書を伝え、聖上が雲夢山に遊ぼうとなさっているから、それがしは朝廷に入り、留守居しろとのお達しなのだ。そなたを呼んで相談するが、行くのがいいか、行かぬのがいいか。
（正末）元帥さま、行かれてはなりませぬ。思えば昔、秦が亡ぼされた後に、楚漢が争い、雌雄は決しませんでした。元帥さまの威名に並ぶものはなく、楚を滅ぼされ、劉を興され、漢の社稷を築かれて、三斉王の職を授かり、今、軍権を手中にされてらっしゃいます。古人の申す「勇略の主君を震へしむる者はその身が危く、功業の天下を蓋ひたる者は褒められず」[29]とはまさにこの謂にございます。行かれれば、かならずや禍を受けましょう。元帥さま、なにとぞお考えください。（唱う）
【中呂粉蝶児】そのむかし、三斉を御身がかりに治められしに、かのもの[30]は真王に任ぜしかどもそは本意にあらざりき[31]。やうやく天下が治まれば、手を拱きて、衣を垂らせり[32]。国に争ひ、家に諍ひなからしめしは、た易きことにはあらざりき。今、万国が来朝し、兵権を御身が握りたるを見ば、疑ひをしぞ生ずべき。
【醉春風】ゆゑもなく楚の干戈を鎮め、漢の社稷を扶けたり。
（韓信）それがしは多くの力を費して、西楚の霸王を滅ぼすことができたのだ。聖上をお扶けし、天下を平定したのだから、聖上がどうしてわたしを裏切るだろうか。行っても、問題はあるまい。
（正末が唱う）諺に「太平に旧き将軍を用ゐず」とまうしたり。なにゆゑぞこの理を悟ることなき。元帥さま、想ふに御身はかばかりに大いなる功績を立てたまへども、今や陛下に疑はれ、厭はれぬ。朝章[33]をお納めになり、一連の青山を逍遥し、気侭になさるが、まことによろしきことならん。
（唱う）官職をやめたまはずとも、後先のことを考へ、保身のための妙策を立てたまふべし。
（韓信）蒯徹よ、想うにそれがしは南北を征討し、東西を掃蕩し、十の大きな功績を立てたのだから、聖上がどうしてわたしを裏切るだろう。
（正末）元帥さま、行かれてはなりません、もし行かれれば、きっと禍を受けましょう。
（韓信）蒯徹、それはまちがいだ。聖上はふだん、衣を脱いでわたしに着せ、食べものを推してわたしに食べさせてくださったのだ。たくさんの好意を示してくだされたのに、まさか今日、わたしを裏切るはずがあるまい。そのような事はよもやあるまい。
（正末）元帥さま、もしもわたしに従われれば、万に一つの失敗もございません。（唱う）
【上小楼】御身がゆかば、禍事は多くして吉事は少なし、かやうに忠を尽くししも徒となるべし。
（言う）まことに古人はかく言へり
（唱う）「威はあれど猛からず[34]」「高くして危ふからず、満ちて溢れず[35]」と。強情を張り、諌めを聞かれぬことなかれ。さらに名利を争ひ奪はれんとするお積りか。
（言う）わたしの言葉に従われぬなら、
（唱う）御身は死すとも身を葬る地はなかるべし。
（言う）元帥さま、御身にお勧めいたします。范蠡、張良に倣って、今すぐ官位を棄てられたほうがよろしゅうございます。そのほうが害を避け、命を全うすることができまする。
（韓信）蒯徹、それはまちがっている。官位にあれば、前と後ろを取り巻かれ、軽い裘を着けて、太った馬に跨って[36]、さまざまな栄耀栄華を享けられるのだ。むざむざと修行をし、松や柏を口にして、草鞋と麻絛[37]を着けるような、苦しみを受けるわけにはゆかぬわい。
（正末が笑う）元帥さま、かれら二人が隠遁したのは、なぜだと思し召されますか。（唱う）
