異聞総録巻一
大観[1]年間、京師の医者耿愚は、一人の侍婢を買ったが、麗しくて聡かった。年を越し、門外に立っていると、子供が通り、母であるとし、恋々として去るに忍びず、侍婢も撫でて憐れんだ。子供は帰ってその父に告げた。「母さんが某家にいました。」時にかれの母は死に、すでに祥[2]していたので、父は本当だと思わず、仮埋葬している所にいってみたところ、盗賊に発かれたようで、屍は見えなかった。家に帰り、子供を連れ、耿氏の隣人に会い、ひそかに侍婢の姓氏を尋ねると、ほんとうにその妻であった。すぐに偽って行商人となり、路上を徘徊し、出てくるのを窺ってそれを見、妻は呼んで進ませ、別れていたときの思い[3]を述べ、泣き、人に語った。「この人はわたしの夫で、子供はわたしの子でございます。」耿はそれを聞くと怒り、責めて言った。「去年おまえを買った時、おまえはもともと夫がいないということだった。文書や仲買人があって証拠になるのに、どうしてこんなことをした。」夫は開封に訴え、どこから来たかを追究したが、侍婢は昏然として記憶しておらず、ただ言うには、ある橋にゆき、路に迷い、仲買人の老婆に引かれて去り、飢餓に迫られたので、みずからを売った。仲買人の老婆も、ほんとうに広備橋[4]で遇った、住居と食物を求め、身売りして借りを償うことにしたと言った。京尹は顛末を究める暇がなく、夫に残りの代金を耿氏に償ってその妻を娶るように命じたが、耿氏は承服しなかった。夫はさらに御史台に訴えようとしたが、正式に通知しないうちに、また婦人がいなくなり、訴えはやんだ。一年足らずで、耿愚は死に、家も衰えた。
宣和年間、郷里の人董秀才は州学に入ったが、厠へゆくと、白衣の婦人が前を徘徊していたので、そのわけを尋ねたところ、こう言った。「わたしは菜園の中の人で、良人はすでに亡くなり、藐然[5]として帰るところがございません。」董は留めてともに語り、さらに斎舎[6]の所在を告げたところ、夜になると来てともに寝た。まもなく病になり、同舎生はみなそれを知り、教授に告げた。教授はかれの部屋にゆき、責めて言った。「士人でありながら異類に憑かれ、どうしてこんなにまでなった。」その所在を尋ねると、袒服[7]を送られたことがあるというので、取って見ると、汚なくて縫われていなかったので、火に投ずるように命じ、みんなに追跡させた。一人の老圃[8]が言った。「以前、子供が羊を放牧し、一頭の牝羊が西廓の井戸の中に落ち、取れなかったが、今、白衣で出てきたのは、もしやその幽鬼でしょうか。」道士を呼んで法呪を行い、黒豆を井に投じると、怪は絶えて来なくなったが、董も死んだ。
紹興六年、余干村の民張氏の家の人々は、すでに就寝していた。牧童が牛の柵にいたところ、門を叩くものがいたので、いそいで起きて見ると、壮夫数百人が、五花甲[9]を着、紅い兜鍪を着け、突っ込んで来、その後、隠れて見えなくなった。夜が明けると、圈の中の牛五十頭はすべて死んでいたが、そもそも疫鬼だったのであった。
芝山[10]は、城の北一里にあり、左右前後はすべて墓域で、僧寺の二つの回廊には、多くの柩が向かい合い、風雪で暗ければ、かならず啾啾たる声が聞こえていた。そもそも幽鬼の集まる場所なのであった。紹興十六年、通判の任良臣伯顔が、子を失い、寺に入り、水陸[11]を設けたところ、夜半前、寺中の山麓で戯れ笑い、往来してたがいに慰問するのが聞こえた。程祠部[12]の墓を守るしもべは、ひとり黄泥路口を経て帰り[13]、二人の男がともにゆくのを見たが、かれらは声を荒げて言った。「わたしたちは寺で集まりがあるので、召されてゆくが、おまえは何者で、こちらに来ようとした。」追って殴ろうとしたので、しもべが走って逃げると、たまたま篝火が寺から出てきたので、逃れられた。
撫州[14]の述陂[15]は、城から二十里で、全村はみな甘林[16]で、豪族饒氏が住んでいた。家人はかつて林間に出遊し、倒れた柳を見たが、中は空しく、水を湛えて鑑みられたが、嫁が戯れて窺うと、たちまち病となり、家に帰ってすぐにぼんやりと臥し、知覚がなくなった[17]。そして物が空中で語り、人と酬酢往来したが、人が歌う声を聞くと、かならず和することができ、宛転として揚がるかのようで、余韻があった。音律がすこし誤ると、かならず笑って指摘した。文を論じ、詩を語れば、おおむね理に適っていたが、隔たること咫尺でありながらその姿は見えなかった。僕妾[18]に過ちがあれば、主人にはっきり言い、数十里離れた畑の出納が欺かれても、即日報告し、一つも隠蔽することがなかった。上下は怒りを募らして忌み嫌って、殴攘[19]祈禬[20]、あらゆる術を尽くしたが、結局、益するところがなかった。およそ数年で、饒氏は香を焚いて拝して祈った。「神さまのご光臨を受け、久しゅうございますが、人と神は路を異にしていますので、恐れて、神さまを侮辱しようとしません。あらたに廟を山間に建てようとし、香火を捧げて神像を設け、供え物を豊かにしてうやうやしくお仕えし、神さまが移り住み、おのおのその分に安んずることを願うのは、何ともよくはございませんか。」すると許諾し、それから寂として動きがなかった。饒氏はみずからうまくいったことを喜び、廟を営んだが、たいへん華やかで、吉日を選んで迎えて祭った。すると五日後に来、はじめの通りに談笑した。饒翁は責めて言った。「廟を建てて祭ったのに、さらにわたしに祟るのはどうしてだ。」笑って言った。「わたしはどうして愚かな子供でございましょうか。このような高堂大廈を棄てて去り、小さな廟を顧みましょうか。」饒氏はますますがっかりした。結局、嫁が死ぬと、鬼ははじめて謝して去り、一家はそのために衰えた。
武昌の李主簿は、夢みたところ、冥司に逮捕されたが、長官はおまえは前生で張氏の子であった時、どうして妻を推して水に落ちさせたと尋ねた。李は夢の中でふとそのことを思いだし、答えた。「妻が自分で足を滑らせ、水に落ちて死んだのでございます。推したのではございません。」長官がその場所の山川の神を追及して供述させると、李の言うことと同じであったので、釈放して帰らせた。後日、旅舎で婦人に会うと、みずから前生の妻だと言い、いっしょにいて離れようとせず、綢繆として生きている時のようであった。姻族はみなそれを知った。数年で辞して去り、李も終生娶らなかった。他の苦しみはなかったが、つねに腰痛を病み、木を二つの椎にし、その中を抉り、人日のたびに数十回叩くと、痛みはやや解けたが、そもそも鬼気が染みて招いたものであった。
洪州州学正[21]の張某は、天性刻薄で、老いてますますひどくなり、生徒が休暇を申請しても、惜しんでかたくなに与えず、学官が五日を与えれば、改めて三日にし、三日を与えれば改めて二日にし、他もすべて同様であったので[22]、人々は怨んだ。張鬼子というものがおり、容貌が幽鬼のようであったのでその名を得ていたが、人々は偽って陰府の追鬼[23]とならせ、張老を恐れさせようとした。鬼子は慨然として言った。「命を奉ずることを願うが、嘘をつく時は真のようにするべきだ。冥司の令状を得られればよいだろう。」人々は言った。「令状の書式はどうするべきか。」「人が作るのを見たことがある。」紙を求め、白礬でこまかく書いて、みずから後ろに署名した。その晩、州学にゆくと、校門はすでに閉ざされていたが、鬼子は隙間に入ったので、人々は驚いた。張老はそれを見ると、怒った。「畜生め、どうしてこんなこととする。きっと人々がおまえに命じて夜にわたしを恐れさせているのだろう。」すると笑って言った。「閻王の令状を奉じておまえを追捕するのだ。」張老は令状を求めたが、読みながら、鬼子がその頭巾をとると、二本の角がその頭に横ざまになっていたので、張老は驚き叫んですぐに死んだ。鬼子は庭に出て立ち、言った。「わたしはほんとうに牛頭の獄卒なのだ。以前、命を奉じてこの老人を追捕しようとしたが、たまたま水を渡って令状を失い、二十年たっても、恐れて帰ろうとしなかった。秀才たちの力によって、復命できた。今、嘘が真のようになった。」拝謝して去った。陳正敏の『遁斎韆T』に、李安世が太学[24]にいた時、同舎生[25]に幽鬼の令状で戯れられて死んだと記す[26]。これと同じだが、それぞれ別のことである。
李徳遠は紹興二十七年、臨安に転任し、白壁営[27]に宿り、福州の姚知県と邸をともにしていた。おりしも盛夏であったので、毎晩奥の軒で納涼した。すると姚の旧友賈県丞が来、告身[28]をなくしたことを処理した[29]。住居は隔たること百歩で、朝に出て晩に帰り、かならず姚を訪ねて夜話し、李はそのためにかれを知ることができた。賈県丞は長安の人で、驪山の宮闕古都井邑[30]の美しさを語り、滾滾[31]として聴くべきものがあった。さらに縉雲[32]の丞となったことがあるので、鬼仙華英[33]の事跡を語り、もっとも拠りどころがあった。姚李はさらに酒を買い、果物を設け、もてなし、およそ二ヶ月で、はじめてそれぞれ別れた。さらに二年して、李は勅令によって刪定官[34]となり[35]、官署で従容として同僚の唐信道と怪神[36]に言及し、唐はくわしく華英のことを述べ、李は応答は響くかのようで、唐は言った。「あなたはどうしてそれを知った。」聞いたことを告げると、唐は驚いて言った。「もしや長身で髯が多いものか。」「はい。」「陝西の人か。」「はい。」「その人は縉雲で辞官すると、すぐに死に、その兄はかれを丘に葬り、わたしはかれを墓穴に送って帰り、今では十年になる。仰ったようなことがあLはずがない。」李ははじめて恐ろしくなり、毛髪を震わした。ゆっくりと考えると、つきあって久しかったのに、白昼は一度も来たことがなく、同じ堂で談笑したが、その席はつねに燈から遠く、そもそもその面目をじっくり見ていなかったので、今は幽鬼であることを悟った。姚生は別れた後数年で亡くなった(賈は名を詡、字を虞仲という)。
豫章豊城県の江のほとりの宝気亭[37]でのこと、建炎[38]三年、住民は数夜つづけて朱僕射と呼ぶのを聞いたが、その人は見えなかった。その後、新しい虔州[39]太守馮季周が、修撰[40]に転任し、舟を亭の下に泊めたところ、随行していたしもべ[41]朱秀才が溺死したが[42]、八月四日のことであった。
嘉興の知事陶彖[43]は、子がたいへん珍しい病になり、表情や談笑するさまは、普段と違っていた。彖はそれを心配し、巫祝を招いて調伏させたが、手を尽くしても結局治せなかった。たまたま天竺[44]の弁才法師元浄[45]が、用事で来た。元浄は天台教を伝え、特に呪水[46]をよくし、病人はそれを飲むとかならず癒えたので、呉の人々は尊んで仕えた。彖はもともとその名を聞いていたので、すぐに会いにいって書状を作って告げた[47]。「息子が病気になりました当初、一人の娘が外からきてからかい、しばらくするといっしょに出、すこし進んで水辺にゆき、詩を贈って言いました。『生きてはなる木卯の人、死してはなる幽独の鬼。泉門[48]長夜開き、衾幃[49]君の到るを待つ。』それからしばしば来、さらに言いました。『仲冬の月、二七[50]の間、月が満ちる晩、車馬が迎えにまいります。』今、妖との約束は迫っていますが、なすところを知りません。憐れみを垂れたまうことを願います。」浄は許諾し、杖ついてみずからその家にゆき、ゆかを掃除して祭壇にし、観音菩薩像を置き、楊の枝の露を取って注いで呪し、三たび祭壇を巡って去った。その晩、子は安然と眠った。翌日、浄は結跏趺坐し、子を引いて尋ねた。「おまえはどこに住んで、こちらにきた。」「会稽の東、卞山[51]の南が、わたしの家で、古木は蒼蒼としています。」さらに姓は何かと尋ねると、答えた。「呉王山上[52]人なきところ、幾たびか風に臨みて舞腰[53]を学ぶ。」浄は言った。「おまえは柳氏か。」囅然[54]として笑った。浄は言った。「おまえは無始[55]以来、自己を失って外物を求め、振り回されて淫邪に溺れている。千劫[56]にわたって放縦にし、みずから解脱せず、魔趣[57]の中に入り、さかんに災害を生じ、無辜に及ぼした。おまえは今魔を知るべきだ、魔はまさに法界[58]だ。わたしは今語ってやろう。楞厳秘密神呪があり、おまえはじっくり聞くべきで、いたくみずからを悔いて怨み、既往の過失を雪ぎ、本来清浄覚性[59]に帰れ。」すると号泣してまた語らなくなった[60]。その晩、子に言った。「弁才の功は、お父さまの敬虔さによるもので、それに加えるものはない。わたしは去ろう。二日後にまた来よう。ひさしくおまえと遊び、情はにわかに捨てられない。觴を挙げて別れよう。」そして向かいあって酒をなみなみとつぎ、それが終わると、詩を作った。「仲冬二七は良時[61]にして、江下に縁の子と期するなし。今日岐に臨む一杯の酒、君とともに千里遠く相離る。」そして去ってまた見えなくなった。(秦少遊記)
