録異記巻二

異人

李特は、字を玄休といい、廩君[1]の後裔であった。昔、武落鍾離山が崩れ、岩窟二か所ができたが、一つは赤く丹のようで、一つは黒く漆のようであった。赤い洞窟から出てきた人は、務相といい、姓は巴氏であった。黒い洞窟から出て来たものは、およそ四姓で、氏、樊氏、梧氏、鄭氏であった。五姓がすべて出て来、いずれも長になろうと争ったので、務相は剣で洞窟を刺し、当てることができたものを廩君とすると約した。四姓は当てることがなかったが、務相の剣は懸かった。さらに土で船を作り、それに彫刻描画して水中に浮かべ、言った。「その船が浮かべば、廩君としよう。」やはり務相の船だけが浮かんだので、廩君と称した。その土船に乗り、その徒卒を率い、夷水に当たって下り、塩陽にいった。塩陽の水神の娘が、廩君を止めて言った。「ここは魚と塩があり、地も広大です。あなたとともに生きましょう。止まるべきです。ゆかないでください。」廩君は言った。「わたしはあなたのために廩地を求めるべきです。止まることはできません。」塩神は夜に廩君に従って泊まり、朝にすぐに去り、飛ぶ虫となり、神々はみなかれに従って飛び、日を蔽った。廩君はかれを殺そうとしたが、識別できず、天地東西も分からず、そのようにすることが十日であった。廩君はすぐに青い縷を塩神に贈り、言った。「これを纏えばすぐにそれを良しとし、あなたとともに生きますが、良しとしなければ、あなたを除きましょう[2]。」塩神が受けてそれを纏うと、廩君は碭石[3]の上にゆき、胸に青い縷があるものを眺め、跪いてかれを射たところ、塩神に中たり、塩神は死に、群神とともに飛ぶものはみな去り、天は明るくなった。廩君はまた土船に乗り、夷城に下っていった。夷城は石岸が曲折し、泉水も曲折し、それらを眺めれば穴の形のようであった。廩君は嘆いた。「わたしは穴の中から出たばかりなのに、ふたたびここに入って、どうしよう。」すると岸はすぐにかれのために崩れ、広さは三丈余、階段が連なったので、廩君はそこを登った。岸の上に平らな石があり、長さは五尺、一丈四方であった。廩君はその上に休み、(つえ)を投じて計測すると、すべて石に当たった[4]。そこで城をその傍らに建ててそこに住んだ。その後、種族は多くなり、秦が天下を併呑すると、黔中郡となった。賦税を軽くして集め、年に銭四十万を出した。巴人は賦税をと呼ぶので、かれらを賨人というのであった。

 

 

袁起は、後漢の湘中の人であった。郷里突然酔い、三日してはじめて醒め、起きて吐くとみな酒の臭いを感じ、「わたしは天神とともに飲んだ。」とみずから言った。後に漢陽県令に任ぜられ、豊作凶作を予言して験があり[5]、昼は陽間(ひとのよ)で裁判し、夜は陰間(あのよ)で裁判した。突然雲に乗って天に上り、所在が知れなくなった。

 

 

