巻九

毛郎中

毛郎中晦[1]は、熙寧[2]初年、一妻一子がいるだけで、荊州に住んでいた。つねに一人の女の悪鬼が朝晩かれの家におり、言葉ははっきり聞きとれたが、みずから田芙蓉と称していた。家人の出入動静は、すべて観察していた。邑君[3]に夙怨があると言ったので、あるひとが尋ねた。「なぜ報復を遂げなかった。」「かれにはまだ数年の寿命があるのです。」しかし、必要な物は、しばしば求めに応じてもたらされた。しばらくすると厭わしく思い、邑君は言った。「あなたのために功徳を修めれば、よそへゆけますか。」幽鬼は言った。「よいでしょう。」そこで二人の僧に賄し、仏書を誦えさせ、疏を作って焚いた。幽鬼は去って数日してまた来、言った。「僧の読経がでたらめで、一巻を誦えただけで、ほかは読みませんでしたので、また来ました。」その僧に質すと、ほんとうにそうであった。隣人は謗って言った。「これは邪魅で、恐れるに足りない。」幽鬼は大声で罵り、かれの閨房の秘密を発き、言った。「これが邪です。」つねに言った。「今から盛り場にゆき、遊覧します。」毛はひそかにしもべを遣わし、かれの技能を探らせた。かえってそれを尋ねると、一一すべて符合した[4]。その後、毛の子中庸が永州[5]の祈陽[6]の簿[7]に転任し、舟で旅し、石首県[8]に宿ったところ、幽鬼が後から来、言った。「出航をどうして告げなかったのです。わたしは昼夜百余里を走ってきました。足には今(たこ)ができています。」零陵にいたって二年で、邑君が亡くなり、幽鬼はそれから来なくなった。わたしは荊州でみずからそれを見た。

 

崔禹臣[9]

崔禹臣は、熙寧初年、職官[10]として濰州[11]北海県[12]を治めた[13]。冬の夜、書閣に坐し、窓の外の小さな(にわ)に、環珮[14]のような音が聞こえ、さらに往来して仏書を誦えているかのようであった。月影はかすかに明るく、窓に穴を開けてみると、(もののけ)がおり、身長七尺あまり、全身に白い毛が熠熠[15]として、口は咄咄としてやまなかった。すぐに従者を呼んで捕らえせた。幽鬼は、顔は(あおぐろ)く、髪は(ぼさぼさ)、身に藻荇[16]を纏い、氷の乳が四つ垂れ、歩けば丁冬(ティントン)と音をたてていた。そこで棍棒で殴ると、大声で叫んだ。「おまえに災がありので、ここにきて経を念じて祓ってやろうとしたのに、なぜわたしを打つ。」すぐに側近に命じ、たがいに大きな鞭で痛打させたが、結局殺せず、切っても傷つかず、火をかけても焼けなかったが、縮むのを覚え、長さが三尺ばかりになったので、閉じ込めて縛った。夜が明けると、洪水に投じた。しばらくすると、高さ一丈あまり躍りあがり、すでに元通りになっていた。まもなくして沈んだ。その年、崔は事件によって失職した。崔にはほかにも伝がある[17]。陳向[18]秘丞[19]が言った。

 

張郎中

張郎中薦は、高密[20]の人で、明経に合格した。山東の風俗では、正月になると、五つの家の処女で年が十余ものを選び、ともに一榻に臥させ、衾で覆い、四面から箕で扇いだ。しばらくすると、ある娘は眠っているかのように、あるものは刺繍するかのように、あるものは筆硯(かきもの)をしているかのように、あるいは管絃を奏でるかのようになるのであった。まもなく目ざめた。これを扇天(シャンティエン)(「扇」は平声である[21]。)といい、技芸の上達を卜するものであった。以前、十余の娘がおり、卜したところ、仙女が日々教えにきた。去るにあたり、女児をとどめて伴としたが[22]、他人には見えなかった。それからは、針子(はりしごと)、音楽、書道は、学ばずに自然にできた。一年あまりして、娘は昼寝していると、突然驚いて叫んで目ざめ、言った。「仙女が今日、天に上り、会に赴きます。わたしは童子とともに園内で遊ぶように命ぜられました。園には一つの井戸があり、巨石で覆われており、童子を戒めました。『この娘に井戸を覗かせるな。』仙女が去ると、わたしは石をのけて見ましたが、異形の幽鬼たちが、寄りすがり、争って出てきました。わたしが驚いて叫びますと、童子はすぐに棒をとって乱打しました。幽鬼はまた入り、石をとって塞ぎました。それから仙女は怒って去りました。」成人して嫁ぐと、数人の子を産んだ。亡父は薦と親しかったので、よくそのことを聞いた。