【幺篇】越を覇たらしめたるもの[38]は計略があり、漢を興したりしもの[39]はよき事績あり。かれらはなにゆゑ紅塵を遠ざけて、青山にじつとして、黄齏[40]に耐へたるや。これはただ徳を養ひ、諍ひを避けんとしたるのみにして、他意はなかりき。
（言う）今日は御身をお諌めしましょう。ほかでもござらぬ
（唱う）わたしは御身が禍に遭ひたるときに、にはかには退き難きことを恐れつ。
（韓信）蒯徹よ、わたしが行っても、何事もないだろう、安心するのだ。
（正末）元帥さま、わたくしは御身を邪魔しているのではございませぬ。決して行ってはいけないのです。もしわたくしの言葉を聴いていただけぬなら、わたしの家には年老いた母がおりますから、今日すぐに元帥さまのもとを離れて、家に帰って母親を養わねばなりません。
（韓信）蒯徹よ、安心しろ。聖上に会い、すぐに戻ろう。なぜわしに別れを告げて去ってゆこうとしているのだ。
（正末）それならば、行かれるのですね。部下よ、紙銭と水飯[41]を持ってきてくれ。
（兵卒）心得ました。（兵卒が紙銭と水飯を持ってきて目の前に供える）
（正末が唱う）
【快活三】なにゆゑぞ一碗の漿飯水を零しつつ、一陌の紙銭を焼ける。われわれは数年行軍せしかども、離れしことなく、かつて御身と刎頸の交はりを結びしことのあればなり。
（韓信）蒯文通よ、そなたは気が違ったのか。どうして紙銭、水飯をわたしの前で焼いたり零したりするのだ。
（正末が唱う）
【朝天子】わたしは事情を告げ知らせん。わたしには他意はなし。御身が生きてゐらるるうちにお祭りするは理の当然、死なれなば、魂を迎へて祭るとも徒ならん。
（言う）元帥さま、御身は二人と比べて如何。
（韓信）二人とはいったい誰だ。
（正末が唱う）雍歯は誅せらるべきも、丁公に罪はなかりき。漢の蕭何ははなはだ残虐。かれを井戸より救ひ出だして、かれを斬りたり[42]。かのこともまた見本とならん。
（韓信）蒯徹よ、そなたはひとまず帰るがよい、それがしは明日、数百人の兵卒を率い、朝廷に入り、聖上に会いにゆこう。
（正末）元帥さま、あちらに着かれましたらば、お諫め申し上げたことは仰らないでくださいまし。（唱う）
【耍孩児】本日、蕭何は反間の謀略を施したれど、はつきりと知ることぞなき[43]。将軍がすこしでも京畿に到り、消息を踏まば、御身は命を失はん。かれらはおいしき餌を用意し、鰲魚を釣りて、隠し弓をば用意して虎豹を射るべし。われらは泰が極まりて否を生じたり。
（韓信）聖上は雲夢山に遊ぼうとされ、それがしを留守居とされる。
（正末が唱う）これ以上、吉祥如意をな望みたまひそ。おそらくは御身に不幸が逼るべし。
（韓信）蒯徹よ、安心するのだ、わたしは聖上に会ったら、考えがある。
（正末が唱う）
【煞尾】わたしは今や、わたしは今や、御身を諫むることこそ難けれ、御身を諫むることこそ難けれ。これ以上、兵を駆り、将を率ゐる軍職を望まるることなかれ。かならずや故郷を離れ、横死の鬼となりぬべし。（退場）
（韓信）蒯徹は行ってしまった。それがしは兵を駆り、将を率い、雪に臥し、霜に眠って、このような天下をうち立てたのだから、何事も起こるまい。従者よ、わたしについてこい。夜を徹し、朝廷の聖上に会いにゆこう。（退場）
第三折
