続墨客揮犀
巻一
○母子妻三人が同時に亡くなること
劉潜は淄州[1]の職官で、鄆州平陰県[2]の事務を代理していた。ある日、賓客と県の駅亭で宴していると、突然太夫人が急に病んだことが知らされた。潜は馳せ戻ったが、すでに助からなかった。潜はたいへん悲しみ、母を抱き、慟哭して絶命した。潜の妻も潜の屍を撫でて死んだ。当時の人はそれを悲しみ、さらにそれを称えて言った。「潜が死んだのは、子が孝のために死んだのだ。潜の妻が死んだのは、義のために死んだのだ。孝と義が一つの家に集まっている。
○石曼卿[3]が酒豪であること
石曼卿は酒豪であり、布衣の劉潜と友人であった。海州の通判であった時、劉潜が来訪したので、曼卿はともに劇飲した。夜中に酒が尽きようとしたが、舟の中に酢が一斗余りあったので、酒の中に傾けていっしょに飲んだ。夜が明けると酒と酢がどちらも尽きた。客と痛飲するたびに、髪を露わにし、裸足で枷を着けて坐し、それを囚飲といい、梢で飲むのを巣飲といい、藁でかれを束ねて首を伸ばして出して飲み、ふたたび束に入ったが、それを鱉飲といい、その狂縦さはおおむねこのようなものであった。役所の裏は庵で、しばしばそこを訪れ、それを「捫虱庵」と名づけ、一日も酔わなかったことはなかった。仁宗はかれの才を惜しみ、しばしば輔臣に言い、かれが酒を戒め、寿命を延ばすことを求めた。延年はそれを聞き、飲もうとしなくなったために、病になって亡くなった。
○趙龍図[4]がよく詩句を作ること
趙龍図師民が磁州[5]を治めていた時、『春日即事』に「地に委なる露花暁に啼きて恨み、堤を払ふ煙柳春容美し。」と言ったが、まことに佳句である。公は生まれつき淳古[6]で詩筆は秀麗であり、学問があればあるほど才智があることが分かる。
○夫人の子となって報いることを願うこと
曽学士が泉州の南安県に住んでいた。住居から五里に草堂和尚というものがおり、年は九十余、戒行して孤潔[7]であり、庵から出たことがなかった。曽公と夫人がしばしば飲食衣服を持ってゆき、それらを贈ると、老僧は謝して言った。「わたしは老衰して御礼にするものがございませんので、夫人の子となって報いることを願います。」その時、夫人は孕んでいた。ある晩夢みると、老僧が幃を開いて入って来た。夫人が驚いて目ざめると、子が生まれた。すぐに人を遣り、かれのことを尋ねれば、草堂和尚はすでに坐化していた。生まれた子は公亮と名づけられ、後に宰相となり、魯公に封ぜられたという。俗に伝えるが、燕が人家に巣くい、巣の穴が内向きで[8]、長さが一尺を超えるものは吉祥である。集賢尚書張公の別荘は光化軍[9]にあり、毎年燕が邸内の母屋に巣くったが、その長さは疋練[10]を容れることができ、穴はすべて内向きであった。数年で入って[11]機密を司り、登用された[12]。
○宮闕に向かって亡くなること
真宗皇帝の時、道士柴通元というものがおり、陝州[13]承天観[14]に居た。年齢は百余歳、寒暑に耐え、日々酒をほしいままに飲み、しばしば食べなかった。汾陰[15]を祀った[16]時に帝輦に随行し、みずから羅山太一洞主と号した。臨終の時、官僚士庶を招き、死生の要訣を語り、夜分行水して宮闕に向かって亡くなった。その体を挙げればたいへん軽く、蝉の蛻のようであった。
○土饅頭
梵志[17]の詩にいう。「城外の土饅頭、稲草[18]城裏に在り。一人一個を喫す[19]、滋味没きを嫌ふ莫かれ[20]。」魯直は言った。「餡になってしまったら、どうしてさらに滋味を知ろう。」それを易えて言った。「預め先に酒を以て澆ぎ、且く滋味有るを図る。[21]」
○五色を見れば目を損なうこと
五色を見ればみな目を損なうが、黒い色は目を損なうことがない。李氏が江南にいた時、中書はみな黒の薄絹を用い屏風を表装したが、目を保養するためであった。王丞相は政府におり、やはり黒の薄絹で屏風を表装した。
○辞官して去ること