 

張司封

建州に張氏の夫婦があり、ともに四十余で、子がなかった。住居は城隍廟に近く、しばしば神に祈り、跡取りを求めた。一年あまりして、夢みると、神が告げた。「おまえたち夫婦は子がいない定めだが、誠実に祈っていることを考慮し、廟の判官をおまえたちの跡取りにしよう。」その後、かれの妻は妊娠し、一子を産んだ。名を伯玉といい、進士に合格し、書判抜萃[23]に挙げられ、台省[24]経、仕えて主爵[25]正郎に到り、数郡を主管して亡くなった。かれは才藻があり、剛直で、当世に貴ばれたが、酒を嗜み、身なりに構わず、垢貌蓬鬢で、土偶の判官のようであった。

 

薛比部[26]

薛比部周[27]は、至和[28]年間、殿中丞[29]で益州[30]成都県を治めていた。かれの妻がに臥すと、二人の下女が薬を持ってきて妻を殺した。薛は二人の下女を捕らえ、お上に送り、糾弾し、罪に服させた。一人の下女は妊娠してすでに数ヶ月で、薛は文書でその偽りを訴えたので、ともに処刑された。その後、下女と孕まれていた子はかれの部屋に現れ、薛に訴えた。「わたしたちは死ぬべきでなかったのに、どうして不当にわたしを殺した。」昼夜その言葉が聞こえた。しかし家に吉凶がある時は、幽鬼もそれを報せた。薛が後に鳳翔府[31]太平宮[32]を掌管した時は、幽鬼は来ず、他のところだと来た。嘉祐[33]年間、薛は尚書外郎から地方に出て涪州[34]を主管し、始平県[35]にゆくと、幽鬼は言った。「公は亡くなろうとしていますから、ゆく必要はございません。」すぐ分司に求めて長安に帰り[36]、一年足らず後に亡くなった。   

 

評にいう。父母が子を殺し、官にあっては理として措いて論じない。まして胎内にあり、形気が備わっていないものならばなおさらである。それなのににわかに冤死の訴えがあった。もしや釈氏のいわゆる宿世の怨みとはこのようなものであろうか。張靖学士が言った。

 

陳良卿[37]

進士陳良卿は、景祐[38]四年、永州で郷試に合格し、礼部[39]赴いた。十月に長沙にゆき、夢みると、一人の男に導かれて巨艦に入った。見ると一人の道士がおり、みずから清精先生と称した、ともに談論したが、言辞は高尚、理論は深奥であり、陳に言った。「すでにあなたを尭に薦めたから、直言極諌するように。」陳は言った。「尭は今どこにいる。」「今、南岳を司っている。」陳は言った。「尭は古の聖君だから、職掌が公侯の列にあるはずがない。」先生は言った。「尭は、人の世の帝で、火徳を受けて王となり、天下を棄てて神となり、南方に位しているのだ。どうして疑う。」陳は名声と官職を得ていないとして断り、後日応じることにし、十年を期日とすることを約束した。目ざめると、たいへん嫌に思い、『異夢を作ってみずからを慰めた。翌年、甲第[40]に登り、全州[41]の判官に転任し、岳州の南のある駅を出た。たまたま昼寝し、夢みると使者が令状を持って召しにきた。にわかに目ざめると、嘆いた。「もしや尭の命令か。」同行は夢は信じるに足りないと励ましたので、書帙をとって臥して読んだ。晩飯ととのい、呼ぶと、すでに亡くなっていた。夢の中で十年を約したが、夢を見てから亡くなるまで、まさにまる十か月だけであった。もしや鬼神は明言しようとせず、一月を一年にしたか。

 

羅著作[42]