（蕭相が従者を連れて登場）わたしは蕭何。樊噲とともに、韓信の件を相談し、使者を遣わし、韓信を欺いて、朝廷に戻らせて、斬りすてた。ただ、かれの配下には蒯徹がおり、韓信をしばしば諫め、楚を滅ぼさず、わが漢と天下を三分させようとしていたとのこと。近ごろは、韓信に朝廷に入らぬように勧めていたとか。これはまことにけしからぬこと。本当は彼奴を捕らえて、いっしょに殺したかったのだが、いかんせん、すでに気がふれたとのこと。しかし、真偽は知れぬから、朝、聖上に上奏し、使者を遣わし、知恵をつかって彼奴を瞞くことにした。蒯徹は説客だから、隨何以外は行くことはできないだろう。かねてから、隨何の智恵と機略には、朝廷で並ぶものがない。あちらへ行って、もしもまことの痴れ者ならばそれでよし、もし痴れ者でないならば、かならずや瞞いて連れてこさせて、わたしが処分するとしよう。部下よ、隨何を呼んでまいるのだ。
（従者）心得ました。隨大夫さまはどちらにおわしましょうか。丞相さまがお呼びです。
（外が隨何に扮し登場、詩）君王のためかつて九江に使ひし、たちまち英布を投降させたり。漢朝にもし能弁の士を問はば、ただ隨何一人があるのみ。
わたしは隨何。蕭丞相が呼びに来られた、何事だろうか、行かねばならぬ。はやくも着いたぞ。部下よ、取り次いでくれ、隨何が入り口におるとな。
（従者）丞相さまにお知らせします、隨何さまが来られました。
（蕭相）お通ししてくれ。
（従者）お入り下さい。（会う）
（隨何）丞相さまが本日わたしを呼ばれましたは、何事にございましょうか。
（蕭相）隨大夫どの、御身を呼んだはほかでもない、韓信はすでにそれがしが人を遣わし、おびき寄せ、斬ってしまった。かれの配下には説客蒯文通がいた。この人は韓信ともっとも親しかったから、いっしょに殺せば、草を剪り、根を取ったことになるのだ。この人は痴れ者になったと聞くが、いまだ真偽は審らかでない。御身が行くしかないであろう。もしこの人を欺いて来させたら、聖上は官位を加え、恩賞を下さるだろう。
（隨何）丞相さまのご命令を、断るわけにはまいりません、今日すぐに斉国にまいりましょう。
（詩）丞相さまの妙策に敵ふものなし。韓信も欺かれ、身は亡びたり。
（蕭何の詩）蒯徹の機略は多きも、まずは隨何の働きを看ん。（ともに退場）
（子役が登場）気違いを見にゆこう。
（正末が気違いの振りをして登場）わたしを婿にしておくれ。わが家では宴をしようとしているのじゃぞ。（唱う）
【越調闘鵪鶉】毎日火がつきたるかのごとく仲良くし[44]、孟婆[45]に口利きをばさせて、蚕姑姑に媒をさせんとし、狠媽媽をわが嫁にせんとせり[46]。わたくしの顔の汚なく、卑しきことをな笑ひそね。木の靴は踏みつぶされて粉々になり、鐵の単の褲は、黒き褐[47]と相成りぬ。素焼きの脚絆をかたく締め、磁器の頭巾をふたたび包めり。
【紫花序児】この沙魚皮の襖を着けて、白き象牙の紐を締め、この繐甸子[48]の包みを提げり。わたしの舅は土地神で、姑は閻魔さま。姉は月中の嫦娥で、わが父は顕道神[49]、わが母は木伴哥[50]。（子役が正末を推し、転ばせる）
（正末が唱う）こいつ、わたしを推して尻餅をつかせたな。
（子役）おまえは訴えにゆくのか。
（正末が唱う）わが元始天尊に訴へん。
（子役）だれが証人になるのだ。
（正末が唱う）熾盛光仏[51]が証人になるであろう。
（子役）ほんとうに気違いだな。
（正末が唱う）
【小桃紅】ああ、おまえたち子供らは街にて騒げり。ただ願はくは、臼で碾かれて一人もをらずならんことを。裏町や表通りでわたしを追ひ掛け、ぐるぐる回れり。わたしもお人よしにはあらず。懐の乾いた餅をしきりに触り[52]、知り合ひと会ひ、友人とともに坐せども、いづれも羊の弟や狗の兄ばかりなり。（子供を追いかけて退場）
