巻二

 

○神(六則附筠崖[1]

 

張筠崖は、杭州の人で、能詩であった。かれの伯父赤甫先生は、順治庚子に、山東を旅したことがあったが、ある晩、かれのおじ沈公が夢に現れて言った。「わたしは今すでにこの郡の城隍となっているが、二十年後、おまえがわたしに代わろう。期日になれば、迎えよう。」庚申の期日になり、ふたたび夢みると、門に騶従が大勢列なり、一人の軍吏が進み出て昔年の約束を施すことを求め、先生は亡くなった。ある人が筠崖先生に尋ねた。「どんな徳によって得られたのでしょう。」「ひとえに伉直に拠ります。」(菊公は言った。「伉直であるとは、無偏の辞であり、正しければ神となり、さらに何の疑いがあろう。」)

 

筠崖は年が弱冠の時、転倒したため、片足を傷つけ、病は三か月癒えなかった。ある晩、神が語った。「この人は跛になるべき運命でないから、かれを治療してやるべきだ。」そう言うと、異香が部屋に満ち、恍惚としてかれを摩るものがいるかのようであった。翌日すぐに起きると、まったく痛みはなくなっていた。

 

新安の塩商汪仲英は生前、内兄弟[2]を軽視し、かれらの奴隷を占有し、行動はたいへん傲慢であった。臨終に物を見、家人に命じ、祭具を調えさせ、二つの座席を寝室に設け、さらに言った。「妻の実家に訴えられ、二十四の罪を列ねられた。(つくえ)にいるものは楊忠[3]だった。今、吏を来させているので、ぐずぐずすることはできない。」そして亡くなった。

 

烏程の城隍祠は、県署から数歩足らずであった。諸生管天章は、虚偽を恣にして訴訟を好んでいた。白日、二人の男によって城隍祠に招き入れられ、階下に伏し、微かに簾下を窺ったところ、神は顔が黒くて厳かで、階の前に、武器を持った獰猛な隷卒阿傍[4]をたいへん多く列ねていた。神は言った。「昨日、姚承庵老先生の文書が来たのを受理したが、おまえの行いが悪いので、一族六家を滅ぼし、すぐにおまえを殺すように求めていた。思うにおまえは寿命が終わっていない。ひとまず懲らして姚さまにお詫びするから、すぐに悔い改めるべきだ。」そこで杖を加えるように命じた。管は声を極めて痛いと叫び、道人たちは驚いて出てかれを扶けて帰った。管はそこで大いに悔い、言った。「わたしは気儘にしており、このようなことになろうとは思わなかった。」そして家を捨てて僧となった。案ずるに、烏程の城隍神は、張睢陽公[5]であろう。(姚承庵先生は、前明の嘉靖年間、人柄は方正好学で、六経に疏注したことがあった、杭城の石の綽楔[6]に「(りつ)(けい)羽翼(うよく)す」と題せられているが、先生を表彰しているのである。数人の子たちにはいずれも父の気風があり、一子は御史となったという。)

 

湖州の孝廉陳某の邸宅で、道士たちを招いて斎醮[7]させ、散会しようとしたところ、道服三着がなくなっていた。かれの仲間宋二郎は、鐘磬[8]を司るもので、疑われたので、神馬[9]を祭って冤罪を雪ごうとしたが、数日験がなかったので、怒って厠に置いた。数日足らずで、宋は鋤を担ぎ、田に入ったが、にわかに田の畔に倒れ、獰猛な鬼卒数人に掴み去られ、かれが無礼したことを責められた。「天神帝が劉・李二王に、おまえを捕らえるように命じたので、今、土司に檄して審理させようとしているのだ。」ゆくと、神は怒鳴って言った。「冤罪が晴らせなければ、弁解すれば良いのだ。どうして天神を汚して罪を得るべきであろう。」宋が衣がなくなったことを告げると、神は言った。「すでにそのことは知っている。衣は石村[10]の質屋にあり、訪ねればすぐに見つかろう。思うにおまえは田o[11]で愚かだから、すぐに父老を招いて許しを求めてもらい、逃れられることを願うべきだ。」宋は甦ると、郷老十人に頼み、香を焚いて廟にいってもらった。ともに宋を床で担いでゆき、祭ると、ふたたび宋を担いで出た。数歩足らずで、宋の床は突然ひとりでに退いて入った[12]。宋は神に責められた。「人々はおまえのために神に祈り、拝伏してほんとうに苦しいのに、おまえは床の上で安眠している。おまえは瞑目しているだけで、まったく苦しみがない。今、仮病を使って神を侮るとは、どういうことだ。」宋が何度も叩頭すると、許した。宋ははじめて廟に入った時、知り合いの僧某がおり、亡くなってすでに三十年であったが、まだ柱にられていたという[13]

