第二十二巻

 

王昊廬宗伯[1]は蓮花宮[2]の長老であったこと
 王昊廬宗伯は、合格する前、黄岡[3]から上京して受験した。廬山を通り掛かったとき、蓮花宮に宿ったが、翌日は出発しようとしていたので、遅くならないうちに眠った。夢みたところ、自分は大殿の上座に坐しており、目の前には供物の果物が供えられていた。下座では袈裟を着たものが大勢で取り囲み、拝礼、念仏していた。そこですぐに面前の棗を取り、数粒を食らったところ、目が醒めた。目が醒めた時、口中には余味があった。驚き訝っていると、たちまち部屋の外に燈燭が輝き、几筵[4]が設けられ、僧たちが膜拝[5]し、さながら夢の中の光景のようであった。戸を開けて尋ねると、この日はこの庵のすでに物故した浄月上人の忌日で、人々が祭祀していたのであった。宗伯は大いに驚き、起ちあがり、供えられている盤の中の棗を見ると、その天辺がすこし欠けており、二三粒少なくなっているようだったので、自分は前身がこの庵の長老なのだとはっと悟った。そのため仏を終生たいへん敬虔に信仰した。それより前、宗伯の父用子公は崇禎の翰林で[6]、廬山で殉節していたので、みずから「昊廬」と号し、「昊天極まること()[7]」の趣旨を取り、沢宏を諱としたのであった[8]

鬼が男児を買うこと
 洞庭の貢生葛文林は、学校で文名があった。その嫡母周氏が亡くなった後、父は荊州の李氏と再婚したが、それが文林の生母であった。結婚して三日後、周氏の衣裳箱を整理していると、九本の蓮を刺繍した紅い(あわせ)一着があったので、気に入って身に着けた。
 食事の時すぐに昏迷し、みずからその頬を打つと言った。「わたしは前妻の周氏だ。箱の中の衣裳はわたしが嫁ぐ時に持ってきたのだ。わたしはふだん大事にし、身に着けるに忍びなかった。今おまえは来たばかりなのに、公然と盗んで着けたが、わたしは不満だから、おまえの命を取りにきたのだ」。家人は取り囲んで跪き、李のために取りなした。

「奥さまはすでに亡くなったのですから、この華やかな衣裳は必要ございますまい」

「はやく焼いておくれ。わたしは着ようと思っているのだ[9]。度量が小さいことは自分で分かっている。昔の嫁入り道具は、絲一本も李氏に与えることができないから、すべてをはやく焼いてくれれば、わたしは去ろう」

家人はやむを得ず、言われた通りにすべて焼いた。鬼は手を拍つと笑って言った。「わたしは去ろう」。李はすぐに霍然と病が癒えたので、家人はとても喜んだ。
 翌日、李は朝の化粧をしていると、突然あくびした。すると鬼がふたたびかれの身に附いて言った。「旦那さまを呼んできておくれ」。その夫は奔ってきて、その手を執ると言った。「新婦は若く、家事を切り盛りすることはできませんから、わたしが毎朝来て代わりに切り盛りいたしましょう」。その後、午前にはかならず李の体に乗り移り、薪、米について調べたり、尋ねたり、奴婢を叱りつけたりし、きちんと家事を切り盛りしていた。このようにすること半年、家人は慣れて安心し、それ以上怪しまなかった。
 とある日、その夫に言った。「わたしは去ろうと思います。わたしの柩はこちらに停まっていますが、あなたたちが傍で歩くと、霊牀[10]が震動し、わたしは棺の中で骨の節がすべて痛むのです。はやく葬式を出して、わたしの魂を安らかにしてください」。その夫は言った。

「まだ葬る土地がないが、どうしよう」

「西隣の爆竹売りの張という者は某山に土地を持っています。わたしは昨日見にゆきましたが、松もあれば竹もあり、すこぶるわたしの意に叶っていました。かれは口では六十両を要求しますが、心では三十六両で買ってよいと想っています」

葛が見にゆくと、土地も持主も、すこしも違っていなかったので、証文を作り、取引した。
 鬼が葬式を出す期日を尋ねると、葛は言った。「土地はすでに手に入れたが、期日を親戚友人に告げるとき、まだ孝子[11]の名を出すことができないのは、とても格好が悪いな」。鬼は言った。「仰ることはご尤もです。新婦は今身重で、男か女かは分かりませんから、わたしに紙銭三千を下されば、一人の男の児を買ってきてあげましょう」。そう言うと去った。期日になると、李氏ははたして文林を生んだ。
 三日後、鬼はまたふだんのように女の身に附いたので、その姑陳氏は責めた。

「李氏は初産で、体が弱っているのに、また纏いつきにくるとは。ずいぶん情け容赦ないのだねえ」

「違います。この児はわたしが買ってきたもので、わたしの祭祀を嗣ぐのですから、忘れることができないのです。新婦が若く眠りを貪り、圧し殺したらどうするのです。お義母さまに一言お願いいたします。母乳を与えおわりましたら、お義母さまがすぐに児といっしょに眠れば、わたしははじめて安心しましょう」。その姑が承諾すると、李の妻はあくびし、鬼はまた去った。
 日を択び、葬式を出したが、葛は男児がようやく満月で、粗い喪服に勝えないことを憐れみ、細かい喪服に易えて着けさせてやった。鬼が来て罵った。「これは斉衰(しさい)[12]で、孫が祖父母の喪に服するときの着物です。わたしは嫡母ですから、斬衰(ざんさい)[13]でなければいけません」。やむを得ず、着替えて葬送した。葬るに臨んで、鬼は妻の身に附くと大声で哭いて言った。「わたしの体と(たましい)はすでに安らぎましたから、これからは永久に参りません」。その後ははたして来なくなった。
 それより前、周は嫁いでいなかった時、隣家の娘たちと結義して三姉妹となり、ともに生死を誓っていたが、その二人の妹はさきに亡くなっていた。周は病んだ時に言った。「二人の妹が来て、今、(とこ)の後ろでわたしを呼んでいます」。葛は怒り、剣を抜いて斬った。周は地団駄を踏んで言った。「あなたはやんわりと頼まず、かれらの(うで)を斬って傷つけましたから、事態を好転させるのはますます難しくなりました」。そう言うと亡くなったが、年はわずか二十三であった。

鬼が饅頭(マントウ)を奪うこと
 文林[14]が語ったこと。洞庭山には餓鬼が多い。かれの家で饅頭(マントウ)一籠(いちろう)[15]を蒸し、炊きあがると蓋を掲げたが、饅頭(マントウ)はずいずいとみずから動き、だんだんと縮み、お碗ほどの大きさであったものが、まもなく小さな胡桃ほどになるのであった。食らうと、味は麩のようで、養分はすべて除かれているのであった。はじめはそのわけが分からなかったが、老人が言った。「これは餓鬼が奪っているのだ。蒸籠を掲げる時に朱筆で点をつければ、奪うことはできない」。言われた通りにすると、点がつくものは点がつくが、縮むものは縮むのであった[16]。そもそも一人で点をつけても、鬼たちが奪うのには敵わないのであった。

荷花児
 余姚[17]の章大立は、康熙三年の挙人で、家居して生徒を教えていたが、たちまち二匹の冤鬼、一方は女、一方は男のものが、白日姿を現した。はじめはその喉を扼し、ついで地に推し、両手で高く持ち上げ、手錠を掛けたが、空中から縄で繋がれているかのようであった。そしてまずは女の声になって言った。「わたしは荷花児だ」。ついで男の声になって言った。「わたしは王奎だ」。いずれも北京の口振りであった。
 家人は尋ねた。

「どのような怨みがあるのだ」

「章大立は前身は姓を翁、名はやはり大立[18]といい、前朝の隆慶年間に刑部侍郎となった[19]。その時わたしの主人周世臣は、錦衣指揮[20]の職であったが、家は貧しく、妻がなく、荷花児、王奎という(はしため)(しもべ)が伴っているばかりであった。盗賊が部屋に入り、世臣を殺して去ると、わたしたち二人はお上に報せた。お上は張把総を遣わして部屋に入らせ、盗賊を捕らえさせたが、わたしたち二人が姦通したために主人を弑したのかと疑った。刑部は厳しく拷問し、わたしたち二人は苦しみに勝えず、みずから無実の罪を認めた。しかし刑部郎中潘志伊[21]は疑問に思い、訴訟は長いこと決しなかった。大立が侍郎になると、たちまち大いに怒りを発し、郎中王三錫[22]、徐一忠[23]にふたたび訊問することを委ねた。二人は迎合し、以前の意見に照らして判決した。志伊は懸命に争ったがうまくゆかず、わたしたち二人を市で剮[24]にした[25]。二年後、ほかに真犯人が捕らえられ、都の人ははじめてわたしたち二人の冤罪を知った。そのことが宮中に伝わると、天子は怒ったが、大立の官職を奪い、一忠、三錫を地方に転任させただけであった。お尋ねするが、凌遅の重刑だったのに、職を奪うことで(つみ)を蔽うことができるのか。だからわたしはこちらへ命を取りにきたのだ」。
 家人は尋ねた。

「どうして王、徐の怨みに報いないのだ」

「かれら二人は悪行がさらに多く、一人はすでに豚に変わり、一人は[26]の獄中に囚われているから、わたしがこれ以上報いることはない。大立だけは前身がすこぶる清官と称せられていたし、顕職にあったので、ぐずぐずしているのだ。今かれはすでに三度目の人の身に投じているが、禄位は限りがあるから、ようやく報復することができる。それに明末は朝廷の綱紀が乱れ、運気は絶えようとし、冥府の鬼神も多くは愚かであった。わたしたちはしばしば訴えたが受理されず、出京するのを許されなかった[27]。当今は大清の世で、冥府の陰官さえも、心を清め、顔を改めているのには及ばない」。家人は跪いて頼んだ。「名僧を召してあなたを済度してさしあげるのはいかがでしょうか」

「わたしに罪があるなら、名僧が済度しなければならないが、わたしたち二人はすこしも罪がないのだから、名僧が済度することはない。それに済度とは、わたしをはやく人の身に投じさせようとすることにすぎない。わたしが想うに、人の身に投じ、大立に遇ったら、やはり復讐することになり、かれはかならずわたしたち二人の手で殺されるだろう。しかし傍で見ている者は来歴が分からないし、わたしと大立はすでに世を隔てており[28]、報復しても、双方がいずれも来歴を知らないのだから、役人をする人々に戒めを垂れる術がない。だからわたしたち二人は、冥府が輪廻するようにと命令するのを聞くたびに、固辞して承知しないのだ。今回怨みが報いられれば、輪廻することができよう」。そう言うと、(つくえ)の上の小刀を取り、みずからその肉を割き、一片一片を下に落とした。女の声になって尋ねた。「のようでしょうか」。男の声になって尋ねた。「痛みが分かるか」。血は流れ、席に満ちて死んだ。

