第一巻

李通判

 広西の李通判は、大金持ちであった。家には七人の妾を養い、珍宝は山と積まれていた。通判は二十七歳で病死した。老僕がおり、平素から忠実であったが、主人がはやく亡くなったことを悲しみ、七人の妾とともに斎醮[1]を行った。するとたちまち一人の道士が帳簿を持ってお布施を乞いにやってきたので[2]、老僕は怒鳴った。「わたしの主人はもう亡くなった、おまえに施しする暇はない」。道士は笑いながら言った。「主人を甦らせたいか。法術を行って、甦らせることができるぞ」。老僕は驚き、奔っていって妾たちに語ったところ、人々は訝った。出ていって拝礼しようとしたところ、道士は去ってしまっていた。老僕と妾たちは神仙を粗略にし、消え去ってしまわせたことを悔やんで、それぞれが罪をなすりつけあった。

 ほどなく、老僕は市場を通っていたところ、途で道士に遇った。老僕は驚いだり喜んだり、むりに引き留めて、謝罪、哀願した。道士は言った。「ご主人を生き返らせることに吝かではないが、冥府の慣例では、死人が人の世に還るときは、身代わりが必要なのだ。おまえの家には身代わりになる者はおるまい、だからわたしは去ったのだ」。老僕は言った。「家に行き、相談しましょう」。

 道士を引いて家に行くと、道士の言葉を妾たちに告げた。妾たちは道士が来たことを聞くと、とても喜んだが、身代わりの話を聞くと、みな怒り、顔を見合わせ、口を噤んだ。老僕は毅然として言った。「ご婦人方は、お若く惜しむべきですが、老いぼれは、晩年で惜しむには足りませぬ」。出ていって道士に会うと、こう言った。「老いぼれが身代わりになることは、できますか」。道士は言った。「悔やんだり怖れたりすることがないのなら、良いだろう」。老僕は言った。「大丈夫です」。道士は言った。「おまえの誠意を考慮して、外に出て親戚や友人と別れることを許してやろう。法術を行えば、三日で法を成しおわり、七日で法の(しるし)があろう」。

 老僕は家で道士に仕え、朝晩敬い、みずからは某某の家に行き、事情を告げ、泣いて訣別した。親戚や友人たちには笑う者もあれば、敬う者もあり、憐れむ者もあれば、からかって信じない者もあった。老僕は聖帝廟を通ったとき、ふだんから信仰していたので、入って拝し、かつ祈った。「わたしは主人に代わって死にます。聖帝さまには道士を助け、主人の魂魄をお戻しになりますように」。話していると、裸足の僧が(つくえ)の前に立って叱りつけた。「おんみは満面に妖気があるから、大きな禍が至るであろう。わたしがおんみを救うから、慎んで泄らさぬように」。紙包みを贈って言った。「時が来たら取って看るがよい」。そう言うと見えなくなった。老僕は帰ると、こっそり開いてみたが、手の爪が五本、縄が一本あったので、懷に入れておいた。

 たちまち三日の期日が来ると、道士は老僕に(とこ)を移して主人の霊柩と向かいあうように命じ、鉄の鎖で門を閉ざし、穴を鑿って飲食を通じさせることにした。道士は妾たちの近く祭壇を築き、呪文を誦えた。しばらくたったが、まったく変わったことはなく、老僕は訝しく思った。心が動くと、(とこ)の下にさっと音が聞こえ、二人の黒い男が地から躍り出た。緑の(ひとみ)に深い目で、全身に短い毛が生え、身長は二尺ほど、頭は大きく車輪のようであった。目は睒睒(せんせん)として老僕を見ると、見ながら走り、棺を巡って歩き、棺の隙間を囓った。隙間が開くと、咳する声が聞こえたが、主人そっくりであった。二鬼は棺の頭の部分を啓き、主人を扶けて出てこさせた。主人の様子は奄然として病にたえぬかのようであった。二鬼が手でその腹をさすると、口からようやく声を出した。老僕が見たところ、姿は主人であるものの、声は道士であった。そこで愀然として言った。「聖帝さまのお言葉に、(しるし)がないはずがない」[3]。急いで懷中の紙を手にすると、五本の爪が飛び出して、金龍に変わった、金龍は長さは数丈、老僕を部屋の中で攫むと、縄で梁の上に縛った。老僕はぼんやりとして、下をじっと見た。二鬼は主人を扶けて棺の中から出し、老僕の寝床に行ったが、入ることはなかった。主人は大声で叫んだ。「法術は失敗だ」。二鬼は獰猛に、部屋を巡って捜したが、結局、老僕は見付からなかった。主人はとても怒り、老僕の(とこ)(とばり)(ふすま)(しとね)を取り、引き裂いた。一鬼が頭を上げ、老僕が梁に居るのを見ると、とても喜び、主人とともに身を躍らせて捕らえようとした。しかし梁に上ってくる前に、雷が轟いたので、倒れて地に墜ち、棺はふたたび合わさり、二鬼も二度と現れなかった。

 妾たちは雷を聞くと、往って戸を啓いて見た。老僕はくわしく見たことを話した。いっしょに急いで道士を見ると、道士はすでに雷によって祭壇の所で撃ち殺されており、その屍の上には硫黄で「妖道は煉法[4]して形を易へ、財を(はか)り色を貪る、天条[5]斬に決すれば律令の如くせよ」の十七字が大書されていた。

 

蔡書生

 杭州の北関門外に一軒の家があったが、鬼がしばしば現れ、人が住もうとしないため、とても固く閉ざされていた。書生の蔡姓の者がその家を買おうとした。人々は危ぶんだが、蔡は聴かなかった。契約が成立しても、家人は入ろうとしなかった。蔡はひとりで家を啓き、燭を秉って坐していた。夜半になると、娘が冉冉としてやってきた、頸には紅い帛を引いており、蔡に向かって伏拝すると、縄を梁に結び、側に行き頸を伸ばした。蔡は怖れなかった。娘はふたたび一本の縄を掛け、蔡を招いた。蔡は側に行き、片足を曳いた。娘は言った。「おんみは間違っていらっしゃいます」。蔡は笑いながら言った。「おまえは間違っていたから今日のようなことになったが、わたしは間違っていないぞ」。鬼は大いに哭き、地に伏して再拝して去った。それからというもの、(もののけ)はいなくなり、蔡も及第した。ある人はそれは蔡炳侯方伯だと言っている。

 

南昌士人

 江南南昌県に士人某がおり、北蘭寺で勉強していた、一人は年長で一人は年少、とても親しくしていた。年長の者は家に帰って急死したが、年少の者はそれを知らず、あいかわらず寺で勉強していた。日が暮れて眠ると、年長の者が扉を開けて入ってきて、(とこ)に登りその背を撫でて言った。「わたしは(けい)に別れて十日足らずで、急病のために死んだのだ。今わたしは鬼になったが、朋友の誼をひとりで断つことはできぬから、わざわざ訣別しにきたのだ」。年少の者は恐れ、話すことができなかった。死んだ者は慰めた。「(けい)を害しようとしているなら、正直に告げたりはしない。(けい)よどうか怖れないでくれ。わたしがここに来たわけは、身後のことを托そうとするからだ」。年少の者は心がすこし落ち着くと、尋ねた。

「何を托されるのでしょう」

「わたしには老母がおり、年は七十あまり、妻は三十前だ、数斛の米があれば、生きられる、どうか(けい)が援助してくれ、これがその一だ。わたしには刊刻していない原稿がある、どうか(けい)が刊刻し、わたしの名が滅びないようにしてくれ、これがその二だ。筆売りに数千文の借りがあり、還していないので、(けい)が還してくれ、これがその三だ」

年少の者が唯々諾々としてると、死んだ者は起立して言った。「(けい)の承諾を受けたから、わたしも去るとしよう」。そう言うと立ち去ろうとした。

 年少の者はその言葉が人間らしく、(かお)はむかしのままだったので、だんだん怖くなくなり、泣いて引き留めた。「永の別れとなるのですから、すこしゆっくりされてから行かれてはいかがでしょうか」。死んだ者も泣き、戻ってきて(とこ)に坐し、さらに今までのことを述べ、幾つか話をするとまた起って言った。「わたしは行こう」。立ったまま去らず、両眼を見開いたまま、(かお)はだんだん醜く腐っていった。年少の者は懼れ、促した。「話はもう終わったのですから、お行きください」。屍は去らなかった。年少の者が(とこ)を叩き大声で叫んでも、去ることはなく、あいかわらず屹立していた。年少の者がいよいよ驚き、起つて逃げると、屍は追いかけてきた。年少の者がいよいよ急いで奔ると、屍も急いで奔った。追いかけること数里、年少の者は塀を越えて地に倒れたが、屍は塀を越えることができず、塀の外に顔を俯け、口の涎は年少の者の顔にたらたらと滴った。

