録異記巻五

 

海龍王の宅は、蘇州の東、海に入って五六日の所、小さい島の前にあった。幅は百余里、四方の海水が粘り濁っているのに、その水は清かった。風がないのに浪は高さが数丈で、船舶はすぐに近づこうとはしなかった。大潮のたびに、水がその上を覆い、この浪は見えなくなり、船は通ることができた。夜中にはるかに眺めると、この水上の紅い光は日のようで、四方は百余里、上は天と繋がっていた。船人の言い伝えでは、龍王宮がその下にあるということであった。

 

 

 

柳子華は、唐朝の成都県令であった。ある日の正午、車騎犢車が、前後を女騎に先導随従されながら、すぐに広間に入って来、一介(しもべ)に命じてに告げさせ。「龍女まもなく車を下り、左右に介助されながら昇り、子華うと言った。「宿によりあなた夫婦となりしょう」そこで引き酒を飲んで楽しむように命じ楽しみを極め、婚礼しったそれから往復することをとし遠近みなそれをった子華辞職すると行方が知れなくなった民間では言った。「龍官に入り、水仙を得たのだ乾符年間、節度押衙青城鎮遏使となったたいへん善行を好み、つねに貧民の救いみずから健卒を巡視した。民庶孳孳とし、勤勉に奉公し誠意を他人ぼし時人られた。一つのがありのように大きくかれの祖残したもの代にわっといった映せば、毛形色逐一備わっていたがすべて倒立しているのであっその時の賊帥韓珠が、青城及び諸草市[1]を攻撃し、陥落させていた。柳は都鎮となり、配下の将兵を率い、陶埧鎮[2]を救援し、賊に包囲された。健卒三十人は、柳とともに数百人と戦った。兵力は均しくなく、敵に陥ろうとしたが、なお歩兵十余人が、柳を擁し、囲みを破ろうとした。しかし果たさず、賊に殺された。遠近の知るものたちは、みな痛惜した。

 

 

荊州当陽県庁は、山寄りに官署が造られ、中に劉文龍井があり、きわめて深かった。井戸の中に龍の巣があり、横穴はどれほどか分からなかった。晴れようとする時と雨ふろうとする時は、しばしば雲気が井戸から出ていた。光化年間、道士がおり、商山から来たと称し、井戸の中に入り、龍の巣及び薬草を取って去った。その後、県令黄馴というものがおり、着任の後、つねに馬を井戸端に繋いでいたが、糞便が流れ、すべて井戸の中に入っていた。かれを非難するものがいても、不実な返答をしていた。一年余りして、馴及び馬はいずれも失明した。

 

 

蜀庚午年、金州の刺史王宗朗が上奏した。「洵陽県洵水の畔に、青煙廟があります。数日、廟の上で煙雲が昏くなり、昼夜楽が奏でられました。突然ある日、水波が躍り、龍の群れが水上に出、漢江に入ってゆきました。大きいものは数丈、小さいものは一丈余でした。黄であったり、黒であったり、赤かったり、白かったり、青かったり、牛馬驢羊の形のようなものがあり、大小五十が、塁塁として相次ぎ、漢江に入ってゆきました。退いて廟に戻ったものは、数里を往復し、隠れたり見えたりし、三日で止みました。癸酉年、犀浦の田の中に、小さい龍が一匹おり、青黒い色で、裂いて二片にしました。旬日で腐敗し、その後も消え去りました。摩訶池は、大庁の西側にあり、やはり龍井があり。たいへん霊験があり、人は犯すことができません。

 

 

成都書台坊武侯宅の南、乗煙観内の古井戸の中に魚がおり、長さは六七寸、しばしば井の上を泳いでいたが、水はかならず湧き上がった。言い伝えでは、井戸に龍が居るとのことであった。

 