（言う）日も暮れたから、とりあえず羊小屋へと戻って休もう。（小屋に行き、悲しむ）元帥さま。
（唱う）
【金蕉葉】御身はまことに、麻を被りて火を消すがごとくしたまふ。蒯徹は風に隨ひ舵を倒せる者たちと異なれり[53]。多忙なりともすみやかに退きて、今やただちに名利の鎖を抜け出でんとせり。
（隨何が登場）わたしは隨何、こちらに着いて、蒯文通を探している。わたしは数日後をつけ、あいつの顔を見たのだが、痴れ者ではない。日はもう暮れて、あいつは羊小屋へ行ったが、何を話すのか聴くとしよう。
（正末）碧い天は水のようだ、天河の中に星があり天河の外にも星がある。月光は天に射しているから、歌を一首作るとしよう。
（歌）身は土くれか木のごとく、心はいかんともするなし。その中の事情は誰かよく解すべき。忠言は目前の憂へとなれば、痴れ者を装ひて、しばし身の災を避く。韓信の元帥となりにしことは笑ふべく、大いなる功績を徒に立てしは傷むべし。野獣が尽きなば猟狗は烹られ、敵国の破れし後に謀臣は殺めらるべし。咸陽の天を見たれば、乾象[54]はあきらかに興敗をしぞ示したる。朗朗として文星は高々と懸かりたれども、落落として武星は今いづこにありや。
（隨何）あいつのことがよく分かったぞ。（会う）蒯文通どの、御身は痴れ者ではあるまい。
（正末が唱う）
【鬼三台】夜が更けて、独り坐するに、はからずも見破られたり。ああ、痴れ者を装ひたるも露見せり。
（隨何）蒯文通よ、おまえには主君を誑かした罪がある。聖上は朝廷に入るようにとのお達しだ。痴れ者を装うことはまかりならぬぞ。
（正末が唱う）たとひ死すとも構ふことなし。わたしは蘭堂画閣を棄て得ず[55]。かのものが名利を定むるに任せ[56]、死ぬるなら鼎へと入るに任せん。ひたすらに暴きたて、論ふことなかれ[57]。
（隨何）蕭丞相の言葉を奉じ、わたしはおまえを呼びにきて、朝廷に入らせるのだ。明日になったらわたしとともに行かねばならぬぞ。
（正末が唱う）
【調笑令】かのものは、することはいと酷ければ、誰か風波を免れん。ああ、諺に「点点と戻りきて古巣に入る」とぞまうしたる[58]。大梁王[59]は楚を破り、功は大にして、九江王[60]もまことに勇ましかりしかど、これもみなわが韓元帥の智量の多きによれるなり、まことに誰が御身のために干戈を掃蕩したりしや。
【禿厮児】このわれは、なにゆゑぞ、愚かにも衣裳を肌脱ぎ、ぼさぼさと鬢髪を振り乱し、昼日中、ぎやあぎやあと口にまかせて嘲り歌ひて、晩には羊の小屋にて過ごせる。
【聖薬王】そなたはみだりに引つぱつて、むりやりにしよつぴかんとし、蒯文通はことさらに痴れ者の振りをしたりと仰れり。わたしははなはだ弁舌に長け、思慮深きものにはあらず。誰がこの山河を起てしや。などて南柯の夢となりしや。
【収尾】想ふにかれは国を広げて、君を佐けど、これがまさしくなれの果てなり。そのかみは、未央宮にて不当にもかのひとを謀りて、このたびは、漢の蕭何はさらにわたしを標的とせり。（退場）
（隨何）蒯文通は行ってしまった。あのものは痴れ者の振りをしていたが、計略を施して、あのものを見破った。明日になったら長居はせずに、丞相さまにご報告しにゆかねばなるまい。
（詩）かのものは、韓侯と友なりければ、ひそかにわれを遣はして、見定めさせたり。いづこにありても、悪人は悪人に虐げらるべし。これぞまさしく「強きがさらに強きに遇ふ」なり。（退場）