 夜が明けると、人が通りかかり、生姜汁を飲ませたので、年少の者は蘇った。死者の家では屍を見つけられないでいたが、報せを聞くと、舁いで帰り、葬儀を行った。

 識者は言った。「人の(こん)は善だが(はく)は悪であり、人の(こん)は優れているが(はく)は愚かである。やってきた当初は、霊は滅びていなかったので、(はく)(こん)に附いていたのだが、霊が去り、気掛かりがなくなると、(こん)は散じて(はく)が残ってしまったのである。(こん)があれば、その人であるが、(こん)が去ると、その人でなくなるのである。世の移屍や走影[6]は、みな(はく)がすることで、有道の人だけが(はく)を制することができるのである」。

 

曾虚舟

 康熙年間、曾虚舟という者が居り、みずから四川榮昌県の人だと言っていた。呉、楚の間で狂人を装い、言うことはよく中たっていた。かれが歩くと、老若男女が取り巻いて歩くのであった。虚舟は笑い罵ったが、かならず人の隠事を言いあてていた。人に色好いことを言うと、その人は大いに哭いて去り、人を厳しく罵ると、人はとても喜ぶのであった。問う者は自分のことが分かっているが、傍らの人には分からないのであった。

 杭州の王子堅先生は瀘溪県の知事となったが、官を罷めた後、ある人がその先祖の墓の風水が不吉であると言った。子堅は改葬しようとして果たさなかったが、虚舟が来たことを聞くと、走ってゆき、尋ねようとした。折しも虚舟は棒を持ち高い丘に登っていたが、人々が取り囲んでいたので、子堅は進むことができなかった。虚舟は子堅を望み見ると、遠くから棒で撃ち[7]、罵った。「来るな。来るな。おまえが来れば、屍を掘り、骨を盗みたくなるだろう。駄目だ。駄目だ」。子堅はぞっとして帰った。後に子堅の子文璿は官位は御史に至った。

 

鍾孝廉

 わたしの同年の邵又房は、幼いとき鍾孝廉某に師事していた、常熟の人であった。先生は資性は方正、気ままに談笑することはなかった。又房とともに起臥していたが、ふと夜半に目を醒ますと、哭きながら言った。「わしは死ぬぞ」。又房が事情を問うと、こう言った。「わしは二人の隸卒が地下から身を聳やかして起ち、(ねだい)の前に来てわしを引き、ともに歩む夢を見たのだ。路は果てしなく、黄の(すな)に白い草、まったく人は見えなかった。数里進んで、引かれて役所に入ったところ、烏紗冠[8]の神が居り、南に向いて坐していた。隸卒がわしを扶けて堂下に跪かせると、神は言った。『おまえは罪を悟っておるか』。わしは言った。『存じませぬ』。神は言った。『考えてみよ』。わしはしばらく考えると、言った。『分かりました。わたしは不孝で、父母が死んだとき、棺を二十年停め、埋葬する資力がございませんでした。罪は万死に値します』。神は言った。『罪は小さい』。わしは言った。『わたしは若いとき、一人の(はしため)と姦淫し、さらに二人の(うたいめ)と親しんだことがございます』。神は言った。『罪は小さい』。わたしは言った。『わたしは口が悪く、人の文章を貶すのを好んでおります』。神は言った。『それはさらに小さい』。わしは言った。『それならばわたしにはほかに罪はございません』。神は左右のものを顧みて言った。『このものに分からせるのだ』[9]。左右のものが盥の水を取ってきて、その顔に注いだところ、前生は姓は楊、名は敞といい、友人とともに湖南で交易していたときに、その財物を利とし、水中に突き落として死なせたことをぼんやりと思い出した。そこでおもわず戦慄し、神前に匐伏して言った。『罪を悟りました』。神は声を励まして言った。『まだ変わらぬか』。手を挙げて(つくえ)を叩くと、雷が轟き、天は崩れ、地はけ、城郭、役所、神鬼、刑具の類は、まったく見えなくなり、汪洋として果てしない水が見えるばかり、一身は渺然として、菜っ葉の上に浮かんでいた。葉は軽く身は重いのに、どうして墜ちないのかと思い、わが身を振り返ると、すでに蛆虫に化し、耳、目、口、鼻は、すべて芥子のようになっていたので、おもわず大きな声で哭き、目を醒ましたのだ。このような夢を見たのだから、長くはあるまい」。又房は慰めた。「先生、苦しまれないでください、夢は信じるに足りませぬ」。先生はすみやかに納棺する物を用意するように命じた。三日後、血を吐いて急死した。

 

南山の頑石

 海昌の陳秀才某は、肅愍廟で祷夢[10]したところ、肅愍が正門を開いて招くのを夢見た、秀才が逡巡すると、肅愍は言った。「おまえは、後日、わが門生となるのだから、正門から入るのが礼儀だ」。腰掛けないでいると、侍者が申し上げた。「湯溪県の城隍が面会を乞うております」。すぐに高い冠の神が会いにきた。肅愍は陳と対等の礼を交わすように命じ、言った。「かれは属吏で、おまえは門生なのだから、おまえが上座に就くべきだ」。秀才は恐懼して腰掛けると、城隍神が肅愍と語るのを聞いたが、とてもか細い声だったので、聞き分けることはできず、「死ぬときは広西に在り、中ほどで湯溪[11]に在り、南山の頑石、一活万年」の十六文字が聞こえただけであった。城隍が(いとま)を告げると、肅愍は陳に送るように命じた。門に着くと、城隍は言った。「さきほどの于公との話は、かなり聞こえましたか」。秀才は言った。「十六字が聞こえただけです」。神は言った。「憶えておかれませ、後日かならず(しるし)がございましょう」。入って肅愍に見えると、やはりそのように言った。目醒めると、夢を人に語ったが、言葉の意味は分からなかった。

 陳は家が貧しかったが、表弟(いとこ)の李姓の者が、広西某府の通判に選ばれ、いっしょに行こうとした。陳は断った。「夢の中で神が『死ぬときは広西に在り』と言っていたのだから、いっしょに行けば、不吉だろう」。通判は宥めた。「神は『始めは広西に在り』と言ったのです。これは『始終』の『始』で、『死生』の『死』ではありません。広西で死ぬのなら、『中ほどで湯溪に在り』ということはありえません」。陳はその通りだと思い、ともに広西へ行った。

 通判の役所の西の廂房は、とても厳重に封鎖されており、人々は開けようとしなかった。陳が開くと、中には園亭花石があったので、(ねだい)を移した。一月あまり何事もなかった。八月中秋、園で酔うて歌った。「月は明るく水のごと楼台(うてな)を照らせり」。すると空中で人が手を打って笑いながら言った。「『月は明るく水のごと楼台(うてな)を浸せり[12]』じゃ、『照らせり』に易えてはまずいぞ」。陳が大いに驚き、仰ぎ見ると、一人の老翁が居り、白藤帽[13]、葛衣で、梧桐の枝の上に坐していた。陳は胸騒ぎがし、急いで走ってゆくと中に臥した。老翁は地に下り、手を取って言った。「怖れるな。世に風雅の鬼でわしに勝る者があろうか」。陳は尋ねた。「おんみは何の神さまでしょう」老翁は言った。「それを言うな。ひとまずおまえと詩を論じよう」陳は、老翁の鬚、眉が古めかしく、常人に異ならないのを見ると、だんだんと打ち解けた。部屋に入ると、おたがいに唱和した。老翁が書く字は、すべて蝌蚪の形で、すべてを認識することはできなかった。尋ねると、こう言った。「わしが若いとき、人々はこのような字を尊んでいた、今では楷書に易えようとしているが、手が慣れているために、すぐには改められぬのだ」。言うところの若いときとは、媧皇[14]以前のことであった。それからというもの、毎晩かならず来て、とても親しくした。

