巻七
○百花を接ぐこと
百花はすべて接ぐことができる。ある人は茄子の根に牡丹を接ぐことができるが、夏に花開いて色は紫である。桃の枝を梅の上に接げば、色は桃のようで冬に花開く。さらに李の上に梅を接げば、香りは梅のようで春に花開く。蓮の種を藍甕の中に投じて年を経させ、それを植えれば花は碧で、梔子水を用いてそれを漬ければ花は黄になる。元祐年間、畿県[1]の民家の池の中に碧蓮数朶を生じたが、そもそもこの術を用いていた。
○怪誕不羈
石曼卿[2]は集賢校理[3]となったが、娼館に微行し、不逞のものに苦しめられた。曼卿は酔ってかれと争い、主司[4]に録せられた。曼卿は怪誕不羈であったので、主者[5]に言った。「とにかくこちらで判決なさってください。明朝、館[6]に戻って職務に当たりたいので。」廂帥はかれの諧謔に気づかず、言った。「これはきっと三館[7]の下役だろう。」杖うってかれを追い払った。
○士人は他人の議論を用いることが多いこと
士人が相手に対応する文章は、他人の議論を用いていることが多く、心に領会しているものではない。時人はそのためこう言っている。「尋ねれば知らないが、用いれば誤りはない。」
○進士の程文[8]におかしなものが多いこと
科場で、進士の程文にはおかしなものが多い。治平年間、国学[9]の試策[10]で体貌と大臣について尋ねたところ、進士の対策に言った。「文相公[11]、富相公[12]の若きはみな大臣の体有る者なり、馮当世[13]、沈文通[14]の若きは皆大臣の貌有る者なり。」その趣意は、文・富は豊満で、馮・沈は若く美しいということであった。劉原甫[15]はそこで沈・馮を美しい大臣と目した。さらに欧陽永叔[16]が試験を主催し「老を貴ぶはその親に近きがためなり」[17]の賦を試験したところ、進士が散句[18]でこう言った。「この黄耇[19]の形を睹れば、わが厳君の容に類す。」その時、満堂は大いに笑った。
○菊は生まれつき冷たいのが宜しいこと
南方では百花が開くのはみな早く、それを北地に比べればしばしば一月前であるが、菊花だけは開くのがもっとも遅く、十月にはじめて開くのは、菊は生まれつき冷たいのが宜しいからである。歙州[20]の王子発秀才が言った。「廬寿[21]の間に菊八十八種あり、仏螺菊[22]だけが夏に開く。」
○滄景[23]に蚊が多いこと
信安[24]の滄景の間には蚊が多く、夏、牛馬にはみな泥を塗る。さもなければ蚊に殺されることが多いからである。郊外をゆく時は馬に乗ろうとしない。馬は蚊に刺されれば狂奔して制することができなくなるからである。通行人は一輪の小さな車に、馬鞍を被せて乗り、それを「木馬」といい、車を推すものはみな韋褲[25]を着ている。冬は木牀を作り、氷上でそれを引き、それを「淩牀」という。わたしは河朔[26]を按察したことがあり、牀を挽くものを見たので、次々にその用途を尋ねたところ、言った。「これは運使[27]の淩床で、これは提刑の淩床です。」聞くものはみな口を掩った。
○王告[28]が学問を好み文才があること
廬山簡寂観[29]の道士王告は学問を好んで文才があり、星子[30]の知事と親しかった。県の豪族が法事を行う時は、告が都工[31]となり、いささか利益を施すことがあった。ある旅の道士[32]が紫衣を着け、都工となるべきだとみずから言い、星子県に訴えて言った。「職位は顛倒しており、称号は不適切です。」星子の知事が封牒[33]を告に与えると、告は牒を棄てて言った。「客僧が寺主となるのは、俗諺にいう『散衆[34]が都工を奪う』ことであり、教門[35]に例がない。紫衣は黄衣とやや異なっても、いかんせんこの道観はほかの道観と同じではない。称呼せられないことは、そもそもその中に利があろう[36]。物があり、みだりに貴顕となっても、『大道名無し』[37]というではないか。みずから退隠し、刑罰に処せられることがないようにするべきだ」。告は後に本籍に帰り、及第して健吏[38]となり、祠部[39]員外郎、江南西路提点刑獄[40]に至って亡くなった。
○麻鬍を呼び小児を怖れさせること
今の人は「麻鬍」を呼んで小児を怖れさせる。その話は二つある。『朝野僉載』にいう[41]。「偽趙[42]の石虎[43]は麻将軍秋[44]を将帥とした。秋は、胡人であり、暴戻で殺生を好み、国人はかれを畏れた。子供が啼けば、母親はかならずかれを恐れさせて『麻鬍が来る』いった。すると啼き声はすぐに止んだ。今でも慣例となっている。」さらに『大業拾遺』[45]にいう。「煬帝は江都に御幸しようとし、将軍麻鬍に河や湖を浚渫させたが、かれはその人民を虐待し、つねに木鵝[46]で検査し、木鵝が流れるのが速くなければ河を浚渫したものが不忠だと言い、すべて死刑に処した。人民は戦慄し、しばしばかれの名を呼んで小児を恐れさせるのである。小児が夜に啼き止まない時は、『麻鬍が来る』と叫べば、すぐに止む。」『大業拾遺』は『僉載』の前にあり、『拾遺』を正しいとするべきである。ある人が言うには、「鬍」はもともと「祜」といい、「鬍」と呼ぶのは、かれに髭髯が多いためであるとのことである。