欧陽K[29]
 宋代、浙西に陳東[30]、欧陽Kの廟があった。当時士民はかれらの忠を憐れみ、私的に建てて祀っていたのであった。後に王倫[31]が金国から来たとき、顔を見て憎み[32]、有司に命じて破壊させた。明末に金持ちで義を好む李士貴が、ふたたび艮山門外に廟を建てたが、郷民が祈願するとすこぶる霊験があった。
 ある日、李が夢みたところ、神人が布の袍、革の(くつ)のいでたちで、門を叩き、面会を求め、言った。「わたしは欧陽Kといい、その昔、位は卑しかったのにずけずけものを言ったのだ。罪を得たのはわたしがみずから招いたことだ。さいわい上帝はわたしの忠誠を憐れみ、わたしに命じて杭城の水旱を司らせた。杭城の地はとても大きく、わたし一人で処理することは難しい。わたしには友人が二人いた。一人は樊安邦、一人は傅国璋、いずれも布衣だが気節があった。二人の像をわたしの側に造り、わたしが土地を安撫するのを助けさせてくれ」。李は承諾したが、笑って尋ねた。「陳東先生はどちらにいらっしゃるのです。なぜお仕事を助けないのでございましょう」

「李伯紀さまが現在南岳を司っており、陳先生を招いて右筆にしてゆかれたのだ」

士貴は翌日すぐに二つの像を傍に添えた。

浮尼
 戊戌の年、黄河が決潰した。河官の監督者が堤を築きあげるたびに[33]、水面を緑の羽の鵝鳥の群れが飛んでおり、その夜に堤はかならず崩れるのであった。火縄銃で撃つと、散ったり集まったりし、一月後はじめて収まった。老いた河員[34]も、鵝鳥が何であるのかは知らなかった。後に『桂海稗編』[35]を閲したところ、前明の黄蕭養[36]の乱のとき、黄江[37]で緑の鵝鳥が祟ったことを載せてあった。識者は言った。「これは名を浮尼といい、水怪だが、黒い犬を供え、五色の粽[38]を投じると、自然に去る」。言われた通りにすると、(しるし)があった。

雷火が忠臣を救うこと
 全椒[39]の金光辰[40]は、御史のときに直諌して崇禎皇帝の怒りに触れ、平台[41]に召して問い質し、厳重に懲らそうとした。するとたちまち迅雷が御座を震わしたので、免れた。嘉靖[42]は劉魁[43]、楊爵[44]、周怡[45]の直諌を怒り、杖うちにして獄に入れた。すると神が乩に降り、三人は冤罪であると言ったので、かれらを赦した。後に熊浹[46]が乩仙は信じるに足りないと言ったため、ふたたび捕らえて入獄させた。まもなく、高元殿[47]で火災が起こり、帝が霊台に祷ったところ[48]、火の光の中で、三人の姓名を呼び、忠臣であると称する者があったので、急いで詔を伝えて釈放し、その官職に復せしめたのであった。

滑伯[49]
 河南滑邑[50]の役所に滑伯の墓があり、とても大きく、県令が着任すると、かならずさきに祭り、朔望に参拝するのであった。滑伯の神はしばしば出現したが、珪璋[51]袞冕[52]で出てくれば、役人はかならず昇進するが、深衣[53]便服[54]で出てくれば、役人は不運となることが多かった。わたしの門生呂炳星は滑州の知事となり、とある日に滑伯が(かぶと)を着けて墓の上に立つのを見たが、その年、香河[55]の同知[56]に昇任した。墓前には古木がとても多かったが、木の葉が落ちた時は、風が吹いて四散し、昔から墓の上に落ちないのも奇妙であった。

盤古[57]の足跡
 西洋の錫蘭山[58]は、高さは雲漢を凌いでいる。その頂には巨人の足跡があるが、石の窪みは深さ二尺、長さ八尺、盤古皇帝が天地を切り開いたときの足跡と言われている。その国の人々は多くは裸形で、衣を着る者は、皮肉はかならず爛れるのである。

珠の重さが七両あること
 『明史』[59]に、永楽十五年、蘇禄国[60]が大きな珠を献じたが、重さは七両あまりであったとある。

胆を採り、酒に入れること
 占城国[61]では生きている人の胆を取り、酒に入れ、家人と飲み、さらにそれを身に浴びせ、「全身が胆だ[62]」と言う。つねに道で人を狙い、不意打ちして殺し、胆を取って去る。その人が驚けば、胆はさきに裂け、役に立たなくなってしまう[63]。たくさんの胆を器に置くが、かならず中華の人の胆を上に置く。王は在位すること三十年で、位を避けて深い山に入り、兄、弟、子、甥を代わりにし、みずからは斎食を摂り、戒を受け、「わたしが君主として無道であれば、虎狼にわたしを食らわせるか、病死させるようにお願いします」と天に告げる。一年たっても恙なければ、元通り復位するのである。

胆の長さが三寸あること
 福王[64]が敗れたとき、義兵を起こした呉漢超[65]は、宣城[66]の生員であった。兵が潰滅すると、城から逃げ出したが、その母がいることを思い、城に入り大将に見えると言った[67]。「首謀者はわたしだ」。殺して、その腹を剖くと、胆は長さが三寸であった。

湖神が屍を守ること
 明末の大学士賀逢聖[68]は、武昌で張献忠[69]に逼られ、墩子湖[70]に投身して死んだ。夏から秋になると、神が夢枕に立ち、湖の住民某に言った。「わたしは上帝の命を奉じ、賀さまの屍を守っているがとても苦しい。おまえは掬って見るがよい。左手に黒子がある者がそれだ」。某は目覚めると不思議に思い、湖で待っていると、赫然と屍が出てきたので、納棺して葬った。屍は水中にあること百七十日であったが、顔は生きているかのようであった。

僵屍(キョンシ)が韋駄を抱くこと
 宿州[71]の李九という者は、布を売ることを生業にしていた。霍山[72]を通り掛かると、日が暮れたが、宿には客が満ちていたので、やむを得ず、仏廟の中に宿った。二鼓になり、ぐっすり眠って、夢みたところ、韋駄神がその背を撫でて言った。「すぐに起きろ。すぐに起きろ。大難が訪れようぞ。わたしの後ろに隠れれば、おまえを救うことができるぞ」。李は目覚めると、よろよろと起った。見れば(とこ)の後ろに安置されていた棺が然と音をたて、一体の屍が走り出てきたが、全身が白い毛で、逆さに銀鼠[73](コート)を着ているかのよう、顔も毛でいっぱいであった。両眼は深く暗く、中に緑の眼があり、光は閃閃然として、李にまっすぐぶつかってきた。李は仏の厨子に駆け上がり、韋駄神の背後に隠れた。僵屍(キョンシ)は両腕を伸ばすと韋駄神を抱いて咬み、嗒嗒(タアタア)と音をたてた。李が大声で叫ぶと、僧たちはみな起きあがり、棍棒を持ち、松明を点してやってきた。僵屍(キョンシ)が棺の中に逃げ込むと、棺は元通り合わさった。
 翌日になり、見たところ、韋駄神は僵屍(キョンシ)に壊され、持っていた杵は三つに折れており、僵屍(キョンシ)の力がこのように強いことがはじめて分かった。僧たちはお上に報せ、その棺を焼いた。李は韋駄の恩に感じ、塑像を造り、金箔を貼ってあげた。

貧乏な鬼が人に祟り、金持ちの鬼は人に祟らないこと
 西湖の徳生庵[74]の裏門の外には安置された棺が千あまり、積み重なって山のようであった。わたしは往って寓所とし、庵僧に尋ねた。「この地で鬼の祟りがあったか」。僧は言った。「こちらはすべて金持ちの鬼ですから、年中静かでございます」。わたしは言った。「城内にこのように多くの金持ちがいるものか。こんなに多くの金持ちの鬼がいるはずがない。それに長らく安置して葬らないのだから、金持ちでないことは明らかだ」。僧は言った。「金持ちだと申し上げましたのは、その生前を指して申したのではございません。死んだ後に酒食で祭られ、紙銭を焼かれていれば、金持ちの鬼と申します。この千あまりの棺は長いこと安置され、埋葬されていませんが、僧は毎年四季にかならずお布施を募り、法事をし、盂蘭会[75]を設け、紙銭千万を焼くので、鬼たちは酔い、満腹し、邪心を生じないのです。世の人々の強盗、詐欺などの事件は、すべて飢えと寒さから起こっているのがお分かりになりませんか。病人が口で語り、目で見る鬼に、衣冠が華美で、相貌が豊満な鬼がございましょうか。祟って祭祀を求める者は、おおむねぼさぼさの頭にがたがたの歯の、襤褸を纏った貧乏書生の鬼だけでございます」。わたしはその言葉は尤もだと思い、一月あまり留まったが、童僕や下女でも、暗い夜に、鬼が嘯くのを聞いた者はなかった。

雷神の火剣
 乾隆戊申八月、河庫道[76]の司馬公は二人のしもべを家に還らせた。一人は祝昇といい、年は三十、一人は寿子といい、年は十六であった。二人が船を雇って宝応[77]の劉家堡の地に行くと、空はだんだん暗くなったが、寿子は突然喜んで言った。「前方で舞台を組んで芝居を上演しています。金の盔と金の鎧の神さまが舞台にいて、とても賑やかです」。傍の人々は見えなかったので、笑って言った。「前方は河の水が滔滔としていて、まったく舞台はない。おまえは子供っぽいから、一心に観劇したいと想っているのだろう」。祝昇と一人の水夫は争って言った。「芝居が演じられているのに、みんなはどうして見えないのだ」。話していると、悪風が帆柱を吹き折り、船全体が暗くなり、雷が轟き、寿子、祝昇を舳先で撃ち殺し、水夫を船尾で殺した。雷雨がやや収まると、船室の人々は大いに驚き、船を泊めて県庁に報せ、役所に検屍を求めた。
 にわかに祝昇が蘇って言った。「わたしが寿子と船で観劇しておりますと、たちまち前方に万条の金の光が見え、水路は見えなくなり、地面には真っ白な銀の磚が布きつめられていました。台の上には宮殿が高々として、中に冕旒[78]の神が坐し、(しかく)い顔に白い鬚、傍には金のと金の鎧の者数十人が立っていました。金の鎧の神は冕旒の者に向かって鞠躬、言上していましたが、言葉は理解できませんでした。冕旒の神が頷きますと、金の鎧の者は走り出て、船に乗り、わたしと寿子、水夫の三人を捕らえて殿上に行かせ、跪かせました。腰に掛けてあった剣を抜きますと、紅い光は輝いて、寿子の頚を横に貫き、さらに水夫の胸を横に貫きました。わたしは雲行きが良くないと思い、身を傾けて逃げようとしましたが、別の金の鎧の神に引き止められ、金瓜の錘[79]で頭を一打ちされたため、気絶して、その後人事不省になったのです」。
 県官の万公が調べにきて、この供述を取り、上申、立件した。寿子、水夫の二体の屍を調べると、はたして細い孔が喉、胸の二箇所を貫いていたので、棺を買い、納棺、埋葬した。祝はまだ活きており、船中で治療するわけにはゆかなかったため、船に棹さして大王廟に行き、停泊し、祝昇を廟に担ぎ入れた。祝は大王を望み見ると、驚いて言った。「さきほど上座に着いていたのは、この神さまです」。さらに傍を見ると言った。「神さまたちが、殿上におわしますのに、どうしてわたしを救ってくださらないのでしょうか」。そう言うと、粥を一碗食らい、息絶えた。
 その年の冬、わたしは劉霞裳とともに[80]に遊んだが、劉家堡を過ぎると、大王廟に船を泊めた。神々を見にゆくと、みな尋常の金箔を貼った木偶で、とりたてて霊験はなかった。劉は神に向かって尋ねた。「寿子は若かったのに、どのような悪事があって天誅を受けたのでしょうか」。神は答えなかった。わたしは笑って言った。「馬鹿秀才め。これがいわゆる『民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず[81]』ということだ。幽明は同じ道理なのだから、神に対して余計なことを言うことはない」。