 通判の家僮は、陳が杯を持ち、誰も居ないところに向かって対飲しているのをしばしば見たので、急いで通判に告げた。通判も陳の顔つきがぼんやりとしていると感じたので、責めた。「あなたは邪気に染まっています、『死ぬときは広西に在り』という言葉には(しるし)があることでしょう」。陳は大いに悟り、通判と謀り、家に帰って避けることにした。舟に乗ると、老翁がさきに居たが、傍らの人々には見えなかった。江西を過ぎると、老翁は言った。「明日浙江に入れば、わしはおまえと縁が尽きるから、一言言わないわけにはゆかぬ。わしは、一万年間、道を修めたが、正果を成就していない、檀香三千斤で、玄女[15]像を刻んでいないためなのだ。今、おまえにお願いしよう。さもなければ、おまえの心臓、肺臓を借りるであろう」。陳は大いに驚き、尋ねた。「何の道を修められたのですか」。老翁は言った。「斤車の大道じゃ」。陳は「斤」、「車」の二字は、合わせると「斬」の字となることに気付き、いよいよ驚き、こう言った。「家に帰って相談いたします」。

 ともに海昌[16]に行き、その親戚友人に告げると、みな言った。「肅愍が言っていた『南山の頑石』とは、この(もののけ)のことではないか」。翌日、老翁がやってきた。陳は言った。「南山にお住まいでしょうか」。翁は顔色を変え、罵った。「これはおまえが言えることではない、きっと悪人がおまえに教えたのだろう」。陳はその言葉を友に語った。友は言った。「それならば、その(もののけ)を肅愍廟に引き入れればよい」。その言葉の通りにし、廟に行こうとすると、老翁は色を失って引き返そうとした。陳が両手で抱え、むりに入れようとすると、老翁は一声長嘯し、天を衝いて去っていった。それからというもの、(もののけ)はいなくなった。

 後に陳生は本籍を湯溪に偽って、ついに進士となった。会試の房師[17]は、状元の于振[18]であった。

 

都知県

 四川の都県は、俗に人と鬼が境を接するところと伝えられている。県庁の中に井戸があり、毎歳紙銭帛鏹[19]を焚いて投じ、ほぼ三千両を費やし、「冥府への年貢納め」と称していた。人がそれを惜しむと、かならず疫病が生じるのであった。国初、知県劉綱が着任し、そのことを聞いて禁じると、衆論は騒然となった。知事が政策をかたく変えないでいると、人々は言った。「知事さまが鬼神に説明することができるなら宜しいでしょう」。県令は言った。「鬼神はどこにいるのだ」。人々は言った。「井戸の底が鬼神の居る所ですが、往こうとする者はおりませぬ」。県令は毅然として言った。「民草のために頼むのだから、死んでも惜しくはない。わたしがみずから行くべきだ」。左右のものに命じて長い縄を持ってこさせ、縛って下りていった。人々は引き留めたが、県令は承知しなかった。その幕客の李詵は、豪傑で、県令に言った。「鬼神の様子を知りたいので、ご一緒させてください」。県令は拒んだが、幕客は承知せず、やはり縛られて下りていった。井戸に入ること五丈ばかり、地が暗かったのがまた明るくなり、燦然と天の光が射していた。見れば城郭や宮室は、ことごとく人の世のもののようであった。そこの人民は小さく、日に照らされても影がなく、(くう)を踏んで進み、「ここに居る者は地があることを知らぬのだ」とひとりごちるのであった。県令に見えると、みな羅拝[20]して言った。「人の世のお役人ですのに、なにゆえに来られましたか」。県令は言った。「人の世の民草に冥府の年貢を免れさせることをお願いするためです」。鬼たちはご立派ですと称え、手を額に当てて言った。「このことは包閻羅さまと相談せねばなりませぬ」。県令は言った。「包公はどちらにいられる」。鬼たちは言った。「殿上にいられます」。案内されると、宮室は巍峨として、上座には冕旒を着けて坐している者がおり、年は七十あまり、容貌は厳かであった。鬼たちが取り次いだ。「某県令が参りました」。公は階段を下りて迎え、揖して県令を上坐に据えると、言った。「陰陽の道を隔てていますのに、なにゆえに来られましたか」。県令は起立すると、拱手して言った。「都では年々水害旱害が頻発し、民力は尽きております。朝廷の国税さえ、納められずに苦しんでおりますのに、冥府のために帛鏹を納め、さらに租戸[21]となることができましょうや。知県(わたくし)は死を冒して来て、民のためお頼みするのでございます」。包公は笑いながら言った。「世には妖僧悪道がおり、鬼神を口実にし、人を惑わし、斎を行いますから、家を傾ける者は千万を下りません。鬼神は幽明道を隔てていますから、家々に告げ知らせ、かれらの誣罔を敗ることはできないのです。知事さまが民草のため、害を除かれるのならば、たといこちらに来られなくとも、誰も反対いたしませぬ。このたびご来臨されましたのは、仁勇の証にございます」。話していると、紅い光が天から下りてきた。包公は起って言った。「伏魔大帝が来ましたから、しばらく隠れていてください」。劉は退いて後堂に行った。まもなく、緑の袍に長い髯の関神[22]が、冉冉として下りてきて、包公と賓主の礼を行ったが、言葉はほとんど分からなかった。関神は言った。「おんみの処には生きている人の匂いがしますが、どうしてですか」。包公はくわしくわけを話した。関は言った。「それならば、立派な県令ですから、お会いしたいものです」。県令は幕客の李とともに、恐懼して出ていって拝すると、関は座席を賜わった、顏色はとても穏やかで、人の世の事をたいへん詳しく尋ねたが、幽冥の事には言及しなかった。

 李は平素から愚かであったので、にわかに尋ねた。「玄徳公はどちらにいらっしゃいますか」。関は答えなかったが、顔色は不愉快そうで、帽髪を逆立てると、すぐに辞去した。包公は大いに驚き、李に言った。「おんみはきっと雷に撃ち殺されます、お救いすることはできません。あのようなことをお尋ねになるのはとんでもないことです。まして臣下の前で主君の字を呼ばれますとは」。県令は李のために哀願した。包公は言った。「急死なされば、屍を焼かれることを免れましょう」。(はこ)の中から四方一尺ほどの玉印を取りだすと、李の袍を脱がせて背中に捺した。県令は幕客の李とともに拝謝すると、縄に縋って外に出たが、都の南門に着くとすぐ、李は中風で亡くなった。ほどなく、稲妻が、その棺槨を取り巻いたため、衣服はほとんど焼けてなくなったが、背中の印のある処だけは損なわれなかった。

 

髑髏の復讐
 常熟の孫君寿は、凶悪な性格で、鬼神を侮ることを好んでいた。人と遊山したところ、腹が張ったので厠へ行ったが、戯れに荒れ塚の髑髏を取ると、しゃがんで、その糞を呑ませ、こう言った。「食事はうまいか」。髑髏は口を開くと言った。「うまいぞ」。君寿は大いに驚き、急いで逃げた。髑髏は後から地を転がったが、車輪のようであった。君寿が橋に着くと、髑髏は上ることができなかった。君寿が高いところに登って眺めると、髑髏は転がってもとの所へ帰っていった。君寿は家に着いたが、顔は死灰のようで、そのまま病んだ。毎日糞を漏らしては、かならず手で取って呑み込み、ひとりで「食事はうまいか」と叫ぶのであった。食いおわればまた漏らし、漏らしおわればまた食い、三日で死んでしまった。

 

髑髏が気を吹くこと

 杭州の閔茂嘉は、囲碁を好み、その師の孫姓の者は、つねにいっしょに囲碁をしていた。雍正五年六月、とても暑かったが、閔は友人五人を招き、順番に囲碁をしていた。孫は囲碁を終えると、言った。「わたしは疲れたから、東の廂房へ行き、すこし眠ってから、手合わせをしにこよう」。まもなく、東の廂房で叫ぶ声が聞こえた。閔と四人が走っていって見たところ、孫は地に倒れ、涎は頤に満ちていた。生姜汁を飲ませると、蘇り、尋ねると、こう言った。「(とこ)の上でうとうととしていると、背中が一箇所冷たくなった、胡桃ほどの大きさだったが、だんだんと岩ほどの大きさになり、ほどなく蓆の半分がすっかり冷たくなってしまった、冷たさは心骨に染み通ったが、そのわけは分からなかった。(とこ)の下でひゅうひゅうという音がしたので、俯いて見てみると、髑髏が口を開いて蓆越しにわたしを吹いていた。おもわずひどく驚いて、地に倒れたのだ。髑髏は頭でわたしを撃ったが、人が来るのを聞くと、ようやく去っていったのだ」。四人はみな床を掘ろうと言ったが、閔の家僕は禍があるのを懼れて、掘ろうとしなかったので、東の廂房を閉ざすことにしたのであった。

 

