巻五

 

○応声虫

わが友劉伯時が以前淮西の士人楊勔に会ったところ、(楊勔)がみずから言った。「中年で奇病に罹り、発言応答するたびに、腹の中でその都度小声がそれを真似し、数年の間にその声はだんだん大きくなっている。」道士が見て驚いて言った。「これは応声虫だ、長いこと治さなければ、蔓延して妻子に伝染しよう、『本草』[1]を読むべきだ、虫が反応しない薬に遇ったら、それを取って服用するべきだ。」勔は言われた通りに、読んで雷丸[2]に達すると、虫は突然声を出さなくなったので、急いで数粒を飲んだところ治癒した。わたしははじめ本当だと思わなかった、その後長汀[3]にゆき、ある乞食に遇ったところ、やはりこの病に罹っていた、囲んで見ている者はたいへん多かった。そこでかれに教えて雷丸を服用させようとすれば、乞食は断って言った。「わたしは貧しくして他の芸はなく、衣食を人に求める手段としては、これを利用するしかありません。」

 

○腹の中から音を出し鼓を撃つかのようであること

 

陳子直主簿の妻に奇病があり、腹が膨れるたびに腹の中から鼓を撃つかのような音を出し、遠く外に聞こえ、通行人で門を過ぎるものはみな彼女の家が楽を奏でているのかと思った。膨れが消えれば鼓の音も止んだが、一月に一回起こり、数十人の医者を経たがみなその病を名づけることができなかった。

 

○学士が金帯[4]を服することができること

 

国朝の翰林学士は金帯を服することができ、朱衣吏[5]が一人で先導した。両府[6]は朱衣吏二人が金の笏頭[7]に金魚[8]を帯佩し、それを「重金。」といい、両制に居ることが久しいものは言った。「眼の前はいつの日赤く、腰の下はいつ黄になろう。」内廷に居ることが久しいものは、さらに言った。「眼は赤だがいつ二つになろう、腰は黄だがいつ重なろう。」

 

○人が驪駒に乗り壁の中から出て来るのを見ること

 

わたしの外親章安国は逆旅に泊まったことがあったが、朝起きて厠にゆくと、白衣の人が驪駒に乗り、壁の隙間から出て来るのを見た。身長は一寸余り、歩いて往来し、徘徊し振り返った。突然頭を挙げ、章を見ると、すぐに馳せて入ったが、最後までどんな妖怪か分からなかった。

 

○秦州[9]の西溪に蚊が多いこと

 

范文正公は、若い時、求めて秦州西溪の監塩[10]となったが、その志は西夏を滅ぼそうとし、用兵の利害を知るだけで、廨舎には蚊[11]が多かった。文正は戯れに壁に題して言った。「()きて()れば桜桃(あうたう)(おも)く、()ゑて(きた)れば(りう)絮軽(じよかる)[12](ただ)()(ここ)(はな)れて()れば、前程(ぜんてい)[13]()ふを(やう)せざるのみ。」公の一時の戯れの言葉だが、豈弟[14]渾厚の気が人に逼っている。その大きなものならなおさらである。

 

○仏牙舎利

 

熙寧年間、わたしは察訪して咸平[15]を通り、その時、劉定子先が県を治めていたので、ともにある仏寺を訪ねた。子先はわたしに言った。「こちらに一つの仏牙があり、たいへん珍しいです。」わたしはそこで潔斎し、それを取って見たところ、その牙は突然舎利を生じたが、人の体に汗が颯然として湧き出したかのようで、その数は知れなかった。あるものは空中に飛び、あるものは地に墮ち、人が手でそれを受けようとするとすぐに透過し、床榻に当たれば、錚然として音を出し、光を透過して澄明であり、爛然として目に満ちた。わたしは京師にゆくと公卿の間に伝えた。後に人が京師に迎えて来、執政は取って東府[16]に入れようと言い、順番に士大夫の家に回覧したところ、神異の跡は数え切ることができなかった。詔があり、大相国寺[17]に留め、木造の浮図を造営してそれを収めた。今は相国寺の西にある。

 

○陳亜[18]が滑稽[19]によって有名であること

 

陳少常亜は滑稽によって有名であり、蔡君謨[20]はかれの名を用いてかれに戯れたことがあった。「(ちん)()に『(こころ)()れば(つひ)()れ『(あく)』。」陳はすぐに返して言った。「(さい)(じやう)に『(くち)()ければ(すなは)ち『(すい)』と()る。」時人はすぐれた対句であると思った。殿中丞[21]であった時、嶺南の恩州[22]を治めたが、着任すると手紙を書き、親戚旧友に言った。「使臣の五馬[23]双旌[24]は、名目なるのみ。螃蟹の一文両個[25]は、真に是れ虚ならず。」さらにこう言ったことがあった。「平生の一対でもっとも適切なのは『紅生』と『白熟』だ[26]。」