契真先生李羲範は、北邙山玄元観に住んでいた。咸通末年には、すでに数年になっていた。洛城徽安門入るたびに、かならず服を改め、轡を止めていた。李生というものがおり、どこの人か分からず、年齢容貌は五十余ばかりで、先生と宗従[6]の礼を述べた。揖してかれの住居にゆくと、学童十数人がおり、生には一妻、一男がいた。かれの家はたいへん貧しく、忙しかった。それから先生は往来し、かれの学校に止まることが多く、異常に親しくした。突然ある晩、邙山にゆき、先生に別れを告げ、炉を囲み、夜に話し、かれがどこにゆこうとするか尋ねると、生は言った。「わたしは今から世を去るのであり、遠くゆくのではありません。わたしは冥曹[7]から命を受け、城内の住民たちが日々用いる水を供給することを司っていました。今月期限がすでに終わりましたので、ながく留まることができず、三日後に死に、五日後に妻子がわたしをこの山の下に葬ります。借りるものですが、葬送する人を雇うのに、一千銭を借ります。[8]がそれを貸してくださることを頼みます、そのためにお頼みし、お別れを申したのです。」そこで言った。「人の世で水を用いるのは、日々三五升を用いるに過ぎず、これを過ぎると極まり、福寿を減ずることがありますので、切にそれを慎むべきです。」かれの死後の暮らしについて尋ねると、生は言った。「わたしの妻は葬儀を執行する役夫を招きますが、かれの姓は王です。わたしの子供は後に僧となりましょうが、かれの師は江南におり、二年以上してはじめて来、名は行成といいます。来ない間は、ひとまず観に寄食します。」先生は言った。「道士にさせても、宜しいですか。」生は言った。「かれは僧侶の器で、道士になることはできません。人力でそうさせることができるものではなく、陰隲で定められていることです。」そう言うと、夜が明けたら去ることを告げた。それからしばしば寒雪に阻まれ、さらに五日間洛城に入らなかった。晴れると、李生の妻は、数人と先生の所にゆき、李生が世を去ったと言い、今日山麓に葬り、千銭が足りないが、以前先生に助けるように頼んだので、取りに来たと言い、さらに男子を先生の院に預けようとした。後に江南の僧行成がほんとうに来、先生の家に泊まり、そこで李生の男子をかれに委ねると、行成は欣然として連れ去った。言った。「すでに成約があり、学業を教え、かれを得度させて僧としましょう。二年余りして、行成がまたゆくと、すでに僧となっていた。『法華経』を暗誦してたいへん通熟していると言った。はじめ、先生は道経をかれに授けたが、年を経ても一枚も記憶することができなかった。人の宿命は、ほんとうにあり、まことに僧の器であった。

 

 

李業は進士に推挙せられたが、落第し、陝西の虢山を訪ねた。途中、突然の雷雨に遭ったので、田舎家に入ってそれを避けた。隣家はたいへん遠かった。田舎家では一人の小童が家を番しているだけであった。業は驢馬を牽き、軒下に避け、左軍[9]の李生は、行官[10]の楊鎮とともに、やはり家の中に入った。李には一頭の馬がおり、ともに家の中に入って止まった。すこし晴れると、すでに日が暮れていた。小童は言った。「祖父は帰って来ましょうが[11]、賓客に会うことを好みませんから、去られるべきです。」業は言った。「ここはよその家からたいへん遠く、日は暮れていますから、もとより進んでゆくことはできません。」まもなく老翁が帰り、客に会うと、欣然とし、特別な礼節で招待し、引き止めて宿泊させた。夜が明けると、ねんごろに留めて食事を供しようとした。業は再三感謝し、言った。「お孫さんは祖父が賓客を好まないと言い、わたしは夜を恐れ、ゆくことができず、たいへん心配していました。たいへん思い掛けないことに、過分のお持て成しをしていただきましたが、どうしてこれに値しましょう。」翁は言った。「わたしは家が貧しく、客人を留めるすべがないため、客人をお迎えするのが恥ずかしいのです。客人を好まないのではございません。そしてお三方はいずれも節度使ですから、わたしはどうしてお世話しまいとしましょう。」業は言った。「三人の中で、一人が行官であるに過ぎませんから、言い過ぎです。」翁は言った。「行官さまが節度使となられますのは、兵馬使の前であり、秀才さまが節度使となられますのは、兵馬使の後でございます。しかし秀才さまは五たび節度使になられますから、つとめてご自愛なさってください。」数年及第しなかったので、業は戎幕[12]に従った。翌年、楊鎮は仇士良開府に擢用せられ、職を重ねて軍使[13]となり、州節度使に除せられた。李は鎮と同時に軍使となり、ケ州節度を受けた。業は党項を討った功により、振武に除せられ、およそ五たび節度使となり、旄鉞[14]はすべて老翁の言葉の通りであった。