水晶孝廉
 広東の紀孝廉は、子供の時に誤って蛇の腹に入ったが、暗くて何も見えず、腥い臭いがするばかりであった。その壁を撫でたが、ぬらぬらとして気味悪かった。さいわい身辺に小刀があったので、その壁を掘った。ようやくすこし明るくなったので、明るいところから抜け出て、疲れて地に臥した。隣人はかれを見ると、その家に連れ帰った。その日、村から三十里以上離れたところで大蛇が死んでいた。孝廉は毒気に傷われ、全身の皮が剥がれて水晶のよう、胃や腸がすべて見え、幼年から壮年に至るまで改まらなかった。郷試に合格した後、同年[82]たちはみなかれを見ると、「水晶孝廉」と呼びなした。

水鬼が家を移すこと
 王某は杭城の東園[83]に住んでいたが、その地には養魚池が多く、東西で接しあい、真ん中を一つの土手が隔てていた。晩夏の正午、土手の上に立って涼んでいると、東の池に突然一筋の泡が生じたが、幅は一尺ばかり、潮が湧いてくるかのように、ざぶざぶと音をたてた。土手の岸に近づくと、一尺半ほどの長さの黒い気が東の池から西の池に飛び込んで静かになったが、鼻には羊の腥い臭いがした。隣人に尋ねると、「水鬼が家を移したのです」と言った。

妻に負いた報い
 杭城仙林橋[84]の徐松年は、銅細工店を開いていたが、年が三十二のとき、にわかに瘵疾[85]になった。数か月後、疾がだんだん劇しくなると、その妻は泣きながら言った。「二人の子はいずれも幼く、あなたにもしものことがあれば、育てることはできませんから、神さまにお祷りし、寿命をあなたにお貸ししようと思います。あなたは子供を育て、かれらが成長するのを待って嫁を娶らせれば、家庭を作ることができますから、あなたが再婚することはございません」。夫が約束すると、妻は願文を城隍に投じ、さらに家神[86]に祷った。妻はだんだん疾になり、夫はだんだん疾が癒え、妻は一年で亡くなった。
 しかし松年はその言葉に負き、曹氏と再婚した。合巹の晩、寝床に一人の冷たい人が挟まり、新郎が交接するのを許さなかったので、新婦は驚いて起ちあがった。これは前妻がみずから(はしため)に乗り移って騒いでいるのであった。かれは口でひどくその夫を責め、ともに寝ること五六か月、斎戒、祈祷しても(しるし)はなく、松年は疾で歿した。

四匹の小亀が一匹の大亀を担いでゆくこと
 杭城の横塘鎮に孤静庵があり、一人の老僧がその後殿で修行していた。見れば四匹の小亀がいっしょに一匹の大亀を担いでいたが、直径は一尺ばかり、塀を巡り、(おばしま)に依り、ぐるぐると歩き、回るのをやめなかった。老僧が読経しおわり、を鳴らすと、亀はようやく姿を消した。数年後、老僧が円寂すると、亀もふたたび現れなかった。これは雍正年間の事であった。

鬼が湯円(タンユエン)[87]を送ること
 杭州の王生縄玉は、横塘の鍾家で子供を教えていた。鍾の第三子は字を有条といい、すでに二十歳であったが、みずからその年を瞞き、十六と称して、尋ねた。「弟子(わたくし)はこの年でも読書することができましょうか」。王は「志を堅くすることができれば、書物を読めないはずがない」と答えた。有条は大いに喜び、暗誦することを止めなかった。その父は普通の商人であったので、良いこととは思わず、呉門に赴いて交易するように迫った。有条は鬱鬱として呉門に往くと、昼は市場に赴き、夜は戸を閉ざし、帷帳の中に身を隠し、ひそかに研鑽を積んだ。部屋中に「(とし)(われ)(とも)ならず[88]」の四字を貼った。四ヶ月後、疾が篤くなって故郷に帰った。時に重九[89]に近かったが、家に着くと亡くなった。柩は家に安置された。
 翌年の七夕の一日前、王は夢の中で、奥の間の門を開ける音を聞いたので、歩いてゆき、書斎の扉を開いて入った。見れば有条が左手に燭を執り、右手に碗を執っていたが、碗の中は騰騰たる湯気、王の(とこ)の前に来て、帳を開くと笑って言った。「先生はお腹が空かれましたか。わざわざ点心を運んでまいりました」。王は起坐してその碗を受け取ると、中に湯円(タンユエン)四個が浮かんでおり、さらに銅の銚[90]があった。そこでかれが鬼であることを忘れ、つまみあげて食らった。三つめで満腹したので、一つを残し、すぐに有条に返すと、有条はまた帳を下ろし、門を閉ざして去っていった。
 王はたちまち大悟し、驚いて言った。「有条は歿してすでに一年になるのに、今晩はどうして来たのだ」。考えていると[91]、体の中で寒熱[92]がにわかに起こり、夜から明け方まで、循環すること三度、とても疲れ、起つことができなくなったので、輿を呼んで家に帰った。家では門を塞ぐ鬼が百十をもって計えた。老若男女、他郷本郡、あらゆる鬼がいたが、おおむね鳩形鵠面[93]、衣を羽織り、(くつ)を曳く、貧乏な鬼がもっとも多く、怪奇な姿をした恐ろしい者はなかった。
 王は妹が翟家に嫁いでおり、兄の疾を見にきたが、鬼は病人の口で言った。「あなたは鄭家橋の翟家の奥さんなのに、こちらに来たのですか」。王の弟が訪ねると、翟の隣家の新妻で最近縊れ死んだ者であった。
 王の父は医者を招いて投薬させることにし、病人を扶け起こして服用するように命じたが、鬼たちは押し合いへし合いし、その手を持ったので、服用させることはできなかった。このようなことが再三であったので、王は嫌になり、父の命に背き、結局薬を飲まなかった。翌朝、ほかに医者を招いて診察させると、医者は「投薬なさいましたか」と尋ねた。父が事情を語ると、医者は処方を求めて見たが、驚いて言った。「飲まなかったのはさいわいでした。さもなければ今日は声を出すことができませんでした」。ほかに処方を作ると、鬼はふたたび奪いにこなかった。それからは鬼たちは家に満ち、昼は天の光を掩い、夜は燈の火を蔽い、坐したり立ったり、話したり笑ったり、集まること十余日であった。家ではお経を誦えて燄口[94]を済度したが、すこしも効果がなかった。一匹の女の鬼が叫んだ。「おまえの家が老僧宏道を招いてくれば、わたしたちは去ろう」。そこで言われた通りに、宏道を呼びにいった。宏道が入り口に着くと、鬼たちは轟然と散り、病もようやく収まった。
 袁子曰く、お経を誦えて燄口を済度するとき、(しるし)があることもあればないこともあるが、これが「治人は有るも、治法は無し[95]」ということである。鬼の食べものを人に食わせてはならないことを知らずに、その先生に差し上げたのは、愚忠愚孝ということである。

忠恕が二字を一画で書いたものであること
 黄照は、歙県の人、もともとは福山[96]の同知に任ぜられていたが、官を罷めた後は韶州の書院[97]で主講[98]をしていた。かつて「忠恕」二つの大きな字を書き、講堂の石に刻み、「新安後学某敬書」と落款した。
 とある日、夢みたところ、黒衣の者二人が燈を執りながらやってきて言った。「命を奉じておまえを召す」。黄はすぐについていった。とある場所に着き、階を昇ると、「止まれ」と叫ぶのが聞こえた。黄がすぐに立ち止まると、黒衣の人が左右に分かれて立っており、間を一層の白雲が隔てていた。人が言った。「おまえは大清の官員だが、どうして今に生きながら古に返り、『忠恕』の二字を書いたとき、『新安[99]』と落款したのだ。はやく改めろ」。黄は目覚めると、先に刻んだ「新安」の二字を「歙県」に急いで書き改めようとした。
 数日後、また夢みたが、以前の黒衣の人がもとの場所に引いてゆくと、雲の中の人が語った。「おまえが書き改めて石に刻んだのはもとより良いことだが、『忠恕』が二字を一つにして読んでいることを知っているか。おまえは古い法帖の中で捜してみろ」。黄は目醒めると、十七の法帖を調べてみた。見れば「忠恕」二字の行書は「中心如一(ちゆうしんいちなるがごとし)[100]」の四字だったので、恍然と大悟し、ふたたび壁上の石刻を壊し、法帖の中の行書に倣い、あらためて書いて石に刻んだ。韶州の書院に現存している。

土雨
 乾隆十四年、李元叔秀才は都から瀋陽の家庭教師先へ行き、翌年の夏四月、京師に戻るとき、遼水を渡った。その日は北台子[101]に行ったが、站路[102]がひどく長かったため、暗くなっても宿に着くことができなかった。時に四台の車に乗り、深い林に入ったが、樹の葉の上にさらさらと雨の音がし、衣に注いだ、見ればすべて土であった。まもなく、四頭の騾馬は蹄を寄せ[103]、後ろに退き、進もうとしなかった。騾馬引きは大声で叫んだ。「鬼がしゃがんで道を塞いでおり、車は引いても動きません」。路を開く鉄の鋤を取り[104]、土を掻いて撒き、口で呪文を誦えると、車ははじめて進むことができた。数歩行かないうちに、火を見たが、湯飲みほどの大きさ、車に沿って進んだが、その光は上下遠近が定まらず、輝くこと一里ばかりで消えた。土人は言った。「鬼物が現れるときは、さきに土雨があるのです」。