趙大将軍が厚かましい(もののけ)を刺すこと

 趙大将軍良棟[23]は、三藩を平らげた後、四川成都を通り掛かった、四川の巡撫が迎え、民家に宿舎を授けた。将軍はそこが狭いのを嫌い、城西の察院衙門に宿ろうとした。撫軍[24]は言った。「そちらは、百余年間、鎖ざされており、(もののけ)がいるそうですので、おんみのために準備しようとしなかったのです」。将軍は笑いながら言った。「わたしは賊を平らげ、数えきれない人々を殺したのですから、妖鬼に霊力があったとしても、わたしを畏れることでしょう」。すぐに下役を遣わして掃除させた。家族は奥の間に置き、自分はひとりで正房を占め、軍中で用いている長い戟に枕して寝た。

 二鼓になると、帳の金具がかちんと鳴り、長身で白衣の者が大きい腹を垂らして牀の前を遮り、(ともしび)の光は青く冷たくなった。将軍は起きあがると、声を励まして怒鳴った。(もののけ)が何歩か退いたので、(ともしび)の光は明るくなり、照らされて顔が見えたが、まるで民間で描く方相神[25]のようであった。将軍が戟を抜いて刺すと、(もののけ)は梁に身をかわした。ふたたび刺すと、ふたたび逃げ、逐うと夾道[26]の中に入り、隠れて二度と現れなかった。将軍は部屋に還ると、尾けてくる者がいるのを感じたので、振り向くと、(もののけ)が薄笑いしながらその後をつけてきていた。将軍は大いに怒り、罵った。「この世のどこにこんな厚かましい(もののけ)がいようか」。家僕たちが起き、てんでに武器を持ってくると、(もののけ)はまた退き、夾道を過ぎ、空き部屋に入った、見れば(すな)は飛び、塵は起ち、簇簇(そくそく)と音がして、その醜類とともに格闘しているかのようであった。(もののけ)は中堂に行くと、すっくと立ち、負嵎[27]の構えをした。家丁は顔を見合わせて進み出ようとしなかった。将軍はいよいよ怒り、手ずから戟で刺したところ、ちょうどその腹に当たり、ぽしゃんと音がし、その姿は二度と見えなくなった、ただ二つの金の眼が壁にあり、大きな銅盤のよう、光は睒睒(せんせん)として人を射ていた。家僕たちがてんでに刀で撃つと、部屋中が火花で満ち、はじめは大きく後に小さく、消えた頃には、東の方角はすでに明るくなっていた。

 将軍は翌日馬に乗ってゆき、見たことを全城の文武に語ったところ、みな舌をくわえて驚いたが、結局何の(もののけ)なのかは分からなかった。

 

狐の生員が人に仙術を修めることを勧めること

 趙大将軍の子襄敏公は保定の総督となり、夜、西の楼で読書していたが、門戸はすでに閉ざされているのに、窓の隙間から身を傾けて入ってくる者があった。形はとても平たく、楼の中に来ると、手で頭と手足を揉み、だんだん丸くし、方巾[28]、朱履の出で立ちで、上座に向かって長揖、拱手して言った。「生員(わたくし)は狐仙で、こちらに百年住んでおり、諸大人からここにいることを許されておりました。おんみはにわかにやってきて勉強をされていますが、生員(わたくし)は天子の大臣に逆らおうとは思いませぬので、伺いを立てにまいったのです。どうしてもこちらで勉強しようとなさるのであれば、引っ越してお譲りいたすべきですが、三日の猶予を下さいますよう。もしも憐れと思われますなら、こちらに住まわせ、ふだんのように閉ざされてください」。趙公は大いに驚き、笑いながら言った。「あなたは狐なのだから、生員にはなれますまい」。狐仙は言った。「狐たちは太山娘娘(ニャンニャン)[29]の試験を受け、毎歳一回、文理に精通しているものを選んで生員とし、劣るものは野狐となるのです。生員は仙術を修めることができますが、野狐が仙術を修めることは許されません」。そして趙公に勧めた。「公たち貴人が、仙術を学ばれないのは惜しむべきです。わたしたちなどは、仙術を学ぶのはたいへん難しいのです。まずは人の姿を学び、それから人の言葉を学ぶのですが、人の言葉を学ぶには、まず鳥の言葉を学び、鳥の言葉を学ぶときは、さらに四海九州の鳥の言葉をことごとく学ばねばなりません、できないものがなくなると、その後で人の声を出し、人の姿に成ることができるのです、その修行でもう五百年です。人が仙術を学ぶときは、異類が仙術を学ぶのに比べて、五百年の苦行をしないですむのです。貴人、文人が仙術を学ぶのなら、凡人に比べてさらに三百年の苦行を省くことができます。おおむね仙術を学ぶことは、千年で成就しますが、これは定理(じょうり)にございます」。公はその言葉を喜び、翌日すぐに西の楼を閉ざして譲った。

 これら二つの事は、鎮遠太守で諱は之壇という人に聞かされた、かれは将軍の孫で、こうも言っていた。「父は太山娘娘(ニャンニャン)がどのような題目を出して狐を試験するのかを尋ねなかったことを後悔しておりました」。

 

煞神が枷を受けること

 淮安の李姓の者は妻の某氏ととても睦まじくしていた。李は三十歳あまりで病死し、納棺されたが、妻は棺に釘を打つに忍びず、朝晩哭いては、啓いて見ていた。しきたりでは、民間で人が死ぬと七日で、(げいさつ)の儀式があり、近い親戚でも、みな部屋を離れるのだが、妻だけはそうしようとせず、子供たちを別室に置き、ひとりで死者の帳の中に坐して待っていた。

 二鼓になると、陰風は颯然として、燈火はことごとく緑色になった。そして紅い髪、円い眼、身長は一丈あまりの鬼が、手に鉄の(さすまた)を持ち、縄でその夫を牽きながら窓の外から入ってきた。棺の前に酒饌が設けてあるのを見ると、(さすまた)を置き、縄を解き、坐って大いに啖った。物がつかえるたびに、腹の中では嘖嘖と声がした。その夫はむかしの几案を撫でさすり、愴然として長歎し、(とこ)の前に行くと帳を掲げた。妻は哭きながら抱くと、然として一團の冷雲のようであったので、(ふすま)で包んだ。紅い髪の神は、進み出ると、牽いて奪おうとした。妻が大声で叫ぶと、子供たちがみなやってきたので、紅い髪の神はよろよろと走った。妻が子供たちとともに包んだ魂を棺の中に置くと、屍は奄然と息をするようになったので、抱いて寝床の上に行き、米のとぎ汁を飲ませたところ、夜が明けると蘇った。遺された鉄の(さすまた)は、民間で焚く紙叉[30]であった。かれらはふたたび二十余年間夫婦となった。

 妻が六十になり、たまたま城隍廟で祈っていると、二人の弓丁[31]が一人の枷に掛けられた罪人を舁いでくるのがぼんやり見えた。見れば枷に掛けられているのは、紅い髪の神であった。かれは妻を罵った。「わたしは食い意地が張っていたため、おまえに弄ばれ、二十年間、枷に掛けられた。出会ったからには、おまえを放っておきはしないぞ」。妻は家に行くと死んだ。

 

張士貴

 直隸安州の参将張士貴は、役所がひどく狭いので、城の東に家を買った。世間ではその家には(もののけ)がいると伝えられていた。張は平素から強情であったので、どうしても住もうとした。家を移すと、その中堂では毎晩鼓を撃つ音が聞こえたので、家人は恐れた。張は弓矢を手挾み、燭を秉って坐していた。夜も静まると、梁の上からたちまち頭が伸びてきて、睨んで笑った。張がそれを射ると、全身が地に墜ちてきたが、ずんぐりとして黒く肥えており、腹は大きく五石の(ひさご)のよう、矢はその臍に中たって、一尺ほど食い込んでいた。鬼は手で腹をさすると、笑いながら言った。「良い矢だわい」。また射ると、ふたたびさすって笑っていた。張が大声で叫ぶと、家人が一斉に入ってきたので、鬼は梁に昇って逃げ、罵った。「かならずおまえの家を滅ぼしてやる」。翌日夜が明けると、参将の妻は急死し、日が暮れると、参将の子も死んだ。張は納棺すると、悲しみ悔やみつづけた。

 一月あまりすると、複壁[32]の中で唸る声が聞こえた、見にゆくと、棺を安置してある妻、子であった。生姜汁を飲ませると、ふだんのように元気になった。尋ねると、どちらもこう言った。「わたしは死んでおりません、ぼんやりと夢のようにしていると、二本の大きな黒い手が、わたしをここに擲ったのです」。棺を開いて見てみると、(から)になっていた。人の死には定めがあり、悪鬼が怨んでも、幻術によって人を弄ぶことができるだけで、殺すことはできないことがはじめて分かった。

