/拾遺

 

 龍昌裔

戊子の年[1]は、旱魃で、廬陵の人龍昌裔は、売る米数千斛を持っていた。その後、米価がやや安くなると、昌裔は文を作り、神岡廟[2]に祈り、もさらに一月雨がふらないことを願った。祭りおわり、来た路を帰る時、亭に憩うていたが、まもなく黒い雲一が廟の後ろから出、まもなく雷雨がはげしく来、昌裔を亭の外で撃ち殺した。官司が検分し、巾をがせると、髻の中から手紙一枚を見つけたが、廟に祈る文であった。昌裔には孫の婿がおり、童子挙に応じ、同郷人はその事を訴えたので、送考[3]得なかった

 

 李生

中和[4]末年、明経の李生が受験のために長安にいったが、道で一人の道士に遇って同行し、宿泊すること数日、意気投合した。関中に入ると別れたが[5]黄白の[6]語ると、道士は言った。「点化[7]の事は、神仙の小術です。ただ世人は貪ることが多く、それによって奢侈の足しにしようとするため、仙道は秘しているのです。そもそも至道[8]は煩瑣でなく、仙方は簡易です。今の人はその薬を貴んだり、その事を難しいとしたりしますが、いずれも間違っています。お見うけしましたところ、あなたは性質が冷静寡欲で、教えがいのあるかたのようです。今、薬方をお授けしますから、欠乏救えるでしょう。仕えないことができれば衣食に事欠かないはずです。禄を得れば二度と行ってはなりません。もし行えばそれは貪ることであり、それは仙道[9]が許さないことです。」手ずから処方を作り、授けて別れたが、普通の薬草数種にすぎなかった。欠乏あうたびに、薬方に従って行えば、かならずうまくいった。後に及第し、州県の官をしばしば行ったが、得るものはかえって少なく、南昌の知事になると、また行ったが、まったくうまくゆかなかった。従子(おい)智修は沙門であったが、李は数丸を与えた。智修は後に鍾離[10]に遊び、薬を売る家に泊まり、銀を焼き、二十両を得て衣に易えた。時に劉仁規は刺史をしており、まさにその事を好んでいたので、人に告げられたが、逃げて免れることができた。

 

 徐明府

[11]徐明府は、隠遁して道術があり、測れなかった。河南の劉崇遠は、崇亀[12]の従弟であった。妹がおり、尼となり、楚州[13]に住んでいた。つねに一人の旅の尼が寓宿していたが、突然癆咳となった。ひどく痩せて死にそうになり、その姉が訪ねてきた時、人々は見たが、病人の身の中に気があり、飛ぶ虫のように、その姉の衣の中に入り、見えなくなった。病人は死に、姉も病み、まもなく劉氏は屋敷を挙げてみな病み、病むものはかならず死んだ。劉氏が崇遠に手紙を送り、明府に頼むと、徐は言った。「あなたは別荘を金陵に持ち、金陵の絹一疋をくれれば、療やしてあげよう。」言われた通りに絹を贈った。翌日、劉氏が夢みると一人の道士が笏を執って来、笏であまねくその身を撫でた。すると、身の中から白い気が炊煙のように騰がり、目ざめると、すっきりして食らえるようになり、普段と異なっていた。まもなく、徐は絹を包んで来て言った。「絹を席の下に置き、その上に寝ればすぐに癒えよう。」その言葉通りにすると、癒えた。その後、その絹を神とし、笏を持った道士を夢みた通りに描いた。

 

華陰の宿の嫗

伯は、廬陵[14]新淦[15]の人で、童子科[16]に及第した。天復[17]辛酉の年、試験に赴き、華陰にいたり、宿屋に泊まった。時に都は多難で、朝廷に親戚友人はなく、選事[18]は思いのままにならず、たいへん憂鬱でもあった。たまたま豫章の郎吏[19]で姓を楊というものが、郷里の旧知であったが、同宿していたので、教えて言った。「旅客がこちらに来て、天に祈れば、かならず夢の報せを得よう。夢みなくても、この宿の嫗は将来の事を知ることができるから、一言を得るだけでもよい。」伯はそこで一日留まり、誠意を込めて祀ったが、その晩は、夢みなかった。夜が明けると、宿の嫗がまさに他の客を送り迎えしたが、何も言わなかったので、伯はますます怏怏とした。ゆこうとすると、突然穿いていた(くつ)がなくなったので、童僕を詰責して大いに騒いだ。出発すると、嫗はついてきて叫んだ。「お若いかた、なんと騒がしいことでしょう。」伯がくわしく事情を語ると、嫗は言った。「おや。それこそ神のお告げです。そもそもゆこうとしてその(くつ)を失ったのは、事がすべて叶わないことです[20]。これだけでなく、都に混乱があろうとし、ふたたび盛んになれないはずです。百難をすべて経験なさいましょうが、憂えとするに足りません。あなたの爵禄はすべて江淮にあり、官は門下侍郎[21]になるはずです。」伯は、江淮にどうして門下侍郎があろうと思った。そこで長安にゆくと、ちょうど大駕が西に御幸しており、岐隴[22]についてゆくと、梁寇[23](まち)囲み、伯は辛苦が極まった。聖駕が(まち)を出、伯が逃げ帰ると、吉州刺史彭珍はかれを厚遇し、しばしば県知事を代行した。偽江西を平らげると、さらに選用せられ、朝廷に登り、部侍郎にいたり、たまたま臨軒[24]して斉王[25]を策命[26]する時、伯は門下侍郎を代行したが、命を受けると、宿の嫗の言葉を思いだし、たいへん不快になり、数か月して亡くなった。

