巻三
○乩仙[1](四則)
康熙初年、銭塘の王氏で一子がいなくなったので、家に乩壇を設けて尋ねると、言った。「綵輿[2]を見て東に走っただけだ。まもなく輿夫が連れ帰り、百文を備えて労えば良い。」末尾にさらに「柳道人」と大書していた。その後、ほんとうにそうであった。その時わたしはみずからそれを見た。
昔、許旌陽真君[3]が飛昇し、遺讖[4]にこうあった。「わたしは飛昇した後、千二百四十年間で、弟子八百人を得るが、すべて地仙[5]となるはずだ。いわゆる龍沙聚会[6]は、庚申の年だ。」しかし今でもその人の姓名を予測することはできていない。語谿[7]の黄九煙先生、諱は周星[8]は、前明の進士で、資性は忠介、穎悟絶倫で、仕えて曹郎[9]となったが、甲申[10]の後、すぐに門を閉ざして書を著した。詩を作れば悲憤の声が多かった。さらに世が乱れると、篇章[11]はつねに掠奪によって失われた。晩年の著に『薇咢集』があり、世に行われている。康熙辛酉、足を滑らせ、水に落ちて亡くなったが、ある人が言った。「痛飲して酔い、みずから沈んだのだ。」それより前、苕溪の陸芳辰が庚戌年に乩を招き、「八百地仙の名」を尋ねたことがあった。乩はすぐに七百九十八名を書いたが、すべて散漫乱雑で華麗でなかったので、ふたたび仙筆に文句を作ることを求めると、かれに一首の絶句を示した。「八伯功成り其の由を尋ぬ、周天[12]の星宿誠に求むべし。九州の煙水人の識る無く、庸庸たる一世流に比せず。」末尾に「其の由を尋ねて可なり」と書いてあった。そもそも詩の中にすでに黄公の姓名を含んでいたのであった。陸ははじめ気づかなかったが、甲寅の冬となり、公と同舟し、話した時に、たまたま公にその事を述べた。公は詩を見ると、笑って言った。「それは仙君がわたしに編緝作文させようとしているのだ。ともに『周』『星』『九』『煙』から成り立っているなら、わたしでなくて誰なのだ。」公はそこで仙人の名を取り、集めて七言長歌一章としたが、文義は巧妙で、興嗣[13]の『千字文』に劣らないのであった。文辞は長いので録さない。数字からすると八百のうち二名が欠けているのは、乩の言うところに拠れば「王、趙両君[14]はすでに仙籍に登った」ので、そういうということであった。
海陽の呉井は、字は研田、別号は蕉圃といい、嘉禾の双谿[15]に寓居し、黄九煙の女婿であり、脱俗して出仕せず、清介で古の廉士の風格があった。井には族兄呉聡がおり、字は次謀、性質も清謹[16]で、能詩であったが、はやくに亡くなった。康熙戊辰、井は江右に客となり、農家に泊まった。おりしも隣家に乩を招いているものがおり、井もそのことをかれに尋ねたところ、乩は突然こう書いた。「わたしの弟はこちらを旅しているか。」それに尋ねた。「どなたでしょう。」「おまえの兄の聡だ。おまえと兄弟と称していた。今は仙俗を隔てているが、ふたたびおまえと遇い、どうして情がないことができよう。おまえは詩人だから、唐人劉得仁の『詩人中もっとも屈す』の句[17]に感じたので、その趣意を用い、述べておまえに贈ろう。」まもなく乩は飛ぶように動き、五言の近体一章を得た。さらにかれの止まっているところを尋ねると、言った。「しばしば雲気に乗り、江山風月の間を翱翔しているだけだ。」その詩に言った。「詩人中もっとも屈し、蕉圃研田[18]に耕す。独り具ふ蕭閑[19]の格、慚づる無し月旦の評。交はり疏にして解佩[20]多く、釜冷たければ便ち餐英[21]す。才美しくして時命を哀しみ、荘騷[22]其だ不平なり。」(菊公は言った。「詩人で仙人になれなかったものはいないが、そもそもかれらが生まれた時に塵俗の気が清められ尽くしているからである[23]。」)
康熙辛酉、孝廉沈五㮚が試験の前に問題を乩仙で占ったところ、「司馬牛仁を問ふ」[24]全章が示され、試験になると、ほんとうにそうであった。主試は翰林の湯斌[25]であった。知ってかれに尋ねると、沈は正直に乩を示したので、驚いて異常なことだと思った。そもそも出題する時、もともと「点、爾は何如」を選んだが、その後心が動き、この問題に変えたのであった。
○偽乩