厳陵[62]の江珪は、紹興年間、浙東安撫司の属官を代行し、会稽の儀曹[63]の旧官署の中に住んでいた。三子は年がいずれも十余歳で、朝起きて中堂の小閣[64]の中にゆくと、婦人が羅衫粉裳[65]で、その母の化粧するところに就いて髪を整えていた。もともと家人ではないと訝り、走って部屋に入って父に告げた。珪はすぐに起きて見たところ、なおその背が見え、西の建物の嫗の榻の傍らに入って消えた。嫗を呼んで起こして語ると、嫗は言った。「今日はなお明るくなく、婦人は窓外で桃花一枝を折り、冠に簪し、笑って入り、ぼんやりとしてまた眠り、結局誰か分かりませんでした。」珪がそのことを建物を番する老門番に尋ねると、言った。「二十年前、柳儀曹がこちらに住んでいました時、その嫁は難産のために室内で亡くなり、今現れたのはその人でございます。」世では幽鬼が桃花を恐れるというが、その言葉はでたらめであろう。(江鳴玉談)
紹興十年、張淵道提挙秦が茶馬司となり、淮穎から赴任し、随行の老兵張朝は、厩卒となり、妻子を連れていた。幼い娘はわずか七歳で、夜、榻の上で寝返りを打ち、寝られなかったので、母は撫でて言った。「真夜中を過ぎたのだから、お休み。」娘は笑って言った。「おもてに流れている水はたいへん澄んでいて、小魚が無数にその中を泳いでいて、見て楽しみ、なんとかとろうとしています。枕に就く暇はありません。」母はそれがうわごとなので、たいへん心配し、しっかりと懐に置いた。しばらくして疲れ、目ざめると、所在を失っていた。夜通し探し、朝に起き、眺めると家の裏数十歩のところに古井戸があり、竿で探ってみれば、人のようであった。出して見れば、ほんとうに娘で、助からなかった。そもそも前の晩に幻を見た時、その魂魄はすでに鬼の手中に落ちていたのであった。
閽門使[66]蕭注は、新喻[67]の人で、冠で孤児となり、その弟伯英とともに住んでいたが、病になり、危篤となり、だんだんとぼんやりし、喘ぐ声が聞こえなくなったので、英[68]はしもべとともに泣いてその側で見守っていた。日が暮れようとすると、痩せて僂の老嫗が、浴室の下に出てき、泣きながら寝室にむかってゆっくりと来、さらに語った。「六郎、わたしに命を返せ。」六郎とは、まさに注のことであった。階に登ろうとすると、白い袍を着け、鬚髯は白雪のような老叟が、西側の戸の中から杖をついて出てき、怒鳴った。「汚らわしい屍骸め[69]、みだりに出てくる必要はない。六郎は国庫の銭万余貫を使うことを求めたことがない。もし死ねば、それは天命で終わるべきなのであり[70]、さらに茆山洞主となるはずだ。おまえのような下愚の暗鬼[71]は、はやく去らなければ、わたしが懲らしめてやろう。」つづけて怒鳴ると、嫗は悲しんで泣き、また匍匐してもとのところに赴き、叟も見えなくなった。夜半になると、だんだん呻吟し、粥を食らい、数日で癒えた[72]。伯英が従容として見たことを語ると、注は顔色を変え、おまえが家にいない時、老婢がわたしのためにはたらかず、さらに無礼な言葉で反抗したので、鉄鞭で打つと、すぐに死んで、ひそかに浴室の下に埋めたが、おまえが見たのはもしやそれかと言った。
楽平[73]の農民が、稲を植えて帰ったところ、人に呼び出された。見ると数人が外におり、容貌は醜怪で、怒鳴って荷を負わせた。幾つかの村を通り、洪源石村何衡諸里を過ぎたが[74]、一村ごとにかならずさきに社神[75]にゆき、言うことは疫病を流行させたいということであったが、みな拒んで聴かなかった。怪たちはみずから言った。「それなら劉村の劉十九郎の家だけはゆける。」そしてゆき、すぐに入り、廡下の各部屋に赴いて宿ったが、飲食枕席の備えがなかった。翌朝、劉氏の子が出てくると、怪のかしらがその弟子に告げた。「このものの右足を打て。」杖が下ると、子はすぐに地に倒れた。ついで老嫗が通ると、左足を打たせたが、嫗は地に倒れ、つづけて三人を殺した[76]。しかしただ一つの部屋にじっとして、みだりに出なかった。偵察のものが、一頭の虎が前方から跳ねて来た、たいへん恐ろしいとひそかに告げた。かしらは顔色を変えず、二人の幽鬼に杖を持って待たせ、来たら二人でその両足を打てと言い、まもなく虎が杖下に死んだことが知らされた。二日を経ると、偵察のものが、北方で火が起こったことをいそいで知らせた。まもなく、焔は部屋に及び、山水はさらにはげしく到った。怪はそれを見て慌て恐れ、行李をとる暇もなく、単身でいそいで逃げた。農民が力を尽くさないことを怒り、推して田の穴の中に落としたが、蹶然として起きれば[77]、身は牀に臥しており、妻子は囲んで泣いてすでに三日であった。郷里の人がそのことを劉氏に尋ねると、二子一婢が同時に疫病に罹り、巫を呼んで治し、門に及んで死んだと言った。さらに一人の巫を迎え、巫は前のことを改め[78]、鬼の不備を襲おうとし、裏門から法術を施し、刀を持ち、角を吹き、水火輪呪を誦えて入ると、病人は即日みな安らかになった。
淄州[79]の人田轂は、めいが攸県[80]の劉郎中の子に嫁いでいた。劉が亡くなって数年して、田氏は病んだので、しもべを衡山[81]にゆかせ、表侄[82]張敏中を招き、後事を託そうとしたが、ゆけないでいるうちに、田は死んでしまった。当初、田[83]には兄がおり、衡山廖氏の娘を娶り、娘が死ぬと、さらにその妹を娶っていた。兄も死ぬと、後嫂[84]がいるだけで、敏中とともに弔いにゆき、張の旧居没山閣に寓したが、時に隆興[85]甲申の冬であった。その晩、廖嫂は急に心臓が痛み、治療するとすこし癒えた。夜半を過ぎ、起きて坐そうとしたが、言葉は支離滅裂で、張が見舞いにゆけば、その姉が憑き、咄咄とその妹を責めて言った。「だれとでも結婚できるのに、どうしてもわたしと一人の婿をともにしようとし、死ぬと位牌を設けてわたしを祭らない。わたしは折々に身を寄せるところがない。連れだってともに帰るのでなければいけない。」張は諌め諭した。「すべて田おじさまのなさったことで、今のおばさま[86]の過ちではございません。同じ家のご姉妹ですのに、なぜこのようにできるのでしょう。」まもなく、突然拱手して言った。「叔翁、ごきげんよう。」さらに言った。「慶孫、おまえは牀に上がってお坐り。」叔翁とは、田三姑の季父[87]轂で、慶孫とは、かれの稚子[88]で、いずれも死んでいた。そもそも幽鬼たちが部屋に満ちていたのであり、左右のものはみなぞっとした。まもなく、顔が変わって田氏の声となり、張を振り返って言った。「知県どの、わたしのために来たのでしょう、わたしは生前言おうとしていたことがありました[89]。今、詳細を告げるべきです。」迎えてすこし進ませ、死んだばかりの時、夫の兄が侵奪したこと、婢妾が窃盗したこと、下手人の名や物品をすべて言ったが、ほんとうに間違いがなく、さらに生んだ次男を立てて劉氏の跡取りとすることを頼んだが、切切とひそかに語り、他人に聞かれることを望んでいないようであった。しばらくして、涙を流して言った。「わたしはあまり罪悪がなかったので、地獄道に落ちなかったが、生まれ変わるには道筋があり[90]、抜け出せなかった。」嗚咽して去った。憑いている時は、廖氏は眼、頬、靨、及び十指の細長いさまが、まったく田姑の生前の容貌のようになり、このようにして連日来、廖が帰るとやんだ。翌年の春、劉の墓に合葬することになり、張は廖とともに葬送したが、その塚のほとりに宿ると、寒雨は寂しく降り、松風は答えて響きだしたので、みな恐れ驚き、廖がまた憑かれると思った。張は責めて言った。「きっと野の怪がなりすましているのだろう。ほんとうの田三姑なら、どうして容色が昨冬と同じように、声に従って変わり、宛然としてすこしも違いがなく、以前の事を言い不平を述べて後にやまないのだ。」廖氏が家に帰ると、さらに張に祈りにくることを求め、傍らの人は言った。「張知県は家が遠くないから、すぐに告げにいってはどうか。」「宅龍がわたしを遮り、入ろうとしたが入れられず、わたしは幽鬼となることを免れなかろう。」一年後、廖が亡くなると、はじめて来なくなった。幽鬼は生きた人間に憑くことが多いが、容貌をそれに似せることができたことだけは、怪しむべきことである。
撫州の南門黄柏路[91]の住民・立と・七は、縑帛[92]を売買することを生業とし[93]、その末子は小哥といい、賭博して負けを抱え、兄に鞭うって責めるられることを恐れ、すぐに他のところに逃げ、しばらくしても帰らなかった。母はかれを思うことがますます切実であったが、夢寐占卜はすべて不吉であったので、ほんとうに死んだと思っていた。おりしも中元盂蘭盆斎であったので、前の晩、・氏は紙銭を並べて祭ろうとしていた。薄暮、外でひそかに嘆息するものがいるようであったので、母は言った。「小哥はほんとうに死んで、今わたしに告げにきた。」一枚の紙銭を取って祈った。「ほんとうにわたしの子なら、この銭を引き出せれば、ほんとうである験だから、冥助[94]をおまえに求めよう。」まもなく、陰風は肅肅とし、しばしば入って探ってそれを出した[95]。母と兄は大声で泣き、すぐに僧を呼び、経を誦えて済度させ、かれが帰ることを望まなかった。数ヶ月後、突然外から来た。伯兄が、「幽鬼だ。」と言い、刀を執って追おうとすると、仲はにわかに抱きとめて言った。「いけません。」すこし進んでじっくり見、その生死を尋ねると、弟は言った。「もともと杖を恐れて逃げ、宜黄にいって傭工となっていたのです。死んでいません。」そこで前の事は鬼に騙されたことを知った。
晁端揆は京師に住み、里中の若い女を好み、流し目して思いを寄せたが、つれあいとなることはできなかった。女は突然夜に来、衣を引いて布団を共にすることを求めたので、晁はたいへん喜んだ。未明に去ることを求め、留めたが承知せず、このようなことをして、家人が知るのを恐れないことができましょうかと言った。去ると、褥に血痕が残っていたが、理由は分からなかった。三日後、かれの門を通ると、泣く声が聞こえ、隣人に尋ねると、言った。「若い女がお産のために死に、今では三日です。」晁は涙を拭いて帰った。
紹興[96]癸卯、新城県の渡し場で、月光の中、漁師が舟を繋いで帰ろうとしていると、岸を隔てて人が船を呼んで渡ろうとした。近づけば、刺青して兵刃を担うものたち二十余人であったので、もしや寨卒[97]かと思ったが、尋ねて乗せる暇がなかった。渡ると、嚢を探り、銭を与え、岸に上がり、別れて去ったが、平時通っている兵卒のなかにはいないものであった。漁師は喜んだ後で訝り、翌日その銭を見ると、すべて紙であったので、はじめて幽鬼であったことを悟った。
南城県[98]の東百余里の龍門山[99]には、山頂に寺があり、幽静孤寂で、人跡が到ることはまれであり、ひとりの僧が住んでいた。客僧が通り、他の部屋に宿ったが、主僧の部屋とたいへん遠く離れていた。寝ると、戸外で人の呼ぶ声が聞こえ、驚き怪しんで起きようとしなかった。まもなく、門が軋然[100]としてひとりでに開いたので、客はたいへん驚き、喘ごうとせず、牀から下りて逃げようとしたが、門はすでに巨石に塞がれていた。大声でしばらく呼ぶと、主僧ははじめて答え、問答するとすぐに、石は突然見えなくなって、門ははじめの通り開いた。客はまた寝られず、いって主僧について宿り、さらにその怪異について尋ねると、山鬼がしたことだと言い、これをみることはたいへん多いが、侵せないと言った。
臨川の画工黄生は、旅して広昌[101]にゆき、秩巴寨[102]にゆき、卒長[103]郎厳がかれを泊めた。真夜中、一人の婦人が燈下に現れたが、たいへん好もしかったので、酔いに乗じて挑んだところ、欣然として近づいてきた。どこの家の人かと尋ねると、主人の妻だと言い、それから毎晩来た。黄が無心すると[104]、かならずひそかに資金援助した。半年逗留すると、次第に奄奄と病み、厳が尋ねても、語ろうとしなかった。そもそも厳はつねに娼妓を囲い、妻はひどく怒り嫉み、自経して部屋で死に、葬ったが、なおしばしば姿を現したので、その部屋を虚しくして住もうとしなかったのであった。しかし黄はそこに住んだので、厳は妻の幽鬼だと思い、事情を告げたところ、はじめて真実を告げた[105]。厳は空中に向かって唾し罵り、黄を移して旅館に宿らせた。その晩、また来たので、黄が恐れて避けようとすると、婦人は言った。「わたしを避ける必要はございません。わたしはあなたを殺すに忍びません。あなたが逃げても、わたしは来ます。」黄はやむを得ず、留まってともに宿った。ますますひさしく、黄は婦人が自分を殺すことを慮り、馳せて帰郷した。途中休憩し、桑の下で納涼していると、婦人がさらに来、言った。「この悪党はたいへん無情で、ともにながいこと睦まじくしていたのに、一分の恋々とする思いもなく、無情にもわたしを捨てるのか。はやく帰るべきだ。」黄は答えようとせず、ひたすら心を正しくして天地に祈り、経を黙誦した。婦人は突然長嘆した。「これはわたしの過ちで、まったく惑わすべきでない。今日のようにろくでもないなら、畜生は慕うに足りない。わたしはどうしてほかに連れあいを選べなかろうか。」そして去り、その怪ははじめて絶えた。