 

 劉処士

は洛陽におり、処士劉某に遇ったが、奇術をよく知っており、易はつねにともに交遊していた。つねに市で薬を売っていたが、市中の人はその代金を払わなかったので、劉は易に従って求めにいった。市中の人は代金を払わず、さらに大いに劉を罵った。劉は帰ると易に言った。「あのものは愚かで理を知らないから、すこし懲らしめるべきだ。さもなければきっと土地神霊に責められよう。」夜になると、燭を消して就寝し、薪を積み、炭を起こし、薬を焼いた。易はよく寝られず、闇の中で見たところ、一人の男が炉に近づき、火を吹いていた。火の光の中でその顔は分かったが、例の市中の人であり、朝になると見えなくなった。易は後に暇をみて[27]、市中の人に尋ねると、言った。「ある晩、夢みると人に召してゆかれ、火を吹くように迫られましたが、息が続かなくなりそうになりました。目ざめると唇は腫れ、気力は乏しくなっており、十日して治りました。」劉はつねに河南の知事張全義に礼遇せられていた。たまたま梁の太祖と食事したとき、魚の鱠を所望されたので、全義は言った。「わたしには客分がおり、すぐに手に入れることができます。」すぐに劉を召し、小さな穴を掘らせ、水を汲んで満たし、釣り針を垂らすと、しばらくして、すぐに魚数尾を得た。梁の太祖はたいへん怒った。「ひどい妖怪だ。」すぐに背を二十回杖うち、獄に繋いだ。翌日、殺そうとしたが、その晩に逃げ去った。劉の友人は登封の知事であったが、その日、県庁にゆき、知事に言った。「災難があったので、これからゆく。」そして去り、行方が知れなくなった。

 

 張武

張武は、はじめは廬中[28]のある鎮の副将となり、大いに旅客を救済することに務めていた。かつて老僧がその場所を通ると、武は言った。「師は年老いていらっしゃり、行く手の宿はなお遠うございます。今晩わたしの庵に泊まることは、できましょうか。」僧は忻然とした。その鎮将はそれを聞き、怒った。「今、南北は交戦し、間諜は林のようなのに、この僧が誰か分かって留めようとしているのか。」僧が去ることを求めると、武は言った。「わたしは師を留めましたし、ゆかれようにも日が暮れていますから、とにかく泊まられて構いません。」武の部屋の中には一つの牀があるだけであったが、すぐにその僧に捧げ、自分はすぐに地に蓆を敷いて寝、入浴の準備はすべてみずから調えた。夜はしばしば起きて番した。更になると、僧は起きて嘆息し、に言った。「お若いのにこのようにできるとは。薬をお贈りいたします。十丸で、元旦ごとに一丸を呑めば十年寿命を延ばせます。よくご自愛なさい。」お大事にといって去り、門を出ると突然見えなくなった。武は今、常州団練副使となっていて、知るものがかれの年齢を計えればすでに百だが、つねにみずから七十と称し、身軽なことは昔通りである。

 

 茅山[29]の道士

茅山の道士陳某は、壬子の年、海陵に遊び、宿に泊まったが、雨と雪はまさに激しかった。同宿のものがおり、身に単葛[30]を着ており、ともに寝ようとしたが、垢じみて破れているのが嫌だったので、言った。「雪はこのように寒うございますのに、どうして夜を過ごされます。」「とにかくお休みなください。ご心配には及びません。」みなが就寝すると、陳は盗み見たが、懐中から三角の砕いた瓦数片を出し、鉄線で貫き、燈の上で焼いた。まもなく火がさかんになり、一室はすっかり暖かくなったので、陳は衣を脱いで寝られた。夜明け前に去り、ふたたび現れなかった。

