巻五

 

○雷が不孝者を撃つこと

 

方山[1]に、人に雇われている農民がおり、豆と麦を持ち帰るたびに、かれの母を嫌っていたため、ひそかにそれらをおじに与えていた。ある日、母が親戚のもとから帰って来たのを伺い、道で待ちうけ、古塚の松に縛り、利刃で母の腹を裂き、その胃腸を断ち、林の中に散らして掛け、逃げた。県令が厳しく巡回させても捕縛できなかったが、一か月近くして、雷神が揚州からその子を捕えて帰って来、撃ち殺し、すぐにその屍を母を縛った松の枝で、背中まで貫いた。脇に焦げた字があり、「揚州」とあったという。

 

○母が姦淫して子を殺すこと

 

方山の民で、他郷で商いしているものがおり、かれの妻は他の男と姦通していた。一子は九歳であったが、夜中に目ざめると、突然肩の傍らに片足があったので、かれの母に尋ねた。「父さんが帰って来ましたか。」母親はかれを嫌に思い、さらに戒めて言った。「わたしの事を漏らせば、切り肉にしてやろう。」その子は朝に学校に入ると、午になっても食事しに帰ろうとせず、日暮れになってもそうであった。かれの先生が詰問したので、母の戒めを述べたが、先生はむりにかれを送り、門に着くと帰った。翌日、その子は学校にゆかなかったので、かれを呼ぶと、かれの母は言った。「昨日、息子は帰りませんでしたので、先生に息子のことをお尋ねしようとしておりました。どうしてながらく隠されているのでしょう。」先生はそのわけを悟り、子供の言葉を人々に述べ、彼女を県に訴えた。知事は信ぜず、先生に子を出すように促した。先生は帰ると、生徒たちを連れ、母親の楼に登らせ、息子をくまなく探させたが、見つからず、楼を下ろうとし、数段を踏むと、二つの甕が母親の寝台の下にあるのが見え、血腥ささが人に迫っていた。それを取って見れば、子はほんとうにその中で切り肉にされていた。事はそこで明らかになった。彼女の情夫は杭州の護国院[2]に逃げて僧となっていたが、かれをも捕らえ、処刑した。康熙乙未の事であった。

 

○妓女で父を騙すこと

 

呉興のある村の老翁は、たいへん裕福で、千金の絲があったので、その子に、金陵にいってそれを売るように命じた。かれの子はある妓女を慕い、久しく帰らなかったが、翁はそれを探知し、金陵にゆき、妓館を訪ねた。妓家は言った。「たしかにいらっしゃいます。先ほど外に出てゆかれましたから、すこし待たれれば宜しいでしょう。」翁は晩まで待ったが、子は帰らなかったので、彼女の家は粗食をかれに食べさせ、かれを外室[3]に泊まらせた。翌日になっても、子は帰らなかった。三日目が暮れようとする頃、一人の老婆が出て来て言った。「ながらく待たれていますが、ひたすらじっとして苦しまれることはございません、入って花を一見されてはいかがでしょうか。」翁は欣然としてそれに従い、中庭に入ってゆき、目を挙げれば、湘簾[4]翠幌[5]、清池小山、花木が朱欄曲楹[6]の間を蔽っており、座上の金猊[7]は嫋嫋としていた。一人の若いが艶やかな装いで進み出て拝礼し、幽室に引き込み、かれに金尊を進め、珍味で持て成した。翁はおもわず陶然とし、杯を傾けて酔い、すぐに彼女と親しんだ。巫山の夢が醒めれば、紅い日が簾に射していたので、起き上がり、すぐに飲食を摂った。その子はすでに来ており、父子は会うと、黙って一言もなかった。食事が終わると、その子は帰ることを求めた。翁はしばらくして言った。「おまえは先に帰ってはどうか。わたしはすこし借金を取り立て終えたら、すぐに帰ろう。」翁はそこでひとり妓館に一月留まり、資金はすっかり尽き、単身で帰った。

