録異記巻七

異水

益陽県は、長沙郡にあり、秦代にこの県が設けられ、今なお改まっていない。『地理志』に「益水はその(みなみ)にある」[1]という。今は聞くことがない。北はに臨み、源は邵陵・武崗県界から出、東北の洞庭県治に流れ込んでいる。東を望めば、しばしば長沙の城隍[2]が見え、人馬の形色は、すべて見わけることができた。早朝であったり、正午であったりしたが、眺めて時を経ると、次第に消散するのであった。県庁から長沙まで、道程は三百里、重畳たる山々を隔てていたので、理として表れるはずはなかった。もしや山岳が霊力を示し、影像が伝えるられたものか。その土地の民謡に「長沙(ちやうさ)(えき)(やう)と、一時(いちじ)(あひ)(いん)す。」[3]とあった。昔、光武は中元元年に、泰山・梁父で封禅した。その日、山霊[4]は宮室を作った[5]。秦の始皇帝は、方士徐福を海に浮かばせ、仙薬を波濤の中に探らせ、漢家階基[6]楼観を見たが、参差宛然として、公侯の邸宅がすべて眺められ、目に満ちていた。班超が渾耶の国にいた時、早朝、雲霞が鮮明で、天際に宮館が厳かに列なっているのを見たが、侍臣たちは、すべて漢代のものたちであった。このような類は、くわしく論ずることは難しい。

 

 

新康県の西百二十里に、清潭があり、漳浦渓にあり、源はきわめて深く、つねに白龍がこの中に隠れている。旱魃になると、人に豚や羊の糞を取って潭の中に擲たせるが、すぐに大雨洪水があり、今でも験がある。

 

 

銭塘江の潮のこと。昔、伍子胥がしばしば呉王を諌め、命に逆らい属鏤の剣を賜わって死んだが、臨終の時にその子に命じた。「わたしの首を南門に懸けろ。越兵が討伐しに来るのを見よう。呉が鮧魚[7]の皮でわたしの屍を包み、江の中に投じたら、わたしは朝晩潮に乗り、呉の敗北するのを見よう。」それから海門山から潮が湧き、高さは数百尺、銭塘を越え、漁浦を過ぎると、はじめて次第に低く小さくなり、朝晩さらに来、その音は震怒し、雷電は奔激し、百余里に聞こえた。その時子胥素車白馬に乗り、潮の中にいるのを見たものがいたので、廟を建てて祭った。

 

 

廬州城内、淝河の岸にも、子胥廟があり、朝晩の潮時のたびに、淝河の水も、鼓怒して起こるのであった。それが廟の前に来ると、高さは一尺、幅は十余丈になり、まもなく鎮まった。俗に言った。「銭塘の潮の水と対応しているのだ。」

 

中宗の景龍年間、洛京の西、官路で四百里の地は、すべて水のようになり、人馬や樹木を映し、その上を歩いたり止まったりれば、歴歴として、影を俯いて見ることができた。一月余りして消えた。

 

 

昭潭山麓に寒泉[8]があり、水は深くて測り知れず、昭潭といった。諺にいう。「昭潭には底がなく橘洲に浮かぶ。」昔人がここで舟を転覆させ、その銅の甑を沈めた。甑には銘があった。後に洞庭湖でそれが見つかったので、隠れた穴が通じていることを疑っただけであった。

 

 

湘水の龕の中に石床があり[9]、床の上に石棺があり、元のままに蓋われている[10]。その色は青銅の鏡のようであったが、推し測ることができなかった[11]。廬山の西南七十里に、湧泉観があった。昔、太極仙公葛玄がここで錬丹し、それに感応して泉水が石の穴の中から湧き出、百余里流れ、潯陽湖に入り、田を潤すことはきわめて広かった。その地にはもともと水蛭が多く、農民はそれに悩まされていたが、仙公は符を洞門の下に刻し、水はその上に注ぎ、それから水が及ぶ所では、すべて水蛭の患えがなくなり、遠近がそれに頼った。後に人がこの符を掘り、湧泉観に移したが、旧跡があるだけである。しかし霊験は変わりがない。

 

 

漢州の赤水に湧泉があり、水脈は五六あり、山麓から湧き出し、大きな池となり、二三百歩流れ、碓磑[12]を動かすことができ、流れて大きな渓となっていた。

 