降廟
 粤西[105]に降廟というものがある。各村に総管廟[106]があるが、塑像は美しかったり醜かったり老いていたり若かったりして一様ではない。降廟の術を学んだ者は、術が完成しようとすると、廟に行き、占いし、神を降ろす。神がはじめて来るときは、一振りの剣を廟の門の中に挿すが、神が降りれば剣が抜けて戻ってくる。神が降りなければ、脚で蹴り倒すが、すぐに起つことができれば生き、起たなければ、神に誅せられるのである。
 その方法は、一碗の浄水で「井」の字を書いて丸で囲むのである。地面にも「井」の字を書いて丸で囲み、八仙卓[107]の真ん中にも「井」の字を書いて丸で囲み、童子四人を召し、手の上にそれぞれ「走」の字を書いて丸で囲むと、卓の表面を逆さにしてお碗の上に向け、四人の童子は指で卓を担ぎ、その人は口で呪文を誦える。「天も回れ、地も回れ、左と叫べば左に回れ、右と叫べば右に回れ、太上老君はすみやかに(めい)の通りに回らせよ。もしもまだ回らないなら、銅叉も回れ、鉄叉も回れ[108]。これ以上回らないなら、土地、城隍が代わりに回れ」。唱えおわると、卓は回転するが、その後で薬の処方を求めると、かならず(しるし)があるのである。

隴西[109]の城隍神は美少年であること
 康煕年間、隴西の城隍の塑像は、黒い顔で髯を生やしており、容貌はすこぶる厳しかったが、乾隆年間に突然塑像を改めて美少年にした。ある人が庵僧に尋ねると、僧は言った。「長老の話では、雍正七年、謝某という、年はようやく二十の者が、その師に従い、廟で勉強していました。夜に先生が外出しますと、謝は月影を踏みながら詩を吟じていました。すると一人が祈りにきましたので、神の後ろに隠れて伺い、聞いたところ、その者は祈りました。『今晩、盗みをして獲物があれば、かならず三牲を調えて差し上げにまいります』。はじめて賊であることが分かりましたが、神は聡明で正直な人なのだから、牲牢で動かすことはできまいと訝りました。ところが翌日、賊はお礼参りしにきました。生は大いに不満でしたので、文を作って責めました。神は夜にその師の夢枕に立ち、生に禍を降そうとしました。師は目醒めた後に生に尋ねましたが、生はごまかしました。師は怒り、その篋を探りますと、神を責める草稿がありましたので、怒って焚きました。
 「その夜、神はよろよろとしてやってきますと『わたしはおまえの弟子が神を敬わないことを告げにきて、禍を降そうとしたが、ほんとうはあのものをすこし脅かそうとしただけだ。ところがおまえはあのものの草稿を焼いたので、路を歩いていた神[110]によって東岳[111]に上奏され、たちまちわたしは革職、捕縛、訊問されてしまった。同時にこの城隍の位のことを上帝に上奏し、おまえの弟子を任に当てることになった』と言い、泣きながら退きました。
 三日足らずで、少年は亡くなりました。廟中の人は先払いの声を聞きましたが、新しい城隍さまのご着任と言っていました。その後、像を造る者は黒い鬍の(かお)を易えて美少年にしたのです」。

城隍が裸で衣を求めること
 張観察挺[112]が湖州の城隍廟を修理したときのこと、檀香で三丈の法身を彫り、繍袞[113](うわぎ)として着せ、祀ること三日、突然夜に一人の巨人を夢みたが、頭に平天冠[114]を帯び、身に衣服はなく、両股をむきだしにしてまっすぐ帳の前に立っていた。公は目覚めると心が動き、急いで廟に赴いて調べようとしたが、廟の道士が神衣が盗まれたことをすでに報せにきていた。そこであらためて神衣を作り、賊を捕らえるように命じたという。

水怪が気を吹くこと
 杭州の程志章は潮州[115]から黄崗[116]を通り、湾を渡った。半ば渡ると、激しい風となり、黒い気が衝きあがったが、中に一人の男がおり、全身は漆黒で、両眼の縁と唇だけは(おしろい)のように白く、舳先に坐し、息で舟の中の人々を吹いていた。船員は全部で十三人、まもなく(かお)はすっかり黒く変わって、男と同じとなり、変わらない者は三人だけであった。まもなく、黒い気は散じ、(あやかし)も見えなくなった。船を出すと、風浪がはげしく起こり、舟は水中に覆り、死んだ者は十人あったが、いずれも色が変わった者で、色が変わらなかった三人だけは免れた。

甕が響くこと
 杭州北門外三清院の林道士は(あやかし)を捕らえることができ、興化[117](あやかし)を甕の中に収め、三清神の座下に置いた。一年後、銭生袖海が友人の孔伝経を餞別し、南京の郷試に赴かせたが、酔った後、甕に向かって言った。「わたしの友が合格するなら、甕よ響け」。はたして一回響いた。客が散じて、生が夜に読書していると、白衣の人が(おばしま)に坐しながらかれに拱手した。生が界尺で打つと、掌を撫で、大いに笑って退いた。その年、孔君ははたして合格した。

貞女が怨みを訴えること
 陸作梅が潯州[118]太守[119]であったときのこと、和姦したものが自尽する事件があり、県の上申書が府に届き、文書が(つくえ)の上にあったので、「上申の通りにせよ」と書こうとした。その晩、幕友の部屋に激しい風が起こったが、一人の女が黙って立っており、五更になるとはじめて去ったようであった。幕友は太守に告げたが、たまたま太守は命を奉じて省城に上ることになったので[120]、その子に言った。「おまえは胆が太いから、今晩幕友の部屋に行き、様子を見るのだ」。
 晩に、公子は父の命に従い、幕友の書斎に泊まった。はたして前のように風が起こり、幕友はまたこの女を見たので、公子に告げた。公子は見えなかったが、大声で尋ねた。「何者だ」。女は言った。「わたしは(つくえ)の上の文書の中の者で、姦通を拒んだために死ぬこととなりました。父母は(まいない)を受け、和姦であると証言したため、わたしは名節を汚されました。以前県に訴えましたが、県も(まいない)を受け、怨みを雪いでくれませんので、こちらに来て怨みを訴えているのでございます」。公子は承諾し、その言葉を家への手紙に書き、太守に急報した。太守は省から帰るとき、たまたまその県を通ったので、幕友に手紙を送り、原案をもとの県に戻させた
 まもなく、県令が迎えにきた。太守は公館に泊まらず、さきに城隍廟へ参拝しにゆき、令に言った。「以前の姦通事件は冤罪であったと聞いたが、ほんとうか」。県はその父母の供述に従い、抗弁し対質することを要求した。太守はどうすることもできず、城隍廟に宿り、犯人及び隣家の証人たちに大殿の後ろに泊まるように伝え、人を殿舎の後ろに潜ませ、監視させた。三更過ぎになると、隣家の証人たちはそれぞれ話したが、女の父母の良くないことを罵り、その女の貞烈を憐れむ者があったので、聴いている者は筆を取って書いた。
 夜明けになると、まずは隣家の証人たちを問いただしたが、夜に書いたものを取って示すと、みな罪に服した。そこで強姦致死の判決をし、その女を表彰し、節孝祠に入れた。

楊成龍[121]が神と成ること
 処州[122]太守の楊成龍は、性格が正直で、役人をすること五十年、すこぶる名声があった。壬寅の春、わたしが天台に遊んだとき、わたしを招いて酒を飲み、山東の幾つかの大事件を処理したことを次々に述べたが、古の循吏の風格があったので、わたしは伝を作って表彰することを約束した。ところが別れた後に引退し、その子がいる深州[123]の役所で面倒を見てもらい、病むことなく亡くなった。それより前、太守が歴城[124]の知事をしていた時、沙板[125]一式を買い、張秋[126]の寺に置いていた。亡くなった後、その子濬文[127]は人を遣わして持ちかえらせ、納棺し、父の心を慰めようとした。
 すると突然、かれ[128]の幼い孫某は頭がくらくらして地に倒れ、たちまち起坐し、声を荒げて言った。「濬文よ、おまえはとても愚かだぞ。この六月の気候に、わたしの死骸を(とこ)に置いては、張秋から棺を取ってくる頃には、わたしの死骸が腐ってしまう。深州の木材はみな役に立つのだから、遠くから取ってくることはない。今、処州の人がわたしを迎えにきてかの地の城隍にしようとしている。わたしはおまえが葬式を挙げるのがやや落ち着いたら、着任しにゆく。ほかに言うことはない。人は世間で、良い役人なろうとすれば、かならず良い報いがある。しっかりと憶えておくのだ。来年の三月十四日、二番目の孫が生まれるが[129]、将来わたしの志を()ぐことができるから、『紹志』と名づけるがよい。わたしを葬るときは、唐務山中で癸か丁の山向にするべきだ[130]」。幼い孫はそう言うと、沈沈と眠り、突然、初めのように遊び戯れた。濬文はぞっとして、すべて父の命に従った。
 翌年、紹志が生まれたが、月日は(たが)わなかった。

周倉[131]が裸足であること
 言い伝えでは東台[132]白駒場[133]の関廟の周倉が裸足なのは、その昔、関公が襄陽で水を放って龐徳を溺れさせた時、周倉がみずから江に下りて(あな)を掘ったからだということであった。戊申の冬、わたしが東台を通ったとき、劉霞裳と廟に入って見たところ、裸足であった。さらに神座の後ろに木匣があったが、長さは三尺ばかりであった。言い伝えでは人が開けるのは許されない、某太守が祭って開いたところ、風雷がたちまちやってきたということであった。

張飛が治水すること
 大学士文敏公[134]は南河総督[135]となり、東岸に堤を築こうとした。夢みたところ、(かぶと)を着けた短い鬚の者がまっすぐ入ってきて一揖し、すぐに上座に着くと言った。「某堤を某所に築けば、危険はないぞ。こちらでは、うまくゆかんぞ」。は頷いたが、その後で、あの男は状貌は一介の武夫、言葉もぞんざいだったが、なぜ堂々と宰相と対等に振る舞ったのかと考え、すこぶる不愉快になり、ぷんぷんとして目醒めた。翌日着工したが、張桓侯[136]廟を通りかかり、しばらく留まって茶を啜ったところ、上座にある神像が夢の中の男さながらであったので、工事を中止するように命じたのであった。

神佑があるのは貴人に限らないこと
 章観察[137]の家奴陳霞彩は、上元[138]の義直巷に住み、その愛人といっしょに寝ていた。夜に風雨の音を聞いたが、雷が物を撃っているかのようであった。はじめは意に介さなかったが、夜明けに帳を掲げると、臥榻の後ろの山牆[139]が夜に崩れ、(しじ)の前後左右には、(レンガ)が積もること数尺、(しじ)だけが壊れていないのであった。青衣青楼[140]も、このように神佑を得るのである。