 

○蒙古では淫婦を斬ること

 

康熙甲寅、耿逆[8]が造反すると、浙東の群盗が至る所に蟻集したので、天兵が南征し、凱旋した。一人の蒙古の援兵が銭江の民家に寄寓し、諸全[9]のある婦人を掠奪し、彼女をたいへん寵愛していた。彼女の夫はながらく物色してはじめて彼女を見つけ、兵にねんごろに哀願し、兵はたいへんかれを憐れみ、通常価格でかれが贖うことを許し、婦人を帰らせようとしたが、婦人は従わず、さらに深く隠れた。兵はひどく怒り、代金を擲って夫に返し、夫は仕方なく慟哭して去った。婦人はさらに奥から夫を罵ったので、兵は婦人を呼んで言った。「わたしに従って知人の家に旅してはどうか。ひとまずおまえの夫がふたたび来るのを避けるとしよう。」婦人は欣然としてかれに従い、ある山に登り、くねくねと深い処に入った。その地はたいへん荒涼寂然としていたが、兵は剣を抜くと、彼女を責めた。「不義の女め、元の夫を棄ててどうしてながくわたしに安んじることができよう。」そして彼女を殺し、その屍を(たにがわ)に棄てて帰った。(菊老は言った。「わたしは『輟耕録』をたことがあったが、載せるには、河南の婦人が元兵に捕えられ、その夫と姑が探して彼女を見つけたが、彼女はかれらを途人[10]のように見なしたので、やはり号泣して去ったが、まもなく撃ち殺されたとある[11]。事はほぼ同じである。そもそも上天は公正であり、すぐに淫婦を処罰したのであり、驚くことはないのである。しかし兵というものは、おおむね財を貪り、色を好むことを尚ぶ。かれは何者か。毅然として不満の(きっさき)を揮うとは。亘古まれに見るものである。兵よ。兵よ。かれも烈性のある奇士なのか。」

 

○木蘭店の壁の詩

 

陳千頃は、漢児[12]であった。後に浙東の遂昌、福建の尤詔二県に仕え、任地で亡くなった。以前、河南の木蘭店を訪ねたところ、壁に一首の絶句があり、こうあった。「(かぜ)(りう)(えふ)()遠山(ゑんざん)(ひそ)み、()(えん)()びて(のこ)樹底(じゆてい)(はる)()しむべし海棠(かいだう)零落(れいらく)して()くるを、眼前(がんぜん)(たれ)かこれ(はな)()(ひと)ならん。」きわめて淒であるのを覚えた。

 

○義棠橋の店の壁の詩

 

千頃がさらに山右霊石県義棠橋[13]を経たところ、店の壁に陝西の女が一絶を題しており、こうあった。「霧鬢風鬟(むびんふうくわん)暁装(げうさう)(みだ)れ、孤星淡(こせいたん)月影(げつかげ)(かす)かに(ばう)たり。(みづか)(あは)れむ薄命(はくめい)秋草(しうさう)(おな)じきを、戎馬鞍頭海棠(じゆうばあんとうかいだう)(つか)る。」思うに武夫の側室であろう。

 

○溺水鬼(二則)

 

ある僧が万安橋[14]の西の関帝廟の神祠に籠っていると、夜に二人の幽鬼が語るのが聞こえた。甲は乙に言った。「あなたはゆくゆく身替わりを得られるので、喜ばしいです。」乙は言った。「明日、豚の胃腸を洗うものが身替わりになるはずですが、かれを招くすべがありません。どうしましょう。」甲は言った。「それは容易いことです。一尾の魚がかれの腸を銜えて下に沈めば、その人はきっと身を引っ掛けて腸を取ろうとしますから、招くことができましょう。」乙は言った。「それは良い。」僧が翌日それを伺うと、ほんとうに一人の男が豚の腸を持って来たので、事情を述べたところ、死なずに済んだ。

 

