第三巻

淳熙庚子辛丑の[1]、平江は毎年大干魃となった。常熟県虞山の北葛市村に農夫がおり、姓を過といい、六十畝の田を耕し、毎年豊作であった。過はつねに秋賦[2]を免れようと思っていたので、偽って干魃で損害があったと報告した。お上は本当に免税し、過はうまくいったと思っていた。翌年の壬寅の夏、蝗がにわかにやってきて、まっさきに過の田に集まり、穀物の穂はすっかり尽きたが、境を接している田は、通りすぎて食らわなかった。また、二軒の農家があり、その姓は不明だが、田地は東西で接していた。東の家は淳樸で実直、西は狡猾で凶悪、淳樸な家はつねに苦しんでいた。その年に蝗が来たが、すべて西の家の田に集まって、東に入らなかった。西の農民は怪しみ、夜、布嚢で蝗をたくわえ、東の田に移して置いた。東の家の農民に事実を報せるものがいたが、農民は咎めず、ただ祈った。「本当に神がおわせば、蝗はおのずと去るだろう。」翌日、蝗はまた飛んで西の家に集まり、東の田には損害はなかった。

 

常州のある村の媼は、老いて盲で、家には一人の倅と一人の嫁がいるばかりであった。ある日、嫁が飯を炊いていると、倅が田で呼んだので、嫁は姑に飯を炊きあげるように頼んだ。媼は盲であったため、飯が炊きあがると、器を手さぐりして貯えようとしたが、誤って尿瓶を手に取ってしまった。嫁は戻るとそのことを言おうとせず、まずその中の汚れていないものを取って姑に食らわせ、次に夫に食らわせ、器に着いていた悪いものはみずからが食らった。しばらくして、空が昼なのに突然暗くなり、顔を突き合わせていても見えなくなり、嫁が闇の中で人に連れさられたかのようであった。にわかに明るくなると、嫁は家の近くの林の中にいた。懐と腋の間には小さな布嚢があり、米三四升が貯えられており、ちょうど朝飯を出すのに十分であった。翌朝、嚢を見ると、米がふたたび貯えられていたので、今でも宝としている。わたしはこの事を聞いたとき、昼に暗くなって米を得たのは、孝感[3]がもたらしたものであり、郭巨[4]が金を得たようなものであろうとひそかに思った。嚢の米が毎日つねに満ちることに至っては、すこぶる怪誕に近い。しかし范徳老[5]は人となりがほんとうに誠実だから、きっとでたらめな言い伝えではなく、嫁のこのような節義も、尊ぶべきものなので、して人を励ますこととしたのである。

 

常州[6]の補佐官陳森が巡視して北に使いしたとき、宿泊しながら属県の無錫[7]に到ったところ、にわかに病になった。その子充は、兄弟を措いて、城から舟を出してきて迎え[8]、纜を解いたときはすでに昏暮であった。ときに夜で暗かったので、舟は燭を明るくしていたが、充は不安で寝られなかった。舟にはともにゆく者がおり、肉を炙り、酒を飲んでいたが、三鼓[9]過ぎに、突然姿が獼猴(さる)のような(もののけ)、水中から跳びあがり、船尾が傾き、船が沈みそうになった。船員が慌てて怒鳴ると、その(もののけ)は肉を求めたので、すぐに擲って与えたところ、沈んだ。(魏掞上舍[10]三事を語った)

 

宜興[11]の陳宰冕は、仕事があって富陽[12]の旅館に宿った。夜、燈が暗くなり、消えそうになったが、見たところ、壁に人影があり、動きは傀儡(くぐつ)のようであった。陳は驚き恐れ、枕を壁に擲った。旅館の主が質問し、そのわけを知り、門を推しあけ、燈を明るくしてやると、見えなくなった。翌日尋ねると、傀儡を弄ぶ人がその部屋で客死してまさに数日であった。

 

塩官[13]の馬大夫中行は、妻が嫉妬深く、はしためが分娩すると、すぐにその子を沈め、糠や穀物を混ぜて粥にし、熱いうちにはしために食らわせた[14]。はしためが血癖[15]で亡くなると、死んだ子を同じ穴に埋めた。数年後、妻は悪鬼に憑かれ、みずから語るには、血の池に坐し、無量の苦しみを受けている、天に訴えたところ、今からともに冥府にゆくことになっているということであった。その家のものたちは祈り、経を誦えて僧に食事を与えることを約束したが、まったく従わず、言った。「奥さまは今はもう運命が尽きているので、わたしは近づけたのでございます。」さらに、馬はこの世でわずか三年の寿命があるだけだと言った。妻は結局死んでしまった。この事を伝えたとき、馬はまだ存命していた。

 

盛大監[16]は、紹興初年に襄陽[17]を治め、単騎で赴任した。府庁に楼があり、公務の後に休息する所であった。はつねにひとりで楼上におり、左右のものを遠ざけ、老兵に命じてその下を守らせた。臥榻の前に大きな盥を置き、漢江の水を汲んでその中になみなみと注ぎ、日々新たな水に換えていた。老兵はしばらくすると訝しみ、が昼寝しているのに乗じ、梯に登り、隙間のある壁からひそかに見たところ、大きな鯉魚の、金の鱗に(あか)い鬣のものが、斛の中を泳いでおり、窺っている者があるのに気がついているかのように、壁の隙間に注目し、しばらく凝然としていた。老兵は驚き恐れて駆けおりた。それからは斛を撤去し、ふたたび水を汲まなかった。(岳州の張佐才承務談)

 

米元章[18]は無為軍[19]を治めていたが、神怪を好み、雨天晴天のたび祈り、城隍廟で宴を設け、東側で神像の側に坐し、酒杯を挙げて酌み交わしているかのようにし、しばしば験を得た。初物の茶果の類を得るたび、かならず分けて神に贈り、典客[20]に命じて声喏[21]伝言して運ばせた。時折、貫きとめた銅銭を香案の側で得たが、神が、運んできたものを労っているかのようであった。かつて朝に譙門[22]の鼓吏[23]を呼び、夜に三更の太鼓の音が聞こえなかったことについて尋ねた。吏は恐れ、真夜中に巨きな白蛇がその鼓に纏いついていたので、近づこうとしなかったと言った。米は頷くと、吏を怒鳴って去らせ、ふたたびともに語らなかった。そこで州の人々はみなかれが蟒の精であろうと疑い、今でも父老はそのことを伝えている。