浙東のある幕僚は平素から仙道[26]を好んでいたので、方士が偽って呂仙の乩語を作ってかれを弄び、翌年の中秋に霊鷲洞で会って長生の薬を授けることを期した。幕僚は心のなかで喜び、期日になると斎沐して来た。方士はあらかじめ一人の古樸な風貌のものを飾り立て、洞窟の奥に隠し、話をしないように戒めた。幕僚は方士とともにゆき、着くと、方士を外に止め、ひとりで入ってくまなく探し、はじめて一人の叟に遇ったが、臒顔[27]鶴髪で、岩石の上に危坐し、幕僚を見ると麈柄[28]を執って笑った。幕僚は尋常の出遇いでないと思い、舂くかのように稽顙し、泣いて昨年の約束を述べ、金丹を求めた。道士が何かを地に擲つと、幕僚は膝行してそれを取り、明るみで見ると、青い蓮の葉の包みであった。包みを開くと、一つの丹が炎然としていた。幕僚はふたたび泣いて尋ねた。「愚妻愚息はながらくともに修行しておりますので[29]、愚蒙を忘れず、ともに救済を賜うことを願います。」道士は首を振ったが、幕僚はなおも哀願して止まなかった。すると道士はふたたび一粒を擲ち、幕僚が拝礼し、頭を挙げるとすでに所在を失っていた。そこで喜びは限りなく、たくさん金銭を出し、方士に託し、楼閣を建て、仙霊を祭り、あわせて手厚く方士に贈りものにしたので、方士は大いに得るものがあった。その後、古樸な風貌のものは賞が軽かったので、そのことを人に漏らした。人は尋ねた。「懐にしていたのはどんな薬だ。」「肥児丸[30]です。」
○人異(五則)
仁和東街のある糸紡ぎ女は三足で、一本足が左脛に付いており、やや細かった。艮山門外焦家橋の一児は、六歳ばかりで、火筒[31]を吹き、簫の音を作ることができた。康熙辛酉のことであった。
山陰の塩担ぎ女にかつて鬚を生やしたものがおり、ある女は頬じゅうに髭を生やし、毿毿[32]として恐ろしかった。杭州の人楊辰逸はみずからそれを見た。
江右南昌の民家のある女は、すでに結納を受けていたが、彼女の父親は男子がいなかったので、毎日大士の前で祈っていた。ある日、かれの娘が中庭で小便した。父がそれを責めると、娘は母に告げて言った。「わたしはすでに女でありませんから、障りありません。」母が彼女を調べると、ほんとうに男子であった。父母はたいへん驚き、男の装いに変えさせた。そして釈氏の霊験に感じ、僧に懺悔感謝させたのであった。その後、夫の家が婚約違反を理由に官署に訴えたので、県令が乳母を招いて事実を確認し、銭二十貫を賜って婚資とし、もとの結納を彼女の夫の家に返すように命じた。杭州の人彭端臣はその地に旅し、みずからその事を見たという。康熙丁亥のことであった。
混同江[33]の東千里に蟄人がおり、冬に入ると家を挙げて戸を塞ぎ、冬眠する。
○産異(四則)
康熙初年、海寧の民間の婦人が一度に五男を産んだが、いずれも身長五寸ばかり、多くは育たなかった。隣家の婦人孫氏はそれを見た。康熙辛未、銭塘の民間の婦人が一肉毬を産み、それを破ると、小さい卵数十個を得た。
山陰の民に杭州で商売しているものがおり、かれの妻はしばしば怪を産んだ、はじめは一匹の夜叉を産み、さらに一尾の白魚を産み、その後さらに一匹の蛇を産んだ。
康熙壬申六月晦日、杭州の皮市[34]で、山陰の章姓のものが一匹の怪を産んだが、虎の歯、牛の角、猴の声、鶏の趾で、野叉のようであったので、すぐにそれを埋めた。
○物異(八則)
明末の潞藩[35]で、長斎[36]して仏を祭り、はじめて鱉を食べて良いことになっていた。宦官がもっとも大きなものを得、重さは五十觔であったが、王が夜に夢みると人が言った。「この中には異物があり、食べられません。」夜が明けると、すでに調理されていたが、それを切ると、普門[37]像一躰を得た。
古老が伝えるには、万暦乙卯、厳州で漁師が一匹の巨鱉を網に掛けたが、重さは十八斤、飲み屋がそれを買い、空中に懸けると、夜に人の言葉を話し、人に善行するように戒めた。主人が怪しんでそれを割くと、腹の中に一人の皮冠[38]の老人を見つけたが、身長は五寸ばかりであった。まもなく、家中がにわかに死んだ。
康熙甲子、杭城で猫で七つ足のものが産まれた。
康熙辛未正月望日、銭塘門外の城址の下に、蝦蟆が集まり、重なって数里に満ち、堆積して垣牆となり、高さは三尺ばかりで、数え切れなかった。
甬東[39]の竹では筍脯[40]を作ることが多く、俗に「毛筍」という。毎年巨きな筍一本が出、「筍王」という。かならず二本の筍が傍らに出、王よりやや小さく、「筍将」というが、その形はかならず近くの筍と異なっており、竹皮は錦の帯のようで、長さは尺余あり、土から出るとすぐにそれを見わけることができ、誤ってそれを掘れば不吉で、家にはきっと災がある。
太湖の辺は、その土が肥沃で、蔬果は美味で、蘆菔[41]はもっとも肥えて大きい。毎年一つのきわめて大きなものを出すが、姿は穀物袋のようで、重さは五六十觔ばかり、主人はかならず神を祭り、宴してそれを祝う。