武林門外天妃宮の道士が、夜に幽鬼が語るのを聞いた。「明朝鶏を持つものがいれば身代わりになれる。」翌日、ほんとうに鶏を持つ人が、曳かれるかのようにして、入水しようとした。道士がすぐにかれを挽くと正気に返り、かれの住まいを尋ねれば、たいへん遠く、どうしてここに来たか尋ねれば、その人も分からなかった。その水ではしばしば人が溺れ、龍虎山[15]の張真人[16]は京師に向かう時、つねにここに留まっていたので、道士が隙に乗じてかれに教えを請うたところ、一本の竿を宮の前に立てるように命じ、患いをなくすことができるとした。その指示の通りにしたところ、後にほんとうに溺れる者はいなくなった。

 

○貞女孫秀

 

孫秀は、杭州の人楊文龍の待年婦[17]であった。年は十四で、まだ結婚していなかった。夏に室内で浴していたところ、隣家の悪い若者呉起龍が(おばしま)の下から手を入れ、彼女の足を持ったので[18]、秀は怒ってかれを罵った。呉には親しくしている厳[19]というものがおり、北方人で、一方の巨魁であったが、悪い若者を集め、仲間にし、悪事をほしいままにしていた。村人はかれの悪徳のため、「厳太師」[20]と称していた。その日、呉のために、秀の姑に面会し、事を解決し、さらに一杯の茶を持ち、秀に送り、呉の罪を請うたが(土俗で、茶を送って罪を請うのは、罪情の軽いものである。)顔色に傲慢なところがあった[21]。秀は恥じ、すぐに杯を擲ち、かれを怒り罵った。厳も大声で罵り、呉とともにひどく辱めた。秀の姑は、愚かな老婆で、平生厳の権勢を恐れており、奇禍を得て子に累することを心配してもいたので、やはり大声で彼女を罵った。秀は内からつぎつぎに責められ、生きる気力がなくなったので、一杯の(にがり)を服して死んだ。全身上下の衣はすべて針を手にしてしっかりと隙間なく縫い、盛暑に屍を留め、夜を経て官[22]を待ったが、まったく臭気がなく、隣人たちは不平で、群県に向かって騒ぎ(山東の黄在中[23]が知事であった)。厳は法を逃れそうになった。大中丞[24]張公(諱は敏)は実情を調査し、特別に言及してかれを斬ろうとしたが、呉はさいわい先に獄で殺されていたという。(厳は字を自節といった。)

 

○斎食を設け鶴を招くこと

 

山東の顔君召武は、孝廉であった。八子を生み、一人は朝廷で侍衛となった。顔が亡くなり、家人が斎食を設けると、鶴十九羽が庭を旋回し、一羽の鶴が翔んで庭に集まり[25]、しばらくしてはじめて羽ばたいた。

 

○海怪

 

康熙乙酉七月既望、浙江の赭山[26](もののけ)がいたが、姿は婦人のようで、白い体、黒い(あや)に、色彩[27]が雑じっており、顔は白く、唇は朱く、一縷も着ておらず、崖に箕踞し、人を見れば大いに笑い、舟でゆくものたちはみなそれを仰ぎ見ていた。聞いたものは驚き、おおむね舟に棹さして見にいった。数日を経ると、見るものに言った。「二十一日待ったら、おまえたちは深みに入るだろう。」そう言うと涛に沈んだ。その時、颶風が盛んに起こっており、霖雨は止まず、海辺の民は占いしてすでに押し流されることを心配していたので、その言葉を聞くと、おおむね遠く避けた。期日になると、数丈の大波が潮に従って来、それぞれ海に臨む諸地がすべて押し流され、災変はたいへん異常であった。赭山の民はさいわい先に気づいていたが、滷地[28]を守っていた二百余人で生きられたものは一人もいなかったという。(菊老は言った。「以前、内典[29]を読んだところ、観世音菩薩はつねに種種の身を現して説法し、ある時は変相して衆生を済度できるとのことであった。赭山の婦人は、普門[30]の現身である。」)