紹興庚午年十一月、建昌新城県永安村では、夜半に村内で数百千人の歩く音が聞こえたが、語ったり、笑ったり、歌ったり、泣いたり、乱れて慌しくし、あまりはっきりしていなかった。みな驚き怪しんだが、凝寒と陰雲で、咫尺も弁じなかった。勇敢なものが門を開いてじっくり見たが、すこしも見えるものがなかった。翌朝、雪は深さ尺余、雪中の足跡は兵馬が通った場所のようで、人畜鳥獣の足跡が相半ばし、あるいは流血に汚されていた。このようにして十里ばかりになろうとし、深い山に入って絶えていた。
咸淳癸酉年、珠冠[106]を売るものがおり、吉水[107]の龍華寺[108]を通ると、娘が出てきて珠冠一頂を買い、さきに千銭を払い、残りは翌日を約した。期日通りふたたびゆくと、僧は言った。「龍華寺にどうして娘がおりましょう。」客は信じず、僧があまねく探させれば、郴州[109]の某人の家がその娘の棺を寺に預けており、冠はその上にあったが、千銭はなくなっていた。
江東の張粋父は、剛直で胆力があり、鬼神を恐れなかった。宋の淳祐年間、郡庠[110]にいた時、裏庭に亭があったが、もともと祟りが多く、日暮れを過ぎると、動くものが姿を現すので、ひとりでゆこうとするものはいなかった。仲間が張に戯れて言った。「鬼を恐れないならば、琴を亭に置くから、暮に鼓してくれ。みんなは几に凭れて待っていよう。」張は承諾し、夜半に亭にいって数曲を鼓し、帰ろうとしたところ、亭の角で鼻息と呼吸する音が聞こえた。時に月はぼんやり明るく、見ると一人が側臥し、頂から踵まで摩ると、婦人であり、体が温かく軟らかで、怒鳴っても語らなかった。ふたたび一曲を鼓し、斎に帰って人々を率いて照らすと、あきらかに若い女で、気を失って倒れていた。注いで救うと蘇り、陳学録に迎えられてこちらに来たと言った。陳学録は死んで一年あまりであった。朝、その父母を尋ねると、半年病んで癆咳のようにしているが、やはり妖の祟りであることを疑うと言った。そこで連れて帰り、重剤[111]を服させると癒えた。
永新州[112]の林行可は、医士であった。大徳[113]丁酉、ある日の暮れ、老嫗が門に来、西門外に招き出して診察させようとした。林は夜だったので、嫗を留めて朝にゆき、朝に起きて薬を擂ろうとしたが、嫗は林にゆくように促した。五里ばかりで、東岳廟の前にゆくと、嫗は言った。「こちらでお待ちください。」林は月の中で嫗を振り返ると、塚に入って消えたので、怪しんだ。廟亭[114]の楼に登り、戸を閉ざし、窓の隙を窺っていると、嫗が一頭の虎を引いてきたが、四顧しても人がいなかったので、その背を撫でて言った。「惜しいなあ。」また罵って言った。「三年おまえのためにあの肉を求めていたのに、おまえは福分がこのように薄い。」夜が明けると、林は村人を呼んで送り返してもらったが、今まで外出しようとしていない。
上官士平は、至元[115]甲午の秋丁[116]の時、吉水の文廟にいって陪拝[117]した。その一晩前、県内の高宅[118]にゆき、同行二人、しもべ二人で、ともに小さな楼の中に宿ったが、夜に突然見えなくなった。同行は門を出ようとしたが、扉は元通り閉ざされており、あまねく探しても見つからなかったので、主人はたいへん驚き、お上に知らせようとしたところ、士平の同郷の儒戸[119]李蒼山が送り返してきた。士平が言うには、真夜中にぼんやりとしていると、三人の男がかれを引いてともに帰ろうとし、その人に従って門の隙間から出、渡し場[120]にいったが、はじめて廟を拝しにきたことを思いだし、さらに水を恐れて渡ろうとせず、留まって進まなかった。三人は引いて渡ろうとしたが、士平はむりに引いて帰り、はじめて祟りだと感じ、玄帝呪[121]を誦え、あまねく河原の上を引いて歩き、水に近づけばさらに極力引いて帰った。一人は水を渡って先に去ったが、まもなくまた帰ってき、かれの顔を撫でて言った。「おまえは玄帝呪を誦えた時、どうして二字を誤った。」士平はひたすら誦えてやめず、まもなく、鐘の音が聞こえ、三人ははじめて散じて去った。
咸淳年間、傅勤可は都昌県[122]山田[123]の張季猷の館にいたが、毎晩二人の下女が来て燭を執り、茶瓶、盞を持ち[124]、銀、鋼、漆の盤を捧げ、糖餅[125]を二つ盛り、奉仕は慇勤で、最初から今まで、およそ二ヶ月あまり、風雨でもやめなかった。主人が暇な時、毎晩の茶餅[126]はたいへんよく、どこで産したものかと尋ねたが、季猷は訝ってわけが分からず、勤可がそのわけを言うと、季猷は漏らさないように戒め、ひそかにその変事を見ることにした。その晩、勤可は茶を飲みおえると、盤ごと留めようとし、つよく求めるとはじめて与えた。朝に主人に示すと、盤の下に「于」の字があり、その由来を知らず、餅は山田の寺で売ったもので、餅を売る家に尋ねれば、前後なくなることがたいへん多かったと言い、娘もまた来なかった。
至元の帰順[127]後、胡雨巖は湖、湘、道、永[128]の地に遊学した。荒寺に投宿したところ、老僧が燈火を背にして言った。「客人はくるのがなんと晩いことか。」胡は言った。「宿は危険で食は乏しく[129]、路を歩くのはまことに苦しゅうございました。」僧は袖の中から二つの斎食を出して食べさせ、地に蓆を布いて臥させた。僧は偈を誦えた。「百補の袈裟旧き鉢盂、幾年われとともにこの山に住む。寒燈夜照らす青蓮座、伴ふを得て看て添ふ数葉の書。」[130]朝に衣が湿って冷たいのを覚え、蓆を撫でて、草の上に宿っていたこと、青天曠野で、すこしもものがなかったことを知ったが、寺はたしかに夜に宿ったところであった[131]。驚いて通行人に事情を語ると、言うには、こちらは祖師を葬ったところで、祖師は円寂して十五年、夜に五つの供物を供していたが、その二つが欠けるのは訝しいということであった。
潭州[132]に清浄覚地[133]があり、宋の咸淳年間、遊士[134]胡天俊が寓居していた。月が照るなか、梅の樹の下で琴を撫していると、美女が進もうとして退いているのがはるかに見えた。胡がことさらに三たび奏でると、女はゆっくりと近づいてきた。胡が迎えて揖すると、女は言った。「声は調和していますが哀しげで怨めしげです。望むことがあるのに、すぐに遂げることができないのでしょう。」胡はその手を執って言った。「世を挙げて音を理解するものがいないが、今晩会うことができたのは、もしや天が真の縁を与えたもうたか。」女は身なりを正して去り、言った。「後夜[135]月が明るいときに、あなたは約束に赴くべきでございます。」翌日、朋友に招かれて城に入り、遊んで飲んで帰るのを忘れること二晩、たいへん期限に遅れたことを悔い、すぐに帰ると、樹の下で一枚の白い羅帕を見つけたが、上には詩が題されており、詩に言った。「蕭蕭として風起こり月痕斜めに、露重く雲環玉珈を圧す。行雲を望断して凝立することひさしく、手づから珠涙を弾きて梅花を湔がしむ。」胡は悵然として寝た。翌日、帕を人に示すと、趙氷壷は驚いて言った。「わたしの死んだ妾で杭州の人喬氏は、名を臨仙といい、貴妃[136]のめいで、去年急死し、梅の樹の後ろに仮埋葬されましたが、まさにその筆跡でございます。」酒を注ぎ、さらに詩を作った。「王孫みづから怨む佳期に負くを、夜長沙に酔ひ[137]たまたま帰るを忘る。まさに想ふべし芳魂[138]の残月を踏み、滾滾として露の去る時の衣を湿すを。」
宋の宝祐年間、高郵軍[139]の阮子博は、夜に安慶府の九屈曲嶺[140]にゆき、迷って路が分からなくなり、火の光をめざしてゆくと茅屋一間があり、二人の士人が石炭を焼き、向かいあって坐して書を読んでおり、かれを坐させて火にあたらせ、悠然と談笑した。一人が言った。「昨日張宗永[141]の詩を見たところ、『文字を大書してすべからく老いを防ぐべく、剩へ田園を買ひて[142]を準備す』とあったが、この二句の趣旨はよい。」一人が言った。「ものに拘っている人だ[143]。わたしは『すでに老ゆれば文字を看るを須めず、閑を得るはなんぞ必ずしも田園にあらん。』と思う。」「欧陽永叔[144]の詩にいう。『文章用なきこと画虎[145]に等しく、名誉耳を過ぐること飛蝿のごとし。』、この趣意はどうか。」「これは[146]達観した言葉です。」子博は平生礼文[147]に遠ざかり、田を求める[148]ことに疏く、前の二句[149]を聞くと心に合っていたので、二人の先生の姓名を尋ねると、二人の士人は案を撫して大笑いし、寂としてまた見えなくなり、一つの岩石の下にいた。朝にはじめて達すると[150]、翌日宣州の画虎[151]の一軸を得、門扉の上に表装し、日に曝すと、蝿が集まった。袖で払うと、門扉は地に倒れ、隣家の子供を圧して殺し、役所にゆき、牢獄で死んだ。
宋代の淮倡[152]厳楚楚は、塩商の呂省干に嫁ぎ、泗上に舟を浮かべた。呂がたまたまよそにいった時、月夜、篷に倚って陳後主の『後庭花』の曲を歌ったが、終わらないうちに、岸の上で婦人が、拍手して誦えた。「煙は寒水を籠め夜は沙を籠め、夜秦淮に泊し酒家に近し。商女[153]知らず亡国の怨み、江を隔ててなほ歌ふ後庭花。」長嘆し、林間に入って見えなくなった。翌晩、夫が帰ってきたので、そのことを言うと、伏して江のほとりに入った。楚楚がまた前の曲を歌うと、婦人は拍手して前のように詩を誦え、伏していたものが林間まで追うと消えた。翌日、見ると新しい墓があり、尋ねると侯将士[154]が妻裴氏を葬ったところであることを知った。侯は一人の妾を置き、推して溺れさせ、林間で自殺し、葬られたのであった。
至元丙子、廬陵[155]印岡[156]の羅某は、数人で夜歩きし、習家湖[157]という場所にゆき、塩梅[158]を食らい、核を路傍の髑髏の口に置き、尋ねた。「しょっぱいか。しょっぱくないか。」進んでゆき、長坑に着くと、月光は燦然としていたが、後ろから黒い塊が旋転して追って来、呼んだ。「しょっぱいぞ。しょっぱいぞ。」人々はたいへん恐れ、はやく進むこと十余里、栄村に到って水を渡ると、はじめて声が聞こえなくなった。
宋代袁州瀘蕭市の東に、銀匠がおり、姓を郭といい、年は三十余で、独居していた。市の西に行商の嫗がおり、つねに郭のところにゆき、釵鐶[159]の類を売買していた。嫗の娘は年が十五六歳で、ある晩、郭のところに走っていって言った。「あなたの妾となることを願います。」郭が驚くと、女は言った。「あなたをひさしくお慕いし、たまたま一計を得て抜け出してきました。疑われますな。」事情を尋ねると、言った。「先ほど死んだ振りをしますと、母はわたしを棺に納めましたので、わたしは棺を開いて出、また掩い、母は空の棺を埋め、わたしを探さなかったのでございます。」郭は娘を密室に置き、出入りさせなかった[160]。一月あまりして、母はたまたま郭が留守にしているのを見、その部屋を窺うと、娘の棺に納めた紅い履があるのを見、戸を推してそれを取り、叫んで近所に告げた。「郭某がひそかに娘の墓を開きました。」郭は帰ると、隣人に事情を告げられ、たいへん驚いた。娘は言った。「母がにわかに来、すぐに避けましたが、履をしまうことを忘れました。わたしはひとまず避けましたから、ご心配なさいますな。」娘は去り、郭は潭州に逃げてゆき、はやく進むこと十数里、女も追って来、ともに潭州にいった。しばらくして資金が尽きると、女は言った。「わたしはよく宮調[161]を歌いますが、音を理解するものがいるはずでございます。」そして平里坊に会場を設けたところ、歌声は雲を遏め、見るものは垣のようで、日に数百の券が売れ[162]、豪族は争って招き、日々金釵等を抛ち、一年あまりして、貯蓄は万を積んだ。ある日、髽角[163]の道人がおり、身長九尺で、郭の背を撫でて言った。「千万人がこの幽鬼の傀儡を見ている。」郭は悟り、人気のないところに引いてゆき、拝礼して済度することを求めると、道人は東岳廟に祈らせた。郭は廟に参拝し、二更になり、枷を掛けられた女がいそいで東岳後宮に走って来、突然地に倒れたが、それは一体の屍骸であったので、幽鬼が女の屍を投げたことを知り、資金を傾けて廟を修理して女の罪を贖い、礼を厚くして火葬した。夜に夢みると女が感謝し、泣いて別れて去った。