著作の羅紹は、漢陽[43]の人で、府の五通神祠に住んでいた。隣家では毎年一頭の豚を飼い、神を祭る供え物としていた。豚は飼うための柵がなかったので、羅の家の垣根を壊し、邸宅に入り、糞することが多かった。羅はしばしば隣家を戒めたが、すこしも聴かなかった。紹の父はその豚を捕らえ、片耳を切りとった。隣人はそれを見、憤慨に堪えず、朝晩神に訴え、さらに言った。「この豚はもともと神さまが享けるものでございますが、今、羅某に傷つけられ、今年はお供え物がございませんので、神さまがすぐに報いられることをお願いします。」その後、紹とその弟が産まれたが、それぞれ片耳がなく、わたしはみずからそれを見た。五通神[44]が人に禍したり(さいわい)したりすることができたちどころに験があったのは、なんとも驚くべきである。紹は進士及第し、著作佐郎で終わったという。さらに公安の富民ケ氏は、若い時、二匹の犬が交わるのを見、すぐにふざけて刃でその(へのこ)を断った。後に二人の子が産まれたがともに性器がなく、はじめは荊南の牙校[45]となったが、その容貌まさに性器がないもののようであった。事は羅紹と近いので、附記する。辛都官子言が録した

 

陸長緒

陸長緒は、郡の人であった。進士に合格し、職官で襄州[46]穀城県[47]を治めた。政務をする時は、悪を憎み、外にゆけば厳格苛酷にし、下役たちを見ること仇讐のようで、鞭うたない日はほとんどなかった。ある日、晩に広間の側桁坐していると、黒い犬が門からまっすぐ入り、目を怒らし、狂い吠え、跳ねて登庁した。陸は叫び、下役たちはきそって棍棒を持って追いかけたが、吏舎[48]に入ると突然見えなくなった。その後、陸の妻は死に、百鬼がその官舎に入った。陸の子は幼く、数人の下女がいたが、しばしば白昼若者が下女の部屋に入るのが見られた。陸はたいへん怒り、下女たちを縛り、鞭うち、髪を剃り、手錠を嵌め、火責めによってその姦通を尋ねるにいたったが、結局況は分からなかった。また。堂前に盆池[49]を作り、蓮を植えていたが、ある日、盆が外に出ていた。発掘の迹はなく、すぐに埋めるように命じたが、夜が明けるとまた同じであった。陸はみずからそこに臨み、水にその姿を映して見ると、冠服は異常で、立って侍しているのはすべて幽鬼たちであった。陸はたいへん恐れた。さらに梁と棟の間で声がし、やがて陸と語り、紙を求め、詩を作った。はじめは数文字が紙にあるのが見えたが、一句を読みおわるたびに一句が出、前の句はすぐ消えた。その言葉は、おおむね陸を謗り、戯れるものであった。このようにして二年、免職となり、(あやかし)は初めて絶えた。長緒はみずから人にこのように言った。

 

寇侍禁[50]

寇侍禁立[51]は、三司大将[52]をしたことがあり、同僚の李某というものと、皇祐年間、香料を管理し[53]、広信軍[54]にゆき、納めおわると帰京しようとし、定州永楽駅の堂に宿った。時に寒さに苦しみ、炭を熾し、燈を燃やし、炉を擁して坐した。夜二鼓になろうとすると、李某はさきに寝た。堂の後ろでは呦呦然と小さい豚が追っているようであったが、おかしいと思わなかった。まもなく、門が轟然と大きく開き、一人の媼、身長二尺ばかりのものが、蓬鬢で背を曲げて進み、口で燈を吹くと、焔は青くなって消えようとした。寇はたいへん驚き、杖で打った。媼が逃げると、寇は追ったが、額が門扉に中たり、仰向けに後ろに倒れた。すぐ堂の前の門扉を開き、外の広間に走り、その従者を呼ぼうとしたが、広間の後ろに屏があるのを忘れ、頭をさらにぶつけて倒れた。そこで大声で叫ぶと、駅吏がしもべとともに火を執って来た。見ると寇は額が破れ、血が流れ、燈架も折れていたが、門はあいかわらず閉じており、李は布団を首に被り、牀に臥していた。駅吏に尋ねると、言った。「以前、この妖は堂の後ろの古城の小さい穴から出ておりました。」寇はみずからこのようにいった。

 

