巻四
○陳烈が古礼に遵うこと
陳烈は福州の人、博学で時世に従わず、ややもすれば古礼に遵っていた。蔡君謨が莆田で服喪していた時、烈はかれを弔いにいったが、近くに着こうとすると、門人に語った。「『詩』は『凡そ民に喪あれば、匍匐して之を救ふ』と言わないか。今二三子[1]とこの礼を行おう。」で烏巾欄鞟[2]で、二十余の門人たちと門に向かって、手で地を膝行し、号慟して入ったので、孝堂の婦女はそれを眺めてみな逃げ、君謨は笑いを堪えながら弔問を受け、すぐに李遘の『匍匐図』を描いた。
○古塚
済州[3]金郷県[4]である古塚を発いたところ、漢の大司徒[5]朱鮪[6]の墓であった。石壁にはすべて人物・祭器・楽架[7]の類が彫刻されていた。人の衣冠は種類が多く、現在の襆頭のようなものがあり、巾額[8]はすべて方形で、現在の作りのようであり、脚[9]がないだけであった。婦人も現在の垂肩冠[10]のようなものがあり、近年服せられている角冠[11]のように、両翼は顔面を包んで下に垂れ、肩に及んでおり、わずかな違いもほとんどなかった。人情は遠くなく、千余年前も冠服はこのようであり、その祭器にも現在の食器に似たものがある。
○守宮
守宮はその体形はおおむね蜴蜥のようであり、足は短く、口は広く[12]、その色が金のものもある。秦始皇の時、人がそれを進上して言った。「鍵を守ることができ、人はひそかに発こうとしません。」。鍵のことを、古代「守宮」といったのは、これによる。さらにいう。「宮中に齎すと、宮女で異心を抱くものに、守宮は血を吐き、彼女の衣服を汚す。」あるいはいう。「守宮を宮女の腕に繋いだ時、守宮が血を吐き、腕を汚したものには、淫心があるので、秦皇は彼女を殺した。」
○与可[13]の詩が精絶であること
東坡は欧陽公に文与可の詩を誦えたことがあった。「美人却扇[14]して坐すれば、羞ぢて落つ庭下の花。」欧公は笑って言った。「与可にこの句はなく、この句は与可が拾っただけだ。」世は与可が墨竹を描くことを知るだけで、その高才が諸家の妙を兼ね、詩が精絶であることを知らない。戯れに『鷺鷥』[15]の詩を作った。「頚細く銀鉤浅く曲がり、脚高く緑玉深く翹がる。岸上の水禽無数なるも、誰か汝に似たる風標有らん。」
○気概があること
徳州の軍士劉喜は気概があった。家を出て一年を経たことがあったが、妻はある富豪の息子と私通した。夫は帰ると妻を紿いて言った。「おまえのした事をわたしはすべて知っている。わたしは黙黙として人の辱めを受けることはできないが、二人の情誼を隔てるのにも忍びない。おまえが富豪の子に命じて百金をわたしに贈らせれば、わたしはおまえが病死したものと偽り、葬具に載せて野に送ろう。おまえは夜になったらひそかにかれのもとへ奔ってゆけ。そのようにすれば口を封じることができよう[16]。」妻はその通りだと思い、百金を差し出し、病死したことにした。夫は妻を棺に納め、大きな釘で固め、火を放ち、それを焼き、郡将[17]張不疑のもとに自首したが、不疑はかれの気節を奇特であるとし、かれの罪を許した。
○下女下男が病を患うこと
江南の富民王生に下男がおり、癩を病み、年を重ねていた。王生が嫌悪してかれを追い出すと、みずから井戸に投じたが、水は肩にしか達していなかったので、死なないことができ、翌日汲むものが救ってやったために助かった。それから病はにわかに除かれ、八十余に至ってはじめて死んだ。さらに安州の楊子方秀才の下女春燕は、中年で突然足弱の病に罹り、歩行することができなくなったが、飲食はかならず数人分を兼ねていたので、その家も彼女を厭い、野外に移して棄て、およそ十日間食事することができなくさせたが、ある日、みずから歩いて帰り、結局楊家で老年を過ごした。この理はほとんど知ることができなかった。
○中書省に生老病死苦があること
熙寧年間の初め、富丞相[18]は足の病に苦しみ、入朝せぬことが多く、曽丞相[19]は引退の年に達しようとしていた。その時、王介甫[20]、趙閲道[21]、唐子方[22]が参政となっていた。介甫は日々進言して庶政[23]を変え、閲道は大いにそれを非難したが奪回することができず、閣中に退坐し、弾指して苦しみを語るばかりであった。唐子方はしばしば御前で争ったが、その後、唐は疽を発病して死んだ。京師の人は、中書省には生、老、病、死、苦のことがある、介甫は生、曽公は老、富公は病、閲道は苦、子方は死だと言った。
