録異記巻三

 

 

 

忠 

二年丙午正月二日壬午、河東の兵士が入京した[1]。その時、車駕はすでに陳倉に巡幸していた。諸侯はいそいで訪問し、次々に来た。河東の帥は都城の朝士[2]たちを捜索し、新昌[3]の地下室で奉常[4]牛公叢及び甥姪三四人を見つけ、軍将盧謙とともに、河東に連れてゆこうとした。しかし盧謙は病んでいたので、井戸端に捨てて去った。牛公が河東にゆくと、が迎えて敬い、師に勝っていた。公も忠孝の道、君臣の礼によって、かれを諭した。朝廷の故実・政治体制についても、晋王はしばしば公に尋ねた。その年の六月、僖宗はに御幸し、蕭遘裴徹襄王を長安で立て、と称した。京輔の東西及び江南河北は、すべて襄王の教令を伝えてかれらを安撫し、勲爵を加えたり、進貢を促したりし、諌議大夫鄭合敬に命じ、[5]教令[6]官告[7]を持って河東に入らせた牛公は晋王に言った。「聖上は陳倉に駐蹕しているそうですが、きっと南のに御幸することでしょう。襄王が立ったのは、民心を得たからではございません。そもそも蕭・裴の輩が[8]が権力を持っているのを嫉み、扈衛[9]して南に去ろうとしなかったため、この擁立があったのでございます。君主は外におり、襄王の教令は、真命[10]ではございません。」晋王は悖然として、その使者を殺し、その教令を焼いた。一か月余りで、道路は杜絶し、それ以上朝廷の消息は知れなくなった。牛公は憂戚して楽しまず、そのために病となった。晋王はしばしば治療を命じ、ある時はみずから住居にゆき、飲食を勧め、衰弱を招くことはなかった。盧謙は病が癒えると、西京から乞食して道を辿り、公の消息を探り、やはり河東に達した。晋王はかれの忠節を嘉し、右職[11]を授け、かれの左右の将校に言った。「主君に仕えて忠勤を尽くしたものに[12]、盧謙というものがいるので、わたしは衣を脱いでかれに着せ、食べものを均しくしてかれに食べさせようとしている。どうしてさらに官爵と手厚い褒美を惜しもう。」ある日、医者は突然、牛公に、路を進んでいる時に誤って伝えられた消息を語った。「襄王は位に就き、聖主は昇遐[13]しました。」公は大声で叫び、血を吐いて気絶した。しばらくしてはじめて正気づき、みずから遺表を草し、ねんごろに晋王の忠孝忠節を述べ、老いて病んでおり、扈衛したり奔って訪ねたりすることができないとみずから言った。言辞は激烈で、見たものたちは感動し、公は嗚咽涕泗し、しばらくして筆を止めて薨じた。晋王はしばらく驚き悲しみ、医者を斬って謝した。そして駅で上表し、盧謙に命じて行在に上奏させ、岐府[14]に上申させた。詔勅が下され、褒美が与えられ、牛公には忠貞公が贈られ、盧謙には滑州別駕が授けられた。

 

 

僖宗が蜀にいた時、司封郎中万年[15]県令を授け、御史中丞を兼ねさせ、先に帰京させた。乙巳年、聖駕が長安に戻ると、右散騎常侍に転じた。十二月二十五日乙亥、蒲帥が宮闕を犯した。その夜の三更、駕がを出た際、慥は病に臥せっており、扈衛できず、ひとり平康里に居たが、の麓に奔った。それから門を閉ざし、姿を隠し、数ヶ月養生した。その夏、襄王は京師で称制し、捜索具申し[16]教令[17]は峻厳で、は権力を握り、内外は畏れ憚っていた。慥はもとより不安であったので、疾を押して起きた。詔を偽るに及び、左常侍を加えられたが、慥は病と称して朝見せず、襄王の使者に謝した。御医はかれを見、薬物を賜ったが、一つも受けることはなく、慟哭して薨じた。朝野はそれを聞き、みな痛惜した。

 

 