張尚書

張尚書存[55]は、冀州[56]の人であった。家は財に富み、進士に合格し[57]、かさねて台省館閣の清要の職を、致仕して郷閭に帰った。ある晩、圉人(うまかい)が見ると、一匹の(こうし)が馬の食糧を盗んで食らっていたので、追いかけて打つと、白光が宅門[58]に走り、消えたが、門は相変わらず閉じられていた。翌日、張は病み、肌骨が痛むこと数日であった。ひそかに杖をつき、厩にゆき、圉人(うまかい)に尋ねた。「十日前の夜に何を見た。」圉人(うまかい)は言った。「一匹の(こうし)がひそかに馬の粟を食らっているのを見、打ちましたが、白光に化して去りました。」張は言った。「後に見たら、打ってはならぬ。」圉人(うまかい)はすこぶる訝った。一年あまりして病が革まり、門番は一匹の犢が宅門から出るのを見、追ってみると見えなくなった。にわかに邸内で泣くのが聞こえたが、尚書が亡くなったのであった。朱左蔵允中が言った。

 

姜定国

高密の姜定国は、九経[59]を業としていた。ある晩、家塾で寝、夢みると、二人の男、体が長く、貌は凶悪なものが、怒気勃勃然としながら、定国に言った。「わたしは身長が丈八で、おまえを殺せ、おまえを齧れる。」定国は魘されて叫び、拒むと退いた。翌晩、ふたたび夢みること初めの通りであった。たいへん恐れ、寝具を移し、門下の客と榻をともにした。客がみると一匹のヘビが来たので、刀を執って断った。まもなく、一匹のヘビがまた来たので、客はさらに殺した。翌日二匹のヘビが来たが、ほんとうに長さが三尋であった。定国は後に九経に合格し、今では幕職[60]の官となっている。吉推官仲容に聞いた。

 

傅文秀

礼賓副使[61]の傅公文秀[62]は、都から家族を連れ、鳳翔府陽平鎮[63]の旧居に帰ったことがあった。その後、かれの兄の娘が(もののけ)に憑かれ、暮れれば艶麗に装い、帷帳におり、切切として人と語っているかのようであった。家人が尋ねたが、答えず、このようにすることほとんど半年であった。郿[64]によく幽鬼を制するもの羅禁がおり、その符で禁ずることができるので、人は羅禁と呼びなしていた。傅はかれを召して見させ、法術によってその娘を糾した。すると言った。「わたしは韓魏公[65]の子だ。昔、父が関中を鎮めるのに[66]従っていたが、病のために長安の駅舎で死んだ。昨日、傅の一族が通り過ぎたが、その娘が美しいのが気に入り、かれの婿になるのだ。」羅が再三詰問すると、言葉はすこぶる卑屈になり、去った。数晩後、堂下で叫んだ。「おまえはわたしの結婚を絶ったが、わたしの子を返すべきだ。」さらに薬を飲ませると、拳のような肉塊が下った。それからふたたび来なかった。董職方経臣が言った。

 

胡郎中

胡郎中楷には、慶暦[67]年間に、たまたま真州で会ったが、こう言ったことがあった。ある親戚が湖湘に赴任し、舟で鄂岳[68]の間にゆくと、舟が突然進まなくなり、舟人も力を施すすべがなかった。その人は香を焚き、酒を供え、官服を着て再拝し、ねんごろに祈った。しばらくすると、舟はにわかに動いた。他の船が見ると、その舟の後ろには枯木が[69]としており、跳ねること高さ数丈で、ふたたび水に沈んだが、何か分からなかった。もしや蛟龍の変化であろうか。

 

僧行悦

長白山[70]の醴泉寺[71]は、景徳寺西禅院[72]の分院であった。年を経て崩れたので僧行悦は営繕しようとした。そこで岩川董将軍荘の大木百余本を買ったところ[73]、大きなあった。その上には巨きな枝が分かれており、以前、雷雨のためにそうなったのであった。枝の間には大きな足跡があり、長さは二尺近かった。僧が伐ってみると、上下は一様であった[74]。切断して数十百片にし、その仲間に命じて仏の足跡と偽称させ、それを持って諸郡を教化誘導させた。三年銭五千万を得、寺宇は一新し、極めて壮麗であった。事は天禧[75]年間にあり、李省山人が目で見た。

 