薬水は房州の西四十里にある九室宮の亭の中にある。この宮の基盤は巨石の上にあったが、薬水の穴だけは、直径二尺ほどで、土井[13]であった。深さは三四尺であったが、水はつねに数寸で、消えたり溢れたりしなかった。古老は伝えた。「昔二羽の鵲がおり、二本の(はく)の上に棲み、しばしばこの水を飲んでいたので、住民がそれを汲んで飲んだところ、病があるものたちはみな治った。それで刀剣を淬げば、鋭さは常に倍していたので、薬水といった。二本の柏は井戸を挟み、今なおある。の間に、勅して宮宇を構えたが、その山に九か所神仙の洞室があったので、九室宮といった。宮の北五里に湯口村があったが、昔温泉があり、屋敷は壮麗で、郡の人はここで浴していた。廬陵王が郡にいた時、愛娘は年若かったが、湯の中で浴していた時、[14]に遇って夭折した。それから温泉は涸れ尽くし、今は平地となっている。当初、娘が歿した後、ひそかに彼女の父の夢に現れて言った。「湯の下が暗いので、燈を置いてそれを照らすことを願います。」王は九幽燈を立て、昼夜照らすように命じたが、今はすべて消え、もはや旧址はなく、湯口村と号しているだけである。

 

 

青城県の西北、県庁から三里に、老君観がある。観の門の東に一つの泉があり、馬跑泉と称している。その泉水は味が甘く、四時絶えることがない。春夏でも氷のように冷たく、秋冬は温かい。昔、太上老君が天真皇人とここで会見した所である。その泉は老君の乗った馬が走って泉になったのである。

 

 

六時水のこと。青城山宗玄観の南二里ほどに、峭崖があり、観の中に向かい合い、高さは五百余尺、その山崖の上に授道壇があり、昔宵真君と軒轅黄帝が道を授けたところである。澗底に下れば石龕があり、玄宗皇帝の御真影があった。毎日六時、崖の上からひとりでに水が出、今でも絶えず、時人は旅行し、礼拝してそれを見た。

 

異石

帝尭の時、五星が天から落ちた。一つは土の精で、穀城山麓に墜ち、その精は橋の老人に化し、兵書を張子房に授けた。これを読めば帝王の師となるはずだ、後にわたしを穀城山麓で探せと言ったのは、黄石である。子房は漢を助け、功を成し、穀城山麓を探したところ、ほんとうに黄石を見つけた。子房は商山に隠れ、四皓に従い、道を学んだ。かれの家はかれの衣冠と黄石を葬った。昔はつねに墓の上に黄色い気が見え、高さは数丈であった。後に赤眉に発かれたが、その屍は見えず、黄石も所在を失い、その気はひとりでに絶えた。

 

 

歳星の精は、荊山に墜ち、化して玉となった。斜めにそれを見ると、色は碧く、正しくそれを見ると、色は白かった。卞和はそれを得、楚王に献じた。後に趙に入り、秦始皇に献ぜられたが、天下を一統すると、磨いて受命璽[15]とした。李斯はその文を小篆にし、歴代それを伝え、伝国の宝とした。さらに古今異説があり、大角星の精だともいう。大角も木星である。

 

 

火星の精は、南海の中に墜ち、大きな珠となり、径は尺余であった。しばしば海上に出ると、光は数百里を照らし、紅気は天を貫いていた。今その地を珠池といい、珠崖ともいう。後にしばしば出ることがあった。

 

 

金星の精は、終南圭峰の西に墜ちたので、太白山と号した。その精は白い石に化し、状態は美玉のようで、しばしば紫気がそれを覆っていた。天宝年間、玄宗皇帝は玄元廟を長安大寧里に建て、臨淄の旧邸、玄元像を塑造しようとした。夢みると神仙が言った。「太白の北谷の中に、玉石があるから、取ってそれを磨け。紫気が見えるところがそれだ。」翌日、使者に命じ、谷に入ってそれを探させた。山麓の人は言った。「十日このかた、つねに紫気があり、連日散じません。」ほんとうにその下を掘ると玉石を見つけた。磨いて玄元像としたが、高さは二丈ばかりであった。さらに二真人、二侍童、及び李林甫、陳希烈の形としたが、高さは六尺ほどであった。

 

 

