巻六
○間男が彼女の夫を殺すこと
張杲卿[1]丞相が潤州を治めていた時、ある婦人の夫が外出して数日帰らなかった。突然、人が菜園の井戸の中に死人があると報せたので、婦人は驚いてそれを見にいったが、号哭して言った。「主人でございます。」そしてそのことをお上に報せた。公は属官に命じ、隣人たちを集め、井戸に就き、彼女の夫か否かを調べさせたが、人々はみな井戸が深く、見わけることができなかったので、屍を出してそれを調べることを求めた。公は言った。「人々はみな見わけることができなかったのに、妻だけどうしてかれが夫であるのが分かった。」所司に引き渡して訊問させたところ、案の定、間男が彼女の夫を殺し、妻がその謀りごとに関わったのであった。
○上元の夜に宴すること
青[2]は枢密副使となり広西を宣撫した。その時、儂智高[3]が昆侖関[4]を守っていた。青が賓州[5]に来た時は上元節に当たっていたので、大いに燈燭を掛けさせ、一晩目は将佐と宴し、二晩目は従軍官と宴し、三晩目は軍校を饗応した。一晩目は夜通し楽しく飲んだが、二晩目の二鼓、青は病と称し、しばらく立って奥へいった。しばらくすると人に命じて孫元規[6]に知らせ、ひとまず宴を主催させ、酒を注がせた。ややあって薬を服して出て来、何度も人に命じて座客を慰労させた。朝になっても人々は退こうとしていなかった。すると突然馬を馳せるものが現れて言ったが、その夜の五鼓に青はすでに昆侖を奪っていたとのことであった。
○侍姫十数人を出すこと
東坡居士がある豪傑の家で飲んだことがあったが、侍姫十余人が出て来、みな容姿伎芸が優れていた。その中に舞踊が上手なものがおり、媚児といい、容貌は麗しいが体躯はたいへん大きかった。豪傑は特に寵愛し、詩を公に求めるように命じた。公は戯れに四句を作って言った。「舞袖蹁躚として、影揺るれば千尺の龍蛇動く。歌喉宛転とすれば、敢へて半天の風雨を撼かして寒からしむ。」妓は赧然として喜ばずに去った。
○譏謔を好むこと
国子博士郭忠恕[7]は、才学があり、譏謔を好み、しばしば誹謗によって罪を得ていた。司業[8]聶崇義[9]を嘲ったことがあり、こう言った。「貴きに近きは全て聵たり、攀龍は只聾と作る。然く三個の耳ありと雖[10]、其聰と成らざるを奈んせん。」崇義はすぐに答えた。「笑ふ莫れ三耳有るを、全て勝る二心を畜ふるに[11]。」忠恕は大いに恥じた。
○啓事[12]を作り友人に贈ること
孔大夫(嗣宗)は浙漕[13]となると、戯れに啓事を作り、それを洛中の友人に贈ったが、その概略に言った。「満肚裏客の茶湯[14]に伴ひ、一眼底人の書啓を欠く。火炉頭恰も孤鬼の如く、門道[15]裏正に院翁[16]に似る。」[17]およそ数百言で、深く俳体[18]を得ていた。
○陳摶が詔を受け闕下に来ること
真宗の時、陳摶が詔を受けて闕下に来たが、時折、士大夫がかれの宿にゆき、善言を聞いてみずからを正すことを願った。陳は言った。「良い所にはながく留まるな、志を得た時はさらに進むな。」聞くものは至言だと思った。
○四句の謎
荊公は戯れに四句の謎を作り、吉甫に示して言った。「描く時は丸、書く時は四角。冬は短く、夏は長い。」吉甫も四句の解を作って言った。「東海に一魚がおり、頭がなく尾もない。さらに脊梁骨を除けば、まさにこの謎である。」
○顔がたいへん醜いこと
呉伯虎[19]朝奉[20]は、顔がたいへん醜く、鼻に孔があったが鼻筋がなく、街に出るたびに、子供たちは争って追い、かれを笑った。元豊年間に及第すると、聖上はかれに会われたが、そのためにかれを笑った。その時、伯虎に詩を贈るものがいて言った。「衆人皆鼻有り、公の鼻最も論ずるに堪ふ。涕出れば応に興び難かるべし、香来れば却つて聞き易し。然く寿相[21]に非ずと雖、是山根[22]有るを知る。説かる及第の日、欣然として至尊を動かすと。」ある時、人相見が伯虎に言った。「あなたは醜いことによって天下に勝っていますから、やはり貴人の相です。」