 

○資産を狙い毒殺すること

 

銭塘安溪[31]の張甲は資金を持ち、豚を商っていた。かれの隣人の李乙は心の中でそれを狙っており、出発に臨み、杭省[32]に親戚を訪ねると偽り、舟に付いてゆき、武林にゆき、甲が財貨を袋に収めているのを見ると、ひそかに薬屋で砒素を買い、それを隠した。翌日、ェ焦[33]を作り、毒をその中に入れた。甲がそれを食べて死ぬと、乙は金を懐にして馳せ帰った。虚舟は漂い、波の上に泛泛としていた。汛[34]を守っている兵士がそれを見、汛所に泊めると、一体の屍が中に横たわっていたので、乞食に相談し、言った。「屍を運び、掩い隠すことができれば、舟を売ってその代金を分けよう。」乞食は喜び、屍を背負い、漏沢[35]の古い棺の中に置いたが、兵士が前約に背いたので、乞食は官署に訴えた。乙が帰った時、甲の妻が甲の所在を尋ねたが、乙は偽って親戚を訪ねるために別れたと答えた。妻は信じず、やはり官署に訴えた。その日、案牘を抱えて乞食とともに来[36]、一回取り調べると事情が知れ、それぞれその罪に服した。康熙庚寅の事であった。

 

○屍を借りて蘇ること

 

康熙丙申六月、杭州の北良里癸巷[37]の民陳氏の下女は蘭花といい、夫と結婚して五年であった。その時になって病死したが、夜を経て蘇生し、言った。「どうしてこちらにいるのでしょう。あなたの家は何という姓でしょう。」彼女に尋ねたところ、孩児巷[38]の士人の家の閨秀で、その時やはり病死していた。冥土では彼女を蘭花の連れ合いと夫婦としたが、この世で貴賎が釣り合わないことを心配していた。しかし蘭も死ぬことになっていたので、屍を借りて蘇らせ、冥数[39]に合わせたのであった。女の姻戚はその事を聞き、訪ねて会い、逐一その家に事情を告げたところ、宿縁と思い[40]、異常とも思わず、夫婦となった。

 

○乞食が国のために死ぬこと

 

崇禎に国が滅んだ時、乞食が水に入って死に、『絶命詩』一絶を橋柱に題し、言った。「三百年来士(さんびやくねんらいし)(やしな)(てう)如何(いかん)文武(ぶんぶ)尽く(ことごと)皆逃(みなのが)るる。(かう)(じやう)(とど)まりて()田院(でんいん)()り、(きつばう)(そん)するを()(いのち)一条(いちでう)。」(菊叟は言った。「賢いなあ乞食は。ほんとうに道学先生である。一人の乞食が溺れて朝紳はすっかり面子を失った。」)

 

○一門が殉節すること

 

前明の天啓年間、蘇州の人張振徳は推薦せられ、巴蜀の知事に任ぜられたが、藍寇[41]が起こり、一家二十一人が同時に殉難した。唐の潭州[42]の李芾[43]と同じであった。さらに明末、左中允[44]劉理順[45]一門と婢僕十八人が同時に殉節した。

 

○結婚していないのに節を守ること(二則)

 

康熙戊申、和州の烈女陳冬青は、黄彝鉉と婚約したが、鉉は亡くなった。女は年が十九で、夫の家を訪ね、節を守って自尽した。古呉[46]下堡[47]の貞女顧氏は、張可久と婚約していたが、張が亡くなった。年は十七であったが、操を立てて張に嫁ぎ、さらに四十四年節を守り、亡くなった。その後、蘇州の蘇駿公の嫁[48]、松陵[49]の黄昊若の娘、宋珽臣の嫁、庠生顧宣三の長女らは、いずれも年が二十歳前であったが、嫁いで寡婦となり、夫の家で節を守った。

 