 

○却鼠刀

 

蘇子瞻は「却鼠刀」を持っていたという。それを野老から得、匣に収めたことがあった。用いる時は香を焚き、浄几の上に置くだけで、すぐに一室の中に鼠がいなくなるのであった。

 

○不殺生の戒めを保つこと

 

和は化州[27]に流された時、不殺生の戒めを保ち、日夜仏を拝し、客に会う時、襟に(しらみ)が満ちていても対処せず、最後になると歌を作り、そのことを嘲って言った。「衣領(いりやう)虱子(しし)をして()らしむるに(したが)ひ、()(ふか)くして(はい)()たり席児(せきじ)穿(うが)たるるを[28](だう)(きやう)[29]活計(かつけい)[30](きみ)()るや(いな)や。()うれば(すなは)(すべか)らく(くら)ふべく(つか)るれば(これ)(ねむ)る。」

 

○物怪が水中から足を引くこと

 

李主簿がおり、その名は忘れられているが、夜、舟を浮かべ、舷に臨み、足を洗っていたところ、突然物怪が水中からかれの足を引いたので、人々はつとめてかれを救ってやった。李は叫んで言った。「痛みは心骨に徹し、耐えられませんから、死んだ方がましです。」そしてそれに隨って入り、翌日、その屍を探したが見つからなかった。

 

○死ぬ日を予知すること

 

呉の人鄭夷甫は若年で及第し、非凡な資質があり、嘉祐年間高郵軍の税務を監督していた。一人の術士に遇ったことがあったが、人の死期を推測することができ、験がなかったことはなかったので、かれの寿命を予測させたところ、三十五歳に過ぎなかったので、憂傷感嘆してほとんど耐えられなかった。人々はかれに老荘を読んでみずからを慰めるように勧めた。しばらくして、潤州[31]金山で一人の僧が端坐し、人と談笑している間に昇仙した。夷甫はそれを聞くと、喟然として嘆息して言った。「民は長寿であることができず、この僧のようにすることができれば、何も怨むことはない。」そして僧侶に従い、『首楞厳経』を授かり、呉中に往還した。一年余りして突然悟ることがあって言った。「生死の理が分かった。」そして心が釈然として、それ以上蒂芥[32]がなくなった。後に封州[33]に判官として赴任し、死ぬ日を予知し、期日の十日前に手紙を書き、親戚友人に与え、別れを述べ、次に家事をくわしく述べた。期日になると沐浴更衣した。公舎の外に小園があり、溪に面する亭はきれいに装飾されていた。夷甫はそこにゆくと、みずから人を促して掃除焼香させ、手を揮って指示していたが、屹然としてすぐに昇仙した。家人が奔り出てかれを呼ぶと、すでに立ったまま硬直していた。亭亭として植木のようで、片手はなお指示する形をなしていた。郡守以下はまもなくしてみな来、士民で見るものは垣のようであった。翌日納棺され、高郵の崔伯易が墓誌を作り、ほぼその事を述べた。わたしは夷甫と遠戚であるので、そのことをたいへんくわしく知っているが、士人の中でそもそもこの事があったことはない。

 

○酒を飲み顔色が赤らむこと

 

何秘監旦は知制誥[34]を免職となり、襄州の通判となった。その時、謝学士泌が州務を治めていたので、庁を訪ねて酒を飲んだことがあった。何は顔色が赤らんでいたので、謝は戯れに言った。「舎人どのは顔色が衫の色のようです。」何はすぐに答えた。「学士どのは心が襆頭のようです。」胡はその時緋衣を着けていた。

 

○老猿が坐して死ぬこと

 

潭州南岳寺の裏に巨石があり、高さ一丈余り、突然老猿が拱跏趺坐してその上で死んだ。

 

 

○海人

 

李仲遊承議が同安県を治めていた時、人が海舟を浮かべて外国と交易し、一年を経てはじめて帰っていった。語るには、大風のために漂流してある島嶼に着いた、おりしも月が明るかったが、見ると十数人が海から腕を連ねて出て来、嶼に登って談笑した。言葉は解せなかったが、体貌は人と異なることがなく、裸形であるに過ぎなかった。舟人が鑼鼓を鳴らしてかれらを驚かしたところ、また腕を連ね大声で笑って海に入っていった。近くの島の人は言った。「これは『海人』といい、家は島にあります。」