第四折
（蕭相と樊噲が従者を連れて登場）
（蕭相）わたしは蕭何。隨何は蒯文通を騙しにいったのだが、蒯文通は痴れ者の振りをしていた。聞けば隨何は蒯文通とともに来たとか。あいつ[61]が来たら、油鍋をば用意して、烹れば、ながらく後の患えは除かれよう。樊将軍よ、わが漢朝の大臣は、ほかに誰が来ていないのだ。
（樊噲）丞相どの、平陽侯曹参、安国侯王陵が、来ておりませぬ。
（蕭何）かれら二人が来ていないなら、部下よ、曹参と王陵を呼んできてくれ。
（従者）心得ました。
（外が曹参、王陵に扮し登場）
（曹参の詩）一心に堅き意で劉を扶けて、太平の天子は春秋にしぞ富まるる[62]。汗馬の功の大なるがため、平陽の万戸侯にぞ封ぜられたる。
わたしは曹参、沛県の人。この将軍は安国侯の王陵どの、わたしとは幼いときから同郷で、その後、いっしょに漢の天子をお輔けし、将軍と諸侯とに封ぜられている。蕭丞相は韓信をおびき寄せ、斬られたが、こたび、屋敷にわれらを集め、その件につき、相談をされるとのこと。部下よ、取り次いでくれ、曹参と王陵がやってきたとな。
（従者）丞相さまにお知らせします、曹参と王陵が入り口におりまする。
（蕭相）お通ししてくれ。（会う）
（曹参）丞相どの、今日われら諸官を集められたのは、いかなるご用にございましょうか。
（蕭相）皆さま方は、ご存じございますまいが、韓信はもうおびき寄せられ、斬られたのです。しかし、説客蒯文通は、今もなお、韓信の麾下におります。蒯文通は韓信と一心にして同体の親友ですから、あのものを呼び寄せ、いっしょに殺すことがなければ、のちのち患えとなることでしょう。こたび、隨何に蒯文通を欺かせ、こちらへと呼び寄せました。これは草を剪り、根を除く、国家を万全たらしめんとする策であり、ことさらに忠良を殺害せんとしているものではございませぬ。皆さま方は、いかが思し召されますか。
（衆）丞相さまのお考えの通りです。
（蕭相）部下よ、隨何を呼んできてくれ。
（従者）心得ました。
（隨何が登場）わたしは隨何。蒯文通に出会ったところ、痴れ者の振りをしていたが、わたしに騙され、やってきたわい。丞相さまが呼ばれているから、行かねばならぬ。部下よ、取り次いでくれ。隨何が来たとな。
（従者）丞相さまにお知らせします、隨何さまが来られました。
（蕭相）お通ししてくれ。
（従者）お入り下さい。（会う）
（隨何）丞相さま、蒯徹を騙してやってこさせました。
（蕭相）部下よ、蒯徹を連れてまいるのだ。
（従者）心得ました。
（正末）わたしは蒯徹、今日はこちらにやってきたが、きっと殺されてしまうだろう。
（唱う）
【双調新水令】朝廷を辞し、張良は帰りゆけども、韓元帥は欺かれ、たちまちに身を喪へり。天を支へし白玉の柱を傷み、海に掛かりし紫金の梁を悲しめり。国土を広げたることが、あやにくに禍事と相成りぬ。
（言う）部下よ、取り次いでくれ、蒯徹が入り口におりますと。
（従者が知らせる）蒯徹が入り口におりまする。
（蕭相）かれをこちらへ。
（従者）お通り下さい。（会う）
（正末がわざと油鍋に飛び込もうとする）
（蕭相）やめよ、やめよ。蒯文通よ、どうして何も語らずに、油鍋へと飛び込むのだ。かばかりに死を怕れぬとは。
（樊噲）尋ねられてはなりませぬ、尋ねれば、きっと弁明することでしょう。
（正末）わたしは罪があることを弁えておりますから、生きるのを望みはしませぬ。
（蕭相）その昔、韓信を唆したろう。