評にいう。仏徒は因果禍福で、ほしいままに誘惑と脅迫を行い、元元[76]の生殺の(へい)を握っている。王公以下、帰依するものは十に八九である。悦はさらに怪異の迹を借り、庸劣なものに出費させて満足している。ああ、人が怪しいことを好むことは甚だしい。

 

康定の民

康定軍[77]が置かれる前、古い城壁は低くなり、崩れており、人が越えることができた。城内の住民王某は、北郊の村民と縁結びしていた。景祐五年秋、村民は子のために妻を娶り、王はその華燭に赴いた。真夜中、両家は紛然と争ったので、王は嫌に思い、厨房で炊ぎの余りの柴、長さ三四尺のものを手に入れ、持って帰った[78]。時に月影はかすかに明るく、ゆくこと二三里で古城を過ぎると、約十数歳の子供が、にわかにきて王の衣の裾を掴み、泣いてやまなかった。その家を尋ねても、答えなかった。そこで、むりにその手をほどいた。数歩もゆかないうちに、また追ってきたので、持っていた柴で打つと、すぐ地に倒れ、鼻息は聞こえなかった。王は黙って思った。「きっと死んだのだ。」たいへん恐れ、さらに通行人に見られて露顕するのを心配し、はやく走り、崩れた垣を越えて入った。翌日、門を出ようとせず、役人が人を殺したものを捕縛することを恐れた。日が高くなると、里巷に出て消息を探れなかったが、寂然として知らせはなかった。そしてもとの路を通り、事実を辿ると、朽ちた棺があり、長さ三尺あまり、中では小さな骨が折れており、まだ煤の迹があった。その古道の左右はすべて土の崖で、高さは五六仞、住民には穴を掘って子供を埋めているものが多かった。そもそも遊鬼が憑いて変事をなしたのであった。

 

鄭前

治平年間、武昌県令の鄭前は、腠理[79]が穏やかでないのを覚え、密室で昼寝していた。夢みると、一人の老人が、古の衣冠で、鄭に揖した。「あなたは軽い病だから、地骨皮湯[80]を煮て飲めばすぐ癒えよう。」鄭は言った。「もともとお祭りしていませんのに、どうしてこちらにこられました。」「わたしは西漢の時にあなたと部局をともにしていたことがあった[81]。あなたはすでに三世で人となったが、わたしはまだ冥土にとどまっている。」すぐにその氏名を尋ねると、言った。「前将軍の何復[82]だ。わたしの家を訪ねようとするなら、費家園に来るとよい。」別れに臨んで詩一絶を口ずさんだ。「()相逢(あひあ)西漢(せいかん)(とし)、なかば()(こつ)となりなかば(けむり)となる。()室長眠(しつちやうみん)()(ところ)()らん(ほつ)せば(もん)青松(せいしよう)あり(かん)(いづみ)あり。」鄭は任期満了し、鄂渚[83]にゆき、頭陀寺[84]に遊び、山麓の城の小路をみると草叢が蔚然としていた。寺僧に尋ねると、費家の園であった。途中断碑があったが、字はすでに漫滅しており、「何復」の字だけが弁ぜられた。塚の前には澗水および老松数株があった。王承制允成は時に巡察し、くわしくそのことを知っていた。

 

陳州の女の悪鬼

慶暦皇祐[85]年間、陳州の通判庁で夜に婦人が現れ、人と談笑したことがあった。あるひとが見るとその顔はすこぶる美しかった。氏名を尋ねると、言った。「わたしは孔大姐といい、もともと石太尉の家の下女でしたが、過ちのために殺されたのでございます。」「なぜよそへゆかない。」「この世界にも所属があり[86]、勝手にすることはできないのでございます。」時に晏相国[87]が宛丘[88]を鎮守し[89]、しばしば新声[90]により、小詞[91]を作っていた。外出する前から、幽鬼は外で歌唱した。朝晩人が広間の側桁登れば、突然、傍らから大声を出し、人が恐れ驚けば、笑うのであった。買いものする兵卒がおり、しばしば驚かされ、持っているものを失うので、たいへん苦しみ、つねに刀を携帯していた。後にまた驚かしに来たので、声がするとすぐに斬った。数晩ずっと呻吟するのが聞こえ、言った。「少々あなたに戯れただけですのに、どうしてわたしをこのように傷つけられます。」それからは来なくなった

 