 

○陶穀[35]が江南に使いすること

 

国初、朝廷は陶穀を江南に使いさせ、書を借りることを名目にし[36]、実は様子を伺わせた。丞相李献が手紙を韓熙載[37]に送って言った。「五柳公[38]はたいへん驕慢ですから、どうかよく待遇してください。」穀が来ると、ほんとうに李の言った通りであった。熙載は親しいものに言った。「陶秀実は端介[39]なものでないから、その節操は堕落させることができる。諸君を一笑させよう。」そこで駅舎に泊まらせ[40]、六朝の書半分を謄写するのを待たせた[41]。終わると、熙載の歌姫秦篛蘭に弊衣を着させ、駅卒の娘だとした。穀は彼女を見て気に入り、慎独[42]の戒めを犯し、長短句[43]を作り、彼女に贈った。翌日、中主[44]が客と宴した時、穀は凜然として手を出すことができなかった。中主は觥を持ちながら、篛蘭に『続斷弦』の曲[45]を歌わせ、かれにお酌させたところ、穀は大いに恥じて退出した。

 

○銭の文様に「応元宝運」の四字があること

 

廬山の太平観[46]は九天採訪使者[47]祠であり、唐の開元年間に創建された。元豊二年、道士陶智仙が一舎を構え、門人陳若拙に命じ、地を掘るのを監督させたところ、一つの瓶を見つけたが、封がたいへん固かった。それを壊すと、その中はすべて五色の土で、一枚の銅銭があるだけで、文様に「応元保運」の四字があった。若拙はそれを得て帰ったが、かれの師はあまり珍奇であるとしなかった。元豊四年になり、突然詔があり「九天採訪使者」を進号[48]して「応元保運真君」とし、内侍廖維に御筆の殿額を持たせ、それを賜わらせたが、銅銭の文と合っていた。同じ頃、知制誥[49]熊本[50]が太平観を管掌し、くわしくその事を知らせ、その観の主を招き、まっさきにその詳細を質し、虚偽がないことを審らかにし、その銅銭を廖維の表に付して献上した。

 

○謝泌[51]が人物を見ることで有名であること

 

謝泌は人物を見ることで有名であったが、よしとすることが少なかった。生涯で数人の士人を推薦したに過ぎなかったが、後にみな卿相に至った。薦牘を開こうとするたびに、かならず香を焚き、宮闕に向かい、再拝して言った。「わたくしはさらに陛下のために一人を見つけましょう。」王文正公はまさにかれが推薦した士人であった。

 

○未石

 

李棻朝議は奇を好み、高さ二尺ばかりの奇石を所有していたが、穴ぼこがあり[52]好もしかった。常に庭の檻干の間に置いていたが、未の刻になるたびに、気が石の穴の中から出、煙雲の形のようであった。それを待てば万に一の差もなかったので、それを目して「未石」としたのであった。

 

○古鑑

 

慶暦年間に宦官がおり罪によって流されて維揚に居り、一つの古鑑を収蔵していたが、丸く径一尺であった。わたしはそれを禁中の旧物であるといった。鑑の背面に兔の形が鋳られており、たいへん精巧であった。満月の夜になるたびに、鑑を持ち、月の光に照らせば、兔の形が鑑の中に見えたが、人はその理を究めることがなかった。

 

○徳荘が心のなかで野夫に驚くこと

 

龔徳荘は河朔[53]で辞官し、京師の新門[54]に住んでいた。劉野夫は上元の夜に手紙で徳荘に約して言った。「今夜あなたと語りにゆこうとし、ご婦人たちはみな観燈しに出て来られねばなりません。身心を清浄にして待たれるべきです。」徳荘は平素その人を敬っていたので、三鼓まで危坐[55]していた。家人たちは帰っていなかったが、野夫も結局来なかった。するとまもなく火が門から焼けたので、徳荘は慌て、誥牒[56]を持ち、烈炎を犯して出たが、しばらくすると数百軒が灰礫の場となった。翌日、野夫が慰問に来たが、同時に喜んで言った。「奥さま以下が外出されないことを心配しておりましたが、さいわいに出られたことはお目出度いです。」徳荘は心のなかで野夫に驚いたが、それを質そうとしなかった。

 

○金亀金牌

 