異虎

永帰葭萌界の嘉陵江のほとりに、婦人がおり、年は五十過ぎであった。来てみずから十八姨と称し、しばしば民家にいったが、飲食しなかった。つねに人に教え諭すには、善事だけをし、神理に背くことがなく、家では温和にし、孝行を上とするように、悪事をするものに対しては、わたしはつねに猫三五匹に、巡検させているとのことであった。語り終わると、去った。ある時は奄忽として見えなくなった。毎年約三五度、人が彼女に遇った。民は聞き、彼女は虎が化したものであることを知り、みな彼女を畏敬した。

 

 

吉陽の[3]は、涪州の南にあり、黔江を三十里遡ると、そこに着いた。神像・古碑はまだあり、地産はたいへん多く、人が犯そうとすることはなかった。涪州の裨将蘭庭雍の妹は、化中[4]を訪ねては、常住[5]の物を盗み取っていたので、路に迷い、数日の内に、身は虎に変じた。その前足の上には、銀纏[6]金釧が、宛然としてなお残っていた。郷里の人に会うたびに、樹を隔ててともに語り、言った。「わたしは化中の物を盗みましたので、このように変身しました。」彼女の母に面会を求め、人にそのことを言ってくれるように頼んだ。母は彼女を畏れ、ゆこうとしなかった。虎は郭外を行き来し、年を経て次第に去った。

 

異亀

皇帝は、方士に一匹の小さい亀を献上されたことがあったが、径一寸で金色で愛らしかった。方士は言った。「この亀は神なのでものを食べず、[7]の中に置けば、大蛇の毒を避けられましょう。」聖上はつねに巾箱[8]の中に貯えていた。すると突然小黄門が、恩沢が深い時に、骨肉に連座し、[9]流されることになった。法を枉げてかれを救おうとはせず[10]、ひそかにこの亀を授け、かれに勅して言った。「南荒[11]には大蛇が多いから、つねに亀を傍らに置いておけば、苦しみをなくすことができよう。」宦官は拝受してそれを懐にした。象郡の属県に達すると、里市館舎には、悄然として一人もいなかった。旅館に投宿すると、飲膳、燈燭供具には一つも欠けたところがなかった。その夜、月は明るく昼のようで、風雨の音がした。その勢いは次第に近づいたので、その亀を出し、階上に置いた。しばらくして、神亀は頚を伸ばし、気を吐いた。その大きさはのようで、まっすぐに上り、高さは三四尺で、徐徐に散じ去った。その後、普段通り亀は遊んだり休んだりし、以前の風雨の音も絶えていた。夜が明けると、駅吏が次第に来、庭で羅拝し、言った。「昨日天使が来ようとしていることを知りましたので、お迎えの準備をするべきでしたが、たまたま旅人が誤って一匹の蛇を殺しました。人々は復讐があること、蛇が今晩かならず害を為すことを知っていますので、付近の住民たちは、みな三五十里外に出、その毒気を避けています。わたしたちは遠く去ろうとせず、近くの山の岩穴の中に止まり、潜んで朝を待ちます。今、天使さまが恙ないのは、神明に助けられているためで、人力が及んでいるのではありません。」しばらくして、通行人が次第に来て言った。「道に大蛇十数匹がおり、みなすでに糜爛しています。」それから二度と怨みに報いる(もののけ)はいなくなったが、人々はその理由が分からなかった。年が明けると、黄門は召しに応じて長安に帰り、ふたたび金亀を進上し、泣いて謝して言った。「わたしの命が、これのおかげで全うされただけでなく、南方の人は、永く毒蛇を除かれ、守られた人命は、記録し尽くすことはできません。ほんとうに聖徳が及ぶことで、神亀の力です。」

 

 

武成三年庚午六月五日癸亥、広漢太守孟暉が奏するには、西湖に金亀がおり、径寸、荷の葉の上を泳ぐとのことであった。図を描いて知らせた

 

 

商人がおり、舟を汴河のほとりに繋いだ時、一匹の大亀を捕らえたので、竈の火の中でそれを焼いた[12]。その晩、たまたまそれを出すのを忘れた。翌日取り出して見ると、皮と殼は焦げてしまっていたが、灰を払い去り、食床の上に置き、おかずにしようとした。するとしばらくして、頚を伸ばし、足を動かし、ゆっくり床の上を歩き、普段通りに活動した。人々がともにそれに驚き、水中に投じたところ、遊泳して去った。