○異獣
至和年間、交趾で麟を献じたが、牛のように大きく、全身にはすべて大きい鱗があり、頭に一本の角があった。それを記伝で調べたが、麟と似ていなかった。当時それを「山犀」[23]と言うものがいたが、犀は鱗があると言われておらず、それが確実なのか知るものはなかった。詔に答えてそれを「麟」と言おうとすれば、夷獠[24]に欺かれていることが心配であったし、それを「麟」と言うまいとすれば、それを証明するすべがなかったので、それを「異獣」とだけいうことがもっとも慎重であり、実体に即していた。わたしがそれを見たところ、「天禄」であろう。『漢書』によれば、霊帝の中平三年に天禄蝦蟆を平門の外で鋳造したとあり[25]、注して「天禄とは、獣名である。」といっている。今ケ州[26]南陽県の北、宗資[27]碑の傍らの二頭の獣はその前足に刻して、一つは「天禄」といい、一つは「辟邪」という。元豊年間、わたしはケ州の地を訪ねた時、その石獣がまだあると聞き、人にそこに刻せられている「天禄」、「辟邪」の字の拓本を採らせ、それらを見たが、篆書か隸書のようであった。その獣には角と鬛があり、大きな鱗は掌のようであった。南豊[28]の曽阜が南陽の知事となり、宗資碑の背面に題して言った[29]。「二獣は前足に刻せられた文だけがあり、作りは精巧で、高さは七八尺、尾と鬛はすべて鱗甲であるが、何を象ってこれを名づけたか知るものはいない。」その形をよく見れば、たいへん交趾が献じた異獣に似ており、それがかならず「天禄」であることが分かる。
○鑑人の前途を照らし吉凶を見ること
嘉祐年間、伯兄は衛尉丞[30]となったが、呉僧が一つの宝鑑[31]を持って来て言った。「斎戒してそれに映せば前途の吉凶が見えよう。」伯兄はその言葉の通りにし、水でその鑑を濡らすと、鑑はあまり明るくなく、人が緋衣を着て坐しているのがぼんやりと見えたかのようであった。その時伯兄は京寺丞であり、衣は緑であり、すぐに緋衣になる術はなかったが、数ヶ月足らずで験があった。
○鱷魚図
『嶺表異物志』は鱷魚のことをたいへんくわしく記している。わたしは若いとき閩中にいった。その時、王挙直[32]が潮州を治めており、一匹の鱷を釣ったが、それは船ほどの大きさであったので、描いて図にし、みずからその下に序した。[33]「おおむねその体は亀のようであり、喙だけ長くその身に等しく、牙は鋸歯のようで、黄・蒼二色があり、時折白いものがある。尾に三つの鉤があり、きわめて鋭利で、鹿・豚に遇えばすぐに尾でそれを敲いて食べる。卵をたいへん多く産み、ある時は魚となり、ある時は亀黿となるが、鱷となるものは百に一二もない。土人は釣針を設け、犬豚の屍骸を、筏で水中に流す。鱷魚は追尾してそれを食べれば、人に殺される。」
○しばしば上庠[34]で採用されること
進士曹奎[35]は、しばしば上庠で採用され、南宮[36]で上位合格し、平素自負し、大袖の袍衣を作ったが、袖の広さは数尺であった。その時、進士楊衛がそれを訝り、言った。「袖が何と広いことでしょう。」奎は言った。「天下の蒼生を盛んにしようとしているのだ[37]。」衛は答えた。「それは一人を入れることができるだけです。」[38]
○豊城[39]で老人が子を生むこと
東坡居士が豊城にいた時、老人が子を生み、酒席を設け、東坡を招き、さらに一詩を求めた。東坡が翁の年はどのくらいかと尋ねると、「七十です。」と言い、翁の妻はどのくらいかと尋ねると、「三十でございます。」と言った。東坡は即席で戯れに八句を作り、その警聯[40]に言った。「聖善[41]まさに当たる而立の歳、乃翁[42]すでに及ぶ古稀の年。」
○幼芳が美しく好もしいこと