神になるのは賢人に限らないこと
 李海仲秀才は、京師で秋試[141]を受けるため、蘇州で鴨嘴船[142]を雇った。淮上[143]に行くと、船室の前に王某が来て、舟に同乗することを求めたが、昔の隣人だったので、いっしょに行くことにした。
 晩になると、王は笑いながら尋ねた。「君は胆が太いか」。秀才は愕然として、すぐに答えた。「太いよ」。王は言った。「君が恐がることを心配して、胆のことを尋ねたのだ。君は胆が太いなら、本当のことを告げねばなるまい。わたしは人ではなく、鬼なのだ。わたしは君と別れて六年になるが、前年は凶作で、飢えと寒さに迫られたため、(つか)を掘り、(たから)を盗み、捕らえられ、罪を得て、すでに斬罪になったのだ。今は鬼になったが相変わらず飢え凍えているので、都に借金を取り立てに行くのだが、君に連れていってもらいたいのだ」。李は尋ねた。

「誰の借金を取り立てにゆくのだ」

「汪某だ。あいつは刑部の司官[144]をしていて、斬罪の擬律案が部に来た時に反論し減等することを約束したので、五百両を贈ったのだ。ところがあいつはまったく世話をしてくれず、結局命を守ることができなかったので、祟りにゆくのだ」

汪某は、李の親戚であった。李は大いに驚き、諭した。「あなたの罪は誅せられて当然で、刑部の判決は不当なものではない。だが汪舍親があなたの財物を騙しとったのはよくないことだ。わたしはあなたを連れてゆき、事情を説明し、あなたにお金を還させて、怨みを解けばよいだろう。しかしあなたはもう死んだのに、銀を求めてどうするつもりだ」。王は言った。「わたしは使わないが、今でも妻子は家に居て、君の隣に住んでいる。取り立てをした後に、わたしに代わって渡してくれ」。李は承諾した。
 さらに数日して、京師に着こうとする頃、王はさきに行くことを求め、言った。「わたしはひとまずご親戚の処に行って祟るとしよう。あいつが救いを求めてもどうすることもできない時に、君が話しをしにゆけば、君に従うことだろう。そうしなければ、あいつは財を貪る人間だから、君が話しても、聴かないだろう」。そう言うと見えなくなった。李は入京し、寓居を捜し、三日遅れて、汪家に往くと、汪ははたして風狂の病を得ており、家を挙げて神に祈ったり占いしたりしていたが、すこしも効果がなかった。李が門口に来ると、病人は語った。「おまえの家に救いの星が来たぞ」。家人が争って李を迎えて尋ねると、李は事情を告げた。汪の妻ははじめは紙銭数万を焼いて償いしようとしたが、病人は大笑いして言った。「偽金で本物の銅銭を返済するとは、天下にこんなに安上がりな事はないな。はやく五百両を李さんに渡せば、おまえを許そう」。その家が言われた通りにすると、汪の病ははたして癒えた。
 さらに数日すると、李の処に来ていっしょに帰ろうと促したが、李は承知せず、言った。「わたしは受験していないのです」。鬼は言った。「君は合格しないから、受験することはない」。李は聴かなかった。三場[145]が終わった後、鬼はまた帰ろうと促した。李は言った。「わたしは合格発表を待とうと思います」。鬼は言った。「君は合格しないから、合格発表を待つことはない」。合格発表があったが名はなかった。鬼はやってくると笑って言った。「これで帰ることができるか」。李はがっかりし、即日出発した。鬼と船をともにしたが、鬼は一切の飲食を、嗅いだが呑まず、熱い物は嗅がれると、たちまち冷めるのであった。
 宿遷[146]に行くと、鬼は言った。「某村で芝居を演じているから、見にいってはどうだ」。李はともに舞台の下に行った。数齣を看ると、鬼はたちまち見えなくなり、飛ぶ(すな)と走る石の音が聞こえるばかり、李は船に戻って待っていた。天が暗くなろうとする頃、鬼は盛装してくると言った。「わたしは帰らない。わたしはこちらで関帝になる」。李は大いに驚いて言った。

「関帝になろうとするとはけしからん」

「世上の観音、関帝は、すべて鬼が成りすましている。前日の村の芝居は、関神への願ほどきだったのだ。願ほどきされていた関神は、わたしよりさらに無頼だったので、わたしは大いに怒り、決戦して追いだしたのだ。君は飛ぶ(すな)や走る石の声を聞かなかったか」

そう言うと拝謝して去った。李は五百両を帯び、その妻子に渡してやった。

中一目人(片目の人が合格)
 康熙甲戌の試験のとき、丹徒の裴公之仙[147]は数人の友人とともに入京して会試を受けた。都には乩仙[148]を召すのに長けた者がいたので、招いて合格するか否かを尋ねた。乩仙はやってくると、「貴」の字を書いた。人々が理解できず、ふたたび尋ねると、「すっかり書いたぞ」と言った。合格発表の後、裴公だけが会元[149]に合格し、残りはすべて落第した。裴公は片目が(すがめ)だったので、以前書かれた「貴」の字が「中一目人(片目の人が合格)」であったことをはじめて悟った。

女の鬼が告訴すること
 鎮江の包某は、年若く見目麗しかったが、妻王氏を娶った。包は代々商いを生業にしており、つねに同業者とともに閭巷に往来していた。乾隆庚子の秋、数人の友人とともに女遊びし、日が暮れると返った。王氏は一人の老嫗とともに台所に入り晩飯を調えていたが、門を叩く音を聞くと、老嫗に開けにゆくように命じた。すると一人の若い婦人が盛装して入ってきて、まっすぐ奥の間に赴いたが、尋ねても答えなかった。嫗は姻戚かと疑い、王氏に告げにいった。王が急いで部屋に走ってゆくと、包がいたので、老嫗は目が悪い、主人を婦人と誤認するとはと大いに笑った。
 すると突然、包が女の動作をし、襟を正して進み、王氏と時候の挨拶をすると、言った。「包さまが某娼家でお酒を召されていた時、わたしは門の後ろでひたすらお待ちし、出てくるのを待ち、いっしょに戻ってくることができたのでございます」。王はその声音や動作が包らしくないのを見ると、かれが発狂したかと恐れ、急いで僮僕と隣人、姻戚たちを召し、いっしょに見にこさせた。包は一人一人と会ったが、礼節は行き届いており、呼びかけは間違っておらず[150]、さながら大家の娘のようであった。男がすこし馴れ馴れしくすると、鬼はすぐに怒って言った。「わたしは貞女ですから、誰かがわたしに近づけば、わたしはすぐにそのものの命を取ります」。人々は尋ねた。「包さんにどのような怨みがあるのだ」。鬼は言った。「(わたし)と包さまは本当は愛していたため仇敵となったのです。以前城隍神に訴えましたが、都合十九通の訴状は、いずれも受理されませんでした。今回東岳帝君[151]に訴えましたら、はじめて受理されましたので、近々包さまといっしょに往きます」。その姓名を尋ねると、鬼は言った。

「わたしは良家の娘ですから、姓名をお聞きになってはいけません」

「包さんのどのようなことを訴えるのだ」。

鬼はすぐにつづけて十九の訴状を誦えた。その言葉はとても速く、すべて理解することはできなかったが、おおむね包の心変わりを訴え、かれが帰らないようにという趣旨であった。ある人はさらに尋ねた。「おまえは包さんの体に乗り移って話しているが、包さんは今どこにいるのだ」。鬼はすこし笑って言った。「わたしによって城隍廟の側の小屋に縛られています」。王氏は泣きながら拝礼し、その夫を釈放するように求めたが、鬼は返事しなかった。
 夜になると、姻戚たちはひそかに語った。「あの鬼は城隍に訴えたが受理されなかったと言っていた。今、城隍廟の側で包さんが縛られているのなら、神さまに告げにゆき、そのお裁きを求めてはどうか」。そこでいっしょに線香、蝋燭、紙銭を買い、往こうとすると、鬼はたちまち言った。「みんながいっしょに頼みにくるなら、ひとまずかれを釈放し、帰らせよう。おのずと東岳さまのお裁きがあるだろう」。そう言うと地に倒れた。
 まもなく包は蘇り、とても疲れたと称した。人々が取り囲んで見たことを尋ねると、包は言った。「わたしが女郎屋を出ると、この女が従っていた。はじめは人の左や右にいたが、練兵場に行くと、女はにわかに進み出て、わたしを引いて城隍廟の左側の小屋に往かせ、暗闇の中、縄でわたしの手足を縛り、地に置いたのだが、傍には守っている人がいるかのようだった。しかしさきほど女が来て『今回はひとまずおまえを釈放し、帰らせよう』と言った。わたしは戸から推し出され、転んで目醒めると、自分はすでに家にいたのだ。この件は、明日東岳さまが呼び出し、取り調べをするはずだ」。さらにその詳細を尋ねたが、包は熟睡するばかりであった。
 翌日の午後に起きると、言った。「使いが来たから、はやく酒食を用意しろ」。庁から出ると空席に向かって拱揖したが、言葉は多くは理解できなかった。酒が設けられると、ふたたび戻って(とこ)に臥し、一更頃に死んだが、胸元だけはすこし熱かった。王氏は人々と泣きながら見守ったが、包の顔色は時に青く、時に紅く、時に黄となり、変幻して測り知れなかった。三更過ぎ、胸元と喉、頬に紅斑と爪痕が数ヶ所現れた。翌晩の二鼓になると、弁髪がたちまちほどけた。朝になるとようやく蘇り、食事を求めて十数の器を平らげた、呑みこむのが速かったため、見る者は愕然とした。すこし落ち着くと、叫んだ。「酒食を持ってきて下役を持てなすのだ」。王氏が前のように酒食を設けると、さらに紙銭六千文を取ってこさせ、破れたものを除くように命じ、四千文を(ひろま)の前で焼き、二千文を門の側の巷で焼かせた。さらにみずから起ちあがり、大門に行き、拝礼しながら送る動作をし、部屋に戻ると、熟睡すること二日で起つことができるようになり、ことごとく見たことを話した。
 女の鬼が縛めを解いて包を戻した翌日の午後、二人の下役が呼びにきた。片方は知らない者、片方は陳といい、やはり商人の子で、子供の時、包と同窓の友であった。陳は家が貧しかったので、妻を娶った時、包は銭数千文を援助したが、今はすでに歿してから三年がたっていた。かれは包に言った。『この事は速報司に審理させることになった。きみはわたしと同窓の親友で、生前高誼を承けていたから、ねんごろにお世話しよう。刑具に掛けることはあるまい』。いっしょに進むと、二人の下役がこの前の女の鬼に鎖を掛けていた。鬼は大いに怒り、包に頭突きし、手で包の頬を抓って傷つけたが、これが包の身に紅斑や爪痕が現れた理由であった。女の鬼は二人の下役が法を枉げていると罵ったので、下役はやむを得ず、包にも鎖を掛けてともに進んだ。路はますます長くますます暗く、陰風は烈しかったので、辮髪はすべてほどけた。
 とある場所に着くと、ぼんやりと役所が見えた。下役は地に坐して待機するように命じた。するとたちまち二つの紅い提灯が中から出てきた。二人の下役は包の鎖を取りさり、中に連れてゆき、提灯が止まっている処に跪かせた。見れば公案には文書が置かれ、一人の役人が上座に着いていたが、紅袍烏紗[152]のいでたち、手で鬚を扱きながら、尋ねた。「おまえは包某か」。包は答えた。「はい」。役人はすぐに女の鬼を連れてこさせたが、尋ねたり答えたり、言葉はすこぶる多かった。女は包と並んで階の下に跪いたが、離れること一尺ばかりであったのに、一言も聞こえなかった。役人は激怒し、女の鬼の頬を十五回打たせ、枷と鎖を掛けさせた。二人の下役が牽くと、女は痛哭して去った。
 包ははじめて(つくえ)の前に跪いたが、じめじめとぬかるんでおり、陰風は髪を吹き、顔はすっすっと刀で刺されるかのよう、寒さは耐え難いものであった。女が頬を打たれた時、陳は傍からこっそり言った。「もう裁判に勝たれましたから、髪を結ってあげましょう」。包がふたたび頭を挙げると、燈と役人はすっかり見えなくなっていた。二人の下役がかれを送り返したが、出張費は四千文だ、二千文は、陳が私的に取ったのだと説明した。
 人々は包に尋ねた。「その女を知っているのか」。包は知らないと力説した。事情を忖度するに、女の鬼は包の容姿を慕ったために亡くなったが、包を招いて冥土で連れ合いになろうとし、私情を逞しうしてみだりに訴えたため、冥府に責められたのであろう。