僖宗は蜀に御幸し、黄巣は長安を陥落させた。南北[18]の臣僚には馳せ参じて来るものが相継いだ。まもなく、金吾直方が宰臣劉鄴・于悰諸朝士らと、密議して行在に馳せ参じようとしたが、群盗に気づかれ、誅殺されたものがきわめて多かった。それから要害を押さえ[19]内外は杜絶したが、京師には食糧の備蓄がなお多かった。工匠劉万余、楽工ケ慢児、[20]者摘星胡弟米生は、ひそかに言い合った。「賊は向かう所敵なしだが、都には食糧の備蓄がたいへん多い。諸道は帰順せず、他所の物品は入って来ないが、持ち堪える力は、数年間尽きていない。わたしたちは国恩を受け、深く忠赤を尽くすことを志しているが、飛んで逃れようにも門がなく、みな逆党に使役されている。わたしは献策し、その根を尽くそう。外の物品が来ず、内の食糧が尽きれば、一二年たらずで、おのずから滅亡しよう。」万余は、黄巣にかれの賢さを憐れまれ、常に左右に侍直[21]していたので、唆して言った。「長安の苑囿[22]城隍[23]は、百里に止まらず、外兵が逼って来れば、防備が必要で、そうしなければ固守することは難しいでしょう。望仙門以北、玄武・白虎諸門の周囲に、広く城池を築き、[24]を設け、敵を退け、防備とすれば、持久して安泰となりましょう。」黄巣は喜び、さらにかれの忠節を褒め、すぐに言った。「[25]壮丁それぞれ十万人を選んで招かせ、城を築かせ、一人に米二升、銭四十文を日々支給しよう。左右軍には米四千石、銭八千貫を支給しよう。」一年余りしても、竣功は報告されず、城池は巡らされていず、太倉[26]の穀物を出して人夫の食糧を支給するに至った。その後、の皮を剥いで[27]を充たしたが、城は結局完成しなかった。万余は賊がかれの謀略に気づくことを懼れ、都を出て河陽にゆき、一年を経て病死した。ケ慢児は琵琶を弾くのが上手で、楽府[28]はその首領に推していた。黄巣はたいへんかれに親しんでいたので、その右手に灸し、風廃[29]であるとごまかし、まったく弾いてやらなかった。かれに礼することはたいへん厚かったが、楽器を執り、音曲を奏でてやったことがなかった。三五日に一度、禁中に招き入れると、かならずかれに金帛を与えていた。ある日、かれの友人に言った。「わたしは、忠節の士は、死があるだけだと聞いている。わたしはしきりに賊寇に逼られているが、絶対にかれのために節を枉げ、曲を奏でることはできない。今日、招かれたからには、わたしは死に就き、二度と帰らないだろう。」妻女一児と訣別した。使者がかれを促し、入って黄巣に会わせると、黄巣は欣然として言った。「おまえは楽官たちが技芸第一であると推戴しているものだ。久しく風廃であると言っているが、わたしはおまえを信頼している。まさか二三節琵琶が弾けないわけがあるまい。全曲弾くことはない。」慢児は言った。「わたしは身を捧げ、労に服し、朱紫[30]服はすべて唐の天子の賜わり物ですから、もとより前朝の恩に背き、この音楽で他人を楽しませるに忍びません。」巣はたいへん怒り、かれを斬り、かれの一家を屠るように命じた。摘星胡弟は射撃が上手で、発すればすべて中たっていたので、巣はたいへんかれを愛し、錦の服を着せ、出入りする時はつねに馬前にいた。渭橋が官軍に奪われると、黄巣はみずから兵を率いてそれを防ぎ、橋に来ると、米生に引き絞って射るように命じた。およそ十数本の矢を発したが、矢はすべて遠くに達したのに中たらなかった。黄巣はかれを詰った。「矢はすべて遠くに達したのに、物に中らなかったのはどうしてか。」「聖唐の兵士は、親戚でなければ旧友ですから、中てなかったのです。」巣は怒り、やはりかれを殺した。

 

資州の人陰玄之は、若くして五経を習い、もっとも左史に精しかった。父が歿すると、廬墓して六時[31]臨んで哭したが、つねに渓龍山の虎がかれの叫び声を助け、しばらくすると、鬼神も哭するのを助けた。毎晩二つの燈が来て墓前を照らし、夜が明けると消えた。さらに母の死に遭うと、廬墓することおよそ六年で、草庵が破損しても、まったく修理せず、土の穴の中に居た。つねに腰の[32]を患いしわがれ声で講誦して倦まなかった。つねに人に言った。「名誉や仕進を求めるのは、わが身のためではない。わたしは両親がともに歿し、俸禄は孝行するのに間に合わず、どうして名誉を必要としよう。」結局受験せず、貧苦して一生を終え、年が八十余で亡くなった。

 

 

 

揚太広は、資州の人であった。年は十六で、父母の墓を守ること三年であった[33]。神燈が墓を照らし、猛虎が馴れ従い、白兔の異変があった[34]。蜀相王公[35]は上申し、勅を降して褒奨し、かれの門閭を表彰した。