 

 

景知果も有道のものであった。竇図山に居り、虎豹と同居し、かれらを犬のように馴らしていた。鴉数羽が、かれの肩や腕の上に集まり、鳴き戯れるのを常としていた。さらに大蛇がおり、しばしば出て来たが、知果が怒鳴ってそれを追い払うと、蜿蜓として去るのであった。虎数頭が、庭の中で、月夜にたがいに闘い、ひどく跳ねたり踏んだりしたので、知果が怒り、棍棒を持ってかれらを撃つと、散じ去った。知果が観の側で草を刈っていると、兔が草の中に臥していたが、驚かなかったので、手ずから他所に移したが、犬猫のようであるだけであった。かれが異類に親しむことはこのようであったが、ある日行方が知れなくなった。

 

 

鳳州賓佐[15]員外は、しばしば相国満在の[16]におり[17]、幕中で画策・輔佐し、もっとも親しくしていた。賓客に任三郎というものがおり、府中の僚属は、みなかれと知り合いであったが、王とだけ親しかった。まもなく、突然王に言った。「小さな意見の相違があれば、あなたの幸福かもしれません。」さらに十ヶ月して、王は突然主人と意見の相違を生じたので、百余日、病と称した。主人はかれを度外に置き、音信は杳として絶えてしまったが、任はしばしば来た。そしてある日、王に言った。「この土地は災厄を受けようとしています。官街[18]大樹がひとりでに枯れ、事は切迫しています。葉が落ちる時、事が行われますから、はやくお願いして治療を求め、この災厄を逃れるべきです。」王は主人の怒りが消えていなかったので、無理だと思った。任は言った。「わたしが手紙を送りさえすれば、かならず指示がありましょう。」その言葉通り、数日して、三郎が手紙を送って関隴[19]に頼むと、医者を探しに来、ほんとうに人に伝言して励まさせ、すぐにそれによって院[20]を出、金銭匹段[21]を傾け、贈りものは普段に倍して厚かった。王はそこで入って謝し、宴に留め、さらに綵纈錦繍の品物を贈った。その家に着くと、十日足らずで、すぐに北に去るように促した。満相国は郊外で宴を設けたが、別れの贈りものは、わずかに二百余[22]であった。十五六日して、呉山県[23]にゆき、家を借りて止まった。さらに十日ほどして、鳳州の人が言うには、叛乱があり、満公は褒中に帰ったが、同じ院のものたちはすべて兵難で死んだとのことであった。王だけはその禍を免れ、任公はかれの宿舎を尋ね、ふたたびかれに会いにゆくと、かれの所在は知れなくなっていた。

 

 

黄斉は、衙隊軍[24]褊裨[25]で、常に道義を好み、陰徳を施し、を過ごしていた朝天嶺で、一人の老人に遇ったが、髭鬢は白く、顔色は幼児、肌膚は玉のようで、かれに語った。「あなたは道義を好んでいらっしゃいますが、五年後、大きな厄難がございましょう。かならずお救いしますから、つとめて陰徳を思い、従前の志を変えないようにしてください。」その後、斉は峡谷を下っていた時、船が転覆し、早瀬に流れていったところ、人に救われたかのようになり、岸に達することができたが、見れば前に遇った老人であった。その後、所在を失ったが、それからしばしばかれを見た。突然、什邡県の市中で会うと、斉を招き、かれの住居を訪ねさせようとした。北郭の外に出、樹林の中をゆき、二三里ばかりで、すぐにかれの家に着いた。山川林木、土地の趣きは幽勝[26]であったので、一晩留まった。そして言った。「蜀の山川は、大福の地で、久しく帝王の都とするべきです。おおむね前代の聖賢[27]が崗源[28]を鎮圧し、地脈[29]穿って絶ったので、その遅れを招いたのでしょう。この場所を、わたしはすべて知っています。さらに『蜀』の字は『虫』を去り、『金』を着ければ、まさに金徳が永遠であるはずで[30]、西方で王となり、四海を征服することができます。わたしに代わってそのことを仰るべきです。」夜が明け、門を送り出すと、すでに城の北の山内におり、県から七十余里であった。帰ると、人に話したが、まったく上申する方途がなく、数か月して斉は亡くなった。