○慢行和尚
荊南[47]に僧がおり、ゆっくり歩くことを好み、つねに二人の侍者に介助され、瞑目しておもむろに歩き、しばしば休んではじめて一回足を動かすのであった。府の官吏と村の貧民・富豪たちはみな景仰し、「慢行和尚」と目するばかりであった。ある晩、上元の放燈[48]の時、塀を越えて出征兵士の婦女と姦淫したものが捕らえられて来たが[49]、それは「慢行和尚」であった。そこで背を杖うって還俗させた。その後、街で旅館を開いたが、かれの歩行するさまは風のようであった。人がそのわけを尋ねると、答えた。「わたしに何の能力があろう。虚偽を設けて世俗を眩まし、人が勝手にわたしを重んじただけだ。」
○木饅頭[50]
「木饅頭」は、京師にもそれがあり、それを「無花果」という。形は小さく梨のようであり、中は空しく、熟すると色はやや紅く、味はたいへん甘酸っぱく、それを食べれば大いに瘴[51]を発する。嶺南にきわめて多く、州郡が客を持て成す時、たくさん取り、菓床[52]を作って高く盛るのでこういう。公筵[53]では木饅頭を盛ることが多い。ある人は、嶺外の諸州は木を刻して饅頭の形にし、底に「大中祥符年、一様五十隻造る。」と字を刻すると言うが、談ずるものの過ちである。
○軍士に教えて訝鼓[54]を行わせること
王子醇が熙河[55]を平定した当初、辺境は安寧であったので、訓練の余暇に、軍に教えて訝鼓戯をさせ、数年間で世に盛行した。その挙動舞踊の節奏、俳優の台詞は、すべて子醇が作ったものであった。ある人が言うには、子醇は西域の人と対陣したことがあったが、交戦する前、子醇が軍士百余人に命じ、訝鼓隊を装わせ、軍前に出させた。胡虜は見るとみな驚いた。そこで進軍奮撃し、大いにかれらを破った。
○偈諦呪を誦えて漁師が魚を捕らえられなくさせること
漁師は、猢猻の毛を網の四隅に置けばたくさん魚が捕まるので、魚がそれを見ることは人が錦繡を見るかのようであると言う。江湖溪沼の間で釣糸を垂れ、網を張るものがいるのを見た人は、堅い心でひそかにさかさまに偈諦呪を七遍誦えさえすれば、終日捕らえるものがなくさせることができる。湘潭の地に李道人がおり、しばしばこの呪文を唱え、物命を救ったが、後に漁師たちに仇とせられたので、越境して逃れた。
○白雁が来れば霜が降ること
北方に白雁がおり、雁のようで小さく、色は白く、秋が深くなれば来る。白雁が来れば霜が降り、河北の人はそれを「霜信」という。杜甫の詩にいう「故国霜前白雁来る。」[56]がまさにこれである。
○介甫[57]は生まれつき殺生しないこと
介甫は宰相となり、当時の人を任用する時、きわめて破格の抜擢をした。ふたたび宰相を辞めると、かれを裏切るものがかなりいた。公は生まれつき生き物を殺さず、金陵に来て鮮魚を得るたびに池の中に放すことが多かった。門生がおり、詩を作って言った。「すぐにみずから池の辺にいって見るべきです、今日は誰が鄭校人[58]でないでしょう。」公は喜んでそれを笑った。
○茶は古く出自が明らかでないこと
茶は古くは出自が明らかでないが、『本草』[59]だけは益州[60]の川谷の間に出たといっている。康蒙山[61]顧渚[62]蘄門[63]のものを上品とすることが多い。当時、茶を飲む時はまだ蘇椒[64]のようなものを雑ぜていたので、徳宗[65]が李泌[66]に『茶』の詩を賦させたところ、こんな句があった。「旋沫[67]は翻つて成る碧玉の池と、蘇を添へて散じ出す琉璃の眼を。」碧色を貴いとするが、それを「煎茶」というばかりで、点茶[68]の妙味を知らない。おおむねすべて草茶[69]であり、富沙[70]に至っては略して論じない。陸羽の『茶経』は、福・建・泉・韶など十州の産物は詳らかにしない、時々それを得れば、その味はきわめて佳いと[71]、まとめて言っているだけである。今、建安茶[72]は天下第一となっている。
○荔枝
『荔枝譜』[73]は称している。漢初、南粵王尉佗[74]がそれを方物[75]として調えた[76]。漢の和帝の時、東南交趾七郡が生荔枝を貢したことがあった[77]。唐の天宝年間、妃子[78]がきわめて愛好したので、涪州[79]は毎年駅に命じてそれを送らせた[80]。しかし、閩中に言及した記事はなかった。調べると、今の広南[81]と梓夔[82]の産物は、かろうじて閩中の下品と並んでいる。本物の荔枝は唐以来その名が知れていなかったのである。今、莆陽[83]の荔枝は天下第一となっている。