 

 

句龍弘道[36]は、梓潼山麓、偃武亭の南に住んでいた。官路の東で廬墓し、年は八十を越え、髪は長さが丈余であった。父母の二つの墳墓には、それぞれ紫芝一茎が生じ、高さは六七寸であった。猛獣を馴れ従わせることを、常としていた。広明辛丑、僖宗は蜀に御幸し、みずからかれの邸宅に御幸し、庭の中の巨石の上に坐した。弘道はその後ろに亭を作り、その石を覆って護った。乙巳年、聖駕が戻り[37]、さらにそこに臨幸したが、銭帛衣物を賜わることはたいへん多く、行き来するたびにこのようであった。駕は剣州に駐まり、詔してかれのを三年復し[38]、ふたたび表彰を賜わった。

 

感応

夾江の県令検校工部尚書朱播は、在官中、病に罹り、四肢を動かすことができなくなり、すっかり体が重たくなったことがあった。寝返りを打つたびに、数人に助けられねばならなかったので、風廃[39]で、薬餌で治療しても効果はないと思った。すると突然眼が痛み、さらに痙攣し、昼夜煩悶した。さらに数日して、喉が渇き、嗜水[40]及び湯飲[41]を作ったが、石斗の量を知らなかった[42]。さらに数日して、心が狂い、憤憤とし、会っているものがいるかのようであった。幸いにもかれは困憊して動くことができなかった。そうでなければ、髪を乱し、裸で走り、畏れ憚ることがなかったであろう。旬日の間に、四つの病気が相継ぎ、風露[43]の危険は、旦夕に迫った。昼夜寝なかったので、きわめて疲労し、突然夢現となると、七人の仙人が、前に列坐したが、身長はわずか五六寸で、衣服冠服、眉目髭髪は、歴歴として分明であった。五人は寄り添って坐し、二人は両脇に横坐していた。播は心の中で、正坐するべきなのに、横坐するものがいるのはどうしてかとひとり考えた[44]。すると突然、そばの空中で人が答えるのが聞こえた。「仙人なのですから、できないことはなく、横坐するのを咎めることはありません。」聞き終わっても語った人は見えず、七仙人も見えなくなった。それからつねに人が手・足を握り、背・腕を打つのを感じ[45]、病気は次第に軽減し、かれが日々嗜む冷水湯飲は、にわかに半減した。このようにして三五日で、すぐに公務を主持し、賓客に応対することができるようになり、病はすっかり治ったので、北斗七星真人を描いて供養した。

 

 

刀子判官[46]、右僕射尹瓖は、永平三年、病に臥せった。はじめ下痢を患い、昼夜五六十回であった。しばらくして、すぐに心風[47]狂熱[48]となり、言辞に節度がなくなり、忽忽として忘れることが多くなった。つねに転びながら馳せて逃げようとしたので、一家は鍵を掛けてかれを護った。その後、手足が不随となり、肢体は重たくなり、動くたびに、四五人が介助し、はじめて几案に凭れることができた。さらに数ヶ月を経、家人が見ると、昼夜疲労していた。すると突然一人の老人に会ったが、髭と鬢は白く、白い衣を着ており、来て瓖に言った。「病気はすでに尽きたのに、なぜすぐに起きない。」すぐに手でかれの頭を擡げると、起きて坐することができた。逡巡し、みずから起き、油を添え、燈の下に注ぎ、床の前で、鞋を取り、それを穿き、四顧し、下僕がみな疲れて臥しているのを見ると、かれらを驚かせようとせず、みずから燭を持ち、門を出、家じゅうを巡り、その後かれの場所に戻った。一家は驚いた。それからすべて治った。

 

異夢

礼部尚書庾樸が進士に挙げられた時、かならず史冊に名を留めるだろうとの名声がさかんであった。夢みて桂宮[49]に入り、桂枝を折り、人の世に帰ろうとしたが、それを見るとすでに枯れていた。まもなく落第した。その年、帰氏と結婚し、親迎[50]の後、旬日の間に、ひそかに帰氏を見ると、額の上一指ばかりのところに、つねに藝油[51]を塗っていた。彼女に尋ねると言った。「幼い時に火に焼かれ、痕があって髪がないのです。ですからまたの名を桂娘子というのです。」結局及第しなかった。

 

 