古老は言った。「万暦丙申八月、江右の南・新二県[42]で水が湧き、池塘溝井はみなひとりでに湧き出、案頭の水中丞[43]も同じようにすこし溢れ出た。
村人の沈子余が、友人の書斎に、雷雨に遇って留まり、間坐していると、たまたま屋柱の頂から、一匹の長さ七寸ばかりの蜈蚣が、柱に沿って下りて来た。柱の半ばに達しないうちに、留まって進まなくなったので、振り返って見ると、一匹のきわめて大きな守宮が、礎石の下から出て来、柱に縋って上り、柱の半ばに達しないうちにやはり進まなくなった。二虫は隔たること三尺ばかり、どちらも目で見て動かなかった。客たちはそれに驚き、静かにその変化を待っていたが、しばらくして、蜈蚣は半身が宙ぶらりんになり、まもなくさらに下がって地に落ちた。守宮は振り返らず、礎石の穴に帰った。子余が枝で掻き分けて見ると、一つの脱殻があるだけであった。守宮が遠くからその体を吸ったのだろうか。物理の相制することには測り知れないものがある。
○花異(六則)
銭塘の塩商戴氏の書斎の前の穀樹[44]は、長さが数尺足らずであったが、突然一つの花を開き、木芍薬[45]と異ならなかった。康熙戊辰秋のことであった。
康熙庚午、菊公の家に檀香毬という菊があり、一本に百花が咲き、いずれも碗のように大きい。花はもともと檀色[46]だが、頂の四つの花だけが淡紅に変わり、もっとも大きく、俗に「花神著印」と伝えるものである。
順治甲申、金沙灘山[47]の民孫氏の秋海棠[48]が一つの花を開いたが、千葉で、牡丹ほどの大きさであった。丁卯年、覚苑寺[49]の傍らの張冊玉の邸宅の秋海棠もそうであった。
浙東遂昌[50]県署に藤本の芙蓉があり、高さは一丈ばかり、つねに一つの花に五つの蕊が群がっている。言い伝えはこのようなものであった。芙蓉に似ており、本当の名があるはずだが知ることができていない。康熙丁丑十月、東苑[51]の民家で牡丹一枝が開いた。
東洋の日本に紅繡毬[52]があり、さらに藍のものがあり、いずれも高さ三尺ばかり、叢生し、性質は秋海棠に似て、日を畏れる。さらに五月菊があり、中夏に及んで花さくが、紅、紫、白三種があるだけである。
最終更新日:2018年3月28日
[4]https://baike.baidu.com/item/%E9%81%97%E8%B0%B6前人が残した吉凶得失を預言する讖言。
[6]原文同じ。まったく未詳。
[14]まったく未詳。
[15]未詳。
[20]https://baike.baidu.com/item/%E8%A7%A3%E4%BD%A9朝服を脱いで辞官すること。
[21]https://baike.baidu.com/item/%E9%A4%90%E8%8B%B1花を食べものにすること。雅人の高潔をいう
[22]https://baike.baidu.com/item/%E5%BA%84%E9%AA%9A荘子の『荘子』と屈原『離騒』の総称。
[23]原文「蓋其生時塵俗之氣洗發淨盡故耳。」。「發」が未詳。
[26]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E9%81%93内丹術を中心とした仙人になるための修行法。仙人の方術、仙術の修行法。
[29]原文「荊子久同修元」。「荊子」が未詳。
[30]http://www.zysj.com.cn/zhongyaofang/yaofang_f/feierwan.html薬名。子供の消化不良などに用いる。
[32]https://baike.baidu.com/item/%E6%AF%B5%E6%AF%B5毛髪、枝などが細長いさま。
[40]https://baike.baidu.com/item/%E7%AC%8B%E8%84%AF筍を煮て乾かし、調味料を加えた食物。
[43]https://baike.baidu.com/item/%E6%B0%B4%E4%B8%9E書案の上に置く貯水器、硯の水を貯えるのに用いる。
[44]『漢書』郊祀志第五下「稷種穀樹。」顔師古注「穀樹、楮樹也。」
[45]https://baike.baidu.com/item/%E7%89%A1%E4%B8%B9/6080?fromtitle=%E6%9C%A8%E8%8A%8D%E8%8D%AF&fromid=10412948牡丹。
[51] 未詳。