 

禾城[14]の杜尚書臻[15]が亡くなると、かれの内某がにわかに亡くなり、二人の兵卒に引かれて陝西にいった。ある関神廟に入ると、某は階下に留められた。まもなく主人が出て来たが、故尚書であり、時候の挨拶が終わると、某に言った。「甲が乙を訴え、おまえを証人に列ね、天符[16]で取り調べるように命ぜられたので、しばらく来てもらった。証言し終わればすぐに帰ることができる。」調べると、某の前生の事であったので、おもわずはっとし、すぐにその事を証言した。囚人は屈服し、獰猛な隷卒がかれを追い払い、某は中に入り、家人の礼を述べると、述べた。「こちらは関神祠ですのに、どうしてこちらを治めていらっしゃるのです。」公は言った。「関神はもともと京師の前門におわし、これらは、すべて流官[17]の役所なのだ。」ほんとうに甦った。

 

平湖の豸史[18]陸稼書[19]先生が城外に住んでいた時、白日一隻の大きな舟がかれの家の下に泊まり、一人の顕官が岸に上り、従者が名刺を持ち、入って告げた。先生が名刺を見ると、楊椒山忠湣公[20]であったので、衣を整えて出迎えた。見ると公は紗帽緋服し、まだ明の衣冠であった。座を分けて茶で持て成したところ、忠湣は飲食することが普段通りで、こう言った。「ながらく公の廉直を尊敬しており、すでに代わりに推挙し、仕事して頂きますので、お迎えしているのです。」別れを告げて舟に乗り、突然見えなくなった。先生はまもなく亡くなった。

 

○鬼(六則)

 

范時英は、字は偉男といい、江右の上高の知事となり、若い時、杭州の西山[21]で勉強していた。夜月が輝いている時、突然庭で音がしたので、見ると、逍遥冠[22]を被り、赭衣で、帝主のようなものがおり、左右に二人の美人を連れており、みな宮中の装いで、広間の扶闌(おばしま)の上に昇って前後を見、しばらくして去った。

 

佑聖観[23]北の方氏が地を掘り、一本の脛骨を見つけたが、長さは三尺余であった。すると幽鬼が突然奴隷に憑き、語った。「わたしは漢の将軍で、ながらくこちらに潜んでいたのに、なぜ虐げられる。」そこで奴隷は大声で叫んだ。「神さまわたしを殺してください。神さまわたしを殺してください。」主人は悔いて謝し、生贄を齎し、敬虔に祈り、その骨を埋めたので、奴隷は死なずに済んだ。

 

銭塘の陸韜[24]は、字は子容、若くして異才を負い、勉強を好み、経伝子史を流れるように暗誦していた。県令梁永植が童子を試験した時、古文辞に優れていたので、第一に列ね、かれの貧しいことを知ると、俸給を擲ってかれに贈ったが、すべて書を買うのに使い、昼夜読んだ。咯血を患うと、さらに友人に頼み、『二十一史』を借りて読み、病がますますひどくなり、亡くなった。かれの師張秦亭祖望、諱は綱孫[25]は、詩で哭して言った。「(くわう)(ゑん)寂寞(せきばく)として(りよく)(たい)(しやう)じ、腸断(ちやうだん)当年陸士衡(たうねんりくしこう)[26](しゆん)(てう)()らず(ひと)すでに()るを、(たう)()樹上両三声(じゆじやうりやうさんせい)。」その内兄某は和そうとしたが完成せず、夢みると子容が言った。「和そうとしてできていませんか。わたしは和詩が完成しましたから、それを誦えてあげましょう。『(たれ)蓬門(ほうもん)[27]()かひて死生(しせい)(たづ)ねん、諸公道(しよこうい)(なか)車衡(しやかう)()[28]と。(われ)(せん)()(あそ)びて()(たの)しみ()く、(ただ)(せう)(せう)たる(しよう)(はく)(こゑ)()くのみ。』」某がそれを告げると、秦亭は涙を流して言った。「声情は淒鬱で、何と詩の神韻が子容のようであることか。」世間で伝写すると、唱和するものはたいへん多く、王丹麓[29]が和して言った。「遺編(ゐへん)一読(いちどく)すれば(ひやつ)(かん)(しやう)じ、文章価(ぶんしやうあたひ)()(みだ)りに権衡(けんかう)す。鍾期(しようき)[30]()(のち)知音(ちいん)(すく)なく、腸断(ちやうだん)高山(かうざん)流水(りうすい)(こゑ)。」景星杓[31]が和して言った。「薄命(はくめい)才人(さいじん)友生(いうせい)()しみ、(がん)(くわい)一曲張衡(いつきよくちやうかう)(なげ)かしむ。()へず()づから情傷(じやうしやう)[32]()(ろく)するに、酸惻(さんそく)[33](かす)かなること(かい)()(こゑ)(ごと)し。」