一人の武人がおり、その名を忘れたが、閑適を楽しもうと志しており、家はたいへん貧しかった。突然一首の詩を吟じて言った。「人生本より累無く、何ぞ必ずしも山を買ふ銭あらん[22]。」そして辞官して去り、今でも致仕しているが、なお健康である。
○扈興が狗を屠ることを仕事とすること
扈興は、府[23]内酸棗県[24]の市民であった。はじめ狗を屠ることを仕事とし、時たま牛豚をも屠り、さらによく調理していた。県民はかれを用いることが多く、みなかれを「扈厨」と呼んでいた。ある日、牛を買って帰り、屋後で縛り、殺そうとした。牛は興を見ると、その両前足を跪かせ、拝するかのようにした。興は言った。「おまえは死を免れようとするか。それならば、さらに拝すれば殺さない。」牛はさらに前のように拝して止まなかった。興は酒を飲んでおり、酔っていたのでかえって怒って言った。「おまえはわたしを拝して止まないが、わたしは信じない。」そして結局牛を殺し、剖いたところ、腹の中に犢がいた。興には三子がいたが、半年を越えずにみな死んだ。そこで嘆いて言った。「最初は笑って許し、途中で怒って殺し、三子はすべて夭折し、今、一身は老いて独りで、さらに貧しい。天道は遠かろうか。」扈興は今県衙で下っ端の料理人をしており、年は七十余歳である。
○妖異がすべて禍を為すとは限らないこと
鄱陽[25]の龔冕仲がみずから言うには、かれの祖父紀が族人とともに進士の試験に応じたが、唱名[26]の時、かれの家で妖怪たちが競って動いた。牝鶏が朝に鳴いたり、犬が巾幘[27]を着けて歩いたり、鼠が白昼に群れて出て来たり、器皿服用の物までが、すべてひとりでにその常の場所を変えた。家人は驚き懼れ、なすことを知らず、女巫の徐姥というものを招き、それを鎮めさせた。その時はなお寒かったので、姥とともに炉に向かって坐していたところ、一匹の猫が彼女の側に臥していたので、家人は猫を指して姥に言った。「わたしの家はあらゆる物がすべて異常です。異常でないものはこの猫だけです。」すると人のように立ち、拱手して言った。「滅相もございません。」姥はたいへん驚いて去った。数日後、合格通知が来、二子はいずれも上位合格していたので、妖異がすべて禍を為すとは限らないことが分かった。
○王弼[28]は言説に拠りどころがあること
宋子京[29]尚書が言った。「古は、牛は車を引くだけであった。『書』に『肇めて車を牽くは牛なり。』[30]という。『易』に『牛に服し馬に乗る。』[31]という。漢の趙過[32]がはじめて人に牛を用いて耕させたのである。」と。王弼[33]の『易伝』に「牛は稼穡[34]の資なり。」というが[35]、漢がはじめて牛を用いて耕したという趣意に基づいていない。その説は経書に見えないが、十哲[36]に冉耕[37]というものがおり、字は伯牛、そもそもその義を取ったのであった。古は、牛で耕すことを知らなかったのではなく、趙過は人に駆馭の方法、耒耜[38]の器具を教えることが完璧であっただけなのである。王弼の言説にはかならず拠りどころがあろう。
○草聖[39]を好んだが巧みでないこと
張丞相は草聖を好んだが巧みでなかった。当時、同輩たちはみなかれを譏笑したが、丞相は自若としていた。ある日、句を思いつき、筆を求め、疾書し、満紙に龍蛇[40]が飛動したが、かれのおいにそれを記録させた。奇怪なところに当たると、おいは惘然として手を止め、書いたものを執って尋ねた。「これは何の字でしょうか。」丞相はしばらく熟視したが、みずからも分からず、かれのおいを叱って言った。「どうしてはやく尋ねに来ない。わたしはそれを忘れてしまった。」
○臥仙と呼ぶこと
華岳[41]張超谷[42]の岩石の下に殭屍があり、歯髪はすべて揃っていた。春の遊客は酒を口の中に注ぐことが多く、「臥仙」と呼び、物好きは木榻[43]を作ってそれに献じていた。嘉祐年間、十余丈四方の石があり、上から下って岩口を塞いだが、もしや仙人の蛻を人が侮辱することを山の神が望まなかったのではないか。
○王維画『黄梅出山図』