 

劉知常は、襄陽の人で、その兄は襄陽県の胥魁[24]であった。知常は生まれた当初、白頭赭顔であったので、郷里の人々はかれを社公[25]の子だと言っていた。年が十四五のとき、隣人に従って万山に出遊した。しばしひとり歩きして路に迷ったところ、遠い峰の頂に光が望まれたので、走って近づくと、道士が磐石の上に坐していた。路に迷ったこと訴え、さらに飢えていることを告げると、袖から物を出して食べさせてくれたので、にわかに満腹を感じた。道士は帰る路を指し示し、翌日またここで会うことを約した。知常は帰ると、一晩で白髪頭は黒く変わり、顔は白く玉のようになっていた。約束通りにゆくと、道士はすでにおり、金丹の訣を授け、こう告げた。「わたしは桐柏真人[26]だ。おまえは帰れ。後日わたしに会いたいときは、思うだけでわたしがすぐに来るだろう。」そこで別れて帰った。それからは脱然[27]として俗世を捨て去る志を抱いたが、母が老いていたため、側に侍さないわけにゆかず、住居の傍らに草廬を設けて出入りしていた。当時の人々はかれを「草庵居士」といった。そして真人はつねにかれの家に下ってきた。崇観年間、徽宗がその名を聞き、蕊珠殿[28]の侍宸[29]に詔して襄陽へ訪ねてゆかせたため、知常とともに京師にいった。殿で会い、その方術を試したところ、知常は塩数斛を取って地に置き、分けて畦にし、畦ごとに数寸間隔の穴を掘り、薬を取って穴の中に置くと、まもなくすべて金の蓮の種になった。さらに壊れた鉄器農具の類を取り、薬を加えると[30]、すべて金になった。上はその術を神業とし、金冠象簡、緋袍p[31]賜い、丹華処士と呼び、朝散大夫[32]に会うと、かれが作った金を金宝輪にし、天下の神霄宮[33]に頒布し、所蔵させた。知常はさらにみずから金合[34]数百を作り、煉製した丹薬を貯え、公卿に分けあたえた。太師蔡元長京[35]はかつて詩を贈り、「万鎰の金手づから鉄を化し、五色の彩雲神は丹を授く」の句があるが、そもそもその事実を記しているのである。(無為胡知県談)

 

和州[36]が兵火に遭う前、軍官の官署を新築したことがあったが、落成すると、軍官は妻子を連れて入居した。翌日、日が暮れても門が開かなかった。兵級[37]たちは怪しみ、門で叫んだが答えはなかった。壁を壊して入ったところ、部屋の閉ざされていたので、さらに壊して入ったところ、床に席が設けられ、杯盤肴核[38]がその上に散らかっており、軍官とその妻子数人は、みなその傍らに倒れて死んでいた。人々はおおいに驚き恐れ、すぐに府庁に知らせ、その場所を掘ったところ、深さ数尺で、二つの長い石を得、その下を発いたところ、それぞれ二体の骸があった。滞魄[39]があやかしになったかと疑った。

 

無為軍城[40]秀溪というところがあり、もとの名を錦繍溪といい、城がなかったとき、溪の水が外と通じていた[41]。中には珠蚌[42]がおり、水に入った者が足で踏むと、その大きさは(むしろ)のようであったが、すぐに消えるのであった。思うにこれも神霊なのであろう。あるときは夜に汀に近づき、殼を開いてその光を吐いたが、明るさは月のよう、地を照らすこと数丈であった。秀の名は、そもそも「川(うつく)し」の趣旨を採ったものであった[43]。その後、城を築き、まったく外に通じなくすると、珠は所在が知れなくなった。

 

泉州はもともと陳洪進[44]が根城としていた。州の便庁[45]には、州知事は今でも登ろうとしない。庁の階にはつねに剣の影があり、きわめてくっきりしており、隠そうとしても掩えず、削ろうとしても除けず、州の人々は神として恐れていた。屋舎は今はたいへんぼろぼろであったが、葺こうとしなかった。城に近い法石寺[46]には、洪進の墓があった。傍らには小さな塚があり、その娘を仮埋葬したものであった。女は年頃で、嫁がないまま死んだが、時折姿を現し、遇った者はかならず死ぬのであった。連江[47]の尉[48]龔遂良が寺に遊び、夜に見た。翌日、人に言った。「体の調子がとても良くない。」そして葬儀を頼んだ。肩輿[49]ですぐに家に送ると亡くなった。さらに、士人の王宗衡は寺にゆき、たまたま墓の側で小便したところ、すぐに精神病を得、狂って人事不省になったが、年を越すと癒えた。(李顧言朝奉が二事を語った)

 

治平丁未の、漳州で地震があったが、地割れは長さ数十丈、幅は一丈あまり、狗が中から走り出たので、見たところ、その底はすべて林木で、枝葉は蔚然としていた。

 

泉州永春県[50]湖村の住民蘇二十一郎は行商し、異郷で死んだので、同輩は骨灰を持ってその家に帰った。蘇の魂はついてきたが、言葉は嬰児のよう、時折その姿を現し、さらに人の吉凶を予言できた。親戚友人で会いにゆく者がいると、蘇はかならずその妻に飲食を備えてもてなさせ、酒肴はすべて求めなくてもひとりでにもたらされるのであった。その魂が来るときは、すべて黎明のときであり、まずはるか空中で鉦を撃つ声が聞こえ、だんだん近づき、到着すると、風雨のように簷楹[51]の間から入った。村人は敬って恐れ、廟を建ててまつってやり、今でもなお残っている。(童朝散談)

 