吉水の七里市[164]に王羊というものがおり、屠殺を生業としていた。端平[165]年間、ある知人が朝にひとりで外出した。王の家まで二三里のところは、やや荒涼としており、言い伝えでは祟りがあるということであった。その人が心のなかで疑い恐れていると、突然、人がかれを呼んでともに歩き、言った。「わたしは疲れているから、あなたと交代でおぶってゆくのはどうか。」その人は言った。「それはよい。わたしは先にあなたを××までおぶってゆくから、あなたはそのあとわたしを○○までおぶってゆけ。」××にゆくと、天はかすかに白んできたが、顧みるとその手の上に毛があるようであり[166]、摩ると、ほんとうに毛であった。その人は下りることを求めたが承知しなかったので、そのままおぶった。王の家に近づくと、つつしんでその手を執り、地に置いたところ、一頭の羊であった。その人は帯を解いて繋ぎ、取って王の家にゆき、門を叩いて王に語った。「わたしは官銭[167]を借りていますが、一頭の羊がいるだけです。四千[168]で売りたいのですがいかがでしょうか。」王は羊を持って重さをはかって言った。「値は三千にすぎない。」その人は言った。「とにかくいそいで使おうとしておりますので、現金をお支払いください。」王が三千を持って授けると、その人は帯も留めて羊を繋ぎ、王に言った。「羊はすこし足踏みしますが、きびしく固定して失ってはなりません[169]。」そして銭を持って県庁にいった。帰る時、王のもとを訪ねると、帯だけが残っており、人は王羊と名づけた[170]。
宋の咸淳年間、蜀人の彭澹軒は江東の副官を終え、武夷山に旅した。かつてひとり林藪[171]をゆき、草庵に入ると、二人の士人が峨冠博帯[172]で向かいあって食事しており、彭を招いて横に坐させた。俎[173]の中にはブタの頭一つ、羊の肺一つ、鶏一羽があり、右に坐するものは言った。「酒を地に注ぐことを、『祭』というが、今の人は『奠』という。これはその場所に置くもので、注ぐのではない。『祭』と『饗』はもとより別のことで、天神ならば『饗』といい、その気が上に達するのに基づき[174]、『祭』は酒を地で漉すのだ[175]。」左に坐するものは言った。「食は人の左に置き、羔は人の右に置くのは、それが飲食をとるのに便利であるからだ。」右に坐するものは言った。「古人の一飲一食はすべて陰陽の義に基づいており、食は六穀[176]で、地の産物、陽徳なので、左に置く。羹は六牲[177]を主とし、天の産物で、陰徳なので、右に置くのだ[178]。」食らいおわって俎を片づけ、右に坐するものは姓名を尋ね、答えて姓は魏だと言い、その字を尋ねれば、山林の野叟で、称せられる字はないと言った。また左に坐するものの姓名を尋ねると、稽首して言わなかった。右に坐するものと古今及び先天図[179]、易伝[180]、性理の学[181]を語ったが、いずれも玄妙深奥で理解できなかった。彭は日が暮れようとしているのをみると、辞して出た。二人は門に送ってゆき、彭は別れて去った。さらに右に坐するものが言った。「漢の制度はすべて武帝によって壊され、唐の制度はすべて明皇によって壊された。」彭は翌日しもべを連れて酒器を持ってふたたび来、すぐに達せられなかった。山を下り、富家にゆき、事情を語ると、富家は言った。「これはおかしい。昨日、朱公祠にいって祭りをしたが、まさに捧げた肴だ。」彭ははじめて左に坐していたものは文公[182]で、右に坐していたものは魏鶴山[183]であったことを悟った。そもそも話したことはすべて鶴山雅言[184]に載せていることである。
建康[185]の楊二郎は、南海で商いし、往来すること十余年、貯蓄は千万であった。淳熙年間、波中[186]で盗賊に遭い、一行はすべて殺されたが、楊は先に水に落ちて免れられた。一木に遇い、抱えて浮き沈みし、二日を経、漂ってある島にゆき、捨てて岸に上がり、歩みに任せて洞窟に入ると、その中に男女が集まってかれを見た。多くは裸形で、声は弁ぜられた。一人の婦人は鬼母と称し、侍衛はたいへん多く、驚いて言った。「こちらには生きた人間のにおいがするようだ。」小間使いを出して探らせ、楊二郎を見つけると、走って鬼母に知らせ、面前に引かせ、尋ねた。「おまえはこちらに住むことを願うか。」楊は逃れられる術はない、ひとまず命を委ねてから逃げようとひそかに思い、答えた。「住むことを願います。」鬼母は小間使いに命じて一室に置かせ、夫婦とならせた。約二年の久しきにわたり、飲食起居は、世間と同じであった。かつて走卒[187]の手紙が来、言うには、真仙[188]が鬼母を迎えるので、瓊室[189]に赴くことを求めるということであった。それから旬日あるいは一月でかならずゆき、その人々はみな従い、二郎は洞中に独居した。後日侍してゆくこと[190]を願うと、鬼母は言った。「おまえは凡人だから、どうして去れよう。」纍纍[191]と懇願すると、にわかに許し、飄然として空を踏み、雲を踏むようで、ある館にゆくと、娯楽と酒肴は、たいへん豊富であった。来たものが位を占めて坐すると、鬼母は「楊さん[192]、卓幃[193]の下に伏していなさい。」と言い、息を潜めて動かないように戒めた。宴が終わると、紙銭を焚くのが見え、次に泣く声がしたが、じっくり聞くと、そもそもその妻子と姻戚であった。楊が卓の下から出て家人を呼ぶと、みな幽鬼だと思い、声を揃えて罵ったが、妻だけは泣いて言った。「あなたは海にゆき、杳として音信がございませんでした。すぐに葬儀を行い、喪に服し、招魂卜葬[194]し、今晩は除霊[195]でございますので、水陸道場を設けて祭っているのでございます。どうしてこちらにいられます。もしやほかに悪鬼が憑いたか。」楊は言った。「わたしはほんとうに人間です。」そしてそのわけを言うと、家人ははじめて本当だと信じた。鬼母は外にいて招いて去らず、ついで怒って罵り、ただ近づけず、まもなくすぐに去った。楊氏は医者を呼んで薬を用いて養生し、数年で、容貌ははじめて元通りになり、紹興年間になってもなお存命していた。
建康の黄襲甫は撫州の金溪[196]の曽鴻子と姻戚であった。黄は性質が物静かで、曽を訪ねるごとに、かならず假寓していた。その家は僧舎の傍らにあり、僧はつねに客間を掃除して待っていた。咸淳年間、母の死に遭い、曽のところにいってその来訪に謝し、また僧舎にいった。僧はかれを別室に置いた。黄は僧は自分に薄くしていると思い、やや楽しまなかった。その晩、月が明るかったので、階段に出て納涼すると、はるかに客間の燈燭が輝き、閑談の言葉が騒がしかったが、突然、一人の士人が出てきて揖して言った。「黄襲甫さんではございませんか。お茶にお招きしましょう。」黄は言った。「あなたがどなたか忘れました。」「張維幾といい、各地でしがない役人をし、官位を帯びてこちらに来ました[197]。」そして迎え入れ、ともに飲み、その妻と娘を見た。維幾は言った。「わたしには娘がおりますが、よい婿を得ていませんので、枕席にお仕えさせましょう。」黄は言った。「わたしは喪中で、どうしてそんなことを相談しようとしましょう。」維幾は言った。「礼法の士は、褲襠にいる虱のようでございます[198]。襲甫どのは裁けたお方でございますのに、どうしてそれに拘られます。」そして招いて部屋に入り、むりに合巹[199]させ、夫婦の礼を行わせた。黄は服喪中でありながら、今このようなことをするのは、名教の罪人[200]だと思ったので、惘然[201]とした。すると突然、銅鑼を鳴らす音が聞こえ、たいへん祟りに惑わされていることを悟り、起きあがったが、帳の中では女がかれを引いて、承知せず、大声を出してそのしもべを呼び、維幾も出て叫んだ。「襲甫どのはなぜ幽鬼として待遇なさいます。」引いて留めようとした。僧は起き、火を明るくして曽のところに送っていったが、黄はなお維幾というものがその妻女とともに追ってくるのをみた。黄は言った。「先ほど銅鑼を鳴らしたのは誰か。」人々は言った。「鶏が鳴いたのでございます。」黄はますます悟った[202]。夜が明け、曽はかれを送り返したが、維幾の妻女はかれを追い、黄がゆけばゆき、黄がとどまればとどまり、他人には見えず、黄だけがそれを見、家にゆくとひどく病んだ。秘監[203]の張淵微は、黄と親しく、見舞いに来たが、二里先にいる時、黄は言った。「張秘監が来る。」その後、ほんとうに来たので、尋ねると、張維幾が告げたのであった。病むこと数か月で癒えた。はじめ黄が飲んでいた時、かれのしもべはかれがひさしく来ないことを怪しみ、起きて客間を見ると、ある人が告げた[204]。「ご主人はこちらで酒をお召しです。」しもべは帰り、さきに寝た。後に僧に尋ねると、近ごろ客官[205]で張姓、名を維幾というものが、家族を連れて寺に寓居し、疫病となり、妻女はともに客間で死んだからだと言った。
最終更新日:2015年2月4日
[1]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%25A7%25E8%25A7%2582_(%25E5%258C%2597%25E5%25AE%258B)&sa=U&ei=ceRGUOahA6eDmQXW9IDoBw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNG1OY_imtKK3zU9xjCCurFQWxTBYw
[2]喪祭の名、小祥、大祥の区分がある。周年祭が小祥、二周年祭が大祥。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicA5ZdicA5.htm
[3]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicAB101336.htm離情。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA6ZdicBB341993.htm別離の思い。
[6]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B53537.htm&sa=U&ei=nGAzUN2pHur6mAXp0YG4AQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNE16ubvYwyt5mejlyk6qh-5UQPRgw学舎。
[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicA2Zdic92199027.htm&sa=U&ei=_mAzUOQwjfiYBY_ogJgJ&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNEoIWkOsU1NkMCnEl8auojkGjbG9Q僧却崎。僧尼の五衣の一つ。肩と腋を覆う衣。唐代には掩腋とも称した。
[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic81228636.htm&sa=U&ei=O8YxUOv8EIGimQW-yICABA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFNs0hTbKeR2t3Z5Ocv2mcIF9WB8A経験がある、野菜栽培の農民。
[9]未詳
[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB484440.htm&sa=U&ei=zwVHUPCdIIPZmAX5jYH4DQ&ved=0CB0QFjAB&usg=AFQjCNG8ITx4k3cZOmbSZx4bYNbzuEhKWQ水陸道場http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4298635.htm仏教法会の一種。僧尼が壇を設け、経を誦え、仏を拝して懺悔し、あまねく飲食を施し、水陸の一切の亡霊を済度し、六道四生を普済するので、かく称する。
[12]程遵彦。饒州の人。http://www.docseek.org/Apps/ContentDB/Article.aspx?Domain=shcishuqsw&Identifier=Data:000049:000008:000012。祠部は礼部。
[13]原文「自支徑黃泥路口歸」。「自支徑」「黃泥路口」が未詳。とりあえずこう訳す。
[14]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/325300.htm&sa=U&ei=9QVHUMy4NeefmQXp5oCQBA&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNHT1e30GX1yea-jqKqjQ9LXL-_nFA