○唐の肺石[24]
長安の宮闕の前に唐の肺石がなおあり、その作りは仏寺で撃つ響石[25]のようにたいへん大きく、長さ八九尺ばかり、形は人の肺のようであった。款記もあったが、漫滅して読めなかった。按ずるに、「秋官」で、大司寇が肺石で貧民に意思を伝達させている[26]が、その義を辿ると、冤罪を訴えるものがそれを撃ち、その下に立ち、その後、士が言葉を聴くので、現在の登聞鼓[27]を叩くようなものである。肺の形である理由は、垂らすのに便であることと、肺が声を司り、声が冤罪を伝えるためである。
○詩が一時の事実を記すこと
欧陽公『夷陵黄牛廟』の詩に「石馬祠門に繋ぐ。」という[28]。東坡の『銭塘』の詩に「我南屏の金鯽魚を愛す。」という[29]。二詩はいずれも子供で詩語を作るのを学んだものに異ならないが、いずれも同じ時の事を記している。欧陽公は夢みてある神祠の前に来たことがあったが、石馬があり、左耳が欠けていた、夷陵に流されると黄牛廟を訪ねたが、見たことは夢の中と同じであった。西湖南屏山[30]興教寺の池に鯽十余尾がいたが、すべて金色で、道人は斎食の後、争って檻干に凭れ、餅餌を投じて戯れにした。東坡は西湖に馴染むことが久しかったので、詩詞に書いただけであった。
○笛の音が林で起こること
余尚書は慶暦年間に桂州を治め、州境の辺鄙なところに林木があり延袤[31]数十里、満月の夜になるたびに、かならず笛の音が林の中で起こり、音はたいへん清遠であった。土人は言った。「それを聞いてすでに数十年になりますが、どんな妖怪かはまったく分かりません。」公が人を遣り、それを探させると、その音は一本の大きな柏の木の中から出ていた。そこで伐り取って枕にすると、笛の音が定期的に起こったので、公はたいへん大事にし、数年間そうしていた。公の季弟は、その妖怪を窮めようとし、匠に命じそれを壊して見たところ、木の文理は、人が月下で笛を吹いているかのようであり、よく描くものでも及ぶことができなかった。ふたたび膠でそれを合わせたが、二度と音を出さなかった。
○貌を見るとかならず憎悪すること
晋陽に張・李二生がおり、隣り合っていた。二生はもともと仇隙はなかったが、貌を見ればかならず憎悪していた。張は高僧志端と親しく、その理由を語ると、僧は言った。「これは宿怨で、遠く旅してこのことから逃れるべきです。」張はその言葉の通りにし、そこで蜀にゆき、僧舎に僑居することが数年であった。後に突然、李処士というものが僧舎に投宿していることを聞いたので、張がひそかにそれを窺ったところ、隣家の李生であった。張はたいへん疑い懼れ、旅支度を急がして出ようとしたが、李は刃を懐にして、かれを門で待っており、胸を刺して殺した。李はみずから刎ねた。
○礼を失へば則ち諸を野に求む[32]
服喪の礼は近世絶えている。わたしは辰州[33]を治めたことがあるが、民は蛮獠[34]と雑居していた。その習俗は父母が亡くなると、稲粱、塩酪、飛走の肉を食べず、藜実[35]、粉豆[36]、魚菜を食べるだけである。古礼に合っていなくても、諸夏の閭里[37]の民に勝っている。「礼を失へば則ち諸を野に求む」というのは、ほんとうである。
○銭に「順天得一」の文があること
熙寧年間、地を掘ったところ、大銭三十余千文を得たことがあったが、すべて「順天得一」であった。当時、宮中ではみな古に「得一」の年号はないと思い、いつの時代の物か知るものがなかった。『唐書』によれば、史思明は僭号し「順天得一」銭を鋳しているが[38]、「順天」はその偽りの年号であり、「得一」は鋳銭を名づけただけで、年号ではない。
○韓范二公の食客
范文正が鄱陽を鎮守していた時、書生が詩を献じたが、たいへん巧みであったので、文正はかれを招いて礼遇した。書生は平生満腹したことがない、天下の飢寒でわたしの右にあるものはいないとみずから語った。その時、欧陽率更[39]の字が盛行し、薦福寺碑[40]の拓本は千銭に値していたので、文正はかれのために紙墨を調え、千枚の拓本をとり、京師で売らせることにした。紙墨が調った後、ある晩、雷がその碑を撃ち砕いたので、時人はそのために語った。「客の打碑せんとして薦福に来る有り、人の鶴に騎り揚州に上る無し[41]。」東坡は『窮措大』の詩を作って言った。「一夕雷薦福碑に轟く。」韓魏公の客に郭注というものがおり、才があり美しかったが、妻を探すのには苦しんでいた。歳が五十で室家がなかったので、魏公はかれを憐れみ、あらゆる手段で救済求婚してやったが、結婚を遂げようとすると、その人はかならず死ぬのであった。公は侍児をかれに賜ったが、嫁入り前に注が死んだ。郭注は范公の客と同じ試験であったろう。韓・范は、功名富貴が泰山黄河のようで、日月も老いさせることができないものであったのに[42]、二人の食客がこのようであるのはおかしなことである。