石曼卿が永静軍[43]通判[44]に任ぜれた時、官妓楊幼芳というものをたいへん厚く寵愛していた。幼芳はその権勢を恃み、放縦で憚りがなく、太守も曼卿の才を愛し、たいへんかれを優遇していた。ある日、幕賓を大勢集め、妓女たちはみな集まったが、幼芳だけは来なかったので、しばしば人を遣り、彼女を促したところ、晩になってはじめて来、揚揚として気儘にしていた。太守はそのため怒りを発し、五伯[45]を呼び、彼女を笞うたせようとした。曼卿はあわてて階を下り、腰を曲げ、求めて言った。「幼芳は美しく、好もしゅうございますので、わたしが代わって受けることを願います。」太守はみずから曼卿を助け起こし、笑って彼女を許した。
○人を敬う時はこのようにするべきであること
朝奉郎[46]王僧彦の父は師古といい、みずから硯を「墨池」と呼び、鼓を「皮棚」と言ったことがあり[47]、人が誤って犯せばかならず他の事でかれを中傷していた。以前、嶺南のある郡を治めたところ、李彦古というものがおり、進納[48]によって官位を得、郡を訪ね、面会を求め、名刺に題して言った。「永州司戸参軍李墨池皮棚[49]が、謹んでお目通りいたしたく思います。[50]」僧彦は一見してたいへん喜び、その子弟に示して言った。「人を敬う時はこのようにするべきだ。」
○海蛮師
嘉祐年間、海州の漁師がある生き物を捕らえた。魚の体だが頭は虎のようであり、虎の文様になってもいた。二つの短い足が肩にあり、指の爪はすべて虎であった。体長は八九尺で、人を見ればかならず涙を落とし、郡に舁いで来られた日に死んだ。父老が言った。「昔それを見たことがあり、それを『海蛮師』といった。」しかし典籍や小説に記載がない。
○泥の仏がひとりでに動くこと
邕州[51]は賊と交戦した後、城塁がはじめて完成したが[52]、定水精舎[53]の泥の仏がすぐにひとりでに動き、昼夜止まらず、そのようにして一か月を越えた。その時、兵乱を経たばかりで、人情はたいへん懼れていたので、有司は隠そうとせず、くわしくそのことを上奏した。詔令があり、道場を置き、祈祷したが、動くことは止まなかった。その時、劉初が邕州を治めた時、それが人々を惑わしていることを憎み、像を舁いで江中に投じたが、今でも特段の異変はない。
○みずからその書信を讃えること
裴度[54]は形貌が短小でありながら[55]位は将相に到ったが、その肖像に自讃して言ったことがあった。「おまえは体が大きくなく、おまえは風采が揚がらず、どうして将軍となろう。どうして宰相となろう。一片の霊台[56]を、丹青は描くことがない。」そもそも心が善いことによって富貴を致したことを言っていた。張学士綬は顔がたいへん美しく、その容貌を描き、兄の環に寄せたことがあったが、環は裴の讃を改めてかれに寄せ、言った。「おまえは体がたいへん大きく、おまえは風采がたいへん良いが、将軍とならず、宰相とならない。一片の霊台を、丹青は描くことがない。」
○崖州の地望[57]がもっとも重いこと
丁晋公[58]が崖州から帰り、客と会って飲んだ。ある客が天下の地里に論及し、四座に言った。「海内の州郡はどこがもっとも盛んです。」晋公は言った。「崖州だけは地望がもっとも重いです。」客がそのわけを尋ねると、答えた。「朝廷の宰相でもあの州の司戸参軍にしかなれなかったのですから、他州がどうして及べましょう。」
○斎宮に題すること
京師で二社[59]を祭る時は近臣を遣わすことが多かった。王禹玉[60]は両禁[61]に二十年おり、熙寧三年に翰林承旨[62]となり、さらにこの任務を受けた。そこで斎宮に詩を題して言った。「隣鶏未だ動かずして暁驂[63]催し、又霊壇[64]に向かひて福杯を飲む。治聾[65]を目笑して足らざるを知り、明年強健にして更に重ねて来らん。」執政[66]は聞いてかれを憐れんだ。
○家が貧しく苦学すること