 

 

夔州の道士王法玄は、舌が大きくて長く、文章を唱えてもあまり適切でなく、常にそのことを遺憾としていた。そこで発願し『道徳経』を読んだところ、老君がかれの舌を切ってくれるのを夢みた。目ざめると言語が軽やかになり、五千言を精誦[31]し、大いに験があった。

 

 

道士郝法遵は、廬山簡寂観に居り、道行は精確で、独力で身を正し[32]、数年を経ていたが、まったく徒弟はいなかった。ふと夢みると、玄中法師がかれに言った。「おまえは人がいないが、たいへんまめまめしくしている[33]。今二人の童僕がいるが、恨むらくは年が小さいことだ。」目ざめると、それを人々に話し、山を出、民を訪ね、王家に子供がおり、年はわずか一晬[34]で、法遵が来たのを見ると、来てその足を抱え、放そうとしなかった。法遵が去った後、昼夜泣き叫び、日を重ねて止まなかった。法遵がゆけば、欣然としてかれを迎えた。かれの父母は言った。「三五年後に、捨てて童僕[35]としよう。」もう一人の小児は、姓を劉といい、眼に五色の光があり、父母がその怪異と思い、眦に灸したところ、その光は消えた。四五になると、観に捨てた。今はすこし成長し、相次いで入道し、ほんとうに玄中が夢で授けた言葉に合っていた。

 

 

湖南の判官鄭郎中莞庭は、今連州刺史となっている。近頃は岳下[36]寄褐[37]している[38]。かれの兄魚監糺は、一男を生み、生まれた時、鶴七羽が、居所を旋回した。七日目になると、七羽の鶴がさらに来た。百二十日目になると、二十七鶴がともに来た。天地は晴朗で、雲気はやや異なっていた。みな日を経て去った。産んだ子は、性質がたいへん淳厚で、外貌は端正で、すぐに鶴を名とし、天復庚申年であった。四明山の道士焦隠黄が伝を立て、その事を記した。

 

 

燉煌公李太尉徳裕のこと。ある日、一人の老叟が門に来たが、五六人を率い、巨木を担がせており、面会を求めた。門番はかれを拒むことができず、公は驚いてかれに会った。叟は言った。「わたしの家はこの桑宝[39]を三代所蔵しています。わたしはすでに老いていますが、公が奇を好まれるのに感動しましたので、差し上げます。木の中には珍宝があり、有能なものがそれを伐れば、かならず得るものがございましょう。洛県に匠がおり、かれの年齢を計えますと、老いようとしているか、すでに歿しているかでしょうが、子孫がかれの秘訣を会得しているはずです。洛県の匠でなければそれを伐ることができるものはいません。」公がかれの言葉の通りに、洛下を訪ねると、匠はすでに死んでいた。かれの子は招きに応じて来、それを横目で見ると、言った。「これはゆっくりと伐るべきです。」そこで切って二つの琵琶とした。おのずから白い鴿があり、羽翼爪足は大小すべて備わっていた[40]。匠がそれを見るとやや失敗があり、厚さが適当でなく、一羽の鴿はその翼を欠いていた。公は形と羽の完全なものを進上し、自分はその一つを留めた。今なお民間にある。水部員外盧延譲が太尉の孫に会った時、その事を語った。

 

 

