巻八
○小さな幽鬼が霊験を示すこと
仁和の東苑の孟二郎は織工であった。酒を嗜んで豪放で、本業に従事せず、徒手で魚を捕えるのが得意であった。ある日、池に入って浮いて来ず、探すと死んでいた。かれの郷里に小さな祠廟を建てて祈願している者がいた。村人が銀会[1]に赴こうとし、神に祈った。その後[2]、夜に二郎を夢みることができたが、二郎は言った。「昨日おまえのさいころの目は十六だけだった。おまえが祈ったため、後に十七を出すものがいたが、わたしはひそかに弾いて小さくし、そのために金を得たのだ。わたしを酔わせるべきではないか。」その人はもともと二郎と旧交があったので、はじめてかれが新しい祠に魂を寄せていることを悟り、たいへんかれに感謝し、大いに祭った。
○瀟溪女史
按ずるに白楽天には側室の小蛮・樊素がおり、人はみなかれらを知っているが、さらに瀟溪女史というものがおり、思うに白の側室であろう。女史は姓を顔氏、名は初元、字は待月といい、母が絳雪を夢みて生まれ、年が十九で楽天に嫁いだ。聡明能詩であったが、後に蛮・素に讒言されて寵愛を失った。病中に詩があって言った。「月痩せ花残はれ前に似ず、涙珠零落す枕函の辺。憐れむべきは金条脱[3]の、臂上に依然として妾に伴ひて眠る有るが為なり。」楽天は京師に召還せられ、病気のために二度と従わず、会昌六年閏七月初九日に西湖霊隠山の女真庵で亡くなった。臨終の時、言った。「白尚書はすでに海山院主となり、わたしより五か月前に亡くなりました。今招きに来ましたから、わたしはゆくべきです。」端坐して亡くなった。(楽天にはさらに妾がおり「春草」といった。)
(菊公は言った。「わが友汪子宏は、質朴温厚で義を貴び、方伯里に住んでいたが、そもそも女史の別院であった。その家はたまたま乩に女史が降り、いささかその事を述べるのに遇ったが、惜しいことにすでに埋没して千年に近い。」)
○縮地の術[4]
杭州南良里の米商人馮二郎がたまたま外出し、道で黄面の道士に遇い、迎えて言った。「あなたには病気があります。」二郎がその言葉を嫌に思い、かれを怒鳴ると、道士は笑ってかれの背を打って去った。その時、日はすでに申の刻に達していた。二郎は足を動かしてはやくゆき、たちまち塘棲鎮[5]に着いた。家からすでに六十里であったが、日はまだ暮れていなかった。橋のたもとを徘徊したが、投宿する場所がなく、土人はかれを古廟に導いて休息させ、翌日帰れた。康熙戊戌春のことであった。
○門番が仙人に遇うこと
一人の老人が人のために門番をしていたが、仕事に追われるの[6]に苦しみ、西湖に入水しようとしていたところ、一人の老人に遇い、こう言われた。「どうして急いでこちらに来られたのですか。」かれにわけを告げると、言った。「それは難しくありません。」そこでかれの掌を引き、それを摩り、言った。「この掌で病人を撫でれば、自然に癒えることができ、自活するだけでなく、生命を救うことができます。」門番は帰るとそのことを人に告げ、病人にひとまずそれを試みるように求めたところ、ほんとうに効果があった。一ヶ月足らずで、赴くものは国を傾け[7]、未明に輿を奉ってゆき、争って呼び、混乱するものが百余人であったことがあったが、勢力があるものが先にかれを得るのであった。戊戌夏の事であった。
○仙乩[8]が詩で戯れること
士人たちが受験に臨み、功名のことを仙乩に尋ねると、乩が動いて言った。「わたしは王古直[9]です。」そもそも近時の人であったので、士人たちはかれを軽んじて言った。「わたしたちは呂真人[10]が訪ねてくださることを願います。」すると乩は寂然としたので、さらに招くと、言った。「わたしは回道人[11]です。皆さまはたくさん墨汁を準備するべきです。[12]……わたしは呂洞賓でなく、もともと王古直です。」
○海塘[13]の民謡
そのかみ、海寧[14]の海塘が壊れた時、民謡に言った。「海塘が完成すれば、筋肉を断つしかない。」[15]その後、浙藩[16]の段公[17]、塩駅道憲[18]裴公[19]、杭州の司馬[20]金公受香[21]がその事を督理し、民謡の通りになった。
○冤罪事件の悪報