 

杜工部

 四川の杜某[33]は、乾隆丁巳の進士で、工部郎となり、年五十あまりで、襄陽の某氏と再婚した。結婚の晩、同年[34]がことごとく集まった。工部が挨拶し、部屋に入ろうとすると、花燭の上に童子がいた、身長は三四寸、燭盤に蹲り、口から息を吹き、その火を消そうとした。工部が怒鳴ると、すぐに逃げ、二つの蝋燭はともに消えた。賓客が驚いて見ると、工部は顔色を変え、汗を雨のように垂らした。侍妾が扶けて(とこ)に上げると、工部は手で部屋の上下左右のものを指し、こう言った。「みんな人の首だ」。汗はいよいよ激しくなり、口はだんだん話すことができなくなり、その晩に死んだ。襄陽夫人が轎を出る時、蓬髪の娘が迎えてこう尋ねた。「印章を彫りたいですか」。夫人はその言葉が奇妙であることを怪しみ、応えなかった。工部が死んで、はじめて夫人をからかったのはこの(もののけ)だったことを悟った。

 工部が死んだ後、その魂は夫人の体に憑き、食事のたびに、かならずその喉を絞め、悲しげに啼いた。「未練だわい」。同年の周翰林煌[35]は色を正して責めた。「杜君よ何をお怒りか。おんみが死なれたのはご夫人と関わりないこと。それなのにその命を求められるのか」。鬼は大いに哭いて絶句し、夫人の病はすぐに癒えた。

 

胡求が鬼球となること

 方閣学苞[36]には(しもべ)の胡求がおり、年は三十あまり、閣学に随って直隷に入った。閣学は武英殿で修書に当たり[37]、胡は浴徳堂に泊まっていた。夜の三鼓、二人の男に舁がれて階の下に行った。その時、月は明るく昼のよう、照らされた二人はいずれも青黒い色で、短い袖に(せま)い襟であった。胡は恐れ、急いで逃げた。すると東側に神がおり、紅袍、烏紗で、身長は一丈あまり、胡を靴で蹴り、西側に転がした。そちらにも神がおり、東側の神のような顔と衣裳で、こちらも胡を靴で蹴り、東側に転がし、胡を蹴鞠のように扱った。胡は痛くてたまらなかった。五更に鶏が鳴くと、二神ははじめて去った。胡は地にへたばっていた。翌朝見ると、全身が青く腫れ、ほとんど完膚はなかった。数ヶ月病んではじめて癒えた。

 

江中三太子

 蘇州の進士顧三典[38]黿(すっぽん)を食らうことを好んだ。漁師はそのことを知っており、黿(すっぽん)を得るたびに、かならず顧家に売るのであった。顧の岳母李氏は、夜、金の鎧を着けた人が哀願するのを夢見た。「わたしは江中三太子だ。あなたの婿の某に捕らえられたが、免れさせてくれるなら、忘れずに報いよう」。翌朝、僕を走らせて救おうとしたが、料理人はすでに解体してしまっていた。この年、進士の家は理由もなく焼け、図書はすっかり散逸した。火事に遭う前の晩、家で飼っている犬が急に人のように立ち、前の両足で二つの盂[39]に入れた水を捧げて主人に献じた。さらに部屋の壁に代々の先祖がいるのが見えたが、顔は絵のようであった。識者は言った。「これは陽が陰を蔵す(しょう)だから、火災があることだろう」。やがてその通りになった。

 

田烈妻

 江蘇巡撫徐公士林[40]は、平素から正直であった。安慶[41]の太守[42]をしていた時、日が暮れてから登庁すると、皎然たる月光のなか、一人の娘が黒い(スカーフ)を頭に被り、肩から上の顔形は分からなかったが、儀門[43]の外に跪き、怨みを訴えているかのようであった。徐公は鬼であることを知り、下役に牌を持たせて叫ばせた。「怨恨のある魂よ、入るがよいぞ」。娘は冉冉として入ってくると、階の下に跪いたが、声はかすれて小児のよう、下役には見えず、その声が聞こえるだけであった。姓は田といい、寡婦暮らしして節を守っていたが、その夫の兄である方徳に財産を狙われて嫁ぐように逼られたため、縊死したのだとみずから語った。そこで徐公は夫の兄を捕らえ、鬼と対質することにした。訊問をはじめた当初は、ひどく不服な様子であったが、振り向いて娘を見ると、大いに驚き、実情を白状したので、処刑した。府の人々はみな神であると喧伝し、公は『田烈婦碑記』を作って表彰した。時に泰安の趙相国国麟[44]が巡撫をしていたが、徐公を責めた。「このようなことは調査すれば十分なのだ、鬼神に頼まれたことを奇とすることはない」。徐公は深く恥じた。しかし、そのことは本当のことだったので、隠すことができなかったのであった。

 徐公は不遇であった時、京師へ往ったが、道中、同行の旅人が急に背が痛いと言い、地に跪き、叩頭して言った。「わたくしは響馬賊[45]です、あなたのお金を取ろうとし、この手であなたを斬ろうとしますと、たちまち金の鎧の神が(むち)でわたしを撃ちましたので、地に倒れたのでございます。あなたはいずれ非凡な人となられましょう」。そう言うと死んだ。

 

鬼が衣を着て網を受けること

 廬州府舒城県の郷民陳姓の者の妻は、突然女の鬼に憑かれ、喉を絞められたり、頸を縛られたりしたが、傍らの人々は見ることができず、妻はたいへん苦しんでいた。しばしば手で襟の中を引っ掻くと、たくさんの麻縄が出てくるのであった。夫は桃の枝一束を授け、言った。「来たらすぐ撃て」。鬼は怒り、さらにひどい悪さをした。夫はどうすることもできず、城に入って葉道士に頼み、二十両を贈り、家に招き、祭壇を設けて法術を行わせた。道士は八卦陣を四方に布き、中に小さい瓶を置き、五色の紙を剪って女衣十数着を作り、瓶の側に置いた。道士はざんばら髪で呪文を誦えつづけた。漏鼓が三たび鳴ると[46]、婦人は言った。「鬼が来ました、手に豚肉を持っています」。夫が桃の枝で迎え撃つと、はたして空から肉数塊が墜ちてきた。道士は婦人に告げた。「かれがわたしの紙の衣を着ようとすれば、捕らえることができるであろう」。まもなく、鬼は衣を取った。妻はわざと怒鳴った。「衣を盗むのは許しませぬ」。鬼は笑いながら言った。「このようにきれいな服は、わたしが着るのが筋でしょう」。すべて着ると、衣は網に変わり、幾重にも女を包んだ、はじめはゆるくやがてきつくなり、そこを出ることはできなかった。道士は護符を書き、呪文を誦え、法水の杯で頭を打つと、水は飛び散ったが杯は壊れなかった。鬼が東に居れば、杯は東を撃ち、鬼が西に居れば、杯は西を撃った。杯が砕けると、鬼の頭も裂けた。すぐに捕らえて瓶の中に納め、法印[47]五色紙[48]で封じて、桃の樹の下に埋めた。さらに二つの護符に絳香[49]の粉末を入れ、縒って二塊にし、婦人に渡して言った。「この鬼にも夫がおり、半月以内にかならず復讐しにくるが、これで撃てば、心配なかろう」。数日後、はたして獰猛な男の鬼がやってきた。妻が言われた通りにすると、鬼は逃げ去った。