（正末）仰る通りにございます。
（蕭相）漢の天子がおわしますのに、おまえは輔佐しようとせず、韓信につこうとしたな。
（正末）丞相さま、御身は「桀の犬の堯に吠えしは、堯の不仁によれるにあらず。犬は主人にあらざれば吠ゆるなり」[63]ということをご存知でしょう。その昔、わたくしは韓信を知るのみで、漢の天子さまのことなど存じておりませんでした。韓信から衣食を受けておりましたから、恩を弁え、恩に報いようとしたのです。
（蕭相）韓信が三斉を平定したとき、偽王となって三斉を治めるように申したは、あきらかに反逆の意があるということ。斬首すべきだ。
（正末）ああ、丞相さま、何を仰られるのです。漢の天子が天下を得たのは、どなたのおかげでございましょうか。謀を巡らして、策を決めたのは、張良さまのおかげでしたし、戦に勝って攻め取ったのは、韓元帥さまのおかげでございました。今や隠退するものは隠退し、斬られるものは斬られましたが、このことは当然のことにございましょうや。（唱う）
【駐馬聴】張良さまは国を安んじ、漢主を扶け、帝位に登せ、霸王をば亡ぼされたり。韓信さまは兵を駆り、将を率ゐて、真の龍は世に現れて偽の龍は藏れぬ。闘ひて満身を鮮血に染め、沙場に臥して、はじめて金の印を手にせり。御身もいづれ鳳凰となり梧桐の上に飛ぶべし[64]。
（蕭相）想えば昔、漢中で主君が兵を挙げたのは、大勢の功臣たちのお蔭であって、韓信一人の力ではない。
（正末）想えば、楚漢は争って、鴻溝を境目としましたが、あの時に、韓元帥が楚に投じれば楚が勝って、漢に投じれば漢が勝ち、天下の形勢は、一人によって决められていたことでしょう。ですからわたしは、韓元帥に項王を殺さぬように幾たびも進言し、天下三分の計略を定めさせようとしたのです。それなのにあのかたが忠言を信じることなく、身に白刃を加えられ、蓋世の英雄でありながら、非業の最期を遂げたのは、まことに惜しむべきことでした。丞相どの、御身は昔、あのかたを推挙されましたから、あのかたは御身によって出世をし、御身によって滅んだことになりまする。わたしは裏切り者にはなれず、ただ一死あるのみにございます。さすれば地下の韓元帥に報いることができましょう。（跳び上がる）
（蕭相）部下よ、ひとまずこやつを捕まえてくれ。
（樊噲）蒯文通よ、韓信は御身がかれを唆したと申していたぞ。御身はまさに共謀していたものだから、罪を認めるべきであろう。
（蕭相）樊将軍どの、御身の仰る通りです。こやつは韓信配下の説客だったのですから、まさに韓信の腹心にございます。律法に曰わく「一人のものが造反をせば、九族をみな誅すべし」と。ましてやこやつは共謀したもの、本日はこやつを油鍋で烹たとて、不当なことではございませぬ。
（正末）丞相さま、漢王が南鄭にいた時に、雄兵と驍将は、その数も知れませんでしたが、項王にかなう者は一人もおりませんでした。そののちに、韓信を得て、三丈の高い台を築いて、元帥に任命しますと、項王と戦い、烏江を渡らせず、自刎して死なせました。今や天下は太平にございますから、韓信を用いられても仕方ございませんでした。斬られるのなら斬られても、妨げはございませぬ。韓信に十罪がございましたが、丞相さまはご存じでしょうか。
（樊噲）そなたは不当に韓信を殺したと申していたに、十罪があったと申すか。十罪はもちろんのこと、一つの罪でも死して身を葬る場所がなくなって当然ぞ。
（蕭相）蒯文通よ、韓信に十罪があるのなら、この大臣たちに向かって、一遍話してみるがよい。