 

 

宣州の下流採石山の西岸に、西梁山があり、東梁と水を隔てて相対していた。西梁の住民は亀を捕らえることを業としていたが、生きながらその腹甲を外し、灼卜の道具としていた。その甲羅を外し、肉とともに水中に棄てても、なお動くことができた。ある人がその腹甲はまた生じるといい、毎年それを取っていたが、日々道具を供給し、極まることを知らなかった。この山は亀を産出し、尽きたことがなかった。天下の占いの亀は、すべてここから出ているが、その理由は分からない。

 

 

唐の高祖の武徳三年、老君が羊角山に現れたので[13]秦王は吉善行を入奏させた。善行は老君に告げた。「入京した時に、証拠にする物がないわけにはゆきません。」老君は言った。「あなたが京師にゆかれる日、亀のような石を献じるものがおりますので、証拠とすることができます。」朝門に来ると、ほんとうに邵州で亀のような石を献じるものがおり、下に六字の文があった。「天下が安らかであることは、千万日である。」

 

 

武徳末年、太宗内患を平らげた。苑内の池の中に白い亀がおり、荷の葉の上を泳いでいた。太宗がそれを取ると、白い石に化したが、玉のように澄明であった。登極した後に、制[14]を降して言った。「皇天眷(くわうてんめぐ)(たす)(たま)ふに(はう)()(もつ)てす。」

 

の丁卯年、の廟城壕の岸の横穴の中で、亀が四亀を生み、それぞれ二三寸、背に金で王の字が書かれ、「大吉」の字があった。

 

蜀皇帝元年己卯七月十五日庚辰の降誕広聖節に、堋口鎮将徽が、真人[15]で、白い亀を見つけて献じた。長沙県で、東晋の太始元年に、神亀がおり、皎然として白い色で、その体は長さが四五尺、それが水中から出、巡って岸の上にいったので、亀塘といった。下に良田百余頃があった。

 

異黿

黿は、その体はのようである。腹の下の赤いものは黿で、白いものは鼇である。俗にいう。「黿の体には、十二種の肉があり、漁師はそれを捕らえる際、それに殺されることを懼れ、かならず鉤と利器を加え、それを制するが、長い柄の巨きい斧で、それを[16]、ばらばらにし、自由に大きくしたり小さくしたりしても、湯鑊に投じていなければ、みな跳んで逃げることができる。鼇と黿は、きわめて大きなものでも、蚊蚋がそれを咬めば、一晩で死ぬ。

 

 

蜀江のほとりで巨きな鼇を捕らえたものがいたが、通常のものより大きく、長さは尺余、その裙[17]は朱色であった。鍋の中でそれを煮たが、夜を経ても自若として遊び戯れていた。さらに火を加えると、一日で水が涸れたが、鼇は死ななかった。家じゅうが驚き懼れ、龍の類だと思い、江の中に投じると、浮かんで去り、二度と見えなかった。

 

異蛇

の間に蛇がおり、長さは三尺、甕のように大きく、小さいものも柱のようであった。兔頭蛇身で、項の下は白い色で、人を害しようとするのであった。山の上から出、くねくねとして下り、旅人を噬り、かならずその腋に穴を開けて血を飲んだ。その名は坂鼻といい、つねに穴の中に隠れ、かすかにその鼻を出して鳴き、声は牛が吼えるかのようで、数里の地に聞こえ、そのために震動した[18]。民で冬に田を焼くものがおり、それを焼き殺すことがあったが、脂が多いだけであった。

 

 

乾符年間、神仙駅に大蛇がおり、黒色で、高さは三十余丈であった。小さい蛇たちは、椽のよう、柱のよう、十石五石の甕のようなものが数百頭で、それに従い東から西に、群れて進んだ。辰の刻以前からそれを見たが、酉の刻になってはじめて尽き、その長さは幾里か分からなかった。尽きようとすると、一人の小児が紅旗を執り、蛇の尾の上に立ち、跳躍鼓舞して過ぎた。その年、山南節度使陽守亮[19]が敗れた。