最終更新日:2012816

括異志

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[1]未詳

[2]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%2586%2599%25E5%25AE%2581&sa=U&ei=-3IkULveDM3tmAWp04CIAQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNEwiZFfwH39ZGZSTaRCVHUPz8yIXQ

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8EZdicBF207413.htm&sa=U&ei=az0OUPTDDa7imAXltYCoBw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE-Tr0nYjqiRcdLJ6CDu1fK8RqCYA婦人の封号。宋では庶子、少卿、司、郎中、京府少尹、赤令等の官の妻が「君」に封ぜられた。

[4]幽鬼の話としもべの話が符合した。

[5]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/39062.htm&sa=U&ei=_HQkUJyEDcrRmAX9lYGACA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFMWx8Rp_YWLZVEoj_vhk7OcUsADA

[6]原文同じ。の誤りであろう。

[7]主簿

[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3247942.htm&sa=U&ei=SgIMUPGtIo6CmQWQ0dGSCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGXg8DqABn77296c5ntYAtVavAyRw

[9]未詳

[10]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic81Zdic8C194832.htm総称

[11]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2993051.htm&sa=U&ei=yHUkUNWAHOrKmQWg-oHQCA&ved=0CB4QFjAB&usg=AFQjCNERBRS-Z8Q8VKeEJ3L9rwT4cneDIQ

[12]『宋史』地理志・京東路・東路・濰州「建隆三年、以青州北海縣建為北海軍、置昌邑縣隸之。」。

[13]原文「以職官知濰州北海縣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[14]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic8EZdicAF143562.htm&sa=U&ei=1z0OUMSiPIuhmQWVhID4CQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGH04_W36LZk8N6tAq_EB_HuBFAAA佩玉。後に女子が佩びている玉を指すことが多い。

[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7Zdic86ZdicA0165605.htm&sa=U&ei=lgIMUNSPA66imQXP47SZCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFASUb-9WymRy-tz87Yoco1oCS7mA鮮明のさま、さま。

[16]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1334982.htm&sa=U&ei=enYkUIDjGMqZmQWn14CQCw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNGfh2UrQj3BFu7bTbu6SWmmhC1ZFAハナジュンサイ

[17]原文「崔亦自有傳」。未詳。とりあえずこう訳す。

[18]未詳

[19]秘書丞

[20]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5671.htm&sa=U&ei=THckUOi-BMWNmQWTv4GgBw&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNGBiL-BgMLc6GwleuObEJ2NcR10Mw

[21]」は平声だと「あおぐ」の意。

[22]十余の娘」の伴としたのであろう

[23]書判抜萃科という試験があった。科挙に落第したものの中から人材を選び出す試験だったようである。『宋史』選舉志・科目・舉遺逸附「又置書判拔萃科、以待選人。」

[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB0230931.htm&sa=U&ei=suERUJOQEtGviQf_8YCIAw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNEJfIInWdRdUNZUk3ABjlqwuDIDCA政府の中央機構。

[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB16444.htm&sa=U&ei=4uERUKyJO6SwiQehsIGQAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFasj9Mt7HaOvL1pPoe1HFEhVj5ng官名。司封のこと。

[26]刑部の下部機関。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicAFZdic94306653.htm

[27]未詳

[28]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/719726.htm&sa=U&ei=CoMkUKqcAsTEmAXRsoFo&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNFo60opGhU9WyUxZR31nQH_xFhExQ

[29]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1395251.htm&sa=U&ei=fecRUMjoOoWsiAeR64GAAQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNG3vRTzpKIqh2CYpOGFbLoRM8i2zA

[30]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4201.htm&sa=U&ei=BqUkUN6xDaKbmQXulYDwDA&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNEf9yvpVfLr8kJvWcslle6J-6eAGw

[31]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E9%25B3%25B3%25E7%25BF%2594%25E5%25BA%259C&sa=U&ei=LKUkUOHCMsKTmQXQyYCwCA&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGdbOtbUA3lIFtbiW-0lvIDCDvhWg

[32]鳳翔府」「太平宮」のグーグル検索結果南山にあった道観で、上清太平宮という。『宋史』にもしばしば見える。一例を挙げる。真宗本紀・大中祥符二年「庚辰、陝西旱、遣使禱太平宮、后土、西嶽、河瀆諸祠。」。

