巻二
○桃李が雀蛤を忌むこと
朮を服したものは桃、李、雀、蛤を食べることを忌む。今人は鳩鴿を食べないことが多いというのは、誤りである。海辺に蛤がおり、背に花紋があるものは、土人はそれを「花蛤」という。紋がないものは、それを「沙蛤」というが、その形は同じである。史書に「雀大水に入れば化して蛤と為る。」[1]という。そもそもそれが同類であるからであり、海辺の民にはその変化を見るものがいた。
○江左[2]の名文
六一居士[3]は陶淵明の『帰去来』は江左の名文であり、当世及ぶものがないと言った。涪翁[4]は言った。「顔謝[5]の詩は炉錘[6]の功を尽くしていると言えるが、淵明の垣は数仞で窺うことができない。」[7]東坡は晩年もっとも淵明の詩を好み、儋耳[8]にいた時かれの詩にすべて和した。舒王[9]は金陵で詩を作った時、淵明の詩の中の事を用いることが多く、四韻詩[10]すべて淵明の詩を使うものがあるに至った。さらにかれの詩には奇絶で及ぶことができない言葉があると言ったことがあった。たとえば「廬を結び人境に在り、車馬の喧しきなし。君に問ふ何ぞよく爾ると。心は遠く地は自づから偏ればなり。」詩人以来この句はない。だとすれば淵明の趣向は非凡、詞彩は精抜であり、晋宋の間に一人だけである。
○観江を渡っている時に江風が起こること
王栄老は観州[11]で官職に就いたことがあり、辞職して観江を渡ろうとしたが、七日間風が起こり、渡ることができなかった。父老は言った。「公は篋中に奇物を蓄えていらっしゃいます。この江の神はきわめて霊力がございますから、それを献じれば渡ることができましょう。」栄老は考えたが何も持っていなかった。玉麈尾があったので、すぐにそれを献じたが、効果はなかった。さらに端石硯を神に献じたが、効果はなかった。さらに宣包[12]虎帳[13]を神に献じたが、いずれも験がなかった。そこで夜に臥した時、考えた。「黄魯直の草書の扇があり、韋応物の詩を題して『ひとり憐れむ幽草の澗辺に生ずるを、上に黄鸝ありて深樹に鳴く。春潮雨を帯び晩来急に、野渡に人なく舟おのづから横たふ。』とあった。」すぐに取って見、憂え悲しんで言った。「わたしが気づかないのに、幽鬼はそれに気づいているのか。」持ってそれを献じた。香火が収まらないうちに、天と水が照らし合い、二枚の鏡を布いたかのようであったのに、南風がおもむろに来、一枚の帆で渡った。わたしは観江の神はきっと元祐の遷客[14]の幽鬼だと思う。そうでなければ何と嗜みが深いことか。
○胥吏のかしらが狡獪であること
陳学士貫[15]は省副[16]であった。当時、三司[17]に一人の胥魁[18]のかしらがおり、狡獪で、権幸[19]にひそかに通じていた。省内の事はおおむねそれをかれに諮り、声喏[20]のたびに[21]、しばしば欠伸する振りをし、その礼を執ろうとしなかった[22]。陳は聞いて不満で、省に入ってかれを追い払うことに決めた。そして参見しに来た時、厳しい顔で遇うと、胥はかれの意を悟り、いよいよ謹んで奉仕し、命を受ければ明敏で、まったく遺漏がなかったので、一年余りすると陳もかれを優遇した。ある日、陳は胥に言った。「邸内で一二の女客[23]に会いたいが、誰に処理させることができる。」胥は言った。「わたくしは公務の合間にしばらくいって監督することができます。」陳はかれが腹に一物あることに気づかず、言った。「おまえがひとりでゆくのならたいへんよいが、宴席に必要なものは十に一つも備わっていない。」胥はそこで十余歳の女子を連れ、東華門街で、紙標[24]を頭に挿して言った。「陳省副さまのために女客を招きます。監厨[25]に命ぜられましたが、蓄えてある銭がありませんので、今娘を売り、若干の銭を求めます。」そして皇城司[26]の密邏する[27]者と結び、ひそかにそのことを朝廷に知らせさせ、降格を行ってもらおうとした[28]。さいわい宰相が弁護してくれたが、一年で結局辞職し、集賢学士(旧例では省副が辞職するとみな集賢学士を得た)を得ただけであった。
○鯉魚の三十六鱗
鯉魚は脇腹に一列三十六鱗あり、鱗に黒い十字のような文様があるので、それを「鯉」という。文字が「魚」「里」から成り立っているのは、三百六十であるからである。しかし井田法[29]は三百歩を一里としている。四代[30]の法にも、襲わないものがあるのであろう。