翟公遜大参汝文[52]が会稽の知事であったとき、大干魃があったので、便坐[53]で宴を設け、接待係に命じて釈迦仏および龍王像を迎えさせ、府丞[54]と同席してみずから坐して西に向かい、さかんに供え物をし、二つの像に雨乞いした。翌日、大雨は霈として降った。街に臨んで楼があったが、(あやかし)がいたので住むことができず、民は楼上に神像を作り、たいへんうやうやしく祀り、正視しようとしていなかった。公遜が通ると、瓦礫が楼から擲たれ、ちょうど帽の簷に中たった。公遜は激怒し、車を停め、戎官[55]を召して神像を撤去させ、その楼を壊して酒屋にした。ある日、出遊したところ、路傍の民家に人が集まって泣いており、尋ねると、言った。「家で婦人が幽霊に憑かれ、僧道を召し、法術を行い、鎮めようとしましたが、鎮まりません。」公遜は言った。「ほんとうにそうなら、書状を投じて府に訴えてはどうか。」民はしぶしぶ従い、翌日その事を書状にして訴えた。公遜は大書した。「城隍廟にお送りします。法に従って沙汰してください。」民に命じて廟に持ってゆかせ、紙銭を焼き、頼んだ。「三日して幽霊が去らなかったら、お報せにまいります。」翌日の真夜中になると、民家では、激しい旋風が家を巡り、屋根瓦がすべて飛び、病気の婦人は突然牀から起き、転んだりよろけたりしたりしながら、門に走ってゆき、外に出た。家人は門の外まで追ってゆき、いっしょに捕まえると、しばらくして正気づき、こう言った。「はじめに人が令状を持ってきて、城隍があなたを捕らえようとしていると言ったので、ついて出ました。その他のことはまったく思いだせません。」それからは癒えた。公遜は知事をやめて帰るとき、銭塘を渡ろうとしたが、潮は満ちていなかった[56]。公遜が祈って招いたところ、まもなく潮が来た。かれにまつわる異事はすべてこの類であった。性質は変わっており、常州にいたとき、大邸宅を建て、瓦数十万を買った。公遜は取って見ると、布の紋様があるのを嫌い、言った。「わたしはここで親を世話しているのだから、布の紋様を頭上に置くことができようか[57]。」巨きな棍棒で一斉に打ち砕いた。陶工は請うた。「布を用いなければ、生乾きの瓦に布くものがございません[58]。」公遜は羅数十匹を取って賜うように命じた。(鄭咸平老奉議談)

 

光州定城[59]の主簿富某は、任期満了し、家族を連れて帰郷するとき、合肥[60]を通りかかったが、そこの長官と旧交があったので、数日逗留し、仏寺に泊まった。ある晩寝ると、箱の中で切切[61]と音がしたので、鼠かと疑った。翌朝開いて見ると、中に金釵数本があったが、すべて寸断されていた。ほかの篋には羅縠[62]をたくさん入れてあったが、すべて細く切られて簟紋[63]のようになっていた。富はおおいに驚き、部屋を出ると寺僧に話した僧は言った。「何と愚かな幽霊だ。この寺にはもともと(あやかし)はいなかったのだぞ。」そう言うと、僧が着ている三衣[64]はすべて綾縠[65]のように切られていた。翌日長官に会い、客間に坐し、またその事を挙げ、さらに言った。「持ってきた匹帛はすべて破られましたが、さいわい衣服だけは無事でした。」ふとその衣を見ると、すでに前のように切られていた。富はおおいに恐れ、すぐに辞して去った。その後は特別なことはなかった。(無為の進士李記言談)

 

明州[66]の育王塔[67]には、霊験がとても多かった。魏丞相南夫[68]の母秦国太夫人の喪が明けたとき、寺で僧に飯を食らわせ、丞相の夫人慶国姜氏は香を腕で焚いた。高麗の僧がちょうどそこにいて、賛嘆していた。するとにわかに丞相のおい鯉門が指す塔の階に仏が現れた。丞相が、指しているところを見ると、ほんとうに見えているのであった。人々があらそって見たところ、みな仏像を見たが、それぞれ異なっており、あるものは金像、鉄像を見、あるものは肉色相を、あるものは半身を見、あるものは頭髻だけを見、あるものは顔だけを見、見た人々はみな驚いた。丞相はさまざまな像の中で、衆目がもっとも多く見たものを尋ね、(たくみ)に命じて描かせた。

 

程迥[69]は、伊川[70]の後裔であった。紹興八年、臨安の後洋街[71]に来て住んだ。門は街路に臨んでおり、簾を垂らして覆いにしていた。ある日、燕のようなものが、瞥然[72]と外から飛び込み、すぐ堂壁についた。家人が近づいて見ると、それは美しい女で、身長はわずかに五六寸、体はすべて備わっており、容姿服飾はたいへん麗しく、人を見てもさして驚かず、小さい声ははっきりと弁ぜられた。みずから言った。「わたしは玉真娘子です。たまたまこちらに来たのは、祟るためではありません。もしわたしに仕えられれば、たいへん宜しゅうございます。」その家は壁に小さい龕を作り、香火を奉り、すこぶる予言することができ、吉凶はすべて験があった。物好きはあらそって面会を求めにゆき、人が百銭を払うと、龕を開いてやったので来る者は絡繹として、程氏は小金持ちとなった。このようにして一年たつと、突然ふたたび飛び去り、所在が知れなくなった。

 

士人李璋の妻徐氏は、美しく、性来寡黙で、家にいてつねに外を伺わず[73]、暮夜にひとりで裏庭にいった。璋ははじめおかしいと思わなかったが、裏庭から帰るたび、口で物を咀嚼しているようであった。その後、ひそかについていって窺うと、徐氏は竹薮に入り、俯いて地を摩り、探しものがあるかのようにし、帰るとふたたび咀嚼していた。夜、枕辺で白い石を得たが、見ればすべて歯形があり、齧って損なったかのようであった。その後見るとその箱の中には歯形のついた石がたくさんあったので、はじめて怪しんで問いただしたが、ひたすら隠して語らなかった。当初徐氏はきわめて嫉妬深かったが、石を噛むようになった後、嫉妬せず、さらに寛容になった、璋がはしためと寝て榻を別にしても、すべて捨ておいて問題にしなかった。このようにして年を重ね、病んで亡くなった。

 

四明の人鄭邦傑は海に浮かんで貿易することを生業とし、高麗、日本に往来していた。ある晩、舟が進んでいると、鐃と鼓の音が遠くから聞こえて、その後だんだんと近づいてきた。見ると舟はたいへん長く、旌旗は翻っていた。両舷には数千人が坐し、長嘯しながら船を漕ぎ、はやく進み、しだいに近づいたが、人を恐れているかのよう、舟は水に没すること半里でふたたび出てきたが、船を漕ぐさまは前のようであった。水夫は言った。「これは『幽霊の船漕ぎ』といい、過去未来の溺死者のすることで[74]、見た人には不幸があります。」そこで邦傑は帰った。

 