王仲[44]はわたしの家に絵を見に来たが、きわめて王維画『黄梅出山図』を好んでいた。そもそもその描いているものは黄梅[45]、曹溪[46]の二人で、気韻神采はいずれもかれらの人柄通りであった。二人の事跡を読み、さらに絵を見れば、その人を想見することができる。
○厩の猴
耿従政は供備副使[47]として趙州を治め、厩にたいへん大きい一匹の猴を飼っていたが、三四歳児のようで、たいへん馴れていた。拘束を加えなくても、遠く去らなかった。厩に番人がおり、夜はすぐに賭博し、しばしばこの猴に松明を執らせたが、挙動は人のようで、ひたすら命令に従った。その時勝ったものを見るとすぐに手を伸ばして銭を求め、やや遅れて与えればその火を消したので、人はたいへんそれを怪しんだ。厩の裏に庭園があり、番人が園内に居た。かれの妻は一子を産み、三日にかれを沐浴させたが[48]、猴はその傍にいた。園卒は貧乏で、しばしば家に居り、畑で野菜を作っていた。ある日、家じゅうのものが菜園に水をやったが、その子の嫁は子が家にいたので、先に戻ってかれに授乳しようとしたところ、ちょうど猴が嬰児を抱いて家の前にいたので、婦は猴に子を地に置かせて外に出た。後日、外から帰ると、その子は釜の中で死んでいた。猴はしばしば子を沐浴させるのを見、人のすることを真似たのであった。そこでそれを耿知事に告げてそれを斬った。異類を飼育する時は、それに用心するべきであることを知るに足りる。
○吉貝布
閩嶺[49]以南には木棉が多く、土人は競ってそれを植え、数千株に至ることがある。その花を採って布にすると、「吉貝布」と称した。わたしは後に『南史·海南諸国伝』を読んだが、林邑などの国では、古に貝木を産出し、その花が咲く時は鵝鳥の毳のようで、その糸を抜き、それを紡いで布を作ると、紵布[50]と異ならないとあった[51]。やはり染めて五色にし、織って斑布にするが、まさにこの種である。そもそも俗に「古」を「吉」と呼んでいるだけであった。
○分夜鐘[52]
欧公の詩話で唐人の「半夜の鐘声客船に到る」の句を譏って、半夜には鐘は鳴らないと言っている[53]。その時、ある人は、人が死んだばかりの時は、かならず鐘を鳴らし、数百千回に至ることが多く、昼夜の別がなく、俗に「無常鐘」と称すると言ったので、詩人はたまたまそれを聞いただけであると思った。わたしは後に姑蘇を訪ね、ある寺に泊まり、夜半たまたま鐘声を聞いたので、寺僧に尋ねると、みな言った。「もともと分夜鐘がございます。どうして怪しむに足りましょう。」他の寺に尋ねてもすべてそうであった。そこではじめて半夜鐘は姑蘇だけにそれがあり、詩人にはほんとうに偽りがなかったことを知った。
○迂闊で怪異を好むこと
淵材[54]は迂闊で怪異を好んでいた。二羽の鶴を飼っていたことがあり、客が来ると指さしてそれを自慢して言った。「これは仙禽です。禽は卵生ですが、この禽は胎生です。」話していると、園丁が報せた。「この鶴は夜に一つの卵を産み、梨ほどの大きさでございました。」淵材は顔を赤らめ、怒鳴って言った。「鶴を謗ろうとするか。」園丁は去った。鶴はすぐに両の脛[55]を広げて地に伏した。淵材はそれを訝り、杖で驚かして起きさせると、突然一つの卵を生んだ。淵材は嘆いて言った。「鶴も修行に失敗している。わたしは劉禹錫の佳話[56]に誤られた。これからは、仏、老子、孔子の言葉を除き、ほかはすべて検証しよう。」わたしは言った。「淵材は自ら信じることにつとめているが、相鶴経[57]を読んで熟知していないだけだ。」さらに言った。「わたしが平生恨んでいるのは、五つの事だけです。」人がそのことを尋ねると、淵材は瞑目して言わず、しばらくして言った。「わたしの論は時人の耳に入りませんから、あなたたちがそれを軽視することを恐れます。」つとめてかれの説を尋ねると、答えた。「第一に鰣魚[58]に骨が多いことを恨み、第二に金橘[59]に酸が多いことを恨み、第三に蓴菜の性が冷たいことを恨み、第四に海棠に香がないことを恨み、第五に曽子固[60]が詩を作ることができないことを恨みます。」聞くものは大いに笑い、淵材は目を瞠って言った。「皆さんはほんとうにわたしの論を軽視しています。」