 

 宿屋の客

大梁の宿屋に、客がいたが、どこから来たか分からなかった。いつもサイカチ百茎を市で売っていたが、その莢は大きく、通常と異なっており、日々百銭を得ると、かならず酒を飲んで去るのであった。物好きがおり、かれが異常な人であることを悟り、かれと同じ宿に泊まり、夜になると壁に穴を開けて窺った。見ると牀の前の数尺の地がたいへんよく鋤かれており、サイカチの実数個を取りだし、種えると、まもなくすぐに生えた。しばしば窺うと、さらに生長し、朝になればすでに実を垂らしていたが、すぐにみずから採集し、その樹を伐りさり、割って焼き、朝になると持ち去った。それから外に出、行方が知れなくなった。

 

 教坊の楽人の子

教坊の楽人某に、子がおり、年は十余、つねに病み、色く痩せてたいへんひどかった。突然、道士に路で遇うと、道士は言った。「あなたは食癥[31]を病んでいるだけだ。わたしは治療できる。」袖の中から薬を数丸出し、飲ませたその後、さらに袖の中を見て言った。「おや、間違えた。これは辟穀の薬だ。これからは食事しないべきだが、病も癒えたから、あなたはきっと食事しよう。つねにいささかの木耳を採って食らえば、後日また食癥の薬をお贈りしよう。」そして去った。子は帰って三日で病は癒えた。しかしその父母はつねに食事しないことを心配し、迫って木耳を食らわせると、元通り飲食した。その後、みずから悔いて言った。「わたしは仙薬を服しながらみずから気づかなかった。道士はわたしに後で薬を送ってくることを約束したが、ふたたび会えるだろうか。」そして父母に告げ、あまねく名山を経て道士を探すことを願ったところ、母は許さなかったが、その父は許して言った。「倅の病が癒えなければ、今頃はもう死んでいたろう。志がこのように堅いなら、福分があるかもしれない。」そして送り出したが、今は所在が知れない。

 

 蒋舜卿

光州の検田官[32]蒋舜卿が、山中を歩いていると、一人の男が林檎を採っており、二つをくれたので、食らったところ、飢えなくなった。家人は幽鬼の食べものを得たのだ、治療しなければ病気になろうと思い、ひどく焦って医者を探したが、治らなかった。後に寿春に、医術にすぐれている人がいると聞いたので、訪ねにゆかせた。旅の最初の日、ある村の宿泊まると、老人が心配していることを尋ねたので、くわしく告げると、老人は言った。「わたしが救える。長旅に苦しむことはない。」方寸匕[33]の薬を出し、服させた。二つの林檎を吐いたが、新しいもののようであったので、父は収めて去った。舜卿の食らうさまは常のようであった。帰ってから、後日尋ねると、店は老人とともに見えなくなっていた。

 

 盧延貴

盧延貴は、宣州[34]安仁[35]の場官[36]となり、赴任しようとしたが、途中で風に阻まれ、舟を江の辺に泊めた。数日で、岸に上がり、散歩して知らぬまに遠くへゆき、はるかに大樹の下を窺えば、家があるかのようであった。やや近づくと、部屋の中に(もののけ)がおり、人のようでもあり、獣のようでもあり、人を見るとすぐに起きて追ってきた。延貴が恐れ、退いて逃げると、その物は「恐れるな。わたしは人だ。」と連呼した。すぐに近づいてゆくと、容貌は奇怪で、裸だが全身に毛があり、長さは数寸で、みずから言った。「わたしは商人で、近年、舟が漂流し、こちらに来て風に遭い、家を挙げて沈んだが、わたしだけ岸に着くことができ、数日草の根を食らい、(たにがわ)の水を飲み、死なずにすんだ。一年あまりして体に毛が生え、それから飲まず食わずなのだ。みずから孤独を悲しみ、もはや俗念もないので、こちらで千余年庵を結んでいるのだ。」そこで、ひとりでこちらに住んでいては、虎や豹の害があるのではないかと尋ねると、答えた。「わたしは空に騰がり、上下することができるから、虎や豹はどうしようもないのだ。」延貴はしばらく留めると、さらに「求めることがあるか。」と尋ねた。「やはりある。溪で浴する時、つねに体がすぐに乾かないことに苦しんでいる。数尺の布を得て巾とできればよい。さらに一振りの小刀を得て薬物を掘れれば、ますますよい。あなたはもたらせるか。」延貴はかれを招いて船を訪ねさせようとしたが、かたく望まなかったので、巾と刀を贈って去った。辞任してさらに探したところ、路に迷ったが、後にさらに遇ったものがいた[37]