はじめ福州[75]安南[76]の県丞をしていた。郡には指使[77]張悦がおり、州命によって県に来たが[78]、すこぶる傲慢不遜であったので、心のなかで怨んでいた。のちに福州を治めたとき、悦は本路[79]の巡轄馬遞[80]をしていたので、州庁に会いにゆくと、広間に踞坐[81]し、悦を引いて廷参[82]させた。悦がとても堪えられず、言い争うと、廷卒[83]に命じて鞭うちを加えさせた。ときに韓王世忠[84]が建州[85]に駐在していたので、すぐに械送[86]し、文書を提出し、スが田路分の娘をひそかに慕い、むりに迫って淫らなことをしたと訴えた。韓王は激怒し、悦を軍門で斬った。のちに袁州[87]を治め、日々書斎に坐していたが、突然中毒したかのように、地に倒れ、人事不省になった。左右が介助して湯薬を飲ませると、すこし意識が戻ったので、朝服を取ってくるようにすぐに命じた。家人が尋ねると、答えた。「さきほど張巡轄が来、掴まれたので、今からいっしょに弁論しにゆかねばならぬ。」そういうと亡くなった。(従義郎呂仲権が二事を語った)

 

紹興初年、福建で賊寇が乱を起こした。賊魁は張義、張万全、葉百三といい、気炎はすこぶる盛んであった。提刑[88]の李稷臣は投降するように諭した。二張は葉を稷臣に讒言し、葉はまったく投降する意思はなく、また乱をなすだろうと言った。稷臣はそれを信じ、大きな柱を街路に立て、葉を捕らえて鉄鎖で柱に縛り、焼いた炭を巡らし、酢と五辛[89]を飲ませ、残酷を極めた。稷臣がみずからそれを望み見ると、葉は大声で叫んだ。「わたしはすでに投降したのに、何の罪でこのようなことになったのだ。」体がすっかり焦げ爛れて死んだ。それから稷臣はひとり坐するたび、しばしば葉が側にいるのを見、おおいに嫌に思った。三年後、稷臣は全身に瘡痕を生じ、火で焼かれたかのようになり、痛くて我慢できず、亡くなった。

 

王聖図[90]は、元城先生[91]の舅であった。及第する前、夢を見たが、命を受けて給事[92]に除せられたところ、牋榜[93]で結婚を持ちかけてきた者があり、その家系を見ると、ただ四文字「霊沢夫人[94]」と題してあった。翌年、首席合格し、年潞州[95]を治めることができた。(したやく)が祭祀参拝すべき者を報告したところ[96]、霊沢夫人がその中にあった。聖図は恍然[97]としてたいへん驚いた。一年で、給事として召された。聖図はひそかに前の夢を思い、忽忽[98]として楽しまず、旅装を整えようとしなかった[99]。ある日、霊沢廟の闕門[100]を過ぎ、たいへん慌てている様子であった。人がそのわけを問うと、言った。「この夜つづけて夢みた[101]。」そして亡くなった。

 

元城先生の幼い男児は景道といった。元城は配所にいたとき、昼寝して夢みたところ、道士が会いに来た。まもなく家書を得たところ、その正妻が男子を生んだことを知らせていたが、誕生日はまさに道士を夢みた日であった。先生は驚いた。まもなく配所から帰ると、男児が生まれていたが、容貌さながら夢の中で見たもののようであった。そこで景道と名づけ[102]、かわいがるさまは他に異なっていた。元城がふたたび嶺外に流されると、景道は生まれて九年で、突然病になり、家で亡くなった。元城はそれを聞くと、悲しみに堪えなかった。南海の道士[103]には異術があり、元城は醮[104]でその魂を招くように命じ、景道は本当に位に姿を現し、元城に言った。「わたしは昔道士で、公は淄青節度[105]であったが、矢を射たときにあやまってわたしの腕に中たり、四合出血して死んだのだ。撫育の恩でも、半分を償っただけだ。」元城はそこで腕を刺し、血で『般若心経』を書いて追善した。

 

汴河の岸で粥を売る嫗がおり、日々得た銭を缿筒[106]の中に置き、暮れると数えて貫きとめた。その中に紙銭二枚があったので、驚いて幽霊かと疑った。それから毎日このようであった。そこでひそかに粥を買う者をじっくり見ていたところ、一人の女、青い衫に白い裲襠[107]のものが、日々二銭で粥を買い、風雨でも変わることはなかった。そこでその銭を別に貯え、暮れに見たところ、ほんとうに紙銭であった。ひそかについてゆくと、北のかた一里の所にいったが、闃として人がいない所であり、女はかならず四方を顧み、草叢の中に入って消えるのであった。このようにして一年がたった。突然、女が来て嫗に言った。「わたしはひさしく隣に寄寓していましたが、今回、夫が迎えにきてくれましたので、おばあさんにお別れして去ることといたします。」嫗が事情を問うと、言った。「もとより申しあげようとしておりましたが、おばあさんにお頼みすることがございます。わたしは李大夫の妾でしたが、舟で赴任してゆくとき、ここへ来て、お産で死に、仮埋葬されました。わたしが埋葬された後子供がすぐに生まれましたが、わたしは死んで乳が出なかったため、日々粥を買って養い、今ではすでに一年になっています。これから李さまが来て草叢を発掘しますが、もし子供が泣いているのを聞けば、かならず驚き、怪しみ、恐れ、この子を育てないでしょう。おばあさんは事情をお話しになり、子供を拾わせ、よく面倒をみさせてください。」金釵を贈りものにして別れた。にわかに大きな舟が岸に来たので、尋ねると、李大夫であった。すぐに草叢を発掘しにいったので、嫗はついていったが、柩を引きあげると子供が本当に泣いていた。李大夫が驚き恐れたので、嫗は話をしてやり、釵を取って示した。李がじっくり見たところ、ほんとうに亡くなった妾の物であったので、棺を開き、子供を拾って養った。(李知県明仲談)

 