[16]原文同じ。まったく未詳。
[17]原文「不復知之。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[18]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBBZdic8691290.htm&sa=U&ei=1g8-UInuFeWDmQX6w4HwDg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNGH_v7By-L4B5TTmV0UAouVS4ltjA媵妾。ひろく奴僕婢妾をもさす。
[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicAEZdicB4156151.htm&sa=U&ei=ymQzUIXVDoKImQXtpoG4CQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEaGvYUyW1fFSLx80BO2pphyd_CoQ漢典は「殴撃攘除」と説くが、どういうことなのかよく分からない。追儺、お祓いのようなものか
[20]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicA5ZdicB7221275.htm&sa=U&ei=BWUzULazHOfDmQWgwIHwBQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNGCsnz_gxJ-UgrhCxnswyw7d7UbCgひろく神鬼に祈祷して降福除災させることをさす。こちらは祈祷することであろう。
[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA6131036.htm&sa=U&ei=xWczUI2AGYOOmQW6roDIDw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNGbQsq2oF3Pe3gGejjKmBYbefTnfQ地方学校の学官。
[22]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicA7ZdicB0.htm原文「他皆稱是」。「稱是」が未詳。とりあえずこう訳す。
[23]原文同じ。未詳。人の魂を捕らえる幽鬼か。
[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA295873.htm&sa=U&ei=mx9HUIjLJ-mhmQWCxYDgCw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNF6NosVNafRJTc7lhIGqfD62st2fw国学。京城に設けられた最高学府。
[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C103414.htm&sa=U&ei=hgw_UNDOG67zmAXVv4DgDg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNE2M0T6HyzjNBtw81vwbr7IFkOA7Q同学。舎、学舎。
[26]原話未詳。
[27]未詳
[29]原文「料理失去告身事」。未詳。とりあえずこう訳す。
[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic958413.htm&sa=U&ei=Ig4_UKb5LOHrmAXW_YH4Ag&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFGRbgzl5v3nDPG6wNvL3i6K2qZOA城鎮、郷村。
[32]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/331296.htm&sa=U&ei=3WkzUMPDJeHUmAXirIHADg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH3LLA1VltPKlzRaZxdkSIKooY3AQ
[33]未詳
[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicA0308912.htm&sa=U&ei=o1ZFUJGxFqnvmAWX5oHQBQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHTw6cZs968SfGwZgESrZQzPuyEYg官名。律令を修改審定する。
[35]原文「李為敕令所刪定官局中」。「所」が未詳。誤字もしくは衍字、脱字があるか。とりあえずこう訳す。
[36]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic80ZdicAA175014.htm&sa=U&ei=IxI_UMGbMO2hmQWZnoGgAg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEQN8OaaCE4qkdNUVZFO-i_JfgrDw怪異鬼神。
[37]未詳
[38]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/719771.htm&sa=U&ei=PDRHUPfdI6edmQWh84CYDw&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNHhPjHkQZnhOk_2D46C29m8P4PHDQ
[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804512.htm&sa=U&ei=fjRHUNurEqLNmAWuvYCYAQ&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNG77U_2GK2UstdaLy3OOu5EJHun6g
[40]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicAE18999.htm&sa=U&ei=odsxUPG_B-PvmAWHw4CIBg&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNEmZnp_ZysHKhLaGsRYMKCoL1mjBQ官名。
[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C109468.htm&sa=U&ei=xGszUMT1J9HSmAXyroGoAg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEiUCiFlPWmHjVWfop_TNf6QtDuFg寺院のしもべ。
[42]原文「從行僕朱秀才者溺死」。「朱秀才」というしもべとは異常な感じがするが未詳。単なる綽名か。
[43]未詳
[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicAA214545.htm&sa=U&ei=0DdHUNe0GKvqmAXb_ICIBA&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNG3wNpbH53McBcV6wGUoWc6GEkm0w筮術の一つ。水に呪術を施し、それを飲むと病を治し邪を祓えるという。
[47]原文「即詣謁具狀告曰」。「具狀」が未詳。とりあえずこう訳す。
[49]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicA1ZdicBE183793.htm&sa=U&ei=Chs_UODcHu7omAWI9IHYDA&ved=0CB4QFjAC&usg=AFQjCNGwAIELOtxvqj71UBFOcr_ggNwnKw掛け布団と帳。ひろく寝具をさす。
[50]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicBAZdic8C314855.htm&sa=U&ei=Lhs_UMDxD6XYmAWxmIB4&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEaAsGnKaDiymlDiRY0MswM_63y6Qここでは十四日のことであろう。
[52]呉王山という山があるのか、「呉王が山上の人のいないところで…」ということなのか未詳。
[53]未詳だが、腰を舞わすことであろう。柳の葉が風に揺らぐさまをいっているのであろう。
[54]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE5Zdic86Zdic81101648.htm&sa=U&ei=-W4zULjSKcTEmAWVl4HACw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNGWeHkv52gsqIiH5BCk4G0TNv9bFA笑うさま。
[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic97ZdicA0170881.htm&sa=U&ei=EW8zUMTiHonmmAXUoIBw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHqDvc-O7s-Y1-EElzh433Z1l05Pw太古
[56]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic8DZdic83324458.htm&sa=U&ei=Tx9AUKLaFJCimQW7pIH4Bg&ved=0CCAQFjAA&usg=AFQjCNE7ZLMIc0LimP0_fCty952jzvUU_g仏教語。曠遠の時間と無数の生滅成壊をさす。
[57]原文同じ。まったく未詳。魔道のことか。
[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9512662.htm&sa=U&ei=fbY4UM34CsqSiQe_8oCoBw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHprnww9LgO0cPgkDd3mLuhe1VI3w仏教語。梵語の意訳。通常ひろく各種の事物の現象およびその本質を称する。
[59]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicA7Zdic89242654.htm&sa=U&ei=HHAzUK3tMu2ZmQWw1oAo&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFTS33Bd693xHHYNIhYhHgj9lzYdg仏教語。一切の迷惘を断離して真理を開悟できる本性をいう。
[60]主語は柳氏であろう。
[61]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic89ZdicAF201880.htm&sa=U&ei=unAzUJ7VLsuUmQWj14FI&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFgJEWBt-0Rp8EfnaHv0gmSDQIHzQ美しい日、吉時。
[62]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA5344152.htm&sa=U&ei=0D9HULDXNqTMmAWL24GgCg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFT4i_9eaF2IAeiFSBhu8I11_1cDw厳陵瀬http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA598934.htm浙江桐廬県の南にある、東漢の厳光が隠居して釣したところと伝えられる。