水星の精は、張掖郡柳谷の中に墜ち、黒い石と化した。幅は一丈余、高さは三尺であった。後漢の末、次第に文彩を生じたが、さほど分明でなかった。魏の青龍年間、突然雷の轟きのように、音が百余里に聞こえると、その石はひとりでに立ち、白い色が文様を成した。牛馬仙人の形、及び玉環、玉玦や文字があり、ほんとうに司馬氏が晋を立て、金徳に符合したのに対応していた[16]唐尭の際、天の気は太陽に窮まり、地の気は太陰に極まり、陽九百六[17]、周の運に交わり、甲申の年に、洪水に会するので、五星は精を貢ぎ、日月は光を濁らし、この異変があったのである[18]

 

 

天復十年庚午夏、洪州に隕石が落ち、越王山の麓、昭仙観の前で、雷のような音がし、光彩は五色、幅は十丈、袁・吉・江・洪四州の界で、みな光を見、音を聞いた。観の前の五色の煙霧は、一か月を経て消えた。石があり、長さは七八尺、周囲は三尺余、清く碧く玉のようで、地上に落ちた。節度相国劉威は昭仙観内に担ぎ込むように命じ、を設け、祈って謝した。七日の内に、石はやや小さくなり、長さは三尺になった。さらに数日斎すると、石は長さが尺余になり、今は七八寸に達しているだけで、観内に残っている。

 

 

江州の南五十里に、(むら)があり、七里店といった。蛇江[19]の南の、小さい山の上に石があり、青い色で、堅く滑らかであった。俗に言った。「石の中に珠があり、中秋になるたびに、しばしば群れ飛び、およそ十余個で、流れ星が往来するかのように、集まったり散じたりする。石の上にはしばしば光がある。」言い伝えでは言った。「珠がここに隠されており、無価の宝である。」見たものがおり、ひそかにその場所を確認したが、探し当てられなかった。

 

 

会稽の進士李眺が、たまたま小さい石を拾ったが、青黒く歪みがなく、滑らかで弄ぶことができたので、文鎮として用いた。たまたま蝿がその上に集まったが、追い払っても去らなかったので、見ると、すでに石に化していた[20]。他の虫を探してそれを試すと、やはりすぐに化し、殼が落ちたが、堅く重く、石と異なることがなかった。

 

 

永康県の山亭[21]の中に、枯れた松の樹があったので、それを伐ったが、誤って水中に落ちたところ、石に化した。化していないものを取り、水中で試したところ、すぐにやはり化した。その化したものは、枝・幹及び皮で、松と異なることがなかったが、堅く勁かった。化していないものが幾つかあり、あわせてそれらを留めて異物とした。

 

 

綿州昌明県の山中、周囲二十里ばかりに、磁器の香炉で、幅が二寸ほどのものが、あるものはすっかり壊れ、林の中に堆積しており、その数は知れなかった。

 

 

洪州建昌県界の田野の中に、自然石の碑があり、石人及び亀が、地中に散在し、その数は知れなかった。すべて彫刻されているかのようであったが、文字はなかった。石人には倒れ臥しているものが多く、時折立っているものがあった。さらに言った。「近くに石の井戸があり、深くて水がなかった。好事家がおり、火を持ち、その中に入ると、傍らに横道があり、遠近は知れず、路傍はやはりすべて石人であった。 」

 

 

昌松[22]の瑞石の文様のこと。李襲誉が凉州刺史となり、上奏するには、昌松に瑞石があり、自然に文字をなしていた。およそ百十字で、その概略はこうであった。[23]「高皇は海から二字を出し、李九は王八千、太平の天子李世民は王千年、太子は燕山で書を治め、人人士国、君主は汪諤を尚び、文通を励まし千古大王五王七王十、鳳毛[24]の才子武文貞観大聖(さか)んにし四方上下は万治し、忠孝善行する。」礼部郎中柳逞に勅し、駅を馳せて調査させたところ、嘘でなく、すべて上奏したことと同じであった。

 

 

新北の市は、景雲観の跡地である。一つの巨石があり、柱礎より大きく、人がそれに坐し、それを踏めば、まもなく火で焼かれるかのようになり、煩熱[25]となった。そしてすぐに病気となり、しばしば死んだ。火を集めてこの石を焼けば、すぐに瞿塘山が吼えて水が沸くというが、古老の言い伝えに過ぎない。

 

 