上は上坊[57]に命じ、金亀[58]・金牌を鋳させ、それぞれ数百を作らせた。亀は近臣に賜い、一人一つであった。その時、賜いものを受けたものは戚里[59]以外では、朝廷にいるもの十七人であった。ほかはすべて玉清昭応宮[60]、宝符閣及び殿基の下に埋め、宝鎮[61]とした。牌は天下の州府の軍監[62]にそれぞれ一つを賜い、今「金宝牌」[63]といっているものがそれである。洪州[64]の李簡夫の家の一つの亀は、かれの伯祖[65]虚巳が得たもので、そもそも十七人の一人であった。その亀は夜中にしばしば出遊したが、爛然として光があり、それを掩っても捕らえられなかった。その家は今でも箪笥に珍蔵している。

 

○言語が軽率であること

 

王学士介[66]は博記俊爽であったが、言語が軽率で、人はかれを「心風」[67]と言うことが多かった。熙寧年間、省判[68]から郡[69]を求め、湖州[70]を得た。ゆこうとすると、王丞相[71]が詩をかれに送って言った。「()(こう)[72]太守(たいしゆ)(うつく)しきこと如何(いかん)柳ツ(りううん)[73]()(さい)()とするに()らず。(はる)かに(おも)郡人(ぐんじん)下簷(かえん)(むか)ふるを、(はく)(ひん)(しう)[74](じやう)(さう)()[75]()こる。」その趣意はかれの風[76]によって波を起こすことができるということであった。介はその意を知り、破題[77]で十篇を作り、丞相に呈上した。一首に言った。「()(こう)太守(たいしゆ)(うつく)しきこと如何(いかん)太守(たいしゆ)従来祝(じゆうらいしゆくた)[78](にく)む。()きて()上柱(じやうちゆう)(こく)[79]()らずんば、()する時猶(ときなほまさ)(えん)()()はるべし。」丞相は笑って言った。「閻羅が欠けているなら、はやく赴任するべきだ。[80]

 

○燭に照らして胃腸筋脈を見ること

 

張伯通が福州通判に任ぜられた時、夜、客に会った時、一人の僕が燭下に立っていたので、燭に照らしてかれを見れば、かれの胃腸筋脈が屈曲上下しているのが歴歴として数えられ、透徹して鑑のようであった。人々は驚いたがその理由を推測できなかった。張がそれを他の燭に易えるように命じると、二度と見えなくなった。

 

○毛僧[81]

 

呉に奇僧がおり、「毛僧」と号せられていた。日々村落に遊び、飲食は選ぶことがなかった。軽薄子にはかれを愚弄するものが多く、要人がかれを招いてもゆかなかった。突然、人に言った。「わたしはもしや死ぬのか。」そして危坐して偈を説いた。「毛僧毛僧、事事にうまくゆかない。死ねば焼かれて、あたかもいなかったかのようだ。」言い終わると遷化した。ああ。珍しいことである。もしや獅子戒[82]闍梨[83]の流か。

 

○兄弟数人がともに禁林[84]にいること

 

元厚之が若かりし時、夢みたところ、人がかれに後日翰林学士となろう、兄弟数人も同じく禁林にいようと告げたことがあった。厚之は、もともと兄弟がいないから、この夢は間違っているとひとり思った。熙寧年間、厚之は学士に除せられたが、時を同じくして相前後して学士院に入ったものは、一人は韓持国維[85]、一人は陳和叔繹[86]、一人はケ文約綰[87]、一人は楊元素盾ナあった。厚之の名絳と併せると、五人の名はいずれも糸扁であったので、はじめて「兄弟」の話を理解した。

 

○献香雑劇[88]

 

熙寧九年、太皇[89]の誕生日に、教坊では慣例として献香雑劇が演ぜられた。その時、都水監[90]の判官[91]侯叔献[92]が亡くなって間もなかった。俳優丁仙現[93]は道士に扮すればよく出神し[94]、僧に扮すればよく入定した。ある人はかれに出神した時に何を見たかを質した。道士は言った。「近頃出神して大羅[95]にいったことがございましたが、玉皇殿に一人の男がおり、金紫[96]を着けており、じっくり見ますと本朝の韓侍中[97]さまでした。手に一物を捧げていらっしゃいましたので、ひそかに傍に立っているものに尋ねますと、言いました。『韓侍中が国家に『金枝玉葉[98]万世不図』を献じているのです。』」僧は言った。「近頃、入定して地獄にゆきましたが、見れば閻羅殿の側で、一人の男が緋衣を着け、金魚を垂らしており、じっくりかれを見ますと、都水監の判官侯工部さまでした。手中にやはり一物を捧げていらっしゃいましたので、ひそかに左右に尋ねますと、こう言いました。『奈河[99]の水が浅かったため、図を献じて別に河道を開こうとしているのです。』」その時、叔献は水利を興して恩賞を図り、人民はそのことに苦しんでいたので、俳優にこの言葉があったのであった。