○張氏の園亭
范諷[61]は給事中から降格せられ、数年してはじめて済南に帰った。城西に張氏の園亭があり、数箇所から泉が湧き出し、金線[62]・真珠[63]の名があり、水木が取り囲み、歴下[64]の勝景であった。園亭の主人は張寺丞聴[65]であり、范を迎え、亭で酒宴したことがあった。范は二韻詩[66]を壁に題したことがあった。「園林再び到れば身猶健やかなり、官職全て拋ち夢乍ち醒む。惟有り南山と君の眼と、相逢ふも改めず旧時の青を。」
○絵に八景があること
度支員外郎[67]宋迪[68]は絵に巧みで、もっともよく平遠山水[69]を描き、その気に入ったものに平沙の雁落、遠浦の帆帰、山市の晴嵐、江天の暮雪、洞庭の秋月、瀟湘の夜雨、煙寺の晩鐘、漁村の落照があり、それらを「八景」といい、物好きはそれを伝えることが多かった。往年小窯村[70]の陳用之[71]は絵が上手で、迪はかれが山水を描いているのを見ると、かれに言った。「絵がほんとうにお上手ですが、天然の趣が少ないです。」用之は深くその言葉に服し、言った。「しばしばその古人に及ばないことを憂えていましたが、まさにここに原因がありました。」迪は言った。「難しいことではありません。まず一つの崩れた塀と素を手に入れるべきです。それを崩れた塀の上に掛け、朝晩それをご覧なさい。それを久しく見ますと、素を隔てて崩れた塀の土が高低曲折してすべて山水の形となりますから、目に留め心で思うのです。高いものは山、低いものは水、窪んだものは谷、欠けたものは澗、明るいものは近く、暗いものは遠くです。心で受け止めれば、そこに人禽草木が飛動往来するありさまが突然見え、目に了然とします。そうすれば心に任せて筆を使います。ひそかに心に会得すれば、おのずから画境はすべて天然となり、人為のようでなくなり、それを活筆といいます。」 用之はそれから画格が妙境に進んだ。
○香山寺の猴
郴州[72]に香山寺[73]があり、寺は山の中腹に築かれ、その景色はきわめて清雅であったが、猴たちが来ることが多く、呼べば簷楹[74]の上に並んで掛かり、厨房に入り食べものを盗み、さらにしばしば僧の緇衣を汚した。寺僧はそれを憂えたが、絶つ術がなかった。一人の客僧が言った。「わたしはかれらを来なくさせることができます。」ある日、罠で一匹の猴を捕らえると、僧は濃い墨を猴の全身に塗り、放って去らせた。猴たちはそれを見るとたいへん驚き、しばしば奔走して止まなかった。墨塗りされた猴は縛られていたものが放たれることができたので、群れに向かって走ることがたいへん急であったが、猴たちは叫んでますます逃げ、首を伸ばしてそれを眺め、まもなく深山に入って見えなくなり、それから猴はほんとうに跡を絶った。荘子が「汝太だ白ければ黒を去りて来れ。豈怪しからずや。」というのもこの類である[75]。
○通印子魚[76]
莆陽[77]の通応子魚は天下に有名である。そもそもその地には通応侯廟[78]があり、廟の前に港があり、港の魚がもっとも佳いのである。今人はかならずその大きさが印を容れることができるものを求め[79]、それを「通印子魚」といっているので、荊公にも「長魚俎上に三印を通ず。」[80]という詩があるが、これは伝聞の誤りである。
○擬古詩
『文選』に江文通[81]の擬古詩三十首があり、たとえば休上人[82]の閨情[83]に擬していう。「日暮れて碧雲合はさり、佳人殊に未だ来らず。」今人はそれを休上人の詩としている。さらに陶淵明の田園の詩に擬していう。「禾を種ゑて東皋[84]に在り、苗生じて阡陌に満つ。」今この詩も『陶淵明集』の中に収められている[85]が、すべて誤りである。
最終更新日:2018年1月4日
[8]原文「巢戶內向」。未詳。
[11]集館院に入ったのだと解す。
[12]集館尚書に登用されたのだと解す。