○牡丹
『牡丹記』[84]は言う。牡丹ははじめ文に載らず、薬として『本草』に見える[85]だけで[86]、花中の高品でない。謝霊運だけは永嘉の竹間水際に牡丹が多いと言い[87]、沈、宋、元、白[88]の流はいずれも花を詠じるのに長け[89]、当時花の優れたものはかならず篇什[90]に表しているが、牡丹に至っては棄てて伝えていない。昔人は延、清、越等の州がその産地であるというだけで、洛中が盛んであることを言わないが、今では洛陽の牡丹は天下第一となっている[91]。
○関中に蟹がいないこと
関中には蟹がいない。元豊年間、わたしは陝西にいたが、聞けば秦州の人家が干し蟹を手に入れたところ、土人はその形を怖れ、怪物と思ったそうである。人家に瘧を病むものがいるたびに、借りていって門戸に懸けると、しばしば治った。人が知らないばかりでなく、鬼神も知らないのであった。
○邸宅を築き広壮であること
丞相陳秀公が潤州に邸宅を築き、きわめて広壮であり、池館は数百歩に連なっていた。邸宅が完成すると公はすでに大いに病んでおり、肩輿で一回西楼に登っただけであった。人はその邸宅を「三不得」といった。修理し得ず、売却し得ず、居住し得ずであった。
○馮太傅が一首の絶句を書いたことがあること
馮太傅端は一首の絶句を書いたことがあった。「鳴鶻直ちに上る一千尺、天静かにして風なく声さらに乾く。碧眼の胡児三百騎、尽く金勒[92]を提げて雲に向かひて見る。」坐客を顧みて言った。「これは屏障に描くことができる。柳如京[93]の塞上の作である。」
○兀日[94]を忌むこと
仕官は兀日を忌み、着任しないことが多い。人も「兀」の話を知らないことが多い。ある人は「亢」[95]の字であるべきだという。兀日を数える時、何人かの人の話は同じくなく、きわめて根拠がない。わたしの同僚林復之が言うには、着任する時は、切に初四、初七、十六、十九日を忌み、「四不祥日」という。この日を用いると平穏に辞官するものは少ないとのことであった。そして指を折り八人を数えたが、わたしは思い出すことができない。これは旧書が載せないことである。
○頭食
わたしがある日賓客を館に会したところ、料理人が粉を出した[96]。客がおり、即席で尋ねた。「この食べものは宴会が終わろうとしてはじめて食べるのに、『頭食』というのは、どうしてでしょう。」ある人が答えた。「本朝の太祖皇帝の時、内宴[97]のたびにしばしば先にこの食べものを出させたので、そう称するのです。そもそも後人がその順序を乱しているだけです。」さらに尋ねた。「今、州郡で公宴があり、曲を奏でようとする時、俳優が『細末将来』[98]と叫ぶのは、どんな趣旨でしょう。」答えて言った。「御宴で楽を奏でる時は、まず弦楽器からそれを始め、その後、多くの楽器がそれに和するので、『絲抹将来[99]』と叫ぶのです。」今到る所で曲を始める時にまず管楽器を用いるのは、その名を誤っているばかりでなく、その実をも失っています。」
○黄病
夜に飲食を器の中に収め、それを覆うことがしっかりしていなければ、鼠はその匂いを嗅ぎ、食べものを盗もうとして得られなければ、器を巡って走り、涎を器の中に滴らせる。それを食べたものは黄病に罹り、全身が蠟のようになり、針や薬も療やすことができない。
○南蛮道人
熙寧初年、南蛮に一人の道人がおり船に便乗して広州に来た。裸体で、幅巾で前後を蔽っていた。髪は長さ七八尺で、分けて百余の結びにし、なお地に曳いていた。食べず、檳榔、木香だけを食べ、一年余りしてまた賈客に従って帰国した。
○史書が諸葛亮は度外[100]の人を用いたと称していること
范文正がしばしば言うには、史書は諸葛亮がよく度外の人を用いたと称しているそうである[101]。人を用いるものはみな天下の才人を用い尽くそうとし、しばしば己に近いものの善悪に自分が気づかぬことを患える。度外の人を用いられれば、大事を完璧にすることができる。
○校書が塵を掃うかのようであること
宋宣献は博学で、奇書を収めることを好み、すべて手ずから校讎した。しばしば言うには、校書は塵を掃うようなものであり、一面を掃えば一面に生じるので、一冊の書があれば三四校でもなお脱謬があるとのことであった。
○杜祁公[102]に会い教えを乞いみずから励ますこと
孫元規[103]は降格された後、再起用されると、杜祁公に会いにゆき、教えを乞い、みずから励まそうとした。祁公は言った。「官吏たるものは誠意を尽くして仕事を行うべきであり、事件を起こしてはならない。」孫は頓首して教えを奉じた。聞いたものは、祁公の一言は政治の要領を得ており、事を省み、心を清くする端緒でもあると言った。