 

最終更新日:201813

續墨客揮犀

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[5] https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%B1%E8%A1%A3%E5%90%8F 戚、大臣が外出する時に先導する吏。

[6] https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%A4%E5%BA%9C 宰を行使する二人の重臣がいる機構。

[8] http://www.zdic.net/c/1/10f/295760.htm 官員の佩飾。唐制三品以上、元代四品以上の官員が佩帯した。

[10] https://baike.baidu.com/item/%E7%9B%91%E7%9B%90 官名。塩税を徴収する。 

[12]蚊が血を吸う前と吸った後の様子を延べた句。

[16] 丞相府。

[23] http://www.zdic.net/c/4/13c/301826.htm  馬車を引く五匹の馬。

[24] https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%8C%E6%97%8C ひろく高官の仗を指す。

[25] 原文同じ。まったく未詳。値段を言っているか。

[26] 原文「平生之一對最親切者是『紅生』對『白熟』也。」。未詳。肉などが生で赤いのと火が通って白くなっているということか。

[28] この句、義未詳。「席」は仏を拝する時の敷物を指すか。これが擦り切れるほど日夜仏を拝している。

[30] https://baike.baidu.com/item/%E6%B4%BB%E8%AE%A1 活計,過去もっぱら手芸あるいは裁縫、刺等を指す,現在はひろく各種体力労動を指す。

[32] https://baike.baidu.com/item/%E8%92%82%E8%8A%A5 内心不満あるいは不快であること。

[36]原文「以假書為名」。未詳。

[38]陶穀を指していよう。「五柳」は陶淵明の『五柳先生伝』に因むのであろう。

[40] 親しいものを。

[41]原文「因令宿驛舍俟謄六朝書半甲」。未詳。

[42] https://baike.baidu.com/item/%E6%85%8E%E7%8B%AC 独居している時に慎むこと。

[45]未詳。

[46] 未詳。

[47]https://baike.baidu.com/item/%E4%B9%9D%E5%A4%A9%E9%87%87%E8%AE%BF%E4%BD%BF%E8%80%85 道教で信奉される俗世を巡察する神仙。

[48] https://baike.baidu.com/item/%E8%BF%9B%E5%8F%B7 官爵の名号を昇進させること。

[52]原文「嵌」。未詳。

[55] http://www.zdic.net/c/1/14c/328340.htm 身を真っ直ぐにして端坐すること。

[56] 未詳。勅書か。

[57] http://www.zdic.net/c/a/38/86544.htm 職官名。帝王が用いる器物の製造を掌管する。

[58] http://www.zdic.net/c/1/10f/295781.htm 唐代三品以上の官員が佩びた金飾の亀袋。『舊唐書』卷四十五.輿服志。

[61] https://baike.baidu.com/item/%E5%AE%9D%E9%95%87 玉圭のの珍な玉器。

[62] https://baike.baidu.com/item/%E5%86%9B%E7%9B%91 ひろく督のを司る人を指す。

[63] https://baike.baidu.com/item/%E9%87%91%E5%AE%9D%E7%89%8C 道教を宣するために各地に発給された神牌。

[67] http://www.zdic.net/c/3/85/144884.htm 失意あるいは憂鬱によって瘋癲に陥った狀態。「風」は「瘋」に同じ。

[69] 州のこと。

[71] 王安石。ただし、以下に引用されている詩は王安国の詩。

[73] https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E6%9F%B3%E6%81%BD 南朝人。呉太守であった。

[76] 心風のこと。

[80] この句、未詳。

[81] 」は「小」の意味で,小さくて言うに足らないこと。多く貶義で用いられる。

[82] 未詳。

[83] 闍梨」は「阿梨」の略称、僧のこと。

[88] 未詳。

[94] https://baike.baidu.com/item/%E5%87%BA%E7%A5%9E 魂が自身の体を離脱すること。

[98] http://www.zdic.net/c/1/10f/295757.htm 皇族の後裔あるいは尊貴な人。

[99] https://baike.baidu.com/item/%E5%A5%88%E6%B2%B3 奈河橋中国道教鬼魂が十殿閻羅の旅を経た後,投胎に備えてかならず経る地。

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