丁大哥
 康煕年間、揚州の郷人兪二は農業を生業にしていた。城に入り、麦の代金を取りたてたところ、商人に引き留められて酒を飲み、帰る頃にはもう遅く、道は暗くなっていた。紅橋に行くと、小人数十人がかれを引いた。兪はもともとこの地に鬼が多いことを知っていたし、胆はとても太く、酒に酔ってもいたので、拳を奮って殴ったところ、幾たびか散ったり集まったりした。やがて鬼が語るのが聞こえた。「この男は凶暴だから、わたしたちは抑えつけることができない。丁大哥を招いてくれば、抑えつけることができるだろう」。そして哄然として去った。兪は丁大哥がどんな悪鬼であるかは知らないが、こちらに来たからには、前進あるのみだと考えた。橋を過ぎると、一匹の鬼を見たが、身の丈は一丈ばかり、黒い影の中にぼんやり見えるその顔は青紫、獰猛で恐ろしかった。兪[153]は手を出すのが遅れれば、不利になり、逃れることは難しい、かれが来ないうちに迎え撃つにしくはないと考えた。腰の布包みを解き、銅銭二千文を正面から投げつけたところ、その鬼はすぐに地に倒れたが、通りの石に触れると、鏗然と音をたてた。兪が足で踏むと、だんだんと小さくなったが、その体はとても重かったので、しっかり握って家に帰った。燈の下で照らして見ると、古い棺の大きな鉄釘で、長さは二尺、太さは巨きな指のよう、火に入れて溶かすと、血がぽたぽたと出てくるのであった。兪は友人たちを召すと笑って言った。「丁大哥の力は兪二哥に及ばないな」。

汪二姑娘
 紹興の呉某は排行が三、趙州[154]刺史[155]の役所で法務を司っていた。後に文書を司る者が招かれたが、やはり呉姓で排行が三、蘇州の人であった。役所では「老呉師爺」、「小呉師爺」と称していた。かれらは部屋が向かい合わせで、とても親しくしていた。刺史には妾七八人がおり、侍婢はたいへん多かったが、いずれも妖艶、つねに部屋の近くに出入りしていた。二人の呉は某某はわたしの好みだ、某某はあなたの好みだと品定めしては、ふざけあっていた。
 ある日、公務が終わった時、すでに三鼓になっていたが、それぞれ部屋に戻って就寝した。小呉は(とこ)に坐して喫煙し、帳の外で燭を燃やすと、(しもべ)に入り口を閉ざして去るように命じた。まもなく、役所がすっかり静かになると、たちまち人が門を推した。小呉は誰かと尋ねたが、答えなかった。見れば一人の女がいたが、年は二十ばかり、容色はとても美しかった。かれは急いで駆け込んできて、(とこ)の前に着くと目を瞠った。小呉は驚いて尋ねた。「あなたは誰です。どうしてこちらに来られたのです」。女は言った。「わたしは汪二姑娘で、紹興の呉三を尋ねてきたのです。間違えました。間違えました」。呉はかれが主人の侍婢で、老呉と約束があるのかと疑い、笑いながら指さすと言った。「紹興の呉三は向かいの部屋です。わたしは蘇州の呉三です」。女はすぐに去った。
 翌日、老呉に向かってふざけて言った。「昨晩はお楽しみでしたね」。老呉はわけが分からなかったが、何度も言われたので、事情を尋ねると、小呉は笑って言った。「わたしが目撃したことなのに、まだごまかすのですか」。老呉はますます訝り、再三尋ねると、小呉は衣服の状態や、汪二姑娘が紹興の呉三を尋ねてきたことを告げた。老呉は茫然として色を失うと言った。「どうしてこちらに来たのだろう」。すこし落ち着くと、小呉に告げた。「それはわたしのごく近い親戚で、亡くなってすでに十数年になるのだが、どうしてわたしを尋ねてきたのか分からない」。小呉は驚いたが、かれの顔色がすぐれないのを見ると、それ以上尋ねなかった。
 晩になると、老呉は黙黙として語らず、畏れの色はますます激しくなったので、小呉を部屋に引いてゆきいっしょに居させようとした。小呉がつよく拒むと、老呉はやむを得ず、二人のしもべに命じて(とこ)を夾んで寝させた。小呉は夜を徹してこっそりと聴いていたが、すこしも音がしなかった。朝になると、かれの二人のしもべは起きたが、老呉を見ると、すでに死んでいた。

謝銅頭
 鎮江の西門は、昔は唐頽山にあったが、国初北城外の陽彭山に遷った。仏寺があったが、殿宇廊廡は清らかで、麗春台[156]の古蹟であった。地は大路に近く、縉紳たちが送迎や餞別をするのは、すべてこの場所であった。城門が遷った後は、路から遠く隔たったので、この寺は廃絶し、大きな銅の三尊仏が残っているばかり、五代の時に鋳たものと伝えられ、約数万斤、山内に露坐していた。
 謝某という者がおり、もともと銅を売ることを生業にしていたが、ひそかに書吏と結託し、溶かして山分けしようとし、工費はすべて謝が出す、謝は半分を取る、人々は半分を分けるということで話を着けた。溶かす日、四体はすべて溶けたが、仏頭だけは壊れなかった。人々はみな訝り、懼れた。謝は「たやすい事だ」と言い、炉に登り、小便すると、仏頭は壊れた。謝は年は四十あまり、いまだに子供がいなかった。この時、喜んで笑っていると、傭工が前に来て、家で子供が生まれたことを祝った。謝は大いに喜び、この仏は、わたしに壊される運命だったのだと思い、その子を「謝銅頭」と名づけた。家はそれからすこし豊かになり、日々銅銭を私鋳することを生業にしていた。
 数年後、その仲間が私鋳の廉で捕らえられ、謝某も連座した。謝はみずから熱い灰で両眼を揉んで(めくら)にし、出廷した時、(めしい)になってすでに久しい、敵が罪に連座させようとしていることは明らかだと言い、法網を逃れることができた。しかし銅頭が成長し、私鋳を生業にすると、また人に訴えられた。乾隆某年、父子はともに縛られ、陽彭山麓で斬られた。

烏頭太子
 呉某は、代々丹徒の長江の中洲の田を財産としていた。乾隆十八年の初冬、中洲に行き年貢を取り立て、手に入れた稲を庭で乾かしていた。すると鴉が群れ集まって稲を食らったので、呉は土の塊を取って追いはらおうとした。すぐに一羽の烏に中てると、カアといって地に墜ちたが、また奮い起ち、飛び去った。呉は荘房[157]に帰ったが、晩飯の後、たちまち風雨の音が聞こえたので、戸を開いて仰ぎ見ると、空の色は深く暗く、大雨は注ぐかのよう、急いで部屋に入ると、衣の色は真っ白になっており、すべて鴉の糞であった。呉は鳥の糞が体に着くのは不吉だと言われている、自分は今回汚されたから、死が近いのかと考えた。それからは雀爪風[158]を病み、手足はひきつり、起き伏しに不便し、物を持ったり飲み食いしたりすることもできなくなり、人に給仕を頼むありさま、その苦しみは堪え難かったが、意識はとてもはっきりしていた。そして鴉がわたしの稲を食らったのを、わたしが追ったことに、何の過ちがあろう、わたしに祟るとはけしからんと思い、神に訴えようとした。しばしばこの考えを起こしたが、実際に訴状を書くことはできなかった。
 ある日みなが眠ると、夢の中で、黄紙にみずから訴状を書き、城隍廟に投じようとした。するとたちまち空中から黒い雲二片が下りてきて、地に着くと青衣の人に化し、呉に向かって言った。「おんみが以前撃ったのは、鴉ではなく、烏頭太子だ。おんみはかれに無礼を働いたため、この病を患ったのだ。ふたたびかれに告げにゆくなら、罪はますます重くなる。酒食を具えて太子に罪を請うならば、助かることができるだろう」。呉は聴かず、怒って言った。「あいつはわたしの稲を食らい、さらにわたしにみだりに祟ったのだから、かならず訴えてやる」。
 まもなく、空中からまた黒い雲二片が下りてきて、少年に化したが、玄色[159]の冠巾で、一人の男が黒い傘を持ってその後に従っていた。少年は呉に向かって拱手すると言った。「おんみは烏頭太子を訴えようとするのか。訴状はどのようなものなのだ」。呉はそれを手にとると見せてやった。少年は言った。「おんみは以前太子を撃ったから、この(やまい)になったのだ。今その誤りを認めれば、わたしはおんみを太子に取りなし、おんみを昔のようにしよう。訴えることはあるまい」。そして訴状を取ると懷にして飛び去ろうとした。呉はにわかに進み出てそれを奪うと、たちまち目覚めた。それから病はようやく癒え、二か月後平復した。