[63]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdicAA20971.htm&sa=U&ei=CnIzUMHDEdDwmAXZgoGoDg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHnj7pteJSFjskl3EgpGTJJ9UMj6w官名。礼楽制度を掌る。
[64]未詳だが、小さな楼閣であろう。
[65]原文同じ。未詳。白い裳か。
[66]未詳だが、門番であろう。
[67]http://www.google.com/url?q=http://gan.wikipedia.org/wiki/%25E6%2596%25B0%25E5%2596%25BB&sa=U&ei=RUFHUNeJA8bomAW4_4CIBg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNHBEWx3O58lreM9wNCg4DQDEj7W3g
[68]伯英のことと思われるが、こうした省略の仕方があるかは未詳。
[69]原文「塵賤死屍」。未詳。とりあえずこう訳す。
[70]原文「設死、天命合終」。未詳。とりあえずこう訳す。
[71]原文同じ。幽鬼のことか。
[72]主語は蕭注。
[73]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/35086.htm&sa=U&ei=sURHUOuJD4edmQXktoDYAw&ved=0CCEQFjAA&usg=AFQjCNHgWqge3UihMKi8PIedTU1q7rYNlw
[74]原文「歷洪源石村何衡諸里」。「洪源」「石村」「何衡」が地名と思われるが未詳。
[75]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE173778.htm&sa=U&ei=bHYzUN_ADcWcmQWm0IDgDA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHhrU1WkrYTDEu8eTX7wkVJepXPIA土地神。
[76]後ろの記述によれば、劉家では子供二人、下女が一人死んだらしい。
[77]主語は農民
[78]原文「巫懲前事」。「前事」が未詳だが、おそらく、前で述べられている、怪を虎が襲って撃退されたのは、巫術だったということなのであろう。とりあえずこう訳す。
[79]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3712568.htm&sa=U&ei=eEVHUJfzC6XZmAX-toCYAg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNHSlferUfgPGS2oGZXPSpcTsGckeQ
[80]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/124072.htm&sa=U&ei=mEVHUMGnMcz2mAXp-4DgCA&ved=0CCcQFjAB&usg=AFQjCNFcGkLzXV7VWPZvgVqy9AKkHQeBoA
[81]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10017.htm&sa=U&ei=qkVHUJOVNNDtmAXVwoH4BQ&ved=0CCAQFjAA&usg=AFQjCNGu_aqCdZVgN-PCP4yWKPADLlrE1g
[82]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicA1ZdicA86929.htm&sa=U&ei=EpIzUK_uB-rfmAXOqYC4Dg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHcOumehoZvEdCYZ9p_m-Fr63z_0g表弟兄(姓の違う従兄弟)の息子。
[83]分かりにくいが、この「田」は田氏であろう。後ろに出てくる田姑、田三姑も同一人物であろう。
[84]原文同じ。未詳だが、兄の後妻、廖氏(妹)のことであろう。
[85]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E9%259A%2586%25E8%2588%2588&sa=U&ei=40VHUK3fBI-dmQX8w4HgBg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEyjcH5tjm-QPnLSitD1AZHp6vNTA
[86]原文「今嬸」。田氏の兄の後妻廖氏をさす。
[87]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA3315272.htm&sa=U&ei=L0ZHUJrJEK3nmAXB0oHIBg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFpVNEm54UYnfrJ03Vp0AC3A4JKVg叔父。最小の叔父をもさす。
[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA8Zdic9A191076.htm&sa=U&ei=oegxULzKHYfgmAX0-oHABg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNHsCYsJL0viV2Coc0e8Ucoz04rgCQ幼児、子供
[89]原文「其為姑來、姑生前有欲言者。」。「姑」が未詳。田三姑が一人称で使っているとすると解釈すると一番つじつまが合うがこうした用例があるかどうかは未詳。
[90]原文「但受生有程」。「有程」が未詳。とりあえずこう訳す。
[91]未詳
[92]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicBCZdicA3337475.htm&sa=U&ei=2nY1UJvrK46imQX554CgCg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNGaGOQstjJVrjl7qdb7ed7wTnJMKg絹類の織物。
[93]原文「以接鬻縑帛為生」。「接鬻」が未詳。とりあえずこう訳す。
[94]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA526457.htm&sa=U&ei=T9o4UI9QxLWJB6irgOAO&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNE1fBFLC2HlCcMUTDq_NN9pihm11Q神仏の佑助。
[95]原文「取一紙錢祝曰、果為我兒、能掣此錢出、則信可驗、當求冥助於汝。少焉、陰風肅肅、數入探而出之。」。この部分、具体的にどういう行為が行われているのかが未詳。とりあえずこう訳す。
[96]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%25B4%25B9%25E8%2588%2588_(%25E5%258D%2597%25E5%25AE%258B)&sa=U&ei=eU5HUPiBJYXwmAWT5ICIDA&ved=0CC4QFjAD&usg=AFQjCNFjem1-i79TmMaGNyDrKAWxy4Ql3g
[97]未詳だが、寨にいる兵卒であろう。
[98]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/140082.htm&sa=U&ei=8k5HULaZOoHPmAWb64DgBw&ved=0CCgQFjAB&usg=AFQjCNH8ba0H2ehb8BVOQHt0G0gyn-xvbQ江西省の県名。
[100]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8ZdicBDZdicA7208210.htm&sa=U&ei=5ZkzUIHaJvDvmAX_z4HYDA&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH7vsCv_ZzAkVW1pnbfPkuFXIy99g物が磨擦して発する音。
[101]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/44216.htm&sa=U&ei=ZE9HUMnEFertmAXZ9YEY&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH9SxzqcZZhk98fAnILTESJ5ZETAA
[104]原文「黃或窘索」。「窘索」が未詳。とりあえずこう訳す。
[105]主語は黄。
[106]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0143189.htm&sa=U&ei=3aAzUMyUGOiOmQWA7IHQBQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNGXzJvgwVWZ13UsxSwQOkdsIFbb-Q珠の飾りのある帽子。
[107]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/119519.htm&sa=U&ei=YlRHULmaBNDRmAXVg4GgCw&ved=0CCgQFjAB&usg=AFQjCNFSPm375Qj6B-VET-5ChRWC9ERIfQ
[109]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/54902.htm&sa=U&ei=dlRHUNeXNYuamQWgoYDgDQ&ved=0CC8QFjAD&usg=AFQjCNHoeqzB2CvWND8mOv3mFV1PSxojhg
[110]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic83ZdicA144466.htm&sa=U&ei=uaEzUJ_INaTGmAXF_YDIAw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNECz0TD9Cj468ZiAWW8W3Vo8D8VFw府学。
[111]http://big5.wiki8.com/zhongji_5117/重鎮の薬物(磁石・朱砂など)を成分とし、鎮静潜降に働く方剤。
[112]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25B0%25B8%25E6%2596%25B0%25E5%25B7%259E&sa=U&ei=DFVHUJGjL8XjmAWOhoDQCA&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGdRTY4jT4qZSZUxm4sVsZKautr-A
[113]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%25A7%25E5%25BE%25B7_(%25E5%2585%2583)&sa=U&ei=JlVHUNmVM63MmgWXqYDoCA&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGEg3NYP3eBJMkdJZ0eVLXlOhf0Pw
[114]原文同じ。未詳。廟にあるあずまやか。
[115]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/719882.htm&sa=U&ei=vVVHUPaVF8L2mAXrnoDQAw&ved=0CCAQFjAA&usg=AFQjCNGenhaowKAvz-DlafGDLMmO_RJbIg