○楊郎中が囚人を処刑すること
楊郎中異[104]は、蜀の人であった。衡州[105]を治めた時、囚人を処刑するたびに、官は酒飯を給していたのに、異だけは与えなかった。ある人がそのわけを尋ねると、答えた。「酒飯まで与えれば、来るものが多くなることを招く。」さらに、死刑囚を刑場で杖うつたびに、すぐに杖うちの数を記して報せに来させたが、丸一日たっても終わっていないことがしばしばであった。かれに尋ねると、答えた。「かれらに痛みを知らしめれば今後犯さない。」
最終更新日:2018年1月4日
[5]http://www.zdic.net/c/b/a/16417.htm「主司」に同じであろう。
[7]前注参照。
[8]https://baike.baidu.com/item/%E7%A8%8B%E6%96%87/53040科場で受験する者が進呈する文章。
[9]http://www.zdic.net/c/d/158/346370.htm国家が全国のために設立した学校。
[17]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E8%B2%B4%E8%80%81%E7%82%BA%E5%85%B6%E8%BF%91%E6%96%BC%E8%A6%AA出典は『礼記』。
[18]https://baike.baidu.com/item/%E6%95%A3%E5%8F%A5長短一様でない句を用いた文章。
[27]https://baike.baidu.com/item/%E8%BF%90%E4%BD%BF水陸運使﹑転運使﹑塩運使等の簡称。
[28]未詳。
[31]http://cd.hwxnet.com/view/lmpadmapnapnjmkl.html道教の職称。後漢の張道陵が五斗米道を創った。道陵が死ぬと、張魯がまたそれを行った。二十四治を設け、各治に治頭﹑祭酒を設け、管理﹑治事をさせ、都工によってそれを総領した。
[32] 仏教の僧侶も「道士」と称する。ここではその意味。http://www.zdic.net/c/3/143/314738.htm
[33]原文同じ。未詳だが、都工に任命する書状であろう。
[36]原文「蓋利乎其中有物」。未詳。都工と称せられなくてもそれは良いことなのだと言いたいか。
[37] 出典未詳。
[49]原文「有捕到踰垣奸出軍婦女者」。未詳。
[52]未詳。果物置きか。
[53]http://www.zdic.net/c/c/f/23901.htm公卿高官あるいは官府の宴会。
[54]https://baike.baidu.com/item/%E8%AE%B6%E9%BC%93/10296464迓鼓あるいは村里迓鼓とも称する。宋代民間で神を迎える時に演ぜられた雑戯の一つ。
[59]未詳。『太平御覽』引『神農食經』茗に「冬生益州川谷山陵道傍」。http://ctext.org/taiping-yulan/zh?searchu=%E7%9B%8A%E5%B7%9E%E5%B7%9D%E8%B0%B7
[61]https://baike.baidu.com/item/%E8%92%99%E9%A1%B6%E5%B1%B1/854669?fromtitle=%E8%92%99%E5%B1%B1&fromid=924241
[63]未詳。
[68]原文「不知點試之妙」。未詳。http://cd.hwxnet.com/view/aolnlgbdojfecckh.html
[70]原文同じ。茶の一種と思われるが、まったく未詳。
[71]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=249265&searchu=%E9%9F%B6「十州」は『茶経』では「十一州」。なお『茶経』で列挙されている州名は十二州。
[89]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=520187&searchu=%E6%B2%88%E3%80%81%E5%AE%8B%E3%80%81%E5%85%83%E3%80%81%E7%99%BD
[98]「細心にせよ」という意味か。https://baike.baidu.com/item/%E7%BB%86%E6%9C%AB
[100]https://baike.baidu.com/item/%E5%BA%A6%E5%A4%96法度の外。常法によらずあるいは常礼に遵わないこと。
[101]典拠未詳。