 

計文煥は、仁和平安里の人で、商人であった。康熙乙亥の春、病が篤くなると、胸の中から三人のものたちが出た。それを見ると、自分と異ならず、ともに文煥を連れ、ある家にいった。その時、夜はすでに半ばであったので、門の隙から入ると、一人の老婆が堂中に坐しており、尋ねた。「どちらから来られましたか。」三人は言った。「あなたの家に生まれることになっているのです。」老婆はじっと見ると、笑って言った。「もちろん佳うございます。」そこでふたたび帰り、家に着き、躓いて目ざめた。それから毎日かならずいったが、その往復の道は人の世のようでなく、天の光は淡黄で、踏んでいる地も黄で、地質は軟らかく綿のようで、その家の屋室器物は歴歴として記憶することができた。帰れば三人はふたたび胸の中に入った。その時は二月下旬であった。その後、三人は文煥の体に憑き、筆を持ち、偈を書いて言った。「(こう)(じん)(ろく)(ろく)[34]たること二十九(にじふきう)一朝(いつてう)にして(えん)()(また)分首(ぶんしゆ)す。(いま)より()(やぶ)嶺頭(れいとう)(くも)(さら)菩提三(ぼだいさん)(めう)(「藐」に作るべきである)に()かひて(はし)る。(くも)(また)()り、(かぜ)(また)()り、一場(いちじやう)笑話(せうわ)()べて(ぐう)()る。雲房(うんばう)[35]分付(ふんふ)して()(われ)()たしめ、嗬嗬(かか)として一笑(いつせう)先年(せんねん)(をきな)。」文煥はもともと書と文を知らなかったが、字はたいへん端正であったので、見るものはそれに驚いた。その夜、かれの亡父に会うと、言った。「わたしはおまえのために幾たびも考えを費やし、前に牒を青帝[36]に進め、おまえはつつしんで廃字[37]を大切にしたから、寿命を延ばされるべきだと言い、今さいわい受理された。」牒を文煥に示したが、上に「寿命を七か月延ばすべし」と大書され、藍筆で一つの大きな丸が描かれていた。書は行書でたいへん巧みであった。父は言った。「いった所に、かならず一度ゆかねばならない。」そこで連れてゆくと、文煥は息絶えており、着くと、門外で十数人が争って入ろうとしていた。かれの父が人々を押しのけると、人々はむりにかれを挽き、一つの籠がある所に入ってゆき、蓋を開き、文煥を中に納めた。すると四周が火のようであるのを覚え、出ようとしたができなかったので、激しい力で引き裂いて出た。踉蹌として門を出ると、一人の男に遇い、それを見ると、まさに前の三人のものたちで、しばらくして一人、しばらくしてさらに一人、三人はかれとともに帰った。門に着くと、やはり躓いて目ざめたが、そもそもすでに息絶えて数刻であった。かれの父は案頭の杯の茶を取り、一啜りして去り、家人が杯を見ると、すでに空になっていた。文煥は丙戌になってもまだ生きていた。

 