（正末）一つには表向き桟道を修理して、こっそりと陳倉[65]にわたるべきでなく、二つには章邯ら三秦王を撃殺し、関中の地を取るべきでなく、三つには西河を渉り、魏王豹を虜にするべきではなく、四つには井陘を渡り、陳余と趙王歇を殺すべきでなく、五つには夏悦を捕らえ、張仝を斬るべきではなく、六つには斉の歴下[66]の軍を襲って、田横を敗走させるべきではなく、七つには夜に淮河を堰きとめて、周蘭、龍且の両大将を斬るべきではなく、八つには広武山にて小競り合いをすべきではなく、九つには九里山にて十面に伏兵を置くべきではなく、十には項王を陰陵道に追い詰めて、烏江で自刎させるべきではなかったのです。これがすなわち韓信の十罪にございます。
（蕭何が嘆く）この十件は韓信の功であるのに、なぜ罪なのだ。
（正末）丞相さま、韓信は十罪ばかりか、さらに三愚がございます。
（蕭相）さらにいかなる三愚があるのだ。
（正末）韓信は燕趙を収め、三斉を撃ち、四十万の精兵を持っていましたが、このような時に反せず、このたび、反しましたのは一つめの愚にございます。漢王は城皋[67]を抜け出したとき、韓信は修武にあって、大将二百余名、雄兵八十万を統べていました。このような時に反せず、このたび、反しましたのは二つめの愚にございます。韓信は九里山で大戦し、百万の兵権をすべて掌握しておりましたが、このような時に反せず、このたび、反しましたのは三つめの愚にございます。韓信には十罪があり、さらに三愚がございます。まことにみずから禍を招いたのです。本日わたしを烹られるのは、これぞまさしく「免は死して、狐は悲しみ、芝は焚かれて、蕙は嘆く」というものにございます。丞相さま、なにとぞお考え下さい。
（蕭相が衆とともに悲しむ）
（樊噲）わたしも悲しくなってきました。
（正末が唱う）
【喬牌児】公卿たちは大いに傷み、文武の官はことごとく悲しめり。漢の蕭何も羅の袍に泪をば滴らせども、死にたりければ思ふもまさに徒ならん。
【掛玉鈎】想ひ起こせば、韓元帥は、愚かにも刑場で斬られ、功績簿をばことごとく自供書とせり[68]。あたかも口のきけぬ女が杯を零ししために殃を受くるがごとし[69]。五年にして烟塵を平らげたるも徒なりき。三斉王となりぬれど、終身享くることを得ず。ああ、誰か知るべき、宰相のお役所が、仕置き場とならんとは。
（曹参）ああ、丞相どの、韓信はこのような功績を立てたのですから、殺すべきではなかったのです。
（蕭相）あきらかに、韓信は非業の最期を遂げたのだ。ただ、死者は生き返れない。今からかれを救おうとしても、間に合わぬ。どうしたらいいだろう。
（正末が笑い、唱う）
【雁児落】まことにをかしや、わたくしは弁舌に長けたれど、御身の機謀の深きをいかで得逃れん。誅せらるるなら刀下に誅し、炙らるるなら心の臓をば炙れかし[70]。
【得勝令】ああ、漢の賢良[71]はまつたく考へらるることもなく、一片の悪しき心を弄ばれたり。韓元帥を不当に殺したることを悟らるるなら、楚の霸王をも生かしたまへかし。栄耀なぞを得んとして、張り切つて中軍帳に端坐せんより、農村にじつとして、おだやかに百姓となる方がよし。
（蕭相）韓信は死にましたから、将軍の皆さまがたは、明日になったらわたしといっしょに朝廷に入り、聖上に目通りし、事情をつぶさに話すとしましょう。韓信の墓の頂で、もとの爵位を返還し、蒯文通に官位を加え、恩賞を賜わりましょう。
（正末が唱う）