洪州の北界大王埠の胡氏の子は、その名が伝わっていない。胡はもともと家が貧しく、子が五人いたが、そのもっとも小さいものは、風采がきわめて立派で、この子が生まれると、家はやや裕福になった。農耕養蚕して親を養い、財力は次第に充実し、里の人々はみなそのことに驚いた。かれの家はその子に、船に麦を載せ、流れを遡り、州の市場にゆくように命じた。到着する前、江岸はきわめて険しく、牽路[41]は通じていなかったので、江を横断して渡った[42]。船が岸に着こうとすると、力で制することができなくなったが、沙は崩れ、岸は砕け、穴の中から銭数百万が見つかった。そこで麦を棄て、銭を載せて帰った。それからかれの家はますます富み、奴僕や馬匹を買い、服装を飾ったので、みなこの子には福があり、村にながく住もうとしまいと言った。そして城市に行き来させ、いささか世情に親しませた。途中までゆき、乗っている馬が、地を走っていたのに進まなくなると、かれのしもべを振り返って言った。「船が着いた岸で、銭を見つけたが、馬が走った所にも物があろう。」そこで左右にそれを掘らせると、金五百両を見つけたので、それらを帯びて家に帰った。後日、ふたたび城市にゆくと、商胡[43]がかれに遇い、かれの頭に珠があることを知り、人にかれを誘わせ、かれが親しくしたので、かれに酒を飲ませ、かれの珠を取って去った。はじめ、額の上に肉が隆起し、半球の形のようであったが、珠を失った後、その肉は陥没した。家に帰ると、親戚友人眷属は、みなともに嘆き、それからこの子は精神を消耗し、病になって亡くなった。その家も次第に零落した。

 

 

宣城の節使趙鍠も、額の上に肉が隆起しており、当時の人はかれが珠を持っていると思っていた。淮南[44]にかれの県郡を攻めて奪われると、鍠は乱兵に殺害せられた。兵卒はかれの首級を調べ、額を剖き、珠を得て去り、商胡に売った。胡は言った。「この人の珠はすでに死んでおり、これ以上用いることはできません。」そこで塑像を作る人に売り[45]、仏の額の珠としただけであった。

 

 

趙鷰奴は、合州石鏡の人で、大雲寺の地中に居た[46]。かれの母は数か月孕み、一匹の虎を産んだので、江の中に棄てた。さらに数か月して孕み、一匹の巨きな鼇を産んだので、さらにそれを棄てた。さらに数か月孕み、一匹の夜叉を産んだが、長さは尺余であったので、それを棄てた。さらに数か月孕んで鷰奴を産んだが、眉目耳鼻口は、一つ一つすべて備わっていたものの、かれの項から下、体は断たれた瓠のようで、肩もあった[47]。両手はそれぞれ長さ数寸で、肘・腕・掌はなく、円い肉にそれぞれ六本指が生えており、わずか寸余で、爪も備わっていた。その下に両足があり、それぞれ一二寸で、やはりすべて六本指であった。産むと、それを棄てるのに忍びなかった。成長すると、身長は二尺余に過ぎず、水に入るのが上手で、船に乗ることができた。性質はたいへん狡猾で、口が達者で、たいへん殺戮を好んでいた。魚を捕らえ、豚を屠殺することを生業とし、競艇したり追儺したり、竹枝詞を歌って競ったりするたびに、かならず首位となった。市場で交易すれば、かならず牙保となった。常に緇衣し、民間では趙師と呼んだが、晩年は禿頭白衫[48]で、拝跪跳躍し、地に倒れ、体はかならず裸になっていた。人はかれを笑うことが多かった。驢馬に乗り、遠くゆく時は、人にかれを持たせ、鞍の中に横臥させ、衣囊のようにした。二妻一女がおり、衣食は充足していた。ある時は家族を撃ったが、力は制することができなかった。乾徳初年、年は六十に近く、腰・腹は数囲で、面目は常人に異なることがないかのようであった。その女は右手の無名指の長さが七八寸で、やはり異人であった。