○蜥蜴の二つの頭
わたしの友人張徳夫が以前夜に書を読んでいると、蜥蜴が誤って燈盞[43]の中に跳び込んだ。それを見ると二つの頭があったが、まもなく徳夫は亡くなった。
○無知蒙昧のありさまを偽ること
李幾道朝散が言った。淄川の劉棟は、有道の士であり、布裘[44]緇巾で、無知蒙昧のありさまを偽っていた。母を養ってたいへん孝で、住居は池に臨んでいた。ある日、突然かれの母を扶け、山に登った。その夜、平地で一丈余りの洪水となったので、人々ははじめて怪しんでかれを優れているとした。その後、城から数里に窟室を作って住み、別に小さな家を築いてその母を住まわせ、朝晩だけ出て母に会い、寝食が終わると窟室に戻って黙坐し、このようにすることが十余年であった。士大夫で会おうとするものたちはみな窟室の中に入ったが、相対しても一言も交わさず、尋ねても答えず、はやく修行せよ、はやく修行せよと言うだけであった。母が亡くなり埋葬が終わると、ある日翩然として棄て去り、行方が知れなくなった。
○秋霖賦を献じること
徐仲謀が皇祐年間に広東提刑を辞め、宮中にいった時、京師に雨が多かったので、『秋霖賦』を献じた。その概略に言った。「七月八月に連なり、大田小田を淹浸し、晴霽を望んで終日仏を拝し、朝参[45]を放れて夜を隔てて伝宣す[46]。泥塗半ば浸されて街心に車馬を通ぜず、波浪将に橋面に平らかならんとして舟船を渡し難し。」その時、賈文元[47]、陳恭公[48]が政務を執り、ともに御前に招かれていたが、さらに言った。「陰陽序を失へば、自づから当に策免[49]すべし、然れども臣等已に屢罷むるを乞ひて聖恩未だ允さず,小臣を疏遠にして猥語を以て臣等を侵侮する有るを致し、実に師長百辟[50]に面目無し。」神宗は怒って仲謀を降格し、邵武軍[51]の酒税を監督させた。
○仕官する時に義を守ること
唐龍図(肅)[52]は恬淡寡欲であった。天聖年間、工部郎中として洪州[53]を治める時、南康[54]に舟を泊めたが、徘徊して進まなかった。ある人がそのわけを尋ねると、答えた。「職田は四月を期限としているから[55]、今すぐに赴任すれば利に走るとの譏りを受けるのではないか。」一か月を越えて赴任したが、当時仕官していたものたちはみな恥じてかれに敬服した。
○辺境を安んずる良策
密学呂公綽[56]が秦州[57]を治めた時、古渭の諸羌が土地を献じに来たが、呂は言った。「天下の大侯が、どうして部落の尺寸の地を利としようか。」それを謝絶した。夏安期[58]郎中は渭州[59]を治めた時、塞下[60]の閑田[61]を帳簿にし、人を募って耕種させ、一年に穀物数万斛を得て賑貸[62]に備えたので、人々はたいへんそれを便とした。人は二公がいずれも辺境を安んずる良策を知っていると言った。
○手で天を支えることを夢みること
韓稚珪[63]侍中が泰州を治めていた時、数日病に臥せり、冥冥として意識がなかった。しかし倏然として蘇り、左右に語った。「さきほど手で天を支える夢を何度も見たが、しらぬまに目ざめてしまった。」その後、英宗[64]を藩邸で、今上[65]を春宮で扶翼した。天子を扶翼する瑞祥はすでに慶暦年間に兆していたのだから、もとより賢臣の勲業が偶然に齎されたのでないことが分かる。
○黄河から一本の人の手が出ること
祥符年間、黄河の急流の中から突然一本の人の手が出て来たが、大きさは数尺で、上に八人の姓名を題しており、いずれも当世の達官であった。その年、八人のものはみな死んだ。
○緡が地から起立すること
夏侯嘉方は太平興国年間に益王の生辰使となり、得た金幣[66]はそれを売り、銭を得、それを家に運んで帰った。突然一本の緡が地から起立し、しばらくして倒れた。嘉方は病み、一月を越えて亡くなった。
○鰻井[67]