[116]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B163069.htm&sa=U&ei=x-o2UOfTD8SuiQf-v4HgDg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHlalwPSAX8zhwMBIRKc0grlyLKPA農暦八月の最初の丁日は孔子を祭祀する日で、秋丁と称する。
[117]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic99ZdicAA271178.htm&sa=U&ei=vHw1UNKeB8fNmgWfmoDgDw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEydhm6HNra85cTsqeI431WlZ2oig他人につきそって祭拝の礼を行うこと
[118]原文同じ。未詳。高という家の邸宅か。
[119]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE5Zdic84Zdic92106857.htm&sa=U&ei=xOg2UJToBKG1iQe1rIH4DA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEq9HmcTNCSakHatDmGGOqlc5Pevw読書人の戸籍。元代、住民の職業によって戸籍を民戸、軍戸、儒戸、医戸等名目に分けた。
[120]原文「至過渡處」。「過渡」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicBFZdic87340964.htm&sa=U&ei=3ek2UM7dJ-eUiQf9oYFw&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNEP833B6ulQFBz3fdyRg9CbiI9yWA漢典に適当な語釈なし。
[121]未詳。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic84307066.htm&sa=U&ei=4FZHUJejNqaemQW2oIHADQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFDmI1KZr5kQ5-HHhy9msM3k3FtzQ玄帝は道教で信奉せられる真武帝。
[122]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/650579.htm&sa=U&ei=RFdHUJSkF-_SmAWnoYGgBg&ved=0CDMQFjAD&usg=AFQjCNFWxuVXOkcvUVS7bZQr9tYVluUBHQ
[123]原文同じ。地名なのか普通名詞なのか未詳。後にも出てくるがどちらかといえば地名のように思われる。そう解す。
[125]未詳だが、砂糖で味付けした餅であろう。
[127]原文「至元歸附後」。南宋の滅亡のことを元の側からこういう。
[129]原文「店艱乏食」。「店艱」が未詳。とりあえずこう訳す。
[130]この詩、含意未詳。
[131]原文「旦覺衣濕而冷、捫席乃知宿草上、青天曠野、毫無所有、一寺儼然夜所宿處。」。情況が未詳。何もない「青天曠野」に臥していたのはたしかだろうが、「一寺儼然夜所宿處」とあるから、近くに寺があるのか。
[132]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802756.htm&sa=U&ei=ellHULj5MOHqmAWproDgBg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNF5q82ZMTJ2LKL1fPVa_--1gLg_UA現在の湖南と湖北省の一部に存在した州名。
[133]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicA7Zdic89242651.htm&sa=U&ei=Xos1UPCGMKnumAXKqoDQCA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHLBLHDC0FKIgKKSSrLggA-HQNzsA仏地。寺院。
[134]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicB8153781.htm&sa=U&ei=0FlHUJifGMGjmQW-iIDoCg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNEago8GzFybIPLhmQXCrBWrC2v-cwひろく四方を雲遊して生計を立てる文人をさす。
[135]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8E209138.htm&sa=U&ei=_KYzUN-pO4PPmgXYzIGYDw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEhb58Y7OR-w-9UbvmRdtmGI_hN_Qhttp://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8E305422.htm真夜中から夜明けまでの時間帯。
[137]含意があるかもしれないが未詳。
[138]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic8AZdicB3202608.htm&sa=U&ei=Zxc-UNnTJMHEmAW13ICICg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHQLEf9jOAaW_US6QztNmTVvChK3Q美人の魂魄。
[139]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/124582.htm&sa=U&ei=19BHUK-mFMfMmgW1goCIBw&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNFyXG-U8Tc2MKP85k41iNHeDwwN_w
[140]未詳
[141]未詳
[142]閑適
[143]原文「為人亦拘」。未詳。とりあえずこう訳す。
[144]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/749117.htm&sa=U&ei=99JHUP23NeHLmAXavoGAAw&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNGPYghkrSTmUQohR0sJmkXpBvF8ew
[145]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic94ZdicBB347175.htm&sa=U&ei=-zpAUJiEBemimQWu54HYBQ&ved=0CB0QFjAB&usg=AFQjCNF0wSHd-fTsmnf8U2_qK-6fxjM3oQひろく虎を描いた図像をさす。宋欧陽修『帰田録』卷二「包氏宣州人、世以画虎名家、而鼎最為妙。今子孫猶以画虎為業、而曾不得其髣髴也。」
[146]原文「卻是到底說話」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic88ZdicB028443.htm&sa=U&ei=NztAUM-nEfCimQWTvICYBg&ved=0CCYQFjAF&usg=AFQjCNEQwKgXU5zA7Nc_Yzjab5iw5N0MRQ「到底」に関して漢典に適当な語釈なし。訳文の意であろう。
[147]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicA4ZdicBC176587.htm&sa=U&ei=q441UKqUJ4TImAX0soGwCg&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNGeeQr1jCnbISif1NHWvH8w1FDjQQ礼楽儀制。礼経所載の文をさす。
[149]「すでに老ゆれば文字を看るを須めず、閑を得るはなんぞ必ずしも田園にあらん。」「文章用なきこと画虎に等しく、名誉耳を過ぐること飛蝿のごとし。」
[150]原文「旦方達徑」。「達徑」が未詳。とりあえずこう訳す。
[152]未詳だが、揚州の娼妓であろう。
[153]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic95Zdic8621161.htm&sa=U&ei=3QA3UIv9LI6viQf8lYAY&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFJU57Osy3dBR_smAKK8fc0NTeNAw歌女。
[154]未詳
[155]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/866703.htm&sa=U&ei=c-JHUOq-Ic33mAWS3oGoDg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFVCbIrcAeynGSEluZzqvCQHBomvw
[156]地名と思われるが未詳。
[157]未詳。
[158]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic90189524.htm&sa=U&ei=yqozUIyvLISfmQXGrICQCA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFo5QI8M_bbF7g4Wc3N3apCq4srhw漢典に適当な語釈なし。未詳だが、塩漬けの梅であろう。
[159]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic92Zdic97274582.htm&sa=U&ei=Q_YxUM37CeWJmQWBjYGQDg&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNEkyxSnyg0XHGY1jKLLCJqEPTE7tg釵簪と耳環。
[160]原文「不令出入。」。ここでは「出」に重点がある偏義詞であろう。
[161]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicAEZdicAB77611.htm&sa=U&ei=eZE1UOnmH6eemQWEl4GIAg&ved=0CCIQFjAC&usg=AFQjCNGdbwYK_EXfZVjyPP8iAGWeyDHaHQ楽曲曲調の総称。
[162]原文「日數百券」。未詳。とりあえずこう訳す。「券」は文字通り入場券なのであろうか。
[163]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE9ZdicABZdicBD70262.htm&sa=U&ei=MBc0UO_vB8idmQWquIHQBw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEepacY5vFmNJWpd1hXjq4-xin_RA髽髻http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE9ZdicABZdicBD35112.htm頭頂の両脇あるいは後頭部に結った髻。
[165]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%25AB%25AF%25E5%25B9%25B3&sa=U&ei=OPBHUNCVCJCamQWz04E4&ved=0CB0QFjAA&usg=AFQjCNFlKqEQtXIXDluBxpJIYylaJhDXkA
[166]原文「彷轉見其手上有毛」。「彷轉見」が未詳。とりあえずこう訳す。
[167]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98123678.htm&sa=U&ei=mhk3UKqBJOqRiQftwYHgDQ&ved=0CB8QFjAC&usg=AFQjCNE6CPTa6exh5f1TaqVZ35p6DiVz8w官府の銭幣。