【沽美酒】狡免は死して走狗は僵れ、高鳥は尽き良弓は藏はれぬ。御身のかれを推挙したるを徒にせり。そのかみは台を築きて将となし、このたびはまた墳堂を築かんとせり。
【太平令】春秋の祭りの供物があらんとも、九泉の下、魂魄の淋しきを救ひ得ざらん。はやくわたしを油で烹、火葬せば、かのひとと死するも生くるも相倚らん。慌てず、焦らず、笑みを浮かべてただちに死なん。ああ、さすれば御身は官位をば加へられ、恩賞を賜はらん。
（外が黄門に扮し、校尉が冠帯、黄金を捧げて登場）わたしは黄門。蕭何はひそかに策を設けて、韓信を斬り、蒯徹を九鼎の油鍋に入れ、烹んとせり。聖上はすでにそれを知り、われをして蒯徹の罪を赦さしめんとしたまふ。はやくも着いた。部下よ、取り次いでくれ、聖旨が来たとな。
（従者）丞相さまにお知らせします、黄門官が来られました。
（蕭相）お通ししてくれ。（中に入り、会う）
（黄門）なんじら諸将は宮居を望んで跪き、聖上の御諚を聴くべし。
（詔）朕は三尺[72]をば提げて豊沛に起ち、五年たらずでことごとく諸侯、諸王を捕まえて、項羽を追ひつめ殺害し、天下を有せり。これは一人のよくするところにあらずして、みな韓信の力なりき。韓信が叛逆せんてふ、人の言葉をあやまつて聴き、未央の鍾室には[73]、恨血がなほあれば、朕はまことにこれを愍れみ、このたび特にその封爵を返還し、有司に命じて墓を立て、祭祀させたり。蒯徹は口舌をもつて仕へて、武渉[74]と時を同じうしたり。心に主のことを思へば、堯に吠ゆるも罪にはあらず。甘んじて鼎に赴き、死を視ること飴のごときは、まことに壮士なりといふべし。その死をば免れしめて、さらに京兆の官職と、千両の黄金を授くべし。ああ、生きては功をば立てて、死してはなほも報いんとせり。言葉の用ふべきものあらば、罪はひとまず与ふることなし。さすれば初めてわが国の賞罰の公平なるを示すべし。朕が命令に背くなかれ。ことさらに敕す。
（正末が衆とともに恩徳に謝す）（唱う）
【鴛鴦煞】漢の天子がすみやかに御諚を降したまひなば、韓元帥は誣罔を受くるを免れて、河が帯、山が砺とならんとも[75]、盟言は恙なかりけむ。わたくしも痴れものを装ふことなく、小細工を弄することもなかりけむ。
（冠帯を還し、唱う）この冠帯はわれに栄華を添ふることなし。（黄金を還し、唱う）この金はかれの黄金の像を鋳るなし。御身蕭丞相どのは自ら行きて考ふべきなり。なにゆゑに十大功を立てたる臣を不当に殺し、万民に語らるるかを[76]。
（蕭相）蒯文通よ、この冠帯と黄金は、聖上がそなたに賜わられたのに、なぜわしに還すのだ。勅命に背くのか。
（詞）韓元帥は辛苦して功は高く、西楚を滅ぼし、劉朝を立てたりき。まず三斉の玉印を賜はりて、白鉞と黄旄をもて征伐をもつぱらにせり。蕭丞相は忠を尽くして主に報い、後の患へを防がんとして、こつそりと排除する策を設けり。巡游と偽りて、召還し、留守居せしめて、仕置場で不当に刀を受けしめたり。今日はつぶさに不平を述べて、漢国の臣らに罪を悔いしめたり。聖天子もまた、ために心を動かされ、鳥の尽き、弓の弢はれたることを憐れまれたり。想へば昔、台を築きて将軍に任命せしかば、かのひとを死にし後、憂へしむるにいかで忍びん。墓の頂にてもとの爵位を返し、春秋に東郊に祭祀せん。蒯徹も官位を与へ、恩賞を賜はりて、まとめて労苦に報ゆべし。皇恩の不公平ならざることを明らかにして、遥かならざる天つ日をともに仰がん。
最終更新日：2010年11月10日