阿龍

 蘇州の徐世球は、木瀆[50]に居り、幼いときに城内に入り、韓其武の家で勉強した。韓には阿龍という(しもべ)がおり、年は二十、書室に侍してすこぶるまめまめしかった。ある晩、徐は楼上で勉強していたが、阿龍に下に行って茶を持ってくるように命じた。まもなく、阿龍は色を失ってやってきて、言った。「わたしは一人の白衣の人が楼の下で狂ったように走っているのを見ました、呼んでも応えず、ほとんど鬼にございました」。徐は笑って信じなかった。翌晩、阿龍は楼に上ろうとしなかったので、徐は柳姓の者に仕事を代わるように命じた。二更になると、柳は下へ行って茶を持ってこようとしたが、足に触れるものがあったため、地に倒れた、見ると、阿龍が階の下で気絶していた。柳が大声で叫んだので、徐が韓氏や賓客たちとともにやってきてくわしく見たところ、阿龍の頸には手で握られた痕があった、青黒く柳葉のように大きく、耳、目、口、鼻はことごとく黄色い泥で塞がれていた、体は横たわっていたが息は絶えていなかったので、生姜汁を飲ませたところ、蘇り、こう言った。「わたしが階段を下りている時、昨日の白衣の者が目の前に立ったのでございます。年は四十あまり、短い髯に黒い顔、わたしに向かって口を開いて、その舌を伸ばしましたが、長さは一尺ほどでした。叫ぼうとしましたところ、殴られて、手で喉を夾まれましたが、傍らに白い鬚、高い冠の老人がいて、宥めました。『このひとは若いのだから、苛めてはならぬ』。わたしはその時、ほとんど死なんばかりでしたが、たまたま柳某がわたしの脚にぶつかったため、白衣の者は家を突き破って去ったのでございます」。徐は人々に介添えして(とこ)に上げるように命じたが、(とこ)の上には数十の鬼火があって、とても大きな螢火のよう、夜通し絶えることがなかった。翌日、阿龍はぼんやりとして食事をしなかったので、韓氏が女巫を召して見させたところ、巫は言った。「県知事さまのお役所の筆を持ってきて、病人の胸に一つの『正』の字を書き、頸に一つの『刀』の字を書き、両手に二つの『火』の字を書けば、救うことができましょう」。韓氏はその言葉の通りにした。左手の「火」の字まで書くと、阿龍は目を見張って大声で叫んだ。「わたしを焼かないでくれ。すぐ去ればよいのだろう」。それからというもの(もののけ)はいなくなった。阿龍は今なお存命している。

 

大楽上人

 洛陽水陸庵の僧は、大楽上人と号し、金持ちであった。その隣人である、県の下役周其充は、家が貧しく、税の徴収を請け負っていたが、すべて横領してしまい、期日になるたびに、かならず上人に借金し、数年間で、七両に達していた。上人はかれに償還する力がないことを知ると、決して取り立てなかった。下役はすこぶる恩に感じ、会うとかならずこう言った。「わたくしは上人さまのご恩に報いられませぬから、死んだら驢馬となって報いることにしましょう」。まもなく、晩に、人が門をとても激しく叩いた。誰かと尋ねると、応えた。「周某にございます、ご恩に報いにまいりました」。上人は戸を啓いたが、まったく人がいなかったので、いたずらであると思った。この夜、飼っていた驢馬が子を産んだ。翌朝、下役を訪ねると、はたして死んでいた。上人は驢馬の傍らに行くと、産まれた子は首を振り、足を上げ、識っている者のようであった。

 上人はこの驢馬に一年乗った。やがて山西の客商が来て泊まり、その驢馬を気に入り、買おうとした。上人は承諾しなかったが、わけをはっきり話すには忍びなかった。客は言った。「それならば、お借りして某県へ往き、一晩宿るのは、宜しいでしょうか」。上人は承諾した。客商は鞍を載せ、轡を攬ると、笑いながら言った。「わたしは和尚さまを騙したのです。わたしはこの驢馬が気に入ったので、騎ったらすぐには返りませぬ。お金はあなたの(つくえ)の上に置きましたから[51]、戻られて取るがよろしい」。振り返らずに驢馬を走らせていった。上人はどうすることもできず、部屋に入って見たところ、(つくえ)の上には銀七両があり、負債の額と同じであった。

 

山西王二

 熊翰林滌斎先生がわたしに言った。康熙年間京師に遊び、陳参政儀[52]、計副憲[53]某と報国寺[54]で酒を飲んだ。三人はいずれも早くに出世したので、派手なことが好きで、席上歌妓がいないことを遺憾とし、人を遣わし女巫某を召し秧歌[55]を唱わせ酒を勧めさせた。女巫は唱いおわると、宴の半ばで腹が脹り、小便しようとし、塀の下へと出ていった。ほどなく戻ってくると、両目を見開き、三人の前に跪いて叫んだ。「わたしは山西の王二だ、ある年月日に宿の主人の趙三に金を目当てに殺されて、骨をこの寺の塀の下に埋められたのだ。お三方には、怨みを雪いでいただきたい」。三人は顔を見合わせて大いに驚き、声を出そうとしなかった。熊は諭した。「これは司坊官の仕事で、わたしたちが裁けることではない」。女巫は言った。「現任の司坊官の兪さまは熊さまと交わりがありますから、熊さまが兪さまに言伝をされ、あのかたをこちらに招かれ、発掘、検分するようにしてくだされば十分にございます」。熊は言った。「これは重大事件だが、話ばかりで証拠がないから、行くことはできぬ」。巫は言った。「筋から言えばわたしがみずから陳述するべきなのですが、わたしは体が朽ちており、生きている人に附いて話さなければならないのです、皆様方にはわたしのためにお計らいくださいますよう」。そう言うと、女巫は地に倒れた。しばらくすると目醒めたので、尋ねたが、記憶がなかった。三公は相談した。「わたしたちは鬼のために怨みを訴えることはできない。訴えても信じられまい。明日、兪司坊官を招いてともにこちらで酒を飲み、女巫を召して問いただせば、怨みは晴れることであろう」。

 翌日、兪司坊を寺に招いて酒を飲み、事情を告げた。女巫を召すと、巫はひどく懼れて、ふたたび来ようとしなかった。司坊官が下役を遣わして捕らえさせると、巫はようやくやってきた。寺の門に入ると、言うことはことごとく昨日と同じであった。司坊官は巡城御史[56]に言上し、塀の下を発掘すると、白骨一体があり、頸の下に傷があった。土地の者に詢ねると、こう言った。「以前、この塀は、山東済南府の趙三が旅人を泊める所でしたが、ある年に店を畳んで山東に逃げ帰りました」。そこで移文[57]、專差[58]、関提[59]が済南に及んだところ[60]、はたしてその者がいた。文書が到着した日、趙三は一回叫んで息絶えた。

 

大福いまだ受けず

 蘇州の羅姓の者は、年二十あまり、元旦に、その亡くなった祖父が「おまえは十月某日に死ぬだろう、絶対に免れることはできない、すみやかに後事を処理しろ」と言うのを夢見た。目醒めた後で家人に語ると、人々は驚き怖れた。期日になると、家人は取り囲んで見ていたが、羅はとりたてて変わりなく、晩になっても変化はなかった。家人は夢は信じるに足らないと思った。二更過ぎ、羅は塀に小便しにゆき、ながいこと戻らなかった。家人が急いで見にゆくと、衣はその体から剥がされていた。燈を取って照らすと、裸になって塀の東で死んでおり、衣服は十余歩離れたところにあったが、胸元はまだ温かかったので、すぐに納棺しようとはしなかった。

 翌晩になると蘇り、家人に告げた。「悪行の報いであった。わたしは妻の(はしため)の小春と姦淫し、妊娠させたが認知せず、妻は小春を打ち殺した。あいつは冥府に訴えて、わたしをみずから捕らえにきたのだ。わたしがたまたま塀に行くと、あいつは手でわたしの衣を剥ぎとって、わたしが以前あいつと姦淫したときのようにしたのだ。わたしはぼんやりとして、いっしょに冥府の城隍衙門に赴いて、まさに訊問されそうになったとき、たまたまあいつも前生の別の事件が発覚したため、山西の城隍に捕まったのだ。冥土の役人は長時間囚人を繋ごうとせず、わたしを人の世に還らせたのだ。しかしいずれは罪を逃れることはできまい」。羅の父は尋ねた。「人の世の事も尋ねたか」。羅は言った。「わたしは自分が死を逃れられないことを知りましたので、老父を養う人がいなくなることを恐れて、わたしを監督していた隸卒に尋ねました。『父は将来どうなりましょうか』。隸卒は笑いながら言いました。『おまえの孝心を考慮し、おまえの父に大福を受けさせることにしよう』。」家人たちはそれを聞くと、みな老翁のために喜び、翁もひそかに誇らしく思った。

 ところが一月足らずで、羅の父は[61]のために亡くなった、腹が(ひさご)のように大きくなったので、はじめて「大福」とは、大きい腹の兆しであったことを悟った。その子も三年後に死んだ。

 

観音堂

 わたしの同僚である趙公諱は天爵が、みずから言うには、句容の県令をしていた時、郊外へ行き、検屍し、薄暮、古廟に宿ったところ、老嫗を夢見た。顔には塵が積もり、髪は左の鬢が抜け落ちていたが、立ちながら頼んだ。「万藍がわたしの咽喉を絞めております、公はお役人さまですから、わたくしをすみやかに救われなければなりませぬ」。趙が目覚めて目を見張ると、燈の前には隠隠として見たものがまだいた。急いで起ち上がって追いかけたが、まったく捕まえることはできなかった。