福建の呉位子先生鍾は、甲戌の進士[22]であった。長子淹は、字を希通といい、かれの義父施某は、貢士[23]であり、財産に富み、平生他の夢はなく、夢みるたびに臬使[24]となり、広間に坐して殺人事件を取り調べていたが、甲乙二人の囚人が案下に並び、争って止まなかったので、某は判決して刃を下したものを許して去らせた。乙は大声で叫び、言った。「公は賄賂万余を得たので、法を枉げてわたしを冤罪に陥れられるのですか。」驚いて目ざめたが、夢みるたびにかならずこのようであった。まもなく、二子を挙げたが、いずれも聡明で胆力があった。二子は幼年で、懐に抱かれている時、会うとすぐに戟手[25]して争っていた。齠齔[26]を脱すると、遇えばすぐに力を尽くして死闘して止まなかった。成長すると、ますますひどくなったので、父母はかれらのために冠礼婚礼を行い、かれらの住まいを分け、祭祀大礼でなければ会わせなかった。ある日、その弟がひそかに人に尋ねた。「人を殺すとどんな罪になりますか。」「人を殺したものは償いをします。さらに何を尋ねます。」「わたしが人を殺したら、どうなりますか。」「お宅はお金持ちですから、手を打たれれば逃れられ、傷つくことはございますまい。」そこで匕首を買い、身に帯び、隙に乗じてかれの兄を刺し、およそ二十二刃を下し、役所に知らせたので、牢獄に入れられた。かれの父は力を尽くして救おうとしたが叶わず、結局、市で磔になった。乙を生んでから死ぬまでの費用を計算すると、たまたま夢の中で得た賄賂の数に合っていた。友人陳易斎は福建に旅してみずから施某に会い、その事を聞いた。(菊公は言った。「ほんとうに、法は枉げられないものである。かれが公に世を隔てて報いたことはもっとも奇であり、そもそもかれの前生祖先の徳沢はまだ絶えていなかったのであった。暮夜の金[27]は、得てふたたび失い、死後に二子がともに祭祀したが、蕭牆に変事が起こっていずれも絶え、貪欲でありながら愚昧でないものはいない。今の不肖の吏などは、その夢がかならず多く、報いも尽きることがないのに、かえって代々人となれ、代々富を享けているのだから、どうしてわざわざ貪らないだろうか。」)
○酒を飲み夜に達すること
山陰の張二は、舟を操って生涯を終えたが、底なしの酒豪であった。城内のある紳士も酒豪で、家は美酒に富み、市場の酒はすべてここから出ているのであった。冬が終わると、かならず飲み屋に出巡して、会計した。飲み屋はかならず引き留めて飲ませ、酔えば喜び、錙銖[28]を追求しなかったので、大いに利益を得た。期日が迫るたびに、事前に気をつけ、広く酒豪のものを捜し、紳士に酒を勧めさせた。ある日、村の飲み屋にゆき、招かれて飲むと[29]、座の側に髯で幅巾[30]布袍[31]のものが斝[32]を捧げて侍していた。酒を勧められて愉快になり、夜半まで逗留すると、紳士は赤い顔になり、髯のものは明りを持ち、まめまめしくしていた。紳士ははじめて目をやり、主人に尋ねた。「客人はどんな人です。」主人が話そうとして話さないでいると、髯のものは大きな声で言った。「わたしは山陰の張二で、水夫です。」主人はたいへん恐れたが、紳士は莞爾とし、言った。「何の障りがありましょう。」みな夜明け前まで飲んで休み、翌朝ふたたび飲んだ。紳士は主人に張君を求め、飲み仲間にし、ともに載せて帰った。張二は杯中[33]で死んだ[34]。
○義僕が主人を葬ること
義僕万金は、前明の天台[35]の司馬楊公体元[36]の従僕であった。公が国変に遭うと、志を堅くして外出しなかった。その後、杭州の西泠[37]に寓したが、子と孫が亡くなっており、二つの棺は埋葬されていなかったので、万金は泣いて慈水鄭義門、黄穉登両先生に訴え、二公は躍然とし、金の義を重んじ、かれのために醵金して葬った。金が死ぬと、骨を墓の側に随葬した。生きても死んでもその主人を忘れていないと言える。墓は秦亭山[38]の麓にあり、杭台[39]の人士はみな詩を賦してかれを讃えた。
○雪松和尚
雪松は、僧号を簡和尚といい、福建の人、明の進士で、某県の知事となり、国が滅ぶと仏門に隠れ、庵室を江滸[40]に築き、「斑竹[41]園」といったが、そもそも帝子[42]が蒼梧[43]を望んだのに托しており、「龍勝庵」ともいい、手植えの松柏がまだ残っている。杭州の士人黄漢臣先生は、もともと福建籍で、浙江産まれで、かつて『斑竹園に過る』の詩があり、こうあった。「雪松廿載切に心儀し[44]、斑竹園林過客希なり。遺像隠然として仏子と成り、留題宛爾としてこれ騷詞[45]なり。湘妃涙染む空山の翠、龍樹神依る古石の枝。一塔埋め難し千年の恨、我来りて何れの処に相思を託せん。」
○死んだ女が貞烈を示すこと
本朝の安徽撫院の高諱承爵[46]は、旗員[47]で、免官した後、一人の愛娘が死に、通州の別業に殯していたが、荘を守る奴隷は彼女の副葬品が手厚いことを知っており、ひそかにそれを発いたが、女の顔貌は生きているかのようであったので、それを淫しようとしたところ、女は突然起き上がって奴隷をたいへん固く抱いた。奴隷は逃れようとしたができず、抱かれて二十五里転がり、巡員に遇い、捕らえられ、磔刑の判決を受け、七日で勅旨が下った。女は、今の東浙備兵且園高其佩[48]の妹であった。且園は指画[49]が得意で、人物、鳥獣、魚蟹はみな似ており、ほとんど元人に等しかった。