呉生が二度冥界に入ること
 呉某は、丹徒の旧家の子で、その祖父、父はいずれも学校に入っていた。祖父は人柄が端直で、郷閭で推戴、尊重されていたが、歿して十数年になっていた。某は妻を娶ったが、琴瑟(ふうふ)はとても睦まじかった。乾隆丙子、その妻がにわかに亡くなると、呉は追憶して止まなかった。
 朱長班[160]という者がおり、城じゅうの人々はかれが冥府の下役であることを知っていた。呉が葬式を行うと、かれは朝晩仕事しにきたので、呉はひそかに冥府の事を尋ねた。朱は冥府は人の世と異ならない、罪がない者は安閑自適し、罪がある者ははじめてそれぞれの獄に入ると言った。呉が冥府に連れてゆき、妻と会わせてくれと頼むと、朱は言った。「陰陽は道を隔てていますから、生きている人はみだりに入るべきではございません。老旦那さま[161]はわたしにたいへん良くしてくださっていますから、そのような狡いことをしようとはいたしません」。呉がしつこく纏わりつくと、朱は言った。「そのようなことをわたしはいたしませんが、旦那さまがかたくなに往こうとなさるのであれば、城内の太平橋の側へ往き、丹陽の常媽を尋ね、大金を約束すれば、いっしょに往くことができるかもしれません」。呉は喜んだ。
 翌日、常媽を訪ねたところ、はじめはやはり承諾しなかったが、銭数千文を約束すると、はじめて承諾し、言った。「旦那さまは某日に静かな部屋を択び、ひとりで寝ていてください。わたしはすぐにお迎えにあがります。ただ着物、履物の一切は、他人にすこしも動かさせてはなりません。すこしでも動かせば、人の世に還ることはできません」。再三ねんごろに頼んで帰った。
 呉は妻が歿してから、ひとりで廂屋[162]で寝ていた。某日になると、呉はひそかにそのおばに頼んだ。「わたしは今ひどく病んでおり、はやく寝なければなりません。おばさん、どうか部屋を閉ざして、他人がみだりに入り込み、わたしの着物、履物を動かすことが絶対にないようにしてください。これはわたしの生死に関わることなのですから」。おばはとても驚き、そのわけを尋ねたところ、事情を告げてもらえなかったが、ひそかに用心してやった[163]。呉は部屋に入ると、(とこ)の前で燈を燃やしたが、気掛かりがあったので、展転として寝ず、ひそかに考えた。「あのひとは熟睡しろとは言わなかったが、どこからわたしを呼びにくるのだ。まさか嘘をついていたのか」。
 二鼓過ぎ、黒い煙が一筋、窓の隙間から入ってきたが、裊裊然として蛇が舌を吐いているかのようであったので、呉はたいへん懼れた。まもなく、その煙は黒い塊に変わったが、(とます)ほどの大きさ、まっすぐ呉の顔を撲ったので、呉は気絶した。すると人が耳元でこっそりと言った。「呉の旦那さま、ごいっしょに行きましょう」。声は常嫗であった。手で扶け起こすと、いっしょに門の隙間から出たが、通り過ぎた窓はすべて邪魔にはならなかった。そのおばの部屋の入り口には幾つかの火が見えたが、弟たちとともに中で寝ているのであった。
 大門を出ると、別天地で、黄沙は漫漫、南北は分からなかった。途中で見た市街、役所は、人の世のようであった。とある場所に行くと、大きな池があったが、水は紅く、女が中で哀号していた。常は指さして言った。「これが仏家の言う『血汚池』で、奥さまはその内にいらっしゃいましょう」。呉が左右を顧みると、その妻が東の隅にいた。呉が痛哭して叫ぶと、妻も岸辺に近づいてきて、涙を垂らしてともに語り、手で呉を引いて池に入れようとした。
 呉が奔ってゆこうとすると、常嫗は大いに驚き、つよく呉を挽くと、告げた。「池の水が一滴でも人に着くと、戻ることはできません。この池に入ったのは、平生(はしため)や妾を苛めていたからです。(はしため)や妾を殴って血を見ることを止めない者は、この池に入るのですが、(はしため)や妾の体から流れた血の多さで入る池の深さが決まるのです」。呉は言った。「わたしの妻は(はしため)や妾を殴っていないのに、どうしてこちらに来たのだ」。嫗は言った。「それは前生の事なのです」。呉はさらに尋ねた。「妻は出産しなかったのに、どうしてこの池に入っているのだ」。嫗は言った。「すでに説明いたしましたが、この池はお産とは関係がございません。お産は人の世の常事ですから、何の罪がありましょう」。そう言うと、呉を牽き、元の路を帰らせた。呉は昏睡し、(ひる)を過ぎてはじめて起きたが、顔色は薄黄色で久しく病んだ者のよう、数日してはじめて恢復した。
 一月あまりすると、呉は妻がますます懐かしくなったので、常嫗の家に走ってゆき、ふたたび会いにゆきたいと告げたが、常はたいへん難色を示し、数倍の金を約束すると、はじめて承諾した。以前のようにおばに頼んで門を閉じさせると、常嫗はふたたび呼びにきた。門を出て行くこと一里ばかり、常嫗はたちまち呉を棄てて奔り去った。呉はそのわけが分からず、うろたえていると、前方に一人の老翁が肩輿[164]に乗ってやってきた。見ればその祖父であった。呉が慌てて逃げようとすると、祖父は怒鳴った。「おまえはどうしてこちらに来たのだ」。呉はどうすることもできず、事情を告げた。その祖父は大いに怒って言った。「人はそれぞれ生死に(さだめ)があるものだ。かように道理を知らぬとは」。手でその頬を打つと罵った。「また来たら、わしはかならず陰官に告げ、すぐに常ばあさんを斬るからな」。輿夫に命じて河畔まで送ってゆかせた。輿夫が後ろから呉を推して河に入れると、呉は大声で叫んで目醒めた。左の頬は青く腫れ、痛くて耐えられなかったので、病と称して部屋に臥し、十数日してはじめて癒えた。
 時に呉の姻戚某翁は病が篤かったが、呉はそのおばに言った。「某翁は某日に死ぬでしょう」。おばが驚いて尋ねると、呉は二度見たことだと告げ、役所の前に掛けてあった牌で姓名と月日を見たので、知っているのだと言った。それから呉は神気が萎え、両目は藍色になり、午後以降はいつも鬼を見たが、今でも生存している。呉のおばは、法嘉蓀の中表[165]なので、法はことごとくその顛末をわたしに語ったのであった。

狐道学
 法君の祖母孫氏の実家に孫某という者がおり、大金持ちであったが、国初、海寇による兵乱のため、金壇[166]に家を移した。ある日、胡姓のものがその子孫や奴僕数十人を連れてきた。荷物はとても多く、家を訪れると、山西人だ、兵乱に遇い、進むことができない、貴宅を借りてしばらく住みたいと言った。孫はその口振りや顔付きを見て、常人でないことを知り、一つの邸宅を分けて住まわせた。暇な日に訪ねて閑談したところ、その部屋には琴剣書籍があり、読んでいる書物はすべて『黄庭』、『道徳』などの経[167]、語ることはすべて心性[168]や『語録』[169]の中の言葉、その子孫奴僕を遇するさまはとても厳しく、気儘に談笑することはなかったので、孫の家人はみなかれを「狐道学」と称していた[170]
 孫家の若い(はしため)は美しかった。ある日、巷で翁の若い孫と遇ったところ、にわかに抱きつかれたが、(はしため)は従わず、胡翁に告げた。翁は慰めた。「お怒りにならないでください。杖で打ちましょう」。翌日、昼近くなっても、胡翁の家の門は開かず、何度尋ねても返事しなかった。人に命じて塀を越えさせ、門を開け、見たところ、宅内にまったく物はなく、書室では銀三十両が(つくえ)の上に置かれているばかり、「家賃」の二字が書かれていた。ふたたび捜すと、階の下で一匹の小狐が絞め殺されていた。
 法子は言った。「この狐はほんものの理学者だ。世間では口で理学を講じながらみずからは狡賢い役人となる者がいるが、狐よりはるかに劣るものだ」。

 

最終更新日:20161122

子不語

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[1]王沢宏。黄岡の人。順治十二年の進士。宗伯は礼部尚書。『国朝耆献類徴』巻四十九などに伝がある。

[2] 未詳。

[3] 湖北省の県名。

[4] 供物机と蓆。

[5]手のひらを額に当てて、長跪する拝礼。

[6] 原文「宗伯父用子公崇禎翰林」。「用子公」は父親の称号と思われるが未詳。あまり称号らしく見えない。とりあえず、このように訳す。

[7] 『詩』蓼莪。

[8]蓼莪は父母の恩沢の宏大無辺なることを述べた詩で、「昊天極まること()し」も父母の恩が天のように大きなものだということを述べた句なので、「沢宏」を諱にしたのである。

[9] 原文「我等要著」。「等」が未詳。衍字か。

[10] 棺を安置する台。葉大兵等主編『中国風俗辞典』二百六十四頁参照。『清俗紀聞』に見える棺材架のことであろう。:『清俗紀聞』

[11]死者の子供。

[12] 五等級ある喪服の中で、斬衰に次いで重いもの。:『三才図会』

[13] :『三才図会』。

[14] 前の話に出てきた葛文林のこと。

[15] 「籠」は蒸籠に入れたものを数える量詞。

[16] 原文「點者自點、縮者仍縮」。「點者自點」が未詳。とりあえずこう訳す。

[17] 浙江省の県名。

[18]余姚の人。嘉靖十七年の進士。『明史』巻二百二十三などに伝がある。

[19] 実際は、万暦二年に南京刑部右侍郎になっている。

[20]錦衣衛親軍指揮使司。明代の官名。禁衛軍。

[21] 呉江の人。嘉靖四十四年の進士。

[22] 未詳。隆慶の前の嘉靖朝に、王三錫という進士は四人もおり、そのいずれかは分からない。

[23] 慈谿の人。嘉靖四十一年の進士。

[24] 肉削ぎの刑。

[25] これとほぼ同様の話が正史に見える。『明史』卷二百二十三朱衡・翁大立・潘志伊伝「隆慶末、有錦衣指揮周世臣者、外戚慶雲侯裔也。家貧無妻、獨與婢荷花兒居。盜入其室、殺世臣去。把總張國維入捕盜、惟荷花兒及僕王奎在、遂謂二人姦弑其主。獄成、刑部郎中潘志伊疑之、久不決。及大立以侍郎署部事、憤荷花兒弑主、趣志伊速決。志伊終疑之、乃委郎中王三錫、徐一忠同讞。竟無所平反、置極刑」。