 

 

南海の中に山があり、高さは数十里、周囲は百里であった。毎年夏、大蛇がおり、山を三四周巡り、海水を飲み、このようにすることを常としていた。ある日海水を飲んでいる時、大蛇が海の中から来この魚を吞み[20]、天地は暗くなり、しばらくして二度と見えなくなった。

 

 

鶏冠蛇[21]は、頭が雄鶏のようで、冠があり、身長は尺余、胴回りは数寸ばかりで、人に中たるとかならず死ぬ[22]。会稽山麓にそれがいる。

 

 

爆身蛇は、長さは一二尺、体は灰色のようである。人がゆく音を聞くと、林の中から飛び出し、形は枯れ枝のようで、横から来て人を撃ち、中たるものはみな死ぬ。

 

 

黄頷蛇[23]は、長さは一二尺、色は黄金のようで、石の隙間に居り、雨ふろうとする時、牛の吼え声をなし、人に中ればやはり死ぬ。四明山にそれがいる。

 

 

郫県に民がおり、南の郭の溝渠の辺で一匹の小さい蛇を捕らえたが、長さは尺余、五臓を抉り、丸めて串刺しにして煙火の上に置き、それを焙った。数日して、民家の子供で数歳のものが、突然全身が赤く腫れ、皮膚が焼け破れ、苦痛に呻吟するさまは異常であった。そしてみずから語った。「おまえの家はゆえなくわたしを殺し、胃腸を抉り、火の上に置いたから、さらにおまえの児この苦しみを知らせよう。」民家はそれを聞き、驚き、蛇を取り、竹串[24]を抜き去り、水でそれを洗い、香を焚いて祈り謝し、元の所に送った。しばらくして、蜿蜒として去り、民家の児も平癒した。

 

異魚

南海の中に山があり、高さは数千尺であった。二つの山が十余里離れていたが、大魚が闘い、髻鬣が山の中腹に掛かり、山はそのために崩れた。

 

郫県の侯生は、漚麻池の側で蝉魚を捕らえたが、大きさは胴回り一尺ばかりであった。調理してそれを食べると、髪が白いのがまた黒くなり、歯が落ちたのがまた生え、それから敏捷健康になった。

 

 

天復初年、馮行襲侍中が金州洵陽県を節制した。永南郷の人民梧君懐は、漢江勒漠潭で、魚を採ったが、長さは数尺で、身に字があり、言った。「三度海を過ぎ、二度漢を上り、勒漠に往来し、命は梧君に帰する。

 

 

前の進士崔道紀は及第した後、江淮の間に遊び、酒に遇えばたいへん酔い、旅館に臥していた。かれのしもべが井戸の中から水を汲むと、一尾の魚が桶に従って上ったので、しもべはそれを捕らえ、そのことを道紀に告げた。道紀は喜んで言った。「魚羹は大いに酒を醒ますことができるから、すぐにそれを調理しろ。」食べると、しばらくして、黄衣の使者が、天から下り、庭の中に立ち、つづけて道紀を呼び、人に捕らえさせ、勅を述べて言った。「崔道紀は、下界の貧民なのに、龍の子を殺した。官位は宰相に至り、寿命は七十に至るべきであったが、いずれも帳消しにするべきである。」そう言うと、昇天して去った。その夜、道紀はにわかに亡くなり、その時年は三十五であった。

 

 