康熙癸亥甲子の年、わが杭州の王醤園[50]の娘の夫が病み、志を立てて夫の家に嫁ぎ、夫が亡くなると、一生節を守った。周彝遠の嫁も、夫が死んだため、周家で節を守り、一生素服した。李白山の姉は、結婚していなかったのに節を守った。これらはいずれも天地の正気であり、男子とし、簪紱[51]を貸し、朝廷に列ねたいものである。その気が、男子に集まらず、巾幗となることが多いのは、時世がそうさせているのであろうか。

 

○難を救い紀[52]を延ばすこと

 

仁和の丁簫頭は、細人(スパイ)で、江干[53]に住んでいた。康熙甲寅の閩変[54]の時、王師が進剿したが、みな江干の民家に駐屯し、賊が平定されると、俘虜をすべて連れ帰った。丁氏の兵は、龍旗御営[55]の兵士で、金華の民間の婦人を捕らえた。彼女の夫は追って来、釈放を求めたが叶わなかった。夫は路で叫び、妻は楼で哭いた。簫頭は感奮し、言った。「わたしは平生貯蓄に励み、銀二十両を得、それを二子に授けようとしているが、それに値しないのであれば、ただ遺していても益がなく、この婦人を贖って破鏡を合わせた方がよかろう。」兵はその家に寄宿していたので、難色はなく、妻は帰ることができた。後に簫頭はにわかに死んでふたたび甦り、言った。「わたしは命が絶えた時、もともと瓜山の者なので、かの地の土神に捕らえてゆかれた。今こちらの土神[56]甘王[57]がそれを知り、瓜山の神と争って言った。『その人は善行し、義として夫婦を全うしたから、すでに城隍神とともに帝に奏し、寿命を一紀延ばすことを許されている。どうして勝手に捕らえることができよう。』そのため釈放されて帰ったのだ。」簫頭は結局生きられた。

 

○冥吏が誤って捕まえること

 

范珂は、老いて病んで死に、冥土にいったが、吏に会うと、吏は言った。「捕まえ間違った。捕まえるのは若者で、老人でない。」下役たちを責め、すぐにかれを送り返させることにしたが、帰途(ほしいい)が乏しかったので、貸して帰らせた。門に着くと、守り神が入らせなかったので、径路を探し、曲がった煙突を見つけたが、形勢が高くて攀じのぼることができなかったが、二鬼は肩に梯を乗せたので、珂はそれによって入った。見ると屍が床にあったが、合わさることができなかった。その後、一匹の獰猛な鬼卒がかれの背を打ったので、甦った。

 

○鼠が敬い畏れることを知っていること

 

ある善士[58]が『感応篇』、『梓童帝君』、『戒士子文』および『造命功過格』報応の諸文の世を戒めるものを集め、『行命篇』といった。わたしの家の一冊は、たまたま諸書と合わせて笥の中に収めてあり、そもそも長い年を経ていた。ある日、笥を開くと、諸書は鼠に裂かれて蝶のようになっており、一版も完全なものがなかったが、の一冊だけが完全であったので、それを取って見ると、『行命篇』であった。いみじきことである。もしや鼠はそれが世に効果のあることを知って犯そうとしなかったのか。それとも貧家のぼろぼろの笥を神が守ってそうであったのか。ああ。わたしは鼠に恥じる。鼠さえ慎みを知っていたのに、わたしがながらく冷淡に扱っていたのは、ほんとうに鼠に恥じることがある。

 

○事が巧みで冤罪を受けること

 