終慎思[67]は大名[68]の人で、家が貧しくて苦学し、衣冠は破れ、風貌は醜く、はじめて受験しに来た時、魏の挙人たちはかれを見て蔑如していた。受験して解首[69]となると、その謝答啓[70]にこうあった。「三年ここにいる間、人はみなわたくしを非難していた。一軍はみな驚いた、大将がほんとうに韓信に帰したのを。[71]」さらに董儲[72]郎中がかれの貧窮を憐れみ、手紙で士人の富裕なものに推薦し、涸轍を潤すことを願ったことがあった。しかし士人たちはまったく王孫[73]を哀れむ気がなかったので、終はまた手紙を持ち帰り、啓を整え、董に納めたが、そこにこうあった。「魯箭高く飛び聊城のかならず下るを謂ふも[74]、秦都割かざれば趙璧を懐いて以て空しく帰る[75]。」人は多くその適切さを嘉した。
○罪を得て南に帰ること
舒信道[76]は元豊年間に罪を得て南に帰ったが、その頃、本老住慧林[77]が招かれていた。人が京師で近頃どんな新しい事があったか尋ねると、ある人が言った。「舒中丞は客船を雇って帰郷し、本長老は遞馬[78]に乗り参内しました。」
○丹青を生業とすること
承務郎[79]陳黙[80]は字を子信といい、詞翰に巧みであったが、疏逸[81]で、みずから「懶散翁」と号していた。父紘が閩漕[82]となると、黙も隨って建安[83]にいった。焦生というものが丹青を生業としており、ある日、黙の姿を図にして献じた。黙があまねく家人に示すと、みな笑って言った。 「これはまさに庁の前の李尚書のようです。」(俗に軍校[84]を尚書と呼ぶ)黙はそこで戯れに一讃を上に題し、それに返して言った。「大道はもともと無我[85]、わたしの姿をどうして図にすることができよう。どうして焦処士が、李尚書を描く必要があろう。」黙は蘇子美[86]の甥で、子美は以前自詠詩を作って言った。「鉄顔蒼髯骨に棱有り、世間の児女見れば須らく驚くべし。」黙もいかつく髭が多く、そのおじに似ていたという。
○武成県の旋風
熙寧九年、恩州武成県に旋風があり、東南から来、それを望めば天を挿し、羊角のようで、大木はすべて抜けたが、まもなく旋風は雲霄の中に巻き込まれた。その後だんだん近づき、県城を通過したが、官舎民家はほぼなくなり、すべて雲の中に巻き込まれた。県令の児女奴婢は巻いてゆかれ、ふたたび地に墜ち、死傷するものは数人、民間で死傷亡失したものは数え切れなかった。県城はすべて丘となり、今の県に移った。
○好んで悪詩を作ること
文思副使[87]方圭は悪詩を作ることを好み、人に逢えばすぐに数十篇を誦え、その言葉は喋喋として厭わしかった。宋丞相が資政殿学士[88]として揚州を治めていた時、圭が淮上を通過した。ある日、宋は客と平山堂[89]で宴し、圭は席上詩を談じた。宋はそれを嫌に思い、圭の言葉を止めようとした。その時、望み見ると、野外で一頭の牛が樹で癢いのを擦っていたので、宋は坐客の胡恢を顧みて言った。「青牛力を恃み狂ひて樹を挨す。」恢はすぐに答えた。「妖鳥春に啼き人を避けず。」宋公は大いに笑い、圭はかれの意を悟った。飲み終わり、宿にゆくと、拳を奮い、恢を撃ったが、人々がかれを救っただけであった。
最終更新日:2018年1月4日
[2]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=13396&searchu=%E7%8B%84%E9%9D%92%E7%82%BA%E6%A8%9E%E5%AF%86%E5%89%AF%E4%BD%BF 狄青。
[10] 「聶」を指している。
[11] 「忠恕」に二つの「心」があるのを二心を抱いていることと引っ掛けて謗り返した。
[12] http://www.zdic.net/c/f/3c/90385.htm 事情を陳述する奏章あるいは書信。