 

 

符氏が関中の新平[49]で王となった時、巨人が人民張靖に会って語った。「符氏は帝王となるはずだ。今は太平に当たり、外部のものは内部に帰属して安泰だ。」姓名を尋ねたが、答えず、まもなくして見えなくなった。新平県令は符健のことを聞き、妖怪であるとし、靖を獄に下した。おりしも大霖雨で、河渭[50]蒲津[51]の寇登が、一つの履を河で見つけた。長さは七尺三寸で、人の足跡もそれに合っており、指は長さが尺余で、紋は深さが一寸であった。健は嘆いた。「覆載の間には、ないものはない。張靖が見たものは、きっと嘘でない。」かれを赦した。

 

 

吉州の東山に道観があり、瀟江を隔て、州から六十里であった。咸通年間、楊尊師が居た。師には道術があり、護符を飛ばして人を救うことができた。道観の側に三つの井戸があり、一つの井戸は塩を出し、一つの井戸は茶を出し、一つの井戸は豉を出した。欠けたものがあるたびに、師はそれを取らせ、みなそれを食べられ、多くの病を癒すことができた。しかし師が得道した後、それを取っても二度と得るものはなかった。

 

 

邵州城下、大江の南の(ふち)で、昔、開元年間に、天師申元之が道士の書三石函を潭の底に隠した。元之は三五禁呪[52]の法に長けていた。今でも邵州にはこの術に長けたものが多く、南法としている。

 

 

白鶴山は、岳州湘陰県に属し、二州界に接している。晋代に陶真君抜宅昇天した所で、陶仙観がある。山はさほど深くなかったが、兵戈寇盗はゆくことができなかった。住民数百、晏然として災禍がなかった。処士胡恬がここに卜居していた。父は晏州刺史であったが、恬だけは道義を好み、雲林[53]に高臥し、陰陽[54]緯候[55]星暦[56]推歩[57]鑪火[58]黄白[59]事に長けていた。の道、易占術、篆隸詞賦には、その能力を尽くし、調元[60]錬気してもっぱら神仙を務めとしていた。景福年間、安州で上蔡の人馬処謙が売卜しているのに遇い、かれが失明しながら両親に孝行しており、術を学びながら極めておらず、旨甘[61]が足りないことを憫れんだ。そこで連れて山に入り、かれの推課[62]の秘訣を授けた。一年余りで学業が成就したので、かれを送って山を出させた。その時、鄂州は大旱魃であったので、相国杜洪は恬と遇い、祈祷の事に言及した。恬が考召[63]丹符[64]を江の中に投じてやると、まもなくして長雨となり、全州が潤ったので、厚く金帛で酬いたが[65]、顧みずに去った。諸侯が招聘しても、まったく来てもらうことができず、今なお山中にいる。以前処謙を戒めて言った。「わたしが学んだのは、自身のためで、他人のためではありません。あなたが純孝恭謹なので、救えたのです。終生の物資を豊かにしようとなさるなら、黄白の術をお話ししますが、あなたの禍を速め、あなたの命を短くするに十分です。惜しんでいるのではありません。運命を知ったために自慢し、軽率に語って災いに遭ってはなりません。そもそも人は五気を得て生じ、昇降があり、陰陽は盛衰があり、五星[66]は逆順があり、年命[67]には吉凶があります。しかし善行を積むものは福を遺し、悪行を積むものは殃を遺しますから、かれらの行うことを見れば、災禍は知れます。善を修めなければ、お祓いしても間に合うものではありません。」それから処謙は人のために吉凶を語っても、お祓いを行うことはなくなった。その後、蜀に仕え、少将となり、検校僕射となった。

 