杭州に、人のために仕事代行するものがおり[59]、銀千両を運ぶのに、二つの酒甕を作り、蘇州から、舟を呼び、南潯[60]にいった。狙われるのを防ぐためであった。到着すると、牙家[61]の主人が言った。「こちらでもまだ盗賊をご心配なさっていますか。開封してわたしに贈られてはいかがでしょう。」甕を開けると、すべて磚石であった。それより前、舟が八尺[62]を過ぎた時、風が激しく、舟は軽かったので、水夫は磚石を用いて舟を安定させていた。翌朝、草[63]が舟を掠めて過ぎると、水夫は叫んでいた。「王伯伯(おじさん)、衣服の袋がありますから、家に届けては下さいませんか。」そこで、仕事代行するものは、それら二つのことを捉えて盗賊だと証言した。水夫は百の口があっても弁明できず、官署に訴えられ、全身の桁楊[64]は耐えられなかった。半年近く、水夫は日々神に祈り、冤罪だ、物を預けて疑われた、出したものはないとした[65]。臘除[66]に歳が改まると、事件は次第になおざりにされた。荷主は訝り、事件を所管する吏に尋ねると、吏は言った。「おまえの仕事代行人が命じたことだ。」荷主は仕事代行するものも官署に訴え、盗みははじめて明らかになった。そもそも仕事代行するものは牙家の富を羨み、かれを騙してかれの金を漁ろうとしたが、南潯の牙家がさいわいに逃れたので、水夫が石を取り、衣を預けた巧合によって禍を避けたのであった。人心の陰険さが測り知れないことはこのようなものである。

 

○禰衡が土神であること

 

わが杭州の仁和の北に瓜山土地祠があり、俗に恐妻家に戯れて「瓜山の土神−夫人が主人となっている」[67]という。わが友盧書蒼はその祠を通り、碑を見、はじめて漢で曹を罵った禰衡であることを知った。

 

最終更新日:2018328

山齋客譚

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[1]未詳。

[3]こちらに適当な語釈なし。原文同じ。未詳。離れのような部屋か。

[4]https://baike.baidu.com/item/%E6%B9%98%E5%B8%98湘簾、湘妃竹で作った簾。

[6]「曲楹」は未詳。曲がった柱か。http://www.zdic.net/z/1c/js/6979.htm

[10]https://baike.baidu.com/item/%E9%80%94%E4%BA%BA路上の行人あるいは見ず知らずの人。

[12]https://baike.baidu.com/item/%E6%B1%89%E5%84%BF漢人。なぜわざわざそう断るのかが未詳。

[17]http://cd.hwxnet.com/view/aflpnifbliapgjnm.html夫の家にゆき成婚を待つ女子。

[18]原文「鄰有惡少起龍探手檻下持其足」。どういう状況なのか想像が付かない。

[19]https://baike.baidu.com/item/%E5%A5%A4%E5%AD%90南方人が北方の口音を操る人を称する。

[21]原文「而面有調色不恭」。未詳。

[22]原文同じ。未詳。官吏の立会いの下で納棺することか。

[25]原文「一鶴翔集庭中」。「一鶴」が「集まる」というのが未詳。

[32]原文同じ。未詳だが杭州のことであろう。

[34]http://www.zdic.net/z/1c/xs/6C5B.htm汛地。明、清時軍隊が駐防する場所。

[36]主語は官員なのであろう。

[37]原文同じ。未詳。

[39]https://baike.baidu.com/item/%E5%86%A5%E6%95%B0上天が定めた気数あるいは命運。

[40]男の家では。

[41]原文同じ。まったく未詳。

[46]蘇州。

[47]ここか。

[51]https://baike.baidu.com/item/%E7%B0%AA%E7%BB%82/4738821冠簪と纓帯。官の服顕貴、仕宦をもえる。

[54]耿精忠 が康煕十三年に福建で挙兵したこと。

[55]御営は帝王が征あるいは出巡する駐蹕する営帳。「龍旗御営」は未詳。

[59]原文「杭州有為人代庖者」。「代庖」は、本来調理の代行、転じて仕事の代行。

[62]地名と思われるが未詳。

[63]原文同じ。未詳だが、草を積んだ小船であろう。

[65]「酒甕から出したものはない。」という趣旨に解す。

[66]原文同じ。未詳。

[67]これは歇後語。

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