都氏の子某は、以前、傅氏の娘と婚約していたが、結婚しないうちに都の子は病んで狂い、両家の母はいずれも寡婦となった。都媼は子が絶対に治らないと思ったので、傅家にゆき、言った。「家庭は不幸で、わたしの子は廃疾となる運命ですから、いたずらに拘束されることはありません。息子に利益がなければ、再婚を計画なさってはいかがでしょう。結納を得たら、半分を返してくだされば良いでしょう。[38]」女は聞くと、出て来て老婆に拝礼して言った。「お母さま、お疲れさまでございます。あのかたがそのように病まれているなら、お母さまは何に頼られるのですか。」老婆は言った。「薄田数畝に頼っていますが、さらに凶年が多く、半年食べられるだけです。食べものが尽きれば日々の食事がなくなることが心配です。」母がふたたび前の言葉を述べると、女は色を正して言った。「わたしは枉がった行いがございませんが、婚約したのに退けられれば、知らないものは何と言いましょう。死んだ方がましです。実家に帰り、頼り合って生きることを願います。食べものが欠ければ、わたしはもともと針仕事を習っていますから、夜通し仕事すれば、暮らすことができましょう。今日すぐにゆくことを願います。さもなければ、わたしを黄泉で探すことになりましょう。」二人の母はそれを聞いていずれも喜び、さらに抱いて大いに慟哭した。老婆は帰ると、輿を遣わして迎えさせた。娘は装いを改めずにいったが、青衫白裙は楚楚としていた。娘が来ていない時、都の息子は衣冠を調えて出、喜んで母に言った。「新婦が来ます。母さんが出られて彼女を待てば、わたしの病は癒えましょう。」母は驚いて尋ねた。「おまえはどうして妻を迎えることが分かるのだ。また狂って語っているのか。」「いいえ。わたしは臥しておりますが、床の後ろに四匹の幽鬼がおり、みなざんばら髪で醜悪で、言葉を発してわたしに言いました。「『わたしたちはおまえに怨みはないが、おまえの父親により、冤罪事件に遭ったので、祟りが子孫に及んでいるのだ。今、傅の娘は正大でこのように節操があり、わたしたちは敬いかつ畏れているのに、さらに禍をなそうとしようか。』そして見えなくなったので、わたしは酔いがはじめて醒めたかのようになり、今は病がなくなったのです。」そう言うと娘が来た。老婆がその異変を述べると、ともに驚き嘆いて、それを傅の母に伝え、日を選んで結婚した。傅の娘は張儼公の外孫で、全生の父は県の主簿となったことがあるという。(菊公は言った。「都母はもともと人の娘を善全しようとしてかえって嫁を得、傅の娘は甘んじて不字の寡婦となってかえって夫を得[39]、一点の良心が収めたものはたいへん豊かであった。天理の顕報は、瞬く間にあり[40]、鬼神がいないと誰が言おうか。」)

 

厳灝亭先生[41]の曽孫暁蒼は江干[42]のある寺で勉強していたが、語るには、寺の隣家の老婆が幽鬼に憑かれ、こう言った。「わたしたちは冥土の護送官だ。秦檜の魂を捕えて鄷都にゆくため、こちらを通り掛かったが、どうして汚水でわたしの衣を汚した。」その家が再三祈ると、はじめて正気に戻った。そこではじめてかれが秦を護送しているわけを尋ねると、言った。「檜は今、後身が金華の婦人となり、夫を謀殺したために磔となり[43]、今処刑され終わったので、護送して帰るのだ。」さらに尋ねた。「宋はたいへん遠い昔ですのに、どうしてはじめて処罰するのですか。」「檜賊は勝手に和議を主導し、忠良を誅殺したので、天曹[44]は磔刑三十六回、斬刑三十二回を判決し、終わっていないのだ。」さらに隣人孫卜存が言った。「三十年前、ある若者が、婚礼が終わる前、やはり檜を護送する幽鬼に憑かれたが、祭って無事であることができました。」その年を溯って考えると、そもそも金華に護送してゆかれ、転生して婦人となった時であった。珍しいことと言える。(章牧亭は言った。「檜が先に剮の判決を受け[45]、その後、婦人とならせ、それを現実のことにしたならば、それは天曹が人に夫を殺させたということだ。これがどうして良いことであろう。」菊公は言った。「その姦夫本夫たちも、きっと檜の妻と俟[46]のような人物であるに違いないので、慮ることはないのである。」)