越州[68]応天寺に鰻井があり、一つの大きな盤石の上にあり、その高さは数丈、井戸はわずか数寸四方で、一つの石穴であった。その深さは知れず、唐の徐皓の詩に「深泉鰻井開く」というのが、まさにそれで、その来歴も古い。鰻はすぐに出て泳ぎ、人はそれを取り、懐袖の中に置き、まったく驚き怪しむことがなかった。鰻のようで鱗があり、両耳はたいへん大きく、尾に刃の跡があり、言い伝えでは黄巣以前に剣でそれを切ったということであった。鰻が出て泳ぐと、越中ではかならず水旱があり、疫癘の災を、郷人はしばしばこれによって確かめた。
○欧公[69]が禹玉に詩を贈ること
欧公・王禹玉[70]はともに翰苑[71]におり、立春の日に詩貼子[72]を進呈することになっていた。たまたま温成皇后[73]が薨じたので、むなしく止めて進呈しなかった[74]が、勅旨があり、やはり進呈させることにした。欧公が準備し、禹玉は詩を口ずさんで書くことを促して言った。「昔聞く海上に仙山有りと、煙楼台を鎖して日月閑たり。花下玉容長く老いず、只応に春色人間に勝るべし。」欧公はかれの敏速さを喜んだ。禹玉が欧公の門生でありながら、部局を同じくしたのは、近世の盛事であった。そのため、欧公はその詩を贈ったが、その概略に言った。「当時発策[75]す武城宮、曽て看る揮毫すれば気の虹を吐くを。夢寐閑思す十年の事、笑談し今此に一樽同じ。喜ぶ君の新たに黄金帯を賜はるを、顧みれば我今白髪の翁となる。」
最終更新日:2018年1月4日
[2]未詳。
[7]原文同じ。未詳だが、楽器を置く台の類であろう。
[12]原文「足短而加闊」。未詳。
[13]https://baike.baidu.com/item/%E6%96%87%E5%90%8C/2144246?fromtitle=%E6%96%87%E4%B8%8E%E5%8F%AF&fromid=2967363
[14]https://baike.baidu.com/item/%E5%8D%B4%E6%89%87新婦が出嫁するとき、頭と顔を覆うこと。
[16]世間の人々の。
[20]https://baike.baidu.com/item/%E7%8E%8B%E5%AE%89%E7%9F%B3/127359?fromtitle=%E7%8E%8B%E4%BB%8B%E7%94%AB&fromid=4132835
[27]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E7%99%BB%E9%97%BB%E9%BC%93朝堂の外に掛ける太鼓で,直訴の手段の一つ。
[34]https://baike.baidu.com/item/%E8%9B%AE%E7%8D%A0南方少数民族に対する蔑称。
[41]https://baike.baidu.com/item/%E9%AA%91%E9%B9%A4%E4%B8%8A%E6%89%AC%E5%B7%9E做官、発財、成仙が一身に集まることを欲することの比喻,あるいは貪婪、妄想を表す。
[42]原文「日月所不能老」。未詳。
[45]https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%9D%E5%8F%82仏教語。寺院中の早課、晨参をいう。
[49]https://baike.baidu.com/item/%E7%AD%96%E5%85%8D帝王が策書で官を免じること。
[55]https://baike.baidu.com/item/%E8%81%8C%E7%94%B0職田は、国家が掌握している公田で,収穫物を俸禄の一部分に充てたもの。期限までに着任しないとその年の職田からの収穫は得られなかった。
[72]https://baike.baidu.com/item/%E8%B4%B4%E5%AD%90貼子詞http://cd.hwxnet.com/view/ggojcmakchcjkhfp.html宋代、佳節になると,詞臣に命じて撰写し、宮中の壁に貼らせた詩詞。
[74]原文「閣虛不進」。未詳。
[75]http://www.zdic.net/c/1/a6/193844.htm策は,策問。発策は策問の試題を開いて閱すること。後に応対で発せられる問題も「発策」と称した。