○天慶観の古鐘
郴郡[31]に天慶観の古鐘があった。ある晩、激しい風雷があったが、まもなくしてなくなっていた。観主はそれが盗賊に取られたと思い、公に告げてそれを探させ、符[32]が下されても長いこと見つからなかった。漁師がある日江を渡っていたが、篙で下を刺したところ、鏗然と音がしたので、じっくりとそれを見れば、鐘であった。官に告げ、それを挙げて出せば、天慶観から失われた鐘であった。鐘の腹に二つの穴があり、鋭い物を用いてそれに穴をあけたかのようであった。話したものは言った。「鐘の鼻[33]は龍の形に造られており[34]、しばしば霊験があるから、潭の蛟蠋[35]と闘ったのだ。そうでなければ、鐘がどうしてこちらに来ているのだ。」そもそも鐘は、その重さが数千斤で、百人でも移動するのは容易でないのに、ゆえなくして水中に入ったのは、怪しいことである。
○それを射て鏃を没すること
『史記·李広伝』に、「広は夜に石を見て虎と思い、それを射たところ鏃を没した。」とあり、『漢書』に「飲羽す[36]。」とある。史遷と李広はその時を同じくしているから、誤っていまい。鉄が石に入り、一寸を越えることができても奇とするに足るのだから、竹石に入り、一尺を過ぎることができる理は絶対にない。精誠が致したことといっても、物理はそうでなかろう。これは班氏の文飾であろう。
○至言の祖
宋尚書[37]が言った。混元皇帝[38]の『道徳経』は至言の祖である。屈平の『離騷』は詞賦の祖である。司馬遷の『史記』は紀伝の祖である。後人が作ったものは、たとえれば「至方は矩を踰ゆる能はず、至円は規を過ぐる能はず。」[39]である。左丘明は巧みに人事を語り、荘周は巧みに天命を語り、二子の上のものはいず、聖人が生まれてもそれに勝ることはない。
○人に言われていない言葉を作ること
盛学士次仲[40]、孔舎人平仲[41]はともに館中におり、雪の夜に詩を論じた。平仲は言った。「人が言ったことがない言葉を作るべきだ。」言った。「斜めに闕角[42]に拖く龍千丈、潜かに牆腰を抹す月半棱。」座客たちはみなすばらしいと称えた。次仲は言った。「句はたいへん佳いが、その大らかでないのは惜しい。」そして言った。「看来れば天地は夜を知らず、飛びて園林に入れば総て是春。」平仲はその巧みさに服した。
○p鶴洞
平涼の西に崆峒山[43]があり、広成子[44]が修道した所である。山の絶壁に石穴があり、それをp鶴洞といった。鶴の頭頂は丹のようで、羽毛はすべて黒く、日にそれを照らせば、金色は粲然としていた。その下に金衣亭があり、年に一二回出るに過ぎなかった。今その地は僧徒に占拠され、鶴が現れれば、僧徒にはかならず死亡還俗するものがいた。
○『楽毅論』[45]はすべて模本であること
本朝の人高紳学士の家は、皇祐年間に紳の子の高安世が銭塘の主簿となった。『楽毅論』がかれの家にあり、わたしはそれを見たことがあった。その時、石はすでに欠けており、末尾に「海」の字だけがあるのがそれであり、その家の子が見たことがあった。十余年後、安世は蘇州にいたが、石はすでに壊れて数片となり、鉄でそれを束ねてあった。後に安世が死ぬと、石は所在が知れなくなった、ある人が蘇州の富豪の家でそれを見つけたが、二度と見なかったと言った。今伝えられている『楽毅論』はすべて模本であり、筆画も昔のように清勁でなく、羲之の小楷の字は今ではほとんど絶えている。『遺教経』[46]の類はすべてその比でない。
○崔球が昼に夢で家にゆくこと
池州[47]の崔球は太学生となり、苦学して長いこと帰らなかった。ある日、昼に夢でかれの家にゆくと、かれの妻が几に拠って字を書いており、彼女を呼んでも答えず、彼女に話しても答えず、耳に聞こえていないかのようであった。書いているものは詩一首で、こうあった。「数日相望むこと極まり、須らく意思の迷ふを知るべし。夢魘[48]嶺を怕れず、飛びて大江の西に過らん。」目ざめると、歴歴としてその詩を思い出し、それを書いて笥[49]に収めていた。一月余り後に家書が来たが、かれの妻はこの詩を寄せ、一字の違いもなく、その書かれた月日があったが、球が夢みた日であった。