前の源州[52]宗夔光天は、戊寅年、一万斤の秤を夢み、そのようなことが三度であった。夢みると、秤を楼屋の脊桁[53]の上に掛けており、まもなく桁も秤はともに折れたので、心のなかでたいへんそれを嫌に思った。その年の十月八日戊申に薨じ、その時、年は六十一であった。

 

 

広明辛丑年正月、僖宗の車駕はすでに左綿郫県に達していた。鎮使[54]任時当は、昼に広間で仮眠しており、突然夢みると、[55]の小吏がかれに告げた。「大将軍が駕を迎えるから、路傍で待機するべきだ。」任はすぐに通衢の側に奔ってゆき、騎兵数千は、すでにまっすぐ北に去り、旌旗隊伍は、異常に厳粛であった。戈甲[56]は多く、首尾十余里、しばらく絶えなかった。介金を地に曳くものは千を数え[57]、白馬朱纓金甲の一人の男を擁し、五綵[58]日月旗[59]が、羅列して従っていた。任は二食頃お辞儀し、儀仗ははじめて絶えた。報せたものに、大将軍は誰かと尋ねたところ、法定寺の裏の李将軍だといった。目ざめると、流れる汗は体を潤し、見たものを思い出すと、なお歴然として目にあった。その年、わたしは詔を奉り、青城で修斎し、そのことを話した。 光庭記す。

 

 最終更新日:2018521

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[1]李克用の軍が長安に入ったことを指していると思われる。

[2]ひろく朝廷のすべての官員を称する。

[3]原文同じ。未詳。

[4]太常

[5]宦官。

[6]国の元首が頒布した条例。

[7]官職を授ける文書、今の委任状。

[8]原文同じ。未詳だが閹尹であろう。宦官。

[9]護衛。

[10]こちらに適当な語釈なし。真の勅命のことであろう。

[11]重要な位。

[12]原文「事主勤盡」。未詳。

[13]帝王の死去の婉辞。

[14]岐王李茂の王府。

[15]江西省。

[16]原文「搜訪具言」。未詳。

[17]一国の元首が頒布した条例。

[18]原文同じ。未詳。南方北方中国のことか。

[19]原文「自是阨束」。未詳だが「阨束」は「束阨」に同じであろう。

[20]レスリング。

[21]宮廷で伺候聴命あるいは宿直すること。

[22]禽獣を養い帝王の遊楽供する園林。

[23]城河。

[24]守城あるいは攻城の高層の兵器

[25]安。

[26]政府が糧食を貯蔵する場所。

[27]皇帝の飲食を供給する厨房あるいは厨師。

[28]原文同じ。未詳。ここでは教坊のことではないか。

[29]原文同じ。未詳だが中風などを伴う廃疾であろう。

[30]朱衣紫綬、顕貴の者の服色。高官の

[31]二十四時間。

[32]過度の哀痛によって引き起こされる気逆の病症。

[33]原文「廬父母墓三年。」。父母の墓で廬墓したということ。「廬墓」は服喪期間中、墓守すること。

[34]原文「有白兔之異」。未詳。

[35]未詳。

[36]句龍は複姓らしい。

[37]正月二十三日の唐僖宗の長安還御をいう。

[38]原文「詔復其租賦三年」。未詳。

[39]原文同じ。未詳だが中風などを伴う廃疾であろう。

[40]原文同じ。未詳だが文脈からして何らかの飲み物であろう。

[41]原文同じ。未詳だがスープの類であろう。

[42]原文「不知石斗之量」。未詳だが何石何斗か分からないほどたくさん飲んだということであろう。

[43]人が老衰し、死亡に近づくこと

[44]原文「播心自思之正坐、即有坐如何。」。未詳。

[45]原文「捫拍背膊。」。「背膊」が未詳。「臂膊」の誤字ではないか。

[46]原文同じ。未詳。

[47]失意あるいは憂鬱によって瘋癲に陥った状態。

[48]こちらに適切な語釈なし。発狂を伴う発熱のことであろう。

[49]月宮。

[50]新郎みずから岳家にゆき新婦迎えて戻って来婚礼を成就すること

[51]原文同じ。未詳。

[52]令。

[53]こちらによればのこと。

[54]原文同じ。未詳。

[55]城内で巡邏すること

[56]戈と甲。ひろく武器装備をも指す。

[57]原文「介金曳地者千数」。「介金」は未詳だが金の甲であろう。

[58]もともと黃、赤、白、黒、青五種の色を指す。後にひろく多種の色を指す。

[59]日月旗、帝王の仗の中で日月の象を描いた旗。

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