 

○山魈(三則)

 

山魈は夔[47]のように片足で、郡の福建との境界におり、諸山にはすべてそれがいる。魈は住むのにかならず巣があり、商人が生贄を齎し、利を祈ればかならず倍し、さもなければたいへん苦しむので、「神魈」と称している。

 

処州の風俗では、魈を祀る家はかならず不正である。そもそもその妻を通じて招き、魈を庋閤[48]の上に住まわせるのだが、魈はひそかに屋内に隠れ、その行き来を人は見られないのであった。求めることがあれば、ひたすらその言葉を聞き、飲食は、すぐにそれを食べさせた。そうしなければ怒って棄て去るのであった。それに媚びれば喜び、日々それによって富を齎した。魈はその家に淫することを好んだが、かれを騙すすべもあった。魈は物を食べるとかならずその家に記録させ、金額通りに金を払い、いい加減にすることがなかった。一羽の鶏を食べた時、偽って「二金です。」と言うと、金額通りそれを払った。そもそも魈は市場に入らないので、価格を知らないのであった。

 

一匹の魈が田間の草廬のに臥していたので、ある人がそれを捕らえ、その短杖、黄の(ふろしき)それぞれ一つを得て帰り、尋ねた。「二つの物は何に用いるのだ。」「わたしはこの袱を被れば、姿を隠せ、杖に縋って躍れば、すぐに峰の頂に昇るので、わたしをどうしようもないのです。」その人がそれを得、試してみると、ほんとうに効果があり、ほしいままに淫行したので、山の民は集まってその人を焼いた。

 

 最終更新日:2018328

山齋客譚

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[1]「筠崖は年が弱冠の時、転倒したため、…」の話を指しているのであろう。

[7]https://baike.baidu.com/item/%E6%96%8B%E9%86%AE醮科とも、道教の式。

[9]こちらに適切な語釈なし。おそらく紙馬のようなものではないかと思われる。神、月神、竈神、寿星等の神祗を祭祀するに使用する物品。

[10]原文同じ。未詳。

[11]https://baike.baidu.com/item/%E7%94%B0%E7%95%AF官名。事、田法を管掌する官。

[12]これは廟に入ったのであろう。

[13]原文「猶於柱云。」。未詳。

[17]https://baike.baidu.com/item/%E6%B5%81%E5%AE%98明清代に、四川、雲南、広西等省少数民族が集居している地区に置かれた地方官、一定の任期があり、世の土官に対していう。

[22]原文同じ。未詳。

[28]https://baike.baidu.com/item/%E8%BD%A6%E8%A1%A1の端の横木。なお、この句でいう「車」とは「公車」のことで、挙人が会試を受験することをいう。この句、自分は会試を受験するところまでゆかずに死ぬということ。

[32]https://baike.baidu.com/item/%E6%83%85%E4%BC%A4/3433128感情が挫けて生じる悲傷の情緒。

[35]https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=423164&searchu=%E9%9B%B2%E6%88%BF原文同じ。未詳だが、仙人の住居なのであろう。

[36]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E9%9D%92%E5%B8%9D五帝の一、方を掌管する。

[37]原文同じ。未詳だが、おそらく文字の書かれた紙ごみであろう。

[38]原文「苟得聘、願以半給還可也。」。未詳。相手からの結納金が入ったら、自分の結納金の半分を返してくれという趣旨か。

[39]原文「傅女甘為不字之孀而反得夫」。未詳。「」は嫁にゆくこと。「不字」は結婚しないこと。ここでは婚約者を棄てて再婚しないことであろう。「」がよく分からない。婚約者に死なれているわけではないのだが。

[40]原文「天理顯報、在轉移之閨v。「轉移」が未詳だが、「轉瞬」の意と解す。

[41]https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%A5%E6%B2%86浙江余杭(今杭州)人。

[43]原文「為謀夫犯磔。」。未詳。

[44]https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%A9%E6%9B%B9道家で称する天上の官署。仙官。

[45]原文「檜先已定剮」。未詳。「剮」が「磔」であれば文脈に合うのだが。なお凌遅と同じ。

[46]https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%87%E4%BF%9F%E5%8D%A8万俟。秦檜とともに岳飛を死に追いやった。

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