[14] http://www.zdic.net/c/6/d4/203241.htm 茶と湯。客をもてなす飲みもの。
[16] 未詳。
[17] この文、未詳。
[18] https://baike.baidu.com/item/%E4%BF%B3%E4%BD%93 俳諧体。俳諧体は、詼諧のな遊戯の詩文。
[19] 未詳。
[25]http://ctext.org/hou-han-shu/zh?searchu=%E5%A4%A9%E7%A5%BF%E8%9D%A6%E8%9F%86 平門は平昌門。http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=90570&searchu=%E5%B9%B3%E9%96%80
[29] 原文「題宗資碑陰云」。未詳。
[33] 以下は序であると解す。
[35] 未詳。
[36] http://www.zdic.net/c/7/2/4235.htm 禮部の別称。会試を職掌する。ここでは会試のこと。
[37] 原文「要盛天下蒼生。」。未詳。
[38] 原文「此但能盛一個耳。」。未詳。「盛」に「さかんにする」「いれる」両方の意味があることからくる洒落か。あまり面白くない。
[39]https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%B0%E5%9F%8E/1784157?fromtitle=%E4%B8%B0%E5%9F%8E%E5%B8%82&fromid=5225289
[41] http://www.zdic.net/c/3/a0/185030.htm 邶風.凱風「母氏聖善、我無令人。」
[47] 「硯」が「彦」、「鼓」が「古」と同音で、自分や父親の諱を犯しているから言い換えているのであろう。
[48] https://baike.baidu.com/item/%E8%BF%9B%E7%BA%B3 進納。銭糧を納めて官爵を買うこと。
[49] 「彦古」という自分の名前が、相手とその父の諱を犯しているので、こう言い換えた。
[50] 原文「永州司戶參軍李墨池皮棚謹祇候參。」。「墨池皮棚」は「彦古」の言い換え。
[52] 原文「城壘方完」。未詳。
[53] 未詳。
[55] 出典未詳。
[63] 未詳。あっというまに訪れる暁を馬に喩えたものか。
[66] http://www.zdic.net/c/7/156/341400.htm 未詳だが、政権を掌握している権力者であろうか。
[70] 未詳。
[71] http://www.zdic.net/c/7/16/34020.htm 『史記』卷九十二・淮陰侯傳「至拜大將,乃韓信也,一軍皆驚。」
[74] 原文「魯箭高飛謂聊城之必下」。「魯箭」は「魯連箭 」魯連が敵に投降を勧めるために手紙をつけて放った矢のことで、文によって敵に克ち、戦わずして勝つことの喩え。この句、「董儲が士人たちに手紙を送り、かれらの援助が得られるものと思ったが。」ということ。
[75] 士人たちの援助は得られず、才能を懐いたままむなしく帰る。
[76] https://baike.baidu.com/item/%E8%88%92%E5%AE%A3 明州瓷溪の人(今の寧波)。
[77]https://baike.baidu.com/item/%E6%85%A7%E6%9E%97%E5%AE%97%E6%9C%AC%E7%A6%85%E5%B8%88%E5%88%AB%E5%BD%95 慧林宗本禅師。「本」は「宗本」の「本」。「老住」は「老住持」の意味であろう。https://baike.baidu.com/item/%E5%AE%97%E6%9C%AC/11039953 元豊五年(一〇八二)、神宗の詔を受け、相国寺慧林禅刹の第一祖となった。
[80] 未詳。