[26] 地獄。

[27] 原文「不許出京」。未詳。とりあえずこう訳す。

[28] 双方が、怨恨のあった世とは別の世にいるということ。

[29] 崇仁の人。『宋史』巻四百五十五に伝がある。

[30] 丹陽の人。『宋史』巻四百五十五などに伝がある。

[31] 『宋史』巻三百七十一などに伝がある。

[32] 原文「見面惡之」。未詳。とりあえずこう訳す。神像の顔を王倫が見て嫌悪したという意味に解す。

[33] 原文「河官督治者毎築堤成」。「河官督治者」が未詳。とりあえずこう訳す。「河官」は官名ではなく一般名詞。河川に関する任務に当たる官員。

[34] 治水に当たる官員。

[35] 書名と思われるが未詳。

[36] 正統十四年、広東で起こった反乱の指導者。景泰元年五月に誅せられた。

[37] 未詳。

[38] 未詳。

[39] 安徽省の県名。

[40] 全椒の人。崇禎元年の進士。

[41] 紫禁城内、保和殿の後右門で、明代、群臣を召見した場所。

[42] 嘉靖帝。

[43] 泰和の人。『明史』巻二百九などに伝がある。

[44] 富平の人。嘉靖八年の進士。

[45] 太平の人。嘉靖十七年の進士。

[46] 南昌の人。正徳九年の進士。『明史』楊爵伝「踰年、工部員外郎劉魁、再踰年、給事中周怡、皆以言事同繫、歴五年不釋。至二十四年八月、有神降於乩。帝感其言、立出三人獄。未踰月、尚書熊浹疏言乩仙之妄。帝怒曰、我固知釋爵、諸妄言歸過者紛至矣。復令東廠追執之」。

[47] 未詳。正史に見えない。

[48] こうした事実は正史には見えない。霊台はおそらく天文台のことと思われるが未詳。霊台という名の星もある。『明史』職官三・宦官「靈臺、掌印太監一員、僉書近侍、看時近侍無定員。掌觀星氣雲物、測候災祥」。

[49] 『史記』秦本紀「兵至滑」注「正義為八反。括地志云、緱氏故城在洛州緱氏縣東二十五里、滑伯國也。韋昭云、姫姓小國也」。

[50] 滑邑は滑県のこと。

[51] 儀式の時、飾りに用いる玉。

[52]:『三才図会』

[53] 上着と裳裾が連接した服。

[54] 普段着。

[55] 河北省の県名。

[56] 府の属官。正五品官。

[57] 天地開闢の時にこの世に出て君臨したとされる人物。:『三才図会』。

[58] セイロン島。

[59] 巻三百二十五外国伝・蘇禄参照。

[60] スル。フィリピン南西部。十五世紀後半の頃からイスラム教を信奉するモロ族の国家があり、スペイン統治まで君臨。

[61] インドシナ半島、現在のベトナム中部にあったチャム族の国家。

[62] 原文「通身是膽」。普通は「渾身是胆」「一身是胆」などといい、大胆なことをいう慣用句。

[63] 原文「若其人驚覺、則膽先裂、不足用矣」。中国では非常に驚くことを「嚇破了膽」といい、驚くと胆が裂けると信じられている。

[64] 明末三王の一人。朱由ッ。南京で弘光帝と称した。『明史』巻百二十に伝がある。

[65] 『明史』巻二百七十七に名が見える。

[66] 安徽省の県名。

[67] 原文「兵潰、逃出城、念其母在、乃入見大帥曰」。自分が逃げると母親が捕らえられ、苦しめられると思ったのであろう。

[68] 江夏の人。万暦四十四年の進士。『明史』巻二百六十四などに伝がある。

[69] 明末の反乱軍指導者。延安の人。『明史』巻三百九などに伝がある。

[70]http://baike.baidu.com/view/1057139.htm 紫楊湖の別称。

[71] 安徽省の州名。

[72] 安徽省の山名。六安茶を産することで有名。

[73] チンチラ。写真

[74]徳生堂。乾隆元年『浙江通志』巻三十九・古蹟一参照。

[75] 盂蘭盆会。

[76] 道員の一つである河道のうち、江蘇河庫道のこと。

[77] 江蘇省の県名。

[78] :『三才図会』。

[79] :『三才図会』。

[80] 江蘇省の県名。

[81] 『論語』泰伯。

[82] 同じ年に科挙に合格した者。

[83] 杭州府に二箇所ある。いずれであるかは未詳。乾隆元年『浙江通志』巻四十四・古蹟六参照。

[84] 乾隆元年『浙江通志』巻三十三・関梁参照。

[85] 瘵は虚労のもっとも重篤な症状という。謝観等編著『中国医学大辞典』千五百三十七頁参照。

[86] 家の守り神。家の中心に、家神案子、家神楼子という祭祀場所を設け、神像、画像として祀られる。葉大兵等主編『中国風俗辞典』七百五十一頁・家神案子参照。

[87] 餡の入った白玉団子状の食品。蕭帆主編『中国烹飪辞典』三百二頁参照。

[88] 『論語』陽貨。「歳月は待ってはくれない」ということ。

[89] 重陽。

[90] 物を温める、柄の付いた小鍋。『正字通』「銚、温器、今釜之小而有柄有流者」。

[91] 原文「方舉念間」。「舉念」は未詳。とりあえずこう訳す。

[92] 寒くなったり熱くなったりすること。謝観等編著『中国医学大辞典』千三百十三頁参照。

[93]鳩形は腹がへこみ、胸だけが突き出ている体型。鵠面は頬がこけている顔。

[94] 餓鬼。

[95] 世を治める人物はいるが、世を治める方法はないということ。特に典故のある言葉ではないようだが、清代の文献に用例多数。温端政主編『中国俗語大辞典』千百三十四頁参照。

[96] 山東省の県名。

[97] 原文「韶州書院」。固有名詞ではないと解す。韶州は広東省。

[98] 教師。

[99] 古郡名。清代の歙県に相当。

[100] 典故がありそうだが未詳。

[101] 未詳。

[102] 未詳だが、『清史稿』に「蒙古站路」という言葉が見え、蒙古人が造った街道のことではないかと思われる。なお「站zhàn」は蒙古語で宿駅を意味するジャムチの音訳。『清史稿』卷五十六・地理三・吉林・長春府・農安縣「西北入蒙古郭爾羅斯前旗。舊有蒙古站路、共十一站、三百九十里」。

[103] 原文「四馬攢蹄」。「攢蹄」は四つの蹄を寄せること。萎縮した動作であろう。

[104] 原文「乃取開路鐵鋤抓土撒之」。「開路鐵鋤」が未詳。とりあえずこう訳す。

[105] 広西省。

[106]広西ではないが、浙江に総管廟というものがある。乾隆元年『浙江通志』巻二百十七・祠祀一・総管廟「在清波門流福溝、祀金元七総管之神。神為水神廟。始建不可考」。金元七総管は未詳。

[107] 八人掛けの、正方形の卓。呉山主編『中国工芸美術大辞典』四百五十五頁参照。写真

[108] 原文「若還不轉、銅叉叉轉、鐵叉叉轉」。未詳。とりあえずこう訳す。

[109] 甘粛省の県名。

[110] 原文「行路神」。未詳だが、神の名ではないと解す。

[111] 東岳大帝。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百六十二頁参照。

[112] 観察は按察使。

[113] 刺繍のある袞衣。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』百三十一頁参照。

[114] 冕旒の俗称。:『三才図会』。

[115] 広東省の府名。

[116]広東省の鎮名。

[117] 江蘇省の県名。

[118] 広西省の州名。

[119] 知府。

[120] 原文「適太守奉調上省」。「上省」は未詳。とりあえずこう訳す。

[121] 大同の人。また、寧武の人とも。抜貢生。光緒十六年『山東通志』巻五十六・職官志四・国朝職官表六、同書巻七十五・職官志四・国朝宦蹟二参照。

[122] 浙江省の府名。

[123] 河北省の州名。

[124] 山東省の県名。楊成龍は乾隆二十七年から三十五年までこの県の知事であった。光緒十六年『山東通志』巻五十六・職官志四・国朝職官表六参照。

[125] 陰沈木の板。高級棺材。陰沈木は神代杉の類。

[126] 山東省の鎮名。

[127] 山西寧武の人。貢生。乾隆四十六年から五十一年まで深州知州。光緒十年『畿輔通志』巻三十・職官六参照。

[128]楊成龍を指していよう。

[129] 原文「二孫所生之子」。未詳。とりあえずこう訳す。「二孫」「所生之子」が同格ということか。

[130] 原文「當在唐務山中做癸丁山向」。「癸丁」は未詳。とりあえず、訳文のように解す。「山向」は風水の用語で、墓の向きをいう。

[131] 実在の人物ではないが、『三国志演義』に登場する武将。関帝廟で関羽の脇士となっている。奇怪な容貌をしている。写真

[132] 江蘇省の県名。

[133] 江蘇省興化県東北の地名。

[134] 曾筠。無錫の人。康煕四十五年の進士。

[135] 河道総督のうち、江南に置かれた者。淮安の清江浦に駐在した。

[136] 張飛。

[137] 観察は按察使。

[138] 江蘇省の県名。

[139] 山形の壁。

[140] ここでは妓女のこと。

[141] 郷試。この場合は順天府試。

[142] 平底の舟。

[143] 揚州。

[144] 清代、各部の属官をいう。

[145] 郷試は三段階に分けて行われ、経義、詩賦、子史論・時務策が試験された。

[146] 江蘇省の県名。

[147] 丹徒の人。康煕三十三年の進士。

[148]乩によって招き寄せられる神。乩は丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた、乩盤という皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[149] 会試の首席合格者。

[150] 原文「稱謂無誤」。おじさん、おばさんなど、他人への呼びかけを間違えなかったということ。

[151]東岳大帝。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百六十二頁参照。

[152]紅い上着に烏紗帽。:上海市戯曲学校中国服装史研究組編著『中国歴代服飾』。

[153] 原文「愈」。「兪」の誤字であろう。

[154] 河北省の州名。

[155] ここでは知州。

[156] 未詳。

[157] 小作米を入れておく、地主の倉。

[158] 未詳。鶏爪風の誤りか。鶏爪風は手足が震え、やがて麻痺する病気。謝観等編著『中国医学大辞典』七百十七頁参照。

[159] やや赤みがかった黒。

[160] 官員の従者。

[161] 呉の死んだ祖父をさす。

[162] 母屋の前、東西にある部屋。廂房。

[163] 原文「乃陰為檢點之」。「檢點」はこの場合、具体的には他人が呉の着物、履物を触らないように用心してやるということ。

[164] :『三才図会』。

[165]中表は○祖父の姉妹の子供、○父の姉妹の子供、○祖母の兄弟姉妹の子供、○母の兄弟姉妹の子供、○以上の人たちの子供、などの親族関係を指す。

[166] 江蘇省の県名。

[167] ここでは道経のこと。

[168] 心と性。性は心の本体とされる。「心性之学」といえば理学のこと。

[169] 『朱子語録』などの、宋明の理学者の語録であろう。

[170] 狐と胡は同音。

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