王陔は字は希武といい、参政綯[108]の子で、邸宅は平江の崑山にあった。陔は親に不幸があり、広間の側にひとりでいた。その家は妾と下女がすこぶる多く、夜はともに堂門に坐して寝ていた。ある晩、老いた乳母が夢の中で驚き、魘されているかのようになった。その声ははじめはとてもかすかであり、呼んでもながいこと目ざめなかった。下女たちは驚いて起きあがり、榻に近づいて見ると、見えなくなっていた。家中が驚き、燭を明るくして四方を探したが、見つからず、戸を開けて外をくまなく探したところ、西の花園の池亭[109]の側で見つかったが、胡牀に坐しており、耳、目、鼻、口がすべて泥に塞がれていた。いそいで介助し、洗ってやったが、すでに昏然として人事不省になっていた。担いで帰り、湯薬を飲ませたが、しばらくすると死んでしまった。その宅は四周が塀で、中門[110]には鍵が掛けられ、外は通じていなかったので、どこから出たかは分からなかった。当時、その場所はもともと漏沢園[111]だったと伝えられていた。

 

宣政年間、黄河が決潰し、激しい流れが溢れ出、塞げなかった。河清卒[112]の牢吉が、壊れた堰の傍らをゆきつもどりつ、河を塞ぐ方策を考えていたところ、突然その姓名を呼ぶ者があった。三四度目にいたって、自分から近づいていったが、闃として人はおらず、探してゆくと、呼び声は葦の中から出ているのであった。近づいてみると大きな蝦蟇がおり、蹲っている高さは人と同じであった。驚いて拝礼すると、蝦蟇は尋ねた。「何度もゆきつもどりつしているのはどうしてだ。」河が決潰して塞げない状況を答えると、蝦蟇はすぐに物を吐いた。前足を挙げて受けとめると、形は生の荔枝のようであった。蝦蟇はそれを吉に与えると言った。「これを飲むと水に七日没することができ、堰が壊れた原因をすぐにつきとめることができる。何かを見ても、けっして驚いてはならぬ。」そして草の根や木の杭[113]を沈める法を授け、言った。「堰ができたら、廟を建てて鎮めよ。」吉が拝謝すると、蝦蟇は突然所在を失った。それからはしばしば水に潜り、深い河底にいったところ、決潰した場所の下で龍が熟睡していた。出ると蝦蟇の教えの通りで、河の決潰は収まったので、塞いで廟を建てた。(李知県昭明仲談)

 

許式は字を叔矜といい、京師で赴調[114]して帰るとき、汴を通った。岸の舟で許侍郎さまと呼ぶ者がおり、まっすぐ式の舟に来た。式は言った。「人違いでしょう。わたしは小役人です。」その人は笑った。「あなたが侍郎さまなのです。わたしはあなたと前世での契りがございますので、あなたが帰ろうとされているのを聞き、お会いしようとしたのです。」そして懐を探り、蔽われたものを出して言った。「これを餞別と致します。後日、十四娘の乳を得れば、すぐに食べものにすることができましょう。」許は大いに訝り、驚き、ゆっくりと蔽いを掲げると、白い石数塊を得たが、硬くて輝きがあり、好もしかったので、封緘して収蔵した。その後、都合数回の任務を経て、博州[115]の補佐官を得た。ある日、県庁にいって帰ると、太守が言った。「近頃、とてもおかしなことがあるのだ。民間の家に娘がおり、夫がいないのに孕んだので、父母は我慢できず、今は家に閉じ込めているのだが、事情はいまだに分からないのだ。」許は言った。「そのものの年はいかほどでございましょう。」「十四。」許はにわかに以前の事を思いだし、わざわざ詰問したところ、娘は泣いて言った。「本当に特別なことはございません。ただ、ある日、衣を溪のほとりで洗っておりましたところ、南の岸で突然わたしの幼名を呼ぶ者がいましたので、あやまって返事してしまったのでございます。そのものは道士で、じっと見ても、まったく一言も発せず、すぐに去りました。返事したとき、突然、何かに感じたようになり、それから妊娠しましたが、まったくそのわけが分からないのでございます。」許はそこで道士の容貌衣服について尋ねたところ、汴の岸で見たものであった。大いにその事を奇異であるとし、つつしんで娘を養うように命じた。子が産まれると乳を採取し、収蔵している石でこすったところ、たちまち(あぶら)のようになったので、すぐに食べさせた。一月を経ると食べものは尽き、乳はすぐに止まって子は死んだ。その父母を召し、事実を告げて許させた。そののちに本当に禁従[116]に登った。享年八十であったが、容色は童子のように潤いがあり、少壮のときのようであった。人蔡津退若談)

 

最終更新日:2009年4月16日

睽車志

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[1]淳熙七、八年。千百八十、一年。

[2]に同じ。http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B161728。htm

は秋の進貢。http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B189792。htm

[3]http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicADZdic9D120153。htm

[4]漢の人。家が貧しく、母を養うため、子を生めようとしたところ、大金を得た。『捜神記』参照。http://zh。wikipedia。org/wiki/%E9%83%AD%E5%B7%A8

[5]未詳。

[6]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[7]『宋史』巻八十八・両浙路「常州、望、陵郡、軍事。崇寧一十六万五千一百一十六、口二十四万六千九百九。貢白紵、紗、席。県四:晋陵、望。武進、望。宜興、望。唐義興県。太平興国初改。無錫。望。」。

[8]原文「棄兄弟自城拿舟迎候」。「棄兄弟」「拿舟」が未詳。とりあえずこう訳す。

[9]三更に同じ。真夜中。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8916191.htm

[10]上舎は国子監生の一つ。宋代、国子監生は外舎生二千人、内舎生三百人、上舎生一百人に分けられていた。http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic89323305。htm

[11]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E5%AE%9C%E8%88%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[12]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E5%AF%8C%E9%99%BD&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[13]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E5%98%89%E5%85%B4%E5%B8%82%E6%B5%B7%E5%AE%81%E5%B8%82%E7%9B%90%E5%AE%98%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[14]原文「即沈其子、雑糠谷為粥、乗熱以食」。未詳。とりあえずこう訳す。

[15]医学用語。両脇の間にある积块という。

http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE7Zdic99Zdic96。htm

[16]大監は太監に同じ。宦官のこと。盛という人物については未詳。

[17]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E8%A5%84%E9%99%BD&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[18]米芾のこと。http://baikebaiducom/view/69377htm

[19]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&q=%E7%84%A1%E7%82%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[20]仏教語で、寺の接待係をいうが、ここでは単に接待係のことであろう。

http://zh。wikisource。org/wiki/%E4%BD%9B%E5%AD%B8%E5%A4%A7%E8%BE%AD%E5%85%B8/%E7%9F%A5%E5%AE%A2

[21]敬礼の一種。役人や賓客に声を出して挨拶すること。声諾とも。

http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA3ZdicB0193190。htm

[22]望楼のある城門。http://www。zdic。net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF255925。htm