○現に蘇州にいる
こんなことを古老に聞いた。明末宏光君[50]は百官を連れ、懐宗[51]を祭り、阮大鋮は後になり、哭いて言った。「先帝を誤ったものは、東林の諸臣でございます。かれらをすべて殺さなければ、謝罪するに十分でありません。今、陳名夏[52]、徐汧[53]たちはともに北に走りました[54]。」馬士英はすぐにかれの口を掩い、言った。「でたらめを仰らないでください。徐九一は現に蘇州にいます。」聞くものは大いに笑った。
○出資を惜しみ賊に捧げること
前明の崇禎末年、李賊[55]が京師を囲んだ時、詔があり、募金したが、後父周奎[56]は一万を献納しただけであった。内官がかれに迫ると、さらに一万を増した。ひそかに後援を求めて五千を得たが、今度は二千を隠し、三千を出した。太監王之心[57]はたいへん富裕であったが、やはり一万を献じた。城が破れると、闖賊は二人の兵卒に一人の官吏を護送させ、武器を持ち、刑政府(刑部である。闖が牛金星[58]に従って改めたものである。)に護送してゆかせ、夾比[59]させた。周奎は五十二万両を追加で出し、王閹は十五万両を追加で出した。(菊叟は言った。「昔から国家の転覆は、すべて閹官、権奸に因っているが、明の閹官、権奸はもっともひどいものである。それより前の王振[60]、汪直[61]、劉瑾[62]たちは先に斬られたが、魏豎[63]、厳嵩[64]父子はその後に害をなし、それに加えて三党[65]が一斉に攻め、一敗地に塗れ、天怒民怨を齎し、流賊が四方に起こり、忠良硬骨の臣は殺されてほとんど尽き、奸諛鼠窃の輩はあまねく内外に満ちた。明の体たらくは、華扁[66]が生き返っても、すでに救えないものであったのに、わずかな募金で賊の攻撃を拒もうとしたのである。金を億兆積んでも、何の益があったろう。しかし王・周たちは、おかしなことに、国が破れ、家が滅びる際に当たっても、なお財を惜しんだ。このような時に、裘を返して芻を負い、底が破れて毛が落ちることを思わなかった[67]。金を惜しんでどうするのだろう。思うにかれは邪念を蓄え、新君だろうが旧君だろうが君主が変わるだけで、この金を擁していれば老年を楽しむことができると思っていたのだろう。闖賊の捕縛が厳しいことを恐れず、沢を竭くして漁り[68]、身は桁楊[69]に死に、千古に笑われたのは、この二子だけでないのである。伝え聞いたところ、賊が内宮に入り、捜査するとまだ金銀十七窖が残されていた。君臣戚豎[70]がともに吝嗇を病んでいるのは、惜しいことである。)
○五聖が妖となること
蘇州の上方山[71]に五聖廟があり、祭るものたちは肩を摩り合わせていた。康熙甲子に、ある士人の妻が神に淫せられ、廟にいって拝礼していると、すぐに死んだ。湯中丞斌[72]はその罪を問い、その廟を壊すことを提案した。詔を奉じ、天下の五聖廟をすべて壊した。士人は後に僧となり、雪泓といい、杭州武林門外に住んだ。(菊公は言った。「嘉禾杜司馬臻[73]の内侄某は、夢みると人がかれの魂を陝西で追い、関神祠に捕らえたが、まもなく神が出て来れば、杜公であった。驚いてかれに尋ねると、言った。「ここは流衙[74]だ。関神はもとより京師正陽門の中に鎮座している。」さらに武林城内の教場に、昔、火神廟があった[75]。ある日、廟主が夢みると、新任官が廟に来、「流官[76]が交替する」と言った。この上方山を見ると、やはり邪鬼が幻惑し、古の妖狐老蛇のようにしているのであろう。考えるに、五聖とは、まさに五顕[77]であり、仏教では『多宝如来』と称し、そもそも証道[78]顕化[79]するものなのに、かえって淫惑の事をするのか。きっとそうではあるまい。」)
○賢明な知事が節を尽くすこと
明末銭塘の知事顧公咸建[80]は、諱を漢石といい、崑山の人で、蘇州に寓し、癸未の進士で、在任して一年足らずであった。王師が来た時、屈せずに死んだが、その時は盛暑であったのに、一匹の蝿もかれの頭に集まらなかった。ある仕立屋が法を犯し、顧の傍らで梟首されると、蝿が群がった。国初順治乙酉六月十三日、蘇州を破ったのは、総督主帥李延齢の部院[81]土国宝[82]であった。
◎跋