 翌朝散歩していると、廟の側に観音堂があり、傍らに一老婦の像があったが、夢の中の人のようであった。堂の前の道はとても狭く、民家の出入り口となっていた。そこで廟僧を呼んで尋ねた。「あなたの村に万藍というものはいませんか」。僧は言った。「観音堂の前で出入りしているのが、万藍の家でございます」。藍を呼んでこさせると、尋ねた。「おまえの家は先祖が遺したものなのか」。藍は言った。「違います。この家は以前は観音堂の大門にございましたが、今年の正月、寺僧がこっそりわたしに売ったのでございます、代金は二十両でございました」。趙は夢のことは告げずに、すぐに二十両を投じて土地を買い戻し、修復を加えた。

 この時、趙は年四十あまりで、まだ跡取りがなかった。数ヶ月後、夫人は身ごもった。お産の晩に、老嫗がまた来て、一児を抱き与えるのを夢見た。夫人が目覚めたところ、公も同じ夢を見ており、一児が産まれた。

 

常格が怨みを訴えること

 乾隆十六年八月初三日、邸抄[62]を閲したところ、景山[63]に陳列されていた骨董数件が紛失したため、内務府の役人は土方が盗んだのだと疑い、労務に当たっているもの数十人を召し、すぐに訊問したということであった。そのとき一人がたちまち跪いて訴えた。「わたしは常格です、正黄旗の者で、年は十二歳です。市場に赴き、物を買っていたところ、土方の趙二に姦淫されそうになり、刀で殺され、厚載門[64]外の炭を積む場所に埋められました。わたしの家の父母某は、そのことをまだ知りませぬ。大人さまには発掘、検分して怨みを雪がれますように」。そう言うと地に倒れた。まもなく、また躍り上がって言った。「わたしは趙二だ、常格を殺したのはわたしだ」。内務府大人[65]はそのありさまを見、怨念があることを知り、刑部に委ねて発掘、検分させたところ、屍の傷は話の通りであった。その父母を訪ねると、こう言った。「うちの息子は失踪してすでに一月、死んでいたとは知りませんでした」。すぐに趙二を捕らえて詢ねると、ことごとく実情を白状した。刑部は上奏した。「趙二がみずから罪状を白状したのは、自首に似ていて、条例では減刑するべきではありますが[66]、冤鬼に憑かれたものであり、この条例を援用するのはよくありませぬ、斬罪としてただちに処刑するべきでございます」。勅旨を奉じて議に従った。

 

蒲州の塩梟

 岳水軒が山西蒲州の塩池を通ったところ、関神の祠の中に張桓侯[67]の像があり、関とともに南面して坐していた。傍らには周将軍[68]像があり、目を怒らせて獰猛なありさまで、手には鉄の鎖を引き、一本の朽木を縛っていたが、なぜなのかは分からなかった。土地の者は指さして言った。「これは塩梟にございます」。そのわけを問うと、こう言った。「宋の元祐年間、塩池の水を取り、数日煮ましたが、塩はできませんでした。商人は惶れ惑って、廟に祈りました。すると関神が人々を召してこのように言う夢を見ました。『おんみらの塩池は蚩尤[69]に占拠されているため、煮ても塩ができないのだ。わたしは祭祀を受けているから、もちろんことを処理するべきだ。しかし蚩尤の魄は、わたしが制することができるが、その妻の(きょう)という者は、とりわけ悍悪なので、わたしは制することができない、わたしの弟張翼徳が来たら、はじめて捕らえることができるであろう。わたしはすでに人を遣わし益州[70]から召しよせてきた』。人々は目覚めますと、朝、すぐに廟の中に桓侯の像を加えました。その晩、激しい風雷が起こりましたが、一本の朽木が、すでに鉄の鎖の上にあったのでございます。翌日、水を取り、塩を煮ますと、十倍とれました」。そこではじめて現在「塩梟」[71]と称するのは、まさにここに由来があることを悟ったのであった。

 

霊璧女が屍を借りて蘇ること

 王硯庭は霊璧県の知事となった。村に農婦の李氏がおり、年は三十ばかり、(かお)は醜く(めしい)で、脹を十余年病み、腹は豚のように大きかった。ある晩、死ぬと、夫は城に入って棺を買った。棺が到着したので、納棺しようとすると、妻はすでに生き返っており、両目は澄み、腹も元に戻っていた。夫が喜び、近付くと、妻はかたく拒み、泣きながら言った。「わたしは某村の王姑娘です、まだ結婚していないのに、どうしてこちらに来たのでしょう。わたしの父、母、姉、妹は、みんなどちらにいるのでしょう」。その夫は大いに驚き、急いで某村に告げたところ、家を挙げてその幼い娘を哭しており、屍はすでに埋められていた。その父母は狂ったように奔ってきた。妻は会うと泣きながら父母を抱き、ことごとく半生のことを述べたが、事実はすべて符合した。将来の結婚先の家のものも見にきたが、妻は恥じらい、顔を赤らめた。両家はこの妻を争い、お上に訴えた。硯庭は調停し、農民に結婚させるように判決した。乾隆二十一年の事であった。

 

漢の高祖が義帝を弑したこと

 山東駅塩道[72]の盧憲観[73]は急死したが、やがてまた甦り、前身は九江王英布だったと言った。義帝[74]を弑したのは、高祖が唆したのであって、項羽が唆したのではない、高祖はかげで義帝を弑し、項羽に罪を被せ、偽って諸侯とともに義帝を弑した者を討ったのだ、羽は上帝に訴え、英布を取り調べることを求めた、はっきり取り調べたところ、はたして高祖が弑したのであった、陳平は六たび奇計を設けたが、これはその一つであった、そのため盧は死んでまた甦ったのだということであった。「どうして二千年遅れて判決が定まったのですか」と尋ねると、「羽は咸陽の兵士二十万を(あなうめ)にしたので[75]、上帝は激怒し、冥土で殺し、無量の罪を受けさせたのだ。このたびようやく罪が償われたために、はじめて怨みを訴えることができたのだ」と言った。

 按ずるに王阮亭の『池北偶談』に張巡[76]の妾が怨みに報いた事を載せている[77]が、やはり千年遅れていたのであった。張の忠節をもってしても、報いることは難しいが、項は残酷であったため、訴えるのも難しかったのである。

 

地窮宮

 保定督標守備の李昌明は急死したが、三日たっても、屍が冷たくならなかったので、家人は納棺しようとしなかった。たちまち屍の腹が脹れて鼓のように大きくなったが、小便すると蘇り、葬送する者の手を握って言った。「わたしは死ぬ時、苦しみは尋常でなく、脚の指から肩に至るまで、気が発散し、収めることができなかった。死んでからは、体が軽く感じられ、生きていた時よりすこぶる良かった。行った処は、空は深い黄色で、日がなく、飛沙(すなあらし)が茫茫としていた。足は地を踏むことがなく、一切の屋舍、人物は、みな見たことがないものだった。わたしは魂が飄って、風に随い、東南へ行った。しばらくすると、空がだんだん明るくなり、(すな)はすこし収まった。俯いて東北の方角を見ると、長い河が一本あり、河の中には羊飼いが三人おり、羊は白い色で、肥えた大きな馬のようであった。わたしは尋ねた。『家はどこにある』。羊飼いは答えなかった。さらに約数十里行くと、遠い処に隠隠として宮殿が見えたが、瓦はすべて黄の琉璃瓦で、帝王の住まいのようであった。近づくと、二人の男が靴、帽、袍、帯を着け、殿下に立っていたが、世上で演じるところの高力士[78]、童貫[79]の姿のようであった。殿前には黄金の扁額があり、『地窮宮』の三文字が書いてあった。わたしがしばらく鑑賞していると、袍、帯を着けた者は怒り、やってきてわたしを追い払った。『ここをどこだと思っているのだ、おまえが立つのは許されないぞ』。わたしはふだんから強情だったので、去ろうとせず、そのものと争った。すると殿内から呼び出しがあった。『外で何を騒いでおるのだ』。袍、帯を着けた者は入っていったが、しばらくすると出てきて言った。『去らぬのなら、勅旨を待て』。二人の男がわたしを周りで見張っていた。日はようやく暮れ、陰風は四方に起こり、霜は瓦のようだった。わたしは凍えてずっと震えていたが、二人の見張りする者も縮こまり、涙を流し、わたしを指さして怨んだ。『おまえが来て騒がなければ、寒い夜の苦しみを受けることはなかったぞ』。空がすこし明るくなると、殿中で鐘が鳴り、風霜も晴れた。すると一人の男がふたたび出てきて言った。『昨日引き留めた者は、もとの場所に送り返そう』。袍、帯を着けた者はわたしを引いてゆき、ふたたびもとの所へ行くと、羊飼いはまだいた。袍、帯を着けた者はわたしをかれらに引き渡すと言った。『勅旨を奉じてこのものを引き渡すから、送って家に還らせろ、わたしは去るぞ』。羊飼いはわたしを拳で殴った。わたしは懼れて河に墜ち、水を飲み、腹が脹れたが、小便すると蘇ったのだ」。そう言うと、手と顔を洗い、普段通り飲食し、十日あまりして死んだ。