[23]太鼓を叩くことを司る下役。http://baike。baidu。com/view/1560755。htm

[24]胥吏の長。http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic83ZdicA5169515。htm

[25]土地神。http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE225822。htm

http://baike。baidu。com/view/188975。htm

[26]王子のこと。http://baike。baidu。com/view/963395。html

[27]超脱したさま。http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic84ZdicB1223283。htm

[28]宮殿の名。『宋史』における用例:

1/新校本宋史/本紀/巻九本紀第九/仁宗趙禎一/天聖八年

八月丙戌、詔詳定塩法。丁亥、詔近臣宗室観祖宗御書于龍図、天章閣、又観瑞穀于元真殿、遂宴蕊珠殿。戊子、詔流配人道死者、其妻子給食送還里。

2/新校本宋史//巻一百四十志第九十三/樂十五鼓吹上

十二時治平時、暫垂簾、佑聖子、解危疑。坐安天下、踰厭避万機、退処宸闈。殿開慶、養志入希夷。扶皓日、浴咸池。看神孫撫御、千載重雍累熙、四方欽仰洪慈。陰徳遠、仁功積、歓養罄九域、礼無違。事難期、乗霞去、乍升仙、誥下九囲。泣血漣如、更鸞車動、春霧暗翠旂、路指嵩、伊。薤歌鳳吹、悠颺逐風悲。蕊珠殿悄、網塵垂。空坐濕、罔極吾皇孝思、鏤玉写音徽。彤管煒、青編紀、寧更羨周雅播声詩。

3/新校本宋史//巻一百六十二志第一百一十五/職官二/諸閣学士

天章閣学士直学士待制天禧四年建。在会慶殿之西、龍図閣之北。明年、仁宗即位、修天章閣畢、以奉安真宗御製。東曰玉殿、西曰蕊珠殿、北曰寿昌殿、南曰延康殿。以桃花文石為流桮之所。以在位受天書祥符、改曰天章、取為章于天之義。天聖八年置待制。七年、又置学士、直学士。又有侍講。学士、慶七年初置、在龍図閣学士之下。学士罕以命人、迄仁宗世、纔王贄一人、秦堪自顕謨閣進直天章閣、以称呼非便辞。詔改龍図、自是天章不為帯職。直学士、慶七年、初置天章閣直学士、在龍図閣直学士之下。待制、天聖八年初置。寓直於秘閣、与龍図遞宿、尋命范諷、鞠詠充職。中興後、図籍、符瑞、宝玩之物、若国史、宗正寺所進属籍、独蔵于天章閣、祖宗御容、潜邸旌節亦安奉焉。

4/新校本宋史//巻一百六十二志第一百一十五/職官二/諸閣学士

宝文閣学士直学士待制閣在天章閣之東西序、玉、蕊珠殿之北。即旧寿昌閣、慶改曰宝文。嘉祐八年、英宗即位、詔以仁宗御書、御集蔵于閣、命王珪撰記立石。治平四年、神宗即位、始置学士、直学士、待制、恩賜如龍図。英宗御書附于閣。学士、治平四年初置、以呂公著兼。直学士、治平四年初置、以邵必為之。待制、治平四年初置。

5/新校本宋史/列伝/巻三百一十二列伝第七十一/王珪

英宗立、当撰先帝謚、珪言:「古者賎不誄貴、幼不誄長、故天子称天以誄之、制謚於郊、若云受之於天者。近制、唯詞臣撰議、庶僚不得参聞、頗違称天之義。請令両制共議。」従之。濮王追崇典礼、珪与侍従、礼官合議宜称皇伯、三夫人改封大国、執政不以為然。其後三夫人之称、卒如初議。始、珪之請対而作詔也、有密譖之者。英宗在位之四年、忽召至蕊珠殿、伝詔令兼端明殿学士、錫之盤龍金盆、諭之曰:「秘殿之職、非直器卿于翰墨間、二府員缺、即出命矣。曩有讒口、朕今釈然無疑。」珪謝曰:「非陛下至明、臣死無日矣。」神宗即位、遷学士承旨。珪典外制十八年、最為久次、嘗因展事斎宮、賦詩有所感、帝見而憐之。熙寧三年、拝参知政事。九年、進同中書門下平章事、集賢殿大学士。

[29]侍宸のことか。http://zh。wikipedia。org/wiki/%E7%8E%8B%E6%96%87%E5%8D%BFただ、かれと蕊珠殿の関係は未詳。

[30]原文「以薬点化」。「点化」が未詳。とりあえずこう訳す。

[31]は衣装の縁飾り。pは黒の縁飾りであろう。

http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE8ZdicA5Zdic88。htm

[32]官名。http://baike。baidu。com/view/1138949。htm

『宋史』巻一百六十九・文散官「中奉大夫正四、太中大夫従四、上階中大夫従四、中散大夫正五、上朝奉大夫正五、朝散大夫従五上」。

[33]道教の一派である神霄派の道観。

http://zh。wikipedia。org/wiki/%E7%A5%9E%E9%9C%84%E6%B4%BE

http://www。taoist。org。cn/daojiaozazhi/zgdj1/94-3/30p。htm

[34]金の盒子。

[35]蔡京のこと。http://baike。baidu。com/view/39861。htm

[36]現在の安徽省和県。http://baike。baidu。com/view/816965。htm

http://baike。baidu。com/view/136492。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E5%92%8C%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『宋史』巻八十八・淮南西路「和州、上、陽郡、防禦。南渡後、為姑熟、金陵藩蔽也。淳熙二年、兼管安撫。崇寧。」

[37]宋代、兵丁と節級の合称。http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB598389。htm。「節級」は下級の武官、また、獄吏とも。

http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8Zdic8AZdic82216687.htm

[38]蘇軾『前赤壁:「肴核既尽、杯狼藉。

[39]よるべなくただよう魂魄。

http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicBBZdic9E142858。htm

[40]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&q=%E7%84%A1%E7%82%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[41]原文「溪水与外通」。「与外通」が未詳。外にある河川などと繋がっていたということか。