 

 杜魯賓

建康の人杜魯賓は、薬を売ることを業としていた。かつて客がおり、みずから豫章の人と称し、しばしば薬を買いにきた。代金を払ったことはなかったが、魯賓はよく待遇した。ある日、ふたたび来、薬をたいへん多く買い、言った。「わたしはあなたに薬代の借りが多いが、今さらにあなたにこれを求めた。わたしは西天に帰り、板や木を買おうとしているが、ふたたび求めるときには、いずれもあなたに報いるに足りよう[38]。」杜は承諾した。去ると、しばらくして帰り、杜に山の木の棒十本を贈り、委ねて去り、行方が知れなくなった。杜はこれを得ても意に介せず、親戚友人に贈った。残った三本は、たまたま職人に命じて割らせたところ、中から小さな鉄の杵二本を得た。五六寸ばかりで、臼には八つの足があり、獣の頭の形をしており[39]、作りは精巧で、人工のものらしくなかったが、杜も凡人で、用途が分からず、結局、人に取ってゆかれ、今では所在を失っている。杜はさらに家を直したことがあったが、土を売るものがおり、みずから金壇県の人と言い、往来がたいへん多く、杜もあつく資金援助した。家を直しおわると、土を売ったものは去ろうとし、方寸の土を遺して言った。「これでお別れです。」そして去り、ふたたび来なかった。その土は堅く細かく、通常と異なっていたが、杜は薬屋の中に置き、貴いと思わなかった。数年して、杜の家は火に焼かれ、建物は壊れ、土は裂けたが、見ると小さな赤い蛇がその隙間におり、割ると、蛇は一匹の白い石の亀に纏っていた。亀は大きさは二三寸ばかり、蛇は去っても亀は残り、今でも杜氏に珍蔵されている。

 

 建州の狂僧

建州に僧がおり、その名は分からなかったが、つねに狂人のようにしており、その言動には、かすかに験があることが多かった。邵武県庁の前には、(たにがわ)に臨んで大岩があり、水まで百あった。ある日突然、墨でその石の半ばに印をつけ、石の上に坐し、竿を持ち、魚を釣る動作をした。翌日、山水がはげしく起こったが、ちょうどその墨画に達すると退いた。癸卯の年、すべて路に臨む樹の枝の、南向きのものを伐りさったが、人が尋ねると、言った。「の邪魔にならないようにするのだ。」さらに言った。「一方に属さねばならない。[40]呉軍が入ると、みなその下を通った。さらに城外に僧寺があったが、その壁に大署し、「××等○○名の所」[41]と書いた。軍が城下に来ると、分かれて僧寺を占拠し、寨にしたが、置かれた人数も違いがなかった。その僧は結局兵士に殺された。王氏[42]の末年、閩建[43]は多難であり、民は生活できなかったので、あるひとが狂僧に尋ねた。「いつになったら安らかになる。」「わたしが去ればすぐに安らかになる。」その年になると、閩嶺は平らいだが、すべてかれの言葉通りであった。

最終更新日:201275

稽神録

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[1]唐の天成三年、乾貞二年。

[2]未詳

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic80Zdic8145708.htm&sa=U&ei=ddDwT4PeCMmaiAeBzfGPDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFvwrMDRBDNKpxSF0VUBBhn-UzH5Q受験生をり、試験参加させること

[4]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%92%8C_(%E5%94%90%E6%9C%9D)

[5]原文「入關相別」。未詳。とりあえずこう訳す。

[6]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic84293630.htm&sa=U&ei=WYPzT-_OFq7RmAW3xPCLBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHaPrt9vrZe9p2Ybg1VYtIoVKbFSw方士の焼煉し、点化する法さす

[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE9ZdicBBZdic9E350208.htm&sa=U&ei=cIPzT-nPL8aDmQWho6WBBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHQdNsaE41XohrEkRdxKMlXUqUX1w道教で錬金術をさす。

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic87ZdicB3230896.htm&sa=U&ei=oDHxT_ejEKfkmAXFipHmDQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHp9YOuorBnlisv5sbjwxMitp_Zvw仏、道できわめて精深微妙の道理あるいは道いう

[9]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdic9911469.htm&sa=U&ei=8JXxT4mNEJSfiQfP7KWsDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGiZmA5m4ACWUDKmvDrD8kE93l8KA仙人となる道。修仙得道した者。

[10]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3382832.htm&sa=U&ei=XfPwT4SeFInamAXOqdCJAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEG0NsaCZxfczw6j4-Q6W4GA-yhJA