 これに先立ち、李の隣人で張姓の者が、眠っていて三更になると、(とこ)の側で人が呼ぶ声を聞いた。驚いて起きると、黒衣の四人の男がいた、それぞれ身長は一丈あまり、「わたしのために道案内して李守備の家に行ってくれ」と言うのであった。張が拒むと、黒衣の人は殴ろうとしたので、懼れていっしょに行った。李の家に行くと、二人の男が門のところにしゃがんでおり、(かお)はさらに凶悪であった。四人は仰ぎ見ようとせず、張とともに垣根の側の路に入ると、にわかに哭き声が中から聞こえた。このことは傅卓園提督が話したことで、李はその友人であった。

 

獄中の石の(はこ)

 越州の周道灃は難蔭[80]により陝西隴州知州に選ばれた、官署に着いた後、慣例に従って獄舎を巡視したところ、獄中に石の(はこ)があり、長さは一尺ほど、とても固く封じられていた。周が開けて見ようとすると、獄吏はどうしても承知せず、こう言った。「言い伝えでは、明末からこの(はこ)があるそうですが、何を納めてあるのかは分かりません。ただ道士が『開ければお上に不吉である』と言っていたのを憶えております」。周は平素から強情だったので、どうしても開けて見ようとした。そしてその(はこ)を斧で壊したところ、肖像画半幅[81]を得たが、裸で血を帯びており、顔は模糊とし、冷気は人に迫るものであった。周がじっくり見ていると、硫黄の臭いが(はこ)の中からわき起こり、巻物は焼け、灰は空に騰っていった。周は大いに胸騒ぎがして病になり、隴州で死んだ。結局、何の(もののけ)なのかは分からなかった。これは周蘭坡学士[82]がわたしに話したことで、州牧[83]はその従孫[84]であった。

 

最終更新日:2018810

子不語

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[1] 道教の儀式の総称。胡孚主編『中華道教大辞典』五百六頁参照。

[2] 原文「忽一道人持簿化」。「簿」は縁簿、喜捨帳のこと。

[3] 原文「聖帝之言、得無驗乎」。発話者が老僕か主人かが未詳。とりあえず、老僕と解するが、「聖帝之言」が未詳。この発言、前後との脈絡がない。

[4] 静座したり瞑想したりして修行すること。胡孚主編『中華道教大辞典』千二百五十七頁「煉法入道」参照。

[5] 上帝の律令。

[6]移屍、走影、いずれも動く死骸。走屍とも。

[7] 原文「遙擊以棒」。どういう情況なのか未詳。棒を飛ばして撃ったのか、あるいは棒で打つそぶりを見せたということなのか。

[8] 烏紗帽。写真

[9] 原文「令渠照來」。未詳。とりあえずこう訳す。

[10]祈夢とも。廟で祈り、その後に見る夢によって、吉凶などを判断すること。

[11] 浙江省の県名。

[12] この句、『西廂記』に見える。

[13]白藤は籐のこと。籐で編んだ帽子。

[14] 女媧のこと。

[15] 九天玄女のこと。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百八十五頁参照。

[16] 浙江省の県名。

[17] 試験官。

[18] 金壇の人。雍正元年の状元。

[19] 未詳だが、字義からして布で作られた銅銭状のもので、紙銭などと同じく、祭祀に使うものであろう。

[20] 取り囲んで拝礼すること。

[21] 佃戸、種戸。小作人。

[22] 関帝。関羽。

[23] 『清史稿』巻二百六十一などに伝がある。

[24] 巡撫。

[25] 方相氏、開路神、開路鬼とも。葉大兵等主編『中国風俗辞典』二百五十頁参照。『三教捜神大全』「開路神君、乃周礼之方相氏…。神身方丈余、頭広三尺、鬚長三尺五寸、頭赤面藍、左手執印、右手執戈、出柩以先行之」。

[26] 塀と家屋の隙間にある細い道。

[27] 『孟子』尽心下「虎負嵎、莫之敢攖」。

[28] 図:『三才図会』。

[29] 泰山府君の娘である碧霞元君。

[30] 未詳だが、紙製の叉状のものか、紙に叉が描いてあるものであろう。

[31] 未詳だが、弓を持った兵卒であろう。

[32] 二重壁。夾壁。物置などとして使う。

[33] 杜鶴のことであろうと思われる。四川忠州の人。乾隆丁巳年(乾隆二年)の進士。

[34] 科挙に同じ年に合格したもの。

[35] 四川州の人。『清史稿』巻三百二十七などに伝がある。

[36] 閣学は内閣大学士。方苞は『清史稿』巻二百九十六などに伝がある。

[37] 方苞は康煕六十一年、武英殿修書総裁に就任。武英殿は宮中にあった殿名で、図書の繕刻などが行われていた。

[38] 康煕三十九年進士。

[39] 図:『三才図会』。

[40] 乾隆五、六年に江蘇巡撫。

[41] 安徽省の府名。

[42] 知府。

[43] 官署の正門から二番目の門。

[44] 『清史稿』巻二百九十五などに伝がある。雍正十三年、安徽巡撫。

[45]馬賊。追いはぎ。

[46] 時報。

[47] 神仙の名号などを刻んだ印。胡孚琛主編『中華道教大辞典』五百四十六頁参照。

[48] 未詳。

[49] 未詳。

[50] 江蘇省の鎮名。

[51] 原文「我已措價置汝几上」。「措價」が未詳。とりあえずこう訳す。

[52]陳儀:『清史稿』巻二百九十七などに伝がある。参政は官名。

[53] 副憲:都察院の副長官である左副都御史。

[54] 北京市宣武区にある寺。北京市文物事業管理局編『北京名勝古跡辞典』二百十一頁参照。

[55] 田植え歌。

[56] 官名。京城の治安を掌る。

[57] 統属関係にない官庁間で文書を交わすこと。

[58] 公務を執行する者を特派すること。

[59] 文書を出して犯人を逮捕すること。

[60] 原文「乃移文專差關提至濟南」。未詳。とりあえずこう訳す。

[61]鼓脹。病名。謝観等編著『中国医学大辞典』千四百三十五頁参照。

[62] 官報。

[63] 北京の宮城の北側にある人口の山。北京市文物事業管理局編『北京名勝古跡辞典』百八十一頁参照。

[64] 地安門の俗称。景山の北側にあった。地安門は現在、地安門外大街という街路にその名を留めている。地安門外大街の写真。

[65] 内務府総管大臣のことと思われる。内務府は宮内庁に相当。

[66] 原文「例宜減等」。「例」は「条例」のこと。清律で法条の後に付加された副次的な法令。

[67] 張飛。

[68] 周倉のこと。関帝廟で関羽の脇士となっている。奇怪な容貌をしている。写真

[69] 黄帝時代の諸侯で、涿鹿の野で黄帝と戦ったことで有名。

[70] 四川省成都府の州名。

[71]塩梟:塩の密売人をいう。

[72] 駅塩道は官名。

[73] 浙江仁和の人。乾隆二年進士。

[74] 楚の懐王。秦漢の間、項羽に推戴されて天子となった。

[75] 『史記』項羽本紀「楚軍夜擊阬秦卒二十餘萬人新安城南」。

[76] 唐の人。安史の乱の際、賊軍に抗して惨殺される。

[77] https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=674105&searchu=%E5%BE%90%E8%94%BC%EF%BC%8C%E5%AD%97%E5%90%89%E4%BA%BA&remap=gb 

[78] 唐の玄宗に寵愛された宦官。

[79] 宋の人。奸臣として有名。『宋史』巻四百六十八に伝がある。

[80]とも。殉職した官員の子を官職に就かせる、清代の制度。

[81] 幅は布の巾の単位。一幅は二尺二寸。

[82] 周長発。雍正二年進士。浙江会稽の人。『清史列伝』巻七十一などに伝がある。

[83] 州知事。

[84] 兄弟の孫。

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