[42]真珠貝。http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0218525。htm

[43]晋·機『文』「玉而生、水珠而川媚。」。

[44]五代末の節度使。泉州その他の領土を宋に献じた。百度百科:

http://baike。baidu。com/view/125767。html

[45]未詳だが、役所の建物で、知事がくつろぐためのプライベートな建物であろう。

[46]清·道光『晋江志·巻六十九·志·城外寺·法石寺』「法石寺、在三十六都通淮外万山。宋初·度使葬妻及女于山之阿、建隆元年建寺、乾徳四年西方禅寺。」

http://qzhnetdnscncn/qzh18htm

[47]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&lr=&um=1&q=%E9%80%A3%E6%B1%9F&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[48]副県知事。http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE5ZdicB0Zdic89。htm

[49]画像検索結果:

http://images。googlecom/imageshl=zh-CN&q=%E8%82%A9%E8%BC%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[50]グーグルアース

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&q=%E6%B0%B8%E6%98%A5&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[51]檐の下、堂の前の梁。http://cdkdd。cc/O/4J0/

[52]百度百科:http://baike。baidu。com/view/550472。htm

「大参」は参政の称。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA7107047。htm

[53]http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBEZdicBF96133。htm

[54]太守の属官。http://baike。baidu。com/view/1434530。htm

[55]未詳だが、軍官であろう。

[56]原文「潮未当応」。「未当応」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]原文「吾方奉親居此、豈可置布紋於頭上耶。」。なぜ瓦に布の模様がついているのがいけないのかが未詳。とりあえずこう訳す。

[58]原文「無以藉坯」。「坯」は焼いていない瓦やレンガ。

http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE5Zdic9DZdicAF。htm

[59]『宋史』淮南西路「光州、上、弋陽郡、光山軍節度。本軍事州。宣和元年、賜軍額。紹興二十八年、避金太子光瑛諱、改蒋州。嘉熙元年、兵乱、徙治金剛台、尋復故。崇寧一万二千二百六十八、口一十五万六千四百六十。貢石斛、葛布。県四:定城、上。固始、望。光山、中下。同上避諱、改期思、尋復故。仙居。中下。南渡無。」

グーグルアース:

http://mapsgooglecom/mapshl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%AE%89%E5%BE%BD%E7%9C%81%E6%BB%81%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%AE%9A%E8%BF%9C%E5%8E%BF%E5%AE%9A%E5%9F%8E%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[60]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E5%90%88%E8%82%A5&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[61]微かな音を表す擬音語。http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic88Zdic87324782。htm

[62]目の粗い絹織物。http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBDZdic97197384。htm

[63]蓆の模様。http://www。zdic。net/cd/ci/18/ZdicE7ZdicB0Zdic9F199837。htm

[64]袈裟。http://baike。baidu。com/view/737837。html。fromTaglist

[65]綾はあやぎぬ。縠はちりめん。

[66]現在の寧波のこと。http://baike。baidu。com/view/1302576。htm

[67]阿育王寺にある仏舎利塔のこと。阿育王寺:http://baike。baidu。com/view/64952。htm

画像検索結果:

http://images。google。com/images。q=%E5%AE%81%E6%B3%A2%E9%98%BF%E8%82%B2%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%A1%94&hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=2

[68]魏杞のこと。http://baike。baidu。com/view/722781。html。fromTaglist

[69]http://baike。baidu。com/view/1008236。htm

[70]http://baike。baidu。com/view/80386。htm

[71]街巷名。竹竿巷とも。http://www。hangtu。com/whhz/hzfxl/5_6。html

[72]すばやいさま。http://xh。5156edu。com/html5/347096。html

[73]原文「居常外不窺」。「外不窺」は未詳だが、家に閉じこもっていたということであろう。

[74]原文「蓋前後溺死者所為」。「前後」が未詳。とりあえずこう訳す。

[75]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E7%A6%8F%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[76]未詳。福州にこのような県名なし。

[77]宋代、将あるいは州官の配下で使役されていた低官。

http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdic87332539htm

[78]原文「以州檄到県」。「州檄」が未詳。とりあえずこう訳す。

[79]ここでは福建路のこと。福建路『宋史』巻八十九「福建路。州六:福、建、泉、南剣、漳、汀。軍二:邵武、興化。県四十七。南渡後、升建州為府。紹興三十二年、一百三十九万五百六十五、口二百八十二万八千八百五十二。」。「路」は宋代の行政区画。州や県の上。http://wwwzdicnet/zd/zi/ZdicE8ZdicB7ZdicAFhtm

[80]駅伝一種

http://wwwzdicnet/cd/ci/3/ZdicE9ZdicA9ZdicAC67065htm

宋史に「巡轄馬遞鋪」という言葉が見える。

1/新校本宋史//巻一百七十二志第一百二十五/職官十二奉禄制下/職田

総管、視節鎮知州。路分ツ轄、視餘州知州。安撫、路分都監、州ツ轄、視節鎮通判。藩府都監、視本州判官。諸路正将、視路分都監;副将、視藩府都監。走馬承受、諸州都監、都同巡、都大巡河、並視節鎮判官。巡検、堡砦都監、砦主、在州監当及催綱、撥発、巡捉私茶塩賊盗、駐泊捉賊、並視幕職官。巡轄馬遞鋪、監堰并県、鎮、砦監当、並視本県簿、尉。諸路州学教授、京朝視本州判官、選人視本州曹官。

2/新校本宋史//巻一百七十二志第一百二十五/職官十二奉禄制下/職田

若其頃畝多寡、具有成式:知藩府、謂三京、潁昌、京兆、成都、太原、建康、江陵、延安、興仁、隆徳、開徳、臨安府、秦、揚、潭、広州。二十頃。発運、転運使副、総管、副総管、知節鎮、一十五頃。知餘州及広済、淮陽、無為、臨江、広徳、興国、南康、南安、建昌、邵武、興化、漢陽、永康軍、并路分ツ轄、一十頃。発運、転運判官、提挙淮南、両浙、江南、荊湖東西、河北路塩事官、通判藩府、八頃。知餘軍及監、并通判節鎮州、ツ轄、安撫副使、都監、路分都監、将官、発運司幹辦公事、七頃。通判餘州及軍、満万県令、六頃。藩府判官、事参軍、州学教授、並謂承務郎以上者。都監、発運、転運司主管文字、満五千県令、副将官、五頃。節鎮判官、事参軍、州学教授、並謂承務郎以上者。転運司主管帳司、不満五千県令、満万県丞、餘州都監、走馬承受公事、主管機宜文字、同巡検、都大巡河、提点馬監、四頃。節度掌書記、観察支使、藩府及節鎮推官、巡検、県、鎮、砦都監、砦主、巡捉私茶塩、駐泊捉賊、在城監当、餘州判官、学教授、並謂承務郎以上者。軍、監都監、三頃五十畝。軍、監判官、餘州推官、餘州及軍、監事参軍、巡検、県、鎮、砦都監、砦主、巡捉私茶塩、駐泊捉賊、在城監当、藩府及節鎮曹官、州学教授、謂承直郎以下。満五千県丞、満万県簿、尉、巡轄馬遞鋪、県、鎮、砦監当及監堰、三頃。餘州及軍、監曹官、州学教授、謂承直郎以下。不満五千県丞、満五千県簿、尉、巡轄馬遞鋪、県、鎮、砦監当及監堰、二頃五十畝。不満五千県簿、尉、巡轄馬遞鋪、県、鎮、砦監当及監堰、二頃。