[14]道観名であるが未詳。
[16]汾陰に后土廟があり、ここで皇帝が祭祀を行った。「宋真宗大中祥符三年(1010年)因祭祀之需搶C庙宇、并将其按国家级祠庙改建、其庙制亦成为北宋祠庙宫观建筑的代表、方志中称其“庄严宏钜、为海内祠庙之冠”。」
[18]https://baike.baidu.com/item/%E9%A6%85%E8%8D%89饅頭の具。ここではやがて土饅頭に入ることになる生者の喩え。
[19]人が死んで土饅頭に入ることの喩え。
[20]土饅頭が味気ないなどと言わないでくれ。
[21]全体として、「生きている間に酒を飲んで、しばしおいしい思いをしておこう」という趣旨であろう。
[22]山を買う銭は必要ない。「買山銭」は隠居する山を買う金のこと。https://baike.baidu.com/item/%E4%B9%B0%E5%B1%B1%E9%92%B1
[26]http://www.zdic.net/c/1/143/314200.htm殿試の後、皇帝が名を呼んで及第した進士を召見すること。
[39]https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%A0%E6%97%AD/2549?fromtitle=%E8%8D%89%E5%9C%A3&fromid=2073574張旭。草書の名手。画像検索結果。
[40]https://baike.baidu.com/item/%E9%BE%99%E8%9B%87書法の筆勢が蜿蜒盤曲していること。
[43]https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%A8%E6%A6%BB狭く長くてやや低い木床、坐卧に供することができる。
[44]未詳。
[55]原文は「胵」。
[56]未詳
[58]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E9%B2%A5%E9%B1%BCジギョ。https://www.google.com.hk/search?q=%E9%B0%A3%E9%AD%9A&safe=strict&hl=zh-CN&gbv=2&prmd=ivns&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwj7iLDj2_LXAhUEnJQKHWOpAncQ_AUIBQ
[63]済南の「真珠泉」という泉に関しては未詳。
[65]未詳。
[70]未詳。
[74]https://baike.baidu.com/item/%E6%AA%90%E6%A5%B9屋檐の下、庁堂の前部の梁柱。
[75]『荘子』にこの句なし。訓読もそれでよいか未詳。前半部との関係も未詳。
[76]https://baike.baidu.com/item/%E9%80%9A%E5%8D%B0%E5%AD%90%E9%B1%BChttps://baike.baidu.com/item/%E9%B2%BB%E9%B1%BC/469026鯔魚の别名。ボラ。
[77]https://baike.baidu.com/item/%E8%8E%86%E7%94%B0/782470?fromtitle=%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E8%8E%86%E7%94%B0&fromid=8052275莆田県。福建省の県名。
[79]原文「今人必求其大可容印者」。未詳。
[83]いわゆる閨怨詩。具体には休上人の『怨詩行』を指していると思われる。https://baike.baidu.com/item/%E6%80%A8%E8%AF%97%E8%A1%8C/4620483
[84]http://www.zdic.net/c/c/25/58866.htm東方の田野あるいは高地。帰隠後の耕地を指す。