 最終更新日:2018521

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[1]土家族の祖先が推されてなった五姓部落の酋長

[2]原文「嬰此即宜之、與汝俱生、不宜、将去汝。」。未詳。

[3]紋様がある

[4]原文「投策計算、皆著石焉。」。まったく未詳。

[5]原文「逆豐儉有驗。」。未詳。

[6]同族。多く従祖、伯叔あるいは兄弟たちを指す

[7]冥界の官吏。

[8]僧道に対する敬称。

[9]左翼

[10]務を主持する僕臣

[11]原文「阿翁昂欲歸」。「昂」が未詳。衍字と解す。

[12]府、幕府。

[13]官名。中の罪を掌る

[14]白旄と軍権を指す。

[15]佐吏。

[16]丞相の官邸。

[17]原文「時在相國滿在相府」。未詳。書影。「滿在」は人名とは思えないが。

[18]公有の街道。

[19]西の関中と甘粛東部一帯の地区を指す

[20]原文同じ。未詳。後ろにも出てくるが、満公の屋敷ではないか。

[21]ひろく布帛等の紡織品を指す

[22]原文同じ。単位が未詳。

[23]原文同じ。未詳。こうした県なし。

[24]府の護衛隊

[25]偏将、副将。

[26]幽静美。

[27]聖君と臣の合称。

[28]原文同じ。未詳。

[29]土地の脈絡、地形の趨勢。

[30]原文「又蜀字若去蟲、著金正應、金徳久遠」。未詳。

[31]入念に誦読すること。

[32]原文「獨力檢校」。「檢校」が未詳。

[33]原文「汝無人、甚見勤勞」。未詳。侍童がいないがまめまめしいということか。

[34]一歳もしくは生後百日。

[35]未成年のしもべ。

[36]未詳だが「岳麓」と同じで長沙であろう。

[37]教えを信ぜず経を念ぜず道士の衣服を着ているだけの人を寄褐とする

[38]原文「今為連州刺史。頃於岳下寄褐。」。「今」「頃」の時間の前後が未詳。

[39]原文同じ。未詳だが「貴重な桑」ぐらいの意味であろう。

[40]原文「自然有白鴒、羽翼爪足巨細畢備」。おそらく、木材の中に白い鳩のような模様があったのであろう。

[41]船曳きが船を引く時に走る小路。

[42]原文「截江而渡。」。未詳。

[43]中国に来て商する胡人。

[44]淮南節度使楊行密。

[45]原文「乃售與塑畫之人」。「塑畫」が未詳。

[46]原文「居大雲寺地中。」。「地中」が未詳。

[47]原文「亦有肩夾」。「夾」が未詳。

[48]白衣。平民の服。

[49]陝西省の県名。

[50]黄河と渭水の併称。河渭両水のの地区をも指す。

[51]河渭蒲津監。原文同じ。未詳。官名のようだが。

[52]https://www.google.com.hk/search?safe=strict&hl=zh-CN&source=hp&ei=hJ3IWpHBOYS10gS1n4qoBg&q=%E4%B8%89%E4%BA%94%E7%A6%81%E5%91%AA&oq=%E4%B8%89%E4%BA%94%E7%A6%81%E5%91%AA&gs_l=psy-ab.3...1696.1696.0.2055.1.1.0.0.0.0.287.287.2-1.1.0....0...1..64.psy-ab..0.0.0....0.6q9T8U5NGwU

[53]原文同じ。未詳だが、雲の生じる林、仙人の住処であろう。

[54]四時、節気、方位、星象により人の吉凶を講ずる数術。

[55]讖緯の学。

[56]星術と暦法の合称。

[57]推命。

[58]薬を煉製すること。

[59]丹薬を焼煉する事。

[60]元気を調えること。

[61]美味な食物。親を養う食品を指す

[62]原文同じ。未詳だが推命、卜占のことであろう。

[63]原文同じ。未詳だが招聘のことであろう。

[64]帝王の符信。

[65]書影。「厚■金帛」。「■」は「酉」に「壽」であろうがこうした字はない。ただ、意味は「酬」で、音は「chou」なのであろう。

[66]命運。

[67]寿命。

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