[81]坐る両脚の底と臀部を地に着け、両膝を上にやかすこと

http://wwwzdicnet/cd/ci/15/ZdicE8ZdicB8Zdic9E244512htm

[82]庁の前で謁見することhttp://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBBZdicB786630。htm

[83]役所の隷卒であろう。

[84]百度百科:http://baike。baidu。com/view/56611。htm

[85]福建省の州名。百度百科:http://baike。baidu。com/view/816993。htm

[86]刑具を加えて押送すること。

http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicA2ZdicB0138758。htm

[87]江西省の州名。http://baike。baidu。com/view/51452。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E8%A2%81%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[88]宋代、各路に置かれ、所属する各州の司法、刑察などを主管した官。http://baike。baidu。com/view/59798。htm

[89]辛い味の野菜。諸説ある。

http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic94328733。htm

[90]未詳。

[91]劉安世。http://baikebaiducom/view/232695htm

[92]官名。事中のことhttp://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic9943437htm

[93]原文同じ。未詳。文脈からすると書状のようなものか。

[94] 検索結果:http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9D%88%E6%BE%A4%E5%A4%AB%E4%BA%BA&lr=&aq=f&oq=

孫権の妹、劉備の妻。

http://www.chaohuly.gov.cn/content.aspx?id=931891954206

[95]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps。hl=zh-CN&q=%E6%BD%9E%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[96]原文「吏白典祠当謁者」。「典祠」が未詳。とりあえずこう訳す。

[97]はっとするさま。http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic81Zdic8D307739。htm

[98]失意のさま。http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBFZdicBD317722。htm

[99]原文「不復理装為行計」。とりあえずこう訳す。「行計」は旅に出る考え。

http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C119336。htm

[100]高楼大門。http://www。zdicnet/cd/ci/13/ZdicE9Zdic98Zdic99279051htm

[101]原文「此夜連夢」。後ろとのつながりが未詳。闕文があるか。

[102]道士を夢みて生まれた子だから「道」の字がつくのであろう。「」は景慕のことか。

[103]原文「南海道士」。未詳。「南海」は県名か。『宋史』巻九十・広南東路「広州、中、都督府、南海郡、清海軍節度。開宝五年、廃咸寧、番禺、蒙化、游水四県。大観元年、升為帥府。旧領広南東路兵馬ツ轄、兼本路経略、安撫使。元豊一十四万三千二百六十一。貢胡椒、石髪、糖霜、檀香、肉豆、丁香母子、零陵香、補骨脂、舶上茴香、没薬、没石子。元豊貢沈香、甲香、・糖香、石斛、亀殼、水馬、皮、藤。県八:南海、望。隋県。後改常康、開宝五年復。番禺、上。開宝中、廃入南海。皇祐三年復置。有銀炉鉄場。増城、中。清遠、中。有大富銀場、静定鉄場、銭紏鉛場。懐集、中。有大利銀場。東筦、中下。開宝五年、廃入増城。六年復置。有桂角等二銀場、静康等三塩場、海南、田等三塩柵。新会、下。有千錫場、海晏等六塩場。信安。下。本義寧県、開宝五年、廃入新会。六年、復置。太平興国初、改信安。熙寧五年、省為鎮、入新州新興県。元祐元年復為県。紹聖元年、復省為鎮、後復為県、還隸広州。南渡後、無信安、増県一:香山。紹興二十二年、以東筦香山鎮為県。」。ただ、「南海道士」が具体的に誰なのかは未詳。

[104]道士、和尚が厄払いのために行う儀式。

http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE9Zdic86ZdicAE。htm

[105]唐代の官名。

http://zh。wikipedia。org/wiki/%E6%B7%84%E9%9D%92%E7%AF%80%E5%BA%A6%E4%BD%BF

[106]密告文を入れる筒。http://wwwzdicnet/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdicBF213707htm

[107]チョッキ。http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE8ZdicA3ZdicB2。htm

[108]「参政」は参知政事。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic8FZdic8230298。htm

[109]池辺の東屋。http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA085857。htm

[110]内、外門の間の門。http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304331。htm

[111]無縁墓。また、検屍場。http://www。zdic。net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic8F145541。htm

[112]治水に当たる兵卒。http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB3317444。htm

[113]原文「茭楗」。草の根や木の杭。土木工事に用いられた。『宋史』巻二百九十八・燕度「出知滑。滑与黎陽対境、河埽下臨魏都、霖潦暴至、薪芻不属。度曰、魏実為河朔根本、不可坐視成敗。悉以所儲茭楗禦之、埽頼以不潰。復為部判官。皇祐甲午、益州言、在甲午、蜀再乱、今又之、民為戚戚。乃命度出使備不虞、還奏無足慮。権河北転運副使、六塔河決、坐貶秩知蔡州、徙福州。閩故多盗、度請假事権制摂一道、遂加兵馬ツ轄。入為部副使、以右諌議大夫知潭州。卒、年七十。」。

[114]吏部にいって転任を待つこと。

http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE8ZdicB5ZdicB436556htm

[115]『宋史』巻八十六河北路「博州、上、博平郡、防禦。淳化三年、河決、移治於孝武渡西。崇寧四万六千四百九十二、口九万一千三百二十三。貢平絹。県四:聊城、望。高唐、望。堂邑、望。博平。緊。熙寧二年、割明霊砦隸北京清平。」。

[116]帝王の侍従。特に翰林学士などの文学侍従官を指す

http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA6Zdic81177433。htm

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