[168]単位は銭であろう。
[169]原文「謹固勿失」。「謹固」が未詳。とりあえずこう訳す。
[170]「帯だけが残っており」と「人は王羊と名づけた」の論理的つながりが未詳。
[171]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9EZdic97219150.htm&sa=U&ei=y5I1ULr8MM7SmAXA24GwDg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNGtWgs48S_lNw9DojhiQLJtOBu97A山林と沢薮。
[172]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicB3ZdicA862818.htm&sa=U&ei=35I1UKD6CuL1mAXP74GQCg&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNH058IfuI4Kqqi-n2bGn3EHQ6I6lQ高い冠と幅広の衣帯。儒生あるいは士大夫の装束。
[173]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE4ZdicBFZdic8E.htm&sa=U&ei=-pI1ULzWHO_nmAWEl4HYAg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHiLRFMeJ7ZvBJ3wpbWBvpi1Um3Pw祭祀あるいは宴会の時に用いる四脚方形の青銅盤あるいは木漆盤、牛羊の肉を並べる。
[175]原文「祭乃縮酒於地耳」。「縮酒」は祭祀の時に菁茅で酒を濾して渣を除くことhttp://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicBCZdicA9207072.htm
[176]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD291765.htm&sa=U&ei=WpM1UKGXDOyhmQWh4oHgCw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFdh7ei5jXp3Pc2j4gbaAuDmB8i1g稻、黍、稷、梁、麦、苽
[177]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD98233.htm&sa=U&ei=Ghs0ULP4OeiHmQXg-4GICg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEDnlcDhRdxQOvybP9xAITFpdZbCQ六畜。馬、牛、羊、豕、犬、鶏。
[178] 「地の産物」を「陽徳」とし、「天の産物」を「陰徳」とする根拠は未詳。
[179]http://www.google.com/url?q=http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%2585%2588%25E5%25A4%25A9%25E5%259B%25B3&sa=U&ei=zUtJUKaILOT1mAXSy4H4DA&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNGxIAbSAdUgR-lCJqtHu4tG4ULVAA
[180]http://baike.baidu.com/view/33308.htm
http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic9380130.htm『周易』の一部。『経』に対していうので、『伝』という。『十翼』とも称する。『彖伝』上下篇、『象伝』上下篇、『繋辞』上下篇、『文言』、『序卦』、『説卦』、『雑卦』。『史記』を包括して『易大伝』と称する。
[181]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic80ZdicA7178443.htm&sa=U&ei=kUtJUK7HOuedmQXY1YDQCA&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNGNgXR6bIS8DwJNhDB07BiIaOFHnA宋儒程(程、程頤)朱(朱熹)派の理学。
[182]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1076986.htm&sa=U&ei=O6xGUIiWE-6gmQXQk4CgCg&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNH6IIMGk2hrYs4f7eZjsn0AMHjtJw
[183]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E9%25AD%258F%25E4%25BA%2586%25E7%25BF%2581&sa=U&ei=oqxGUMSJFdHSmAXr5oD4DA&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNHx-v4u6-q-ZrCHrRu9AAPfGZpnbQ
[185]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/147293.htm&sa=U&ei=NvJHULWPEY2HmQWDwYGYDQ&ved=0CCEQFjAA&usg=AFQjCNE8fphamoYifvT8sqGC2I4uGeSSFg
[186]原文同じ。未詳。海中と同じか。
[187]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicB5ZdicB0311490.htm&sa=U&ei=ufJHUIP9DKLGmQWTioDYBg&ved=0CB0QFjAA&usg=AFQjCNG7VEnKEo0cho_w2EqOyIAK3N3YAA下役
[188]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24615.htm&sa=U&ei=UrFGUOacEuqZmQWTvICYBg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHSViwKq1t-Ovti7wjMtBSAIfizcg仙人。
[189]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic90ZdicBC134783.htm&sa=U&ei=iRs3UO_FKoi5iQe0_YCwDw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNGqfYAkA3UKR4QzavkdlcsiRDyjVA仙人がいる部屋。
[190]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D95021.htm&sa=U&ei=sR00UOPVO8fFmQX274HICw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHhZNwJX_AMaPt_rLJtt0LeR_EwPw尊長に付き添って出てゆき、起居を世話すること。
[191]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE7ZdicBAZdic8D348910.htm&sa=U&ei=zx00UOiuB-TsmAWSo4HwDA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFy0HOnSuZIyTHuPBjP9MvlumntHAつらなるさま。
[192]原文「小楊」。「小+相手の苗字」は、現代語では年下のものに対する呼びかけだが、この時代からあるかどうかは未詳。とりあえずこう訳す。
[193]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic8C138071.htm&sa=U&ei=lXQ9UNnkA_HzmAX9vIDwAQ&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNEC-Z96tvqnUqgsGTUdgZn_XKApZA「桌帷」とも称する。「桌囲」とも称する。桌子のへりを囲む装飾物、多くは布あるいは綢緞で作る。
[194]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic8DZdic9C17642.htm&sa=U&ei=nR40UMveEsTkmAXD2IGYCw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHR5YmngDu7xp5oG7ms47FAc0lA8Q死者を埋葬する時、先に占卜して吉祥の葬日と葬地を選ぶこと。
[195]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic99ZdicA4269638.htm&sa=U&ei=tx40UPS-GPChmQXszYDYCA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHzMMmhNvQwtoXITivE0o9q82BYYg人が死んで葬り、喪が明ける日に、僧侶道士を招いて追善した後、霊座を撤去し、霊牌を焼き、服喪の期間が満ちたことを示すこと。
[196]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/237881.htm&sa=U&ei=5whIUIeiN62ImQW2_4H4Bg&ved=0CCoQFjAB&usg=AFQjCNE0vEYppuBdbztOXEkLw-c2jZ_8Bg
[197]原文「挈官到此」。「挈官」が未詳。とりあえずこう訳す。
[198]原文「如虱之處褲襠」。「褲襠」は褌襠のことであろう。阮籍『大人先生伝』「独不見羣蝨之処褌中……行不敢離縫際、動不敢出褌襠、自以為得縄墨也。」。さるまたの中に住むシラミを礼法からはずれない士人に喩える。
[199]夫婦固めの杯を交わすこと。葉大兵主編『中国風俗辞典』百二十九頁参照。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E5%90%88%E5%B7%B9
[200]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8D322592.htm&sa=U&ei=Fh03ULnBLc28iAeRnoHYCA&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNGvGKRoAKoO2xFR3oAHNBNVJ_3yFw礼教に背いた人の譴称。
[201]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic98179876.htm&sa=U&ei=6iA0UJiNHY2imQWo8YG4Ag&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNE9vSlqYiI9XEcMD0An2Ot7WMJhDg失意のさま、憂思のさま。
[202]原文「黃愈悟。」。何を悟ったのかが未詳。
[203]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7Zdic98154944.htm&sa=U&ei=UA1IULeWFOn9mAX94IH4BQ&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNHEq3u14cp8eYUBptbZcF-G9u4N8Q官名。秘書監。
[204]原文「有告之曰。」。未詳。とりあえずこう訳す。