[33]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%2598%2589%25E7%25A5%2590&sa=U&ei=JoMkUKGsEbGXmQXeuYGwAQ&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNG6YZ6VGq4A8_hdTvM8RTWzNOyiDQ

[34]http://baike.baidu.com/view/804452.htm

[35]http://baike.baidu.com/view/3220713.htm#2

[36]原文「即乞分司歸長安」。漢典によれば、分司は「中央の官で陪都(洛陽)に派遣されて行した者を、「分司」と称した。」ということだが、四川にいる薛周が洛陽にある分司に求めて長安に帰るのは変である。未詳。

[37]未詳

[38]http://baike.baidu.com/view/1867721.htm

[39]に同じ。後の会試。

[40]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2227204.htm&sa=U&ei=nfgHULH_C8qYmQX4guXOAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNECnZiEpXioLFEpLostA2aOhioZag中の第一等。

[41]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/129937.htm&sa=U&ei=RYQkUMKBDqqUmQWKo4HACA&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNFajBP2UDuy_xeYIYTOyFrmuN51PQ

[42]作郎に同じ。

[43]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25B1%2589%25E9%2598%25B3&sa=U&ei=lYQkUPKABoPXmAWY3IDIDw&ved=0CCMQFjAD&usg=AFQjCNFxl44rAf3fbd-BN6GzlR1qoENeIQ

[44]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/301843.htm&sa=U&ei=roQkUK7KCOPfmAWv0oGIAQ&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNHxGZgwcLnetBBnDO879fdcvcS3NQ「五通神」、「五郎神」とも、野に横行し、人の妻女を淫する妖鬼、もっぱら事とするので、「五猖神」とも。

[45]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic89Zdic99329753.htm&sa=U&ei=AvMRUMHQGYaViAfN8IEo&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNEV4DfV7q3UQdNmnrdY7OwRVmcKOw武官。

[46]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2012412.htm%3Fhold%3Dredirect&sa=U&ei=C68kUNOQAemhmQXlzoDIBw&ved=0CB8QFjAD&usg=AFQjCNG5kwZofzGKsNPQ_nBIyxXLgzEyqw

[47]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E8%25B0%25B7%25E5%259F%258E%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=8YQkUJ3eOOz4mAWy3ICgDQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH80yatvXkdQkFajIqGyOCUDgOHKg

[48]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8F211823.htm官吏が居住あるいは仕事する建物。

[49]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdic86182776.htm&sa=U&ei=uK8kUJSQF6rSmAWp9IEI&ved=0CCIQFjAD&usg=AFQjCNFISVO9C5uMPVQIm08U6OSeLgs3ZA盆を地に埋め、水を引いた小池

[50]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D95154.htm&sa=U&ei=nAESUK3TOYyziQegkIC4AQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEMAAQIV98RXlSejacdGeSM0dbNBg官名。

[51]未詳

[52]「三司大將」が未詳。『宋史』に用例が三つ出てくる。一例を挙げる。選舉志・銓法下・流外補選「凡出職者、樞密院、三司、皆補借職以上、餘或補州縣。廷諸司主吏、三司大將、亦有補三班借職者。

[53]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicA844990.htm&sa=U&ei=nH8MULX8OuigmQWjy8WYCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGDKYR5QXHHBG3VlIAE-X_wieHnaw原文「皇祐中部督香藥往廣信軍。」。「部督」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典に適当な語釈なし。

[54]http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php?bookid=33&name=%BCs&columns=2&bookdetailid=40037

[55]未詳

[56]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/97021.htm&sa=U&ei=W4YkUIu0M8ffmAXX-oHgCg&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNHg8T1Ykfgw5QsB__ROONf7NiBSPQ

[57]原文「策進士第」。「策」が未詳。とりあえずこう訳す。

[58]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicAEZdic85106135.htm表門

[59]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1565769.htm&sa=U&ei=8IYkUMiMFMf-mAWxk4DwCQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNH-1DJ3-UbPkQbQ4gv2v3WVLSP--Q九つの経書。宋代は『易』、『』、『』、『左』、『礼』、『周礼』、『孝』、『論語』、『孟子』をいう。九経は科挙の科目の一つであった。謝青等主編『中国考試制度史』百二十五頁参照。

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicB9Zdic95117960.htm地方官の属吏、幕府で奉するので、かくいう。