『山斎客譚』八巻は、仁和の景先生亭北[83]が述べたものである。楊慧楼先生はその末尾に跋を書き、諸全[84]の老婦はすでに先人の説部に見えるので、今それらをすべて除いたと言っている。桑氏の『伝』が称するところに拠れば、先生は折節[85]して勉強し、杭城の東に家を築き、三十年独居し、晴雨を問わず、ほしいままに湖上の諸山を旅し、詩が出来ればひとり歌い、林木を震蕩させ、著に『菊公坳堂詩文』などの集があり、書法はきわめて山谷に似ており、どうして奇傑の士でなかろうか。
甲辰中夏、呉江の沈懋惪[86]記す
最終更新日:2021年8月10日
[1]https://baike.baidu.com/item/%E9%93%B6%E4%BC%9A銭を出し合い、その後抽籖で集めた金を誰が使用するか決定する会。
[2]銀会の後。
[12]この後に脱文があろう。
[15]原文「若要海塘成、除非賠斷觔。」。まったく未詳。
[16] 未詳だが浙江の布政使であろう。
[17]未詳。
[18]https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=99382&searchu=%E9%B9%BD%E9%A9%9B%E9%81%93 「道憲」は道台に対する尊称。
[19] 未詳。
[21]未詳。
[22]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/Template:%E5%BA%B7%E7%86%99%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B9%B4%E7%94%B2%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[25]http://www.zdic.net/c/f/2a/64324.htm手指を伸ばして相手を指しながら罵ること。
[29]原文「一日至村酤含延飲。」。「含」が未詳。衍字か。
[32]https://www.google.com.hk/search?q=%E6%96%9D&safe=strict&hl=zh-CN&gbv=2&prmd=ivns&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiBrPXI1tnZAhVGjpQKHaOlBcMQ_AUIBQhttps://baike.baidu.com/item/%E6%96%9D/222
[34]原文「張二老於杯中焉。」。未詳。
[39]杭州と天台。
[41]https://baike.baidu.com/item/%E6%96%91%E7%AB%B9/80957この竹の斑点は娥皇和女英の涙の痕とされている。
[44]http://www.zdic.net/c/3/13c/302249.htm内心非常に敬服仰慕すること。
[49]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E6%8C%87%E7%94%BB_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%94%BB)指頭画、指墨ともいい、手の指を用いて描く中国画。
[54]清朝に付きました。
[59]原文同じ。未詳。
[65]https://baike.baidu.com/item/%E6%98%8E%E6%9C%AB%E5%85%9A%E4%BA%89斉、楚、浙三党。https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E9%BD%90%E6%A5%9A%E6%B5%99%E5%85%9A
[67]原文「乃爾不思反裘負芻底敝毛落」。「反裘負芻」は芻を担ぐ際、着ている毛皮の毛が抜けるのを惜しんで毛皮を裏返して着た結果、裏地を傷めて毛が抜けてしまうこと。大局を見ずに姑息なことをして害を受けることの喩え。
[68]https://baike.baidu.com/item/%E7%AB%AD%E6%B3%BD%E8%80%8C%E6%B8%94池の水を抜き、池の魚を捉え尽くすこと。視野が狭く、目先の利益だけを考え、長期の計画を顧みないことの比喻。
[74]原文同じ。未詳だが、「出張所」のようなものであろう。
[76]https://baike.baidu.com/item/%E6%B5%81%E5%AE%98明清時代、四川、雲南、広西等の省の少数民族地区に置かれた地方官。一定の任期があり、世襲の土官に対していう。
[85]http://www.zdic.net/c/8/87/148044.htm己を曲げて賢に礼すること。