鱨魚[25]は形がのようで、その文様は赤い斑で、長さは一尺余、豫章の地にいたが、泥池の中に居ることが多く、ある時は数百に達していた。𩲲(子故の反)鬼となり、妖怪を幻惑することができたが、人を惑わすこともできた。その汚池の近くに田地があったが、人は犯そうとしなかった。ある人が申告してそれを租借したが、その租借料を重くすると、田はすぐに豊作になった[26]。自分の姓名を隠し、それを三年耕作し、その後捨て去りさえすれば、かならずその害を免れるのであった。人の災いとなるものは、人の面目を捩り、人の手足を反らせることができたが、それに祈って謝れば許されるのであった。夜間に陸地を歩くこともでき、通った所には、泥の痕跡があり、ゆく所には、嗾嗾(ソウソウ)[27]という音が聞こえた。北帝二十五部大将軍[28]は、破泉𩲲符を磚石の上に書き[29]、それを池の中に投じたり、板に書いて池の畔に釘づけにすれば、かならず風雨雷霆により、他所にゆくのであったが[30]、この術に長けたものが、はじめてそれを行えるのであった。

 

 

鯸鮧魚[31]は、斑紋が虎のようで、俗に、「それを煮て火が通らなければ、食べたものはかならず死ぬ」と言われ、それが通常であると伝えられている。饒州に呉生というものがおり、家はたいへん裕福で、妻の家も裕福であった。夫婦は仲睦まじく、まったく仲違いすることがなかった。ある日、呉生が酔って帰り、体を床の上に投じたので、妻は衣を整え、屨を解いてやり、かれの足を支えて挙げたが、酔ったものが動き、誤って妻の胸に中たると、その妻は蹶然として死んでしまった。酔ったものは気づかなかったが、すぐに妻の一族に侮られ、撃ち殺したと言われた。訴訟して年を経たが、州郡は審理することができず、事件を上申し、牢獄に束縛し、自然死を待った。呉生の親族は、勅命が到着すれば、かならず厳刑があり、一族の恥となることを懼れた。そこで獄に鱠の鯸鮧魚を送ってかれに食べさせ、かれが獄中で自殺することを願った。呉生はそれを食べたが、苦しみはなく、このようなことが再三で、結局殺せず、ますます元気になった。まもなく赦免に遇うことができ、家に帰った後、子孫は盛んで、年は八十に達し、結局天寿を全うした。さらにそれを調理して火が通っていなければ、なお人を殺すことができ、生は再三食べたのに、殺されなかったが、これはもしや運命か。

 最終更新日:2018521

錄異記

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[1]村の定期市。

[2]未詳。

[3]地方政府の所在地。

[4]原文同じ。未詳。文脈からすると道観の名か。「化中観」という道観があるか。

[5]https://baike.baidu.com/item/%E5%B8%B8%E4%BD%8F観の中の主事者。

[6]原文同じ。未詳だが装身具であろう。

[7]枕匣。枕の下に置き、貴重品を珍蔵する匣。

[8]頭巾入れ。

[9]南方の辺境

[10]主語は皇帝。

[11]https://baike.baidu.com/item/%E5%8D%97%E8%8D%92南方の荒凉遥な場所

[12]原文「於竈火中煨之。」。「煨」は灰の中に入れて熱すること。

[13]https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=456206&searchu=%E7%BE%8A%E8%A7%92%E5%B1%B1

[14]http://www.zdic.net/z/16/js/5236.htm命令。

[15]原文同じ。未詳。

[16]原文「而碎之」。未詳。「」は「」の誤字であろう。

[17]鼈の甲羅の縁の部分。

[18]原文「為之震業焉」。未詳。書影は「震」に見えるがそれでも意味は通じない。

[19]原文同じ。楊守亮の誤り。

[20]原文「有大蛇自海中來吞此魚」。はじめて出てくるのに「此魚」というのが未詳。脱文があるか。

[21]https://baike.baidu.com/item/%E9%B8%A1%E5%86%A0%E8%9B%87

[22]「死ぬ」の主語は「人」であろう。

[23]https://baike.baidu.com/item/%E9%BB%84%E9%A2%94%E8%9B%87

[24]原文「剗竹」。未詳。

[25]

[26]原文「厚其租直、田即部豐。」。「部」が未詳。

[27]「嗾」の音はsǒu

[28]原文同じ。未詳。

[29]原文「有破泉𩲲符、書於磚石之上」。未詳。「破泉𩲲符」は、おそらく、水中に棲む𩲲を調伏するための符呪であろう。

[30]主語は鱨魚。

[31]フグ。

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