[61]『宋史』に見える。武官のようである。職官志・敘遷之制・羣臣敘遷・武臣三班借職至節度使敘遷之制「禮賓副使、轉崇儀副使、有戰功轉洛苑副使。」

[62]未詳

[63]http://www.google.com/url?q=http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php%3Fbookid%3D33%26name%3D%25B6%25A7%26columns%3D2%26bookdetailid%3D36584&sa=U&ei=ELkkUJmPDuWDmQWXlIDgAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGTi-eyvKvITFcFL5ZeUI4h0O1Nlw

[64]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1831893.htm&sa=U&ei=iogkUMuiJqL3mAX64YCgDA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEQAVVt8-F_I7d5ZRrcV6ieaZktiQ

[65]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/81834.htm&sa=U&ei=zyQSUOnpGueQiAeVjYHQDg&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNHP75vOdHneQch3mzWSLOj5jeE_EQ

[66]gこちらによれば、「西略安副使、西四路略安使。与范仲淹共同防御西夏」とある。

[67]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2585%25B6%25E6%259B%2586&sa=U&ei=kokkUIalL5HjmAWd6YCoAQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNG1HuvprQqs2ElvpsVUO17GGJL0VQ

[68]鄂州岳州

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic9FZdicA5136202.htm不揃いのさま。

[70]http://baike.baidu.com/view/4588.htm#sub5850702

[71]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/320366.htm&sa=U&ei=WookUJjqOuPEmAWr44GIAg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGyFXUQeLVaX1cnhOfXcESB-5FAUQ

[72]『東京夢華録』巻三 に出てくる寺か。「景コ寺、在上清宮背、寺前有桃花洞、皆妓館。

[73]原文「因靈市岩川董將軍莊大木百餘章。」。まったく未詳。「靈」は衍字か。「岩川董將軍莊」が未詳。「」は木をかぞえる量詞。

[74]原文「上下如一」。未詳。とりあえずこう訳す。

[75]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/719700.htm&sa=U&ei=JYwkULHPMIXWmAX314GwDg&ved=0CCAQFjAA&usg=AFQjCNGHg-TvYwI4ozPiiXR2YYJF8PeTYQ

[76]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic83331409.htm&sa=U&ei=KPwHUNGWMOehmQXXnK2zAw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNGJA17QcM3H2YETftofri9EeEeU_Q庶民。

[77] 『九域志』巻三 ・永興軍路「鄜州、洛交郡保大軍節度」。又「縣四」注「康定二年即鄜城縣治置 康定軍 、使仍隸州」。鄜州 に置かれた軍(宋代の行政区画)。ただ、『宋史』地理志には「康定軍」に関する記述はない。

[78]松明の代わりにしたのであろう

[79]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic85ZdicA064329.htm中医で皮下の肌肉のの空隙と皮膚、肌肉の理をいう。

[80]で作った湯薬であろう。

[81]原文「我西漢時與君嘗聯局事」。未詳。とりあえずこう訳す。

[82]まったく未詳。

[83]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic84Zdic8245006.htm&sa=U&ei=j5AkULK3OOegmQWxpICwDQ&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNHaGIOxNxzPwyQzxXnC4nj5GfVUvg鄂州

[84]グーグル検索結果。王巾『頭陀寺碑文』というものがあり、この頭陀寺は鄂州の寺。

[85]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%259A%2587%25E7%25A5%2590&sa=U&ei=EpMkUMeKCOfjmAX_uoDICg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEJa1fbXFTMAsYCFKty3t9ONYGGuQ

[86]原文「此中亦有所屬」。未詳。とりあえずこう訳す。

[87]http://baike.baidu.com/view/7329.htm

[88]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/583350.htm&sa=U&ei=T5MkUOjWEMv2mAWKwIDQDw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNHZKpaMQc97dU0sjCsogzzVRa1SxA淮陽。

[89]晏殊陳州の知事であった。陳州は淮陽。

[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6Zdic96ZdicB0157380.htm&sa=U&ei=3f8HUIaTL-3qmAWIhJS3Aw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEFkqn6VPODQm24e9omVyDeP7EvXA新作の曲、新美妙の音。

[91]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F296257.htmにしたがって填写する短篇の歌ここでは(ツー)のこと。

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