[11]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/152085.htm&sa=U&ei=kITzT5icO6SimQXhibmJBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHs-IBC_k5cJS2jqJe4cULAyMB41Q

[12]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/211979.htm&sa=U&ei=KjLxT-e-B4PcmAWR1bDODQ&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNHt2xGgjNuPWAmbFr9qpcqY7QzxNQ

[13]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/192068.htm&sa=U&ei=wITzT-TCL6PKmQXc-I2CBQ&ved=0CCQQFjAC&usg=AFQjCNE2RaBtt9cf-tQ117RpKiw2U7eTdA

[14]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/866703.htm&sa=U&ei=5YTzT8iUJcXtmAXP6OyoBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHjVpc0PuK2tcPB3tfMfanwRmIL4A宋代の郡名

[15]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5925819.htm&sa=U&ei=04TzT9rsJLGJmQXZhNWJBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHDTqOTBW98KY0TZlbNVbUIdtLpcg

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicABZdicA5192793.htm試験中で児童、少年のために設立された科目。

[17]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%25A9%25E5%25A4%258D_(%25E5%2594%2590%25E6%259C%259D)&sa=U&ei=JPnwT-X1BaeOmQXP_fDbDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNElr2AYKSEz2VI92U3fv90NRl65Eg

[18]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic80Zdic89247926.htm士を官を銓選すること。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E49237.htm&sa=U&ei=cpnxT4CvHqm5iQeMv-ScDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEzuWHl6oMlA8PmwNCtF9owoSco9Q郎官。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E51024.htm侍郎、郎中等の

[20]原文「夫將行而失其鞋、則是事皆不諧矣。」。「」は「(=かなう)」と同音。

[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9Zdic97ZdicA8337504.htm&sa=U&ei=JDr0T7_uCrHvmAXy5bWoBQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHX-fcdZWdXkiV1lU8Mj6SRtKHRWQ侍郎を称した。君主の近侍官。唐の天宝年間に下侍郎と改称した。下省官侍中の副職。
代は多くはこの官を平章事とともに宰相の称とした

[22]岐州隴州

[23]の軍勢。

[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicB8ZdicB4230649.htm&sa=U&ei=i53xT7zEKZGZiAf9pOmNDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGZwZy6DrZNxC8tQNyDxftz1Qlp3w皇帝が正殿に坐さずに前殿にゆくこと。

[25]

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicADZdic96215973.htm&sa=U&ei=TDLyT5LnKePZigf_-aWHDQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGQfo1TijWDGl6c4jsIB5L2j4Ttyw封官授爵すること。

[27]原文「易後求其間問市人」。「求其間」が未詳。とりあえずこう訳す。

[28]廬州のことと思われるが未詳。

[29]http://baike.baidu.com/view/80065.htm#sub5064971

[30]未詳だが、単の葛衣であろう。

[31]病名と思われるが未詳。「」は「症」に同じ。

[32]未詳だが、検地する役人であろう。

[33]http://www.wiki8.com/fangcunbi_16219/

[34]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804680.htm&sa=U&ei=7DD0T-eoK6iOmQXql-2eBQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNHvaZrC_sFQUikAagekExNJvqQ7Dg

[35]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/470482.htm&sa=U&ei=1TD0T6byGqPnmAXR-9mjBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH6U9Sktc-VYUJyz_tdWlJtaM-NVg

[36]未詳だが、製塩場等に設けられた官であろう。正史(『宋史』)の用例:卷四十「夏四月丁未朔、金人犯光州中渡鎮、執榷場官盛允升殺之、遂分兵犯樊城。」、巻六十七「五年、富順監些井場官楊守忠、曲水縣民向平、蓬溪縣民蹇知密牛生二犢。」、卷一百六十一・職官志一・榷貨務都茶場「監場官二員、京選通差。」、卷一百八十五・食貨志・礬「若即河北礬地置場官買、撕J出之、罷運晉礬、則官獲淨利、無運載之勞、民資地、省犯法之弊。」卷一百八十六・食貨志・互市舶法「十二年、盱眙軍置榷場官監、與北商博易、淮西、京西、陝西榷場亦如之。」

[37]原文「後復有遇之者。」『太平広記』は「後無有遇之者。」に作る。

[38]原文「吾將還西天市版木、比及再求、足以並酬君矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[39]原文「間作獸頭」。未詳。とりあえずこう訳す。

[40]原文「要歸一邊」。未詳。とりあえずこう訳す。

[41]原文「某等若幹人處」。未詳。とりあえずこう訳す。「××」は人名を秘している。

[42]五代閩の建国者王審知その子孫

[43]閩の建州ということであろう。

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