蜀州晋源県の山亭[26]の中に、二つの大きな石があり、それぞれ径二尺ほど、地から七八寸出ており、人がそれに坐すれば、胸が痛み、しばしば助からなかった。さらに星石が落ちると[27]、東側では人が生まれ、すぐに霊験があり、西側では人が死ぬのであった。諸石と異なることがなく、色はいずれも青白い色を帯びていた。

 

 

鎮静軍の付近の江[28]に、石があり、長さは五六尺、高く大きく三尺ほど、それを撃てば鐘の音のようであった。軍使[29]劉師簡が一つの石を送ったが、長さは四尺ほど、形は円く、色は青く、それを撃てば鐘磬の音のようであった。

 

呉郡で江に臨んだ片方の岸が崩れて一つの石が出て来たので、それを敲いたが、音がしなかった。武帝がそのことを張華に尋ねると、華は言った。「蜀中の桐材を取り、刻して魚の形にし、それを叩けば鳴りましょう。」そこでその言葉の通りにすると、ほんとうに音が数里に聞こえた。

 

 

石季龍は、河橋を霊昌津に立て、石を採り、橋基とした。石は大きなものも小さなものも、落とせばすぐに流されてしまい、工夫五百余万を用いても完成しなかった。季龍は使者に祭祀させ、璧を河に沈めさせた。するとまもなく沈めた璧が水辺に流れ、地が震え、波が津の所に跳び上り、楼殿は傾き壊れ、圧死したものは百余人であった。

 

天台の僧が、乾符年間、台山の東、臨海県界で、一つの洞穴を見つけ、同志の僧が連れ立ってそこを探った。はじめの一二十里は、路が低く狭く、おおむね泥道が多かった。さらにゆくとやや平らで広くなり、次第に山川が現れた。十里ばかりで、市場が見え、住民は世と異なることがなかった。この僧はもともと嚥気[30]を習っていたので、飢渇を感じなかった。かれの同行の僧は、大いに飢え、飯屋にいって乞食した。ある人が言った。「飢渇に耐えることができれば、すぐに帰って苦しみがないが、この地の食べものを食べれば、きっと出るのは難しかろう。」たいへん飢えていたので、つよく食べものを求めた。食べ終わり、ともに十余里の路をゆくと、次第に狭く小さくなり、一つの小さい穴を見つけて出たが、物を食べた僧は、すぐに石に化してしまった。天台僧は山を出、人に逢い、その所管を尋ねたところ、すでに牟平の海浜であった。

 

 最終更新日:2018521

異記

中国文学

トップページ



[1]『漢書』地理志下「益陽」の應劭注に「在益水之陽。」。

[2]城壁および護城河。ひろく城池を指す。

[4]山の神。

[5]この話、出典未詳。

[6]台階。

[9]原文「湘水龕中有石床」。「湘水龕」が未詳。

[10]原文「與蓋宛然」。未詳だが「闔蓋」と同じで、「蓋をする」ということであろう。

[11]原文「園色如青銅鏡、莫之能測。」。未詳。何なのか想像がつかないということか。

[12]石臼。

[13]原文同じ。未詳だが土を掘っただけの井戸ということであろう。

[14]癘気。さらに疫癘の気、毒気、異気、戾気あるいは雑気を称する。

[15]皇帝の印璽。

[16]原文「果應司馬氏為晉、以符金コ焉。」。未詳。

[17]災難あるいは厄運。

[18]原文「陽九百六、交周之運、甲申之年、洪災之會、故五星貢精、日月濁景、有些異焉。」。未詳。

[19]未詳。

[20]主語は蝿。

[21]原文同じ。未詳だが山中にある東屋であろう。

[22]甘肅省の県名。

[23]以下の原文「高皇海出兩字、李九王八千、太平天子李世民王千年、太子治書燕山、人人士國、主、尚汪諤、獎文通千古大。王五、王七、王十、鳳毛才子武文貞觀、昌大聖四方、上下萬治、忠孝為善。」。未詳。

[24]文才が秀で、父の風格を継ぐことができていること。

[25]鬱悶発熱の症状。

[26]原文同じ。未詳。山に設けられた東屋か。

[27]原文「又是落星石」。未詳。

[28]書影。土偏に「具」の字で、こうした字は存在しない。「」であると解す。「」は「壩」と同じで、堤。

[29]https://baike.baidu.com/item/%E5%86%9B%E4%BD%BF軍中の賞功罰罪を掌る官。

[30]原文同じ。未詳。空腹を感じないための仙術の一種か。

inserted by FC2 system