○金石の薬を服するもの毒せられることが多いこと
周東老[50]は、退之は道釈を痛斥したために流罪にされたと言ったことがあったが、潮州では大顛[51]に目通りしている。その後、孟簡[52]に書信を与え、深くみずから釈教を弁じたが[53]、最後まで隠すことができなかった[54]。さらに人で金石薬を服したものは、毒せられて病死するものが多く、かならず世の戒めとなろうと言うことを好んでいる[55]。しかし楽天の詩にこうある。「退之硫黄を服し、一たび病みて訖に痊えず。」[56]と。だとすれば退之も晩年は金石を服して病死を招いたことが分かる。だから、立言垂教したのは良いが、それを恪守したものということはできないのである。
最終更新日:2018年1月4日
[2]https://baike.baidu.com/item/%E6%B1%9F%E5%B7%A6/13482520江左は、地理名詞で、江東のことである。おおよその範囲は今の蘇南、皖南、浙北、赣東北。[
[10]https://baike.baidu.com/item/%E5%9B%9B%E9%9F%B5「四韻詩」ともいう。四韻八句によって構成された詩、近体詩中の五言、七言律詩。
[11]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=975976&searchu=%E8%A7%80%E5%B7%9E%E3%80%82%E5%A4%A7%E8%A7%80%E5%85%83%E5%B9%B4
[12]まったく未詳。
[14]http://www.zdic.net/c/1/37/86110.htm罪によって他鄉に流された人。
[15]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E9%99%B3%E8%B2%AB
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=975976&searchu=%E9%99%88%E8%B4%AF
[16]省副使。
[19]https://baike.baidu.com/item/%E6%9D%83%E5%B9%B8権勢があって帝王の寵愛を得ている奸佞な人。
[20]https://baike.baidu.com/item/%E5%A3%B0%E5%96%8F唱喏。下僚が上級に進見する時、拱手して揖しながら、声を出し敬意を示すこと。
[21]原文「每聲喏使[竹告辵]往往佯為欠伸不敢當其禮。」。「使[竹告辵]」がまったく未詳。
[22]原文「不敢當其禮」。未詳。http://www.zdic.net/z/19/js/5F53.htm
[27]未詳だが、ひそかに巡邏するものであろう。
[28]この部分未詳。自宅に妓女を呼ぶと罰せられるのか。
[32]http://www.zdic.net/z/20/xs/7B26.htm下僚に命令あるいは通知を発すること。ここでは符文(勅命文書公文)のことであろう。
[33]未詳だが鐘の吊り下げる部分のことであろう。
[34]原文「鐘鼻瀉作龍形」。「瀉」が未詳。鋳型に溶けた金属を注ぎ込むことを言うか。
[35]原文同じ。こうした言葉なし。未詳。「蛟螭」の誤りか。「蠋」は蛾のことなので意味を成さない。
[38]https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%AA%E4%B8%8A%E8%80%81%E5%90%9B/53988?fromtitle=%E6%B7%B7%E5%85%83%E7%9A%87%E5%B8%9D&fromid=20607257
[39]老子・屈原・司馬遷をさしがねやコンパスに喩え、最高の模範としたものであろう。
[50]未詳。
[53]韓愈『與孟尚書書』に「有人傳愈近少信奉釋氏、此傳之者妄也。」とあり、自分がすこし仏教を信じているという人がいるが、間違いであると弁明している。
[54]大顛と親しくしていることを。
[55]『故太學博士李君墓志銘』「今直取目見親與之游而以藥敗者六七公,以為世誡」などを念頭においているか。